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彦根藩主(井伊家各藩の物語)コミュの初代藩主・井伊直政

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永禄4(1561)年〜慶長7(1602)年

徳川四天王の一人
井伊家は平安時代から遠州伊佐郡井伊谷を本拠地にしていた豪族で、南北朝時代には南朝方について戦う事もありました。

しかし、遠州の守護が北朝方の今川家になった事から井伊家の悲劇が始まったのです。
井伊家と今川家は何度も戦い、ついには当主一族が今川家の陰謀で暗殺される事もあったのでした。
そんな両家の和議の為に井伊家の姫が今川義元に人質として送られ、義元はその姫を自分の妹として家臣・関口親永に嫁がせました、そして生まれた娘が築山殿です。

この築山殿は徳川家康の最初の正室となる人物です。


井伊直政はそんな混乱を極めた井伊家に生まれますが、父・直親が今川義元の息子・氏真に暗殺された事から2歳の時から逃亡生活に入る事となってしまいます。

15歳で鷹狩に出ていた徳川家康と浜松城下で面会し、そのまま家康に仕えるようになりました。

16歳、遠州芝原の戦いで初陣、この戦は家康と武田勝頼の戦いでしたが見事な負け戦となりました。
この時、家康は武田軍に追われ、本隊ともはぐれて直政を含む4.5名の家臣と共に逃げ回っていました。
しかし逃亡は日を跨ぎ、主従は飢えと疲労に襲われて居たのです。
そんな時、祠に供えてある赤飯を見つけて少しづつ分け合って腹の足しにすることにしたのです。

家康を始め家臣もその赤飯に口を付ける中、直政だけがその赤飯を受け取りませんでした。
家康は「虎松っ(直政の幼名)なぜ飯を受け取らん! 新参者と遠慮している場合かバカ者! 今は皆が逃げ延びる力をつけねばならぬ時だ、状況を心得ぬ愚か者が!!」と叱責したのです。
すると直政は冷静に「私はここに止まって追っ手を食い止めます、斬り死にする身に一粒の飯も不要。私の分も皆で分け城まで戻る力を少しでもつけ、急いで落ち延びて下さい!」と応えたのでした。

その地に止まってやがて武田軍を撒いて無事に戻った直政を家康は城外まで出て迎えたのです。

この時から直政の出世コースがはっきり示されたとも考えられます。

天正10年22歳で元服、この後、高天神城攻めや甲斐若神子対陣で北条軍との講和に戦功がありました。
この事から、武田家遺臣を従えて赤備えの軍備を持っていた木俣守勝が直政に預けられます。
こうして井伊家臣団の中に赤備えが誕生しましたが、井伊家臣団が全て赤備えになるのは、2年後の小牧長久手の戦いで先方を勤めた時からでした。

小牧長久手の戦いで羽柴軍から「井伊の赤鬼」と恐れられた直政は、秀吉の覚えも目出度くなり、豊臣姓を与えられましたが辞退しています。
また、天正16年に秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた時に家康の配下として唯一秀吉直属の大名と同席に参列したのでした。
この時に“井侍従藤原直政”と記した記録が残っていますが、陪臣でありながら侍従と言う官職に正式に就いていた事を示す貴重な資料とも言え、それだけ秀吉の信頼も厚かったのです。


戦においても常に先方で勇敢に戦いました。
赤備えは色によって勇猛果敢な軍になる効果もありますが、傷を負っても血が目立たないという効果もあったのです。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは少人数で宇喜多秀家隊に攻め込んで戦端を開きました。
戦い後半の島津軍の的中突破ではこれを追って島津豊久を討ち取りましたが鉄砲に撃たれ負傷したのです。
この傷は戦後すぐに家康が自ら調合した薬を家康自身の手で塗って労をねぎらいました。
またこの功によって西軍の指揮を執っていた石田三成の居城・佐和山城と18万石が与えられました。

直政は、この後、島津家安泰の為に奔走します、島津家では直政を撃った人物を見つけてこれを知らせましたが、直政は自分を撃った人物を褒め称えたと伝わっています。
結局この時の傷が元で慶長7(1602)年2月1日に亡くなりました。


江戸幕府開幕が1603年2月12日ですし、彦根城の完成は1607年ごろなので井伊直政は厳密には“彦根藩初代藩主”ではなく“彦根藩祖”になるのですが、初代藩主として数える事になっています。

コメント(18)

井伊直政が亡くなった頃はまだ殉死の習慣がありました。

では、彦根藩で殉死をした人間は何人居たでしょう?



答えは・・・
0人です。

直政はとても厳しい人物で、主席家老の木俣守勝ですら何度も徳川家康の直臣に戻りたいと訴えていたそうです。
ホンマに怖い人だったんですね。

でも、そんな直政も正室には頭が上がらなかったそうです。この女性は松平康親の娘で徳川家康の養女となっていた人でした。
この教訓から、井伊家は将軍家と婚姻関係を結んではならないとの家訓を伝えたと言われていますので、奥さんはどれだけ怖かったんでしょうか(苦笑)
彦根城博物館で行われた『井伊直政の政治手腕』という講座で、資料から読み解かれた新事実がありましたのでご紹介します。

豊臣秀吉が亡くなった年の12月には、井伊直政は徳川家康の外務大臣のような事をしていて、黒田長政と盟約を結んでいました。
そんな黒田長政を含んだ七将が、前田利家が亡くなった時に石田三成を襲撃する事件を起こします。

この三成襲撃事件は、三成が伏見の家康の屋敷に逃げ込んで家康の庇護を受けたというのが通説になっていますが、実は三成は伏見の自分の屋敷に逃げ込んで、その周りを七将たちが囲んでいたのを、家康が仲裁を行ったそうです。
この時に七将の所に交渉に行ったのが直政だったのです。


また、関ヶ原の戦いで、外様は東海道を進み、譜代は中山道を進む事になり美濃で合流してから石田三成と戦う予定でした。
そして、外様の目付が直政・譜代の目付が榊原康政でした。
しかし、出発前に直政が病になったので急遽、本多忠勝が僅かな手勢を引き連れて(本多家本隊は中山道組の中に居ました)直政の代わりを務め、直政は少し遅れて東海道を進んで外様軍に合流しました。
関ヶ原の戦いで本多忠勝が家康本陣近くに居たのは、手勢の殆どが中山道に居たからだったんです。

そして、外様軍は家康の予想を越える速さで進んだために、勢いを止める事ができず、外様軍が譜代軍を待つ事なく関ヶ原の戦いへと突入したのでした。
譜代軍の切捨てを進言したのも直政だったそうです。

しかし、譜代が居なければ関ヶ原は徳川の戦にならないため、福島正則に決まっていた先陣を、正則が激怒しない程度の少数ですっぱ抜き、一番槍の名誉のみは徳川家にもたらしたのでした。

関ヶ原の戦い後の政治交渉は、西国が井伊直政・東国は榊原康政が窓口になっていて、康政は何度かちょいミスがあったそうですが、直政は完璧にこなしたとか・・・

そう言った功績を踏まえて、『寛政重修諸家譜』では井伊直政を「誠に開国(幕府を開く事)の元勲なり」と称えたそうです。
後に井伊直弼が“開国の元勲”と呼ばれるのは、この事を踏まえた上での事だそうですよ。
直政の性格は幼少時代の苦労や、若くして四天王の筆頭になった事や、武田軍団を引き継ぎ、赤備えを継承した事が関係があるのでしょうか。とにかくこの人には一分の隙も見当たりません。徳川軍の先鋒は直政以外考えられません。
ただ、歴史の主役になかなかなれないのが残念ですが、脇役としては天下一です。
>ぴすけさん
正確な資料が無いので(人の心の中の事ですので当たり前ですが・・・)断言はできませんが、やっぱり幼い頃の苦労は直政の性格形成に響いたと思いますよ。

彦根では井伊直政を誇りにも思っていますので、嬉しいお言葉です♪
よし様
井伊直政に関する詳しい解説、拙者もとても参考になります。
さすがよし様、大変よく勉強されていて、感服することこの上無しです。

<正則が激怒しない程度の少数ですっぱ抜き、一番槍の名誉のみは徳川家にもたらした

実は先般関ヶ原へ足を運んだ折、このことが非常に疑問になって気にかかっていました。本当の意味で先陣を切ったのは、井伊直政なのか福島正則なのかって。
やはりそうですよね。徳川譜代の家臣が開戦の火蓋を切ったという実績が無ければ、後世への示しがつきませんからね。
筋からいえば、井伊直政が一番槍(一番鉄砲)の名誉を徳川にもたらしたというのが本筋でしょう。
大変勉強になります。これからもいろいろ御教示くださいませ。

ぴすけ様
徳川四天王にも名を列せられ、山県昌景が率いた武田最強騎馬軍団を受け継いでいることからも、やはり関ヶ原における先陣はこの人であると考えるのが筋かと思いました。
>かわちゃんさん

