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荘子コミュの3、道の枢(とぼそ)(1)道はどこに

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3、道の枢(とぼそ)(1)道はどこに
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夫言非吹也         それ、言うは吹くにあらざるなり。
言者有言          言う者、言あり。
其所言者          その言うところのものは、
特未定也          特に未だ定まらざるならば、
果有言邪          果たして言ありや。
其未嘗有言邪       それ未だかつて言あらざるや。
其以為異於鷇音      それ鷇(こう)音に異なりを為すをもって
亦有辯乎          また弁ありや、
其無辯乎          それ弁なきや。
道悪乎隠而有真偽    道はいずくにか隠れて真偽ある。
言悪乎隠而有是非    言はいずくにか隠れて是非ある。
道悪乎往而不存      道はいずくにか往きて存せざる。
言悪乎存而不可      道はいずくにか存して可ならざる。
道隠於小成         道は小成に隠れ、
言隠於栄華         言は栄華に隠る。
故有儒墨之是非      故に儒墨の是非ある。
以是其所非         その非とするところを是(ぜ)とし、
而非其所是         その是とするところを非とするを以ってす。
欲是其所非         その非とするところを是とし、     
而非其所是         その是とするところを非とせんと欲するなら、
則莫若以明         すなわち明を以ってするに若(し)くなし。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


▽(金谷治 訳) 
………………………………………………………………………………………………………………
そもそも、ものを言うのは、音を吹き出すことではない。
ものを言ったばあいには言葉の意味がある。
その言った言葉の意味がまだあいまいで落ち着かないなら、
はたしてものを言ったことになるのか、
それとも言わないのと同じなのか。
〔もちろん言わないのと同じだ。〕
それでも雛鳥の鳴き声とは違うとしたところで、
そこに区別があるのか、それとも区別がないのか。
〔結局、区別がない。そして、俗人の言葉にはこういったものが多い。〕
道は〔ただ一つの真実であるはずなのに〕いったいどうして真実と虚偽があらわれたのか。
言葉は〔もともと素朴であるはずなのに〕いったいどうして善し悪しの判断があらわれたのか。
真実の道はどこにでも存在しているし、
素朴な言葉はどんなばあいにも肯(う)けがわれる。
道は小さいでき上がりにとらわれることから〔真偽を生み〕、
言葉ははなやかな修飾にとらわれることから〔善し悪しを生んだ〕。
こうして儒家と墨家との善し悪しの論が起こり、
相手の悪しとすることを善しとし、
相手の善しとすることを悪しとしている。
相手の悪しとすることを善しとし、
相手の善しとすることを悪しと〔して、論争に勝とうと〕することを望むのは、
真の明智を用いる立場に及びもつかない。
………………………………………………………………………………………………………………


▽(岸陽子 訳)
………………………………………………………………………………………………………………
ことばは《うろ》から鳴りだす響きではない。
ことばには意味が含まれる。
とはいえ、その意味が不確定のものだとすれば、
ことばは成立するはががない。
そうなれば、ことばはヒヨコの囀(さえず)りとは異なるといってみたところで、
事実上、両者の差異はないことになる。
そもそも「道」には真偽の別が生じ、
ことばに是非の別が生じたのは、なぜであろうか。
もともと「道」は万物に遍在するものであり、
ことばも「道」と形影相伴う関係にあるのだが、
それを知で拘束しようとするところに原因があるのだ。
儒墨両学派の論争にしても、
つまりここから生じたのである。
このようにして人間は、
たがいに異説を立てあって、論争に明け暮れている。
つまり、ことばという手段が自己目的化してしまい、
ますます「道」から遠ざか結果を招来しているのだが、
この誤謬を克服するには、「明」によるほかはないであろう。
………………………………………………………………………………………………………………


▽(吹黄 訳)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
そもそも、「言う」ということは「吹く」ということではない。
「言う」ということには「言(ことば・分断された意味)」がある。
その「言われた意味」というのが、
とりわけて(「これだ」というふうには)未だに定まることがないとすれば、
果たして「もの言う」ということになりえるのだろうか。
それとも、未だかつて「もの言う」ことにはなっていなかったのだろうか。
それは、ヒナ鳥の声とは異なっているということによって、
これもまた、何事かが言えるのだろうか。
それとも、何事かが言えることになどにはならないのだろうか。
道はどうして隠れてしまい、そうして真偽が生まれたのだろうか。
言はどうして隠れてしまい、そうして是非が生まれたのだろうか。
道はどうして往き進むというのに、「これだ」として存在しないのだろうか。
言はどうして「これだ」として存在するのに、認めることができないのだろうか。
道は小成に隠され、言は栄華に隠されるのだ。
それ故、儒家と墨家との間での是非論争といったことが生まれたのだ。
(それは)相手の非とするところを是(ぜ)としたり、
是とするところを非としたりすることを以(も)ってしている。
(けれども)相手の非とするところを是としたり、
是とするところを非としたりすることの不足感を満たそうと欲するなら、
つまるところ、明かりを以(もち)いることに、及ぶものはないだろう。
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コメント(20)

┏━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 夫言非吹也 言者有言 ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
そもそも、「言う」ということは「吹く」ということではない。
「言う」ということには「言(ことば・分断された意味)」がある。
………………………………………………………………………………………………………………

*【言】は、「辛(刃物)+口」で、「切れ目をつけて口で発音すること」。

*【吹】は、「口+欠(からだをかがめた人or口を大きく開けたさま)」で、
「体を曲げて口から息を押し出すこと」。

◇通説と特に違いはありません。
 【言】だけで、動詞、名詞の両方意味しますので、流れの中でそれを読み取る必要があります。

┏━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 其所言者 特未定也 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
その「言われた意味」というのが、
とりわけて(「これだ」というふうには)未だに定まることがないとすれば、
………………………………………………………………………………………………………………

