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上田合戦コミュの☆第1次上田合戦−概要

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1585(天正13)年8月、北条氏への沼田城明け渡しを突っぱねた真田昌幸を討伐するために、徳川家康が鳥居元忠らに攻撃させた戦い。
この第1次上田合戦は、神川付近での戦闘で徳川方に大きな損害が出たことなどから「神川合戦」とも呼ばれる。(第2次は神川合戦とは呼ばない。)
兵数は徳川方が約8500人に対し、真田方は約2000人と言われている。

               ☆

1585(天正13)年春頃、徳川家康は北条氏と同盟関係を結ぶため、真田昌幸に北条氏へ沼田城を明け渡しするように迫る。

7月、昌幸は上杉氏に次男信繁(幸村)を人質として差し出し、上杉真田同盟成立。

7月下旬、家康は命令に逆らった昌幸を討伐するため、鳥居元忠らに出撃命令を下す。
遠江から主力部隊が出撃してきた徳川方は、上田小県の東部に位置する八重原に陣を置く。

8月2日開戦。
真田方が徳川方を迎撃有利な場所に誘い込んで袋だたきにする戦術で大打撃を与え、上田城の昌幸と砥石城の長男信幸の連携でさらに追い打ちを掛け、徳川方は上田東方の神川を命からがら渡って逃げた。

昌幸が神川中流に作った簡易ダムによる放流で、撤退中の徳川方が大勢流され溺死。
(もともと増水していて、そこを徳川方が無鉄砲に渡り始めたため、溺死者が多く出たという説もあり。)

8月3日、徳川方は体勢を立て直すため八重原まで陣を後退。

8月20日、徳川方は真田氏の家臣である丸子三左衛門が守る丸子城や尾野山城も攻めたが、真田氏援軍の上杉方が前面に出てきたこともあって陥落せず。

9月、北条氏が手薄になった沼田城を攻める。
上杉氏は人質の信繁(幸村)のお供である矢沢頼幸(昌幸の従兄弟)を沼田に返して、さらに沼田に援軍を送る。

9月29日、北条氏直の軍勢が沼田から撤退。

9月下旬、徳川方は小諸城に陣を移して、佐久・諏訪方面の安定を図る。
徳川方の援軍である井伊隊約5000人が小諸に到着。

しばらく膠着状態になる。

11月13日、家康の重臣である石川数正が徳川方を裏切って秀吉方になり、徳川方の情報が秀吉方に筒抜けになる状況が発生。
家康は体制建て直しをよぎなくされ、真田攻めの全軍を小県郡から遠江に引き上げさせる。

その後、秀吉が仲立ちになり、昌幸は再び徳川氏の家臣になる。

               ☆

信之は勝利を沼田城代に手紙で伝えた。
その中で”去る2日に国分寺で一戦を遂げた事と徳川方を1300人討ち取った”と書いている。
ちなみに、徳川方の大久保彦左衛門忠教は、徳川方の死者を300人だったと書き残している。
真田方の死傷者は40〜300人程だったと言われている。

昌幸は、秀吉に徳川氏からの攻撃について直接交渉しており、石川氏の出奔はそうしたなかで起こった。
第一次上田合戦終了後、次男信繁(幸村)は上杉氏から抜け出して、秀吉の直臣になった。

※上記文章は今後、訂正・改変をする可能性有り

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