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懐疑論者の集い-反疑似科学同盟-コミュの疑似科学と科学

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疑似科学とは何か、
疑似科学と科学の線引き

等についての議論用のトピックです。

コメント(79)

>28
>Kさん
科学的な態度と、その行為が科学的であるかどうかは、別問題だと思いますよ。
例えば、お祈りで病気が治ったとしても、祈りのやり方を工夫して治り具合と検証するのは、科学的な態度かもしれませんが、科学ではないですよね?
同じように、何の理論の検証も無しに、ロウで固めた鳥の羽を体につけて何度飛んでも、それは科学ではないです。
>24
そういう意味だったのですか。
私は字面通り受け取ったのですが。
なるほど「問題設定が誤りであるか極めて不適切」ですか。
その発想はありませんでした。まだまだ未熟。

ROMしながら自分でももう少し考えてみようと思います。
お邪魔しました。
>41 ぽじとろんさん
自分のスタンスを先に表明しなかったことが紛らわしくしてしまった感があります。
すみませんでした。
>41 ぽじとろんさん
自分のスタンスを先に表明しなかったことが紛らわしくしてしまった感があります。
すみませんでした。
>ワカシムさん
すべての
「科学っぽいこと」(雑把な言い方ですが、科学か擬似科学かその他(略)に分類する前のことです)について
「はっきりと分類できるような結論」を求める限りは
「問題設定が誤りであるか極めて不適切」
であるというご意見はそのとおりではないかと思います。

ですが、「科学である」と「95%(くらい)の人」がいえる範囲(およびその他の定義)というのはおおよその線引きはできるのではないかと思いますがいかがでしょうか?
この場合、グレーゾーンはいっぱい残るでしょうが、白(に近い)黒(に近い)「多少」はっきりさせることはそれなりに意義があることではないかと思います。
>40
とりまんさん。
別問題でしょうか?
科学的な態度や手続きそのものが、科学のような気がしています。
たとえば、先のロウで固めた鳥の羽で云々、を使ってお話しをさせて頂くと。
伝説を元に実験をしてみる事自体は、非科学だったのでしょうか?
当時、確たる否定する理論もなかったわけですから。
その実証精神は、充分科学的に感じますが(シュリーマンでしたっけ?)。
その実験のあげく、この方法では飛べないと判り、他の人後の人たちがムダ足を踏まずにすむようになる。
この方法では不可能、という事を証明する事も科学だと思います。
科学って、そういう積み重ねなんじゃなかったですかね。
それで、人はどんな方法をもってしても飛べないんだ、と結論づけてしまったら非科学でしょう。
どんな方法をもってしても、のところが。
いやいや実際、鳥だって虫だってタコだって飛んでいるのだから、何か方法があるはずだ、と研究を続けた成果が、今日のさまざまな航空機であり、そのメカニズムを研究したのが航空力学なんじゃないでしょうか?
msg44さぶ様
>すべての
>「科学っぽいこと」(雑把な言い方ですが、科学か擬似科学かその他(略)に分類する前のことです)について
>「はっきりと分類できるような結論」を求める限りは
>「問題設定が誤りであるか極めて不適切」
>であるというご意見はそのとおりではないかと思います。

ここまでは、おそらく多くの人から合意が得られると思っています。

 改めて整理すると、

 「未発見の科学理論も含め、潜在的に存在する全ての"科学か疑似科学か判定しうる命題"に適用可能な基準や定義」
 を求めるような問題設定が間違いであるか不適切である。
 
 という部分ですね。
 (原理的には可能かもしれませんが、不必要に複雑にならざるを得ない)

 >「科学である」と「95%(くらい)の人」がいえる範囲(およびその他の定義)というのはおおよその線引きはできるのではないかと思いますがいかがでしょうか?