*【定】は「宀(やね)+正」で、「足をまっすぐ家の中にたてて止まるさま」。
 →「ひと所に落ち着いて動かない」こと。

◆通説では、【其所言者 特未定也】は、(【特】≒「独」⇒「まだ」の意として)
 「言葉の意味が、まだ確定しないまま、あいまいならば〜」と、
 「定義」に関するようなものとして、次の文に続く仮定(条件)としているようです。

◇【其所言者 特未定也】は、「意味」の「定義」というより、その言葉が指し示している
 「実質的なもの」が、(どんなものでも)「特別」なものとして「未だに一定化していない」
 …とでもいうべき、言葉のもつ特質について言及したものだと解釈しました。

┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 果有言邪 其未嘗有言邪 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
果たして「もの言う」ということになりえるのだろうか。
それとも、未だかつて「もの言う」ことにはなっていなかったのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

*【果】は、「木の上のまるい実」を描いた象形。「実り」「結果」の意。

*【嘗】は、「旨(うまいあじ)+尚(のせる)」で、「味をみること」。
 ⇒「ためしてみる」⇒「やってみた経験が以前にある」(副詞)の意に転。

◆通説では、【其未嘗有言邪】を反語とみなしているようです。

◇ある役割を担っている「ことば」や「言う」ということですが、それによって、
 「ことばを実際に食べて味わうことによる、実りが果してあるのか否か」・・・
 とでもいわんばかりの、人間の「言」における根本的な問題提示をしているようです。
 (私は、反語だとは思いません。)
◆通説では、次のようになっています。

そもそも、ものを言うのは、音を吹き出すことではない。
ものを言ったばあいには言葉の意味がある。
その言った言葉の意味がまだあいまいで落ち着かないのなら、
はたしてものを言ったことになるのか、それとも言わないのと同じなのか。
〔もちろん言わないのと同じだ。〕

◇新解釈では、次のようになります。

そもそも、「言う」ということは「吹く」ということではない。
「言う」ということには「言(ことば・分断された意味)」がある。
その「言われた意味」というのが、
とりわけて(「これだ」というふうには)未だに定まることがないとすれば、
果たして「もの言う」ということになりえるのだろうか。
それとも、未だかつて「もの言う」ことにはなっていなかったのだろうか。


☆【言】について、単純な表現をとっていますが、複雑な意味を展開しています。


【夫言非吹也 言者有言】〔そもそも、「言う」ということは「吹く」ということではない。
「言う」ということには「言(ことば・分断された意味)」がある。〕

──「言」と「吹」は違う…というのは、誰もが容易にうなずくところでしょう。
では、「言」=「吹」+「意味」として存在しているのでしょうか。

「文字」の「ことば」となると、「言」≒「意味」であるかのように用いられます。
その時には、「吹」は含まれていないということになるのでしょうか。
一方、「言う」時の「ことば」には、物理的な「空気」を「吹く」ことがなければ
「音の組み合わせ」による「意味」≒「言」も作り上げることはできません。

「吹く息」とは、ただ単に空気を送り出すだけの役割なのでしょうか?

たとえば、「行間を読む」ということばがありますが、
それは、単に「意味」の抜けている部分を推察しながら読むということなのでしょうか?
それとも、直接的には含まれない「吹」の部分を感じるようなことでしょうか?

古代において、「書く」という「文字」が確立する前には、
「言」は、「音」や「吹く」という「息」と切り離すことができないものでした。

そうした「言」は、「意味」と同時に、「気」の「流れ」や「伝播」をも担い、
例えば、抑揚やトーンのようなものとなって、あるいは別の信号として、
何らかの「振動」を起こすことによる「伝達」も含んでいるのかもしれません。
つまり・・・
それは、耳で認知できる「音」や脳内言語野で判断できる「意味」だけではなく、
肌身で感じるような別の何かを含んでいるのかもしれません。

【其所言者 特未定也 果有言邪 其未嘗有言邪】〔その「言われたところ」というのは、
とりわけて(「これだ」というふうには)未だに定まることがないとすれば、
果たして「もの言う」ということになりえるのだろうか。
それとも、未だかつて「もの言う」ことにはなっていなかったのだろうか。〕

──ここでは、一般的には、簡単に言うと、
「言葉の定義がなされていなければ、何も言わないに等しいだろう」
…といったふうに解釈されているようです。

確かに、そういうこともあるかもしれません。
しかし、荘子は、単純にそんな誰にでもわかるようなことを問題にしたのでしょうか?

私は、もっと深い意味があるように思います。

前回の「今日適越而昔至」や「禹」という「言」などのように、
言い伝え、逸話、寓話、伝説、神話などのような話の中に展開される「言葉」の意味が、
特別にはっきりと「これだ(事実)」といって、定められないような場合のことも含めて、
その語られた「言葉」は、「もの言うこと」に果たしてなるのかどうかを問題視している
…ともとれるのではないかと、私には思えたのです。

だから、単純に「<もの言う>ということになるだろうか、ないだろうか(⇒ないだろう)」
…と言ったのではなく、その両方の可能性を見据えて、「言葉」の担う「役割」や「目的」を
問題視したのではないでしょうか…。
つまり、
その「言葉」の目的が果たされて、何かが伝わるということもあれば、
「未だかつて〜なっていない」という言葉で表現しているように、
過去を振り返ってみても、様々な「言葉」はずっとそのまま、その目的を果たさずに、
「もの言う」ことになっていなかったということもあるのではないだろうか
…という、問題を提示しているように受け取りました。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 其以為異於鷇音 亦有辯乎 其無辯乎┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
それは、ヒナ鳥の声とは異なっているということによって、
これもまた、何事かが言えるのだろうか。
それとも、何事かが言えることになどにはならないのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

*【鷇】は、「鳥+殻の原字」で、
 親から口移しに養われる鳥(雀など)の「ヒナ」のこととされています。
 ※自分で餌をついばむ幼鳥(鶏など)は「雛」で表します。

*【辯(弁)】は「辛(刃物)二つ+言」で、言葉(物)を切り分けることです。 

◆通説では、「ヒナ鳥の鳴き声と違うといっても、そこに区別があるだろうか、
 それとも、ないだろうか」(→意味が確定しないまま言葉を使って何を言っても、
 ヒナ鳥の鳴く声と、何ら異なることではない)など、【辯】に含む「言」という意
 よりも、【辨】(同じく「弁」で表す)の「辛(刃物)二つ+刀」→「わける」意
 として、とらえられているようです。

◇【亦】は「不亦○乎」の形で、「強意」の助詞になることはありますが、ここでは
 副詞の「‥もまた」ということで、「これもまた言うことになりえるか否か」‥
 ということで、前述の言葉を受けて、「言」の意を含んだ【辯(弁)】となりそうです。
 
◇「ヒナ鳥の声」とは何を示唆しているのでしょうか…。「欲求の声」でしょうか…。
 つまり、人間の「言」は、「何かを欲求する声に限られた音」とは異なったものである
 …ということを指しているのでしょうか。

◇もう一つ、全く違った解釈も考えられないわけではありません。
 これは下手すると、蛇足になる可能性もあるため、参考程度に受け取ってください。
 【鷇】という字は、「鳥+殻の原字」からできていると説明しましたが、ひょっとしたら、
 【鷇音】とは、「殻からでる寸前の、まだ殻の中にいるヒナの声」を指しているのかもしれません。

     *     *     *

さて、ここで雑篇(寓言篇)の中にある話を簡単に載せておきます。
また少し違う視点から、「言」について物語っているからです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
荃者所以在魚 得魚而忘荃        【荃(せん)】…魚を捕えるための道具
蹄者所以在兔 得兔而忘蹄        【蹄】…兎の足をひっかけるわな
言者所以在意 得意而忘言        【意】…「音+心」
我安得夫忘言之人 而與之言哉      【安】…どこ(か)に(副詞)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
荃(せん)は魚を捕えるものであり、魚を得たら荃のことは忘れられる。
蹄(わな)は兎を捕えるものであり、兎を得たら蹄のことは忘れられる。
言(ことば)は意味を捕えるものであり、意味を得たら言のことは忘れられる。
わたしはどこかでその言を忘れられる人を得て、ともに話をしたいものだ。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
(※ここでは、「吾」ではなく「我」となっていますが、内篇ではないので厳密な使い分けをした記述とはなっていないのかもしれないと思っています。)

ここでは「言」を「意」を捕えるための「道具」や「わな」や「入れ物」に喩えています。
それだけに、先の「卵」全体から見た「殻の中のヒナの声」のようなもの(との比較)という見方も完全に捨てたものではかいかとも思っています。
◆通説では、次のようになっています。

それでも雛(ひな)鳥の鳴き声とは違うといったところで、そこに区別があるのか、
それとも区別がないのか。〔結局、区別がない。そして、俗人の言葉にはこういうのが多い。〕

◇新解釈では、次のようになります。

それは、ヒナ鳥の声とは異なっているということによって、
これもまた、何事かが言えるのだろうか。
それとも、何事かが言えることになどにはならないのだろうか。


☆通説では「俗人の言葉はヒナ鳥のようなものだ」ととらえているようですが、果たしてどうでしょうか。


【其以為異於鷇音 亦有辯乎 其無辯乎】
〔それは、ヒナ鳥の声とは異なっているということによって、
また、分れる意味をもった何かが言えるのだろうか。
それとも、分れる意味をもって言えることなどないのだろうか。〕

──「ヒナ鳥の鳴き声」というと、一つの話を思い出します。
イスラエルの動物行動学者のザハヴィの珍説理論です。

            >◎彡″

ヒナ鳥が大きな口を開けてピィピィ鳴いています。
親鳥はそれに応えるように、せっせと餌を運んできます。

普通、それを見ている人は、「ピィピィ」に言葉を当てて、
その行動の理由や意味を読み取るのかもしれません。
「かあちゃん、お腹すいたよ。早くごはん、ごはん!」
その声に本能的に刺激された親が、一生懸命餌を運ぶ…
なんて、「親子の愛情」として受け止める人が多いでしょう。

ところが、ザハヴィにはこう聞こえたのです。
「キツネさん、キツネさん、ごはんはここだよ。早く食べにおいで!」と。
そして、あせった親がそのヒナを黙らせようと、必死に餌を運んでくる・・・

..:**

おもわず笑ってしまいました。
ザハヴィのうがった見方か、ひねくれた見方かわかりませんが、
なんだか人間界でそんな「かけひき」を見るような気がしたからでしょうか。

私達は「言葉の意味」を受け取っているからこそ、
それを理解したり、解釈したりできるものだと思っているかもしれません。
しかし、案外、この程度のようなことをしているようにも思えます。

私たちは、本当に「言葉の意味」を聞き、受け取っているのでしょうか?
確かに、その言葉の断片の意味は伝わっているのかもしれません。
けれども、相手が伝えようとした内容と、自分が解釈する内容とは、
必ずしも一致していないことが往々にしてあるようです。

自分の知っている何かに、その「言葉」の部分が触れた途端、
既にある「イメージ」や「解釈」が先に起こり、それに「つじつま」を合わせるように
「言葉」に「意味」を付加しているのかもしれないと思ったりします。
★『荘子』寓言篇より

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
荃(しかけ)は魚あってのものであり、魚を得たら荃は忘れ去るものだ
蹄(わな)は兎あってのものであり、兎を得たら蹄は忘れ去るものだ。
言(ことば)は意あってのものであり、意を得たら言は忘れ去るものだ。
わたしはどこかでそんな言(ことば)を忘れる人を得たら、共に言を交わしたい。
∽∽∽∽*∽∽*∽∽∽∽*∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

∩∩ 
(・・)ノ

《大いなるワナ》が言いました。
   「役目が終わったら、さっさと消えるに限るね。」

《小さきワナ》が言いました。
   「仕掛けや罠を知らなきゃ、誰も魚や兎は手に入らないじゃないか。
   いつでも構えてなけりゃあ! 今、この場で目の前を通り過ぎていく、
   せっかくの獲物も逃がすことになってもいいのかい?」

《大》「君は四六時中、魚や兎を捕まえるっていうのかい?
   それで…いったいそれをいつ食べるんだ?」

《小》「君はいいかげんな奴だな!自分の任務を全うするべきだ。
   それを食べるかどうかは、僕らには関係ないことじゃないか。
   捕まえたものを絶対に逃がさない…
   これが僕らにしかできない重要な仕事だ。

《別の小さきワナ》はこれに口を合わせました。
   「時間も空間も越え、多くの人の役に立つ仕事をしているのだ。
   世のため人のために、だからコピーをどんどん提供してるんだ。
   よりがっちりしたものにして…。それなのに消えろだって!」

《大》「長くいろいろなところで、確かに僕らの形は残れるようだね。
   でも、その時、中身の魚や兎は生きてるのだろうか?
   貴重なものであると思えば思うほど、僕らをお蔵入りにしてないだろうか?
   僕らの使い方も知らない者が、それは使うものではないと…。
   それでは、いくらたっても、腹は満たされないよ。」

《小》「君はいったい誰の心配をしているんだい?」

《大》「僕が僕であるように扱ってくれる者さ。」

《小》「僕らがいなけりゃ、そいつは無能なままじゃないか。
   僕らなしでは、彼らはやっていけないね。
   無能のままで、進歩もなにもありゃしないからね。」

《大》「時や場所が変われば、魚も兎も同じワナにかかるとは限らないよ。
   彼らも生きてるからね。」

《小》「だから、捕まえたら絶対に逃さないように、
   こうして封じ込めてるんじゃないか。」

《大》「君はいつからワナではなく、ただの<殻>に化けちまったんだい?」

                      <゜)))彡 。゜


「知る」というのはどういうことなのでしょうね。
そして「言」を通して「伝わる」ものは、いったい何でしょう?

重い荷を背負い、宝物が傷つけられたり、盗まれたりしないようにと、
いつもいつも、しかめっ面している人よりも、
自らの欲求に従ってそれを得て味わい、その時々の満足感を悦び、
軽快にして、笑いながら宇宙という野に遊ぶ人に、私も会ってみたいものです。
┏━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 道悪乎隠而有真偽 ┃
┗━━━━━━━━━━┛
道はどうして隠れてしまい、そうして真偽が生まれたのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

*【悪】は、副詞「どこに」「どうして」などの意味をもちます。 

*【道】は「〔しんにょう〕(足の動作)+首(あたま)」で、
 「首(あたま)を向けている方に進んでいくみち」を示しています。

※「路」は、「石を敷いたみち・横の連絡のみち」。
※「途」は、「ながく伸びるみち」。
※「塗」は、「土をおしのばしたみち」。
※「行」は、「十字に交差したみち」。
※「径」は、「両地点をまっすぐつないだ近みち」。
※「迪」は、「一点から出て伸びていくみち」。
※「疇」は、「田の間のあぜみち」。

◇こうして、一つ一つの字義を見ていくと、おもしろいですね。
 「みち」という概念は、中国においては、多様な使い分けをしているようです。
 他のものはすべて、「外界」にある「みち」の形容をしているのに対して、
 【道】だけは、もともと「人(内界)」そのものに関与した言葉であったようです。
 「道(TAO)」…それは、人、<わたし>が介在しない限り存在しないということになりそうです。

*【隠(隱)】は「阜(壁や、土べい)+〔爪(手)+工印+ヨ(手)〕
 (上下の手で物をかくす)+心」で、「壁でかくして見えなくすること」の意。

*【真】は「匕(さじ)+鼎(かなえ:三足で、安定してすわる器)」で、
 匙(さじ)で容器に物をみたすさまを示しています。充填の填(欠けめなくいっぱいつめる)の原字。

*【偽】は「人+爲(「手+象の形」:象をてなずけるさま)」で、
 「作為を加えて本来の性質や姿をためなおす」ことを表します。
 →「姿をかえる」「正体を隠してうわべをつくろう」などの意を含みます。

◆【隠】を「よりて」と読んで、解釈しているようですが、意味がすっきりしません。
 通説では「道は(ただ一つの真実であるはずなのに)いったいどうして真実と虚偽とがあらわれたのか」
 とか「そもそも道に真偽の別が生じたのはなぜであろうか」などと訳されています。

◇私は、【隠】の本来の「かくれる」という意味を残すべきだと思っています。
 「道が隠れて、そうして真偽が生まれたのは、どうしてだろうか」と問題提起しているのだと思います。

◇【真偽】は、もともとは、
 真「それは欠けているものはない→補足の必要はまるでない」と、
 偽「それは欠けているものがある→補足が必要→人為の必要」という、
 人の「認識」や「行為」の落ち着き場所を求めるものかもしれませんね。

┏━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 言悪乎隠而有是非 ┃
┗━━━━━━━━━━┛
言はどうして隠れてしまい、そうして是非が生まれたのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

*【言】は「辛(きれめをつける刃物)+口」(会意)から
 「はっきりかどめをつけて発音すること」の意をもったもの。
 
◆通説ではここも【隠】を無視しています。
 「言葉は(もともとは素朴であるはずなのに)いったいどうして善し悪しの判断があらわれたのか」とか
 「言葉に是非が生まれたのは、なぜであろうか」などとしています。

◇やはりここでも、「隠れる」という意味を残しておくべきだと思います。
 「言が隠れて、そうして是非が生まれたのは、どうしてだろうか」と問題提起しているのだと思います。
◆通説では、次のようになっています。

道は〔ただ一つの真実であるはずなのに〕いったいどうして真実と虚偽とがあらわれたのか。
言葉は〔もともと素朴であるはずなのに〕いったいどうして善し悪しの判断があらわれたのか。

◇新解釈では、次のようになります。

道はどうして隠れてしまい、そうして真偽が生まれたのだろうか。
言はどうして隠れてしまい、そうして是非が生まれたのだろうか。


☆(本物と言えるような)「道」や「言」は確実に存在しているだろうに、それがどうして(どこに)隠れてしまったのだろうか…という問題提起をしているようです。


【道悪乎隠而有真偽】〔道はどうして隠れてしまい、そうして真偽が生まれたのだろうか。〕

──「道」・・・それを確かめようと意識した途端、その存在は隠れてしまうようなものかもしれません。

「<わたし>の進む道はどれなのか?」と疑問が浮かび、迷いが生じる時、
それを外界に、他人の示した標(しるべ)に見いだそうとしても、そんなものはどこにもないからです。。

「道」・・・それはそれぞれに違う<わたし>が歩む一歩を拠点にするようなものかもしれません。

ところが、<わたし>は自分を信頼しきれずに、「道」を見失ったかのようになっているようです。
意識における遠地にて役々としながら、<わたし>は顔をどちらに向けたらいいというのか?と、
「歩み」を止めることができないとすれば、どこを目指せばいいのか?と、迷っているかもしれません。

「生きる」ことには、きっと「こうあるべき」という「道」があるに違いない…と思ってみたり、
いや、人には「こうあるべき」なんて「道」なんて決まってないはずだ…などと思ってみたり、
常に、相反する思いが交錯しはじめるのかもしれません。

そうして、何が「まこと」で、何が「いつわり」を見定めようとすると意識が働きはじめるのかも…。
「かくあるべき道」を肯定する…それは「真」?
・・・ん?・・・「べき」は人為を含む「偽」?
「かくあるべき道」を否定する…それは「偽」?
・・・ん?・・・それは無為を意味する「真」?

「道」はどこかに隠れてしまったが故に、このような「真偽」の思索がはじまるのでしょうか。

次の<わたし>の「一歩」を下ろす場所を確たるものにとしたいと思えば思うほど、
「真」であるものを選び、「偽」であるものは避けて通ろうと、見極めようとしてしまうのでしょうか。

それにしても、道はどうして(どこに)隠れてしまい、そうして真偽が生まれたのでしょうか…?

【言悪乎隠而有是非】〔言はどうして隠れてしまい、そうして是非が生まれたのだろうか。〕

──「言」・・・それを正しく伝えようと力んでしまうと、その存在は隠れてしまうのかもしれません。

そもそも「真理」を「言葉」で表現するということ自体、既に限界をもっていると言えるかもしれません。
けれども、そんなことは普通考えていないかもしれません。

<わたし>自身は、それを知っていると思っている時、正しく言っていると信じ込んでいるものです。
けれども、他人からすると、正しいとは思えないことも起きます。
そうして、他人は、それは正しくないと否定するかもしれません。
そうなると、<わたし>はより多くの「言葉」を用いて、その正しさを肯定しはじめます。

こうして、世の中では、是非論によって激しくぶつかり合うことが起きてしまっているのかもしれません。

それにしても、言はどうして(どこに)隠れてしまい、そうして是非が生まれてきたのでしょうか…?
┏━━━━━━━━━┓             
┃▼ 道悪乎往而不存 ┃
┗━━━━━━━━━┛
道はどうして往き進むというのに、「これだ」として存在しないのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

*【往】の原字は「彳(いく)+〔人の足+王(大きく広がる)〕」で、
 「勢いよく広がるようにどんどんと前進すること」の意。
 
*【存】は「〔左上部〕(※)+子」で、「子をいたわり落ち着ける」
 →のちに「大切に留めおく」意となったもの。
  ※「在」の左上部と同じ。「才」(川の流れをとめるせき→切り止める)

◆【道悪乎往而不存】の通説は、「真実の道はどこにでも存在している」としていますが、
 【悪】の疑問形や【不在】の【不】の意味を盛り込んでいないようです。

◇【往】には「(どんどん前進して)いく」という意味がありますが、
 【存】には「(川の流れを)切り止める」という意味があります。
 こうしてみると、この二つは対極的な状態とも言えそうです。
 【道悪乎往而不存】では、【道】はどうして、行き進むこと(【往】)はできても、
 せき止めて存在すること (【存】)はできないのだろうか
 …といったニュアンスで、問題提起しているようにも思えます。

┏━━━━━━━━━┓             
┃▼ 言悪乎存而不可 ┃
┗━━━━━━━━━┛
言はどうして「これだ」として存在するのに、認めることができないのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

*【可】は「屈曲したかぎ型+口」(会意)で、
 「のどを屈曲させ声をかすらせること」「屈曲を経てやっと声を出す」意。
 ⇒さまざまの曲折を経て「どうにか認める」意や「よしと認める」意に用います。

◆【言悪乎存而不可】は通説では、「素朴な言葉はどんな場合にも肯(う)けがわれる」としていて、
 やはり【悪】の疑問形や【不可】の【不】の意味を盛り込んでいないようです。

◇【存】には「(川の流れを)切り止める」という意味があります。
 【可】には「(これでよしと)認める」という意味があります。
 【言悪乎存而不可】では、【言】はどうして、せき止めて存在すること (【存】)はできても、
 それをこれでよしと認めること(【可】)はできないのだろうか
 …といったニュアンスで、問題提起しているようにも思います。
◆通説では、次のようになっています。

真実の道はどこにでも存在しているし、
素朴な言葉はどんなばあいにも肯(う)けがわれる。

◇新解釈では、次のようになります。

道はどうして往き進むというのに、「これだ」として存在しないのだろうか。
言はどうして「これだ」として存在するのに、認めることができないのだろうか。


☆「道」や「言」の根本的概念を実感を伴って理解するには、非常に難解な箇所です。


【道悪乎往而不存】〔道はどうして往き進むというのに、「これだ」として存在しないのだろうか。〕

──「道」の概念や感覚をつかむのは難しいようです。

「道」といえば、どこかの「空間」を想定したイメージで把握しようとしてしまうかもしれません。
ところが、「往き進む」という、いわば「時間」的感覚では、その存在は「ある」ような気がしても、
「これだ」という特定の「空間」的感覚では、その存在は「ない」ように感じてしまうかもしれません。

「道」は、どうして「歩んで往く」という連続するその瞬間瞬間には確かに「ある」と感じるのに、
立ち止まって「これだ」と断定する存在としては「ない」としか感じないようなものだろうか…と、
問題提起しているのかもしれません。

【言悪乎存而不可】〔言はどうして「これだ」として存在するのに、認めることができないのだろうか。〕

──「言」の概念や感覚をつかむのも難しいようです。

ここで荘子が指している「言」とは、物理世界を指し示す「言葉」のことではなく、見えないような人間内部におけるいわば精神世界を示す「言葉」を対象にしているのではないかと想像するのですが、現に、今ここに「言悪乎存而不可」という「言葉」での説明がなされているわけですが、その言葉のいわんとしている意味を正確に「認識」することが不可能であるかのようにも思えます。

「言」とは、その目的から考えると、ちょっと皮肉な結論をも導き出す宿命を背負っている…!?
とでも言えそうなもののようです。

「言葉」は、どうして確かに「これだ」と断定する存在としては「ある」と言えるものなのに、
その指し示す意味内容を自分の中で「これでよしとする認識」としては「ない」のだろうか…と、
問題提起しているのかもしれません。
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 道隠於小成 言隠於栄華 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
道は小成に隠され、言は栄華に隠されるのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【道隠於小成】の【隠】の意味をとっておらず、
 【小成】を「小さいでき上がり」としていますが、実際の概念と結びつけにくい言葉です。

◇【道隠於小成】は、「道は小成に隠される」ということで、イメージとしては伝わってきそうですが、
 【小成】を的確に訳するのが難しいところです。「道は、(こんなものだと示すことができるような、)
 小さくまとめあげられるものに隠されてしまう」というようなニュアンスでしょうか。

*【栄(榮)】は「木+〔上部〕(かがり火でとりまく)」で、
 「木全体をとりまいて咲いた花」→「はでな」という意味になります。

*【華】は、「艸+垂(たれる)+于(|線が=線につかえて曲がったさま)」で、
 「くぼんでまるく曲る」の意を含み、「はな」「はなやか」「かざり」も示します。

◆通説では、【言隠於栄華】の【隠】の意味をとっておらず、【栄華】は「修飾」と訳されています。

◇【言隠於栄華】の【栄】も【華】も「花」の意をもち、「修飾」よりもっと深いイメージを抱きます。
 つまり、「言葉は栄華(部分的な花のはなやかさ)に隠される」というイメージに近いように思えます。

┏━━━━━━━━━┓             
┃▼ 故有儒墨之是非 ┃
┗━━━━━━━━━┛
それ故、儒家と墨家との間での是非論争といったことが生まれたのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

■【儒家】は、孔子を祖とする儒教を中心とする学派。(仁義・道徳・教養を重んじ、自己をおさめ、
 一家を整え、社会・国家に尽くす⇒世界の平和をはかると説いています。)

■【墨家】は、墨子の考え方や言行を中心とする学派。(血縁や身分差を無視した博愛主義。君主の贅沢、
 重厚な葬礼の簡素化など。その他、論理学、幾何学・光学・力学や防衛戦術などで展開しています。)
 その思想の主要な点が、(血縁の愛を重んじ、礼を重んずる)儒家の考えとまっこうから対立。

◆通説では、【是非】は「善し悪し(の論)」としています。

◇【是非】は「善し悪し(の論)」というより、「肯定と否定(の論争)」といった感があります。
 【故有儒墨之是非】とは、「言」の表現は、花的部分の決まり事や主義主張が含まれているが故に、
 儒家と墨家の互いに違う「こうあるべき」「ああすべきではない」という「行為での対立」や、
 「こうである」「ああでない」という理由や根拠となる「認識の対立」という「是非論争」が起こる
 …ということを言っているのでしょう。
◆通説では、次のようになっています。

道は小さいでき上がりにとらわれることから〔真偽を生み〕、
言葉ははなやかな修飾にとらわれることから〔善し悪しを生んだ〕。
こうして儒家と墨家との善し悪しの論が起こり、

◇新解釈では、次のようになります。

道は小成に隠され、言は栄華に隠されるのだ。
それ故、儒家と墨家との間での是非論争といったことが生まれたのだ。


☆前にも【隠】という表現が登場しましたが、ここでも使われています。
通説のようにその意味を無視する解釈ではなく、キーワードと見た方がいいように思います。


【道隠於小成】〔道は小さなまとまりに隠され、〕

──「道」・・・それは隠される!?
それは、神秘のベールに隠されるといったようなイメージではなく、それなりに理由があるようです。

「道」とは、止めようとしても止まるはずのない「(生の)流れの大成」そのもののようなもので、
ある「空間」に見いだそうと、それをせき止めるがごとく、「小成(小さなまとまり)」を作り上げてしまった途端に見失ってしまうが故に、「隠される」ことになる…
というようなことを言っているのかもしれません。

【言隠於栄華】〔言は栄華に隠される。〕

──「言」・・・それは隠される!?
それは、明らかにしようとする意図とは逆に、そうなるわけがあるようです。

「言」とは、植物に喩えるなら、一つの名前を言った時、その種から始まる栄枯盛衰全体を指していても、「栄華(花)」という一部分のみの認識で終わることが起こるが故に、「隠される」ことになる…
というようなことを言っているのかもしれません。

通説のように、【栄華】を「はなやかな修飾」の意味にとったりすると、その反対は「素朴」ということにでもなりそうですが、では、荘子は「素朴な言葉なら隠されるものはない」と単純に考えていたのでしょうか…。私はそうではないと思っています。というのも、荘子は「素朴」に収めるどころか、様々な漢字を豊かに用いていているからです。

たとえば、孔子の弟子たちがまとめた『論語』は約13,700語・文字種は1,355字(一説には1,520字)であるのに対して、確かに『老子』は約5,000語・文字種は804字と控えめですが、『荘子』においては(全部が荘子自身の言葉ではない可能性はあるものの)約65,000語に及ぶ大著で、文字種は3,185字も用いているということだからです。

そうしたことから考えると、「言は栄華に隠される」というのは、
「言葉」にしてしまうと、往々にしてその本来の意味の全体像は伝えきれないところがあり、一部の「目立ったところ」の意味が突出してしまうことによって、その意図するところが「隠される」ことになる…
といったようなニュアンスではないかと思います。

【故有儒墨之是非】〔それ故、儒家と墨家との間での是非論争といったことが生まれたのだ。〕

──儒家と墨家の間では、相当の激論が繰り広げられたようですね。

例えば、墨家では兼愛(ひろく愛すること)を説き、万人を公平に隔たり無く愛せよという教えをもとにして、儒家で説かれる「愛」は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であるとしてその是非を闘わせたようです。または、儒家は「祭礼」重視の考えをもっていましたが、墨家はその「祭礼」を簡素にし、それにかかる浪費を防ぐこととして対立したようです。あるいはまた、儒家は「楽」を重視していましたが、墨家は労働から遠ざけ、人々を悦楽にふけらせるような「舞楽」は否定すべきであると真っ向から対立したようです。

儒家も墨家も、「道」を「小さなまとまり」にしてしまい、「言葉」の「花」の部分にとらわれてしまったが故に、相手の考えを否定しながら自分の考えを肯定するような是非論争が生まれてきてしまった…
といったことを言っているように思います。
>>[12] ご無沙汰してます。またよろしく。
>>[13]

コメントとイイネ!うれしいです。ありがとうございます。

ちょっとこのところ、忙しくしていたもので、まとめる時間がとれないでいます。
また、落ち着いたら再開しますので、待っててください。
>>[14] ぼくも多忙であまり真剣なものを読むひまがありませんでした。
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 以是其所非 而非其所是 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
(それは)相手の非とするところを是(ぜ)としたり、
是とするところを非としたりすることを以(も)ってする。
………………………………………………………………………………………………………………

*【以】は、「[手or人]+[すきの原字]」で、手で道具を用いて仕事をする意を示します。
 何かを用いて工作をやるの意も含みます。

◆通説では、「相手の悪し(善し)とすることを善し(悪し)としている」として、
 【以】の意味が直接反映されていないようです。

◇【是】【非】は、「善し」「悪し」というより「肯定」「否定」と取った方がいいように思います。
 「言」の世界が「是非論」となってしまう時、相手の「否定」するところを「肯定」したり、
 相手の「肯定」しているところを「否定」するという、相手があっての対立を余儀なくするような
 「手段」を用いる(【以】)かたちを取っていることになる…と説明しているようです。

┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 欲是其所非 而非其所是 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
(けれども)相手の非とするところを是としたり、
是とするところを非としたりすることの不足感を満たそうと欲するなら、
………………………………………………………………………………………………………………

*【欲】は、「欠(体をかがめたさま)+谷〔ハ型に流れ出る形+口(あな)〕」で
 「心中に不足を感じる穴があり、腹がへって体がかがむこと」を示しています。
 →「空虚な不満があり、それをうめたい気持ちのこと」の意。

◆通説では、前文を繰り返しているものと見なし、ただそれを「望んでいるのは〜」
 …などとされています。【以】と【欲】との違いには注目していません。

◇【欲】は「不足、不十分感を充足したい」→「欲望、願望」という意味が生まれたものです。
 これが重要なカギを握っているように思えるのです。対立、論争が起こるというのは、それはお互い
 相手に「欠陥、不足感、不満」を感じているからこそ、生じるものでしょう。そして自分の方は正しい
 としてそれをただ「主張する」という手段を取るものです。それが「是非を以てする」ということです。
 それに対して「欲する」というのは、その「欠陥、不足感、不満」を「満たそう」「満足したい」と
 する気持ちのことを表わしている…と言えるのではないでしょうか。

◇つまり、【欲是其所非 而非其所是】は、「相手の非と(否定)するところを是と(肯定)したり、
 相手の是と(肯定)するところを非と(否定)したりしする中で、その不足、欠けているものような
 ものを埋めて満たしたいという気持ちで望むなら」…と言っているようです。

┏━━━━━━━┓             
┃▼ 則莫若以明 ┃
┗━━━━━━━┛
つまるところ、明かりを以(もち)いることに、及ぶものはないだろう。
………………………………………………………………………………………………………………

*【莫若】は、比較形(時に、最上級)で、「〜に及ぶ(匹敵する)ものはない」
 「〜にこしたことはない」「〜が一番」などという意味。

*【明】は、もと「冏ケイ(まど)+月」(「日+月」ではない)で、
 「あかり取りの窓から、月光が差しこんで物が見えること」を示しています。
 →「明るいこと」また「人に見えないものを見分ける力」。

◆通説では、荘子における【明】は、「明智」「知の限界を越えたような真智」とか、
 ふつうにはない「人に見えないものを見分ける力」といった、
 少し特別な眼力(境地)とでもいうような考え方が定着しているようです。

◇しかし、私は【明】とは、そんな「特別なもの」ではなく、あくまで光を導入した時に、
 必然的におこる「あかり」「あかるさ」⇒「自らの眼で見て確かめられる状態になること」
 としておくことにこそ、荘子のおもしろさであると感じます。
 別の言い方をするなら、
 「目をつぶる」⇒「無意識」=「芒」⇔「目をあけたまま」⇒「意識」=「明」
 ・・・といったことになるでしょうか。
 
◇是非の主張という方法、手段を用いる(以ってする)なら→対立、論争するばかり。
 是でも非でも、欠けている不足感を自ずと補い充足しようと望む(欲する)ならば
 →「つまりは、明(ずっと目を開いているように、意識的になり続けること)を
 用いるに匹敵するようなものは他にない」と言っているのではないでしょうか。
◆通説では、次のようになっています。

相手の悪しとすることを善しとし、相手の善しとすることを悪しとしている。
相手の悪しとすることを善しとし、相手の善しとすることを悪しと〔して、論争に勝とうと〕
することを望むのは、真の明智を用いる立場には及びもつかない。

◇新解釈では、次のようになります。

(それは)相手の非とするところを是(ぜ)としたり、
是とするところを非としたりすることを以(も)ってする。
(けれども)相手の非とするところを是としたり、
是とするところを非としたりすることの不足感を満たそうと欲するなら、
つまるところ、明かりを以(もち)いることに、及ぶものはないだろう。


☆「欲」という意味の解釈の仕方によって、
ここで荘子が言わんとしていることの深さがうかがえるように思えます。


【以是其所非而非其所是】〔(それは)相手の非とするところを是(ぜ)としたり、
是とするところを非としたりすることを以(も)ってする。〕

──是非論という手段とるということは、互いに持論に「正当性がある」として、
物事をどんどん言葉にすることによって、その「栄華」に振り回されていると言えるのかもしれません。
それは、自己主張のために、他者批判という手段をとって、成り立っているようです。

【欲是其所非而非其所是】〔(けれども)相手の非とするところを是としたり、
是とするところを非としたりすることの不足感を満たそうと欲するなら、〕

──相手が「否定」しているものを、自分なら「肯定」するとしたり、
反対に、相手が「肯定」しているものを、自分なら「否定」するとしたりする時、
互いに、その何かどこかに、おかしさを、不足、欠陥を感じるからなのかもしれません。

その「不満感」や「不足感」をただ相手に訴え、ぶつけるのと、
それをなんとか「満たされるもの」にしたいと「欲する」のでは、
その手段となる方法が違ってくるようです。

【則莫若以明】〔つまるところ、明かりを以(もち)いることに、及ぶものはないだろう。〕

──「明を以ってする」…それは「真の明智を用いる」というような特別の意味でしょうか?
私は、もっと自然にして、理にかなった意味を示しているように思います。

そもそも、荘子は【明】という概念をどのような意味で使っているのか、別の角度から見てみます。
【明】について、『外物篇』には、次のような話があります。
- - - - -
目徹為明 「目の徹するを『明』となす」     
耳徹為聡  (*【聡】風のとおりがよい)
鼻徹為顫  (*【顫】セン:ふるえる)
口徹為甘  (*【甘】長く口中で含味する)
心徹為知  (*【知】本質を射抜く)
知徹為徳  (*【徳】本性の動向)
(*【徹】は「彳(足の動作)+育(出産)+攴(手の動作)」で、
 「するりと抜け出る」「抜きとおす」などの動作を示します。)

《続きの要約》総ての道は、枠におさめられることを望まない。塞がり滞るからだ。
万物は息をする事によって生きているが、それが停滞するのは自然のせいではなく、
人がそのとおり抜ける穴をふさいでいるからだ・・・
- - - - -

・・・荘子は何を語りかけているのでしょうか・・・

光の差し込む「心の窓」を閉めないで! 暗いのは、そのせいだから。
大気の流れ込む「心の穴」を閉めないで! 息苦しいのは、そのせいだから。
どんなものも巡り訪れるものを、よろこんで迎え入れてごらん。
自然がバランスをとろうと「不足分」を補ってくれるかもしれないのだから。

「心の窓」を開けて、そこから入るものと出るものを見守ってごらん。
眠りこけずに、目をつぶらずに・・・!
そこから、出会いの音や、詩(うた)が飛び出すかもしれないから。
<あなた>のどこかの空腹を満たす何かが…、滋養のある何かが…、
もしかしたら、そこにあるかもしれないのだから…。

意識的に、すべての全容を徹(とお)して見守り続けてごらん。
それが「明かり」が灯すことになるのだから…。

・・・と、
もしかしたら、こんなことを言っているのかもしれません。
この一節も素晴らしいですね。
先日、自分の散らかった本棚の中から岸陽子さん訳の『荘子』が出てきました。持っていることなんかまったく忘れていました。ほとんど読んでおりませんでした。思い返せば、コリン・ウイルソンの『アウトサイダー』を読んだ時にその中で取り上げられていた『荘子』に関心を持ち、買い求めたに違いありません。
吹黄さんがこうして根気強く『荘子』をアップして下さっていたお陰で、また『荘子』との縁があらためて強められ、今度はもっとちゃんと向き合えそうです。
吹黄さん、どうもありがとうございます。
>>[19]

コメント、ありがとうございます。

岸陽子さん訳の本をお持ちでしたか。
彼女の長所であり欠点なのは、極端なまでの意訳にあると思います。

我々に理解、納得できるような、曖昧さを残さない勢いのある訳になっています。
そのため、時に我々はその表現が荘子の意図を反映しているものだと(錯覚)して魅了されます。
しかし、残念ながら、大部分が原文に沿ったものでない、「陽子節」で占められているようです。

『荘子』は、簡単には理解できない、緻密で複雑な意味を包含する「漢字」で構成されています。
表層だけでは、難解で意味不明に思われるようなところを無視したり、都合よく意訳してしまったら、
まるで計算されたかのような「漢字」に込められた意味や意図を曲解してしまう可能性があります。

その原文にある「漢字」一つ一つを慎重に吟味し、謎解きをするかのようにして、
荘子の指し示してくれる「真理」へのアプローチを、一緒に考え感じとれたなら幸いだと思っています。

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