ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

その時歴史が動いたらコミュの【仮説001】関が原で徳川家康は殺害されていた

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ココナツさんよりこのような仮説が出されていました。家康が殺害されていたとする説は巷間に流布されているようです。

1.家康=生臭坊主説
今川義元が”桶狭間の戦い”で敗れると、当時松平元康と名乗っていた家康は今川家から独立。その時に願人坊主というものが元康を殺害、彼が家康を名乗る。

2.関が原殺害説
家康は関が原で暗殺されるが、その際家康の影武者だった世良田二郎三郎元信がそのまま家康として江戸幕府を設立。

まずココナツさんの説明をお伺いしてから関が原暗殺説を検証していきたいと思います。

【写真左】徳川家康像
【写真中】三葉葵(管理人製作)
【写真右】神棺が収められている墓所

コメント(11)

●資料
影武者徳川家康
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

徳川家康の影武者説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E5%BD%B1%E6%AD%A6%E8%80%85%E8%AA%AC
参照URLの提示をありがとう!
そう、これは隆慶一郎さんの影武者徳川家康のお話なんですね。

関が原合戦の寸前、家康がいつもとちがう、とても変な行動をとるのがきっかけ。
徳川実記という文書によると、
合戦直前、野々村某の馬が近づいてきて馬の尻が家康にあたりそうになって、それにむかついて家康は門名某を旗指し物ごと切りつけちゃいます。いくらなんでも合戦前に味方をきりつけるだろうか?ってのがアイディアの発端らしい。
実はこれは刺客に襲われたことをごまかす記述であって、そのときさされたのは影武者のほうではなく本物のほうだったということから始まります。
その後、家康が替え玉だったと考えると納得いく話がいくつもいくつも出てくるんですね。

どれも状況証拠なんでしょうけど、とっても信憑性に満ちています。
1人2役説というのは例えば「源義経=ジンギスカン」みたいな説がありますね。この場合の証明方法として高木彬光が書いていたのが結構記憶にあるのですが、2役をAとBとすると確か次のようなものだったと思います。

(1)AとBが同時に確認されないこと。
(2)AとBの容姿がよく似ていること。

さて今回の場合は2人1役説ですね。これは結構成立が簡単かと思いますが、問題点を整理してみます。ここでは「D(徳川家康)とC(影武者)がE(徳川家康)だった」とします。

まず表面的な問題ですが、DとCは1人2役説よりも容姿が極似していなければなりませんね。それからDとCがEとして同時にいてはならない。これも当たり前ですね。どうやら説を読むとCは異母兄弟であった、ということですが、これですと確かに他人よりも容姿が似ているという可能性は高いですな。

さてさて。

問題はDとCの違いがかなりあったということですね。例えばDはCに極めて似ている行動をとる必要がありますね。これは1人2役説にはない条件です。であるとするとなぜ後世の学者に指摘(行動が違いすぎる)されるような行動をDは採ったのか、というのが一つの疑問点になります(疑問点1)。ただ事例として関ヶ原で斬り付けたという例しか知りませんので他の事例を挙げてくれると助かります。

もう一点。影武者はかなり戦国時代にいたらしいですね。代表的なところで山内一豊には五人の影武者がいたことが公文書で明らかになっているらしいのですが、これは極めて稀な例のようです。基本的には影武者は記録に残らない、というのが通説のようです。しかし徳川家康の場合歴史を代表するような英傑であったわけです。このような人物が影武者だったとして色々問題があると思います。まず影武者であったとして一体どのレベルの家臣たちがこの事実を知っていたかということです。もしEがDとなった場合家臣団はDの政策に従うことは考えられませんね。つまり関ヶ原後政治は基本的に家臣による政権運営が行われたはずです。そのような事実があるのか、というのが次の疑問です(疑問点2)
さて家康の関ヶ原以降の動きを見てみましょう。

1600年 関ヶ原の戦い  
1603年 右大臣。征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。  
1603年 右大臣辞任   
1605年 征夷大将軍辞職
1614年 大坂冬の陣  
1615年 禁中並公家諸法度制定  
1615年 武家諸法度制定  
1615年 大坂夏の陣  
1616年 太政大臣     
1615年 薨去

