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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 明治時代、女は医者になれなかった

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布団を売り払い、聴診器を買う
吟子や久野もそうでしたが、瑞も男ばかりの医学校で壮絶な嫌がらせを受けます。しかしずっと医学を学びたかった瑞にとってそれは、取るに足らないことでした。
彼女にとって深刻だったのは、貧困です。明け方まで裁縫の内職をし、一睡もしないまま早朝4時に下宿を出て医学校へ向かうことも珍しくありませんでした。食費を浮かすため、炒った豆を持ち歩き、空腹をしのぎました。
学費を節約するため、瑞は入学から4カ月後には「医術開業試験」の前期試験(基礎科目)に挑み、合格を果たします。
後期試験(臨床科目と実地)を受験するためには、病院での実習が必要であり、済世学舎の学生たちは「順天堂医院」で実習を受けることができたのですが、これもまた男子学生に限られていました。
瑞は順天堂医院へ出かけ、またもや直談判し、実習を許されます。院長は瑞の経済状態を知り、実習代を免除してくれましたが、入学金は支払わねばならず、瑞は布団を売って金策します。夜通しの内職や勉強で、まともに布団で眠ることなどなかったので、ためらいはありませんでした。
このことを知った院長は、驚いて入学金を返してくれたのですが、瑞は布団を買い戻すことはせず、「こっちの方が役に立つ」と言って、以前から欲しかった聴診器を買ったのでした。
https://fujinkoron.jp/articles/-/2243
母権社会ギニアビサウを訪ねて
「女がすべてを決める島」は、男にとっても「究極の理想郷」だった!
「男はすべての面で女に劣る」夫に嫌気がさしたら追い出すつもりだと言う。家も土地も子供たちも、すべて彼女のものだからだ。
アフリカの古代社会は「母なる大地」を崇拝する女尊男卑社会だったといわれる。大地は母親の所有物と考えられ、財産が母から娘へと引き継がれる母系社会の多くは、女性優位の母権社会であった、、、
「ビジャゴスでは、女がパートナーの男を選ぶ」
「女が思春期に達し、部族の一員として認められると、その女は炊きたてのご飯を山盛りにして好きな男の家の前に置く。これがプロポーズだ。男に異存がなければ、男はそれを食べ、女の家へと引っ越す。また、ある日、男の持ち物がすべて家の外に出されていれば、それは出て行けという意味なのだ」「アフリカとエジプトの男は、いかなる場合も妻に服従しなければならない」ギニアビサウで話されているクレオール語を研究している言語学者によれば、アフリカ社会が家父長制に移行したのは西洋文明の影響があるという。「家父長的なヨーロッパ人が、交渉相手にアフリカ男性を選んだので、社会が家父長制になったのです」
https://bit.ly/3aUuRbf
「年長の世代は問題の取扱いにおいて、成熟していると言えるかもしれません。
人を説得する最善の方法は触れ合いだということを、年長者は知っています。
白人の多くは啓蒙されておらず、問題を解決するだけの聡明さを持ち合わせていません。
だから議論を吹っかける時は静かに、声を荒立てることなく行うと、彼らの威厳や高潔さを疑問視しているようには見えないのです。
心を和らげさせることにより、こちらの言い分を理解させるのです。
腰を据えて話せば、如何に頑なな刑務所の看守でも、判で押したようにボロボロに崩れ落ちます。
崩れてしまうのですよ」
(「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」Conversations with Myself p261)
私が生まれた所は、熊本県の小さな村です。昔は稲田村と言っておりましたから、村の風景が想像できると思います。私は高校を卒業するまで一度も勉強した思い出がありません。全然勉強をしないものですから、高校時代は大変な落ちこぼれで、同級生220人中200番台の成績でした。私の高校時代の姿から、誰も私が東大教授になるとは思わなかったでしょう。
勉強はしませんでしたが、本は誰よりたくさん読みました。これが後になって私の人生に影響を与えたように思います。自分の経験していないこと、知らない世界を本によって想像する。それがいつしか自分の夢につながっていったのではないかと思います。
少年時代は3つの夢を持っていました。一つは『レ・ミゼラブル』を書いた、ビクトル・ユーゴのような小説家になりたいと思っていました。文章を書くのが好きだったのです。『レ・ミゼラブル』は私が小学3年生の時読んだ最初の本です。もう一つの夢は、政治家になりたかったことです。それは、やはり小学生のとき読んだ『ブルータクの英雄伝』に影響を受けたのかも知れません。3つ目は、阿蘇山の見えるところに住んでおりましたので、阿蘇の大平原で牧場を経営する夢をもっておりました。振り返ってみると、私の人生はこれらの夢を追いかけてきたようなものです。
落第すれすれで高校を卒業し、地元の稲田村農協に勤めました。農家に肥料やプロパンガスを配達したり、収穫期には米俵を担いで倉庫に入れたりするのが仕事です。勤めて1、2年もすると、どうも自分は農協の仕事に向いていないと思うようになりました。そこで、第3の夢、阿蘇で牧場を開くことを考えたのです。そのためにはまず資金が要る。それより前に知識がいる。その当時、派米農業研修生といって農家の青年をアメリカに研修に行かせる制度があり、そのプログラムに応募し合格しました。
農業研修生としてアメリカに渡ったのは、21歳のときです。私の専門は牧場経営でしたから、アイダホ州の農場に研修生として配属され、数百頭の肉牛と羊の面倒をみました。研修生といってもなかなかつらい仕事です。朝夕に牛や羊に餌をやり、昼は広大な畑を耕します。アメリカは大規模農業です。その中にあって、あまり農業の経験のない私が、農場主の期待に添うように働くのは大変です。
そのような苦しみのなかで、3か月間、ネブラスカ大学で学科研修があり、畜産学を学びました。私はそこで生まれて初めて、学問の喜びと面白さを実感したのです。それまでは、農奴のように働いていましたから、勉強だけして生きていられる生活が天国みたいに感じられました。学問とは何と簡単で楽しいものかと思いました。そこで「大学に行ってもっと勉強をしたい」と痛切に思いました。その時が本当の人生の転機だったかも知れません。私は、再渡米してネブラスカ大学に是非入学したいと思いはじめていました。
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/agc/news/31/hougaku.html
「生命だけは平等だ」   鹿児島テレビ
病院王・徳田虎雄が、全国に24時間365日行ける病院を作ったその時代
https://www.fnn.jp/articles/-/26016
「政治の力で医療を変える」   鹿児島テレビ
徳田虎雄の金まみれ選挙戦のワケと、難病発症までの激動の半生
https://www.fnn.jp/articles/-/26017
人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。
シューマッハーはいう。
近代の思想・科学・技術によって形成された社会は、3つの危機に同時に巻きこまれている、と。
第1に、人間の本性は、非人間的な技術と組織の中で、窒息(ちっそく)し、衰弱しつつある。
第2に、人類の生命を支える生活環境は痛めつけられ、なかば崩壊の徴候を示している。 
第3に、人間の経済に不可欠な、再生不能な資源、とくに化石燃料資源の枯渇が眼前に迫っている。
この根源となったものは、物質至上主義と巨大技術信仰、そして貪欲(どんよく)と嫉妬(しっと)心にほかならない豊かさの追求である。
「シューマッハーの人と思想」小島慶三 「スモールイズビューティフル」講談社学術文庫掲載
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まったくの不意打ちではないにしても、現代技術が作りあげた現代世界は、短い期間にいっせいに3つの危機に見舞われた。
第1の危機は、技術、組織、政治のあり方が人間性にもとり、堪えがたく、人の心を蝕むものだとして抗議の声があがっていることである。
第2の危機は、人間の生命を支えている生物界という環境が痛めつけられ、一部に崩壊のきざしがでていることであり、
第3の危機は、資源問題によく通じた人たちには十分に知られたことであるが、世界の再生不能資源、とくに化石燃料資源の浪費が極度に進み、あまり遠くない将来その供給が急減するか、枯渇する可能性があるということである。
これら3つの危機ないし病いは、そのうちのどれ一つをとっても人類の命取りになりかねない。
私にはどれが崩壊の引き金になるか予想はつかない。
しかし、有限の環境下で無限の成長を追求する唯物主義の上に築かれた生活様式が長続きせず、またそういう生活様式が成長達成に成功すればするほど、行き詰まりも早いことに疑問の余地はない、、、
私は技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間の真の必要物に立ち返らせることができると信じている。
それは”人間の背丈に合わせる”方向でもある。
人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。
巨大さを追い求めるのは、自己破壊に通じる。
では、方向転換にはどれくらいのコストがかかるのか。
生き残るためのコストを計算するのは邪道だということを忘れてはならない。
もちろん、価値あるものはただでは手に入らない。
技術の方向を切り替えて、人間破壊ではなく、人間に奉仕させるには、何よりも想像力を働かせ、恐れを捨てる努力が必要である。
「スモールイズビューティフル」人間中心の経済学1973、第2部第5章人間の顔をもった技術
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「村で病気とたたかう」から10ヵ所、抜き書き
24ページ
「村の中では、今度の戦争における日本の犯罪的役割ということの反省はなかった。
負けたのだから仕方がないと、ひたすら「与えられた」民主主義をまもり、あとからあとから出てくるGHQの方針に従って、それを利用し、うまく生きてゆけばいいとする、農村の保守的、利己的な性格がにじみ出ているように思えた。
近代に対する目ざめはなかった。
このようななかで、農地改革が施行され、農民組合や労働組合の結成が行われたのである。
私は、これらが形の上で行われても、実際にそのもとに近代的な
民主主義的精神の理解がなかったということが、これからあとのいろいろな社会情勢のなりゆきに、しこりを残した、
――例えばふたたびファシズムの危険にさらされるもとになったのではないかと考えている。」
96
「このような社会的分析が日本外科学会でなされたのは恐らくはじめてのことであろう」
107
「皮肉なことに、「大東亜戦争」を指導した東条首相と小泉厚相が、もっとも熱心に農村医療と衛生を説いた。
しかし、これは農民を愛してではなく、農民を戦争に駆りたてるためであった。」
149
「先生が劇をやれとおっしゃったのは、ナマのリクツをふりまわすな、ということではなかったか」
157
「人間の場合は、自分で書きこむ健康手帳が」
169
「おら方は佐久病院があるんでトクしてる」
180
「無医村的環境に苦しんでいるK村の方がむしろ進んだ考えをもっているのである」
「オラの方の村は佐久病院があってうまくやってるからいいんだ」
182
「ある種の極端な人たちは、きびしく批判する。
それは村民をあまやかし、眠らせ、今日の体制の下請けをやりながら、その矛盾を隠蔽し、いろいろなことがうまくいくかのような幻想を大衆に与える、もっとも悪質な役割を果たしているのだと。」
219
「この方策はすでに、あの「大東亜戦争」最中にも一度、東条首相や小泉厚生大臣によってとられたことがある。」
229
「私ども農協厚生連病院は、かつての「組合病院」であり、今から半世紀近くも前、昭和の初年、今日の農協の前身である産業組合の諸先輩による農村医療組合運動の中から自主的に設立されたものである。
当時の無医村的環境と、高い医療費(当時はまだ国民健康保険ができていなかった)に苦しんでいた農民の窮状を打破すべく、農民自身が立上がってできたものである。
かくて「組合病院」が全国的にでき、またそのような運動の中から今日の国民健康保険制度自身も誕生したという歴史的事実を忘れてはなるまい。
このように、農民の生活に結びついた重要な問題は、国がとりあげないからといって放っておくわけにはいかない。
いや、農民の問題は農民自身が農民の組織の力によって解決しようとすることこそ、基本的姿勢というべきではあるまいか。」

コメント(2)

つくずく、日本の民主主義は、与えられたもので、国民が理解して、達成したものではないことを痛感します。これでは、真の民主主義は育たない。
>>[1]

私は日本の教育が明治以来、自分で考えるのでなく、上から教えたことの正確さをはかる教育であったこと。そこに歪みが生まれる土台だったと思います。

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