 線引きからは離れて「疑似科学」という概念についての、おおよその意味や文脈が理解できるような説明は、必要と思います。
 
 そして、そういった程度の説明をした場合に、意見が分かれるポイントが

 「とくに「科学を自称」「科学に見せかけている」が、「疑似科学」概念の必要条件のひとつとする立場と、そうでない立場があるように思います。 」
 
 という部分でした。

 前者を狭義とし後者を広義とし、一般的には前者の意味合いが強い。というのが私の見方です。

 それ以外の元となる部分の説明は、どれがいいか判断が難しいところではありますが、特徴を列挙する既存の解説が無難だと思います。(それは線引きではなく用語説明のレベルになってしまいます)

ちょっと回りくどいですが、私は次の説明に準拠した解説を採用しようと思っています。

 疑似科学(Pseudoscience)

広義
 蓋然性が「明白に誤り」といえるほど低いか、全くのナンセスであり、かつ一般に認められる科学の要件を満たしておらず、認識論上、科学と同じ議論領域にある主張。

狭義
 上記に加え、科学を自称するか、科学を装うことが条件になる。

 狭義の疑似科学そのうち、自己欺瞞や詐欺的な目的のために、科学を自称し、実害のあるものを「ニセ科学」とする場合もある。
 「インテリジェントデザイン」や「水は答えを知っている」は、教育上の実害が出ているし、「マイナスイオン商品」や「波動ビジネス」は、金銭的な実害が生じている。これらは、一般的な評価では、被害者と加害者であるが、双方ともに善意と無知で自覚なく成立している場合もある。
 
 また、「相対性理論は間違っている」など、後に相対論が拡張理論にとってかわられても、再評価され得ない主張で、ナンセンスか、解釈がおかしいか、論理的に誤った数式が頻出するものを、「科学的疑似科学」と表現する場合がある。

 疑似科学の判断基準

 科学の体系的な知識と、疑似科学という評価に合意がある事例について、最低限の知識を有する者にとっても、疑似科学として評価するか意見が分かれる言明や、未発見の科学理論も含む潜在的に存在する、全ての「科学か疑似科学か判断しうる言明」に対し、適用可能な、一般化された線引き基準や定義を求めることは、安易な二分法であり、適切な問いかけではないと考えられる。
 したがって、科学と疑似科学の区別は、ある程度の知識を有する者により、各自の経験や知識に基づく、直感的な判断によってなされており、線引き基準を参照して判断されるわけではない。
 その主観的な評価でも「水は答えを知っている」や「マイナスイオン商品」などは、結果として、ほぼ全員が疑似科学と判断するだけの文脈を持ち、それだけの特徴を備えている。
 (主観的な判断なので、その判断が不適当な場合もあるが、疑似科学というレッテルが不適当だったと考えるべき実例は少ない。、)
 
 そういった性質の概念であるため、疑似科学(Pseudoscience)は、定義や判定基準ではなく、疑似科学とされる事例と、比較的顕著な特徴を列挙することによって、より深く理解される概念となっている。

という感じ
> 18 ざぶ(トリ)さん

亀ですが、順に。

> >>そういうものを疑似科学に分類することも科学に分類することも不都合なのです、本質的には科学なんですけどね。
> このあたりを掘り下げて論じていただければとおもいます。

私が未科学と分類しようとするものは、今しようとしている分類の精度を下げていって最後に「詐称」と「真面目」に二元化すると、真面目の方に入ります(二元化の線引きには他の地点もありです)。だから、本質は科学です。
万歩譲ってこれを疑似科学とすると「疑似科学のレッテルを張られても後に正しさが証明された事例はいくらもある」、科学とすると「オレサマの提唱するナニヤラも当然同様に科学である」とくるわけですよ、詐欺師は。ですから、後に押しも押されもせぬ科学に成長した分野の黎明期やその予感が捨てきれない事柄も、単純に科学カテゴリに埋没させるのではなくある程度標識しておいて、それと疑似科学がどのように似てもにつかないかということを突き付ける必要があるんです。

> まず、飛行機においては大成した理論ではないのではないかとおもうので、疑似科学に分類してしまう人が仮にいてもおかしくはないとおもうのですが。

これは、そもそも疑似科学の概念が調整範囲外に間違っている、という複数の指摘が出ており、私も同意見です。

> >当時の基準に照らしても
> このあたり、まず「当時」、つまるところ、時代により「科学か疑似科学」かが変化することを示唆されているように思えるのですが

疑似科学は徹頭徹尾疑似ですね。時代により変化する可能性のあるのは未科学と科学の境界で、これは時代とともに厳密になる方向にでしょう。知識の総量が増えて体裁が整い、科学のハードルは上がっていきます。
>45
>Kさん
すいません、「何度飛んでも」って言い方が紛らわしかったですね。
>40で出した例で言うと
「祈祷で病気が治る」=「ロウで固めた鳥の羽で飛べるという理論」→科学ではない
「祈祷の方法を試行錯誤する」=「ロウの量や羽を増やして飛べるか試行錯誤する」→科学的な態度
です。
このトピでの「科学」「疑似科学」「未科学」の定義が固まってないので、何に分類してよいか分からないので、「科学ではない」と書きました。