基本的には豊臣家臣団同士の戦いというのが関ヶ原の位置づけであり、関ヶ原で大勝したからといってすぐに将軍宣下を要求するとは思えません。ちなみにこの時は秀吉薨去からまだ5年です。特段早いとも思えないのですがどうでしょうか?また恐らく2年で隠居し秀忠に将軍職を譲ったことが恐らく疑問の一つなのでしょうが、この時まだ豊臣秀頼は健在であり、徳川家による将軍職の独占を目論んだとしたら当然のことかと思います(疑問点3)。
次が最大の疑問点なのですが、どうして家康薨去の後、神にされたか、という点です。因みに武家の棟梁で神(東照大権現)としてここまで信仰された人物はいませんね。また久能山に1年間葬られたと言う点も疑問として残ります。徳川政権のオーソライズが目的であったとしても久能山の1年間の埋葬は意味が不明ですし、日光東照宮の造営もDだとしたらここまでの配慮がされるでしょうか?(疑問点4)。
ワクワクする疑問点じゃないですか!

しかし、これらを説明するには本多弥八郎の一向一揆での家康との反目の話もしなくちゃならないし、徳川秀忠が冷血残忍な男という話も必要だし、柳生ムネノリ、宗冬、ギセン、兄弟の話もしなくちゃならないし、石田光成と島左近の話もしなくちゃならない、さらには正体を知ったであろうお梶の方と本多忠勝の話、あと上ナシというクグツの民の話も必要。家康の子供としての松平タダテルと伊達政宗とスペインの関連やら、タダテルと秀頼の人間関係や、金山の大久保長安の話とかにも及んじゃいます。記憶の中だけでは書ききれないのでもう一度読み直ししたり、調べたりと時間がかかりますがよろしい?またはほかの誰かが応えてくれるかな?
うんうん、時間は一杯あるからゆっくりまとめてくださいませ(・∀・)。こういうのは正確なデータとそれに対する疑問点という形が一番楽しいと思われますw。

できれば質問に答える形で進めていけばいいと思います。他にもこんなことが、とかいうことになると大変ですw。枝葉末節の事象よりも仮に徳川家康が影武者だったら全ての説明は可能なわけですからそういう形がよろしいと思いますw。
とりあえずゆっくりやっていきますわ。このトピに関しては、正確かどうかよりもおもしろいかどうか、ロマンがあるかどうか、わくわくするかどうかという観点で話を進めると思います。どうぞよろしく。

慶長五年九月十五日午前四時

大垣城の石田三成が突然、関が原方面へ出陣した知らせが入り、東軍全軍関が原への強行軍となった。
冷たい雨の中、伝令である野々村四郎衛門は寒さで鳴る歯を食いしばりながら耐えている。突然、野々村の馬を引く男が馬の口を引きながら野々村ごと隊列を外れた。「何をする!はなさんか」瞬間、槍で喉を一突きされ絶命した。男は野々村の衣服をすべてはぎ取り自分の身につけて完全に入れ替わった。
男は島左近勝猛の部下、元は武田の忍、甲斐の六郎。島左近に家康の首を持ってくるように命じられていた。

午前六時

「あれを見よ」家康が指差した。
「南宮山の毛利、松尾山の小早川、藤古川台の大谷、このいくさ、殿の負けでござる」影武者の二郎三郎は正確に家康の知識をコピーしており、驚くべき推察力を持っていた。
「せがれがここにいてくれたら、ずいぶんとましだったろうに」
「中納言さま(秀忠)のことですか?」
「あやつではないわ!」
その頃3万8千の兵を率いて関が原に向かう秀忠は、2千人がこもる信州上田城の真田昌幸に、いいようにあしらわれ、関ヶ原へは数日遅れることになる。

