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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第134回文芸部『 o 』(その一)チャーリー作 テーマ選択:ドーナツ

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 気づまりな沈黙が店の中に立ち込めていた。

 時計は零時近くを指している。
 客たちはとっくに家路について、手狭な店には私と母の二人しか残っていない。高円寺のこの近所はバーや居酒屋など、深夜までにぎやかな通りだが、今夜はあいにくの豪雨のせいか、後片付けをする雑音以外は滝のような雨音が聞こえるばかりだ。

 私は洗い物をしながら、向かいのカウンター席の母の様子をそれとなくうかがった。母は赤の残ったワイングラスを前にして、腕を枕にして突っ伏している。酔いつぶれているわけでない証拠に、ときどき指がグラスの脚を撫でて、また止まる。久々に(と言っても一年ぶりくらいだろうが)調理やドリンクづくりをこなして、さすがに疲れたのかもしれない。でもそれだけの理由で、閉店後の娘の店に居座っているとは思えない。なぜなら、私には思い当たる節があるからだ。母は二日前のことを尋ねるためにここに顔を出した。そうに決まっている。

 でも、私からその話題に触れるのは、どうしても避けたかった。電話口で脈絡もなく、「高円寺の○○スーパーの魚にはアニサキスが出るから行くな」などと言われたら、誰だって不審に思うし、明らかに嘘なのはバレバレだ。とはいえ、二日前の私は苦しい嘘をついてでも、母を高円寺のこの店やスーパーから遠ざけたい切実な理由があった。


 すべてはおとといの夜、Bという男が店に訪ねてきたのが始まりだった。



       ***



 Bがうちの店に来るようになったのは、ひと月ほど前だった。背が高くて痩せていて、白髪の混じった髪をきちんと分けている。五十くらいだろうか。話し方は丁寧で、酒癖も悪くない。週に二度ほど、カウンターの端で一杯か二杯やって、きちんと勘定を置いて帰っていく。
 バーテンダーとしてはありがたい客だが、妙なのは映画にまるで関心を示さないことだ。
うちは映画バーだ。壁の一面が白いスクリーンになっていてプロジェクターを完備し、店名の『8mm』という名前も映画のフィルムに由来する。客は漏れなく全員がシネフィルで、映画の話をするためだけに来る。なのにBは映画を全く知らない。かといって夜の店と勘違いして、バーテンダーの私を女として見て、馴れ馴れしくしてくる手合いでもない。
 ところが、Bには明確な目的があった。


 その夜、Bは閉店間際に店にやってきた。私と二人きりになった隙を見て、唐突にこう切り出した。
 初恋の人を探している。高校一年のときに週に一度来ていた家庭教師の大学生で、年上の女性だ。最後に会ったのは、もう三十四年も前になるという。今は音信不通で、どこにいるのか、生きているのかさえも分からない。
それでもなお、Bは彼女をセンセイと愛情を込めて呼び、慕っていた。
 センセイの特徴をまとめると、こうなる。名前は母の旧姓と同じ名前。漢字も一字一句、同一。生まれは北海道の旭川の近く。Bの三つ上だから、今は五十三。小柄で、右の目尻に泣きぼくろがあり、身寄りがなく、施設で育った。曲がったことが我慢できない人で、赤の他人でも困っていると必ず手を差し伸べる。
しかし三十年以上も会っていないのに、なぜ今になって探そうとしているのか。きっかけは意外な接点だった。
 Bは今年の春、高円寺のスーパーへ店長として異動してきた。職場の歓迎会で酔ってセンセイの話をしたら、レジのパートで六十近い女性が、うちの常連さんに似た人がいる、と言い出したのだという。その女性は以前、しつこく言い寄ってくる客に困っていたところを、その常連客に助けられたことがあった。この人はあなたに迷惑しています、それはセクハラですよ——そう言って追い返してくれたのだそうだ。
 私はグラスを拭きながら、一つずつ数えていた。年齢。土地。背格好。泣きぼくろ。施設。正義感。名前。
 私の母とすべて一致している。まるで同一人物かのように。
だが、私は認めたくなかった。だから合わないところを一つだけ見つけて、そこにしがみついた。Bは、センセイは大学に通っていると言った。母は違う。高卒だ。施設で育って進学どころではなかったと、子どものころから何度も聞かされてきた。大学生の家庭教師なんて、母の人生のどこを探しても出てこない。
 でも、そのたった一つの論破材料も、簡単に覆された。
 Bが財布から出した紙のせいだった。四つに畳まれて、折り目が裂けかけていて、全体が薄く飴色になっている。センセイが別れ際にくれたものだという。東京の住所が番地まで書いてあって、その下に一行。

 ——その“とき”が来たら、会いましょう。

 右上がりで、はねが短くて、少しせっかちな字だった。給食袋の名札。冷蔵庫に貼られた買い物のメモ。私が二十七年のあいだに何千回と見てきた字が、三十四年前の紙の上にあった。
 世界に五十代の女が何百万人いようと、この字を書く人はひとりしかいない。
 認めてしまうと、次に来たのは別種の怖さだった。
 別れてから三十年以上の間、一度も会っていない相手を、この男はずっと探している。紙に書かれた一行を信じて、いつかその“とき”が来ると思って、飴色になるまで持ち歩いてきた。高校生のころに数か月付き合っただけの相手を。
 しかもBは、センセイも自分も愛していると信じて疑わなかった。僕たちは純愛でしたと、誇らしそうに少し背筋を伸ばして言った。キスもしていない。体の関係もない。会うのは勉強の時間だけ。外で会ったことは一度もなかった。そして別れ際に言ってくれたのだという。わたしもつらいけれど、かならず会おう、Bくんと好きな気持ちは変わらない、と。
 十六の多感な男子と数か月、同じ部屋で机を挟んでいた当時十九の女。一度も距離を詰めず、一度も体を許さなかった。それはBの言うとおり純愛なのかもしれないし、もしかしたらセンセイには事情があって一線を引き続けた結果なのかもしれない。どちらなのかはわからないのに、私の頭は勝手に後者だと決めつけた。
 母がいまだにBに未練を持っているなんて、信じたくなかったからだ。
 母は二十五で父と出会って、二十六で私を産んだ。それから三十年近く、母は父の隣にいる。喧嘩もするし愚痴も言うけれど、去年、父が仕事を退くのに合わせて自分の店をたたむくらいには、あの二人はうまくやっている。その母の中に、三十四年前に数か月教えただけの男の席が、今も空けてあるというのか。
 あるわけがない。あってたまるか。
 万一あったとしても、そんな昔話を掘り返しにきた男を、私は絶対に母に近づけたくない。父と母のあいだに割って入るものがあるなら、それが誰であれ、娘の私が止める。
 何よりまずいのは、Bの巡り合わせの良さだ。
 Bは、部下のレジ係が漏らした一言を頼りに、ここまで来た。Bは全く気づいていないが目の前の相談相手である私は、何を隠そう、センセイの娘だ。うちの常連さんに似た人がいる——たったそれだけで、三十四年ぶりに、母の生活圏のすぐそこまで入り込んだ。この街には母を知っている人間がいくらでもいる。十年以上カウンターに立っていた街だ。誰か一人が繋いでしまえば、それで終わる。
誰も止められない。止められるのは、私だけだった。
 だから私は、嘘をついた。その人は、去年亡くなった、と。
 彼女なら間接的に知ってる。この店の前のオーナーの知り合いだから、直接知らない。死因は病気か何からしい。他の知り合いも彼女の墓の場所も知らない。わからない。
 さらに私はBに追い討ちをかけるように、こんな言葉までぶつけた。
手紙の、その“とき”っていつのことだったんですか。十九の女が十六の男の子に、大人になったら会おうと書いている、それはどういう意味だと思いますか。
 要するにBさんは、捨てられたんじゃないですか。あのメモは、嘘だったんじゃないですか。
 口にしてから、言いすぎたかもと思った。娘くらい年下の若い小娘からばバカにされて、Bは苦虫を噛み殺したような顔をしていた。それでも全く後悔はしていない。今もだ。
 これでBも少しは現実を見るだろう。母のことは諦めてくれるはずだ。そう思ったのに、Bはセンセイの本当の気持ちは知らないままでいいです、などと言った。確かめようがないから、センセイが僕を好きでいてくれたと思っていたい。そう思って生きていきたい、と。そして礼まで言って帰っていった。おかげで区切りがつきました、とか言い残して。
 階段を下りる音が聞こえなくなるのを待ってから、私は母にすぐに電話をかけて、こう言った。
「高円寺のスーパーの魚にアニサキスが出るから行かないで」
我ながらひどい嘘だった。でもBと母を会わせないためには他に手はない。
母は少し黙って、わかった、行かない、と言った。本当に信じたのか、それとも私の口調から何かを察してくれたのか。それはわからない。
 これで、母とあの男が鉢合わせすることはない。少なくとも、いちばん危ないところは越えた。


 あの夜の私は、そう油断していた。



        ***



 私の考えが甘かったとわかったのは、二日後の夜——つまり、ついさっきだった。

 店のオープン直後。七時を回って、常連が三人ばかり入ったころだった。ドアのチャイムを鳴らして入ってきたのは、ほかならぬ母だった。
 私は思わず血の気が引いた。客がいなかったら、きっと「なんで来てんのよ!」と怒鳴りつけていたことだろう。
 二日前のことがあったとはいえ、Bが金輪際この店に来ないとは限らない。母にも高円寺のスーパーには行くなと言ってあるだけで、この店に遊びに来ることはありうる。二人がばったり鉢合わせしてしまう危険を、私は完璧に見落としてしまっていた。
 嫌な冷や汗が吹き出す私と対照的に、母は奇妙なくらい優しく、こんなことを言い出した。
「Lちゃん、最近大変そうだって、Kちゃんから聞いたのよ」
 Kちゃんというのは私の彼女のことだ。同棲していて、そのことは母も知っている。はっきり将来を誓い合ったわけではないが、隠す必要もなく、むしろオープンにしたいので、お互いの親には紹介済みだった。彼女は何度か母と顔を合わせたことはある。連絡先も交換している。
 でも面識があるとは言え、腑に落ちない。来るための口実だな。直感的にそう思った。
彼女も母も、周囲から映画バーのことで口出しされたくないという私の気持ちはよくわかってくれている。私の好きにやりたいという意思を尊重してくれている。仮に彼女が心配して、「Lを手伝ってあげてくれませんか」と母に言ったとしても、それだけで母がいきなり手伝いに駆けつけるとは思えない。まず様子を見に来るはずだ。
 母がうちに顔を出すこと自体は、べつに珍しくない。いつもはカウンターに座って、少しお喋りして、私が元気か、それとなくうかがって帰っていくだけだ。
 なのに今夜の母は上着を脱いで、エコバッグ持参でカウンターの内側に入った。「いらっしゃいませ」と、まるで長く働いている従業員のような顔をして。
 居合わせた常連たちはみな、一様に顔をほころばせた。ママじゃん。久しぶり。どうしたの今日。なになに、まさか親子バーテンダーなの?
 母は去年まで、うちから歩いて十分もかからない別のショットバーでカウンターに立っていた。四十を過ぎてから働きはじめて、途中で店長を引き継いで、ママと呼ばれるようになった。二十年近く、働いていたと思う。この近所では評判で、うちの常連の何人かは、もともと母の客だ。母に会うために来る客さえいる。
 どうして今日はお母さんが手伝ってるの、と何人にも聞かれた。まともに答えられなかった。私が知りたい。
 そのあいだに、母はもう段取りを決めていた。
「今日、上映会なんでしょ。Lちゃんは前に出て、注文だけ取って。中はわたしがやるから」
 言い方は優しいのに、反論する隙はどこにもなかった。自分の分のエプロンまで、きちんと持ってきていた。それからエコバッグから箱を出してカウンターに置いた。はい、差し入れ、と言って。
 クラフト紙の箱に、茶色い紐が結んである。中身はドーナツのオールドファッションだった。母の手作りだ。
 母は菓子を作るのが趣味だ。そして作ると必ず誰かに配る。うちに来るときは毎回、何かしら焼いたり揚げたりしたものを持ってくる。私が甘いものを苦手にしているのを知っているから、砂糖はかけない。手前味噌だが、母の作るお菓子は本当に美味しい。
でもさすがに今夜は手をつける気分ではなかった。箱は蓋を開けたまま、カウンターの端に置きっぱなしになった。


 今夜のイベントの出来は、ほとんど失敗も同然だった。
 ドアが開くたびに、手が止まった。今にもBが入ってくるんじゃないか。バックヤードに視線を走らせて、母の姿を見つけてしまうんじゃないか。入り口のドアチャイムが鳴るたびに、心臓の音は飛び上がりそうなくらい高鳴った。
 おかげで注文を二回間違えた。かける作品を忘れた。上映中に声を出してしまって常連に笑われた。映画のストーリーが、まるで頭に入ってこなかった。自分で選んだ作品なのに、見終わってから感想を振られて、何も出てこなかった。
 そのあいだ、母は見事に私のミスをカバーした。
 私が落としていくものを、母は全部後ろで拾っていた。伝票が滞れば先に作って出し、切れかけたものを黙って足し、私が名前を思い出せずにいる客の名前を、先に呼んだ。厨房から出てくるつまみは、私のつくるものより明らかに一段うまかった。
 客たちは大喜びだった。その夜の話題をかっさらったのは、上映した映画ではなく、ほとんど母だった。
 カウンターの内側に二人でいると、いやでもわかることがある。
 母は速い。手数が少なくて、動線に無駄がなくて、気配りのタイミングがいつも正確だ。誰が次に何を言いたいのかを、言われる前に拾っている。私が二年かけてやっと身につけようとしてきたものを、母は当たり前の顔で使っている。
 子どものころ、私は母の苦労話を何度も聞かされた。施設で育って、身寄りがなくて、学歴も金もなくて、北海道から一人で東京に出てきて、働いて働いて、今の暮らしを手に入れた。そのたびに私は思った。お母さんみたいな立派な人にならなきゃ、と。
 思わされた、のかもしれない。とにかくそう思って、十代のあいだずっと、私はその重さに押しつぶされそうになっていた。
 なれるわけがなかった。私は人とうまくやれない。正しいと思ったことを言えば必ず誰かを敵に回す。母のように誰からも好かれたりしない。母には敵わない。その一行だけが、十代の終わりまでずっと私の真ん中にあった。
 でもこの店で店長をやるようになって、やっと母の背中に少し近づけたんじゃないかと思っていた。同じ仕事をして、同じ苦労をして、ようやく同じ土俵に立てたと。仲が最悪で、いっときは口をきくことすらなかった母と普通に喋れるようになったのも、私が母と対等な立場に這い上がってきたからだと思っていた。
 うぬぼれていただけなのかもしれない。
私はまだ、母の足元にも及ばない。母の圧倒的な存在は、私を揺るがしていた。


 十一時半を回って、最後の客が帰った。
 鍵をかけ、CLOSEの札を外に出し、そこでやっと息を吐いた。
 Bはとうとう来なかった。今日いちばんよかったことは、たぶんそれだ。
 振り返ると、母がカウンター席に座っていた。
 エプロンを外して、「これ、もらうねー」と勝手にワインを開け、飲み始めた。帰る素振りがない。
 合点がいった。やっぱり手伝いは口実だった。本当は、二日前の電話のことを訊きに来た。ここで、二人きりになったときを狙って。
 ところが、母は口火を切ろうとしない。
 私も話したくないことだから、尋ねようとしない。
 気詰まりな沈黙が続いていた。
 


        ***



「Lちゃん」
 母の声で私は我に返った。
 いつのまにか、母の差し入れてくれたドーナツの穴をぼうっと凝視していたみたいだった。赤茶色のオールドファッションの真ん中にぽっかり空いた穴は、深淵のような闇色をしている。
 視線を上げると、居住まいを正した母の姿が目に入った。
 数時間にわたってバックヤードをこなし、カウンターで伸びていたのに、メイクや髪型は全く崩れていない。肉親だから客観的には見れないが、「ママはほんと、いつもきれいだよねえ」という常連の評価もうなずける。でも背筋の伸びた姿勢と裏腹に、目はうろたえたように泳いでいた。
「あなたに謝らなきゃいけないことがあるの」
「えっ」
 母の意外な謝罪に、間抜けな声が出た。自分が何を言われたのか、さっぱりわからなかった。
 母は今夜、「スーパーに行くな」というしょうもない嘘を私に問いただしに来たんじゃなかったのかと思っていた。謝らなきゃいけないことは何もしてない。
 母はグラスに目を落として言った。
「おととい、ここにBって人が来たでしょう」
 思わず息を呑んだ。
 なんで知ってるの、とは言えなかった。
「わたし、その人に会ったの」
 血の気が引いた。
 鉢合わせだ。いちばん避けたかったことが、私の知らないところで起きてしまった。どこで。駅か。商店街か。それとも、この店の前を通りかかったところでも見られたのか。
 しかし母の告げた経緯は、そのどれでもなかった。
「昨日スーパーに行ったの。Lちゃんに行くなって言われた、駅前の……」
 意味を理解するまで、一拍かかった。
「はあ?! なんで?」
 自分でも驚くくらいの大声で、私は母を怒鳴っていた。
「行くなって言ったよね? あそこだけは絶対行くなって、私、言ったよね?」
 母は申し訳なさそうにうつむいていた。視線すら合わせない態度に、余計にイライラした。
 私はBの未練を断ち切らせるため、わざわざ「死んだ」と嘘までついた。そして母にもちゃんと忠告をした。それもこれも、ぜんぶ母のためを思ってやったことだ。「魚にアニサキスが出るから」という理由がいくら見え透いた嘘だったとしても、娘の気持ちを察するぐらいのことはできたはずだ。なのに、母は私の忠告を無視した。罠があると警告したのに、なぜ母はよりによって自分から罠に飛び込むような真似をしたのか。
「……ごめん。本当にごめんなさい」
 母は頭を下げた。それから、「でも」と顔を上げて、
「ちょっと聞いてほしいの」
 と、拝むような視線を向けた。
「なにを」
「……その、あの人に会いに行ったのは、ちょっと事情があるのよ」
 そう言って、母はグラスを脇に置いてこう話し始めた。

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