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空の小説コミュの勝者の秤

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地名・名前・正式年代はあえて変更してある箇所があります。

コメント(8)

1944年 シンガポール

シンガポール市外の北にある「ミリ」日本人捕虜収容所

英国軍は撤退した日本軍の施設を次々と接収し、残って抵抗していた日本陸軍

を殲滅し、降伏した日本兵をミリ地区の捕虜収容所に集めた。

そこに捕虜として収監されていた日本帝国軍人「新井寛治」陸軍少尉の話である
カーキ色の制服を着た英国軍の中尉が兵舎に入って来た。

「今から名前を呼ぶ者は、わたしに付いて中隊長の部屋まで来てください」

通訳は中尉の話す英語を兵舎にいる日本人捕虜に伝える。
紙を見ながらローマ字の日本名を読み上げると日本人が4人立ち上がる

「では、付いてきてください」通訳は4名に言うと背を向けた

中隊長の部屋とは英国陸軍工兵大隊所属の「日本人捕虜収容所所長」の部屋

の事だった。

無言で4名の元帝国陸軍軍人は金髪の中尉に付いていく、木造の兵舎で6名の

足音だけがギシギシと音をたてていた。

日本人捕虜収容所の所長、ジェイド大尉は4名の日本人捕虜に「楽にしてくれ」

と言い椅子に座らせてから、ミネラルウォーターを勧めると

「キミたちに特別な任務をお願いしたい。北ルトンの「INA」の捕虜たちを監督して

ルトン製油所のタンク修理を行ってほしい」

通訳が日本人達に伝えると

「我々がINAの捕虜を監督するのですか?」と新井寛治陸軍少尉は復唱する。

「そうだ、INA捕虜が収容されてる北ルトンで作業監督を行ってほしい」

INAとはインド国民軍の事だ。シンガポールを統治していた英軍には同じように

統治していたインドから兵士を募りシンガポールに駐屯させていた。

日本軍が侵攻すると英軍は撤退、残されたINAは降伏するしか方法が無かった

降伏したINAの中から日本軍は「天皇陛下への忠誠」を誓う紙を書いた者を

「日本軍」に編成してシンガポールの防衛にあたらせる。

降伏して日本軍に編成されたインド人と、捕虜収容所に英軍と入るインド人。

イギリス統治のインドは最終的に「戦勝国」となったが。INAと言う軍隊では

日本軍INAと言う捕虜が存在していた。もともと国防の精神などないインド人

兵士の士気は弱く、実際に「命が助かる」という目先の安全に多くの兵士が

誓いの紙を書き日本軍に編入されていた。

「インド人というのは我々イギリス人の言う事を聞かない、よってキミたち日本人

を派遣して彼らを監督してほしい。キミたち4人は全員クリスチャンだ、我々は

キミたちを信用して派遣させる事にした」

連合国軍に爆撃され破壊された北ルトンの製油タンクを撤去してほしいと言い

給料も支給するし食糧や備品も十分に用意しよう。と約束した

1944年 9月

陸軍少尉 新井寛治
陸軍上等兵 西野隆
陸軍上等兵 平井雪彦
陸軍兵長   牧野幹夫
の4名はローバーのジープに乗せられ日本軍捕虜収容所から北ルトンにある
INA捕虜収容所に向った。

整列したインド人捕虜600名が迎える中、ジープから降りた4名は英国軍人の並ぶ

一番端に整列する。

ミリの捕虜収容所の所長、英国陸軍ミランダ中尉は胸を反らして木の棒を持ち

整列しているINAの捕虜たちを睨みつけていた。

「おまえたちインド人は、働かない。動かない。話せない。のないない人種だ!
規則は守らない、掃除もしない。本当の事を言わない。のないない人種だ!
下等なお前たちなど、日本人の監督で十分だ。
と、いうことで今日からこの日本人の監督と一緒に働いてもらう」

英語で話す事を通訳が大声で整列したINA捕虜たちに伝えるがインド人たちは

ニヤニヤと笑うか無表情に聞いているだけだ。

髭を生やし浅黒い顔と彫りの深い顔がズラリと並んでいて見分けも付かない

英国軍人のINA捕虜に対する感情は酷かった。

自分たちの統治している国の兵士が裏切ったという感情と、元からある英国人の

持つ差別意識がこれに加わる。言う事を聞かないと虐待や懲罰を平気で行う。

日本人捕虜に対する待遇とはまったく違っていた事は新井少尉は判っていた

600人のインド兵を解散させるとミランダ中尉はゆっくりと演壇から降りて新井少尉

の前にやってきた。英国軍人らしく敬礼すると「わたしに付いて来い」と言い

管理兵舎に入る。

英国軍人はプライドが高い、シンガポール。ボルネオで捕虜になった英国軍人と

INAを日本軍は捕虜収容所に移送できる車両が無かった。その時点で日本軍

の物資輸送には問題があったわけだ、INAの多くが日本軍に編入されたが

英国軍人は全員で捕虜となり収容所に入ることになる。若干の軍人が「日本軍

通訳」として採用されただけだ。

そして有名な「バターンの死の行進」が起きる
多くのアメリカ・フィリピン人捕虜が命を落とした、食糧と水の無い炎天下の徒歩移動により

衰弱死していく、連合軍がシンガポールを解放し英国軍は再び戻って来たが

すでにアメリカ軍により捕虜収容所は建設され、日本軍捕虜はそこに収容されていた

英国軍人の多くは日本軍人への報復を行わなかった。騎士道の精神と軍人精神が

永く英国人の心に植えつけられていたからだろう。ただ一部の官僚系の軍人は

この「バターン事件」を日本軍への憎むべき行為として覚えていたのだろう。

1日20kmの徒歩行軍を3日間。60kmの炎天下の行進によってマラリヤ熱や風土病

で死亡した連合国軍捕虜は1万人にもなる。

体力や兵隊の錬度を比べる材料には出来ないが、当時の日本兵の行軍訓練と実戦行動

距離は1日30kmを越えている。

勿論、戦争捕虜に対する行為としては1日20kmを行進させる行為は異常だったかもしれない

1944年終戦を迎えてボルネオ、シンガポールの近郊には多くの日本軍人捕虜

が収容所にいた。そして1946年「戦犯裁判」が始まる

戦時中の日本軍の行いを裁き、多くの日本人将校が処刑された。「勝者の秤」とは

不公平な事がある。

英国軍軍事裁判記録は近年に公開されて、多くの「戦犯裁判の記録書類」を閲覧

することが出来る。その書類は日記形式になっていて証人の証言と弁護人氏名

検事の言った内容と判決。そして処刑方法と執行日時が記録されている。

ボルネオとシンガポールで行われた軍事裁判は「一人の被告」に対して4日間行い

始まってから4日後には判決が出るというスピード裁判だった。

英国軍人裁判官は検事も兼ねている。被告弁護人も英国軍人弁護士と旧日本陸軍

大佐 岡崎幹彦弁護士がボルネオとシンガポールの両裁判を掛け持ちしていた。

4日間のスピード決裁であり弁護人の証言が届かない判決が数多く、英国軍人

弁護人の証人喚問停止による短期決裁も行われている。

1944年 10月

新井寛治少尉は北ルトンのINA捕虜収容所600名の中から210名を選抜し、収容所の

北13Kmの場所に兵舎を建設し「ルトン製油所の石油タンク撤去」の任務についた。

西野・平井の両上等兵と牧野兵長の4名で210名のインド兵を監督し兵舎施設内の

鉄条網は撤去し作業時間も厳守。英軍から支給された車両一台で報告作業は

4名で交代で行う事にする。英国軍の駐屯する捕虜収容所まで週に一度を往復し

必要物資と食糧を運ぶ、実質の労働作業は200名、残り10名の役割は監督補佐

と物資輸送の運転手となる。車両運転経験者はINAの中に少なかった。

北ルトンの捕虜収容所との待遇とは違い、自由時間もあり食糧支給も不備や不公平

もなく、日本軍軍規による特殊任務施設となっていた。

それでも選抜したINA兵士の中に何度か脱走する者がいたが、ジャングルの中で

永く行動することは出来ないのとルトンという地区の特殊な自然の中ですぐに発見され

連れ戻される。脱走する兵士は決まっていた、いつも同じ兵士とその仲間ということだ。

彼らを元の北ルトン収容所に戻して補充の人員を連れてくれば済む事だったが

新井少尉は西野上等兵と相談して、彼らを戻さずに原隊復帰とした。

理由は、北ルトンに彼らを返すと憲兵による懲罰を受けることになり、営倉禁固と

なるからだった。また現地ではマラリア熱による体力減退も頻繁にありインド兵士の

体力がマラリア熱に弱い事から過度の労働や英国式の懲罰に耐えられないと判断

した。

事件は1944年、12月4日に起こった

ラチェット・シン
ファラ・エハット
ブハット・シュタルーの3名が食糧倉庫から食糧を奪い脱走した。首謀者はラチェット・シン

彼の5回目の脱走だったが、今回は「食糧倉庫」から食糧を事前に兵舎に移動し、夜半

に兵舎近くに隠蔽、計画的な脱走と判断された。

12月4日に判明し12月5日の一日を全員で捜索、行方は判らなかった。

新井少尉は半数を捜索に従事させ、残りを作業に当たらせ捜索には西野上等兵と

牧野兵長に任せる。

度重なる脱走に平井上等兵と牧野兵長はラチェット・シンに対して激怒していることは

この時の会話証言で判明している。

「彼を北ルトンに返すべきです」と主張する平井と牧野に新井少尉は「否」と返答している。

12月6日未明

ラチェット・シン以下全員が発見され連行される。

新井少尉は210名全員の集合を号令し兵舎前に整列させると、ラチェット・シン達脱走者を

最前列に並ばせた。その時点で彼らは自力歩行が出来、マラリア症状は発生していない

健康な状態と判断。日本帝国軍人式の懲罰を行うことを決意

平井上等兵による竹の棒による大腿部殴打の後、インド兵3名を選抜しそれぞれ竹の棒による

大腿部及び腰部の殴打を行ない、首謀者のラチェット・シンを兵舎中央の柱に捕縛させた。

ファラ・エハットとブハット・シュタールの両名は原隊復帰させる

新井少尉はその懲罰後に北ルトン収容所にジープで報告に向う

夜7時、新井少尉は兵舎施設に戻る。西野上等兵による「ラチェット・シン死亡」の報告を受ける

兵舎に西野上等兵と牧野兵長を伴い、ラチェット・シンの遺体を確認した。

呼吸ありの為、捕縛を解き、ミリの日本人捕虜収容所にいる「高橋恒夫」陸軍軍医少尉に

連絡したが、軍医少尉の到着前にラチェット・シンの呼吸停止。

到着した高橋少尉の診断は「マラリア熱による呼吸不全による死亡」と判断され診断書と

死亡報告書が作成され北ルトン収容所に提出され受理された。

だが、受理された日時記録は1945年 1月20日となっていた事は裁判時に判明。

1945年1月30日、同じくマラリア熱により「平井雪彦陸軍上等兵」死亡

同じく1945年12月未明 タンク撤去作業中に「牧野幹夫陸軍兵長」死亡

明けて1946年2月、ボルネオ・シンガポールの日本人戦犯裁判が開始される。

新井寛治陸軍少尉と西野隆陸軍上等兵に出頭命令

軍事裁判被告として起訴 容疑は「連合国捕虜への虐待」であった。

インドはイギリス統治下にあり戦勝国となっている。INAの兵士は全て戦勝国兵士であり

懲罰により死に至らしめた事は戦犯として裁かれるべきである。これが英国軍事裁判所の

通告文章内容であった。

ラブアンにて「ボルネオ島」諸島における軍事裁判が本格的に開始

各地で軍事裁判が連日行われ短期での決裁となる。

ニューギニア・ラバウル日本人捕虜収容所内の光葉久直陸軍大尉の軍事裁判を例にとると

INAインド軍兵士が数度の脱走と勤労倦怠の為、軍刀による斬首とした。

