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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第122回 ロイヤー作『とあるバーのラメント』 三題噺『A子』『とあるバー』『キャンディ』

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 最後の客が帰ったので、俺は店内のBGMを切った。
 入口のOPENの札をひっくり返してCLOSEにするためカウンターから出たタイミングで、その女は入ってきた。
「ひさしぶりね」
「ああ」
 俺はうわずった声で答えた。
 女はA子だった。
「一杯、飲んでもいいかしら」
「もちろんだ」
 俺はカウンターの中に入り直しBGMを再びオンにした。
 薄暗い店内にソニー・ロリンズの締め付けるようなテナーサックスが鳴った。
「何を飲む?」
 俺の言葉にA子は店内を見渡した。
 バーと言ってもオーセンティックバーには程遠い色物のイベント・バーだ。酒の品揃えはよくない。
「ウィスキーソーダ」
 A子はハイボールとは言わず、ウィスキーソーダと言う。そういうところは変わらずだ。
「バーボンでもいいか?」
「任せるわ」
 俺は安いバーボンを量販店で仕入れたソーダで割った。
「あなたも何か飲んで」
 俺は黙って冷蔵庫からノンアルコールビールの缶を取り出した。
「再会に乾杯」
「乾杯」
 グラスと缶の縁を合わせた。
「それにしても、本当にバーのマスターになったのね」
「ああ」
「あなたには一番似合わない仕事だと思っていた」
 俺はその言葉に反応せず、黙ってノンアルコールビールの缶に口をつけた。
 A子が少し眉をひそめた。
「どうかしたのか?」
「変な臭いがしない?」
「どんな臭いだ?」
「なんだかイカ臭いような……」
「ああ、それはさっきまでいた童貞連のせいだ」
「ドウテイレン?」
「正式名称は全日本童貞連合会だ。30過ぎても童貞の男たちの集まりさ」
「ゲッ」
 A子が吐きそうな顔をした。
「お前、今、何か変な想像したろう。違う、違う、ニオイのもとは本物のイカだ」
 俺はカウンターの下のゴミ箱を持ち上げた。
 ゴミ箱の中の食べ残しの大量のイカの燻製とさきイカを見せた。
「どういうこと、頭がついて行けない」
「見ての通り、ここはイベント・バーだ。店名は『とあるバー』だが、毎回、客の誰かが1日店主になり『哲学バー』や『文学バー』、『失恋バー』とか『離婚バー』などを主催している」
「それはネットで見たわ」
「今日は『童貞バー』の日で、童貞連がここで総会を開いたんだよ。そして 今日の『童貞バー』のお通しがおかわり無限のイカの燻製とソフトさきイカだったんだ。その食べ残しの臭いだ」
 A子はげっそりとした顔をした。
「ところで、お店は繁盛しているの?」
「隙間需要というか、ネット上のSNSの付き合いでは物足りない人たちがリアルに集まって来て商売になっている」
「『離婚バー』って何をするの?」
「現役の女性弁護士が一晩だけこの店の店主になり、離婚について相談したい人たちが集まり、店主の弁護士に相談したり、お互いに情報交換したりするイベントだ。結構盛り上がる」
「で、あなたは何をしているの?」
「その日のイベント営業が終わる時間に店に来て、売上の半分と貸した店の鍵を回収して、そのあと、店を閉めて帰る」
「売上の半分?」
「そうだ。フェアだろう。最初は場所代にしようかと思ったが、そうすると来客が一人でも1万5000円とか取ることになる。なので売上の半分だ。3000円なら1500円、10万円なら5万円という風にな。これなら素人も気軽にリクス無しに1日だけバーの店主になることができる」
「ふーん。そうなんだ」
「それより、どうしてここに来た」
 A子は顔をそらした。
「お前とのことは終わったはずだ」
「わかっているわ。あなたが店を始めたと聞いてただ単に興味本位で来てみたくなっただけ」
 A子とは昔付き合っていた。その頃、俺は結婚していて、妻とは別れるつもりはなかった。一人息子が受験期だったからだ。
 そして7年前、A子は結婚すると俺に告げて、姿を消した。
 会うのはそれ以来だ。
「会社はやめたの?」
「ああ」
 俺が入院している間に部下が裏切り、金と得意先を奪った。
 当然訴えたが、逆に部下たちから、パワハラやセクハラ、さらには会社を私物化していたとして特別背任罪で刑事告訴までされた。
 お互い告訴合戦、訴訟合戦をしているうちに会社は潰れた。
 最後に残ったのは俺が社長をしていたときに債務者から代物弁済として受け取ったこの店の区分所有権だけだった。
「いろいろあったって聞いたわよ」
「まあな」
「浩介君はどうしているの?」
 一人息子の名前を聞いて俺は顔を引きつらせた。
「知らない」
「ごめんなさい。なんだか悪いことを訊いちゃったみたいね」
 俺の表情を見てA子が焦って謝った。
「いや。謝ることはない。謝らなくてはいけないのは俺の方だ。君と付き合っているときに、君に浩介の話ばかりしていた。考えてみたら君に息子のことを自慢したり、相談するなんてお門違いもはなはだしいことだった。そんなことにも俺は気が付かないでいた」
 A子は驚いたように俺を見た。
「妻とは離婚した。俺が倒れて入院して、会社が潰れたのと同じタイミングでだ。浩介とはそれ以来会っていない」
 だが、浩介と会っていないのは離婚して親権を失ったからではない。俺は浩介に過剰な期待をかけていた。自分が果たせなかった夢を代わりに果たしてほしかったからだ。大学は当然東大か、最悪でも早慶レベルに進学させ、ゆくゆくはイェールにでも、ハーバードにでも留学させるつもりだった。
 だから、未就学児の時から俺は浩介の勉強をみた。幼稚舎とか初等科といった名門私立の小学校に入れ、小4までには英検準2級も取らせるつもりだった。
 だが、浩介は小学校受験で失敗し、塾の入塾試験にまで落ち、英検は3級までしか取れなかった。そして成長するにつれ、不登校になってしまった。最後は自室から出て来なくなり、「親父の顔と勉強机は、見るのも嫌だ」とドア越しに叫んだ。
 それが最後に聞いた浩介の言葉だった。

 店のドアが開いた。
 入ってきたのは若い女性客だ。
 失恋バーに来ていた「キャンディ」だ。
「マスター、まだお店開いている?」
 俺はA子を見た。
「同じものをもう一杯いただけるかしら」
 俺は頷くと、キャンディの方に向いた。
「ああ、でも閉店まぎわだからな。わかっているだろ」
「やったー。じゃあマスター、ビールちょうだい」
 俺は冷蔵庫から瓶ビールの小瓶を出すと栓を抜き、グラスと一緒にキャンディの前に出した。
 キャンディというのはこの店での名前だ。この店の客はSNSを見て、やってくる。そして多くは、SNSでのニックネーム等で呼び合う。お互い本当の素性はさらさない。
「ふう。美味しい」
 キャンディはグラスに注いだビールを一気に飲み干した。
「ねぇ、聞いてよ、マスター」
 それからキャンディはこの店の失恋バーで出会って付き合い始めた男との相談事や愚痴を延々と語り始めた。
 俺は適当に相槌をうちながら、話し相手をした。
 途中でA子が帰るかと思ったが、ウィスキーソーダを何杯もお代わりして、カウンターで頬杖をついたまま残っていた。
 キャンディの3本目のビールのオーダーを閉店時間だと言って断ると、キャンディは少し頬を膨らませながらも、「はーい」という子どもっぽい口調で答えて、勘定をすませた。
 俺はキャンディを送ると、入口のシャッターを半分おろし、看板の電気を消した。
「あなた本当に変わったのね」
 店に戻るとA子が言った。
「前のあなたなら、ああいう子の相手なんてしなかった。うんうん、むしろ、面倒くさい奴だって言って、怒って、泣かしていた」
「年を取って丸くなっただけさ」
「違うわ」
 どう違うのか分からなかった。
「見ての通り、閉店だ」
「いくら」
「いらないよ」
「そういうわけにはいかないわ。そんなこと言うなら、代金を受け取ってもらうまで帰らないわよ」
「そりゃ困る。なら3000円だ」
「そんな金額でいいの?」
「税込みで一杯500円だ。ちゃんとした料金だ」
 A子は黙って千円札を三枚差し出した。
 スツールを降りようとしてA子はよろけた。
「大丈夫か?」
「少し酔っ払ったみたい」
「ここに来る前に飲んできたのか」
 A子はうなづいた。
「この店に入る決心がなかなかつかなくて、お酒を飲んで、酔っ払って気が大きくなってから、来たの」
 そこからのウィスキーソーダ6杯はさすがに飲み過ぎだろうと思った。
 壁の時計を見た。
 深夜の1時過ぎだった。
「帰れるのか」
「大丈夫」
「家はどこだ」
「横浜」
「電車は?」
「もうない。でも平気」
 だがA子は一人では階段を登れないほど酔っていた。
「待て、送るから」
 俺は手早く、店の電気を消して、戸締まりと火の元の確認をした。
 そしてA子に肩を貸して階段を登った。
 A子は路上にペタンと座った。
 俺は入口のシャッターを閉めて鍵をかけた。
 A子を立たせた。
「来いよ、車で送る」
「平気よ」
 俺は、強引にA子を連れてすぐ近くのコンビニの駐車場に停めてある車のところに行った。
 助手席にA子を詰めた。
 そして、運転席に座ると、エンジンをかけた。
「家はどこだ?」
「ねぇ、本当にいいの」
「こんな状態で一人で帰すわけにいかない。住所を教えてくれ」
 A子は横浜の自宅の住所を言った。
 俺はその住所をスマホに打ち込み、スマホをカーナビ代わりにして、車を発進させた。
 深夜なので下の道で行ったが、スムーズに走れ、そう時間もかからずに言われた住所付近に着いた。
「ここでいいのか」
 寝ていたA子を起こして訊いた。
「えっ、もう着いたの」
「ああ、家はそこで間違いないか」
「ここよ。このマンションの3階よ」
「そうか。じゃあな」
 A子は車を降りなかった。
「どうした。酔っ払って車も降りれないのか」
 A子は首を振った。
「ねぇ、今晩泊まって行って」
「何を言っている。旦那さんがいるんだろう」
「いない……」
「別居しているのか?」
「結婚なんてしてない」
「どういうことだ。俺と付き合っていた時に、別の男と知り合い、結婚するから別れたんじゃなかったのか」
「あれは嘘」
「どうしてそんな嘘をついた」
「そうでもしないと別れらないと思ったから……」
「そんなに俺が嫌だったのか、俺から離れたかったのか」
「逆。好きすぎて、離れらなくなって……。でもそうしたら慎ちゃんの家庭を壊してしまい、浩介君の大事な受験の邪魔をしちゃうと思ったから……」
「だから、身を引くために嘘までついて俺と別れたというのか?」
 A子はコクンと頷いた。
「ばかだな」
「どうせ、私はばかよ」
 A子は泣き出した。
 俺は車を近くのコインパーキングに入れると、A子の部屋に行った。
 部屋は1DKで、本当に一人暮らしのようだった。
 俺は、動けなくなったA子の服を脱がし、ベッドに横たえた。
 軽く毛布をかけた。
 顔は泣きはらして、涙で化粧がドロドロになっていた。
 でも、かわいい顔をしていた。
 見ているうちにA子は寝息をたてはじめた。
 台所に行くと、米を研ぎ炊飯器をセットした。
 鰹節で出汁をとり、豆腐とワカメの味噌汁を作り、卵焼きを焼いた。
 そして、「鍵は窓の隙間から部屋の中に放り込んだ、朝食を用意したから、温め直して食べてほしい」というメモ書きを残した。
 外に出て、ドアの鍵を外からかけると、開いた窓の隙間から部屋の中に鍵を投げ入れ、コインパーキングに戻った。
 エンジンをかけ、車を出した。
 空は明るくなりかけていた。
 俺は少し遠回りをして帰ることにした。
 カーステレオからは、ソニー・ロリンズの演奏が流れる。
 朝焼けの湾岸線を海を感じながら走った。
 A子にワインの本当の味を教えたのも、BMWのエンジンの鼓動とステアリングの鋭さを教えたのも、詩や文学やジャズの楽しみを教えたのも俺だった。彼女を女にしたのも俺だ。
 だけど……。
 今の俺は何もしてやれない。
 乗っている車は10年落ちの国産のリッター・カーだ。
 財産は「とあるバー」の区分所有権だけだ。
 そして家賃4万円のアパートで暮らしている。
 倒れて入院して以来、無理のきかない体になった。
 次に発作が起きたら、もう戻れないかもしれないと医者には言われている。
 窓から入ってくる東京湾の潮風が俺の頬の涙を横に流してゆく。
 だから……A子よ。
 もう俺にかかわるな。
 お前はいい女だ。
 ふさわしい男はいくらでもいる。
「ごめんよ」
 そんな言葉をつぶやきながら、暁の湾岸線をただ走った。
 ソニー・ロリンズのテナーサックスが、海鳴りのように俺の胸に響いていた。
 
 


*本作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。

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