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東洋医学で人を診るコミュの『東洋医学で人を診るってどういうこと?』

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身体の診方は沢山の種類があります。
血液検査やレントゲンをつかってみる西洋医学のやり方に対して、ここで学ぼう
としているのは、古典で語るところの東洋医学を実際の体表観察をもちいて、目
の前の方の物語を読み込もうとしています。

その東洋医学で人を診る、これってどういうことなんでしょうか?
まずはじめの一歩のトピックスです。

コメント(12)

『先生、質問があります』

私たちはこれから、『東洋医学で人を診る』ことを学ぼうとしていますが、
そもそも、この『東洋医学』というのは、どこからきて、どういった体系で
語られているものなのでしょうか?
もともとは『東洋医学』というものがあるわけではありません。ただ身体を診て治療する技術があっただけです。近代に入って西洋から医学が導入されて、これまでの自分たちの医学とは人間観も方法論も大きく異なるため、それを西洋医学と名づけ、これを東洋医学と名づけました。

東洋医学は、主に支那大陸で言語化されました。はじめは朝鮮半島を経て、次に遣隋使などで大々的にこの医学が伝えられました。紀元5世紀のころです。この医学は、徐々に日本に浸透していきます。禅僧を中心として鎌倉時代から江戸時代の初期まで、日本人は支那大陸の文明を学んでいます。あるいは日本に輸入された書籍から、あるいは実際に大陸に留学して。


東洋医学の古典としては、「素問」「霊枢」が基本です。「黄帝内経素問」「黄帝内経霊枢」とも、あるいは両方合わせて単に「黄帝内経」とも呼ばれています。また「霊枢」は「鍼経」と呼ばれたり「九巻」と呼ばれたりもしていますが、同じものです。もともとは何百年かにわたって伝えられた伝統医学が、後漢時代の末期にまとめられたものです。この「黄帝内経」は、黄帝に仮託された問答形式として書かれていますので、後漢時代に流行した「黄老道」という道教の元祖の思想流派がこのまとめにおいて中心的にかかわっていたとみるべきでしょう。


支那大陸の医学の特徴は、人間を一つの括りとして、一括りの天地に対する小天地として把え、天地を俯瞰して陰陽や五行を編み出すのと同じ方法で、人間を分析し統合して把えようとしているところにあります。

これは、天地を観察するように人間をもともと観察していたものですが、その体表観察の結果を当時最先端の思想である陰陽五行論にあてはめながら、さらに深く理解していこうとしたものです。ですから、伝統医学を学ぶためにはその基礎概念として陰陽五行の構造を学ぶ必要があります。このあたりのことが「一元流鍼灸術の門」に中心的に書かれています。

東洋医学で人を診るということは、
目の前にいる『人』を、ありのままにみる。

ありのままにみるときに、陰陽五行など、歴史的な考え方を使ってみる。

ということなのでしょうか。

目の前に『みかん』がひとつあります。

みかんは、皮をむくと中味がでてきます。皮と実にわけられると。

これを陰陽でみると、
 皮を表面だから『陽』と診る。
 実を中味だから『陰』とみる。
 
皮である『陽』と実である『陰』にわけると、みかんを『陰陽』で診ることに
なるのですね。

そして大切なのは、『陰』と『陽』にわけているけど、みかんは一個まるごとで
みかんで、『陰』と『陽』である、皮と実があるからみかんではないこと。

目の前の『みかん』をよく見るために、陰陽という概念を使い、
皮と実をわけてみたと。

では、実のなかには、フサがあります。

そのひとつのフサを取り出すと、フサには皮があり、実がある。
ここでも、フサの皮を『陽』と、フサの実を『陰』とする診方がある。

中味の実にも、小さな袋の皮と中味の実がある。
中味の実も細胞で考えたら、細胞膜という『陽』と細胞質という『陰』がある。

陰陽でみるのは、どこを『ひとつ』として診ているのか。
ここが一番大事なのかなと思いました。

これから学ぶ、東洋医学で人を診るときにつかう、陰陽五行はこのように
『何を診るためにわけているのか』をよく意識しながらみていかないと、
とてもごーーーちゃごちゃの概念になり、なにがなんだかわかんない(^^ゞに
なりそうですね。

『東洋医学で人を診る』ということは、
『陰陽五行などの歴史的な物指しを使って、目の前の人を診る』
ということでよろしいのでしょうか?