罪状は捕虜虐待による死刑求刑。翌日に日本人弁護士による減刑求刑を受けて

懲役20年で結審

多くの戦犯被告に対して連合国軍側裁判官は3名しかいなかった事が短期結審の原因となった

証拠、証人などの出廷や証言が間に合わず、広い諸島内を輸送機関が不足している状態の中

日本人弁護士、元陸軍大佐岡崎幹彦は多くの日本人戦犯を救う事が出来なかった。

幸い、ラバウル裁判に間に合った岡崎が光葉大尉の減刑に成功したということだ

収監された新井少尉と西野上等兵の裁判は5月10日に開廷された。

「インド人兵士を虐待目的で拘束、杵の柄の部分を使い数十回の殴打を繰り返し、同胞である

インド兵士にもこれを強要、やむなくインド人同胞は応じて殴打。殴打後に兵舎の柱に捕縛し

平井上等兵と牧野兵長による虐待殴打を行う命令を下した」

英国軍裁判官兼検事は死刑を両被告に求刑

5月11日

INAインド人捕虜による証人証言によると

「死亡したラチェット・シンは我々インド人の間では嫌われ者で、何度も脱走し、食糧を盗み

他のインド人にリンチをしていた」

「12月6日に発見された時、マラリア熱で目が赤かった」

「兵舎に捕縛されたシンには誰も触っていない」

全ての証言はインド人の英語読解力の不足により却下

5月12日

新井寛治被告と西野隆被告の弁護人証言

井原啓二、民間人 日本商社ボルネオ駐在員

「新井寛治陸軍少尉は、インド人捕虜に関して寛容な態度で接していました。自身で得る

英国軍からの給金はすべてINA兵舎施設の備品購入に使っています。

施設内にある、遊戯道具、机、筆記用具はすべて支給品ではなく新井少尉の購入品です」

ここで英国側裁判官から発言

「すべて証拠証言とはならないので証言は却下する」

この裁判では現在の日本の裁判方式の手本となる「交互証言」が守られていない

元は「英国式の裁判」のはずだが、弁護人証言と検事側証言の交互を裁判官が判定する

という方式が、検事と裁判官が同一の為、一方的に弁護側証言が棄却されるケースが

頻繁に行われた。

弁護側証人の発言に関して反対尋問に裁判官が加わる事は本来禁止である。

ラバウル裁判では連合国からの弁護人と日本人弁護士が裁判官に対して「減刑」を

求めて受理されているケースが多いが、英国軍事裁判では連合国側弁護人と日本人

弁護士の同席と弁護はされていない。

「新井寛治陸軍少尉と西野隆陸軍上等兵はクリスチャンであり、英国陸軍の要請により

INAインド国民軍兵士の監督と連合国施設の修理に従事していた」という事実は消され

「インド国軍兵士を捕虜収容所内で虐待行為を行い、戦勝国兵士を死に至らしめた」

と刷り返られた。

全ての弁護証人の証言は却下され「戦犯」として結審

5月14日 判決

新井寛治陸軍少尉   絞首刑  1947年1月11日執行

西野隆 陸軍上等兵  銃殺刑  1946年9月27日執行

勝者の秤は傾いたまま、多くの日本人が終戦後に不当に殺害されたが、今の日本では

掘り起こす事も少ない。

証言台に立った「高橋軍医少尉」の証言

「新井少尉の報告を受けて死亡したシンを検死しました。顔面腹部に殴打の跡はなく

少尉はシンを懲罰に耐えうる体力ありと判断し、なお原隊復帰のための懲罰を行ったと

思われます。これは日本陸軍の軍規に沿って、シンを軍人として処罰した証拠です

上官たる少尉が部隊の兵士を虐待することは日本国軍人にはありません。

また、シン被告の死亡原因はマラリア熱による身体不全です。殴打による外傷などでは

ありません」

・・・・・・・・・・・・・勝者の秤・・・・・・・・・・・・終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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