>46
>Shuさん
勉強不足で申し訳ありません。
ロバート・キング・マートンの科学社会学で良いでしょうか?
勉強してきます。
>例えば、お祈りで病気が治ったとしても、祈りのやり方を工夫して治り具合と検証するのは、科学的な態度かもしれませんが、科学ではないですよね?

お祈りで病気が治ったのですよね?なら、十分に科学なのではないですか?

>同じように、何の理論の検証も無しに、ロウで固めた鳥の羽を体につけて何度飛んでも、それは科学ではないです。

検証をしないのは科学的な態度とは言えないですね。

私は科学とは方法論を指し、結果や理論そのものではない・・・という立場に立ちますので、科学的な態度で扱っているものは科学であると思います。

まぁ、科学的な方法論となじまない現象(再現性が極めて乏しい等)がありますので、それまで科学的には・・・とか言い出すと逆に疑似科学だと思ってしまいますが。
>50

ご指摘の通り、紛らわしい言い方でした。
すみませんでした。
この文脈の場合、飛んだ(ジャンプorダイビング)より、飛ぼうと(フライング)した、の方が明快で、適切だったと思います。

祈祷の例が出ました。
病気治療の祈祷の場合で言うと、治らなかった場合と、祈祷が効いて治ったように見える場合があります。
治らなかった場合祈祷師は、それを認めなかったり、言い訳をしたり、実際逃げてしまったりしますが、これは、単なる非科学ですね。
言い訳が科学を装ったものであれば疑似科学。
また、データも集めず分析も検証もせずに、祈祷の全てがまったく効かない、と決め付けてしまうのも、科学的な態度とは言えないでしょう。
祈祷が効いたように見える場合もあるはずです。
その時、それは自然治癒かも知れないし、心身症だったのかも知れない。
実はその時使った薬草に、本当に効能があった場合もあったでしょう。
それを持ってして、祈祷は全て効くのだと決め付けてしまったら、非科学です。
まっとうな分析手順を踏まず、結果非科学的な説明で事足れりとしたり、科学を装ったりすれば、疑似科学になります。
医学よりも当てになるとか、だから科学は信じられないと宣伝するのなら、反科学になる。
それらのデータを集め検証し、なぜ効いたのか効かなかったのか、もっとよく効く方法はないか、と科学的に正しい手順を踏んで研究する事は科学でしょうし、現在の薬学を含む西洋医学も、そんな風に確立して来たのではないでしょうか。
どの場合でも、みんながそう言っているからとか、信頼できる人や権威ある人がそう言っているから、という理由や、ただなんとなく、なんて事で肯定したり否定したりするのは、科学的な態度とは言えませんね。
> データも集めず分析も検証もせずに、祈祷の全てがまったく効かない、と決め付けてしまうのも、科学的な態度とは言えないでしょう。

 科学という考え方からすれば、実証されていないことを「ないもの」として扱うのは、別におかしなことではないと思います。科学的な態度として許容できるんじゃないでしょうか。

 しかし、その態度のまま科学の枠を飛び出して批判すれば、「行き過ぎた否定論」として批判される対象になると思います。

 私は、「科学的態度」と「不適切な態度」というのは、別の軸で語られるべきことだと考えています。
52:Kさん

>また、データも集めず分析も検証もせずに、祈祷の全てがまったく効かない、と決め付けてしまうのも、科学的な態度とは言えないでしょう。

「全てがまったく効かない」と断言してしまえばそうでしょうね。

この例の場合は、挙証責任は祈祷が有効だと主張する方にあるので、それがされているのならば挙げられた証拠を吟味するのが科学的態度でしょう。

また、十分な証拠が挙げられていない場合、「その主張をまじめに取り扱うだけの証拠が挙がっていない」として却下するなら、科学的態度として許されるのではないでしょうか。
祈祷治癒の話はトラップとしては面白いですね。「非心霊的世界観が好みなので普段ぼろが出ない」だけの「逆位相のトリさん」を複数発見したような気がします。
LucifeRさま。
>55
諧謔(?)が過ぎる文章のせいか、私のような低能には皆目意味不明です。
噛み砕いて解説頂けませんか?
疑似科学批判者のつもりで話しているつもりだが、単にオカルト嫌いなだけの非科学的な人があぶり出されている様に見える。ってことなんでは?