皆さん、ここまでのお話でご質問などありませんか?

これでよろしければ、このあとは、人の一生を東洋医学で考えていきたいと思います。
>『東洋医学で人を診る』ということは、
>『陰陽五行などの歴史的な物指しを使って、目の前の人を診る』
>
>ということでよろしいのでしょうか?

このように言われると、それは少し違うと言わなければなりません。少
しだけなんですけれども。

まず、目の前にある対象(人間)をよく理解しようとしている、という
点では、現代の治療家と何も変わるところがありません。

現代においては、血液や尿の臨床検査やレントゲンなどの観察方法が提
示されていますが、当時はそのような機械はありませんでした。

似たような解剖学的な知識はありましたけれども繊細さと精密さとにお
いて、現代医学に及びもつかない位置にありました。


そのような状況の中で何を人間理解の道具としていたのか。


【ここが問題であり大切なところとなります。】


このあたり、自分自身が対象をどのようにして理解しようとしているの
か、振り返ってみるとわかりやすい思います。

たとえば病気の患者さんがやってきて、目立つところである症状に着目
するということは、人間理解の第一歩ではありますけれどもそれで人間
を理解しているのかというと、そうではありません。

症状を出さしめている土台があるわけです。そこを理解しようとする時、
どのような方法を用いるのかということです。


【ここが問題であり大切なところとなります】


古人はここにおいて、当時の最先端の思想であり宇宙論である陰陽五行
をものさしとして人間にあてはめていきました。

その際に基本となる発想は、大自然と人間とは対応関係にあるというこ
とです。(これを「人身一小天地の論」と呼んでいます)

そして、陰陽五行の理論を対象に応用する際の基本として、場の設定
(どの範囲を見るのかという対象の設定)を求めることとなるわけです。

この一つの括りをつけることなくして、陰陽も五行も成立し得ません。
このことをはつきさんは「陰陽でみるのは、どこを『ひとつ』として診
ているのか。
ここが一番大事なのかなと思いました。 」と述べられているわけです。



=================================================

さて、はつきさんは、みかんで陰陽を語っています。陰陽というのはも
のさしですので、これが陰これが陽という風に記憶することは間違いで
す。つまり、陰陽という名前は、ものさしの性質が変わると逆転すると
いうことです。

東洋医学では、表面を陽と呼び中心を陰と呼びます。表裏の対応関係を
陰陽という言葉で相対させ、表現しているわけです。

これに対して、求心力と遠心力をもって陰陽を分ける考え方があります。
求心力が強いものは陽であり、遠心力が強いものは陰であると。そうす
ると、表面にあるものは遠心力の表われですから陰となり、中心にある
ものは求心力の表われですから陽となります。

このように陰陽という言葉は、その場処に固有に与えられているもので
はなく、何を見 何を表現しようとしているのかということによって逆
の名前で呼ばれることが多々ありますので注意が必要です。

いま少しこれを広げて語ると、これは陰だから何々、陽だから何々と解
説する人々にはよくよく注意を払う必要があるということです。そのよ
うな人々は、陰陽の使い方そのものを理解してはいません。

先生、お返事ありがとうございます。
『目の前にいる人をありのままにみる』といったときに
まず大前提として『人間と大自然が対応関係にある』という発想があり、
陰陽五行というものさしで、人間観察をするのだということ。

そして、それは『目の前にいる人の症状をみる』ことになりがちであるけれど、
『東洋医学で人を診る』というときには、『症状』だけを診るのではなく、
『症状を出しているその人を丸ごとありのままに診る』という
ことでよろしいのでしょうか?。

膝が痛い山田さんという患者さんが目の前にいらっしゃるとします。
『膝の痛み』を東洋医学で診るという発想ではなく、
『山田さんという膝の痛みを抱えている人を診る』という発想ですね。