僕も気になっていたところの一つがそこでした。
あとは、なぜ井伊直政が先陣に立ったのに、本多忠勝は本陣に居たのか?
と言うのも大きな疑問だったのですが、本多家本隊は中山道組の中に居たと言う事がわかったのも収穫でしたよ。
よし様
そうですね。同じ本多一族のひとり本多正信や、井伊直政と同じく徳川四天王の一人に列せられている榊原康政は第二次上田合戦の折参謀として徳川秀忠軍に従軍し、真田昌幸・幸村親子篭る上田城を攻撃しています。
もっとも本多正信と榊原康政は、昌幸の実力を侮ってはならぬと、上田城攻撃をせずに、まっすぐ関ヶ原へ急ぐべしと秀忠に進言しました。
しかし、秀忠は一向に聞き入れず、上田城を攻撃してしまいます。
このため秀忠は足止めを喰らって、関ヶ原の合戦に間に合いませんでした。
でもこれは徳川家康にとってはすでに計算ずくで、有力な武将を中山道組に加えることで、自軍の勢力を次なる戦いに備えて温存したと考える見方もあります。
そういう意味では、これまた同じ徳川四天王の一人で、本多一族の有力な武将、(54回戦に出て傷一つなかった)本多忠勝を家康はいつまでもそばに置いておきたかったのではないでしょうか。
ですから本多忠勝本隊の大部分を秀忠軍に従事させることで、忠勝を危険の少ない家康の本陣に置いたという見方もできるのではないでしょうか?

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐のかしらに本多平八」
>かわちゃんさん
家康の手紙を読む限りでは、直政に目付を任せていたのに直政が病で倒れたために、中山道組に従事していた本多忠勝が代理として急遽東海道組に参加したようです。

直政の病気が治って東海道組に追いついた時には忠勝は中山道に戻るより、両軍合流を待ったほうが早かったようですね。

どうも、中山道組は遅参した訳ではなく、東海道組が早すぎた・・・
だから、秀忠に対する叱責は軽かったそうです。


ちなみに、真田昌幸は切腹になる筈でしたが、信之が直政に懇願して、家康と信之の直接面談の場に立ち会った直政は家康が「昌幸切腹」の指示を出す前に信之に「助命」の返答をしたのだとか。
信之は感激して退座し、その後に家康が直政を責めると「今、信之に恩を与えた方が徳川家にとって有利です、もしこの決定を覆されるなら私は責任をとって徳川家を去る事になります」と言ったそうです。
よし様
ありがとうございます。井伊直政が関ヶ原直前に病気をしていたとは知りませんでした。それで代わりに本多忠勝が目付けとして東海道組で関ヶ原に赴いたのですね。

東海道組の進軍確かに早かったですね。徳川軍の為に掛川の城も領地も明け渡した山内一豊などの影響も大きいのでしょうか。

直政の徳川における実力ぶりが大変よくわかりました。
そして信之の実直な人柄と、これからの時代の趨勢を見抜いて、昌幸を助命した分析力と判断力、直政なくしては徳川はありえない。
そこまで進言できる井伊直政の人格にますます惹かれるものがあります。

大変勉強になりました。
>かわちゃんさん

関ヶ原の戦後処理が西国が井伊直政・東国は榊原康政が窓口と決まっていたのに真田信之はあえて直政に交渉したところに直政の政治手腕を垣間見れるのかも知れませんね。


こう言った事を知ると、直政にも新たな興味が沸いてきちゃいます。
私も、常々、直政の徳川家への功績は武勲によるものと同じくらい内政、外交によるものが多いと思っていました。
もし、これが、若くしてなくならなければ、おそらく、あそこまで本多正信親子の台頭はなかったかもと思うぐらいです。
>teruさん
確かに、直政が早く亡くならなければ本多親子の台頭は無かったかもしれません。

でも、同時に井伊家が大老の家になる事もなかったと思いますよ。


直政が早く亡くなる事で右往左往の末に次の藩主は次男の直孝となりました。長男の直継が藩主を継いだままだと幕府は権威を与えなかった筈ですので…
今日、2月1日は井伊直政の命日です。
この1年間で特に新しい情報が増えた訳ではありませんが、ちょっとしたことから初めてお墓に行けるチャンスがこの前ありましたので(って、今まで行かなかったのか?というツッコミは無しでお願いします・汗)、今回はちょっと回顧してみました。
今日は朝から清凉寺と長松院と井伊神社にお参りですね。
しかし清凉寺って入ったこと無いけどお参りできるんかな?
鬼作左との家康から名馬を賜ったときの後年のエピソードで底意地の悪い人間と書いてある書物等もありますが、またそこも人間臭くていいですね。
『謀才は有るが詐略の類を好まず』
潔いが、長命であったとしても、もしかしたら他の四天王と同じ道だったのかなとも思わずにはいられないところです。
>fuzziさん
根本的には許可が無いと入れませんが、囲いがある訳でもないので案外入りやすかったりします。

>ぴすけさん
長命でしたら他の四天王と一緒だったと僕も思いますが、直孝のような例もありますので難しい所ですね。
ただ、大坂の陣が終わった後に直政が生きていたら、彦根藩は井伊家では無くなっていたことでしょう。

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