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哲学 Φιλοσοφιαコミュの現実・言語・論理 ― 私たちが「世界」と呼ぶものの正体

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私たちは「現実」を直接掴むことはできません。目の前の情景も、内なる感情も、ひとたび「言語」という枠組みに押し込められた瞬間、それは純粋な実在から、記号と概念の体系へと変質します。

ここで問われるのは、その媒介となる「論理」の地位です。論理は宇宙を貫く普遍的な法則(ロゴス)なのでしょうか、それとも人間が便宜上編み出した思考の形式に過ぎないのでしょうか。ウィトゲンシュタインが「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」と説いたように、もし語り得ぬ現実がそこにあるとするなら、それは私たちにとって「存在しない」ことと同義なのでしょうか。

言語は現実を鮮やかに切り出しますが、同時にその網の目から零れ落ちる「生の事実」を隠蔽もします。論理的に整合していることが必ずしも真実であるとは限らず、しかし論理を離れては思考そのものが成立しません。

言葉は現実を規定するのか、現実に追従するだけなのか。

論理に反する現実は、果たして「存在」し得るのか。

言語化を拒絶する実在を、私たちはどう思考すべきか。

このトピックでは、実在論、言語哲学、論理学の交差点で、私たちが拠って立つ足場の正体を解体していきたいと思います。自由な議論の種として。

コメント(9)

>私たちは「現実」を直接掴むことはできません。

そういえば、昔考えていたことを思い出します。

認識とは何か。
主体が情報を獲得する現象である。

目の前のポストを認識する場合、
ポストの映像情報を視覚情報として獲得する。
その映像情報も神経内の電気信号に変えられる。
その映像情報を科学的分析すれば、光の波長や強弱、光の並び方などは分析できるだろうがポストは分析できないだろう。
映像に「ポスト」の意味が与えるのは主体である。

そう考えれば、情報には「物的側面」と「意味的側面」がある。
すべての認識は電気信号になる。
だから主体は情報の「物的側面」に決して触れることはない。
これはカントの「物自体」にとてもよく似ている。
主体は「物的側面」に触れられないといったが、「物的側面」も主体にけっして触れることはないだろう。
つまり、どれだけ科学分析しても、主体に触れることはできない。
俗な言い方をすれば「科学で人の心は分らないよ」となる。
あるときふと「論理の起源」について考えてみた。
AIに聞くと「ロゴス」の意味から始まってギリシャのアリストテレスの説明を始める。
それを聞きたいんじゃない、論理の正体、本質について知りたいのだ。

しかし論理を知ろうとすると論理を使わねばならない。
それは妙なことにならないか。
論理が論理で語れないなら論理の起源を考えることもナンセンスかもしれない。

ウィトゲンシュタインの言うように論理が「語りえぬ、ただ示される」ものならば、
論理は言語の使用によって示される。
だとしたら論理は人類が発明したものといえるか。
後期ウィトゲンシュタインはそれに近い考えを持っていたようだ。
論理とは自然界に最初から転がっている法則ではなく、人間がコミュニケーションを円滑にするために作り上げた「推論のルール」である(言語ゲーム)

しかし、論理が人類が作り上げたルールというのは違う気がする。
といいうのも、論理は世界共通なもの、であるらしいからだ。
人類が作り上げたというなら、ルールの地域性とか時代性というものがありそうなものだ。
論理は、人間が作り上げたもの、というよりも、もっと上位の概念が必要な気がする。
(上位の概念?なんだそりゃ、・・・、神、とか?・・・、いやいやまさか、、、)

思い出すのはルイスキャロルの寓話だ。
あのアキレスが亀に論理を説明しようとする話。
「Aであり、かつ『AならばB』であるなら、Bである」
アキレスが亀に書いて示すが亀は納得しない。
するとアキレスは仕方なく、
「〜」は正しいこととする、の新ルールを付け加える。
すると亀は「〜」を認めたが「は正しいこととする」に納得しない。
仕方なくアキレスは、
{「〜」は正しいこととする}は正しいこととする。
これが無限に続くというお話。
これは論理を論理で説明できないという寓話だ。

論理は論理的に語ることができない、だから「論理形式は語りえない、ただ示される」んだ。
でも、論理を人間が生み出したとか、後期ウィトゲンシュタインのように言語ゲームの社会的合意だという立場には違和感が残る。
もっと上位概念が必要な気がするが・・・

論理の起源には「宇宙のルール」説というのもあるらしい、
「宇宙のルール」説(客観的起源)
論理は人間が発明したものではなく、宇宙そのものに備わっている法則(物理法則のようなもの)であり、人間はそれを「発見」したに過ぎないという考え方。

なるほど、と思ってしまう。

でも「発見」といっても目に見えないものだろう。
宇宙の在り方の中に「語りえず、ただ示される」みたいな。

なあんて、今日もまた、考えてもな〜んも役立たないことを考えてしまった、・・・
また、何の役にも立たないことを考えてしまう。

ウィトゲンシュタインがよく言う。
「語りえぬ、ただ示される」
どういう意味だろう。
ある喩えを思いついた、野球である。

ルールを知らないものが野球を見てるとする。
初めは何が何だか分からないだろうがやがて野球を理解するようになるかもしれない。
「ストライク三つで三振になるんだな」
「ボール4つで一塁に行けるのか」
「フェアゾーンに打てばヒットか」
「フェンスを越えて打てばホームランか」
など、野球のルールがやがて分かるようになる。
その時野球選手はルールを説明してるわけじゃない。
ただ野球ゲームをしてるだけだ。
( ゚д゚)ハッ!「語りえぬ、ただ示される」とはこういうことなのか?
もちろん、野球は比喩だ。

