さらにここで、1700年前後に現れるヴァイス家の親戚と思われる人々について述べておく。
18世紀にザルツブルグ(Salzburg)でリュートとヴァイオリンを製作していたヤコブ・ヴァイス(Jakob Weiss)。さらに私の頭にこびりついて離れないのが、リュート奏者フィリップ・フランツ・リサージュ・リシェ(Philipp Franz Lesage de Richee)という名前だ。
この1695年刊「リュートの小展示室」(Cabinet der Lauten)に収録されている作品は、どう見てもフランス風ではなく、新ドイツ風の演奏や作曲の技法がかいま見え、それに特有の作曲様式や、興味深い類似性があることからみて、シルヴィウス・レオポルト・ヴァイスが若い頃まさしく模範としたかも知れない作風なのだ。さらに考えさせられることがある。それはWeissという名前がフランス語にされている(フランス語のLe Sage=der Weiss, 「賢明な」)と同時に、Lesage作の「リュートの小展示室」の曲集では「Philipp Francisci Lesage d R」「Philipp Franz Le Sage de Richee」などとその名前が様々に、イタリア語、フランス語、ドイツ語が混同して別型で記されている(脚注13)。シルヴィウス・レオポルト・ヴァイスはフランス人ではなく(脚注14)まさにドイツ人なのだが、17世紀まで、リュート奏者といえばフランス人が他を圧倒していたので、フランスでリュートの修行をし、他の音楽家のまねをしてフランス語風の名前にしたのだろうと考えられる。
さらに私の推測は「リュートの小展示室」の序文にSchlesien地方の語法表現があることに裏付けされるように思える(脚注15)。以上のことから、Lesage(Weiss?)はSchlesienが生誕、成長の地だったと思われる(脚注16)。その実名がWeissやWeise(Weis)であるか、またはこの書で取り扱うヴァイス家の一員であるかどうか、いまだにはっきりとしない。これ以外にLesage de Richeeに関して私が調査したものは、別の形で発表するつもりだ。
B.Folin作の銅版画自画像(脚注17)ではSilvius Leopold Weissが1686年10月12日にBreslauで生まれたとされている。しかし、これはこれまで疑問とされている。というのは、1750年の埋葬記録には66歳で死去した、と書かれているので、1684年に生まれたことになるからである。Breslau在、ルター波教会記録簿に基づき個別調査を幾つかの方法で行ったのだが、現在まで部分的にしか判っていない。(脚注18)
この作曲家の消息に関するものを、時代順に並べてみよう。その際Volkmanns(前述書で)確認した事実と、新しく知ることが出来た事実を幾つかつけくわえることにする。
1706年
Silvius Leopold Weissはデュッセルドルフ(Dusserudorf)にいたことがSonate Nr.1(ソナタ第1番)[作品目録参照]の自筆記入からわかる。それには「Von anno 6. in Dusserdorf.ergo Nopstra giventu Comparisce(1706年、デュッセルドルフにて、それゆえ、青年は我々の目にとまるようになった)」とある。(脚注19)
次の教授活動からみて、すでに20歳の時には優れたリュート奏者であったことは間違いない。