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備後の歴史を歩くコミュの國高依彦神社

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式内社 備後国葦田郡「國高依彦神社(くにたかよりひこ)」

 福山市新市町大字藤尾字父尾・・・福山市新市町「吉備津神社」の前の道を神谷川沿いに上流に向けて車を走らす。金丸を過ぎ、川が二手に分かれるが右の藤尾川に沿って山道をさらに上流へ進む。すると父尾という集落に着く。その先はもう藤尾ダムだ。ここからダムまでの間に、下から藤尾一の滝(ミズハノメノカミ)、二の滝(トヨタマヒメ)、三の滝(シナツヒコ、シナツヒメ)と三つの滝がある。その三つの滝それぞれをご神体として三つのタカオカミ神社が鎮座し、雨乞いや止め雨の神様として崇敬されている。そして父尾集落の山の上にもう一つのタカオカミ神社が鎮座する。民家と民家の間の参道を頂上に向けて登る。山道を10分くらい登ると写真の石鳥居が出迎えてくれる。境内から麓が見えるが怖い。急な斜面で足がすくむ。見渡す限り山また山。鉄塔も電線も見渡す限りなにも無い・・・。

 由緒であるが社記によると創建は延暦十八年(799)と古い。龍神(トヨタマヒメ)と国高依彦神を奉祀し、三月本村月入りの森白瀧の上に建立とある。トヨタマヒメは海神オオワタツミの娘、天別豊姫神社の祭神だ。ここでは龍神とされている。その後、文永三年(1266)現在地に遷座し八大龍王と称した。その時に国高依彦神は分祀されたが、式内社は国高依彦神の方である。こちらは市町へ社殿を造営し遷座、市町大明神と称したが寛正三年(1462)三月十二日、火災で焼失。社殿を失った国高依彦神は元の八大龍王社の相殿に帰された。明治維新の神仏分離政策により「タカオカミ神社」と改称し現在に至る。山野町の「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」同様に山深いところだ。

 国高依彦神は史料にまったく出てこないために、江戸時代の管茶山は国高依彦神を国常立尊とし、福山市芦田町上有地に鎮座する「国司神社」が式内「国高依彦神社」だとした(福山志料)。しかし、皇學館大学が編纂した『式内社調査報告』は「国司神社」は過去に一度も「国高依彦神社」と称されたことがないと、この説を否定している。江戸期には元禄7年(1694)、水野日向守が随神門建立、元禄14年(1701)拝殿再建など、この山深い神社に対し歴代福山藩主から相当の崇敬を受けた。水を操れる神は重要視されたのだ。

 元禄7年水野日向守随神門建立とあるが、元禄7年は第4代水野勝種の時代で、勝種は美作守である。第3代勝貞は日向守だが寛文2年(1662)に死去しており、元禄7年水野日向守に当たる人物がいない。美作守の誤記と考えるしかないようだ。

 道沿いに「白滝の名水」という水汲み場がある。柔らかく美味しい湧き水だった。福山周辺の式内社九社はあと府中市「賀武奈備神社・甘南備神社」を残すのみとなった。

タカオカミの漢字はタカは「高」。オカミは「雨」の下に「龍」その間に「口口口」をはさむ・・・。

写真 昨年5月頃
左:参道の途中にある石鳥居
中:本殿
右:山・・・

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.16.39.926N34.36.57.799&ZM=9

コメント(24)

龍神(トヨタマヒメ)とあるが、山幸彦神話で、身籠もった豊玉姫は「お産は絶対に見るな!」と山幸彦(ヒコホホデミ)に言い残し産屋へ入っていく。「見るな!」と言われて見なかった神話は一つも無い・・・。
そっと覗いたヒコホホデミが目にしたものは・・・。
そこにはお産に苦しみ喘ぐ龍がいたのだ。

海神(ワタツミ)であるトヨタマヒメですが、この神話により龍神になったのでしょうか。

今は、立ち会い出産も普通に行われているようですが・・・。
神社巡りに行きました。

左:狭い山道を登ってやっと鳥居がお出迎え
中、右:本殿
左:ししの彫刻?
中:一部が欄間のような彫刻
右:峰に龍がいる(別名八大竜王宮)
タカオカミ神社の石碑
表側と裏側です。
石碑の裏に彫ってある文を
写真から読みました。

祈雨大神
第四十六代孝謙天皇の御代
三瀧に神祀る。天平勝宝七年(七四九)
巳未歳六月
第五十代桓武天皇の御代
白瀧山にタカオカミ祀る 延暦二十年(七八二)
壬午歳六月

(タカオカミは漢字ですがIMEに字が無かった)
表側のルビはかたおがみと見えます。
滝の写真ですが、一応撮ったものの整理するのを
怠っていたためどれが何番目の滝かわからなくなってしまいました。
すみません、解説をお願いします。m(__)m

道路のすぐ下にあり写真左が滝の上で、写真右が水の落ちる所から
滝壺をみたところです。
それぞれ別の滝の写真だったと思います。
7が三の滝で8の左が二の滝で右が一の滝じゃなかったな?

撮影の順番は一→三→二だったと思いますが
地図で見ると橋が写っているのは一ノ滝ですね。
二ノ滝は入り込めなかったので・・・8の右ですね。
8の左が三ノ滝!!


カナリ イイカゲン・・・。
見れば見るほど・・・わからん。
橋が写っているのは一ノ滝!
これはたぶんあってます。

もう一回行きますか。
これさえ確認できれば一気に3ポイントゲット。

手前の美味しい水が汲めるところに、こんなのがあるのです。

しかし、西又さんの写真は綺麗です。



解説ありがとうございます。
時系列から行けば、7(13:56〜58)
8の左(14:09)、右(14:14) になっています。

7は一の滝で間違いないですね。
8の左が三の滝で右が二の滝でよさそうですね。
全然ハズレぢゃん……… (-_-;)

とにかく二の滝が一番高低差があって立派だったのは覚えてるけど。
確信はしたものの、やはりもう一度
確かめておいた方がいいかなあ。f(^ー^;
立ち入り禁止の看板が撤去されてたら、また行ってみたいですねー
7は「一の滝」で間違いないですよね・・・?

橋も写っているし。

気になりましたので、確認してきました。
左から、一の滝、二の滝、三の滝です。

一の滝は橋の所にありました。
二の滝は、立ち入り禁止のままでした。三つの中で一番落差があります。
三の滝は周りを木に囲まれていいカットが撮れませんでした。

12で書いている滝ですが、一部間違いがありました。
8の左は二の滝で右が三の滝でした。
ほら、8の左は二の滝でしょ☆<( ̄^ ̄)>エバリッ!

この滝は、ちょっとねー、感じるものがありましたの。
立ち入り禁止に関しては、市に問いあわせたらいいのかな?
はい、そのとおりで失礼しました。_(_^_)_
二の滝は全体を見渡せないのが残念です。

看板には確か福山市とあったように思いますのでそうでしょう。
西又さん行ったの・・・!!

橋のは一の滝であってますよね。

17のは今日の写真ですか?
はい、今日(21日)行ってきました。

そうです、橋の所にあるのは一の滝です。

17の写真は全て今日(21日)撮影したものです。
福山市新市町父尾地区に平安−室町時代に由緒ある神社があったことを伝える石碑が、地区の一角に建立された。昨年1月に87歳で亡くなった地元の松村成美さんの「神社の記録を後世に残したい」との悲願を、友人たちがかなえた。

という記事が中国新聞に記載されたので、2008年以来7年ぶりに訪れてみた。

新しく建立された石碑の地図に、寛正三年(1462)三月十二日の火災で焼失したという国高依彦神社の旧社地跡があったので行って見たが、対岸に渡る道が発見できずたどり着けなかった。山頂の社殿に登る元気がなくなり、次回再挑戦してみたい。

現在は4世帯ほどで神社運営がなされており、故松村宮司が危惧されたように、由緒ある神社でも後世に遺すことが出来るのは記録だけになってしまうのかもしれない。
いい石碑が建ったようですね。
もう7年も前になりますか。山頂の社殿はまだ大丈夫でしょうかね?
高齢化し、人が減ってくると維持するのも難しくなってきますね。
>>[23]

最初から数えると8年になります。
もう少し涼しくなったらまた行ってみましょう。

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