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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの天皇の気持ちを忖度する暇があれば、そんなことよりまず国民は主権者人民と国家の関係について、理解すべきだ。

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菅長官「お気持ち」対応に言及
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4153793

●【天皇の気持ちを忖度する暇があれば、そんなことよりまず国民は主権者人民と国家の関係について、理解すべきだ。】

https://twitter.com/gorohani/status/767352269146685440
*−−−−−−−−編集後、引用開始−−−−−−−−−−*

羽仁五郎bot
‏@gorohani

日本の国民は、秀吉の刀狩によって武装の慣習と武装の自由の意識を失い、キリシタンの弾圧によって信仰の自由が失われ、五人組という密告制度をともなった政治的弾圧によって政治的自由と思想の自由が奪われた。今日の日本にまでその影響が残っているのだ。


22:26 - 2016年8月21日



@gorohaniさんへ返信する
アステローペ・リーフ ‏@reef100

そんなものは問題じゃない。いまどき刀や拳銃を持ってもアメリカ版の独占資本支配の銃社会になるだけだ。暴力的国家権力下でのみ機能する。キリシタンなどの信仰は必要ない。宗教と政治は別だ。一向に差しつかえない。密告制度は秘密警察という暴力的国家権力下でのみ機能する。羽仁五郎が歴史の断面で断片をどのような文脈で言ったか知らないが、歴史は常に現在のものだ。現在の視点でなければ、歴史から原動力を得られない。教訓にならない。現代に刀狩もキリシタン弾圧も五人組も関係ない。密告制度は画策されているが喫緊の最重要な核心部分ではない。

現代の視点で断罪すべき歴史は近代社会契約の約束定義の欠落だ。そのスポイルされた穴は決定的に国民の思考能力を破壊してる。だがこれは修復は難しくはない。日本国憲法下で生きてきた歴史があり日本国憲法の原理の何を理解していなかったかその焦点が逆に反芻しやすくなってる。

思考の一種の癖なのだ。日本人が陥っている癖。この癖は国家神道をバックボーンに天皇制配下のファシズムで徹底的に敷衍された癖だ。日本人は、言葉の定義というものを、理解していない。言葉の用法定義、言葉の本質定義、この二つしか知らない。もう一つあるのだ。約束定義。

たいていの人びとの思考は言葉の本質定義でぐるぐる不毛な回転をしている。それでは、democracyも自由も自然権も基本的人権も国家も国家権力も憲法も人民主権もなにも血肉化できない。学術用語は一種の約束定義、ここではこの言葉はこういう意味で使用するというものだがもっと大々的に、もっと根元的に、原理として、こういうものとしてこの言葉を約束定義しましょう、という歴史を西洋の人類史は実現しているのだ。
この言葉はこういう意味と同値で使いましょう、こういう意味で使いましょうという土台を約束定義することで、杭打ちのような思想を人類史(西洋史)では、体現している。近代社会契約の国家の約束定義に象徴される。ここには自然権という概念もあり、なにより、国家とはpeopleが作った、という約束定義を実現した。国家とはpeopleの自然権(たる基本的人権)を守るためにpeopleが作った、という約束定義で、ナチスは崩壊する。中世も崩壊する。近世も崩壊する。democracy(デーモス<民衆>によるクラトス<権力、支配>)は人民主権(主権=政治を最終的に決定する権利、それは人民にある。国家にはない)を核心とする概念である。これも、国家の約束定義と表裏一体だ。多数決がdemocracyなのではない。多数決は、democracy(人民主権)を実現する可能性のある方法の一つに過ぎない。正当な多数決は、国家の約束定義を、人民主権の約束定義を、実現する可能性のある一つの方法に過ぎない。国家権力は、人民が国家に信託したものだ。国家の使命を果たさせるために。憲法は、国家権力を信託したことに対する担保だ。人民が国家に約束させたものだ。国家権力を信託される代わりに絶対にこの国民による国家への縛りを破りませんという目録だ。それを絶対に守ることが立憲主義だ。すべては、国家の約束定義として、認識することで、そこが出発となるのだ。意味定義の本質定義とはわけが違う。

自然権もあるかどうか真相究明などという本質定義とは違う。自然権はあるものとしてスタートしている約束定義だ。これで近代社会契約は成り立っているのだ。自然権を認めなかったら、近代社会契約は成り立たない。中世に逆戻りだ。それは断じてない!

自然権が、自然法が、約束定義として源泉とする約束であることに対して、あくまで本質定義で議論したがる面々には、約束定義だと一刀両断でよい。事実そうなのだから。だが、本質定義としてあくまで議論したがる面にもう少し協力的に返答するなら、「自然法に私は帰依している」でいいのだ。約束定義とすることで、事実としてそこに実在する根拠となる。事実判断の世界になる。だが、約束定義としてではなく、本質定義として議論するなら、あくまで本質定義というのは、情緒的な価値判断の世界になる。それは帰依でいいのだ。それで情緒的価値判断となる。

日本人は、情緒的価値判断と、事実判断都の切り分けができず、近代社会契約の約束定義の様な源泉となる概念の事実判断としての地位を、国民が自覚できないでいる。逆にナチスはどんどん情緒的価値判断の世界に人民を引っ張り込んで、屁理屈の情緒で丸め込もうとする。
そんな時、日本人民は、近代社会契約の国家の約束定義に、立ち返ればいいだけだ。すべては、約束定義として、スタートさせている。日本国憲法の土台は、この約束定義だ。

革命権など極めて当たり前の話なのだ。自然権たる基本的人権を守るために人民が国家作って国家に国家権力を信託したのに、さらに憲法で縛ったのに、国家がこの憲法という国民への約束を反故にして国家権力を振り回すなら資格無き国家権力であることは一目瞭然だ。

憲法98条、憲法99条は、このような憲法を守らない国家の仕事(法律も命令も判決も国家の仕事だ)に対して、国民はそんなものは無効だから守るなと憲法98条で書き、さらに憲法99条で、そんな国家権力者は、憲法に違反している資格無き国家権力者であることを断罪している。

選挙とは通常時の抵抗権の行使だ。だが、ナチスが国家権力を濫用して主権者人民の自然権たる基本的人権を毀損したら、非常時には非常時の手段が必要なのだ。国家のリセットである。

以下にdemocracy革命権の行使が正当なものかわかるだろう。憲法を守らない国家権力者の下では、憲法配下のすべての法律は、意味がなくなる。国家権力者が憲法を守って初めて憲法にぶら下がる法律の意味がある。

このような当たり前の原理を日本国人民は理解していない。理屈として、約束定義として理解すれば、その瞬間に飛躍ができるのだ。難しいことなど何もない。意識の上で脳内革命を起こせば行動にも出る。まず、脳内革命で近代社会契約の国家の約束定義を血肉化すればよい。

【了】

*−−−−−−−−引用終了−−−−−−−−−−*

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