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トランスパーソナル心理学コミュの〈解放〉から〈抑圧〉への転化について

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宗教 にせよ、マルクス主義 にせよ、「これこそが世の中を良くし、人々を解放する」と考えられて始まり、広まった思想(そこには科学・技術も入るかもしれない)が、なぜ、 抑圧 の悪夢を産んでしまうのでしょうか?
(これは僕が学問や哲学・思想に大きな関心を持ったキッカケの1つでもあります)

この問いかけに応えるために始まった、現代思想やスピリチュアル(ニューエイジ・精神世界)さえ、既にそうなっているかもしれない。

そこには、一般化できる機制・メカニズムはあるのでしょうか?

ここの皆さんは、どうお考えですか?
トランスパーソナル心理学やインテグラル思想に、何か参考になる研究や考察はありますか?

コメント(19)

「自分が持ってるものこそ真理なんだ」という気持ち(あるいは思い込み)ばかりが高じて、あらゆる人への敬意や愛情がその人の中に真に育まれていないために、「自分こそ正しい」「自分こそ絶対だ」という気持ちをおびやかす相手が現れると、途端に攻撃心が頭をもたげてしまうのだと思います。また、本人においてはその瞬間的変貌にさえ気づいていないことが多い。
>>[1]

あくまで比喩としてのエントロピーなんですが、混沌を秩序づける時に、言葉・ロゴスが関係してくるのかもしれません。

>それがどのような思想であれ、思想が広まること自体が抑圧を生む

となると、トランスパーソナル心理学やインテグラル思想も含んだ、思想という営み自体に悲観的になってしまいそうですね🤔
>>[2]

>あらゆる人への敬意や愛情がその人の中に真に育まれていない

あらゆる人へ、ですか。
これは、大変難しいことですね。
僕は全然、自信がありません…

絶対的正義や絶対的真理はあるのか、疑わしいですが、相対的に見た場合の部分的正義・部分的真理はあるのではないでしょうか。

それが正当に理解・評価されていないと思った時、きちんと主張することは良いことなのではないでしょうか?
湯川秀樹やアーノルド・ミンデルもでしたが、言葉・ロゴスやノモス(秩序)への懐疑を早くから表明していた老荘思想に人気があるのも分かる気がします。
ただ、これも抑圧に転化してしまった歴史(例えば、禅宗と太平洋戦争)があるようですから、「老荘バンザイ!」とは言えないかもしれません。
>>[6] 補足

ブライアン・アンドレー・ヴィクトリア
『禅と戦争―禅仏教は戦争に協力したか』(光人社 2001年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4769810008/
新装版『禅と戦争』(えにし書房 2015年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4908073198/
https://mixi.jp/view_item.pl?id=604761
 思想・思議に依らない認識力を開くこと。これがチラとも垣間見た体験が見性。9年ほど前、老師に「なんでこっちが話してもいないことわかるのか?」って質問したら「自我って作り物が失せると相手そのまま全部写るからわかるよ」ってさ。
生命の法則が10あるそうで、
その筆頭に、能動変化の理法というのがあります。
能動変化とは、種から芽吹く。集団から逸脱する。膠着状態を打開する最初の一歩です。

生命の法則は、人間的な考え方というのを超えて、普遍的に働き生命活動の全体を行う。
それらの新たな閃きから生まれた思想や理想も、元はといえば、おそらくはそういう、生命の声から生まれたものだったというのがあるのだと思います。

しかし、その後が、うまく発展しない。どうしても我々人類が、生命という本質で生きようとしない、人間都合の勝手な生き方に堕ちてしまう傾向がある。
そういう単純なことだと思います。

トランスパーソナル心理学も、始まりはそういう、生命の声からだと思います。
とても新しいので、まだまだ超新星爆発の勢いが続いていて、変な膠着状態に落ち込むまでには間があるように思うので、
しっかり活用して、生きた学びとして広く役に立てて行けると良いと思っているのですが。
生命の声は、
知識では解らなくとも、直感で大きく事実を捉えますよね。

そして、どうしようもなくそれが真実だと解ってしまう。
でも説明が出来ないんです。

そんな、大きく捉えたものを、現世に下ろして来る時に、
「思想」とかいう形に変換、翻訳する。

だから、その理論だけを講じてもその本質には至れない。

その辺りがそれらの理想と現実のパラドックスでもあると思います。
 宗教ってのは、大雑把に云うと「Something Great」(人智を超えた偉大なもの)を信じ、何らかの修行法等によって、自己の向上や幸福を目的とします。ところが、「信は不信の始まり」と云われる通り、教典・経典の解釈や捉え方によってどんどん分裂した戦乱・紛争などの歴史があります。