祈祷治癒の話の場合、科学的態度っていうと、
・客観的治癒効果があるかどうかを統計的に検証する
・統計的に有為と判定された場合、祈祷のどの要素が治癒に効果的なのかを検討する
・その要素がどのように治癒に影響しているのかメカニズムを検討する
っていう流れになるんじゃないですか。

ホメオパシーの場合1項目目で否定されてたりする訳ですが。
じゃあ、祈祷だからといって、検証せずに否定していいわけじゃありません。

もちろん、非科学は非科学のままで放置しておくのはあり。科学を装った時はその装いが本当に科学的に正しい言説かは検証する必要はあると思います.
>じゃあ、祈祷だからといって、検証せずに否定していいわけじゃありません。

この辺、ちょっと難しいところで、厳密に科学の言葉で「否定」「肯定」を語る、つまり科学的に検証する場合には、おっしゃるとおりきちんと検証してから否定する必要があるわけですが、にゅーさんがおっしゃるように一般的な態度として実在する「祈祷治療」は「ないものとして扱う」つまり「否定的に扱う」のが正解なわけです。この場合そもそも科学の遡上にすら載せていないわけで、その前提となっているのは、「これまでの科学との整合性」ですね。

「肯定派が祈祷治療に肯定的なしっかりした科学的な統計データを揃えて来た」辺りで初めて科学的に取り扱う意味が出てくるわけで、それまでは「門前払い」でいいのだろうと思います。

この辺りの議論は水伝に関する田崎さんの議論が秀逸だと思います。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/#7
補足。

えっとつまり私の言いたいのは「否定する」と「否定的に扱う」は全然違うことで、その違いは社会問題としての疑似科学を認識して語る上ですごく重要な観点だと思います、ということで。
話が広がってしまったので、個別にレスできなくて申し訳ありません。

祈祷って書いたのが、話をややこしくしてしまったみたいですね。
重ね重ねすいません。
祈祷のような微妙な例に出すなら、ゆんゆん探偵さんのおっしゃられているような事を私が書いて、共通認識を整えるべきでした。
祈祷を出したのは、疑似科学=オカルトって脊髄反射しただけですので、それ以上の意味はありません。
祈祷では無く「夕食の内容と食後に振ったサイコロの出目に相関関係がある」の方が良かったですね。

私は51でアラスカ猫さんの言われている
>私は科学とは方法論を指し、結果や理論そのものではない・・・という立場に立ちますので、科学的な態度で扱っているものは科学であると思います。
の、「結果や理論が科学である」という立場です。
別の例で言うと、私はエーテルの存在は科学ではないですが、マイケルソンとモーリーの干渉計の実験は科学的であると考えます。

議論を読み返してみると、私の「科学」と「科学的」の使い方が良くなかったですね。
場を混乱させてしまって申し訳ないです。
このトピックに参加するには、私は勉強不足のようです。
Shuさんに紹介していただいた内容を勉強してきます。
>61
とりまん様。
誰もややこしく感じたり、混乱したりもしていないと思います。
少なくとも、私は楽しんでいますよ。
撤退したりしないで、もっと遊ぼ。

私も「科学」と「科学的」はキチンと使い分けていませんねー。
反省。

私は、結果はどうあれ、そこに至るまでの態度、手法、手続きこそが科学だと思っています。
連投失礼。
少し私の考えを整理して見ます。

その結果はどうあれ、科学的態度を持って、科学的に確立した手法を使い、キチンとした手続きを踏みながら検討されているならば、その検討過程は科学、だと思っています。
結果、否定されたとしても、その積み重ね自体が科学(のデータ・財産)。
取り敢えず保留に至る、もそこに至るまで科学的態度で当たって来ていれば、もう科学の中。

科学的態度を取らない、科学的に検討もしない側を非科学と呼びたい。
一般的には、科学で結果的に否定されたものや、科学的に検討する価値のないもの、と思われがちですが、私はそれを取らない。
検討されれば、科学の内だ。

非科学の中で、科学的手法(証明法)が間違っている(以上に述べた科学ではない)のに科学を装うもの、を疑似科学というのではないでしょうか。

また非科学の中で、科学を知ってか知らずか、科学ではないと、科学によっては解明できないのだ、と主張するのが反科学でしょう。

未科学の設定ですが…。
うまく言えないな。
これから科学になるかも知れないが検証待ち、な感じでいいでしょうか?
検討していない点で、非科学という気もします。
上記、検討中―保留なのを未科学とした方がいいのでしょうか。
これだったら、科学の内に抱えてもいいような気がしてきます。
科学的な検証法が確立され、厳密にかつ精密になっていくにつれ、科学のハードルは高くなっていっている。
もしかすると、過去の科学の事なのかも知れない。
> 61 とりまんさん

> 別の例で言うと、私はエーテルの存在は科学ではないですが、マイケルソンとモーリーの干渉計の実験は科学的であると考えます。

マイケルソン&モーリー以前、エーテルは十分に科学的な仮説でした。単に見込み違いだっただけです。それが科学でないなら重力子仮説も科学じゃありません。
61:とりまんさん
>エーテルの存在は科学ではない

なぜでしょうか?私はエーテル(マイケルソンとモーリーが探していたエーテル)の理論は科学であると言っていいと思いますよ、不幸にして現実と合っていなかっただけで。

科学ではないとする理由を教えてもらえますか?
>65
アラスカ猫さま。
とりまんさんは、結果論で科学かどうかを決定しているので、そうなっちゃうんだと思います。
>66

Kさま:

というか、「科学」と「科学的事実(scientific facts)」の混同ではないかと。
自分でも用語の整理が出来てなかったなぁ、と思うので私個人の用語の整理をば。

まず「科学」の定義ですが、人類の既知の範囲を拡張しようとする行為で、既知の合理的な方法を用いるものに限る、という作業仮説的な定義をしてみます。

次に「科学」は、「自然科学」と「広義の科学」に分類すべきでしょう。
「自然科学」については、「反証可能性」が確保されているものと定義します。
「広義の科学」は、「自然科学」を基本として「科学的な手法」だけを用いて拡張されたものと定義します。
とすると、「科学的な手法」の定義が必要になってきますけど、これは上記の作業仮説と同じで「既知の合理的な方法」という作業仮説的な定義をしておきます。

これで「疑似科学」は、「一見科学のように見えるけれど科学ではないもの」と定義可能になります。
また、個人的な定義ですが「ニセ科学」は疑似科学のうち、詐欺的な目的で科学を装うもの、という定義が出来ます。

本当に個人的な定義ですが、こんなもんでどうでしょう?
>「疑似科学」は、「一見科学のように見えるけれど科学ではないもの」
>「ニセ科学」は疑似科学のうち、詐欺的な目的で科学を装うもの

 主張する人の故意か過失かで区別するのは無理があると思います。
それで、私は、故意・過失を問わず、
・科学を装う(=通常人の常識で、科学であると誤認するおそれがある)
・科学でない
を「ニセ科学」の(仮)定義として議論を進めています。
>70: apj さん
>  主張する人の故意か過失かで区別するのは無理があると思います。

間違いと思われる部分を指摘してみて、修正しようとするなら過失で、無視しようとするなら故意で、議論しようとするならある程度の結論が出るまでは保留ということではいかがでしょうか?
「詐欺」てのは面白い視点かもしれないと考えたので、ちょっとやってみた。

詐欺てのは、「欺網行為」→「錯誤」→「処分行為」→「財物の移転」から成るわけで、
「欺網行為」… 一般人をして財物・財産上の利益を処分させるような錯誤に陥れる行為(前田『刑法各論』P.274)

よってニセ科学布教=「広義の欺網行為」と考えてみるとか。
「広義」てのは、直接処分を目的とした錯誤に陥れるわけではないが、処分の動機に必要不可欠で、且つ処分行為に繋がるもの、という意で。
本物の詐欺も、間に「善意の第三者」を咬ませることありますし(てゆうか、そうすることで話をややこしくする)、布教している本人の故意・過失は問わなくて宜しいかと。まぁ故意ならリアル詐欺ですが。

「言い出しっぺ又は布教者、中間業者に対して、不当な又は根拠ない利益を貢がしめる危険性」

それが有るのが「ニセ科学」、ないのが「疑似科学」、とか言ってみる。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7215
      ↑
あくまで、apjさんのエントリーの前段階における個人的区分けで。
それも、詐欺の「目的」というより「財物の処分」視点ですが。
(要は、科学的根拠なき利益提供に直結するのを「ニセ」と呼ぶのどうか、と)

で、該当するのが、水伝、右脳(七田)、船井総研、霊感商法、他。
該当しないのが、創造論、優生学、衝突する宇宙、他。
ただ、後者であっても、最終的には不当又は根拠ない財物処分にまで繋がる危険性はあるわけで。
ついでに、常温核融合などの微妙なモノは残りますし。
本筋とは離れるかもしれませんが、ざぶ(トリ)さんの話がどうも気になって。

揚力で飛行機が飛ぶのはまぎれも無い事実ですが、揚力の説明としてよく見かける「ベルヌーイの定理+前端で上下にわかれた空気流が同時に後端に達するから」とか「翼が下向きの気流を生むから」とかの間違った説明は「疑似科学」「ニセ科学」?
質問連続になってしまいすみません。
別トピの話でふと疑問に思ったのですが、
「観測系すべてが膨張している」とか
「この宇宙と人類ははより上位の存在の作ったセルオートマトンだ」とか
「実は私は溶液中に浮かび、配線でつながれた脳みそだけの存在なんだ」とか
「スパモン教」とか(含めていいのか?)

いわゆる「反証可能性」が確保されていない理論群の扱いについてです。
これらは「科学でない」ことは明白ですが、では何なのか。

・何かを売りつけようとか詐欺の要素があるなら「ニセ科学」「似非科学」

・いまは検証不能だが将来観測したりすることのできる可能性があるなら「未科学」

どれも当てはまらないように思います。
「一見科学のように見えるけれど科学ではないもの」 だから単に「疑似科学」?

私は疑似科学とすら呼びたくないようなレベルのものは単に「思いつき」と呼べばいいかと思っていますが、
「この宇宙と人類ははより上位の存在の作ったセルオートマトンだ」という例の話は実際の科学的な知見を多く取り入れており、
「反証可能性が確保されていないものは科学とは呼べない」という「検出キット」を備えていない人にとっては「科学的な話」と誤認させることが出来そうです。

これを「疑似科学」とするならば、「思いつき」(スパモン教etc)との境界線はどのあたりに設けるべきか。

なんだか議論のレベルを下げてしまいそうで恐縮ですが
このあたり皆さんどのようにお考えでしょうか?
科学とニセ科学をわけてどうしたいのか http://lagoonally.net/sciences_future/

で、どうせよと? ニセ科学は有害だから、撲滅したいだけなんだけど?
>[77]のリンク先のコラムは文章がうまくないのであれですけど、「情緒的な方面からハマッてしまった偽科学信者は、科学的なデータとの齟齬をいかに主張しても情緒的に反感を示すだけなので、正しいデータの提示はまだハマっていない人には有効だが、ハマっている信者にはハマるに至った情緒を解消する別のアプローチを考える必要がある」ってことではと思います。

懐疑論者の側が「これだけ科学的に正しいことを言っているのに理解しないなんて!」で終わりにしてしまっては有害なニセ科学の撲滅はかなわず、そのようなニセ科学を求める人たちの抱える不安や社会的問題を解きほぐす必要もあるのだろうと、人文科学系懐疑論者の私などは思っています。
科学とニセ科学のはなし|TAKESAN|note(ノート) https://note.mu/ublftbo/n/nb7ed1636a962

ニセ科学批判と呼ばれる営みを行うにあたってニセ科学という言葉をどのように扱うべきか - bluesy-kのブログ http://bluesy-k.hatenablog.jp/entry/2018/02/04/173324

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