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備後の歴史を歩くコミュの天別豊姫神社

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式内社 備後國安那郡「天別豊姫神社(あまわけとよひめ)」

 福山市神辺町、国道313号線沿いにある神社。神辺城のあった黄葉山中腹に鎮座する。神辺城の築城は建武年中とされる。戦国時代は杉原氏が、そして福山藩発足当初の居城もここ神辺城で、福山城を築いた水野勝成も当初はここに在城した。神辺町は本陣、廉塾、菅茶山旧宅、備後国分寺跡等歴史的には備後を代表する町である。そんな中心地に「天別豊姫神社」は鎮座する。式内社は、いずれもそれを誇示するように入り口に石碑が設置されているが、ここは探してみたが見あたらない。石段の掃き掃除をされていた神職の方にお聞きしたら、「神社を出て200mほど行った商店街のなかにある」とのこと。ついでに見てきたら写真の石碑があった。当時はここからずっと神社の社地だったに違いない。今は国道も通り民家もあるし商店街をなしている。

 この神社の創建は不詳であるが、最初に史料に出てくるのは、延喜式以前に編纂された日本三代実録の中に「元慶二年十一月十三日授備後国従五位下天別豊姫神従五位上」とある。元慶二年は878年で神位が一つ上がったようだ。この地は穴国と呼ばれ、穴海の如くまさに入り組んだ海だった。その入江には潮待ちの鞆港がありオオワタツミを祀った沼名前神社が、そしてこの地にその娘の「トヨタマヒメ」が祀られた。比婆郡に鎮座する式内社「蘇羅比古神社(ソラヒコ)」にはトヨタマヒメの夫「ヒコホホデミ」が祀られている。前回書いた福山市瀬戸町「比古佐須伎神社(ヒコサスキ)」の祭神も「ヒコホホデミ」であるが、研究者からはこの神社の祭神とは成り得ていない。二人の間には「ウガヤフキアエズ」が生まれ、この子はトヨタマヒメの妹「タマヨリヒメ」と結婚し「カンヤマトイワレヒコ」初代神武天皇を生んだ。

 この神社は元々「磯神社」として別の場所に鎮座していたが、建武年中、神辺城築城に合わせるかのように現在地へ遷座された。しかし天別豊姫神社と磯神社との関連を証明するものは口伝以外残っていない。だが、明治2年に式内社に比定され現社名に改称。明治6年に郷社、昭和15年に県社へ列せられた。鎮座地が神辺城のすぐ下で、まさに守護神とされていたため、戦国時代には度々戦乱に巻き込まれたがその都度再建されてきた。杉原氏や水野勝成ら歴代福山城主の崇敬を受けたとされる。また、山陽道の宿場町であったため本陣に宿泊した大名や旅人が大勢参拝したとあるが、江戸末期には何故か衰退してしまった。

写真
左: 遠く離れた所に建つ式内社の石柱
中: 本殿 かつては檜皮葺であったが今は銅板で覆われた
右: 正面の石鳥居


地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.23.11.974N34.32.8.508&ZM=9

コメント(7)

桜も散り始めていました。
毎日のように通っているのですが、今朝は寄ってみました。
ここの本殿はよく見ると神明造り風・・・です。
神明造のポイントは切り妻平入りで、建物の左右に独立して付けられる棟持ち柱と向拝を持たないことなどです。

切り妻平入りで棟持ち柱も備わっていますが向拝が付いています・・・。

境内にはたくさんの境内社が祀られている。
左:深安26社めぐりの御朱印、神社名は既に印刷済みです。拝殿に備え付けのスタンプを押し、日付は自分で書き込みます。


中:神職手書きの御朱印
神辺町史に
「安那郡では二座で、他の一座は多祁伊奈太伎佐那布都(タケイナダキサヤフツ)神社で、山野在岩屋権現であろうとしている」
という記述があるようなんですが、この意味がよくわからない(?_?)
安那郡には二座、「天別豊姫神社」と「多祁伊奈太伎佐那布都神社」・・・
これは延喜式神明帳に記されています。


「天別豊姫神社」は明治になって、それまで「神辺大明神」または「磯神社」と称されていた神社が、明治政府によって式内社「天別豊姫神社」に比定され、これに改称されています。

一方「多祁伊奈太伎佐那布都神社」も同様、山野町「岩屋権現」がこれに比定され、社名をこの長ったらしいのに改称してます。


ようするに、安那郡の二座ともに、明治の頃は延喜式に記載された神社名を名乗る神社は無かったということなのです。氏子にとっては、それまでの岩屋権現と親しみを込めて称していたものが、いきなり今日から「タケノイナタキサヤフツ」だよといわれても、そう簡単には受け入れられなかったようです。

「であろう」・・・ですが、ここがそうだと言えるはっきりと断定にいたる確証がありませんでした。他にも二〜三社ほど「我が社がタケノ・・・だ」という神社が存在したが、それこそ確証が皆無で、山野のが妥当とされたのです。実際はわかりません。ほとんどの式内社が確証がないまま比定されています。これは歴代天皇の陵墓にも同じことが言えます。
ありがとうございます☆
よぉく理解できました (^O^)
行程記には神辺城二の丸への登城道の左手に描かれているのがそうだと思います。


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