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MAYDAY メーデー!ナショジオコミュのSIOUX CITY FIREBALL United航空232便 着陸事故

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1989年7月19日、米国CO州Denver空港からIL州Chicago空港へ向かっていたUAL232便(DC-10型機、N1819U)は、晴天のなかFL370で順調に飛行していた。Aflred Haynes機長、William Records副操縦士、Dudey Drorak航空機関士は11名の乗員と285名の乗客を乗せていたが、当日がこどもの日であったため、52名の子供が登場していた。またDC-10の訓練機長であったDennis Fitch機長も乗客として機内にいた。
突然バーンという爆発音があり、竜巻に遭遇したような振動が発生したため、機長はauto-pilotを切ったが、計器が読めないほど機体は小刻みに揺れていた。#2E/Gの油圧が低下していることをDrorak航空機関士が伝え、Haynes機長は同エンジンを停止させた。3つある油圧系統の全てがゼロとなり、左右のエンジン出力で方向を制御する以外に術がなかった。Haynes機長はMaydayを宣言し、ATCはSioux City空港へのdivertを開始した。事故機は左旋回が困難なため、360°回転で方位と高度を調整した。目的地まで64kmあり、Jan客室乗務員がFitch教官が乗っていることをHaynes機長へ伝えたことで、Fitch教官がthrottole操作を担当することとなった。Haynes機長は客室へ8分後にSioux City空港へ着陸するが、crash landingとなることを乗客へ伝えた。高度9,000ftでgearを重力で展開し、アプローチ速度は通常より70kt速かったが、1,600fpmで降下していたため、Fitch教官はthrottoleを落とさずに着陸を試みた。午後4時にHaynes機長はBrace!を3回アナウンスして接地を試みたが、機体は裏返しとなって炎上し、滑走路から右へ外れたトウモロコシ畑で止まった。操縦室は180m離れたところで止まった。操縦室にいた4名を含む185名が生存したが、11名の子供を含む111名が死亡した。
NTSBのBob MacintoshとJim Wildyらは直ちに現地入りして、#2エンジンを中心に実地検分を開始した。fan diskが見当たらないため、州軍のヘリなどを動員して探したが見つからなかった。NTSBが5万ドルの懸賞金をかけ、3か月後に空港から100km離れたトウモロコシ畑の中に農家が見つけて届け出た。NTSBはチタン製のbladeを顕微鏡で観察したところ、窒素や酸素が混入して鋳造が不出来であったため、17年で金属疲労を起こしていたことを発見した。
NTSBはfan deskの点検整備をより綿密に行うよう勧告した。

コメント(2)

JAL123便の圧力隔壁破壊による全油圧系統の故障という絶体絶命の事故と同様に、この事故では3発ジェット機の弱点を曝け出した。#2エンジンが故障し、油圧系統がダウンした後、機長らが直ちにthrottleで飛行を維持させたのは、JAL123便の教訓が活かされたのだろう。
裏返しになった停止したのは何とも残念であったが、着陸前に燃料を投棄したり、go-aroundしてやり直す余裕も自信もなかったのだろう。
Crewは当時のBush(父)大統領にWhite Houseへ招かれ、勇敢な操縦に対して表彰を受けたが、多くの子供を含む多数の死傷者を出した以上、Fitch機長が涙ながらにとてもheroと云えない気持ちを吐露していたのが印象的だ。

Fitch教官(Robert Kennedy)を操縦室へ送り込んだ客室乗務員のJan(Tara Yelland)は実に機転が利いていたが、生存できたのだろうか?操縦室へ入るなりFitchはHaynes機長から"Denny, today is the day you gotta die..."と声がけされたとのこと。それを聞いていたであろうJanは、自らの運命を悟ったような表情でbraceして天に運命を委ねていたのだが...。

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