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ヨミガタリストコミュの[論点(2)]朗読とヨミガタリの違い

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実際のところ、「朗読」と言いつつも
ヨミガタリ的なパフォーマンスもあるんでないかと思ってます。
そのあたり、いかがでしょう。

なんだかんだいって
録音で本の代わりの音声本となる「朗読」とは
やっぱり違ってると思ってます。

コメント(42)

お邪魔します ちょっと思ったので書かせてください
私は聴かせる人でもないし まっつさんのもそんなに見ていないので(ごめんなさい)本当になんも関係ない人の考えなのですが。

朗読はその『本』の中身を書かれているそのまま『聴かせて』いるわけだけど、たとえば楽しそうなところは明るく 悲しいところは悲しそうに緊迫したシーンはそれなりにって声色も変わりますよね。それがまっつさんの言うヨミガタリ的要素なんじゃないかなと思うんです。たんたんと棒読みする人は居ないと思うので。
ただそれはあくまでも一般的に誰もが分かる範囲の感情や背景なんじゃないかと思うんですよ。大げさでもなくて。

まっつさんのは本の中身じゃなくて本を食べちゃった『まっつさん』を『観せて』いると思うので別物な感じがします

よくわかんないのに すみません
私も太鼓打ちの話ばかりだと分からないことが多いので
参考になればなあって・・・失礼します〜
おおおーーー。
なんかしっかりしんこうしてますではないですか、
論点。

そっか。「朗読」という言い方を
実はヨミガタリストは許容範囲と思ってるのですねん。

なんだろ、「読み聞かせ」も、違う意味で
というか、「絵本」に関しては
許容範囲だと思ってるようなんですわん。はいだむ。なんだよ。

なんだろーなー。
けっきょくでも、読み聞かせとか朗読より、芝居に近いのかなあ。
なんかわかんなくなってきてます。その距離の問題。

だって、このスレの論点でいうと
「朗読」をやってる人たちのどれだけが共通の「朗読」定義でいるのか。
ぜんぜん違うことやってるひとはけっこういるんでしょ。
みたいな、そんなかんじ。
それぞれの世界があるような、そんな。。

いきおいで書いて、勢いで投げるっ。
ほほう。ふむふむ。
定義にさしかかってきたかも。
朝なのでとりいそぎ。
時間おいてますが、
最近ちょっと思ったこと。

「朗読」って頭で読んでるのではないか。
あるいは頭で読んだことを声にしている。

「読み語り」、少なくとも、まっつの「ヨミガタリ」は
そういう感じでなくて、体で読んでそれが声にもなってる感じ。

定義を求めても仕方ないけど、
いろいろなあり方の
違いを見つめていくことは大事なんだろうと思ってます。

朗読の人たちからは「芝居」といわれ
芝居の人たちからは「朗読」といわれる。
そんな場にいる不思議さに、だんだん喜びも感じてきた(爆)。
>体で読んでそれが声にもなってる感じ。

うん、そうだね。そんな感じ。

>朗読の人たちからは「芝居」といわれ
芝居の人たちからは「朗読」といわれる。
そんな場にいる不思議さに、だんだん喜びも感じてきた(爆)。

素敵だね☆
新しい分野だ!
「ヨミガタリ」するには、お芝居をするように体もスタンバイできていないといけないんだ。
いつも見ていてそう思う。

私ももっと身体をほぐそう。
心だけでなく、身体も自由になろう。
アナウンサーとか元アナウンサーみたいな人が
ラジオで朗読をしたりすることが、はじまりで

役者がラジオドラマやっていたり

表現が生まれているけれど、元々あることを
変えてまで表現したい人がいなかったのかもしれない。

いろんな垣根が作られたり、取り払われたりして

だんだん、みんな許容範囲が広がってきているような気がします。


ヨミガタリは、あくまでも本を持って読むことが前提なのだろうけれど
この間観た1人語り芝居は、イメージ的にはヨミガタリと通じる動きだったように思う。
ただ本を持たないからといって、動きがよかったのかとか
持ったからどう、とは一概には言えない。