膝の痛みから診るのではなく、膝の痛みを抱える山田さんを診るので、
同じ膝の痛みといっても、人によって違う。

つまり病名は同じでも治療は個人によって違うという
   『同病異治』
という東洋医学の診断での大きな特徴につながってくるのですね(^_^)

なんだか、楽しいですね。
>そして、それは『目の前にいる人の症状をみる』ことになりがちであるけ
>れど、『東洋医学で人を診る』というときには、『症状』だけを診るので
>はなく、『症状を出しているその人を丸ごとありのままに診る』という
>ことでよろしいのでしょうか?。


この症状を診てそれに解決をるけるということと
人間を診てそれに寄り添うようにするということには、
とても大きな違いがあります。

上で、「一つの括(くく)りをつけることなくして、陰陽も五行も成立し得
ません。」と述べていますが、症状というものは一つの括りとはならないわ
けです。症状だけで生きている人をみたことはないでしょう! 症状という
ものは生命力の現われの一つなんです。

そのため、どのような症状を呈していたとしてもまず、生命基盤全体を「一
つの括り」として観察する方法が東洋医学では提示されているわけです。そ
れがその「一つの括り」を定めた上で、陰陽という二つの側面から「一つの
括り」を観る観方と、五行という五つの側面から「一つの括り」を観る観方
です。

これをまとめて陰陽五行と呼びます。言葉にすると硬い感じがしますけれど
も、実際にこれを使ってみると、非常に柔軟で使いやすい知恵に満ちていま
す。

生き続けている生命、動き続けている「それ」をそのまま把(とら)えるに
は、複雑な分類は生命を損ねて箱に入れてしまうものとなります。陰陽五行
ぐらいでばくっと把えていくくらいがちょうどよいわけです。

この陰陽五行を医学において適用する舞台は、人間の生命です。この生命を
どのように把えるのか、ということにはまた、さまざまな発想があるところ
です。

一元流では、東洋医学の伝統に従い、人間を生老病死という側面から把えま
す。そしてこれをすこし使いやすく一般化してテキストでは提示しています。
これがはつきさんが上で「人の一生を東洋医学で考えていきたい」と述べら
れているものとなります。
陰陽のお話 

みかんで陰陽を語りましたが、ある方から、自分が使っているテキストには、
『陽』は天、『陰』は地と分けて書いてあるので、わかれているのかと思っていたと話されていました。

もう少し、陰陽トレーニングをしてみたいと思います。


鍼灸の名著、杉山流三部書にも、『天は陽であり、地は『陰』である、・・中略・・左は陽であり
右は陰である』とあります。

こういった表記をみるときには、何を分けてみようとしてるのかという『場の設定』の
観点がとても大事ということなのですね。

みかんのお話で、私は、皮と実を陰陽にわけました。
では、右と左もみかんでも語れます。

みかんで考えて見ましょう。太陽は東から昇るので先に
陽があたるみかんの左側は陽、右側を陰としても考えることができます。
右左の陰陽ですね。みかんの診方で陰陽を語っている部分が違います。

天は陽であり、地は陰であるということを語っているときには、天地を
ひとくくりの場として考えているときの言葉ですね。このコミュのマークの図も
天地を陰陽で表現してあります。

明るいところは陽であり、暗いところは陰であると語っているときには、
光がある場所を設定しているということですね。大きくは昼と夜。
太陽の光が当たるところが陽、影が陰。そんな感じでしょうか。

男は陽であり、女は陰である。これは人間という動物をひとくくりにして
男と女にわけてみたのですね。

気は陽であり、血は陰であるといったときには、うっこの場の設定はなんていえば
いいのでしょうか?。これは場の設定の仕方でいくらでも使える言葉ですね。
たとえば、人間という場を設定しても語れます。肝という臓腑でも、肝気と肝血という
風に分けて語れます。これは場の機能と実質という分け方なのかなと思うのですが、
先生、いかがでしょうか?。
このあたりで私の限界がやってきました(^^ゞよろしくお願いします。
「それが陰陽関係にあるのかどうか」これが場を設定する上でとても大切なこととなります。

