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新選組大検証コミュの屯所

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**いいえ、新選組の屯所は京都守護職(会津藩)の詰所(本陣)の中にあったわけではありません。**

新選組の主な屯所と会津藩の拠点は、**場所も役割も明確に分かれていました**。以下に整理して説明します。

### 会津藩(京都守護職)の本陣・詰所
- **場所**:**黒谷 金戒光明寺**(くろだに こんかいこうみょうじ)
- **役割**:京都守護職・松平容保の本陣(司令部)
- 文久2年(1862)12月の入洛時から、会津藩約1,000名がここを本拠地とした
- 近藤勇らが松平容保に謁見して「会津藩御預かり」となった場所
- 「新選組」という名称を正式に授与された場所でもある
- 御所に近く、要衝の地で大規模な寺域を利用できた

### 新選組の屯所(主なもの)
1. **壬生屯所**(文久3年〜慶応元年頃まで約2年間が最も長い期間)
- **八木家**(壬生梛ノ宮町) → 新選組発祥の地、最初の本拠
- **前川邸**(八木家のほぼ向かい) → 隊士増加で拡張
- 壬生寺 → 調練場(稽古場)として使用
→ 壬生村(現在の京都市中京区壬生周辺)

2. **西本願寺**(慶応元年〜)
- 隊士増加で壬生が手狭になり移転

3. **不動堂村(島原付近)**(慶応3年)
- 最後の屯所

### まとめ:関係性は非常に深いが、物理的には別
- 新選組は**「京都守護職会津藩御預かり」**という立場
- 会津藩(松平容保)の**直属部隊・治安維持部隊**として動いていた
- しかし**屯所(日常の詰所・宿舎)**は壬生の民家や寺に置かれ、**会津藩の本陣(金戒光明寺)の中には置かれていない**
- 日常的に連絡・報告は頻繁に行われていた(壬生 矢印左右 黒谷間を隊士が往復)

つまり「会津藩の詰所の中に新選組の屯所があった」というより、
**「会津藩の傘下にあったが、屯所は別に構えていた」**というのが正しい理解です。

よく言われる表現だと
「新選組は会津藩の預かり部隊だったが、屯所は壬生にあった」
となります。

ご質問のニュアンスで言うと、**「屯所が会津藩の詰所の中にあった」わけではない**、というのが歴史的事実です。  grok

 新選組の屯所は 京都守護職会津藩の詰所に在ったのでしょうか。

コメント(1)

  大阪の万福寺

 https://x.com/turu_castle/status/2017956438904287287?s=61&t (会津部屋さんから

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