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【般若心経♡般若倶楽部】コミュの超訳。

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『あるがまま自由の詩』

観自在菩薩は深い智慧の完成を通じて、精神とその対象物の在り方を看破し、魂の自由を獲得した。


シャーリプトラが観自在菩薩に問うた。
私は今、苦しみの中にいる。この苦しみから逃れたい。
苦しみから逃れる方法はあるのだろうか。

シャーリプトラよ、今、正に苦しみ、迷っているのはあなたの心だ。

心は、記憶、感情、思考、意志と言ったものの総体であり、人類が進化の過程の中で紡ぎ出した、自己と自種の保存、つまり人間の生に究極的な目的を置く、物事の関連性(意味)を見出し、選択を為す能力である。

すなわち、心は人間の生に対し、より有利な状態を実現しようとする。

生に対し、不利だと認識する状況では苦(不幸)を感じさせ、有利だと認識する状況では快(幸福)を感じさせて、生への貢献を指向させる。この様な心の働きを我々は欲と呼んでいる。

ではこの本能的な要求に従い、欲を満たすことで、苦から解放され得るであろうか。

現状より有利な状態を常に求めて行くのが欲の宿命であり、その性質上、これが満たされ完了する事は無い。そして、欲を満たせない事によって引き起こされるのが苦であるから、欲の充足によって幸福に至れるという本能的な考え方は幻想であり、苦を滅する事は不可能である。


シャーリプトラは続けて問うた。
それでは宗教に帰依する事に依って、この私の苦しんでいる魂を救済する事は可能であろうか。

シャーリプトラよ、人は何故宗教を求めるのか、思慮深く考えてみよ。

我々は常に、苦しみの中に迷っている。それは真理(本当の世界の意味)が分からず、何を拠り所として生きて行けば良いのか分からないと言う事。

逆に言えば、自らの生きている意味さえ与えられれば、例え苦の中にあっても、迷いは無くなる。人はこれを求めて宗教に群がるのだ。

しかし宗教は、真理の定義に、神や死後の世界という、検証不可能な存在を想定している。これは自らの智慧によって真理を探究しようとすることの放棄、主体性の放棄であり、その教義が示す真理が現実と乖離すればするほど、人間の生に貢献できないのだし、その乖離が明らかになった瞬間、信者は路頭に迷うこととなる。

真理とは現実に一致する認識(知)の事であるから、人間の生に寄与する情報であり、精神はこれを欲する。これに答える為には、我々は智慧によって真理に近づいて行かなければならないのだ。


さらにシャーリプトラは問うた。
それでは縁起の法により、苦の根本原因となる欲を滅することによって、苦から解放され得るであろうか。

シャーリプトラよ、今見て来たように欲は人間の生の要請によるものであるから、これを滅する事は、生を終わらせるか、植物のようになれという事と同義である。

この状態では苦を感じないどころか、苦からの解脱をも感覚できるものではない。あなたはそのような状態を望むのか。

さらにこの論法は致命的な矛盾を孕んでいる。煩悩から自由でありたいという欲望は、他の欲から区別されるものではない。さらに言えば、真理を探究する欲も又同じ事である。

このように苦と迷いは、欲の充足でも、主体性の放棄でも、欲望を捨て去る事によっても実現不可能である。


シャーリプトラよ、改めて言うが、そもそも苦も迷いも人間の生の為に存在している。痛みを感じない体がどうして命を守る事ができようか。

我々は苦から逃れ、心の満ち足りた幸福に至りたいと希求する。しかし、その精神の働きを深い智慧を以て見れば、幸福は重要な事ではないと知れる。

この感情は生に対して有利な状態の実現を認識した時に与えられる飴玉である。幸福そのものを目的として追い求める事は、麻薬を求めさまよっているようなものである。


シャーリプトラは問うた。
それでは私はこの苦を生の証として受け入れて生きて行くしかないのであるな。

シャーリプトラよ、苦からの解脱は不可能であるが、そもそも不必要なのだよ。不必要ではあるが、苦から逃れたい思いそのものを捨て去れば、さらに迷いを深める事はない。

重要なのは、全ての価値の究極的な根拠として存在する生の為、その為に用意された体と精神の働きをあるがままに受け入れ、自己存在の為に闘争し続けて行く事なのだ。


シャーリプトラよ、最後にもう一つ真理を明かそう。

これまで見て来たように、人は、遺伝子の要請で苦から逃れようとし、欲望を持ち、真理を発見しようとする。

この生来的な機能(理性の性)がある為に、我々は全ての物事に対し意味(価値)を見出そうとする。そしてそれは人間を離れた究極的な価値までにも及ぶ。しかし、物事の意味とは生の要請により精神の中にのみ存在するものであるから、人間(理性的存在者)を離れて存在しない。

人間の心の世界を内包する世界の総体は、人間の認識の及ばない処であるから、これにおいて絶対的な価値(意味)なるものは存在し得ない。我々の存在理由を究極的に問うて行く事もこの理由から不可能なのだ。

我々は存在において無根拠であり、世界もそれ自体無意味なのである。

この事が解れば、どのように生きれば良いかと言う命題に対して、神や死後の世界のようなものに惑わされる事は無いし、無根拠である自己の存在を受け入れる事ができれば、もう何ものにも縛られる事はないのである。

ここに於いて、あなたの精神は自由となる。眼前に現出した新たな世界において、智慧を燈明とし、自ら価値を創造して行けるのである。


シャーリプトラよ、偉大なる真言を、明らかなる真言を、無上の真言を、比類無きこの真言を唱え、この智慧を自らの遺伝子に深く刻み込むのだ。

真言はすなわちこう説かれる。

闘争せよ、闘争せよ、自己の存在の為に。
この無根拠なる自己存在の為に。
無意味なるこの世界に意味を投ぜよ。
私はあるがまま自由となった。


シャーリプトラと観自在菩薩は再び一体となった。

20100629

コメント(4)

儂、西洋哲学にゃぁあまり明るくないが、
なんだかこれは、如何にも論理的にて西洋っぽいなぁ〜
って感じた…

真言が「闘争せよ、闘争せよ、、」ってのは、なかなか違和感があるが、
逆も亦真理なり、って気もしてくる…


(⌒-⌒) ニコニコ..
  人  合掌 ハート達(複数ハート) 全てにこころより感謝…
>くわさん

闘争せよって言うのは、自分自身の中で闘争せよってことですよね!?

解る解る・・真理は哲学じゃない事も解る。



ところで、プロフィールを見たんですけど、現在もソウルですか!?
コメントありがとうございます。

>管理人様
楽しいコミュの運営に感謝いたします。
最近ふと、我々は生きているがままに、彼岸に達しているのかなと思います。
それは決して安らぎの世界ではなく、悩みと不安に満ちた世界。
でもだからこそ楽しいじゃんって。
皆さんの考え方を見させていただき、考えを深めて行きたいと思います。
>みーちゃんさん

コメントありがとうございます。

たしかに闘争という表現は取り方の幅がひろいですよね。
まだ私もはっきりとしませんが、生きるためにもがくという意味あいかな。
でもそれは誰もがやっている事ですね。
ここではそれでいいし、それでいいことを認識する事がそのまま彼岸ではないのかという
仮説を提示したつもりです。

現在もソウルです。しばらくはここで漂流してそうです。

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