「語りえぬ、ただ示される」ものとして、論理形式がある。
論理形式が「語りえぬ、ただ示される」はどういうことなのか。
言葉が生まれた当時、人は言葉の使い方を知らなかった。
たまたま「犬が走る」と誰かが発したとき、
犬を主語として走るを述語にして繋げていいんだ、と知る。
そのルールが論理形式だ。
言葉と言葉を繋げて命題が成立する。
同時に言葉と言葉の繋げ方の論理形式が示される。

命題と命題の関係性にも論理形式が現れる。
その論理形式とは論理の導出規則や公理を指すのだろう。

言語の使用に論理形式は現れるのだろう。

そんなもんかな、と考えるが、学術的にはどう考えられているのか、と気になってみたり、だけど、
本を読むよりぼんやり考え事をするのが好きなのはしかたないよな、と思ってみたり、・・・
ウィトは論理形式だけではない。
「語りえぬ、ただ示される」と言えば、美・倫理もそうだと言う。
美・倫理の「語りえぬ、ただ示される」とはどの様なものであるか。
夕焼けが美しいという場合、示すのは私か?
「夕焼け」ではあるまい。
なら私と言う「主体」か。
そうでもなさそうだ。
私と夕焼けの「関係性」に示されるのだろう。
それでは「関係性」が示すのか。
それも違う気がする。
ウィトの狙いは違うだろう。
とりあえず、倫理、を考える。

倫理と美はかけ離れているようで実は同じもの?
ウィトはそう言ってたようだし、ニーチェも言ってたっけ?そんな気がしたが覚えてない。
倫理を見てそれを「美しい」と感じれば「善」。
醜いと感じればそれは「悪」。
そのようなものだと思えば、美と倫理は同じもの、なのかもしれない。

それにしても気になるのは、美や倫理は「示される」として「誰に?」ということだ。
示されるのは対象と主体の関係性において、だ。
(対象とはこの場合たとえば「夕焼け」とか倫理なら「人を殺してはいけない」や「人には優しくすべし」など、主体とは「私」だ)
「示す」のは「夕焼け」でも「人を殺してはいけない」でも「私」でもないだろう。
じゃ「関係性」が示すのか。
それもウィトの狙いじゃない気がする。
「示される」と受け身だから曖昧になるが「示す」には主語がない、のだろう。
それがウィトの狙い、と思われる。
そうなると「示される」の言い方がとても不安定で曖昧なものになる。
その危うさが論考でウィトが最後に「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ」と語った理由かもしれない。
細かく刻んで、進んだり戻ったりすることにはなると思いますがよろしくお願いします。
まさに、既存の幾多の理論体系の交差点(間あるいは隙間)に我々の立ち位置を探る、ということが哲学の醍醐味であるということは誰しもが納得する命題です。自由闊達なやり取りになることを願います。
このsns で行う意思疎通の手段は文字言語です。このように打ち込む記号の羅列のみです。
この文字記号を私は今アウトプットしていますが、これが「情報」という形で完成するのはどの時点でしょうか?
まずはこの問いかけをしてみたいです。
あとは(近接問題の伏線として)情報の生成と「言葉の意味」は相対的に語るとすれば、同時に成立するのか?いや、そこには差異(ズレ)があるのか?という問いが立ちます。
>これが「情報」という形で完成するのはどの時点でしょうか?
>まずはこの問いかけをしてみたいです。
>あとは(近接問題の伏線として)情報の生成と「言葉の意味」は相対的に語るとすれば、同時>に成立するのか?いや、そこには差異(ズレ)があるのか?という問いが立ちます。

情報には「意味的側面」と「物的側面がある」と書いた。
情報に意味的側面を与えるのは主体だとも。
それだけなら主体は孤独でしかない。
独我論に向かうかもしれない。
それならなぜ人々は意思疎通ができるのか。

主体同士は情報交換が可能だ。
思うにそれぞれの主体は似たような主体内辞書を持ってるのだろう。
主体は情報に触れるたび、意味を与え。それが主体同士で行われ、「意思疎通」ができるようになる。

人間は孤独ではなかった。
人間は似たような主観内辞書を持つ。

ただし、似たような主観内辞書で合って同じ辞書ではない。

本当の辞書だって、発行年代によって、いや、出版社によっても違う辞書ができるだろう。

主観内辞書もその人の思想信条または宗教によって、あるいは何も考えないことによって、それぞれの主体は異なる主観内辞書を持つだろう。

主観内辞書によって人間は孤独ではなかった。
しかし、多少異なる辞書だから意思疎通が困難になったり、誤解や不和が起こることもある。

その解決策があるとすればコミュニケーションだけだろう。
それぞれ違った辞書を使いながら。

そもそも、情報とは何だ。
いや、今まで語ってきた通りなんだが。

情報とは目に見えないものでもある。
( ゚д゚)ハッ!情報は語りえぬ?なら示される?どうやって?
( ゚д゚)ハッ!情報が構築する論理形式があるかもしれない?
ドキドキ(*゚д゚*)もしかしてウィトゲンシュタインがぶっ飛ぶような哲学ができるかもしれない。

と妄想はささやく。
妄想? ああ、お前も語りえぬじゃないか。
カント哲学の観点から述べると、論理(カテゴリー)に反する現実(現象)はありえないことになる。
なぜなら、物自体からの触発にカテゴリーが反映されたものが現象だから。

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