関が原は雨の代わりに濃い霧で覆われていた。
家康はすぐ間近に死神が控えていることも知らずに悠然と椅子に腰掛けていた。
合戦は今にも始まろうとしている。

甲斐の六郎はこのとき100メートルの近さに迫っていた。
ただ、家康の周りには近習たちが何十にも控えているので、うかつに近づくことは不可能のように思われる。

午前八時

布陣が完了して一時間、家康は焦り始めた。
何かの動きが出てもいいはずだがまだ動かない。
家康は生来のクセとも言うツメかみを始めた。二郎三郎は影武者であるため、この癖すらもまねしなくてはならないのだが、家康と並んで座りながらもこの癖だけはまねしなかった。
霧を通して甲斐の六郎がこの二人を見ていた。

「爪をかむ方!」

島左近からこの家康の悪癖について聞かされていた。
皮肉にも影武者の方が落ち着いているのはこの一戦に賭けるものが小さいためである。
銃声がした。方角は北西。
ついに戦が始まった!家康は馬にのり、ときの声をあげる!

「今だ!」甲斐の六郎は馬の腹を蹴った。馬を急がせて家康に近づいていくところを、誰もが使番として家康に呼ばれた野々村四郎右衛門としか見なかった。六郎は流れる霧にまかせながら家康に近づき、ついに家康の左脇にでた。

二郎三郎がちょうど家康の左へ並ぶところだったが、小姓の門奈助左衛門の馬が左外から家康によりすぎていたため、間に割って入る形になり、わずかに出遅れたところへ六郎の馬が横様に食い込んだ。
「使番の野々村!」二郎三郎がそう思った瞬間、六郎は右手で槍を抜いた。六郎の右半身は二郎三郎の目の前にあり無意識に刀を抜き六郎に斬りつけたときには、六郎の武器はすでに家康を正確に指していた。わずか一拍の遅れで二郎三郎の刀は、風でなびいた門奈の旗指物を切っていた。

徳川家の公式記録ともいうべき『徳川実紀』の作者は上記のやりとりをこのように書いている。
「野々村四郎右衛門某あやまりて、君の御馬へおのが馬を乗りかけしかばいからせ給ひ、御はかし(刀)引き抜いて切はらせ給ふ。・・・中略・・・これ全く一時の鋭気を発し給ふまでにて、後日に野々村をとがめさせ給ふこともおはしまさざりしとぞ」
合戦が始まったばかりの時点で、一方の総大将が自分の部下を切ろうとしたのである。馬を乗りかけてきたからという理由で。血気にはやる若い大将ならまだしも、59歳の歴戦の武将が「一時の鋭気を発し」というにはまことに苦しいいいわけで、関ヶ原を扱った記録小説などのほとんどがこの短いエピソードを書いている。それはなぜか?理由はその異様さにある。通常の解釈を拒否する異様さが、このエピソードを省いてはならんと告げるからである。

つづく

隆慶一郎 「影武者徳川家康」より抜粋
初めてまして。ぼくも昔隆慶一郎の「影武者家康」を読んで感動しました。正史よりも真実に近い、真実の様に思います。関ヶ原の戦前後で別人の様に変わってますよね。確に人は色々な事をきっかけに変わります。しかし、関ヶ原の戦 豊臣の家臣同士の争いに勝ったという時、未だ天下人に成った訳でも無いのに、今迄あんなに慎重だった家康が変わるでしょうか?更に慎重にも慎重に事を運ぶ筈です。性格が変わったのが、徳川の幕府を開いてからならつじつまが会うように思います。で家康は関ヶ原の戦で影武者に代ったと思います。余談ですが、その延長で家光は影武者家康の子供じゃないかと思ってます。陰湿な秀忠の子供に後を継がせるよりも、影武者家康は実子に継がせようとするはず。家康が影武者替わった事を知っている周りの重臣が許すかどうかですが。
うーん 私も影武者読みましたが お話としてはおもしろかったけど本当とはおもえなかった。 井沢元彦の 隠された帝とか高木彬光の義経=ジンギスカンのほうが本当ぽかった。
豊国大明神 の先例もあり  勝ったから盛大に祭られてるわけでーーさらにもがりの知識は持っていたんだろうと思います。  人間年取って先がみえてくると自分のいきてるうちに決着つけたいとも思うし  人が変わったように気が短くなる。
とまあ反論を書いてしまった。反論書いたからといって総攻撃しないでね。お手柔らかに願います。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

その時歴史が動いたら 更新情報

その時歴史が動いたらのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング