ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

S.L.ヴァイスコミュのヴァイス家の系譜

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
第1章 ヴァイス家の伝記について
 
シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(Silvius Leopold Weiss)とヨハン・シギスムント・ヴァイス(Johann Sigismund Weiss)の父親より前の世代の出身や祖先については、現在今なお全く分かっていない。とは言え現在、父親ヨハン・ヤコブ・ヴァイス(Johann Jacob Weiss)の誕生地については推定、または確認されていると言って良い。
 それより以前のヴァイスという姓について、私はストラスブール(Strassburg)に住んでいたウルバン・ヴァイス(Urban Weiss)という姓を見つけている。その初版,1556年ストラスブールのヴォルフ・ヘッケル(Wolff Heckel)から刊行された「高音域(ディスキャント)リュート曲集」(Diskant-Lautenbuch)と「中音域(テノール)リュート曲集」(Tenor Lautenbuch)
の表題には「Urban Wyss 計算親方」Urban Wyss/Rechenmeisuter.と記載されている。
 作曲または編曲によるそのリュート曲は、1556年初版の「テノールリュート曲集」では「スイス舞曲 sibentaler,Urban Wyss作」schweitzer Tantz,der sibentaler genannt,von Urban Wyss.と題され1562年版では名前が書き換えられて“Urban Weiss”となっている。
 
この家系については、今までエルンスト・ゴットリープ・バロン(Ernst Gottlieb Baron)(脚注6.)による次の短い記載だけがよりどころになっている。

『現在活躍中のご子息の尊父は、リュートとテオルボに造詣深い音楽家だった。その令息シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス氏とシギスムント・ヴァイス氏、並びに現在プファルツ(Pfaltz)の牧師と結婚されている令妹は、この楽器を完璧なまでの完成に導いた。その兄弟姉妹の中でもとりわけ最年長のシルビウス・レオポルド氏は作曲の才能に恵まれている。次男はそれほどの才能はない、とは言ってもやはりヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴァイオリンの演奏や作曲に優れている。』
 
 シルヴイウス・レオポルトについては、すでにたくさんのことが知られている(脚注7.)とはいえ、兄弟達の消息に関しては1723年頃のマンハイム(Mannheim)宮廷リュート奏者ヤハン・ヤコブ・ヴァイス(Johann Jacob Weiss)とヨハン・シギスムント・ヴァイス(Johann Sigismund Waiss)の事についてだけ知られているが、推定の域を出ていない。(脚注8)
シツヴィウス・レオポルト・ヴァイスとその妻にカトリック式葬儀がいとなまれたので、リュート奏者の家系ヴァイス家は間違いなくカトリックに帰依していたというのがこれまでの考えだった。だが、私の調査では何代にもわたってルター派の信者だったことが分かった。マンハイムの福音派牧師の多くの登録簿(脚注9)や質問照会状への回答から、シルヴィウス・レオポルトの父とヨハン・シギスムントの時にそうなったことが分かった。


専門的過ぎてこのコミュにふさわしくなければ削除してください。
また脚注など省略してありますし、翻訳の正確さも保証の限りではありません。(笑)
ここまでの記述でもコンチェルトは、シギスムントの作品である可能性をうかがわせますね。
ここから先、Weiss家の各人についての説明になります。

以下、次回ご紹介します。

コメント(8)

>セバスチャン・ラウテさん
早速のご報告ありがとうございました!
ヴァイス家は昔からリュート奏者の家系だった可能性が高そうですね。
ヴァイスもバッハと同じくルター派の信者であったという点も興味深いです。バッハとの交流を解き明かす手がかりにもなるでしょうか?
次回以降も楽しみにしております。

追伸
誠に勝手ながら、トピックのタイトルを「ヴァイス家の系譜」と改めさせて頂きました。内容を分かりやすくするための措置ですので、何卒ご理解くださいませ。
トピックタイトル、了解しました。

以降の書き込みを理解しやすくするため、S.L.Weissの年表をまとめておきました。参考になるでしょうか。


Silvius Leopold Weiss(シルヴィウス・レオポルド・ヴァイス)

B.フォリンによるヴァイスの銅版画肖像にある記録によると、S.L.ヴァイスは1686年にブレスラウ(Breslau)で誕生したとされます。しかし1750年の埋葬記録によると、66歳で死去したと記載されているので、逆算すれば1684年の誕生と言うことになります。
その後のヴァイスの経歴について、明らかになっている事を列記しておきます。

1706年(20歳)  デュッセルドルフでPfalz伯爵に仕えており、すでに優れたリュート奏者としての評価を得ていた。

1707年 ローマに定住していたポーランド王子の伴奏者としてローマに行く。

1714年 仕えていたポーランド王子の逝去で、ドイツに戻る。

1715年 再びデュッセルドルフ宮廷に仕え、選帝候室内音楽家の地位に就く。

1717年  デュッセルドルフ宮廷に仕える身分でありながらも、すでにドレスデン宮廷の仕事も兼任していたと考えられる。(ドレスデン宮廷俸給支給記録による)

1718年  ザクセン選帝候およびポーランド王室室内音楽家として仕える。

1719年  ウイーンに滞在する。同年よりドレスデンに滞在。

1723年  カール4世及びボヘミア王位継承戴冠式のためプラハに滞在。

1724年  保養のためテプリッツに滞在。ライプチヒにJ.C.ホフマン(リュート製作の名工)を訪ねる。

1728年  ポーランド王に随行しベルリンに滞在。

1738年  ヴァイスは法を犯した罪で突然逮捕されるが、ヴァイスの後援者、カイザリング伯爵の尽力で間もなく釈放される。

1740年  再度ライプチヒに滞在。

1744年  晩年の10年に関しては記録がほとんど残っていない。わずかに1744年に国王がヴァイスの俸給を、最高ランク1400ターラーに引き上げたという記録が残っている。

1750年  ドレスデンで死去。ルター派の信者ではあったが、カトリックのホフ教会(Hofkirche)に埋葬された。教会の埋葬記録によると、「S.L.ヴァイス氏、王室付き室内音楽家、10月16日死去、19日埋葬。年齢66歳」と記されている。
    
>セバスチャン・ラウテさん
わかりやすい年表、ありがとうございます。
逮捕されたことがあったとは初耳でした。
今後とも参考にさせていただきたいと思います。
逮捕の理由が分からないのが残念ですが、釈放に尽力した「カイザリング伯爵」は、当時のドレスデンの音楽の世界では重要な人物でした。バッハの後援者でもあり、このあたりがバッハとヴァイスの出会いに一役かったような気がします。
   ヨハン・ヤコブ・ヴァイス(Johann Jakob Weiss)
        S.L.Weissの父

1662年 誕生?。誕生地不明。

1690年 (娘の洗礼時に洗礼記録簿によれば)ブレスラウ(Breslau)在のリュート奏者「ハンス・ヤコブ・ヴァイス」Hans Jakob Weiss Lautenist.との記載がある。Schffgotsch伯爵に仕えていたと考えられる(脚注10)。この洗礼名簿から、その妻はアンナ・マルガレータ(Anna Margaretha)という姓だった事がわかるが、旧姓は書かれていない。

1723年 リュート奏者ヨハン・シギスムント・ヴァイスと共にマンハイム宮廷にいた。

1726年 ヨハン・シギスムント・ヴァイスの結婚に際し、父親でありリュート奏者として、
    マンハイムのルター派教会婚姻記録簿(1726年169bページ)に記載。

1737年 孫のヨハン・ヤコブ・ローレンツ・ヴァイス(Johann Jakob Lorenzu Weiss)に洗礼名を付け、「選帝候室内リュート奏者、及び子供の祖父」と記載した記録がある。(1737年マンハイムルター派教会洗礼記録簿)

1754年 1月30日、マンハイムにて死去。2月1日埋葬。マンハイムルター派教会埋葬記録簿(1754年33bページ)には、さらに「前選帝候Carolo Philippo殿下の宮廷室内楽奏者、享年92歳」と追記されている。
 ここでさらに一言付け加えておく。孫が1737年に上述した洗礼を受けた際、ヨハン・ヤコブ・ヴァイスと同世代の親戚が立ち会ったことが明らかになり、「Weinheim在住のChurpfalz長老会役員および検閲官であるヨハン・ローレンツ・ヴァイス、及びその最愛の妻ジュリアン・マルガレーテ(Juriane Margarethe)と記載されている。

バロン(Baron)の著でのみ、幸いなことに著名なリュート奏者の父親とほのめかされてい
ることから、このように事実として固定したが、なおヨハン・ヤコブ・ヴァイスについては、まだわずかしか判明していない。
その息子であるシルヴィウス・レオポルト・ヴァイスがリュート奏者として独り立ちし
た1706年にデュッセルドルフ(Dusseldorf)(脚注11)のKurpfalz宮廷に仕えていたか、あるいはそれ以前に別の宮廷に仕えていたかについては判然としない。かなり後、61歳の時に、その息子ヨハン・シギスムントと共にマンハイム宮廷に登録されている。現在まで、その作品は一曲も知られていない。
 
>セバスチャン・ラウテさん
第2回ありがとうございます。
ヨハン・ヤコブはシルヴィウス・レオポルトよりも後に亡くなっているのですね。
1737年の記述を額面どおりに捉えれば、75歳でなお現役リュート奏者だったということになりますが、実際はどうだったのでしょうか…
ヨハン・ヤコブとシルヴィウス・レオポルトは早い時期から別々の場所で活動している一方、ヨハン・ジギスムントとは共にマンハイムの宮廷に勤めていますね。父子の関係はこの後どうなるのか、ヨハン・ジギスムントの回を楽しみにしています。
ヴァイス家の系譜・第3回

 さらにここで、1700年前後に現れるヴァイス家の親戚と思われる人々について述べておく。
18世紀にザルツブルグ(Salzburg)でリュートとヴァイオリンを製作していたヤコブ・ヴァイス(Jakob Weiss)。さらに私の頭にこびりついて離れないのが、リュート奏者フィリップ・フランツ・リサージュ・リシェ(Philipp Franz Lesage de Richee)という名前だ。
この1695年刊「リュートの小展示室」(Cabinet der Lauten)に収録されている作品は、どう見てもフランス風ではなく、新ドイツ風の演奏や作曲の技法がかいま見え、それに特有の作曲様式や、興味深い類似性があることからみて、シルヴィウス・レオポルト・ヴァイスが若い頃まさしく模範としたかも知れない作風なのだ。さらに考えさせられることがある。それはWeissという名前がフランス語にされている(フランス語のLe Sage=der Weiss, 「賢明な」)と同時に、Lesage作の「リュートの小展示室」の曲集では「Philipp Francisci Lesage d R」「Philipp Franz Le Sage de Richee」などとその名前が様々に、イタリア語、フランス語、ドイツ語が混同して別型で記されている(脚注13)。シルヴィウス・レオポルト・ヴァイスはフランス人ではなく(脚注14)まさにドイツ人なのだが、17世紀まで、リュート奏者といえばフランス人が他を圧倒していたので、フランスでリュートの修行をし、他の音楽家のまねをしてフランス語風の名前にしたのだろうと考えられる。
さらに私の推測は「リュートの小展示室」の序文にSchlesien地方の語法表現があることに裏付けされるように思える(脚注15)。以上のことから、Lesage(Weiss?)はSchlesienが生誕、成長の地だったと思われる(脚注16)。その実名がWeissやWeise(Weis)であるか、またはこの書で取り扱うヴァイス家の一員であるかどうか、いまだにはっきりとしない。これ以外にLesage de Richeeに関して私が調査したものは、別の形で発表するつもりだ。


ここの部分は、なかなかミステリアスで面白いと思いました。
では、次回に続きます。
ヴァイス家の系譜・第4回

シルヴィウス・レオポルド・ヴァイス
(Silvius Leopold Weiss)

 B.Folin作の銅版画自画像(脚注17)ではSilvius Leopold Weissが1686年10月12日にBreslauで生まれたとされている。しかし、これはこれまで疑問とされている。というのは、1750年の埋葬記録には66歳で死去した、と書かれているので、1684年に生まれたことになるからである。Breslau在、ルター波教会記録簿に基づき個別調査を幾つかの方法で行ったのだが、現在まで部分的にしか判っていない。(脚注18)
この作曲家の消息に関するものを、時代順に並べてみよう。その際Volkmanns(前述書で)確認した事実と、新しく知ることが出来た事実を幾つかつけくわえることにする。

1706年
 Silvius Leopold Weissはデュッセルドルフ(Dusserudorf)にいたことがSonate Nr.1(ソナタ第1番)[作品目録参照]の自筆記入からわかる。それには「Von anno 6. in Dusserdorf.ergo Nopstra giventu Comparisce(1706年、デュッセルドルフにて、それゆえ、青年は我々の目にとまるようになった)」とある。(脚注19)
次の教授活動からみて、すでに20歳の時には優れたリュート奏者であったことは間違いない。

1707年 
ほぼこの時(というか、間違いなく1706年か、それ以前より)デュッセルドルフにおり、Walther(1714年刊の事典のKropfgansによる記載事項には「Pfalz伯爵に仕えている」とあり、さらにそこでリュート奏者Joh.Kropfgansの父が「25歳になる前に」S.L.Weissからリュートを教授されていたと記載されている。

1708年~1714年
 Baron(既出)は次のように述べている。「1708年頃、S.L.Weissは王子Alexander Sobieskyに付き従ってイタリアに行った」とある。ローマに定住していた、このポーランド王子(1677年生まれ〜1714年11月19日ローマで没)の伴奏役を務める為であった。当地で様々な貴族の邸宅で演奏し、その驚嘆すべき技量を披露した。(脚注20)
したがって(イタリア語で)「ローマにて作曲」と書かれた、ソナタ第2番はこの時に書かれたものにに違いない。


1715年以降次回に続く

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

S.L.ヴァイス 更新情報

S.L.ヴァイスのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング