ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

水流と水神コミュの住吉大神(底筒男命 中筒男命 上筒男命+息長帯姫命)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
以下三神の総称を住吉三神(スミヨシサンジン)、あるいは住吉大神と呼ぶが、

・底筒男命(ソコツツオノミコト)
・中筒男命(ナカツツオノミコト)
・上筒男命(ウワツツオノミコト)

この三神に息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト)を加えて
住吉大神とする場合も多い。

住吉(スミノエ)は「澄んだ入り江」の意で、
古代の天皇即位の祭儀である八十嶋祭の清めの海を指す。
神名の「筒(ツツ)」は星のことであり、
住吉三神は現在のオリオン座の三つの星の神格化したものという説もある。
オリオン座は古来から航海の目印として利用された。
対馬の豆酘(つつ)、壱岐の筒城(つつ)、糸島の筒木(つつき)は
オリオン座の星の配置となっている。

別称=
 住吉大神(スミヨシオオカミ)
 住吉大明神(スミヨシダイミョウジン)
 住吉神(スミヨシノカミ)

●住吉大神、住吉三神を祀った代表的な神社
住吉神社(福岡県福岡市博多区住吉3-1-51)
http://www.genbu.net/data/tikuzen/sumiyosi_title.htm
住吉神社(長崎県壱岐市芦辺町住吉東触470)
http://www.genbu.net/data/iki/sumiyosi_title.htm
本住吉神社(兵庫県神戸市東灘区住吉宮町7丁目1-2)
http://www.kcc.zaq.ne.jp/motosumiyosi/home/


《目次》
●住吉大神(愛知県名古屋市 住吉神社)=書き込み25/26
●住吉大神(東京都中央区 住吉神社)=書き込み2/3
●住吉大神(奈良県御所市 境内社住吉神社)=書き込み4/5
●住吉大神(兵庫県神戸市 本住吉神社)=書き込み15〜18
●住吉大神(兵庫県神戸市 本住吉神社奥宮)=書き込み20/21
●住吉三神(三重県桑名市住吉町 住吉神社)=書き込み30/31
●住吉三神(愛知県豊明市 住吉社)=書き込み28/29
●住吉三前大神(兵庫県西宮市 末社松尾神社)=書き込み19

●境内社住吉社(愛知県名古屋市 喚續神社)=書き込み23/24


↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&ll=35.668029,139.783489&spn=0.001547,0.001607&z=19&om=1&msid=113844027188609943916.000442c250515b6896f33

コメント(31)

●住吉大神(住吉神社)
東京都中央区佃1-1-14

住吉神社は天正18年(1590)徳川家康に伴われて
佃村(現大阪市西淀川区佃町)の漁夫と
その氏神である住吉大神を奉斎した神官の33名が
関東へ移住してきた時に、
一時、漁夫たちとともに安藤対馬守、石川大隅守などの邸内に
一時安置されていたが、
寛永年間になって、鉄砲洲の向かいの三角州を幕府から賜って、
築島工事を行い、佃島と名付け、
正保3年(1646)に現在地が社地とされ、
鎮守として、社殿が造営された。
以来、鎮守としてだけではなく、水運関係者に厚く信仰されてきた。

佃島の東側に追加して設けられた石川島との間に残された
佃堀の石川島側に面した於咲波除稲荷神社から、
バイクで朱塗りの欄干を持った佃小橋を東に渡ると、
東に幅200mの隅田川、西と北を佃堀、南を佃大橋に囲われた
方形の敷地に家屋や南軒かの佃煮屋さんの
和風店舗の並んだ街並に出た。
最初の北側のタイル張りの荒れた路地に入って進むと、
住吉神社の石柵前に出た。西向きの石柱門前の道路には雪洞がある。
愛車を石柵前に停め、石柱門を通って境内に入ると、
敷石の参道右手に欅材の使用された切妻造の立派な水盤舎があり、
その頭貫上の4面の中備にはそれぞれ、
渡船、大帆船、網船、潮干狩の風景のレリーフがあり、
そこにかつての佃島の風物詩を見ることができる。
水盤舎の裏側には「伝東洲斉寫楽終焉ノ地」の石柱があり、
ここが写楽の終焉地であったことに驚く。
ほかにも、社前にあったという港に出入りしていた
廻船関連の大きな石製の鰹塚が見られる。

水盤舎前の参道から拝殿に向かうと石灯籠と石製明神鳥居があり、
拝殿の銅葺きの草色の背後の上空には樹木ではなく、
高層マンションがそびえているのが見える(写真左)。
拝殿は神明造で、拝殿前には狛犬ではなく石灯籠(写真中)。
拝殿脇から境内に面した佃堀が見られる。

門を出て、両側に住宅の並ぶ50mほどの参道を西に進むと、
隅田川の高くなった堤防に突き当たり、
その手前には銅板張りの靖国鳥居があった。
●住吉大神(住吉神社)水脈環境
東京都中央区佃1-1-14

住吉神社境内にある正面の石鳥居には珍しい陶製の変額が掛かっている。
(写真左)
変額には鮮やかなコバルトブルーの呉須で描かれた
雲水紋の枠が付いており、
住吉大神が雲水と関係のある神であることを暗示している。
明治15年(1882)に制作されたものという。

西向きの一ノ鳥居の目の前を流れる隅田川には
佃堀に引き込む水量を調節する住吉水門があり、
その前の佃堀に架かる橋の上から堀の東を望むと(写真中)、
写真ではわかりにくいが、先に行くに従って水路は狭くなっており、
突き当たりで矩形に折れると突然水路が広がり、
佃小橋に向かってふたたび狭まり、
佃小橋からふたたび広がって袋小路になっている。
つまり、この水路には同じ幅が維持された場所が一カ所も無いのだ。

佃堀は住吉神社拝殿の脇部分がもっとも狭く、7mくらい。
もっとも幅の広い部分は拝殿の裏面で、22mくらいある。
拝殿脇から堀を眺めると、
キンクロハジロ(鴨)がこちらに向かって泳いできた(写真右)。
こいつはすこぶるかわいい容姿をしているのだが、
これまで、ブームになったことがないのは不思議だ。
葛城一言主神社 境内社 住吉社
奈良県御所市大字森脇432

