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備後の歴史を歩くコミュの沼名前神社

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式内社 沼名前神社(ぬなくま)福山市鞆町 

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=15078323&comm_id=1818324

詳しくはここに書いています。



写真

左:切り妻流れ造り本殿、銅板葺き
中:同じ
右:右:境内社「渡守神社」 こちらに祀られていた「オオワタツミ」が本殿に移された。


地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.22.51.531N34.22.59.085&ZM=11

コメント(38)

渡守社は、沼名前神社の摂社となっているが、古くは別の場所に鎮座し、貞享二年(1685)水野勝貞が現在の位置に移し本殿と拝殿を新築した。拝殿は既に失われたが本殿は残っている。構造形式は三間社流造、屋根は銅板葺き、三方に高欄付き廻縁、奥に脇障子を備える。

広島県神社建築の諸例より引用
写真(狂ちゃん撮影)

「広島県神社建築」によると、沼名前神社の能舞台は重要文化財に指定されている。重文に指定された能舞台は全国で四棟しかない。その中の一つが備後福山にある。京都伏見城が取り壊されたときに、福山城主であった水野勝成が譲り受け福山城内に移したとされ、万治元年(1658年)三代勝貞の時にここへ寄進された。もとは持ち運びできる組み立て式舞台であったが、現在地に固定されている。切妻造妻入りで屋根は柿葺だ。後座の鏡板には狩野永徳作とされる松と竹が描かれている。

狩野永徳を見に行かねば!!



左:随神門
中:能舞台
右:能舞台
能舞台は通常は閉まっております。
毎年恒例の能演の際に撮った画像がありましたので、のっけときます
ちなみに狩野永徳作とされる松と竹とはご覧の通り。
肉眼だったら、もう少しはっきりとわかります☆
東京の方からも能じゃなくて、能舞台みにくる人もいるぐらいの
貴重な能舞台です。
機会があれば是非一度!
明王院五重塔の1/10模型は紹介したけど、この能舞台の1/10模型も西岡棟梁により作成されているはずです。何かで見た・・・。
たしか、鞆の歴史民族資料館で模型を見たよぉな…(曖昧)

伏見城からの移築ではなかったよぉな…(曖昧)

また調べて書きマス♪(〃又〃)y

伏見城からいったん、福山城(だったかな?)に入ったからじゃないのぉ??
カナラズ調べて書いてネ (^O^)
気になるよぉーーー

鞆の民族資料館は……行ってみようかな。
鞆へ行ってきました。

沼名前神社境内社

渡守社

三間社、吹き放ち外陣付き流造(ながれつくり)
建立は貞享2年(1685)
これは確実とされている。


沼名前神社
能舞台

柿葺(こけらぶき)屋根

御朱印
朱印の上側、ヒョウタンのようなマークは、弓から矢を放つときに弦が勢い余って左手に当たり怪我を防ぐために付ける高鞆(たかとも)と称される武具で、神功皇后がこの渡守社(沼名前神社)に奉納したとされている、いわば沼名前神社のシンボルマークです。ここからこの地が鞆と呼ばれるようになりました。

広島県重要文化財
沼名前神社石鳥居

寛永2年(1625)2代水野勝重(後の福山2代藩主勝俊)が長子勝貞(3代)の誕生にあたり、息災延命を願って沼名前神社に寄進した石鳥居。鳥居の形式は普通の明神鳥居であるが、笠木の先端に丸味を付けて反り上がり(肥前鳥居という)その上に鳥ぶすまを載せた特異なもの。なお、左の柱に「大工 肥前之住人中島弥兵衛」とあり、鳥居伝来を物語る興味ある銘である。

式内社の石柱

前に訪れたときは草木に埋もれていたが、今回は綺麗に刈ってあった。


鞆とつながりの深かった2代水野勝重であるが、水野勝成の長男で、2代福山藩主就任は寛永16年(1639)のこと。正保3年(1646)に名を勝俊と改めている。このことが話をややこしくしている。

勝重か勝俊か・・・?
藩主時代かそれ以前か・・・?

上記、石鳥居の紹介文であるが福山市のホームページから引用した。これだと完璧だ。

茅ノ輪を見に行ってきましたが少し早かったようで制作中でした・・・。

竹で造った芯に、山で刈り取ってきた茅草を束ねて巻き付けシュロひもで縛り付けてました。

直径は約2.1m。

芯は毎年同じものを使われていますから、大きさも同じということでした。
まだ行ったことがないお手火祭りの記事が
今日の中国新聞1面にありました。
すっかり忘れていました。(覚えていても行けませんでしたが)
かなりの人出で相当賑やかなようですね。
沼名前神社境外社

「住吉大明神・蛭子神社」

鞆港の奥に鎮座する。由緒等は不明だが、土地柄や神社名からして航海の安全と大漁を祈願している。社殿は一間社入母屋造と小社ではあるが本格的な建築様式の本殿である。境内には3個の力石が置かれ、沼名前神社の20個と合わせて福山市の重要文化財に指定されている。江戸時代、船積荷物の積み降ろしに従事した仲仕達が、祭礼の場でこの力石を持ち上げて力と技を競ったと紹介されていた。花崗岩製で、1個がだいたい140kgから200kgあるらしい。

この他、多くの小社が鞆には存在するが、ここも含めてそのほとんどが沼名前神社の境外社に属して祭礼が行われている。

境内入り口に林半助氏の石柱が建てられていた。この人は鞆鉄道の初代社長で、明治時代、福山城が切り売りされたときに外堀を購入した人である。(発見者、進化系さん)

写真

左:社殿
中:寄進者、林半助石柱  
右:石製の扁額 落ちたのか下に置かれていた。 

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480182.296&Y=123767.633&SCL=479

沼名前神社境外社

「住吉大明神・蛭子神社」

写真

左:本殿
中:力石
右:力石の説明書
沼名前神社境外社

「住吉大明神・蛭子神社」

狛犬

台座には「萬延元・・・」と彫られている。
万延元年は江戸時代末期1860年である。
これも沼名前神社の境外社だと思います。


狛犬や玉垣は西町氏子中の寄進です。

元 撫屋(なでや)胡社
社殿一式改築
寄付者 大阪市
森下 博

森下博氏は森下仁丹の創業者である。「撫屋」は森下家の屋号であったが博氏の祖父は沼名前神社に婿養子に入り佐野を名乗って宮司を職とした。しかし、出身である森下家に跡継ぎがいなくなったことから、祖父は森下家に戻り煙草の製造販売をはじめたが商売はうまくいかなかった。そこで博氏は9歳で学校をやめさせられ宮内村の煙草商「角新」に見習奉公に出された。父親が亡くなると一念発起した博氏は大阪へ出て小さな薬種商をはじめた。これが森下仁丹へと発展していく。森下博氏は1943年(昭和18年)3月20日75才で亡くなられている。この胡神社は昭和5年5月に社殿や玉垣一式等森下博氏によって大改修されている。

地図
http://www.chizumaru.com/maplink.asp?SER=all&D=all&X=480176.401&Y=123766.763&SCL=245
この神社、焼失前の社殿は良かったですよ。なぜコンクリート作りで再建したのかなあ?

式内社とありますが、この神社は「祇園さん」です。沼名前神社の社号は明治維新後の国家神道の政策下、宮司が社格を上げるために勝手に名乗っただけです。

能舞台が秀吉遺愛のものかどうかは資料がなく何とも言えません。狩野永徳云々は「お宝鑑定団」に出せば面白いですね。大恥をかくかも衝撃
宮司が社格を上げるために勝手に名乗っただけ・・・


勝手に名乗っただけなら良いですけど主祭神まで替えてしまっています。


そうですね、既にそれが歴史になっていますね
2008年2月10日
福山市の無形文化財「お弓神事」


写真、文 西又さん

沼名前神社の境内社、八幡神社のお弓神事に行ってきました。
見る人、写す人多かったです。
お守りにするという的の一片をもらって帰りました。
この様な物  撮って良かったのでしょうか・・・
本殿の裏にある 御神水。
御賽銭箱には なぜか 「くまのプーさん」
神社にドイツのクルップ製の47mm速射砲があるのをご存知ですか
このネコ・・・。

危ないのでしょうか?
26も30も知らんーーー(゜◇゜)~

てか、31...._( ̄▽ ̄)ノ彡☆ばんばん!
31…
ナイス ショットわーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)カメラ

あまのさん すげぇo(><)oハート達(複数ハート)
あの速射砲はおそらく、第1次大戦の戦利品だと思います。青島攻略戦の…
戦利品ですか〜もちろん銃刀法に触れないように封印はされているのでしょうね(汗)
いいえ、確かに「クルップ」の名が刻まれています。確認してみてください

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