関係ないものを陰陽で無理やり対比させても意味がありません。けれどもこのような言葉が巷にはあふれていて、この概念を混乱させる元になっています。さらには、陰とは何々、陽とは何々などと、陰陽という言葉が対比を示すものさしであるということすら理解できていない「似非陰陽家」が非常に多いことには、愕然とします。

ここに集う方には、何が偽者であるのかきちんと見破ることができるようになってほしいものです。

「一元流鍼灸術の門」の中にも書いていますが、代表的な陰陽の観方にも、その時代の水準が反映されているものがあります。この代表的なものは、太陽と月の陰陽です。日と月、それぞれに こざと偏 をつけて、「よう」と「いん」と読ませることもするほど、これは陰陽の代表的な使用法です。日本人の生活感としては太陽と月とが陰陽関係にあるということは常識の範疇に入るものでしょう。ここではその感覚の内面を調べてみることにします。

日月が陰陽関係であるということが常識的なのは、一日に昼と夜とがあり、昼を主るものが太陽であって夜を主るものが月であるという生活感覚が基礎となっています。そして昼は明るくて夜は暗いという状態も、陰陽に対する印象を固定化したものにしています。あぁこれが陰陽ということなのだなと肌身で感じ取ることができる方が多いでしょう。

では、この日月というものがこれまで述べた陰陽関係でみるとどのように把えられるのか。ここを今一度考えてみましょう。

日月が陰陽関係であるためには、その場の設定が必要となります。その場とは一日の自然の運行を大きく一括りとしたものとなります。天地の陰陽ではなく、天空を含めた自然の変化すなわち時間の経過を見通した上で初めて、時間を一括りの場として観ているわけです。

これまで述べてきた空間的な括り方とは異なり、時間的な括り方がここでは出てきているわけですね。

さて、現代人は、昼にも月が昇って沈むことを知っていますし、夜にも太陽が地球の裏側で輝いていることを知っています。科学的な知識です。さらには、太陽系の中の一つの惑星が地球であるということも知識として理解しています。この理解の上に立つと、月と太陽が陰陽関係にあるということなどは、チャンチャラおかしい古代の妄想の類になってしまいます。いわば、その時代の常識によって陰陽の把え方も異なってくるものだということですね。

そのため、このように陰陽の概念が再度、現代において整理される必要があったわけです。
突然乱入で失礼します。
五行の色代表というのはちょいと前までなら眉唾だと信じていましたが、もう少し柔軟に考えるとあり得ると思い始めました。
陰陽や虚実はカラダの変化を表現するという意味では、なくてはならない表現だと思います。
卒後1〜2年は右左というのも概念だと思っていましたが、棒灸を使うようになって左右の意味(左廻しがいい人と右廻しがいい人がいることがある)があったのかと驚いたことを思い出します。
体表観察というのは、オーラといわれている色を観て整理したいた人もいると思います。
たしかに白っぽい人や黒っぽい人はいることに気がつきました。


ドラヤキ笑門さん こんばんは
突然乱入歓迎します(^_^)

身体の観察というのは、本当に面白いものだと思います。
古来、いろいろな観察がなされ、その真摯な思いが書籍になり語り継がれているものなのでしょうねえ。

色は五主(色臭味声液)でいうと、一義的に肝に属しますね。そのなかに
五色として、青、赤、黄、白、黒となります。色がでることじたい、肝の表れ。そのなかの
変動としてのそれぞれの色といったところでしょうか。
オーラはよくいわれますが、私には分けて語れるほど見えません。(オーラは
視覚よりももっと原始的な感覚のような感じで私は受け止めています)

見る、感じるという感覚には非常に個人差があります。能力差というかねえ。
また経験により感度もかわりますし。

東洋医学で人を診るときには、診る人が確実に見えるものを使うことが大事だと思います。
そして自分が見える範囲をしっかりと掴み情報のひとつとすることが大事だと思います。