葛城一言主神社については、事代主命のトピックスに書いたので、ご参照ください。

さて葛城一言主神社の境内社として、水神系の神々が数柱祀られている。
その内の一つが、この住吉社である。
位置としては、東面する本殿の右に、稲荷神が祀られ、その右に、各境内社が並んでいる。

御祭神は住吉三神、上筒男命・中筒男命・底筒男命の他に、息長帯姫命を祀り、四神を住吉社としている。
祓戸社のトピにも書いたが、祓戸社は瀬織津姫命のみを祓戸社として祭っていたが、逆に住吉社は、息長帯姫命が加わっている。
息長帯姫命加えた四神を住吉社とする例は、多い。
住吉神社の総本社の、大阪・住吉大社もそうである。
また、八幡社にも息長帯姫命を祭神とする例は多い。
葛城一言主神社・境内社の八幡社の御祭神も、誉田別命と息長帯姫命である。

さて、息長帯姫命とは、神功皇后のことだ。
応神天皇の母であり、神功皇后の母は、葛城高顙媛とされる。
ここで、合点がいく。
ここは葛城氏の地だ。
三世紀に生きたとされる神功皇后の母が、葛城氏とは!
葛城高顙媛の父は天之日矛、新羅の王子である。
渡来人と、先住民葛城氏との、政略結婚があったのだろうか。
記紀はその時代を、想像の世界でしか伝えてはくれない。
逆に言えば、記紀の後を、現実の足で歩けば、真実は見えてくるのかもしれない。


倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし
息長帯姫命(神功皇后)は
倭人と新羅人とのクォーターということになりますね。
AYUさま

大王家(渡来系)と葛城氏(土着・縄文系)のハーフであり、かつ倭人と新羅人のクォーターですね。
ああ、やっこしい。
しかも、この後、加茂氏やら、役行者やら、天武やら、空海やら、最澄やら。
ますます、ややっこしくて、面白いですね。
●だんじり
和泉・河内・摂津國
※写真は、摂津國有馬郡八多村・八多神社のだんじり

だんじりは、この地域特有のものだ。
岸和田のだんじり祭が全国的に有名。
だが、だんじりは御輿でも山鉾でもない。
瀬戸内海文化圏の中でも、この三国にしかない。
だんじりには、漢字がない。
地車と書くのは、当て字である。
起源には諸説があるが、定説と呼べるものはまだ無いと思われるが、古墳を造る際に石を運搬する為に使った修羅が起源説が有力か?

『摂陽奇観』
河内国古都市郡応神天皇陵、誉田祭、卯月八日にでる。これは神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞を給うをまねびけるとぞ。この車楽の屋形には、多く綿繍をまとわず、児どももようの布かたびらを着て、せいのふという舞を奏、笛の音、殊勝なり、作り花かざりて古雅なる体、およそ上代の遺風なるべし。これだんじりの始まり。

『宇佐八幡縁起』
奈良・東大寺大仏建立の年(743年)、宇佐から八幡神を迎えるため、飾りをつけた神輿(御神体)を傀儡子船に乗せて海を渡った。この時、船でクグツの舞や吉凶を占う相撲が船上で演じられたという。かいらいし、とは木偶ともいうあやつり人形のことであり、淡路や徳島のくぐつ船にも由来する。今は船だんじりとしてその姿を残す。

『獲物曳行説』
日本がまだ石器時代のころ、大きな獲物を矢尻で倒しらたら、集落の老若男女が、綱を曳いて村まで運んだ。この後、柴や木、竹に獲物をくくりそれを多くの者が曳き、大きな声を出し、喜びを表現した。村に帰ると獲物を中心として、踊り唄った。だんじりは、収穫祭、五穀豊穣の獲物曳行が変化していったもの。

『戦車説』
トロイ戦争における木馬や、ヘレニズム文化の時代の戦車が原点となり、インド、中国大陸、朝鮮を経て日本に入った。それが戦国時代に入り荷車(コロ付)を人や馬により武具や武器の運搬にと移り、勝利のときは鳴り物入りで曳行した。

『修羅説』
修羅とは、古代の運搬具。昭和53年春、藤井寺仲津媛陵古墳の倍塚である三ツ塚古墳に大小二つの修羅が発見された。その古代修羅と岸和田の地車の構造機能、曳行方法が非常によく似ている。修羅は石をつみ多くの人で曳行する。修羅にある計15個のホゾ穴は綱を通して引っ張ったのであり梃子穴もある。車は丸太を輪切りとして使用されたが、それが後に「コロ」に変化し、やがて車となる。

この修羅説の根拠として、
・だんじりと修羅の綱をとおすホゾ穴の機能、数の類似。
・だんじりが土木工事に使われた石曳き車であることを示す築城絵図等の描写。
・修羅が仏教語に由来する命名であることと、だんじりの装飾が仏教の須弥壇を模したものと考えられること。
・太鼓台の香川県、愛媛県地方での呼称=チョウサの語源が、土木工事に関係していること。
・だんじりの車輪がコロに軸を通したものであることを示す大阪茨田大宮のだんじの存在。
・だんじりの彫り物は修羅場(戦場)を描いたものが多いこと。
・岸和田だんじり祭の起源が大和川改修を祝う祭であるとする説。
・だんじりのはじまりと伝えられる誉田八幡宮ほか、八幡信仰はインド神話に現れる修羅と帝釈天の物語 に起源があると考えられること。
・その他、八幡信仰の要素である放生会とだんじり祭の関連、八幡信仰の分布地域、八幡神社の分布とだんじり祭の分布が重なること等。
・祇園祭の山鉾の台座を石持ちと呼ぶこと。
と、だんじり研究家の前河三郎氏は述べている。

起源はともかくとして、祭祀としての「だんじり」は、海の民のものではないかと思う。
和泉・河内・摂津は、瀬戸内を海路としてきた民が、上陸する地だからだ。
だんじりが、この三国だけに有るのも、だんじりを伝えた(残した)海の民の祭祀だからだと思う。
住吉大社がここにあるのも、必然のような気がする。
水に関わる武道(日本泳法)をライフワークにしております。
古式にのっとり水場を清め安全を願う神事の際に川の上流・中流・下流になぞらえて三神の名を唱えます。
その際、ナカツツ「ノ」オノミコト、ソコツ「ツ」ノオノミコトなどと呼ばせていただくのですが、本来は「 」内の「ツ」は不要なのでしょうか?

