半蔵門かきもの倶楽部コミュの第１１０回　みけねこ作　無題

　お盆が過ぎても、真夏の暑さは続いている。
子どもの頃は、お盆を過ぎると夏もそろそろ終わるという感覚だったが、ここ数年の夏の最高気温は人間の体温より高い。
　テレビをつけると、高校野球の中継をやっていた。大阪に住んでいた子供の頃、夏休みには父と甲子園球場まで行って高校野球の応援をしていたことを思い出した。
　高校野球は、お兄さんが試合をしていてかっこいいと憧れを抱いていたが、いつの間にかその年齢を越え、いまや選手たちは、自分の子供の年齢より年下だ。
人生があっという間に過ぎていくことに唖然とする。私の生きてきた道は、これでよかったのだろうか。
　思えば、今までいくつかの分岐点があった。あのとき違う道を選んでいたら、また違う人生を歩んでいただろう。

　中でも一番大きな分岐点は、私が大学三年生のときだった。その頃付き合っている男性は、京都の私立大学四年生だった。
　三年間付き合っていて、将来のことは、お互いにぼんやりと結婚を意識していたと思う。
お盆が過ぎ、夏休みも終わりが近づいた頃、彼から電話がきた。
「色々、話したい事があんねんけど、来週、琵琶湖にドライブいかへん？」
　大学四年の彼が就職活動中でしばらく会えなかったので私は嬉しさに声が弾んだ。
「すごい、決まったの？」
　彼はそれには答えなかった。
「そのこともまた話したいから、来週水曜日あけといて。迎えにいくから」
　胸騒ぎがした。就職活動がうまくいかないのだろうか。心配で聞きたいことがたくさんあった。
一週間待つのは辛かったが、会う日まで聞くのを我慢した。
　ドライブの日、彼は家まで迎えに来てくれた。彼の車は赤いファミリアだったのに待ち合わせ場所に来たのは白いスカイラインだった。
「これ、おとんの車。俺の車売ってもうてん」
　彼は、明るい声で言ったが無理をしているようだった。彼の身の回りに何か変化があったのは間違いなかった。
私は不安な気持ちのまま車に乗った。
　その日は、せっかくのドライブというのに、台風が近づいていて、曇り空だった。
場所によっては真っ黒な雲が塊になっていて、いつ大雨が降ってもおかしくない空だった。
琵琶湖一周は約２００㎞ある。湖といっても対岸が見えず、波もあり、まるで海のようである。車で一周するには約４時間かかる。
琵琶湖は、灰色の水面と曇り空との境目がよくわからないほど、重苦しかった。そして車の中も重い空気が流れていた。
FMラジオからアップテンポの曲が流れてきた。場違いな明るさが余計に気まずさを誘った。
「それで、話って何？」
　私は勇気を出して聞いた。
「あのな。俺、大学辞めることにしてん」
「え？　だって、今、四年生やし、あと少しなのに。もったいないやん」
　彼はハンドルをぎゅっと握りしめた。
「もともと単位足りなかってん。だから、就職活動してたっていうのも嘘やねん」
　私は驚いて声が出なかった。
「じゃあ、何してたん？」
「バイト」
　私は、彼に何を言っていいのかわからなかった。彼は京都の大学で、私は兵庫の女子大に通っていた。知り合ったのは、塾のバイト先だった。
彼は、塾のバイトもとうに辞めている。
「なんのバイトしてたん？」
「工事現場とか。お金稼がなあかんかってん」
「そうだったんや」
「それからな、おとんとおかん、離婚してん」
　彼の家が複雑なのは、以前から聞いていた。
「弟さんは？」
　彼には優秀な弟がいるということも聞いていた。
「弟は、来年大学院に行きたいって言ってて、俺が学費も出してあげなあかんし」
　彼は、家庭の事情で弟のためにも大学を辞めようとしているのだと思った。ひょっとしたら、単位が取れてないというのも嘘かもしれなかった。
「もう大学辞めて働くの？」
「うん。そうすることにしてん。黙っててごめんな」
　私は、今まで彼のことを理解したつもりでいたのが、実はまったくわかっていなかったことを知った。
　琵琶湖の景色は、灰色でどこも同じに見える。車でどれだけ走っても、同じところにいるようにしか思えなかった。
　彼も、私に言いにくかったのだろう。けれどもこんなとき私はどうすればいいのか。本当の彼の気持ちがわからなくなってしまった。
「たいへんだったね。全然知らなくてごめんね。辛いときは私に言ってくれればいいのに」
「ほんとごめん。色々なことが重なりすぎて言えなかってん。それから……」
　心臓がどきどきした。
「それから？」
　彼は意を決したように深呼吸した。
「結婚、しようと思って」
　私は、意外な言葉に驚いた。
「え？」
　結婚を意識する仲だったが、こんなに急に言われても困ってしまう。私はまだ学生だし、親にも承諾を得ないと……。
彼を支えなければならないとなると、返事は慎重にしないといけないと思った。
「実は、久しぶりに高校の時の元カノに出会ってんけど、その子に子供できてしまってん」
　私は、驚いてすぐに声が出なかった。やっと出たのは情けないほどかすれた声だった。
「その人と結婚するっていうのが、今日の話？」
　彼は申し訳なさそうに頷いた。

　私は、悪天候の琵琶湖には興味がなくなってしまった。目から熱い涙がさらさらと落ちた。
　無理に笑顔を作って言った。
「わかった。色々たいへんだと思うけど幸せに暮らしてね」
　平然を装ったのは、私のぎりぎりのプライドだった。車から降りようと思っても、琵琶湖は延々と続いている。
どこか途中で降ろしてほしくても、うっそうとした林に置いておかれても困るのは私だ。
　途中、ＪＲ大津駅に止めてもらい、電車で帰ることにした。

　さようなら、私の三年間。彼のことを信じていたけど、こういう形で終わるなんて。

　電車の中では涙が零れ落ちるのをふくこともせず、静かに泣いていた。
　新大阪に着き、地下鉄に乗り換えようとしていると、幼馴染の男性に声をかけられた。
小学校、中学校の同級生で、親同士もPTA繋がりで仲良くしている人だった。
「むっちゃ久しぶり！元気にしてる？」
　中学生以来の再会が、この涙では恥ずかしい。聞かれてもいないのに言い訳がましく言った。
「さっき、電車の中で、むっちゃ悲しい本を読んでしまって涙が止まらへんねん」
　幼馴染はあまり気にしていないようだった。
「そうなんや。せっかくやから、梅田でお茶していかへん？」
「いいよ」
　私たちは、地下鉄で梅田に行き、カフェに行ったあと居酒屋に行った。
幼馴染は、一浪して大阪にある大学に通っていたので、私より一学年下だった。
久しぶりに会って、小学校の頃の話題など話はつきなかった。つまらない話をして笑い転げた。
　今までよく知らなかったけど、こんなに明るい人だったんだ。琵琶湖の重苦しい景色は霧に包まれるように消えていった。

　数年後、その出会いがきっかけで幼馴染と結婚することになった。
悲しい琵琶湖ドライブがあったおかげで、幼馴染に遭遇し、今の自分がある。けれども今でもお盆の時期になると、悲しい琵琶湖の景色を思い出す。
　琵琶湖にはその日以来行ってもいないので、暗い景色しか記憶にない。今度、気候のいい時期に琵琶湖一周して琵琶湖のイメージアップをしたいと思った。

　彼とは琵琶湖ドライブ以来、会っていない。元気にしているだろうか。一方的にふられて、何事もないように装っていたが、心には深い傷がある。

　その後、意外なことで、彼の消息を知ることになった。
ニュースで彼の名前が流れたのだ。彼は関西で有名な学習塾の経営者となっていたようだ。
　しかし、経営難に陥り、塾の講師に給料を払うことができず、逃亡したということで、被害者の会ができていた。

　灰色の琵琶湖と寂しくそびえ立つ琵琶湖タワーのある景色が急に思い出された。

コメント(3)

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[2] mixiユーザー 08月19日 09:55

　主人公の女性に起こるジェットコースターのような展開と、『ｉｆ』という過去の分岐点の回想が、ぐいぐい読者を引っ張って読ませる作品だと思いました。
　確かに過去の分岐点を振り返ると全く違う人生があったような気がします。しかし、ナビゲーションを使って移動すると、脇道にそれても別のルートで目指す場所をすぐに示すように、その人の運命というか、人生の色というか、結末は、違う分岐点であったとしても同じところに行き着くような気もします。
　例えば、この作品の彼が大学四年生で妊娠させた相手が元カノではなく主人公で、その妊娠により元カノと浮気することもなく、結婚し、その後、彼が経済的に成功しても、そのお金で外で浮気をし会社の金を使い込み、逃亡という、同じような裏切りにあっていたかもしれません。彼とは幸せになれない運命というか、彼自身がそういう人のようにも思います。
　スヌーピーの漫画で、チャーリー・ブラウンがルーシのカウンセリングを受けているシーンで、チャーリー・ブラウンが「どこか新しい街に行き、新しい出会いをして、新しい別の生活をしてみたら、自分の人生が変わるのではないか」と相談する話を思い出しました。
　ルーシは「どこに行っても同じよ。あなたが変わらないと、同じような状況をまた作り出して同じことで悩むわ」と答えます。
　過去の分岐点で別の選択をし、別の街で暮らし、別の相手と結婚し、別の大学を出たり、別の会社に入ったりしても、自分自身が変わらない限り、結局は同じような結果になる気がします。
　でも、自分を変えるのって難しいですよね。そもそも自分は自分では見えないので鏡も必要です。多くの場合、その鏡が他者なのですが、この他者という鏡もバイアスがかかり、真の姿を見せてくれるとは限りません。
　ただ、この問題をあまり考えすぎると、人生は虚しく苦しい同じことの繰り返しという永劫回帰的な悲観論というかニヒリズムに陥るかもしれません。

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