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限定解除体験記コミュの限定解除とは・・

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それはライダーのあこがれ。限定解除。落とす試験ともいわれた合格率1〜3%という狭き難関を突破したとき喜びがこみ上げてきた。もう15年も前のことであるが今でもそのときの感動を忘れられない。即日憧れだったGPZ900Rをローンで購入した。115PSでメーターは270km/hまで切ってある。モンスターマシンだ。あの映画トップガンでトムクルーズが滑走路をGPZに乗って駆け抜けるシーンにあこがれた。あの試験は自分にとっていい経験だった。あきらめない気持ちを植えつけてくれたことが今の自分にプラスになっている。

コメント(19)

高校を卒業後、原付免許を取得して、1年後に中型自動二輪免許を取得。400ccまでという制約の中、VFR400R→DT200Rと乗り継ぐ。映画トップガンでトムクルーズがKAWASAKI ニンジャ(GPZ900R)に乗って、滑走路をフル加速するシーンを見て限定解除を決意する。

大型2輪は当時は1発試験。試験の前に事前試験があり、
(1)倒れているバイクを起こす。
(2)8の字でバイクを引き回す。
(3)センタースタンドをかける。
この3つを合格しないと、本試験にはいけなかった。私は400CCのバイクに人を乗せて、特訓したので1発で合格した。しかし試験車両はCB750のような鉄のかたまり、ましてや鉄のサイドフレームやランプがついているので、300kgは超えていると思った。
1発試験は当時、落とす試験と聞いていた。日本の道で200km/Hを超えるメータがついたバイクなど、生活に必修な乗り物ではなく趣味の世界があった。だから試験も非常に厳しかった。合格率は3%程度。100人受けても3人という狭き門だったからである。

次に本試験1回目。緊張が走った。試験項目は以下のとおり。
(1)1本橋 10秒以上でふらつかないこと。
(2)デコボコ道 リズミカルに渡れること。(大型2輪で初登場)
(3)急制動
(4)坂道発進
(5)ルート走行 メリハリのある運転が望まれる。
(6)クランク、S字走行 ふらつかないこと。
1本橋を渡ったところで、「帰ってきなさい」と呼ばれる。試験官に一言「乗れていない」なんだそれは〜 どうゆう意味だ・・・ と思った。しかし心証を悪くしたくなかったので泣く泣く帰る。次回を目指した。

それから4回目が経過した。いまだに途中で返させられる。なぜなんだと思った。何回もいくと顔見知りになる。ある人に安全確認はもっと大げさにやった方がいいといわれた。自分ではやっているつもりが試験官にはやっていないように見えたのだろう。いい収穫を得て5回目に望んだ。

いよいよ5回目。安全確認も大げさにやった。そうしたら初めて完走でした。うれしかった。試験官には「だいぶ乗れてきたな」のいわれた。もしや合格したのではと一瞬思った。しかし電光掲示板には自分の番号はなかった。その日の午後は50人受験して合格者がいなかったのである。全員がうなだれた・・・。次にかけた。

自分の顔見知りには50歳くらいのおじさんがいた。聞くと20回目なんだそうで、もうバイクは購入しているらしくあとは免許だけだと言っていたのが印象的であった。自分を究極まで追いこんでいたかどうかは定かでははいが、すごいと思った。
6回目も無事完走できた。試験官には、「メリハリをつけるように」といわれた。初めて具体的に指摘を受けた。あと少しなのかと思った。結果は不合格であったが、7回目に勝負をかけた。

当時は大学4年生。講座にもはいり、そろそろ忙しくなってくる時期でもあった。そうは休んでいられない。なんせ1週間に1日しかないから、落ちたらまら来週である。4回/月しか受験できないのだ。
受験番号が呼ばれる。「7番」いい数字だ。バイクもCBではなくホライズンだ。乗りやすい。こんな絶好のシチュエーションはなかった。メリハリのある運転を心がけた。1本橋も落ちたら失格なので9秒くらいで渡った。安全確認はおおげさにやった。無事完走。試験官に一言「ごくろうさん」と笑顔で言われた。もしかして合格したのかと内心思った。しかし油断はできない。落とす試験だからだ。30分後電光掲示板に注目した。そうしたら7番がたった1つだけついていたのであった。そのときはおもわず「やった」と声が出てしまった。

行き着けのバイク屋さんに報告した。そこにはあの憧れのGPZ900Rヨーロッパ仕様が展示してあった。メータは260kmまで切ってあった。最高出力115PS。最大トルクは9kg-m。とんでもない数字だった。価格はドル建てで日本円価格で110万円だった。DT200Rを手放して出世払いのローンを組んだ。

4年の夏休み。友人と北海道にツーリングに行った。あの直線は理性を失いそうになった。あの滑走路と同じ場面だった。
よく白バイに止められた。他県ナンバーだったのと、大型2輪の免許を取得しているかのチェックだった。決まっていわれたのは「中型2輪のライダーの見本となりなさい」であった。たしかに回りにオーバー750なんて少なかった。アクセルを全開にしたらゼロヨンは10秒台は楽に出る数字だった。当時はポルシェがどんなにがんばっても12秒台。
バイクに乗って得られたものも大きかった。合格するという信念とあきらめない気持ち。合格した時の達成感。大型バイクを乗っているというステータス。何よりも安全運転するようになった。400を乗っているときはむちゃもしたが、オーバー750でこけたら、間違いなく命はないだろう。

みなさんも安全運転に心がけて快適なバイクライフを楽しんでください。
>寒いっすさん

登録ありがとうございます。鮫洲も厳しいと聞いてます。また長い語りを聞かせてください。これからもよろしくです〜
こんにちは。1986年に水戸で15回目に取りました。

試験車はスズキGSX750E2(赤ベコ)です。
当時水戸の試験車は赤ベコ2台とCB750FC一台で、みんなカッコいいFCに乗りたがってたんですが、合格率は赤ベコの方が上でした。

たぶんこの頃が一番きつかったんではないかと思います。で、バイク漫画に
「鬼もハダシで逃げ出す」(バリバリ伝説)
「現代の科挙」(県立御陀仏高校)
なんて感じに描かれていたのを覚えています。
ところで試験寸前に皆さんが乗ってたバイクって何でしょう?

私が乗ってたのは、Z400LTD2でした。一般的な2気筒のLTDじゃなく、FXの4発エンジンを搭載した奴です。

限定解除後に買ったGPX750Rより重かったので、いい練習台になりました。
みなさまはじめまして。
昭和63年に二俣川(神奈川)で11回通いました。

当時は3ナイ運動(バイクに乗らない乗せない買わない、だったかな?)
というのがあり、年齢が若いというだけで(私は18歳でした)落とされるとも
言われていたようです。

後方確認はミラーで見てから大げさなくらいのアクションで振りかえって目視。
停止状態からギアを入れる際も右足を地面につけるときは必ず後方確認。
短制動では絶対にリアをロックさせないように。
波状路は絶対にクラッチを使わずアクセルワークで一段一段リズミカルに渡る。
コースを走る際はメリハリのある加速減速で。
しかし少しのミスでも試験官から無線で「はい、帰ってください」の非情な声。

たしかコースが3種類あって、そのうちのどれかを毎回指定されて走るのですが
1コースと3コースが途中まで似ていて間違えることもしばしばでした。

一回試験を受けるのに試験料と配車料あわせて3000円近くかかったと思います。
一度落ちたら次の試験日の予約を入れるのですが、大抵一週間以上先しか
空いてなく、指定日を過ぎないとキャンセル待ちも受けられないのです。

そんな苦労も重なり、11回目にして合格した時は本当に嬉しかったです。
その時は30人位の方が受けに来ていて合格者は私一人だけでしたが
羨望の眼差しを感じたものです。

ようやく手にした限定解除ですが、免許証の裏面に「自動二輪限定解除」と
「神奈川県公安委員会」のハンコを押されただけでした。
免許の更新の時に初めて、条件欄から「中型までに限る」が消えるのです。
今は普通自動二輪と大型自動二輪に分かれているので違うのかしら。
初めまして。鹿児島在住の南国シンタロウと申します。34才です。近い将来に大型二輪免許を取得するために、現在普通二輪の一発試験を受験中です。

もともと4輪でサーキット走ったりしてましたが「コーナーを早く抜けるためにはバイクに乗って荷重移動を覚えろ」という、仲間のアドバイスが忘れられず、この歳になって二輪の免許を取得することになりました。
4月の人事異動で比較的年休が取得しやすい環境になったものですから、4月末からほぼ毎週運転免許試験場に通っていますが、明日は7回目の試験。合格できるか心配です。

それではよろしくおつきあいください。
はじめましてるんるん
おいらも高校入学当時に "3ナイ運動(バイクに乗らない・乗せない・買わない)?”真っ最中・・・特にBikeに興味もないまま周り流され、親の承諾書を提出し中型免許取得exclamation & question
取得しちゃったら無性に乗りたくなり、年中無休でアルバイトを半年程しながらBike購入の為、両親を説得あせあせ(飛び散る汗)
やっとの事で購入を許されたのが、車検のない250ccまででしたので、当時バリバリ伝説やスローナブギにしてくれに出てきたあこがれのCB系って事で車検のないSuper_Hork(CB250N?)を購入し、かなり大事に乗っていたのに自宅で夜中に4時間も掛かってチェーンを切られて盗まれてしまい・・・仕方なく、奨学金を借りて安価なVF400F(28万円)を購入して乗ってました。

社会人になったら限定解除は、無理かなと思い在学中に二俣川(神奈川)へ・・・

当時ホライゾンとか言うBikeで、VF400Fよりも走らない!!!
しかもフロント16インチの切り込み特性Bikeに乗っていたので
試験の場でしか乗れないステアリングの違いの違和感の方が苦労しました。

周りは、皆20回とか40回目とかって方で、
やはり若いとダメみたいとの噂が満喫してました・・・

確かに、コース覚え以外は、けっこうな自信があったのに・・・
行く度に曲る時は、路肩に寄ってとか、寄り過ぎとかで違うので、5回目過ぎた辺りから、イチャモン付けられているみたいに思ってしまい、ある程度回数通わないっと取らせて貰えないのかな? っと半信半疑気分で居直ってました(^^;)

お正月を過ぎ、試験場の仕事初めの日に合格させて貰いました♪
発表時どうせ後10回以上は、通わないっとダメだろうっと
上の空で隅っこに居たおいらを歓声と共に取り囲まれて「何回目ですかぁ〜?、ひと桁でも取れるんだぁ〜、俺も頑張ろう」等などの声を掛けて貰い・・・目が点状態でした。

ジャニーズ・スター気分を味わってしまいましたぴかぴか(新しい)...(^^;ゝ
その後の感激は、言うまでもありませんexclamation ×2ぴかぴか(新しい)

何かの条件(もしかして無心とか?)が色々っと噛み合ったのかと思いますが、7回目の出来事でした手(チョキ)わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)
1986か1987年のお正月明けの事でした。

その後、ある事がきっかけ(書けない:東北道、ポルシェ、罰金...etc)で結局、'91FZR1000(定価\135万→\108万円ヘルメット&ジャンパ-)、135PSを買いました...etc
初めまして!平成2年に東京・府中で解除して頂いたツバサパパです。

当時27歳で資金には余裕があったので、今はもう閉鎖になってしまいましたがRTCミタカという練習所でみっちりと技術と心を鍛えてもらい、2度目の挑戦で合格しました。

RTCに合格の報告に行った際、所長が話して下さった言葉は今も、いやこれからもずっと忘れないと思います。
「限定解除に限らず、免許というものは運転できるという証明じゃないんだよ。運転してもよいという許可証みたいなものだと思って、これからも命を守るために精進しなきゃ!」とニコニコしながら言葉を掛けて下さいました(^.^)

こんな所長を尊敬し、当時所長が乗っていたのと同じ「トロイカ」というサイドカーに今は乗っています↑(^^_)ルン♪
 確かに諦めずに「自分に謙虚に、反省は真摯に受け止め努力すれば報われる」と言うことを教えてくれた試験でした。

 『限定解除とは昭和50年10月1日〜平成8年9月30日の間に大型に乗ることを夢見て、本気でオートバイと自己に向き合ったホンモノのライダーだけが叶えることができたドラマである。』そう思っています。

 CB750F(RC04)→CB750(RC42最終)に乗り替えましたが、限定解除の誇りは失っていません。
スクターを買いに行ったら、お店のおばちゃんが中型バイクを指差し「お姉ちゃんならコレ似合うよ」と。

 「免許ないです」と言うと、「持っていると思ったは似合うのに」と言われ、その気になって教習所へ。

当時ミニスカしか持っておらず教習の為にジーンズを買うようなバイクとは全く無縁の生活を送っていました

 意外と何事もなく免許が取れたので、スクターも乗っていない自己流のクセがつく前に大型を取っておこうと思いつき、中型免許の交付と同時に限定解除の申し込みの際に窓口の方に驚かれました。
  
 なぜそのように驚くのかが正直分らなかったんです。

 後にわかりました。限定解除の大変さを

何だかんだとありましたが10回と、結構かかりましたが24年前の話です

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