漢字から考えると不要な気がしてまいりました。
>えんたろさん

「ツツ(筒)」から「ツ」を削ると、
“穴(星)”の意味ではなくなるかもしれないですね。

古代には夜空は壁で、そこに“星”と呼ばれる穴が開いていて、
“夜空の壁”の向こう側の光が漏れているものと考えていたらしい。
>AYUさま
ありがとうございます。

ごめんなさいたらーっ(汗)
私が書き間違えていました。
ウワツツ「ノ」オノミコト・ナカツツ「ノ」オノミコト・ソコツツ「ノ」オノミコトの「 」内の「ノ」の間違いでしたたらーっ(汗)

筒は「星」の意があるのですね!
もっと詳しく知りたくなりました。
>えんたろさん

文字表記されない「ノ」を入れて発声するかどうかは、
民族的なバックボーンが漢字民族かどうかで、変わってくるのではないですかね。

漢委奴國王=かんノわノなノこくおう

つまり、金印をくれた方は「ノ」を入れて読む習慣なんて無いわけです。

それで、なぜ
「かんノわノなノくにノおう」ではないのかと昔から疑問に思ってましたが(笑)
「カンワイヌコクオウ」と読むという説もあります。
つまり

委奴=ワイヌ=アイヌ

ということですね。
●本住吉神社
兵庫県神戸市東灘区住吉宮町7丁目1番2号

神功皇后、三韓征伐からの帰路のことです。
神功皇后は、難波の港を目指して、航海していました。
ところが、難波の手前で、船が進まなくなってしまいました。
そこで、務古水門(武庫の港)に戻って、神意を問いました。
天照大神荒御霊(あまてらすおおみかみのあらみたま)を、廣田に居け、
稚日女尊(わかひるめのみこと)を、生田に居け、
事代主尊(ことしろぬしのみこと)を、長田に居け、
そして、「表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)・三神(みはしらのかみ)、吾が和魂(にぎみたま)をば宜しく大津淳中倉長峽(おおつぬなくらのながを)に居くべし」と言われたのです。
廣田、生田、長田神社は下記の、所在地です。
  廣田神社:西宮市大社町
  生田神社:神戸市中央区下山手通
  長田神社:神戸市長田区長田町
ところが、「淳中倉長峽」の地名が失われて久しく、場所が特定出来ないのです。
だから、住吉神の鎮座地が江戸時代から、論争になっているわけです。
現在の住吉大社(大阪市住吉区住吉)が有力候補とされてきましたし、住吉大社もそう言っています。
が、大阪だとすると、矛盾・疑問が出てきます。
●難波に着けなくて困っている時に祀った神が、何故大阪に有るのか。
●廣田、生田、長田神社は兵庫なのに、何故住吉だけ大阪に離れて有るのか。
●大阪の住吉大社の根拠は、地名の字義の解釈と地形からの想像以上のものは見いだせないのではないか。
の三点です。
ところが、住吉神の鎮座地を神戸だとすると、
  本住吉神社:神戸市東灘区住吉宮町
四つの社は、兵庫に並びますね。
江戸時代にも、住吉神の鎮座地を、菟原郡住吉とした学者がいます。
本居宣長です。
宣長も、たまには良いことを言う。
というか、宣長の出発点は、大体において素晴らしいと思うのです。
ただ、その思想が、あまりに国粋主義なので、変な方向に行っちゃうんですね。
行き過ぎたイデオロギーは、人の視線を曇らせるという、典型でしょうか。
余談でした。
まとめると、
●廣田、住吉、生田、長田神社は、すべて兵庫に祀られた。
●住吉神社は各地にあるが、ここは「本」住吉神社と称している。
●勝尾寺文書(1247年)に、本住吉の記載がある。
●住吉神の神主家は、津守氏だが、住吉大社も本住吉神社も、津守氏が祀っている。(本住吉神社は現在は津守氏ではないが)
ということになります。
私は、本住吉神社説の方が、すっきりすると思います。
本住吉神社では、「遷祀の歴史的最終地」が大阪南であり、「大阪へ遷すもとの住吉」の意で本住吉であり、淳中倉長峽はここだとしています。
●本住吉神社
兵庫県神戸市東灘区住吉宮町7丁目1番2号

配祀
天児屋根命
大山津見命

末社
天満社=菅原道真
門社=豊磐窓神
背戸社=奇磐窓神
大国主社=大国主命
稲荷社=宇迦魂神
水神社=水波能女神
山王社=大山津見神
雨神社=天水分神
金比羅社=大物主神
松尾社=大山咋命
高良社=武内宿祢
方違(ほうちがい)社(猿田彦社)=猿田彦命
県(あがた)社=木花咲也姫命
少童(わたつみ)社=底少童命、中少童命、表少童命
大日女社(牛の神)=天照大神
大海社(楫取明神)=豊玉彦(大綿津見)、豊玉姫
塞神社=八衢彦、八衢姫、久那度神

ラインナップも面白いです。
水神系が多いですが、なるほど〜な構成です。
塞の神と、大海社が一つの社なのは、綿津見神は海の塞の神なのでしょうか。
●本住吉神社 水脈環境・処女塚
兵庫県神戸市東灘区住吉宮町7丁目1番2号

昔むかし、万葉の時代よりも、さらに昔の話です。
葦屋(現在の神戸市東部〜芦屋市)の浜に、菟原処女(うないおとめ)という、たいそうな別嬪さんがいました。
菟原処女は、器量が良いだけでなく、心優しく、機織りも上手でした。
菟原処女を一目見ようと、連日大勢の男たちが訪ねてきました。
その中に二人の若者がいました。
一人は地元、菟原の若者。
もう一人は和泉国(現在の大阪府南部)の若者でした。
二人の若者は甲乙付けがたく、菟原処女の心も決まりません。
二人の若者は、ますます激しく争い、このままでは決闘でもしかねない状態です。
恋の板挟みになってしまった菟原処女は、日に日にやつれていきました。
とうとう菟原処女は、生田川に身投げすることまで考えるようになりました。
見かねた両親が、提案をしました。
生田川の白鳥を、先に弓で射抜いた方に、嫁ぐというものです。
決戦の日、たくさんのギャラリーの見つめる中、二人の若者は同時に矢を放ちました。
矢は白鳥に吸い込まれていきました。
それを見た菟原処女は、生田川の流れに身を躍らせてしまいます。
菟原処女の姿は浮かんできません。
それを見た二人の若者も、後を追って川に身を投げました。
残された白鳥には、二本の矢が刺さっていました。
二人は互角だったのです。
弓でも決まらないと知った菟原処女は、死を選んだのでした。
菟原処女が葬られた墓を、「処女塚」(おとめづか、神戸市東灘区御影塚町)といいます。
「処女塚」を挟んで東西に、二人の若者の墓があります。
「東求女塚」(ひがしもとめづか、東灘区住吉宮町)には和泉国の若者が、「西求女塚」(にしもとめづか、神戸市灘区都通)には菟原の若者が、今も菟原処女を見守るように眠っています。

この手の求婚説話が各地に残っていますが、これを「処女塚式妻争い伝説」と呼びます。
この型の説話に、処女塚の名が付けられるほど有名なのが、このお話しです。
「処女塚」伝説は、古くは『万葉集』に見え、『大和物語』にも書かれています。
観阿弥・世阿弥の能・謡曲『求塚』にもなっています。
森鴎外は、伝説を元に、戯曲『生田川』を書いています。
「処女塚」は、時代を超えた、悲恋のテーマなのです。

「処女塚」には、『万葉集』の田辺福麻呂の歌碑(写真中)が建てられています。
  古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ
田辺福麻呂の歌です。
ここでビックリです。
小竹田壮士とは、和泉国の若者のことなんですが、小竹田壮士は「しのだおとこ」と読みます。
和泉国のしのだおとこ、そうです、和泉国の信太さんの男だったのです。
なんと、「うらみ葛の葉」の、葛の葉姫のご先祖だったのか〜!
どうやら、信太家は、悲恋の血筋のようですね。
歌碑には、銘文が今もかすかに残っています。
建立年は読めませんが、おそらく江戸時代後期。
建てたのは「八十一叟正四位下 加茂季鷹」という人です。
市教委の説明は、加茂季鷹がどういう人か触れていません。
でも、おそらく京都の上賀茂神社の神官で、歌人でもあった、加茂季鷹のことでしょう。
加茂氏は、陰陽師や神官を輩出している家系です。
安倍氏とも深いつながりがあります。
加茂季鷹が、「処女塚」に歌碑を建てるということは、単に歌人としてのリスペクトだったのでしょうか。
いや、菟原処女は、加茂氏ゆかりの娘だったのかもしれませんね。

もうひとつ。
白鳥が効果的に使われています。
白鳥というのは、死と再生の象徴です。
冬=死とともにやって来て、春=再生とともに飛び去るのが、白鳥であり、白という色の象徴です。
花嫁衣装が白いのは、アナタの色に染まるから、なんていうデタラメを信じてはいけません。
そんなのは、単なるこじつけの語呂合わせです。
結婚式は、死と再生の儀式です。
今までのアナタは死に、そして新しく生まれ変わるのです。
これが結婚式という儀式です。
菟原処女は死にました。
白鳥はその象徴です。
だけど二人の若者は、そのどちらも、菟原処女を再生出来なかった。
だから二人の若者も死ぬしかなかったんですね。

●写真は左から順に、西求女塚、処女塚、東求女塚です。
●本住吉神社 水脈環境・処女塚
兵庫県神戸市東灘区住吉宮町7丁目1番2号

処女(おとめ)塚と、その東西にある求女(もとめ)塚は、現在の国道43号線沿いにあります。
(※前の日記、「処女(おとめ)塚」を参照)
昔の海岸線は、国道43号線のあたりだったので、三つの塚は海岸に面していたのです。
三つの塚は、沖を往く舟からも、よく見えたはずです。
灯台的な役目を、果たしていたのではないでしょうか。
沖を往く舟では、菟原処女(うないおとめ)の伝説が、ずっと語り継がれていたのでしょう。
だから伝承が忘れられずに、今も残っているとも言えます。
その東求女塚の側を、住吉川が流れています。
神戸市内でも、有数の清流です。
天井川という珍しい川で、まわりの地面より川床の方が高くなっているのです。
住吉川には、生活排水が流れ込まないわけです。
今もアマゴやアユが住み、上流ではホタルの姿を見ることが出来ます。
http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/higashinada/shoukai/shoukai/img/seiryu_img1.jpg
この住吉川河畔の東求女塚の近くに、かつては鳥居がありました。
本住吉神社の一の鳥居です。

●写真左:『新改正摂津國名所旧跡細見大絵図(部分)』(天保7年)
(画像は住吉中心で、他は入っていませんが)廣田、住吉、生田、長田神社の四社の名が見えます。
処女塚や東西の求女塚も、記載されています。

●写真右:明治時代中期の参道の写真(本住吉神社所蔵)
当然ですが、高いビルもなく、神社からは海がよく見えたと思います。
もちろん、神社から三つの塚も見えたに違いないのです。
●松尾神社(西宮神社末社)
兵庫県西宮市社家町1-17

祭神は、大山咋神・住吉三前大神・猿田彦命。
神戸市東部から西宮市にかけては、日本酒の名産地です。
灘の銘酒ですね。
松尾神は秦氏が祀った酒造の神です。
住吉神は航海安全の神。
猿田彦神は道先案内の神。
この社は、寛政2年(1790年)に創建されています。
日本酒の一大マーケットだった江戸への海上輸送の安全と、業運繁栄・商売繁盛ですね。
●本住吉神社奥宮
神戸市東灘区渦森台4丁目31

本住吉神社(書き込み15〜18)の奥宮になります。
渦ヶ森(うずがもり)という山にあります。
渦ヶ森というのは、
 谷から吹く風がここで渦を巻くから
 近くに滝壷があって渦巻いているから
 秦氏の居住地だったから
 渡来人と倭人の融合した「うずわ」という氏族がいたから
 神が集まる祭祀遺跡アツモリ神のこと
など、諸説有りますが、定説はないようです。

住吉神は、やはり皇室との関係が深いようです。
境内には、昭和45年の、高松宮様による植樹がされていました。
こんな(といっては失礼ですが)小さな社に、何故いらっしゃったんだろう。
悪い癖で、深読みしてしまいそうです。

ここは、小社ですが、良い雰囲気の神社です。
近くを谷川が流れていて、ずっと瀬音が聞こえていました。
六甲山登山の、ルートでもあるみたいです。
振り返ると、神戸の港がよく見えました。
●本住吉神社奥宮、水脈環境
神戸市東灘区渦森台4丁目31

鳥居から振り返ると、神戸の港・大阪湾がよく見えます。
天気の良い日に、訪れたい神社ですね。

地名の起源で追記。
神武東征時明石海峡に現れて軍勢を先導した神の、椎根津彦命=珍彦(うづひこ)、の可能性もありそうです。
●澪標住吉神社
大阪府大阪市此花区伝法3-1-6

澪標(みおつくし)。
この言葉、ドラマのタイトルになったので、ご存じの方も多いはず。
私は、見ていないので、どんなドラマか知りませんけれど・・・。

このマーク、大阪市の市票になっています。
元々は、道路の道標(みちしるべ)に対して、水路の澪標(みおつくし)です。
水深の浅深の境界に立てて、船の航行の交通標識としたものです。
その澪標の発祥の地が、伝法です。

法道仙人というインドの仙人が、仏教を伝えるために、ここ伝法に上陸しました。
伝説はともかく、実際には大型の外航船で渡来したはずです。
おそらく当時、外航船の停泊出来る港は、そんなに多くなかったのかもしれません。
摂津国で思いつくのは、武庫か、難波か、伝法か。

澪標の発祥は、法道仙人から、約150年後のことになります。
延暦23年(804年)、遣唐使のとして出発を控えた一行が、伝法島に一泊しました。
その時、長い航海を前にして、安全を祈るたりめ、島民の協力によって島の一角に祭壇を設け、住吉大神を祀りました。
祭祀/祈祷を行ったということですね。
これがきっかけとなって、島民が相談をして、祭壇跡に祠を建てました。
それとともに、出発の際の約束(誰との?)によって、一行の帰路を迎えるのに便利なように「澪標」を建てました。
これが澪標住吉神社の縁起であり、澪標の発祥です。

で、なんと、この時、遣唐使船に乗って唐に向かったのが、最澄!、空海!、だったのです。
法道仙人がやってきた海路を、今度は最澄と空海が、逆のコースで唐に向かったのです。
遣唐使船の航海安全祈願をしたのは、おそらく最澄だったのではないでしょうか。
空海はまだまだ無名の私度僧だったからです。
●境内社住吉社(喚續神社)
愛知県名古屋市南区星崎1町目

10月下旬の終末、晴れていたので
親父の実家のあった旧南野村(現星崎町)にある
喚續神社(よびつぎじんじゃ)に向かった。
旧南野村の東を南北に流れる天白川がこのあたりから南に回り込んで
西にある伊勢湾(現名古屋港)に流れ込み、
北側に東西に大江川が流れる水田地帯だった。
江戸時代、尾張藩は明暦年間(1665〜1658)に藩の村勢調査を着手し、
そのデータの一部が
寛文年間(1661〜1673年頃)に編纂された『寛文村々覚書』に残されている。
そこには南野村の神社に関して「神明天王社前々除」という記載があるのだが、
「前々除」の意味は太閤検地以前の創建であることを意味している。
この神明天王社が現在の喚續神社(よびつぎじんじゃ/写真左)で、
南野村最大の境内を持つ。
この神社は祖父の住宅の南150mあたりにあって、
幼児期にこの神社の祭に連れて行かれた記憶がかすかにあるが、
久しぶりに訪れたのは昨年になってからのことだった。
訪問したのは南野隕石が関係していることを知ったからだった。
久しぶりに喚續神社を訪れたら
隣に南区らしくない(笑)お洒落な蕎麦屋ができていた。
そして、喚續神社の向かいには公園があり、子供たちが参道を駆け回っていた。
本殿の左右には境内社が同じ西向きに並んで祀られているが、
右側の本殿から2基目の祠が住吉社だった(写真中)。
本殿左の最初の境内社は塩竈社だが、
住吉神と塩竈社の祭神塩土老翁神を同神とする見方もあるが、
旧南野村では製塩が行われていた歴史があるから、
塩竈社はその製塩に由来したもので、
住吉社はここで飼育されていたと思われる神馬と
500mほど北西にあった大江川湊と関係がありそうだ。
映像認識なので、遺物に刻まれた文字を読んだりする習慣がないのだが、
喚續神社は2度目の訪問ということもあって、気づいたことがあった。
拝殿の左手前に苔むしたコンクリート製の変則形の鳥居があるのだが(写真右)、
かつて存在した、銅の鳥居を利用したものなのだろう、
その笠木の中央に銅板がはめ込まれて
そこに「神馬屋(しんめや)」という文字が刻まれていたのだ。
かつて、ここで神馬が飼育されていたことになる。
前回の訪問と今回の間に韓国歴史ドラマを観たこともあって
神馬とツングース系騎馬民族の関係の可能性に気づいてなければ、
今回も、気にもしなかったはずだ。
愛知県立図書館に寛政年間(1789〜1800)ころに制作され、
「司農府図書紀」の蔵書印のある地図『愛知郡村邑全図』があり、
その中に「星嶋庄 南野村」地図がある。
「星嶋庄」は「星崎庄」の写し間違いと思われるが、この地図の余白に

家数二百五軒
人数 男 四百五人
   女 四百三十五人
 馬 二匹

とある。
二百五軒で馬二匹は少なすぎるから、
この二匹は喚續神社で飼育されていた神馬ではないだろうか。
神社に神馬舎があるのは、祭事に馬を使用したり、
武士が戦勝祈願で馬を奉納する習慣があったからだが、
その風習が騎馬民族の文化と関係があるのは当然のことだった。
「神馬」の名称の意味は 「神の馬」ではなく、
「神功皇后(じんぐうこうごう:住吉神)の馬」とする説があるのだが、
『日本書紀』にそのことに関る記述がある。
神功皇后は夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、
新羅侵攻に向かったが、途中、海上で馬秣(馬のエサ)が不足した。
そのとき、家来(海人族)の一人が
海に生えているホンダワラを採って食わせたという。
いずれにしろ、馬と住吉神は海と関係がある。
『南区の歴史』(愛知県郷土資料刊行会)には寛文年間(1661〜72)には
南野村に船持ちがいて、参勤交代の渡しの役を担当したという記載があり、
この村の船持ちと境内社住吉社は関係があるのかもしれない。

●大江川湊(現大江川緑地)
愛知県名古屋市南区元塩町1丁目

台風一過の10月末の終末。
台風一過といっても、名古屋はかすめただけなのだが、
そのせいか、通過後も青空は出なかったのだが、
夕刻になって青空が覗き出したので、
琴比羅社の創建と関係があると思われる
大江川緑地(旧大江川湊/MAP左/写真中)に出かけた。
大江川湊には3本の道が集まっており、別名「三ツ又」とも呼ばれたが、
現在この道のうち1本は新幹線と工場によって分断されているが、
境内社住吉社のある喚續神社の参道は
その分断されている道に通じていた可能性がある。
大江川緑地は大江川を暗渠化して緑地公園としたもので、
かつては港(湊)だった。
北側に接して「元塩町」という町名が残り、
南側は三井化学の広大な工場地帯になっているが、
寛政ころの古地図『星崎庄 南野村』では大江川湊の周囲が「塩浜」となっており、
この近くに海岸線があったことがわかる。
大江川緑地の東端の入口部分だけが広くなっており、
このあたりが大江川湊(みなと)だったようだ。
ここが緑地公園になったのは1979年のことで、
ここにやってきたのはこの日が初めてだった。
入り口にある「沿革」石碑には

「約300年前、江戸時代初期にはこの地一帯は、葦の繁茂する沼沢であったと伝えられている。」

とある。
南野村は鎌倉時代には海中だった場所で、
陸になったのは、600年ほど前の室町期ことだ。
『南区の歴史』には、大江川に関して、

「元塩町五、六丁目で中江用水や諸悪水を集めて西流し、名古屋港に注いでいた」
「大江川の干潮差は四メートルもあったというから、大型船は満潮時に入港したであろう。」

とある。
江戸時代後期(1822)に成立した
『尾張徇行記』(おわりじゅんこうき)「南野村の条」には。

「 当村ニハ入江アリテ近郷の年貢ヲ初、常々ハ諸荷物鳴海酒荷ナト此湊ヨリ出船スル也、入江ハ巾五十間アリ夫ヨリ枝江大江北江トモイヘリ。」

とあり、
大江川湊が年貢や酒の積み降ろしの船の出入りでにぎわったことを想像させる。
現在、この部分の中央には噴水のある池があり(写真右)、
池傍のベンチには年寄りがずらりと並んで腰掛けていた。
その全員が男性で、
ひんぱんに顔を合わせている人たちである様子が伝わってきた。
沼沢だったからなのか、舗装していない部分の地面は
大雨の後ということもあって、水分をたっぷり含んでいた。
池端に伸びる杉の西側の表面には抹茶のような鮮やかな色の苔が生している。
大江川緑地の西の端は1.8kmも先にあるので、愛車でそこに移動し、
現在の様子を見に行ってみた。
緑地が尽きた部分(写真右)からいきなり大江川が始まっていた。
この部分の川幅は70mほどだが、その半分ほどは今も繁茂する葦で埋まっていた。
●住吉神社
愛知県名古屋市熱田区新尾頭1-9-28

1月中旬 晴れ。
堀川東岸を北上。
熱田神宮〜名古屋城の1/3くらいの場所に住吉橋が架かっており、
東西に八熊通が通っているが、
住吉橋のすぐ北東、八熊通に面して住吉神社はある。
住吉神社は高台の上にあり、
八熊通りはその高台を削り取って堀川に向かって下っているので、
住吉神社は通りから見ると石垣の上にある(写真左)。
入り口は八熊通りに面しているので、石段で立ち上がっているのだが、
石段の上に伊勢鳥居があり、そのすぐ向こうに藩塀(ばんべい)が立っている。
藩塀といっても民家の塀に見られるようなコンクリート板を重ねたもので、
かつては藩塀マニアが喜ぶような
浮き彫りのある石造のものがあったものと思われる。

ここは珍しく、入り口の石段の最下壇に社号票が立っていた。
社号票には側面に「名古屋城建設守護神」と刻まれていた。
この案内文を読ませるために石段に社号票を置いたようだ。
それはこの神社が堀川削開にともなって勧請されたことを意味していたが、
境内に表示された『住吉社記』によれば、
享保19年(1734)摂州住吉神を勧請とあり、
堀川削開(1610年)の100年以上後に勧請されたことになっている。
住吉神勧請には廻船荷主が関っていたことがこう記されている。

「当初は、新尾頭町道筋東側の小堂内に奉安しが、1762年(宝暦12年)にいたり、社域を現所にさだめた。
 大坂廻船名古屋荷主の笹屋惣七・藤倉屋長六ら極印講中12名が、運送守護のため社殿を創建して神儀を奉遷した。後に江戸廻船講中時田金右衛門らも信者に加わり修営のことおこたらず、威霊は遠く伊勢・知多・熊野の沿岸にもおよんだ。」

境内に上がると、社務所は無人で、
社内に門のある神職の住宅と思われる建物も破損した雨戸が立てられており、
荒れていた。
この神社前で通りかかった高齢の女性も、
かつてはこのあたりを賑わせた材木商もすっかり寂れ、
かつての面影は無いと言っていた。
拝殿は棟入り瓦屋根で壁の無い建物だった(写真中)。
拝殿直前には献灯門が設置されている。
拝殿前には基本どおり、左右に常夜灯、狛犬が置かれており、
一番手前の左右に灯篭があるのだが、この灯篭柱が傾斜しており、
篭をかける鉄製の蔓がシンプルな唐草の意匠であることが、
コストをかけた結果などではなく、
鉄造品に関る職人の心意気が伝わってくる。
こんなところにやはり尾張製鉄族を感じてしまうのだ。
狛犬も市内で最古のものだといわれ、
参道脇の常夜灯も六角柱の首の長い異例の意匠だ。
拝殿越しに見える本殿は覆い屋は無く、そのまま祠が屋外に設置されており、
珍しいのは社殿が素木なのに瑞垣だけが朱色で、
目隠し部分にだけ垣が巡らせてあり、下部は垣を開けてあることだ(写真右)。
ここは全体に周辺の神社とはちょっと異なった形式を取っているが、
何か理由があるはずだ。
社記によれば、現在地に社殿を創建したのは
大阪廻船名古屋荷主の笹屋惣七ら十二名だというから、
その人たちが関係しているのかもしれない。
主祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長足姫命。
本殿と同じ瑞垣内には向かって右に内側から秋葉社と津島社。
向かって左には内側から人丸社と天神社。
『住吉社記』にある住吉霊社と山賀稲荷社は社殿が見えない。
中でも人丸社は遭遇するのは2度目だが、
「人丸」は祭神である柿本人麻呂の「人麻呂」からの転訛だ。
隣に祀られている境内社天神社の祭神菅原道真と住吉明神を合わせて
和歌三神とするもので、
松坂屋の祖、伊藤祐良はここの境内で和歌法楽を催したという。
●住吉神社 水脈環境
愛知県名古屋市熱田区新尾頭1-9-28

名古屋市内の中央を南北に流れる堀川は1610年の名古屋城築城開始に際して、
築城のための資材運搬を目的として
庄内川から伊勢湾の間に掘削された水路だった。
社頭で社号票を撮影していたところ、通りかかった高齢の女性が話しかけてきた。
堀川のこのあたりから下流の白鳥に向かっては川岸に材木商が多く(写真左)、
堤防沿いの川面にも材木が浮かんでいる(写真中:川面右端)。
その高齢の女性は自称によると、
この堀川一帯の材木商の元締めにあたる家柄だとのことだった。
材木商ということで、この住吉神社を大切に思っているようで、
ぼくが住吉神社に興味を示していたのがうれしかったようなのだ。
住吉橋から下流を見下ろすと
堀川の左手に沿った2車線、右手に1車線の道路があり、高層のビルは少ない。
水は不透明で、水量は豊富だが流れは穏やかだ。
一方、上流側は市の中心方向なので高層ビルが多く、
住吉橋から北は堀川と川沿いの車道は少し離れ、間に建物が出現する。
もう住吉橋から上流には材木は浮かんでいない。
●住吉 住吉社 水脈環境
愛知県豊明市沓掛町住吉9

10月下旬 午後 薄曇
国道1号線から北東に向かう57号線に入って豊明市内を北上し、
沓掛町上高根(かみたこね)で住宅街の路地に入って北に向かった。
57号線から50m以内に寛永18年(1641)に開削された溜池、住吉池があり、
西側の道を隔てて、住吉の杜は在った。
社頭(写真左)は池から50mほど西にあったが、雑然とした印象だった。
入り口には石段ではなく、短い石橋があったから、
神輿ではなく、山車でも通るんだろうか。
参道は舗装も敷石も無く、白っぽい砂利が敷かれ、
両側にまだ新しい玉垣が連なっているている。
白っぽい砂利は、ここが赤土の土壌なので、
ぬかるみになることを避けるのも目的のようだ。
石造の伊勢鳥居の正面奥に吹きっぱなしの拝殿が見えている。
鳥居をくぐって、40mあまり参道を進むと、広場に出た(写真中)。
ここも基本的に赤土のようだが、参道と違い、
踏み固められていて、砂利は敷かれていなかった。
この広さはおそらく棒の手が奉納されるためのスペースなのだろう。
境内には岡崎花崗に刻まれた『上高根の棒の手』の案内書きがあった。

「伊藤伴衛門と浅野戸市左衛門が融和流を興起し、後 夢想流に改めた。これは、元 
 禄15年(1702)川口宅衛門・享保13年(1728)成田藤四郎に引き継がれ、それから
 も代々受け継がれてきた。
 〜以下略〜」

一般に言う棒術は愛知県では「棒の手」と呼ばれ、
夢想流棒の手はこの神社の祭礼に奉納されてきたようだ。
拝殿は典型的な瓦葺き棟入りの建物で、
広場の奥には高さ1.5mほどの石垣が連なっている(写真中)。
拝殿の天井を見上げると、桟は打ち着けられた奉納札で埋まっていた(写真右)。
奉納札の文字は筆で墨書きされ、なかなか壮観だ。
筆文字は装飾目的ではないが、書の技術を反映するので、そのままで絵になる。
拝殿奥の石段を上がると、『住吉社』の由緒書きの石碑があった。

「祭神 天照大御神 表筒男神 中筒男神 底筒男神
    伊邪那美命 応神天皇 神功皇后
 由緒
  元亀2年(1571)安土桃山時代薬師ヶ根居城 別記右近将監字高根の産土神とし
  て天照大御神を奉祀。
  慶安4年3月(1652)江戸時代初期に円福寺の本堂再建拡張により字住吉の地に移 
  転勧請し これより住吉大明神と称す。
  〜以下略〜」

円福寺は住吉社に参拝した2週間後に寄ったのだが、
本堂外には特に興味を惹くものは無かった。
住吉社の石段正面の玉垣とブロック塀で囲われた内拝殿の前で参拝。
内拝殿の西側に回ると、内拝殿の奥は、
さらに50cmほどの高さのコンクリート造の垣があり、その上に
幣殿、渡り殿、本殿が連なっていることがわかった。
神明造りの本殿はさらに50cmほどの高さの石垣の上に在った。
幣殿と渡り殿には全面にガラス窓が付いており、開かれた印象の社殿だが、
美しさは無い。
本殿の両脇には銅板葺流れ造の大型の祠が祀られていたが、
由緒書きに在る神明社と斎宮社(いつきのみやしゃ)の併祀社、
あるいは熊野社と白山社の併祀社だと思われるが、
どっちが何社なのかは不明。
こうした社殿の西側には石垣の基壇の上に
御鍬社・神明社・津島社の3社の小祠が祀られていた。
石垣を降りて広場の西側の森に向かうと、広場の方を向いて、
朱地に「住吉稲荷社」と白抜きされた幟が立ち並んだ、自然道の参道があった。
参道の奥には朱の鳥居が2基重なり、2本柱だけの覆い屋根を持った
銅板葺素木の本殿が祀られていた。
住吉稲荷社の南側は低くなっているが、その土手に
南向きに御岳信仰の銅板葺素木の小祠と5基の石碑が並んで祀られていた。
住吉 住吉社 (水脈環境)
愛知県豊明市沓掛町住吉9

室町時代末期、住吉社は旧社地、上高根(かみたこね)に
字高根の産土神として祀られた。
その北西1.9kmあたりには勅使池(ちょくしいけ/写真左)が存在し、
勅使池から南の境川(さかいがわ)に流れ込む井堰川が流れ出ていたが、
その井堰川は産土神が祀られた地の西600mあたりを流れていた(MAP中)。
住吉大神は航海の神の神格を持つが、井堰川の流れ込む境川が
南南西23kmあたりで三河湾に流れ込んでいることと無関係ではなさそうだ。
江戸時代初期に産土神は現在地、住吉に移転勧請され住吉明神となったが、
その時代にすでに、住吉明神の北北東800mあたり(現・古池)に
若王子池(なこうじいけ/にゃこうじいけ/にゃくおうじいけ/写真右)が
存在したのかは不明。
勅使池という変わった名称の溜池は豊明市最大の池だが、
湖畔に立てられた案内板にはこう説明されていた。

「 満水面積は約23ha。伝承によると、大永8年(西暦1528年)、佐中将経広郷(つねひろきょう)という人が、後奈良天皇の“勅使(天皇の使者)”として、愛知郡東郷町の裕福時(ゆうふくじ)へ覇権された際に、この池を造ったとされ、以来“勅使池”と呼ばれるようになったと言われています。
〜以下略〜」

一方、勅使池に次ぐ大きさの若王子池は現・古池にあった池が
江戸時代初期に移された溜池で、西南部の池底には
『世界大百科事典』(平凡社)に記載されている
古墳時代の集落跡若王子池遺跡が沈んでいる。
つまり、新・若王子池にあった集落が存在した時代には
使池も新・若王子池も存在しなかった。
これらの経緯を年表にすると以下のようになる。

・  古墳時代 現若王子池西南部に集落が存在した
・ 1417年 若王子社が存在していた
・ 1528年 勅使池・井堰川が造成される
・ 1571年 住吉社が旧社地に産土神社として創建される
・ 1652年 住吉社が現社地に移転勧請され、住吉明神と称す
・ 1655年 若王子池が南700mの地(現・古池)から現在地に移転
        若王子社(伊邪那美命)が住吉社に合併される
●住吉神社
三重県桑名市住吉町揖斐川鍋屋堤地先

元旦2日 青天
全長1,105.8mの鉄橋、伊勢大橋で
長良川と揖斐川(いびがわ)を東から西に渡り、
最初の信号を左折して揖斐川西岸の堤防上の道(613号線)を南(下流)に向った。
堤防上を南に向えば、七里の渡に着くはずだった。
堤防上の道を1.2kmあまり南に向うと,道は自然に堤防下に降り、
左手(揖斐川堤防)の上に銅板葺入母屋造の堂のような建物があったので、
寄って行くことにした。
その建物は石垣の上にあって、
道路からその上に上がってゆくスロープがあったので、
そのスロープ下の道路脇に愛車を停めてスロープを上がった。
スロープは揖斐川の堤防上に続いていて、スロープを上がり切ると、
左手(上流側)に住吉神社の社頭があった。
堂かと思った建物は社殿だった。
社頭の石造明神鳥居は元旦の太陽の登る東南東を向いて設置されていた(写真左)。
地面は深い砂地で、鳥居から社殿に向って参道が一直線の石畳になっている。
(写真左)の右端に見えているのが多度山のようだ。
参道脇にあった西船馬町氏子による『住吉神社』由緒書きにはこうあった。

「桑名は古くから伊勢湾,木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として『十楽の津』と呼ばれ,木材や米などの集散する自由活発な商業都市として発展してきました。
 ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。
 これらの人たちによって航海の安全を祈り、正聖5年(1715)に摂津の国『住吉大社』より勧請してこの住吉神社が建立されました。
 神社前の石鳥居や石灯籠は江戸時代の材木商たちによって、狛犬は明治中頃に備前・備中や阿波の国の廻船業者たちによって寄進されたものです。
〜中略〜
元旦には初日の出が鳥居の真ん中から上がることで初詣の人気スポットとなっています。
〜中略〜
住吉神社御祭神
  表筒男神
  中筒男神
  底筒男神
  息長帯姫命(神功皇后)

 合祀
天照大神
住吉町・東太一丸神明社
倉稲魂命(玉重稲荷)」

桑名を紹介した『久波奈名所図會』(図版右)には住吉浦の図が紹介されている(図版右)。
元旦ということで国旗の立てられた鳥居をくぐって参道奥の社殿前に到達すると、
ここには拝殿が無く、石垣の上の社殿は本殿(写真右)だった。
●住吉神社 (水脈環境)
三重県桑名市住吉町揖斐川鍋屋堤地先

揖斐川堤防下から住吉神社の社頭に向かうスロープの右手(南側)には
小さな入江があった。
それで、 当初はここが七里の渡かと思い、
スロープを上がり切ると、 まずは揖斐川に面した入江の入口を見に行った。
入江の入口には橋が渡してあってその下は水門になっているようだった。
(写真左)
揖斐川の対岸を望むと揖斐川(いびがわ)と長良川との間に横たわる中洲と、
長良川の向こう岸の長島町が望めた。
左手奥に、さっき脇を通ってきた
アイランド富士の展望台の支柱が立ち上がっているのが微かに見える。
橋上から反対側の陸側を見下ろすと、奇麗に護岸された入江が見下ろせた。
(写真中)
地図をチェックすると、
七里の渡はここからさらに220m近く下流にあることが判った。
目の前の入江の名称は地図に表記が無く、
ここの地名から「住吉町の入江」と呼ばれているようだ。
この入江や七里の渡は舟による、
さまざまな水郷めぐりの発着点となっているようだが、
今はオフシーズンらしく、舟影は見えない。
(写真中)の入江奥の橋は愛車を路肩に停めてきた613号線の橋で、
この橋の下を通り抜けた水路は内陸に向い、
折れ曲がりながら380m以上奥に延びているようだ。
住吉神社の社頭に戻って参道に入って参拝し、
住吉神社前から改めて揖斐川の上流を望むと、
微かに伊勢大橋が揖斐川の川面を横切っているのが見えた(写真右)。
(写真右)の右端には長良川を横切っている河口堰の施設が
ジュラルミン色に輝いていた。

ログインすると、残り5件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

水流と水神 更新情報

水流と水神のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング