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自由の旗手:羽仁五郎コミュの『大学における治外法権の意味』

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(出典:http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1054318&id=77278053
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アステローペ・リーフ
2014年11月08日 11:42

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■京大の構内に警察官、学生とトラブル 大学「誠に遺憾」
(朝日新聞デジタル - 11月05日 00:15)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3126529

●『大学における治外法権の意味』
 【大学が警察の中にはいっちゃいけない、つまり<大学が治外法権である>ということは、
理論上も言え、本質的な意味でも存在し、歴史上にも証拠がある】

下記は、1968年に起こった、日本大学における大学紛争の最中での歴学者羽仁五郎さんの講演の一部です。
日大紛争というのは、日大当局の不正経理(二十億円の使途不明金を出した)に対する学生の抗議行動に端を発した。

しかし、伏線はあった。授業料は毎年のように値上げされ、古田重二良(ふるた じゅうじろう)会頭によるワンマン経営、学習環境の問題、それらに対して改善を求める運動はすでに学生は起こしていたが、要望の多くは通らず、そんな最中での不正経理事件発覚であった。

日本大学全学共闘会議(日大全共闘)を中心に、一般学生や教職員組合、父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。
1968年9月には学生側が大衆団交で古田重二良会頭を筆頭とする当局に経理の全面公開や全理事の退陣を約束させた。が、まもなく当局はこれを反故にした。さらに学内に警視庁機動隊を導入して全共闘による校舎の封鎖を破壊した。大学の自治、大学の治外法権を権力が破壊した事件だった。
(ここにある大学の治外法権の話は、ポポロ事件なんかを理解する上でも為になるものです)

この講演はまだ機動隊突入前のバリケードの中のものです。<近代の大学の歴史的本質的意味>、<成文法以前にある慣習法>、<そのさらに以前にある事実の重み>これらについてわかりやすく説明されてます。

以下はこの講演の概要ですが、ぜひ、本文をお読みいただきたい。

大学の自治というのは法律に書いてないことである。
しかし、大学の自治というのは国際的に確立している原則であるということ。
法律に書いてない法律以上のことだということ。法律というものは、文字に書いた法だけが法律じゃないということ。

近代の大学には、治外法権の性質があるということ。
近代の大学には、大学の本質的意味において治外法権の性質がある。
近代の大学には、歴史的にも治外法権が存在していた証拠が実在する。


あえて法律という意味でいっても、昭和27年の文部次官通達として存在する。
しかし、大学の自治はそんな通達以前の問題である。
法というのは成文法以前に慣習法があり、慣習法以前に事実があるということ。
法というのは法律に書いてない法律以上の法があること。

つまり、警察には許可なく大学に入る権利はないということ。
大学は国家の警察権の下にないということ。
大学の自治というのは法律に書いてないことである。
しかし、大学の自治というのは国際的に確立している原則であるということ。
法律に書いてない法律以上のことだということ。
これらのことを以下の講演を読まれて認識されるでしょう。

(ソース:「羽仁五郎著『人間復権の論理』の中の「日大農獣医学部学生会文化部連合――1968年10月11日」のなかの一節(P.52〜58))
パンチミス、変換ミス、脱字等があればいつもの通りご容赦願いたく。折に触れ、気づき次第訂正します。)
*−−−−−−引用開始−−−−−−−−*
『大学における治外法権の意味』

 大学の本質がどういうところにあるかということは、歴史的にも証明できるのだ。ルネサンスのイタリアのボロニアというところにボロナ大学というのがある。このボロナ大学は近代の大学の典型なんですね。さっきあげた慶応義塾の池田君なんかは、自分がイギリスで勉強したのかな、ケンブリッジとかオックスフォードとかいうものが大学の模範だと思っているが、ケンブリッジやオックスフォードは近代の大学の典型じゃないよ。あれは僧院に付属して発達した大学で、中世的な色彩が非常に多い。反対にボロナ大学というのは近代に新しくできた大学だ。このことは僕の岩波新書の『都市』、あるいは『都市の論理』の中に書いてあるから、くわしいことはいまここで述べないが、ボロナ大学が世界の歴史にはじめて大学ユニバーシティと名のった。そのウニヴェルシタスとはユニオン、組合という意味であり、中世の末から近代のはじめにさまざまの職業の組合が自立した。そのなかに、ボロニア市にはじめてあらわれたウニヴェルシタス・スコラリウムは学生の組合なんです。したがって第二にボロナ大学の場合には、学長、あるいは総長は、学生組合の議長ですから当然学生なんです。だから、古田君はやめるのにちっとも心配はいらないんですよ。ほんとはああいう人がやらないで学生がやったほうがずっとうまくいくんですね。そうすれば二十億円の使途不明金なんて出っこないんですよ。学生がやっていれば、学生が何を希望しているかよくわかりますからね。つまり、現在の大学で起こっている問題が、ボロナ大学では解決されているんだね。それから第三には、教授の任免権というものは、当然学生の組合が持っている。それから第四に、これからだんだんと問題が複雑になってくるんだが、さっきの治外法権の問題だね、つまり大学は国家の警察権の下にないということです。いまの大学は別に治外法権じゃないんですよ。けれども治外法権の性質があるか、ないかということは、たえず問題になるんだよ。誰が問題にするのかと言ったら、学生がつまり警官と衝突するんだ。
 だから学生が大学の主体であるということは、こういうところにもあらわれているんだね。教授が警官と衝突してその問題が問題になるという場合も無くはないんです。たとえばさっきのように、僕がつかまっていくというような問題ね。そういうときに大学教授をつかまえていいのかどうかということを、社会が問題にしてくれといいたいんだが、なかなか問題にしないんだよ。それから教授の中にはそういう目に会わない人もいて、羽仁さんはひとこと多すぎてつかまったんだろうと思っている人もあるんだね。けれども学生の場合には、ほとんど全学生が本能的に警察のはいってくることに抵抗するんだね。それでこの問題がたえず社会の問題になってくる。その点では学生もそういう非常に大きな功績を持っているんだよ。いま大学における治外法権というものを守っているのは学生だけだといっても差しつかえないんだな、本質的に。
 現在、法的には治外法権は持っていないんです。しかしその本質があるということを主張するのは学生なんです。それを社会が認めざるをえない。現に警官ははいってこないでしょう。それはああいうふうに細くなっているからということもあるけれどもね、そればかりじゃないんだよ。ぜんぜん近寄れない。あんなバリケードだっておまわりさんが大勢来れば、片づけるにはわけないんですよ。けれども手を出すことはできない。驚くべきことだね。あそこに別に化け物が出るわけじゃないんだよ。けれどもあれに警察官が手をふれることができないというのは、あれは治外法権のシンボルだから。これはこしらえている君たち学生が知っているわけじゃないんだな。だいたいぼくの本を読んでいない人が多いんだから、あれに治外法権の意味があるなんてことはわかってない。本能的にバリケードを築いている。けれどもなぜ学生が本能的にバリケードを築くかというところに、学生が大学の本質をあらわしていることがわかるんだよ。つまり人間であるという本能と同じように、学生である本能は別に人に教えられなくても、あれを築くんだね。現にここで築いた人は、別に安田講堂へ行って見てきたわけじゃないんだろう。だけどまったく同じバリケードを築いている。それは同じ原因からくる同じ結果なんです。
 この大学に治外法権があるのか、ないのかという問題だね。七、八年前の安保闘争のときには、さっきもいったように、いまの東大では法学部がいちばん遅れているんだが、当時は法学部がいちばん先頭に立っていた。法学部の学生自治会の緑会の議長の葉山君に、公安条例違反で逮捕状が出たんだね。これは安保闘争の第八回目かに、学生が国会に乱入したというんだ。新聞は「乱入する」というんだ。だけど国会には国民が行く権利はあるんだよ。学生はもちろん国会に行く権利がある。それがはいるとどうして乱入になるんだ。国会に誰も無関心になるほうがいいのかね。ああ、国会、勝手にやったらいいだろう、誰もあんなところに行く気はないねなんてね。そういうふうになるということが理想なのか、それともなんか出来事があればみんなが国会に押しかけるということが理想なのか、どっちが民主主義なんだ。これを新聞が「乱入」というのはどうかしているよ。乱入して国会の玄関前で小便をしていたなんて新聞は書いていたね。だけど国会には正面玄関というのはないんだよ、これまた日本の国会の不体裁なことなんだよ。玄関は衆議院のと参議院のと二つあって、正面にあるのは、誰も人民は通らない玄関なんだ。天皇が年に一度か二度通るんだよ。だからふだんは通らない。したがってあそこは草が生えているんだよ。たえず引き抜いてはいるけれども、誰も通らないんだから、どうしても生えるね。そうするとデモをやっている学生は、途中で水を飲んだりなんかして、汗もかくけれども、しかし生理的な要求もあるからね、あそこへ行ってみたらちょうど草が生えて、あんばいのよろしいところがあったから、そこで生理的な要求を満たしたにすぎないんだよ。衆議院や参議院の玄関で小便したんじゃないんですよ、草が生えている玄関で小便したんだね。そういう草が生えている玄関をつくらなければいいんだよ。ですから国会へ行って小便したというと、いかにも非常識に聞こえるけれどもね、いまの説明をするとまことにもっともだろ。だって東京都内に都市として公衆便所があるかといったらありゃしないじゃないか。どうするんだよね、草でも生えてれば、そこでやるよりしょうがないじゃないか。
 そういうことで、その責任者として、葉山君に逮捕状が出た。そうしたら葉山君は、逮捕状を受けとらずに東大にはいっちゃった。警察ははいれない。はいれば学生が騒ぐ。そこで警官は東大に向かって、葉山君に逮捕状を渡して逮捕したいから、東京大学にはいりたい、入れてくれといったんだろうね。つまりいまの法律に大学にはいる権利はないんですよ。自民党の代議士なんか、ぼくに、法務委員会で、羽仁君は大学の自治なんていうけれども、どこの法律に書いてあるというから、あんた自民党こそ法律にないことを平気でやっているじゃないかというんだよ。すると話が違うというから、たしかに違う、君たちが法律に書いてないことをやるのは、悪いことをやるんだし、大学の自治というのは法律に書いてないよいことなんだ。法律以上のことなんだ。国際的に確立している原則なんです、といったんだよ。だけどぜんぜん法律がなくはないので、昭和二十七年文部次官通達というのが出された。
 これはこのごろはおまわりさんがはさんでくるけれども、あのころのおまわりさん、あとから一生懸命ついてくるんだね。学生が大学にはいっちゃうといっしょにはいっちゃうんだよ。そうすると学生は、なんでくっついてはいってきたんだというんで、騒ぎはしょっちゅう起こっていたんだ。そこで文部次官通達というもので、警察は大学に黙ってはいっちゃだめだということになった。黙ってはいっちゃだめなのは大学ばかりじゃない、ぼくらのうちにも黙ってはいっちゃだめなんだが、とくに大学には大学の了解を得てはいれ。「こんにちわ」といってはいれということなんだ。あるいは大学の要求があったら、来てくれというのに行かないのも、どうも不人情な話だからね、そのときは行きなさい、だけど大学の了解もなく、請求もないのにはいってはだめですよという文部次官通達というのが、現にあるんだよ。
 その文部次官通達の根拠をなすものはなんなのかというと、それは国際的慣行なんだね。法律というものは、文字に書いた法だけが法律じゃないんですよ。成文法のうしろには、慣習法というものがあるんだ。そしてその慣習法のうしろには事実があるんだ。大学の治外法権の事実があるんだね。だから検察官の中にいまは弁護士をしている出射義夫という人がいる。いまは片山哲さんなんかの選挙公営運動をやって、わりに検察官としてはいいほうでしょう。だけどこの出射君が検察官時代にいまのような問題について「検察研究」という雑誌に「大学と警察」という論文を書いたのです。だいたいぼくは法務委員をやって五、六年、裁判官や検察官のお世話をしたわけなんだが、どうも検察官はあまり勉強する人がいないんだね。酒ばかり飲む。これも理由があるらしいんだ。検察官になった人はみんな社会を悪から守ろうと思ってなったんでしょう――おくさんといっしょになるときもきっとそういって口説いたんだろう。おれは世間を悪から守る人間だと――ところがいよいよ検察官になってみると、大物をつかまえることはできないんだよ。あの黒い霧というのでも、けっきょく社会党の相沢君とか、あるいは大倉君とかいう小物しかつかまえられない。佐藤栄作でもつかまえられれば別だがね。で、小物なんぞつかまえてくるから、あんた偉そうなこといってなによ、あんな小さなものをつかまえてさと、おくさんにまで馬鹿にされるから、まっすぐうちに帰ることはできん。それで途中でおでん屋なんかで一杯飲んでいる。これがもう佐藤栄作をつかまえてうちに帰れば、あなたやっぱり偉いわねえ、見直したわなんて。大物をつかまえることができないから、けっきょくうち帰れないで酒ばかり飲んでいるんじゃないかと思うんだ。出射君は、やや、まあ勉強しているほうだ。論文なんか書くんだかたね。
 その論文の中でどういうことを書いているかというと、今日の大学は治外法権を主張せられるものではないという。これはこのとおりだね。そこでやめておけばいいんだよね、あんまり学問のない人は。それをそのあと大いばりで、歴史上もかつて聞いたことがないなんて。これは出射君が無学だからで、ぼくの本でも読めばちゃんと書いてあるんだよ。いまのボロナ大学の場合だね。ボロナ大学が治外法権をもっている何よりの証拠は、大学の中に法廷があるんだよ。ぼくはいまでも法学部なんかは法廷があったほうがいいと思うんだよ。趣味と実益をかねるというか、つまり、教育と実務をかねるんだよ。大学の中には法学部もあるんだしね、だから裁判官の練習をする、検察官の練習をする、弁護人の練習をする。文学部の学生で探偵小説ばかり読んでいるやつがいるんだからね。そういうやつは探偵をやったらいいんだ。大学の中では、たいした事件は起こらないんだよ。汚職なんて起こらないよね。しかし比較的単純な犯罪は起こるんです。そんなものをいちいちおまわりさんを呼んできて裁判所にもっていかないで、大学の中で法学部の先生にきてもらってやったらいいじゃないか。勉強にもなる。また実益も上がるんだ。ですからボロナ大学の中に法廷があったということは、ボロナ大学は治外法権であったという立派な証拠なんです。この大学が警察の中にはいっちゃいけない、つまり治外法権であるということは、さっきいったように、理論上の必要、本質的な意味と、それから歴史上の証拠があるんですね。

(以下略)
*−−−−−引用終了−−−−−−−−−−−*
 
私見:
羽仁五郎さんは主権という言葉を使ってないですが、大学の主権者は学生であるというのが理論上も、本質的な意味でも、それから歴史上の証拠としても言えると私は考えます。

主権者を差し置いて学長が機動隊や治安警察やおまわりさんを入れるということは本質的に、事実の法に反する。

ましてや主権なき官憲が勝手に大学に入れる法はない。

事実の法にも慣習法にもない。

法律にも通達にもない。

あるのは、日本国憲法違反のファシズムの法律においてだけだ。

治安維持法、すなわち特定秘密保護法をもってすれば可能だ。

すべての警察の行動は秘密のルールで起こせるのだから。

すなわち特定秘密保護法は日本国憲法も慣習法も事実の法もすべてを破壊して正当化する無法に他ならない。

(了)

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