 「信じるか、信じないか」の思想判断の二択ではなく、「それ」を「自身が・如何にして・確信するか」という<解放>的手法・具体的実践・指導者が必要となります。実際、普段の日常生活に手一杯だと、ヒトの本来持っている知覚(五感や観察力)の鋭さにはなかなか気付かないものです。トラパの伸びしろはそこにあると思っています。
>>[10]
すみません間違えました。
生命の法則が10あるのではなかった。
生命の法則は、一つです。
それは、「無限に成長発展する」

10あるのは、そのためにこの世界が現されている、その活動の為の摂理法則でした。
10本の指があるように、10の理法を大自然の中に探して悟れと啓示されているらしいです。

宗教の問題は、精神的な問題のように見えて、実は現世的な利益を求めてしまっていることだと思われます。

この世を如何に生きるか。
でも生きるとは、この世のことよりも、更に大きなことであり、
この世とはそのために現された一時的な空間だとすれば、
宗教という問題の前提が危うくなる。

生きる為に思想が必要なのか。
教義が必要なのか。

私達は、生命の全体の中で、一体で活動を行っている。
そのことに目覚める時、
全ての学びも思想も、
必要ではなく楽しみの一つのなるのではないでしょうか。
お互いの考えを面白がり楽しみ合えば、
別に人種民族思想宗教で争う必要など無くなりますからね。
よくある喩えでしょうか、

河を渡るのに小舟を用いた。
向こう岸に着いたのにまだ
その小舟を抱えて歩こうとしている・・・

思想や宗教といった分野では過去から
こういったことが幾度と無く繰り返されて
様々な問題を生んできたと思います。

日々を新たに生き、その体験に固執せず、
日々に手放し(死んで)また新たに生きていく・・・
そんな心境に至れなければ難しいのかな、
と思います。

『既知からの自由』とクリシュナムルティが
説いていましたなぁ (*_*;
本当にこれは難しい問題ですよね。善であるはずの思想や教義を持つ集団がいつのまにか独善的で排他的な集まりになるという現象。
人間が集団化すると、それを維持するために何故か階級が出来、規則が出来ていきます。
そこらへんからどうも内にも外にも対立構造が生まれるような気がします。
対立構造を生まないような仕組みを考えればいいのかもしれません。
今、思いつくのは
出入り自由であること。他人の自由を妨げない事。自然発生的な住み分け。
ぐらいですかね。よくわかりません。
深く考えていけば、対立を生み出すのは、結局一人一人の人間の心の中にある他人や自分に対する恐れや信頼の欠如が遠因ではないかと思いますね。
自分の心一つをとってみても思い当たることは多々あります。
だからこそ、「汝を知れ」と賢者が口々に言うのだと思います。




 

>>[4]

>絶対的正義や絶対的真理はあるのか、疑わしいですが、相対的に見た場合の部分的正義・部分的真理はあるのではないでしょうか。それが正当に理解・評価されていないと思った時、きちんと主張することは良いことなのではないでしょうか?


もちろん、この分別なしではやっていけない世界において、「そういう理解の仕方より、こういう理解の仕方のほうがいいんじゃないか」とお互いが話し合い、意見交換することは、自分の見えていなかったことに気づかせてもらったり、新たな視野へと導いてもらえることもあるから、とても大切なことだと思います。
私たちお互いが胸襟を開いて、かつ、お互いを尊敬しながら話し合えば、私たちは学び合いながら、さらによい成長と世の中の建設に力を合わせることができるだろうと思います。
一般化出来る機制・メカニズムはあるのか。

そうですね。体験上で、こうかなというのはあります。
それは、「言語に頼らないこと」

言葉を尽くすと、人間都合のロジックが入り、理を曲げて理屈になり、
それは大概、全体には通用しない、一部の者にしか通用しない理論になりますから、
通用範囲に外れる者を異端にしたり、
逆もしかりですが。

でも、言語を使わずに、どうしようもなくこうなのだという、
どうしても譲れない気持ち同士で気持ちを通わせると、
それほど真ん中を外れない、
何かの生命を尊重するのにそれ以外を軽視するような、
何というか偏ったというか身勝手というか、
そんな風に走って行ってしまうことが少ないように思いました。

しかし、それはかなり気持ちといっても霊的に深い使い方なので、
各地の先住民文化では普通なコミュニケーションだったのではないかと思いますが、
文明人にはかなり難しいものになる用にも思います。

文明って、霊的なものをマスキングしてしまって行く傾向があるのでしょうかね。
何か意味があってそういう傾向を帯びるのか、
良く解らないので今は棚上げにしています。

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