ただ…ヨミガタリという言葉にこだわり続けることは
きっと他の人はしないだろうし
ヨミガタリストは、こだわり続けるということ…なのかなぁ…

と、ふと思いました。
やや、まあ特殊な場で、そっち方面が増幅されたのもあると思うけど、宅ライブ見て、よみがたりは「芸人」の「芸」だな、って思った。
客を積極的に楽しませてナンボ…みたいな。

「朗読」は、楽譜通りに歌を歌ったり、楽器を演奏したりする…という感じで、そこにこそ神経を使い、また、それが出来てこその美しさ、素晴らしさ…なのだと思うのだけど、対する「読み語り」は、楽譜通り…に焦点を合わせるのではなく、その曲そのものをいかに楽しく伝えるか…に命かけちゃう、って感じなのかな。

ちょっと話ズレるかもしれないけど、某国営放送のアナウンサーだったと思われる方がバラエティー番組(だったかな?)のメイン司会をやってるのみたことあるのだけど、話し方とかぜんぜんツマンナイんだよね。
だけど、その技術はニュースを読むのには絶対不可欠なわけで。

うまく言えないのだけど、そんなこと思った。
思考が走り始めたので続けて書いちゃう。

「芸人」の「芸」…って書いたのは、そこに客の存在が絶対に必要だから。
朗読だと、客の存在がなくても成立するような。

スタイルだけ比べると、朗読の中でも「表現読み」みたいのもあって、すごく近い感じのパターンもあるけど、根本的なものが決定的に違うような気がする。

「読み語り」に客が必要な理由のひとつには、作品の解釈の部分を客に任せてるから、っていうこともある気がする。
朗読では、私情は交えずに読むけれど、作品を読み込んで解釈してから読むのに対して。
朗読は緻密に計算されているよね。

まっつさんのヨミガタリ。
自由自在に心のままに動く身体。
身体からあふれ出てくるような声。
どこまでも届く声。
まっつさんの心とともに、身体とともに、表現される本。

これは、やっぱり新しいよね。
誰にもまねできない。
ヨミガタリを聴きながら、情景がみえてくる不思議。
しっかりと入ってくる不思議。
届くんだ。

きっと、いろんな可能性がある。
その可能性。
ちゃんと見据えていきたいと思ってまっつ。
決めつけずに。可能性として。広がる感じで。
(ナンノコッチャ)
結局のところ…
自分がなにが一番ここちよいのか…なのかもしれない、のかな、とか。

人の声を聞くごとに、なにか心のなかでうずく気がする。
同意であったり、疑問であったり、悔しさであったり
「もっと○○であったらステキなのに」みたいな感じ。

やっぱり、リズムなのかな?
でも、長年なじんだものを脱ぐことは
いくら人から言われても出来ることではないし。

決めようとか、型にはめようとか…なんて説明しようか、とか

もう考えないことにした方がいいのかもしれません。
いまちゃんと確かめられないんだけど
竹宮恵子の「地球へ」だったと思うのだけど
なにかのおりに「中から外へ。外から中へ」
っていう意識の動かし方をフィーチャしてて
けっこう長いこと、それに憧憬してた。

当時はできてなかったし、意識としてもそこにいなかったけど。
今やってること。まさにそのとおりなんだと思う。
そういう「広がる感じ」。
うーん。どんな意識をそんな風にコントロール(じゃないのかなあ…)してるのかなあ…。

意識を広げることが出来たら、気持ちいいだろうなあ。
最近読み聞かせしてても、なんとなくワンパターンな読み方…閉じた読み方になってる自分を感じてガッカリです。
(連動してる話題でないかも…??)
竹宮恵子は読んだな。
題名は思い出せないけど。

>今やってること。まさにそのとおりなんだと思う。
そういう「広がる感じ」。

きっと、そうなんだね。
すごいね。
あ、それかも。

> 「中から外へ。外から中へ」

ずーっと、なんか引っかかっていたこと。
自己完結では限りある表現…っていうのでもないけれど
なんか次に意識をむけられそう。

ありがとうございます。

ああ、もっともっと広がりたいな。
もっともっと。
論点戻せる人いたら、
戻しといてちょ。
なんか、だいじなことあったよな。あいまいな感じになっててごめん。
音声訳としての朗読は、読み手の声が最初から最後まで変わってはいけない、とか
「」の部分も感情をいれない、とか聞いたことがあるのですが、
ヨミガタリは、読んで感じたものを表現してもいいわけですよね?

う〜ん、戻せませんが、感じた違いをちょっと書いてみました。


   … 朗々と読むから朗読?

そうだね。
どっかちがうとこに。。あせあせ

でも、「中から外へ。外から中へ」も
とっても大切なこと。
興味深いこと。

あいまいが大事なのさ。
そんなとこから
新たな気づきがあるかもしれないしね。

じぶんのヨミガタリの可能性を
ちゃんと見据えていこうってのは
とっても素晴らしいこと☆
「音声訳としての朗読」
・多分、目の見えない人向けの「本」の代りの「録音朗読」あたりが
 かなり厳密に「気持ちを入れない」スタイルのはずですね>kyoさん。
 それは読み手(聴き手というより)の想像力を損なわないため。
 そのスタンスはよくわかります。文字の代りですから。声が。

対してヨミガタリは
「読んで感じたものを表現」というか
特に松本の場合は、
「その場で読みつつ流れていく何かを表現している」感じ。
あらかじめ「読んで感じていたもののみを表現」するというのではなく。
そんなわけで「中から外へ。外から中へ」感覚が
すごくあるようです。

ん。はるっちが言ってた「ライブ」性に特化しているということや
ルピさんから示唆してくれたような「朗読」が準備計算されたものであることと
ちょっと違うのがそのへんなのかもしれませんな。

けど、それって、芝居とも違うじゃん。
正統派「朗読」から「お芝居」といわれる原因は
その表現が、声だけでなく動きや表情にも広がっているからであるが
一方で「お芝居」側からも一線を引かれるのは
そのへんなのかもしれませんわ。
と、少し見えてきたかな。

うん、ライブだよね。

まっつさんのヨミガタリは
「ライブ」がピッタリくるよね。
Wikipediaで「朗読」みてみました。

さらに考えなくちゃ…な気分になりました。

この論点は、『ヨミガタリと朗読はちがう』ってことを
たとえばお客さまから聞かれたときに、明確に答えたいという風に考える、
と理解してもよろしいでしょうか?
さんざん言ってから、今更なんですが…
12で、「朗読」は楽器を楽譜通りに演奏するような感じ…
と、書いたけど、補足。
楽譜通り…という中には、作曲家の意図を楽譜から読み取り、表現していく…ということも含みます。
それと同じで、「朗読」は、作者が何を伝えたいのか…ということ読み取り、それが伝わるように読む…ということも重要な点だと思う。

それに対し、ヨミガタリは、事前にそういう面での研究はしないでしょう。
ヨミガタリは、「何が伝わるか」については客に任せ、ひたすらその話の中で、何がどう動き、登場人物は考え、話したり行動したりするか…がよりリアルに生き生きと伝わるかに焦点を当てる。

「朗読」は伝えるべきことが、読み手の中で「決まっている」から、目の前に客がいなくても成立するけれど、「ヨミガタリ」は、ライブの中で「何がどうなのか」だんだん形が見えてくるから、客の存在がなければ成立しないんだと思う。
(中也特集の散文がいい例ではないか?)
↑は憶測です。

27のまっつさんの

>「読んで感じたものを表現」というか
>特に松本の場合は、
>「その場で読みつつ流れていく何かを表現している」感じ。

というのとズレがある?
う〜ん。
朗読。
楽器を楽譜通りに演奏するような感じ・・・かあ。
作曲家の意図を楽譜から読み取り、表現していく・・・も含む。。。
そういう面もあるかもね。

でも、そういう人が多いのかもしれないけれど
演奏って、それだけじゃないと思うよ。

楽器を楽譜通りに。。。って、下手すると棒読み。>朗読でいうと。
作曲家の意図。。。というより
作曲家の感じたこと、イメージを意識するかな。
この人(作曲家)は、こんなイメージで曲を作ったのかなって
想像しながら、イメージしながら練習・演奏するのが好き。

なあ〜んて、じぶんの感じだけどね。

ヨミガタリからズレてごめんね。。。
ヨミガタリって、お客といっしょに作っていく(?)
あるいは、出来上がっていく(?)感じはあるよね。
それとも場の空気かなあ。

生ものです。

お。ルピさん。
まさしくそういうことも含んで、ただ正確に音を刻むだけでなく(音声訳はそういう感じなんだと思うけど)「朗読」は作者に添おう…という方向。
(朗読の講座受けたときに「私」は消えてしまっていいのよ、と言ってた)
出来うる限り、「作者=自分」を目指す。

それに対してヨミガタリは、「作者:自分」という感じなんじゃないかと。
それに加えて、楽譜通り…音の組み立てなどの約束事に縛られない、って感じかなあ。

音楽でいえば、クラシックとジャズの違いみたいな感じ???
(音楽に例えていながら、音楽よくわかんないからナントモだけど)

好き勝手憶測で書いてます。
間違っててもいいから、どんどん出しちゃう。(笑)
朗読って「作者=自分」を目指すんだ。
そうなんだ。
そうなのかも。

音楽は。。。少なくとも私の場合は「作者=自分」じゃないなあ。

クラシック(朗読)とジャズ(ヨミガタリ)の例えは
わかる気がするな。
あらー、なんか進んでますねえ。
kyoさん。別に「お客さんに説明するため」。
という目的があっての議論というわけでもなく
単に、ヨミガタリがどういうものかを探ってる次第。

それがなんの役に立つかは、特に考えてないっす。
というかそういう命題は、目的抜きに解明したいもん。

Wikiの解説は、なんか中途半端っすね。
日本の事情というより西洋事情中心の説明って感じ。
まあ、「朗読」自体にも、それほどに、
きっちりした定義はないってことの証しでもありましょうね。
といっても、まあ、人様への説明がしやすくなりたいのも確かね。
まっつさんの日記の「アンテナの感度」で思ったこと。

ヨミガタリは、あまり読み込まないほうがいいのかな。
自分の場合(演奏)、かなり吹き込むな。
(できないことも多々あるけど)
できるだけたくさん練習して、
ブレスのタイミングなど細かい部分や、1つの曲の流れをつかんでいく。
そうして心をのせていく感じかな。
楽譜はヨミガタリでの「文字」と思う部分もあったけど、違う面もあるね。

別にヨミガタリと関係ないか(^^;
でも、思ったこと。
「アンテナ感度」に反応した私のコメントを元に。

私が思ったのは、読み語りって、「まっつワールドを一方的に見せる」っていうよりも、まっつさんが誘導して、お客さんと一緒に世界を作っていく…という感じがあるのです。
でも、この間の「双子の星」にしろ、「鬼の素」にしろ、演出もして「舞台を作った」(作り込んだ)ことにより、一緒に作る…というよりも「見せる」割合の方が勝った感があるかな、という感じがするのです。(お芝居に近い感じ)
私には読み語りの枠が広がった感じがした。

(話逸れるけど、「読み語り」に何かを足す…ことは、まっつさんが自由に表現するのを妨げる危険もあるのだけど、今回は、とても「自由」な感じがした。)
うん、そうだね。
私も前に書いたけど、いつもはお客さんといっしょに作っていく感じだよね。>34

今回はお芝居に近い感じ。そうかもね。
お芝居はたくさん稽古するしね。
「見せる」割合が増したんだね。
あれは、舞台だったよね。
私も双子のお星さまを演じていた気がする。(演奏だけでなく)
あ。今頃だけど、トピの趣旨から外れてるので、↑の会話、ここから削除してどこかに引っ越したほうがよければ、言ってください>管理人さま

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