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山田風太郎コミュの「戦中派不戦日記」と作家風太郎の繋ぎ目

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mixiのなかに「風太郎ファンクラブ」があるとは、知りませんでした。うれしいですネエ。早速、お仲間に入れていただきました。よろしく、おねがいします。
 山田風太郎は、いろいろ濫読してきました。推理,怪奇作家として、楽しいと思います。
しかし、この人を見直したのは、第1に「人間臨終図鑑」(上下)でした。資料豊富で,読んで面白いですね。
 第2ーと言うより、これが小生の推す本命なのですが、「戦中派不戦日記」(講談社文庫)。本名・山田誠也の東京医専在学中の日記です。凄い知性派であり、熱血青年でもあったのです。これ、もっと読んで欲しいですね。
 山田誠也と風太郎の繋ぎ目は、どこにあるのかー研究したい。ご存知の方、ご教示ください。

コメント(19)

日本の知識人は戦時中自分が考えたことそして自分の行動を戦後になって修正する例が非常に多いですが、山田風太郎は当時の自分の考えと行動の記録をそのまま本書として表しています。

本書は「反戦」日記ではなく「不戦」日記であり、現代史としてそして一人の青年の精神遍歴の記録として高い価値を持ちます。

それにしても文章が上手ですね。とくに文語体の部分。いくら後年作家として立つだけの文才があったとはいえ、国語力が低下した現代では考えられないくらい巧みです。

この山田青年がいかにして山田風太郎たりえたのか。気になるところではあります。
昔そのあたりをテーマにして論文を書いた事があります。
データが紛失しまして原本がどこかにいってしまったので細かくは覚えていないのですが、笠井潔が『探偵小説論』で書いていたことを敷衍していった記憶があります。
個人としての意思を国家の意思に共存させられないというのが、戦中における山田誠也青年を悩ませる最も大きな悩みの一つであったと思うのですが、それがようやく一つとなりかけた矢先に敗戦を迎えてしまうわけですよね。
この反動というものが非常に大きかったと思うのです。
実際、しきりにその後の作品では、太平洋戦争の責任の所在を問うような主題が見え隠れしてきます。
つまり自分達が一生懸命に我を殺して国家に属そうとしたのは一体なんだったのか。そうした憤りが一つ筆を執らせる契機となったのではないかと思います。
もっとも、これだけでは、何故文筆を選んだのかの積極的な理由を説明出来ないのですが。
そのあたりは、戦前から使用していたペンネームである山田風太郎を継続したことと絡めて考えると、一つ何らかの光明が見えるのではないかとも考えられます。
 東京医専の学生、山田誠也の敗戦翌日、昭和20年8月16日の日記の最後は、次のような恐るべき予言的な言葉で結ばれています。
 「敵が日本に対し苛烈な政策をとることを、むしろ歓迎する。敵が寛大に日本を遇し、平和的に腐敗させかかってくる政策を、何よりも恐れる。戦いは終わった。が、この一日の思いを、永遠に銘記せよ!」−と。
 これは凄い見識だと思うのですが、この言葉と、戦後の山田風太郎の作家活動はどう繋がっているのか。
「別人」のようにも思えますが、ここが繋がっていないと、
作家としての存在価値が疑われるのではないでしょうか。
風太郎の作品で貫かれているのは、国家や集団の大義や理論というのがいかに、個人の感情や幸福を押しつぶすものであるか、という命題だと思います。

たぶん、それは戦時中からも感じていたものでしょうし、戦後に補完されたものでもあるのではないでしょうか。
鯨酔パパさんの指摘はその通りだと思います。

そして、その内容をもっともストレートに表現したのが、
「幻燈辻馬車」など、明治ものや、
それに先行する幕末ものだと思います。

これらの作品は、
司馬遼太郎などの、歴史上の人物を英雄視する視点と
まったく逆方向にあると思います。
単なる無常観ではなく、国家とか集団・組織というものに対する不信・疑問ですよね。
忍法帖のころから既にその傾向はありましたが、幕末・明治ものによりはっきりと出ていると思います。(先頃NHKで放映した三國連太郎が山田風太郎の日記を朗読した番組によると、どうも大量の太平洋戦争関係の戦記を読破したのが明治もの執筆の直前あたりのようです)

「山田、列外へ!」と言われ続けた10代の経験を、自分なりに昇華したとも言えると思います。
シャンさん
山田風太郎をマンガにされたのは、愉快ですね。

売れましたか?
イーサン太郎さん
東京医専の学生時代の言語体の日記の文章がすごいですね。
敗戦当日の8月15日の日記は「帝國、ツイニ敵ニ屈ス」と、たった1行、万感を込めて9文字に終わっています。

しかし、敗戦前日の日記は400字詰め原稿用紙に換算して、30枚以上。「あと千日耐えよ。血と汗に咽びつつも耐えよ。日本人の糸が切れかかっている。政府の腰が砕けようとしている。これを食い止めなければならない」と、怒り、嘆き、綿々と書き綴っています。

 敗戦翌日の16日の日記も、原稿用紙にして40枚以上、書きまくっている。当日の1行をはさんで、3日間で「70枚相当」の日記を書いた人が、他にいたでしょうか? 恐らく、これは日本記録でしょう。

 このころ、すでにプロ作家並みの筆力を持っていたのです。
しかも、量産型ですね。

 だが、この純情青年、山田誠也がどういう経路で忍法作家に変身して行ったのか、それが小生には不思議でならないのです。

やはり、「忍法」でしょうかねエ。
がいこつさん
彼は戦前から「山田風太郎」のペンネームを使っていたとの記録があるのですか?

それで、何処に、何をかいていたのでしょうか?

山田誠也の戦時中の日記からは、ちょっと信じられません。
シャンさんのマンガのなかに、なにかありますね。

かれの「不戦日記」以前の経歴を示す作品なり、文書なりが、どこかにあるのでしょうか?

ご存知の方がおられたら、ご教示ください。
シャンさん

失礼しました。お許し下され。

山田風太郎マンガ、一部拝見。
「創作ノート」「読書ノート」など拝読。

いや、いや、お詳しい。
小生など,生かじり。何も知らなかったのです。
お恥ずかしい限り。

脱帽です。

ちょっとだけ申し上げれば、「不戦日記〉で、誠也が
「飯田決起」を志して挫折します。
小生、その隣県の山間部の中学2年生。

軍国少年でした。
当時、もし知っていたら「一番に参加したのに・・・」
というのが、率直なおもいです。

「一緒に死んだのに」という気持ちで誠也青年に共感したのです。

小生の関心は、それだけでした。
あなたのノートを手引きに、勉強したいのですが、
小生もold man で、残り時間が少ないのじゃ。

悪しからず。あなたのようなファンがおられれば、
誠也青年も、もって瞑すべし、だね。
誠也青年がいかにして忍法作家になりしか、という答えにはなりませんが、山田風太郎が忍法帖第1作『甲賀忍法帖』(昭33)を執筆した直接の契機は『妖異金瓶梅』(昭29)にあったようです。
以下、山田風太郎Wikipediaより引用。

“『妖異金瓶梅』の後、同じく四大奇書である『水滸伝』を翻案しようと試みるが、108もの武術を考えるに至らず、かわりに忍法という名の奇想天外な術を創作、1958年に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りに、安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた、いわゆる忍法帖もので一世を風靡する。”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A2%A8%E5%A4%AA%E9%83%8E
>眠狂四郎さん
山田誠也青年は兵庫県立豊岡中学校時代、寄宿舎寮にいたのですが、そこでかなり色々なやんちゃをしていたそうです。
後年『天国荘綺譚』として書かれるエピソードの何割かは、実話だそうでして、実際寮の屋根裏に秘密の部屋を作り、そこに煙草を持ち込んだりして厳しい校則の合間で息抜きをしていたとのことです。

「死にどき」の世代であった誠也青年の受けた教育というものは、それこそいずれは兵士として死地に赴くことを前提とされていただけに、過酷を極めました。
この時てらぽんさんがご指摘されている通り、「山田、列外へ!」と言われた経験が大きく後を引き、戦争に積極的に参加できないという葛藤を内心で抱いていくことになると思うのですが、それはともかくといたしまして、そうした厳格な体制のもとで悪事を行うとあれば、当然行動は名前を呼び合っていては危険でしかたないわけで、その際につるんでいた仲間達で用いられた符号が「風」「雨」「霧」「雷」だったそうです。
この内、「風」が誠也青年にあたるのは申し上げるまでもありません。

その頃、中学生にとって映画を見るというのは、教育以外の場では厳禁であり、映画館に入る姿を見られただけで厳罰を受けるという状況でした。
これに疑問と憤りを覚えました山田誠也は、「映画朝日」という雑誌にその不条理を訴えかける「中學生と映畫」という一編の文章を送付します。ただ、そんな文を書いたことが学校側に知れれば、やはり罰は免れないということもありまして、その際に初めて筆名を使用します。
これが悪童達の間での通り名をもじった「山田風太郎」であり、その使用の初めてということになっております。

これはシャンさんが仰られておりますように、『風太郎千年史』に収録されておりました。

またこのあたりの由来につきましては、やはり『風太郎千年史』に収録されております、講談社版『山田風太郎全集』の月報「風眼帖」か、

「風太郎由来」(『死言状』角川文庫)
「私のペンネーム」(『風眼抄』中公文庫)

にも書かれております。

また誠也青年は戦前に懸賞金目当てに創作小説も何編かものしておりまして、それぞれ

「石の下」(「受験旬報」昭和15年2月上旬号)
「鬼面」(同昭和15年4月号)
「三年目」(同昭和15年10月号)
「陀経寺の雪」(同昭和16年1月号)
「鳶」(同昭和16年3月号)
「白い船」(同昭和16年4月号)
「国民徴用令」(「蛍雪時代」昭和17年5月発売号)

となっております。
この内「国民徴用令」以外は光文社文庫版『山田風太郎ミステリー傑作選10 達磨峠の事件』に収録されております。
「国民徴用令」は以前このコミュの別トピックでも話題にあがりましたが、山田風太郎研究を行っておられます「風の会」の機関紙「風の谷から」第8集に掲載されています。

「国民徴用令」だけは春獄久(しゅんごく・ひさし)という名前を使って発表し、それ以外は山田風太郎名義と思われます。ただこれらにつきましては、同じ人間が何度も受賞するのは望ましくないということで途中より名前を変えたという話も残されておりますので、いくつかは別名義の可能性は残ります。

以上長々と失礼いたしました。
いや、いや、皆さんの詳しい。
がいこつさん、熱心なご教示、アリガトウございます。

小生は「戦中派不戦日記」に執着していたのが、恥ずかしい。

ただ、山田誠也学生が信州で決起するなら「小生も参加したかったのに・・・」という思い。これだけは、真実です。

山田誠也は中学時代、けっこう「悪ガキ」だったのですなあ。
懸賞小説書いていたのも,日記の筆力に出ていますね。

しかし、全く「無力の存在」のような書きぶり、やっぱり忍者的素質があったのでしょうかなあ。

東条大空襲への怒り、これはすさまじいですね。
こういう怒りを率直に表現した人は、あまりいないんですね。

高見順の日記などはとは、大分、違います。小生は山田誠也青年の方を高く評価します。
>がいこつさん
私の粗い意見にも触れていただいて恐縮ですm(__)m
また、素晴らしいまとめだと感服しました。

>眠狂四郎さん
失礼ながら、そのお年でインターネットばかりかmixiまでご利用とは驚きました。

私は怠惰な若輩ではありますが、山田誠也青年が、長じて江戸川乱歩に「山田くんは何をやるかわからん人だ」と瞠目させるほどの作家になった(最初からそうだったのか、ある時点で変わったのか、それとも少しずつ変わったのか)要因を、しつこく考えています。
その答えのヒントは、作家の人生ではなく作品のほうにあるのではないか、とも思っています。

僭越ですが、『同日同刻』は読まれましたでしょうか。事実の列挙と言えばそれまでの書籍ではありますが、その取捨選択に山田風太郎のセンスが光っています。『不戦日記』も一部引用され、「その当時の自分」も含めた太平洋戦争のドキュメントになっています。
また、もし未読でしたら『人間臨終図鑑』もおすすめします。あの戦争に関わった歴史上の人物の「死に方」も多く収録されていますので、山田風太郎がその人をどう評価しているか、がかなり鮮明になり、ひいてはあの戦争をどうとらえていたか、も浮かび上がると思います。

がいこつさんの見事なまとめの後に蛇足で失礼いたしました…
>てらぽんさん
いえ、私は、単にデータを集めただけでして、そんなお褒めをいただけるようなことはしておりませんです。

『同日同刻』をお挙げになられておりますので、それに類した作品としまして「わが推理小説零年」もまた作家としての山田風太郎形成期を知る重要な資料として紹介させていただきます。
やはり『風太郎千年史』に収録されております作品ですが、「昭和二十二年の日記から」という副題が示します通り、「達磨峠の事件」が「宝石」新人賞の佳作を獲得した年の日記を抄録したものです。
初出が「小説推理」昭和49年8月増刊号となっておりますので、『戦中派不戦日記』刊行の翌年ということになり、風太郎としても何らかの感慨をこめて発表したものではないかとも思われます。
このあたり『戦中派闇市日記』と比較されますと、作家としての山田風太郎が日記を公開するにあたって、何を選び何を落としたのかがわかってくるのではないでしょうか。

落としたと言いますと、『戦中派不戦日記』の12月9日の記述と、『戦中派焼け跡日記』昭和21年1月17日の記述が重複しております。
以前、山田風太郎記念館に問い合わせましたところ、これは風太郎自身の手によって1月17日に起こった非常に印象的な出来事を『不戦日記』に挿入して示したいがために推敲された結果であるという回答をいただきました。また、どうやら前後の移動はここだけにとどまらないとの話も聞かせていただいております。
このあたり、単なる記録ではなく、作家山田風太郎の一つの作品として『戦中派不戦日記』を読む手掛かりになるように思われます。

また山田風太郎と同い年では水木しげると鶴見俊輔がいます。これら二人の戦争観と比較していくとまた新しい視点が開かれるのではないでしょうか。(もう一人瀬戸内寂聴も同い年なのですが、女性としての戦争観など安易に比較するには少々難しい問題があるようにも思えます)
>水木しげると鶴見俊輔
おお、なるほど。先年亡くなった岡本喜八も同世代で、共通したものを感じます。
がいこつさん
てらぽんさん
 いろいろご教示、ありがとうございました。

「人間臨終図鑑」上・下(徳間書店)
「同日同刻」(文春文庫)
  
 これは、いま、手元にあります。
「同日同刻」はご教示によって、入手したものです。膨大な参考資料から収集したデータの集積で、最初の1日(太平洋戦争
開始の昭和16年12月8日)と、最後の15日間(敗れた昭和20年8月1日ー15日)を克明に描いています。

これは、もっともっと高く評価されていい労作だと思うのですが、意外に知られていませんね。同書の「解説」で、現代史の研究者である保阪正康氏が、山田風太郎の「戦中派非戦日記」を高く評価しておられるのは、興味津々です。

「人間臨終図鑑」は小生もいろいろ活用させていただいておりますが、山田風太郎という人は驚くほど博学ですね。最後は収集した山のようなデータに埋もれて、身動きもできなくなっていたのではないでしょうか。

余談になりますが、立派な装丁のこの上下二巻は、徳間書店の徳間康快さんから贈呈されました。そのころ小生は、ちょうど「ガン」の宣告を受け、ピンチに直面していたのです。
勤務先ではなく、いきなり自宅へ直送されてきたぶ厚い本の題名に、ぎょっとしましたよ。

それで2,3年は読まないで、積んでおいたのですが、あるとき必要があって覗いてみると、すっごく面白い内容ななので、
大切な愛読書になってしまった次第です。

「戦中派闇市日記」
「戦中派焼け跡日記」
「風太郎千年史」

上記の本の入手方法ご存知の方おられましたら、ご教示下されば幸いです。

★山風はその問題意識、社会感覚からいえば、同世代の作家、文化人の中で指折りの存在であったと思います。忍法・怪奇小説は第一人者で、それはそれで立派なのですが、そのために、この人の社会的な存在価値が正当に評価されていない感があるのは、残念でなりません。

                    old boy

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