個々の情報は、断片的で全体をみれているのか、どうかがわかりません。
先ほどのオーラの話も、一義的な肝の話の範疇なのか、それとももう一歩踏み込んだ
変動とみるべきかは、他の情報との突合せで論をたて人を診ていくことが大事だと思います。

当たり前なんですが、四診なんだと思います(^_^)。
そして四診合参して『目の前の人を診る』このときに、自分の得意な情報を取れる部分が
沢山あればあるほど、出来上がった目の前の人に対する診方は正確になって
いきますね。

楽しんで、がんばっていきたいです。
どこにのっけようかと思ったのですが、ここに載せておきます。
心を穏やかにするための暝想法ファイルです。
伴先生が、私の治療院の患者さんのために書いてくださいました。

私はこのファイルが大好きで、時々読み返しています。
ご参考まで。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
待つ時間を過ごすための暝想法

私のお師匠様の作った、気持ちを楽にするための思考法のファイルです。具体的には、体外受精で授精卵を戻したあとの方が、結果を待つまでの時間を穏やかに過ごせるようにと願ってつくられたものです。


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考えるということはとても精力を使うことです。根気が必要なんですね。この精力とか根気というのはどこから来ているのかというと、腎に貯められている根本的な力から来ているわけです。

腎気がしっかりしていると、しなやかで正確な思考ができますけれども、腎気が弱ってくると、根が腐った樹のように不安定なひねくれた考え方になったり、そのような根をがっちり固めようとするために頑固になったりします。

このような時は、考えるということを休むという方法を取り、腎気を休めることが建設的です。けれども、人間の不思議と申しましょうか、このような時は、まるでチベットの山奥で強い寒風に吹かれてからからと激しく回る風車のように、根のない思考が頭の中をめぐってしまいます。考えないようにしようと考えると、どうすれば考えないことができるのだろうと考え、考えを止めるにはどうするかなどと、禅の本を読み始め考え込んでしまうわけですね。

まさに思考というのは、人間の特徴であり、その人生の健全なあり方に対して、両刃の剣となるものです。


そこで、考えを止める方法の一つを提案しておきます。

それは暝想をするということです。暝想というと何かおどろおどろしいものですが、ここでお薦めするのはとても単純なことです。それは、「身体の声を聴く」ということです。自分自身の身体と対話してみるわけです。


まず、その声を聴きたい部位を選びます。痒いところ痛いところなどは、すでに身体がその声を発しているわけですから、そこにある思いに耳を傾けていきます。思い当たらなければ、身体の中心である臍下の奥の丹田(女性であれば子宮)を選ぶとよいでしょう。

その身体を得、その身体を使った時のことなど、ゆっくりと思い起こして、小さな声も聞き逃さないように、深く深く心を澄まし、ゆったりと耳を澄ましていきます。そこにある、悲しみや、喜び。重さや、広がり。を感じ取ります。

人は、一つの、宇宙です。その、宇宙の、中の、宇宙の、一部の、一点の、声を、聴いていきます。

全身の力みを抜いて、その部位に耳を傾けます。横になってもかまいません。ゆったりと、ゆっくりと、こころをほぐしながら、よりよく聴けるよう、耳を澄まし続けます。

その、小さな、声を聴き逃さないよう。心を込めて、さまざまな角度から、その声に耳を傾け、聴き続けます。

怒りがあれば、悲しみが裏に必ずあります。その悲しみは何なのでしょう。理解されなかった悲しみ。乱暴に扱われた悲しみ。喜びの表現を無理に押しとどめられた悲しみ。

この怒りが、堅い塊となって、人の筋肉によろいのように巣食い、自分自身のやわらかな心をまもろうとしています。けれどもそれが、実は、心を閉ざす基になったり、人とのさらなるいさかいの原因になったりします。

そこにあなたの愛を注いでみましょう。あなたの小さなものをいつくしむ心を、自分自身の悲しみに注ぎ込みます。感情があふれてきたら、それを押し止めずただ流します。ゆったりと大いなる宇宙にまかせきって、すべての思いを流していきます。

ありがとうございました。

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