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人間論および人間学コミュの ー痴愚人間論ーエラスムス『痴愚神礼讃』について

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ーーーーーーーエラスムス『痴愚神礼讃』について ーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーー痴愚人間論ーーーーーーーーーーーーー


  一、「痴愚神礼讃」のテーマについて

 人間の本質を語る人々は、他の動物と人間を対置して、人間の本質を理性に求めるのが普通です。ルネサンス期の思想家達も人間理性の主体性を確立しようと苦闘していたのです。

 その中でエラスムスの『痴愚神礼讃』は、人間社会がいかに痴愚に満ちているかを徹底的に暴き出し、風刺したのですから、逆に言えば理性の支配を求め、理性を礼讃するものであったと言えましょう。この意味ではやはりエラスムス自身が人間の本質を理性に求める立場に立っているのです。

 エラスムスはこの書を彼の親友トマス・モアのところに滞在していたときに書いたのです。そしてこの書をモアに献じています。

 献辞で彼はこう述べています。

 「実は、私はあなた御自身のお名前のMorusという字をまず考え、それと似ているMoriaという字を思い出したのですが、もっとも、あなた御自身は痴愚女神(Moria)とはおよそ縁のないかたですし、その最大の敵でもあられることは、皆もひとしく認めているところです。」(『世界の名著十七』中央公論社、51頁〜52頁)

 渡辺一夫は『世界の名著』の解説で「おそらく、見たところは痴愚神Moriaを礼讃するかのごとく思われるが、結論としてわれわれに伝えられるものは、痴愚神の敵とも言える聡明冷静なモアの、あるいはその精神の礼讃になっているのである。

 …この痴愚神の自慢話こそ、人間の痴愚と狂気とにたいする痛烈な風刺、賢明なモアの精神を讃えるに相応しい風刺であることが分かってくる。」(29頁)

 渡辺の解釈ではエラスムスが礼讃しているのはモリアではなくてモアだということになります。つまり「痴愚」ではなく「賢明」こそが礼讃されていると解釈しているのです。

 確かに痴愚に満ちた人間社会を風刺しているのですから、渡辺の解釈は一応正しいと言えるでしょう。とはいえ痴愚の効用が様々に説かれており、あながち痴愚神への礼讃は皮肉とばかりは言えないように思われます。

 このことについて渡辺は「痴愚の女神に導かれるがままにあらゆる大小の痴行愚行を犯す人間全体への批判の後ろには、卓絶した人間観察者としてのエラスムスの目が光っているように思われる。」(29頁〜30頁)

 「『痴愚神礼讃』は、かくのごとく、生殖を推進する「痴愚神」というような人間に対する諧謔的な軽い風刺と、戦争に人間を駆り立てる「痴愚神」というような人間の狂乱無思慮に対する痛烈な風刺とによって成り立つのである。

 そして前者のおどけた調子は、後者の「危険思想」的な激しさを目立たなくするために用いられたらしく思われる。」(31頁)と説明しています。

 渡辺の解釈はあくまで『痴愚神礼讃』を理性的な啓蒙の立場から、人間の痴愚に対する批判としてのみ読み取っているのです。

 しかし、キリスト教ヒューマニズムは人間の痴愚を決して無価値なものとして扱いませんし、元々高く評価しているのです。ではラッセルと野田又夫の『痴愚神礼讃』の解釈を紹介しておきましょう。

 ラッセル『西洋哲学史中巻』(市井三郎訳、みすず書房)より
 「『愚神礼讃』は、真の宗教は痴愚の一形態である、という真面目な示唆でもつて終つている。

 この書の全篇を通じて、二種類の痴愚が述べられているのであり、一つは皮肉から礼讃されている痴愚であり、いま一つは真面目に礼讃されているものである。

 真面目に礼讃されている愚かさとは、キリスト教的な単純さに示されているものであって、その礼讃はエラスムスの、スコラ哲学に対する嫌悪や、非古典的なラテン語を用いる学者博士たちへの嫌悪と、一体をなすものなのである。

 しかしこの著作は、より深い一面を持っている。すなわちそれは、わたしの知る限りでは、ルソーの『サヴォアの牧師Savoyard vicarに述べられた見解ー真の宗教は頭ではなく、心情からくるものであり、混み入った神学はすべて余計なものだという見解ーが、始めて現れている文学なのである。

 このような考え方は、現代までますます通有的なものとなつてしまい、プロテスタントの間ではかなり一般的に受け容れられいる。それは本質的には、北方の感傷性によるギリシャ的主知主義の排斥なのである。(211頁〜212頁)

 野田又夫著『ルネサンスの思想家たち』(岩波新書)より
 「それは「愚かさの女神」が、世にいかに愚かごとが多いかを数え上げ、みずからの力を誇るという形をとっている。

 第一に人間の感覚的生が非合理的であって愚神の支配下にあることが語られる。たとえば人間の誕生の原因すなわち結婚は、理性でなく愚かな情念をもとにしてのみ成り立ちうる。

 人間の生命力の発露と幸福とはむしろ愚かさの支配の中にある。しかし第二に人間の理性的反省的生においても、支配しているのは、むしろ欺瞞であり非合理であるという。

 エラスムスの陽気な生の賛美が次第に迷妄の批判を含んでくる。例えば哲学者、神学者の奇妙な論議、修道僧、説教僧、僧正、法王の非福音的なあり方。法王は宗教の方はひと任せにして、戦争を主な仕事にしている。法王庁には書記、写字生、公証人、弁護士、馬丁、銀行屋、娼婦がむらがっているという。

 しかしすべては愚神の手前味噌として軽妙にのべられているのである。

 第三に、聖書の引用が多くなる。愚神はみずからキリスト教の教えるところにしたがっているのであるという。パウロは、キリストを信じることがギリシャびとの知恵に対してはまさに「愚か」を意味するといっているのである。

 『愚神礼讃』は戯文であるが、単にそれだけではない。右に示したように、そこには三つの段階すなわち感覚的生と理性的生と宗教的生が分たれ、「愚かさ」の意味も各段階で意味を異にする。そして第三段階ではパウロのキリスト教そのものを意味している。エラスムスは後に、『愚神礼讃』は『キリスト教戦士必携』と同じことをのべたものだといったことがある。」(111頁〜112頁)

 確かに人間の痴愚に対する風刺が『痴愚神礼讃』のテーマなのですが、その場合人間を痴愚として捉えることが批判されているのではなくて、自己自身の痴愚を自覚できない痴愚が批判されているのです。

 これは現代的な問題意識で言えば倒錯批判です。そしてこの自己の痴愚を知るという発想はバイブルだけではなく、「汝自身を知れ」という神託に導かれたソクラテスの「無知の知」の自覚が下敷きになっています。

 そのうえ痴愚の女神に操られる心理構造の分析は、フロイト学派の心理分析も顔色を失うほど、見事な人間観察を示しています。

 人間の本質は理性でありますが、理性であるがゆえに痴愚でもあるのです。

 なぜなら人間の理性は相対的なものでしかなく、絶対的な意味で理性的な存在は神として外化されざるをえないからです。

 神との対置において人間は自己の痴愚を自覚し、神の救いを求める宗教的な存在となります。キリスト教ヒューマニズムが痴愚に宗教的価値を認めるのはその為です。ではモリア(痴愚女神)の自己賛美の内容を検討しましょう。

コメント(22)

ーーーーーーーーーーーーーーー二、馬鹿喜劇ーーーーーーーーーーーー


 四十年ほど前、松竹新喜劇で藤山寛美の当たり役で阿呆の若旦那や若君役がありました。

 父親役の渋谷天外にとっては馬鹿息子が息子が大変愛しいのです。馬鹿息子は少しもけれん味がなく、裏表がありません。素直な心情で感じたままに口に出し、行動するので、大人の世界のごまかしや欺瞞が通じないのです。

 それで陋習や偏見によって押し潰されていた人情が、馬鹿息子の活躍で取り戻されるというのが筋立てになっていました。なんとなくユーモラスで温かい馬鹿(若)旦那の登場で、観客の気持ちは軽くなり、なんとなく楽しくなります。そして馬鹿(若)旦那の物真似が流行ったりしたものです。

 丁度同じ頃だったと思いますが吉本興業でも『番頭はんと丁稚どん』という頭の足りない丁稚を主人公にした、ドタバタのコメディが人気を博しました。

 大村昆扮する馬鹿の丁稚は馬鹿だから要領が悪く、いつも失敗ばかりして叱られたり苛められたりしています。観客はその馬鹿さ加減に抱腹絶倒して、笑い転げます。

 人間誰しも自分の馬鹿さ加減に自己嫌悪を抱いているものです。だから自分より馬鹿なことをする人間を目の前にすると気持ちが楽になり、優越感からなんとなく嬉しくなるものです。それも自分と同程度の馬鹿では自己嫌悪が募りますので、徹底した馬鹿の方が受けるのです。そこでコメディでは破茶滅茶な馬鹿が登場しました。

 しかし、馬鹿だから正直で素直です。決して人を憎んだり恨んだり、人に対して悪意をもったりできません。だから馬鹿は馬鹿正直にしか生きられないことによって、馬鹿を馬鹿にしていた人々のいやらしさを浮き彫りにします。脇役たちは、一番大切なものを見失っていた自分達の馬鹿さ加減を思い知ることになるのです。

 馬鹿喜劇に登場する主人公の馬鹿は、ひとまずは、観客達が自分達の馬鹿さ加減を外化し、そのことによって自分達を馬鹿ではない人間としての優越感を獲得するための道化です。しかし、馬鹿を馬鹿して終わりでは、人から馬鹿にされることに普段から最も疵つけられている観客達にすれば、反って後ろめたい気持ちになってしまい、後味が悪いものです。そこで観客達はこう考えます。「あの馬鹿は程度の差こそあれ自分自身の馬鹿でもあり、それを笑っている自分は、自分自身を笑い者にしているのだ」と。

 それで今度は馬鹿に限りない共感を寄せます。そして、あの馬鹿さ加減は実は感じたままに正直に行動する余りに我を忘れ、ブレーキが故障してしまった状態なのだと受け止めます。

 そこに計算のない真実の気持ちの現われを感じます。馬鹿の行動は破綻しているけれど、破綻しないために不純になった正常な常識的行動には見られない大切な魂の息遣いがあるのです。

 不純な行動とは、他に目的があり、心はそこに行ってしまっているのに、その手段として必要なために自分の気持ちを誤魔化している場合にも見られます。かくして馬鹿は人間の本来の姿を表現することになるのです。

 人間は馬鹿なことをすれば破綻するだけですが、馬鹿なことをしないために本来の気持ちに背いて、自分の一番大切なものを見失ってしまうというジレンマに陥っています。だから馬鹿喜劇の馬鹿は人間を本来の姿に立ち戻らせるヒーローであり、馬鹿天使なのです。それで馬鹿役が登場すると観客は和やかで暖かい気持ちになれるし、何か幸せな気分に浸ることができるのです。

 モリア(痴愚女神)は、登場に当たって、こう語っています。「このように大勢の皆さんの前へ私が姿を現わしただけで、たちまちどなたの表情にも、今までにない不思議な陽気さが浮かんだではありませんか。」(57頁)

 「人々の精神から憂苦を追い払うということも、この私なら、姿を現わしさえすれば、まんまとやってのけられるのです。」(58頁)そのわけは道化や馬鹿天使の役割を考えれば納得がいくでしょう。
            三、モリアの出自


 モリアは登場するなり滔々と自画自賛を展開します。自画自賛をするのは馬鹿の極みだとか言って罵っても、ちっともモリアをけなしたことにはなりません。

それにモリアのことを一番良く知っていて、モリアを賛美できるのはモリア以外にはいないのです。

「私以上に私のありのままの姿を描けるものが他にいるでしょうか?私以上に私を識っている人はだれもおりますまい。」(59頁)

 この台詞はソクラテスを連想させます。ソクラテスは、自然哲学では何も確実な知を得ることができないことに気付きました。

「汝自身を知れ。」というアポロン神殿の標語に導かれて内面的な徳や魂の探究に向かいます。

そして、「ソクラテスに優る知者はいない。」という神託を授かり、自分は何も確実な知を持っていないのに、自分が一番賢いことなどあり得ないと考え、そのことを確かめるために、名だたるアテナイの賢人達と問答を行います。

ところがいわゆる賢人達は、自分の狭い経験から得た知を無反省に体得しているだけなので、相対的な知を断定的に語るだけで、それを普遍的に論証することはできません。

ソクラテスは経験的な知の相対性と限界をよく知っていて、それで自分の知が確実でないと考えていたのですから、賢人達の知が極めて一面的で不確実な知であることを暴露してしまったのです。

 そうして自分の無知を知っているだけ、自分の無知に気付かない賢人達よりソクラテスの方がより知者である事を実証してしまったのです。

ソクラテスがよく知っていることは自分自身の無知です。ですから「汝自身を知れ」という標語に最も叶って自己自身を知っていると言えます。モリア(痴愚)=無知ですから、最大の賢者であるソクラテスとモリアは等しいのです。

エラスムスの時代のソクラテスはモアです。そこでモア=モリアが成り立つことになります。やはり、モアが全く縁がなくむしろ最大の敵対者であるモリアとは、自分自身のモリアに気付かず慢心しているモリアなのです。
 さて、ではモリアの出自を聴いてみましよう。

 モリア自身が語るところによれば、モリアの父は、「人間や神々の唯一の生みの父」たるプルトス、つまり豊穣富裕の神です。

 豊かになればなるほど何でも財力で思いどおりになるので、かえって痴愚に陥るということでしょうか。そう言えば、名だたる実業家も、初代はハングリー精神で頑張りますが、二代目は親の七光で大した努力もしないで家業を継ぐので、優れた参謀に恵まれない限り、身上を潰すことがよくあります。

 エラスムスはそれだけでなく、人間の豊かさや余裕から生じる全ての文化を、痴愚として捉えているようにも思われます。

 「今日でも昔でも同じように、このプルトスの一挙手一投足のために神界も人間界も転覆することがありますし、この神様の御心しだいで、戦争も平和も政府も議会も裁判も会議も結婚も条約も同盟も法律も芸術も遊学も勤労も…人間のありとあらゆる事が、どうにでもなるのです。この神様のお力添えが無かったら、詩歌に唱われる神々の一切が、敢えて申せば、大神たちまでが、存在されないことになりましょう」(六二頁)

 文化を余剰として捉え、人間を余剰を積み上げることを衝動的な楽しみにして生きている動物として捉え、その上、人間は積み上げ過ぎて却って重荷になってくると今度は激しくそれを蕩尽する衝動を持っているとする人間論があります。

 これはポランニーやバタイユの議論で、日本では『パンツをはいた猿』の栗本慎一郎が強調しています。文化を余剰として捉え、その積み上げ自体を衝動的に行っているとしますと、その文化の持つ意味や価値はこの衝動を掻き立てるために与えられるに過ぎないことになります。

 つまり、それぞれの文化の価値体系やイデオロギーはその文化を積み上げるために恣意的に造り上げられたいわば幻想だということになります。

 この立場からは、叡知の結晶のごとく見える文化の蓄積も、それを積み上げては壊している幼児の積木遊びに等しいのですから、まさしく痴愚に他ならないことになるでしょう。

 実際、宗教的に捉えるとしますと、人間の文化の営みなど絶対者の天地創造と比べれば児戯に等しいことになりましょう。とはいえ、痴愚だと悟ってしまえば、文化的な営みを放棄して山に籠った方がよいということにはなりません。

 もし神様がおられるとして自然を司どっておられるとしまと、直ぐに散らせるために花を咲かせたり、美しい鹿を野獣の餌食にされたり、随分と愚かで無慈悲な事をなさっておられます。

 被造物の分際で神を馬鹿にするのは、浅はかで罰が当たるかも知れませんが、人間はどうせ神からすれば馬鹿ですし、馬鹿に愚かと言わせるようなことをなさっているのは神様御自身です。それに馬鹿に馬鹿と言われて怒るようでは神様とは言えますまい。

 神様だって、飽きずに様々な自然の営みを司っておられるのですから、人間が自分達の自然としての文化的な営みを止めるわけにはいきません。

 それに神は神で御自分の基準に合わせて自然界や人間界を統治されているとしますと、人間が自分達の基準を造り上げてそれに従って文化を創造し、積み上げることは、神を見倣う事にもなります。

 だとすれば、それに打ち込んで一所懸命に頑張れば頑張るほど神の御心にも適う筈です。ただし、その営みの痴愚を忘れ、文明のきらめきに眼が眩んで独善に陥ってはならないのです。
 モリアつまりエラスムスの言うところでは、プルトスがまだ壮健で青春の血に燃え立っていた頃、神々の宴席でたっぷりといただいた神酒「ネクタル」の熱気に燃え立っていた折り、麗しい妖精達が給仕をしていました。

 その中でも一番艶麗で一番陽気な、ユウエンタス(青春)と「愛の契り」を交して、その結果、モリアが生まれたのです。

 武田鉄矢作詞「母に捧げるバラード」にこんな台詞があります。「あの日、父ちゃんが酒さえ飲んで帰って来んかったらお前のごたあ馬鹿息子はできとらんとにねえ。」

 精子がアルコール漬になって、それでおつむがどうにかなったのかも知れませんね。これは世間でもよくいわれていることです。

 でもエラスムスが言いたいのはそれだけのことではないでしょう。神酒は神懸りするために巫女や祭司が飲むものです。その中には毒茸などの秘薬が混っていたりします。その効きめで忘我状態に陥り、神と一体化するのです。

 この状態になって始めて、彼らの言葉は神の言葉として認知されます。人格がこの状態ではなくなっていると見なされるからです。実際、酔っ払っていてしたことはすっかり忘れていることがあります。その泥酔がひどくて心神喪失と認められますと、その間に犯した殺人などの犯罪行為も罪を問われないことがある程です。

 この人格の喪失は一種の痴呆状態でもありますが、また同時に、それは神聖な神懸りの状態でもあります。人格の殻が破られ、人と自然、人と神の断絶が解かれるのです。

 このように自然の中に溶け込み、神と合一する事が未開的な宗教では人間の本来の姿と考えられていたのです。神酒に酔い痴れ踊り狂う「バッコス祭」、幕末の「ええじゃないか」、今日でも熱狂的な「リオのカーニバル」等、痴愚の狂乱にこそ人間性の解放、生命の充実が見出せるとも言えましょう。

 ネクタルに酔ったように我を忘れて何かに熱中する、それが青春(ユウエンタス)です。冷静な判断力を失って、自分を過信し、やみくもに突っ走る姿は、冷静な第三者からは、馬鹿としか言いようが無いかも知れませんね。

 そこから生まれるものも求めていたものとはまるで違っていて、幻滅せざるを得ないことが多いようです。青春が痴愚ならその挫折の結果としてのその後の人生もそれに劣らず馬鹿馬鹿しいものになってしまうのかも知れません。

  
 さて、モリアの生まれは何処でしょう。それは種蒔や勤労をしなくても収穫が為される福楽の島々だということです。

お釈迦様は人生には生・老・病・死という四つの苦しみがあると言われました。なんとモリアの生まれたこの福楽の島では勤労とか老衰とか病気とかいうものは知られていないのだそうです。

人間は人生の様々な苦しみからそれ等に対処するための様々な知恵を得ることができる道理ですが、福楽の島ではそれがないのですから、それだけぼけてしまうのも当然ですね。

 その上、モリアは、バッコスの娘の「陶酔」と、パンの娘の「無知」との乳房からお乳を飲んだということです。何かに憧れ、何かに陶酔することで、その対象と自分との区別がつかなくなります。

アイドル歌手に夢中の少女は友達に逢えば、いつも口に出るのはそのアイドルのことです。かって、タイガースやスパイダースに興奮した少女達は多数集団的に失禁したそうです。ファミコン・ゲームは少年達を興奮のるつぼに誘い込み、何時間でも釘付けにすることができます。

自分の親が死んだ時も、妻子に逃げられた時にも一粒の涙も落とさなかったのに、阪神タイガースが優勝したときは一晩中泣き明かした中年男性も多かったようです。物事に熱中できるということはとても素晴らしいことです。感動や興奮、我を忘れた熱中の中にこそ、生きていることの実感が掴めるものです。白けてばかりの人生では詰まりません。

 地面に小さな穴を開けてそこに玉を棒で打って入れる競技がありますが、それだけのことで大きな地面を使って愚の骨頂だと言ってしまえばそれまでです。人々が陶酔しているものは、それだけ採ってみますと、よくまあこんな下らないことに熱中できるものだと呆れ果てる事が多いものです。でもいいじゃないですか、本人はそれで陶酔できて十分幸せなのでしょうから。むしろそんな馬鹿げたことに熱中できる痴愚を褒めてやるべきでしょう。なかなかおりこうだと。

  一見下らないように見えるそれぞれの人々の熱中が、様々な創意工夫を産みますし、大衆に熱中する材料を提供する産業を盛んにして、そこにも大いに技術的、知的進歩をもたらすのです。「無知」はモリアの言い換えに過ぎません。でも「無知」ゆえに様々な愚行にはしる事が多いようですから、「無知」がモリアの乳母だというのももっともですね。

反面、物事に対する知識が深いと、いろんな事情を考慮する余り、慎重になりすぎて決断がなかなか下せないことがよくあります。「無知」故の勇気、英断もあり、事情を知らなかったので物怖じせずに、力を充分発揮できることもあるものです。

どうせ我々人間の知は大した事はありませんからすべて無知故の愚行と考えてよいのかも知れません。とはいえすべて無知故の愚行だからといって、何もしないほうがいいというわけではありません。大切なことは「無知」「愚行」についての自覚です。この自覚に基づいてこそ、冷静な客観的な判断ができるのです。

 では、モリアの仲…や御供の群れには、どんな神々がいるのでしょう。モリアの紹介によるとフィラウテイア(自惚れ)、コラキア(追従)レテ(忘却)ミソポニア(怠惰)ヘドネ(逸楽)アノイア(軽躁無思慮)トリュペ(放蕩)コモス(美食)ネグレトス・ヒュプノス(深き眠り)です。「これらはすべて、私に仕えてくれる連中です。私がいつまでも世界を支配し、帝王たちの上に君臨できるようにと、忠実に手助けをしてくれます。」(65頁)これらの名前からモリア(痴愚)が育まれる環境が想像されます。一々納得させられることばかりですね。

 
    四、モリアの効用

 モリアは、「神の神たるゆえんは、人間の苦悩を和らぐるにあり」というプリニウス『博物誌』の言葉が正しいなら、「あらゆるものをあらゆる人々に惜しみなく与えるこの私」こそ一切の神々の中の第一位(アルパ)だと主張します。(66頁)

この言葉は人間社会が痴愚に満ち満ちていて、あらゆる事が痴愚によって生まれ、あらゆる行いが愚かしい姿を見せていることに対する、エラスムスの批判を含んでいます。しかし、同時にこの全てを与えるという表現は、所詮人間は本質的に痴愚である事の認識を踏まえていると見なすべきです。

 モリアは先ず、子供を造ることに関して、モリアの効用を語ります。かのユピテル大神(ゼウスのこと)も子供を造ろうと思われる度に、普段の恐ろしい形相はお預けにして、喜劇役者のような情けない仮面を被ることになるのです。

またいつもは尊大で額に皺を寄せて厳格な議論をしているストア派の哲学者先生でも「必ずその尊大な態度を捨てて、額の皺を延ばし、その鋼のような学説(禁欲説)を放り出すようになることは確かでしょうし、ひょっとすると、色々と愚にもつかぬことを喋りだしたり、様々な狂気沙汰までしでかすようにもなるものです。」(66頁)

 確かに、恐ろしい形相や、しかつめらしい道学者ぶった態度では子どもを造るための神聖な儀式を執り行うことは出来ません。

むしろ衝動に身を任せ、興奮の余り我を忘れて貪るように行うべきです。祭における忘我は自然や神との合一を示していますが、性的合一における忘我もその一つの形態です。

そのことによって全体としての生命と融け合い、新たな生命を産み出すことになるのです。神々や人間達が生まれてくる器官は、知性の宿るおつむとは反対のところにあります。それで痴愚から痴愚的な振舞いによって、痴愚が、即ち、総ての神々や人間達が生まれるというのです。

 その上モリアの説く所では、出産の危険や育児の苦労を勘定に入れますととても結婚などできないでしょうに、モリアの侍女のアノイア(軽躁無思慮)がご婦人に働き掛けるのです。またいかに出産が危険で苦しいものであっても、レテ(忘却)の力でまた産む気にさせるのです。

こんな事を言うとご婦人の中には、そんな馬鹿(モリア)なと反論される方も多いでしょう。出産の危険も育児の苦労も覚悟の上で結婚し、立派な家庭を築くのが生きがいなのだと。

 むしろ危険や苦労があるからこそ、それだけ家族を大切に思う気持ちも強くなり、愛情を惜しみなく与えて子どもを育て上げる幸福もひとしおになるのです。苦しい出産の後にみる赤子のかわいさはまた格別なんだそうです。

モリアはそんなお母さん方の反論を聴いて、きっと優しく微笑むことでしょう。だって、自分の美貌や若さを犠牲にし、ひたすら家族のために身を粉にして働き、子どもが成長し、美しく、立派になればなる程、自分はそれに反比例していくのに、そんな仕事に生きがいを感じ、そうなればなるほど幸せだというのですから、これこそ見上げた立派なモリアです。
 モリアは快楽のない人生は、人生の名に値するだろうかと問い掛けます。「例のストア派哲学者自身だって、快楽を軽蔑はいたしておりません。いくら必死になってこれを匿したって、いくら人前でさんざんにこきおろしたってだめ、他の人間を快楽から遠ざけて、自分達だけが思う存分これを味わおうという魂胆なんですからね!」(67頁)

 人間は五官を持つ以上、快を求め、不快を避けるようにできています。快を求める欲求を満足させてやらなければ、欲求不満が昂じて気が変になります。

ですから、快楽を軽蔑しているかに見せているストア派の学者だって陰では快楽を追求し、満足させているに違いないのです。快楽がなければ、もの悲しく、退屈で、味気無く、不愉快な人生を送る他ありません。

その際「賢さが少なければ少ないほど、それにつれていよいよ幸せとなる。」とモリアは快楽における痴愚の役割を強調します。快楽の種類によって、知性が快楽を増幅することだってあるでしょうが、モリアに言わせればわざわざ知性を使わなくたって、とことん馬鹿になったほうが楽しいのに、そんなまだるっこしいやり方をするのはお馬鹿さんよと言い返すでしょう。

 モリアは人生の各時期に重要な役割を果たすそうです。

幼児が可愛がられ愛情をもって大切に育てられるのは、幼児がそれだけ保護してやりたくなる程痴愚だからなのです。少年少女の時期は、分別や煩いを持たず、それだけ溌剌としていますが、大人の知恵を身につけて、モリアから遠ざかるにつけ、生き生きとしたところがなくなっていきます。そしてやり切れない老年期になって、モリアが墓場すれすれの老人を幼年期に連れ戻してあげるのです。

老人達は「花の咲いたような楽しい言葉」で話をするようになり、ついには、童子のように、人生を愛惜することも死を感じることもなしに、この世をおさらばすることになると言います。

  確かにモリアの眼から見れば、あくせく思い悩む大人達の人生など馬鹿げているのかも知れません。「哲学だとか難しくて厄介な事業だとかの餌食になっている陰気臭い人達がいるでしょう?大部分は青春を味わう前に老い込んでしまいますね。それというのも、憂いごとに苦しめられ、絶えず緊張してものを考え詰めているために、そういう人達のなかにある生命の息吹や、樹液がだんだんと枯れ果ててしまったからなのです。」(71頁)

 エラスムスはモリアの口から自分自身の人生について深い溜息を洩らしているのでしょうか?「アカルナニアの豚」だとか、ブラバン人、ホラント人等を引き合いに出して余り難しいことは考えずに陽気暮しをしている人々が、年を取っても膚の艶もよく生き生きしていると言います。

そういうこともあるでしょうが、いったん哲学とか事業などに首を突っ込んでしまいますと、そういうことから離れてのんびり瘋癲のような暮らしをすることは出来なくなってしまうのです。そんな事をすると反って老い込んでしまうに違いありません。

 エラスムスはきっと、哲学や難しい事業を放り出したほうがいいと考えているのではなく、いかにも凄いことをしているかに思い上がって、顰面で余裕のないやり方では駄目だと言いたいのでしょう。

どうせ痴愚な人間のすることですから、その営みは痴愚に満ちています。自らの痴愚を自覚し、謙虚な気持ちで、素直に取り組めば、自分の仕事を陽気に楽しくすることができると言いたいのでしょう。

哲学などは物事を単純な原理や方法に還元して説明するのですから、痴愚な人間にこそ相応しい学問なのかも知れません。「無知の知」の自覚に徹することを説いているのでしょう。
 モリアは人間だけでなく天上の神々も痴愚狂乱状態だとしていますので、それに運命を左右されている人間達が痴愚狂乱を免れないのは致し方ありません。

ところでモリアは人間の体の内、理知が宿るのは頭の片隅に限られるとし、その他の体の殆どには情念が宿るとしました。「理知」の強敵は胸部に宿る「怒り」と下腹部まで広がる「淫欲」です。「この二つの強敵を相手にしたら、理知にどれほどの力がありましょう?人間の普通一般にやっていることが充分にそれを示してくれます。」(77頁)

 ユピテルは人間に授けた五十匁足らずの理知では、いろいろな物事を統べ治めていくには不足を感じ、もっと何かを授けてやろうと考えそれを事もあろうにモリアに相談したそうです。

それでモリアは男の配偶者に女という阿呆で頓馬なものを授けるように薦めたというのです。

モリアによれば女は痴愚に恵まれていればこそ男よりも幸せだと言います。女は男より美しくすべすべした頬、柔らかい膚をしていますが、それも実は痴愚の御蔭だそうです。男があんなにざらざらしていて爺むさいのはすべて賢さが犯した過ちだと言うのです。

 男は女のためになんでも約束しますが、それと引き換えに求めているのは快楽以外にはないそうです。

ところで女は男の気を引くことだけを人生に求めており、そして痴愚の力によってこそ男を喜ばせることができるのです。だって男は女と一緒に快楽を味わおうとするとき全くの痴愚にかえってしまうのですから。

これは筆者の考えですが、男に対して女が相対的に痴愚の役割をさせられてきたのは歴史時代に限られます。別段女だから痴愚だということはないでしょう。男優位の社会では女の痴愚は保護してやりたいという感情を掻き立てるので可愛さとして意識されるのです。男女平等社会になれば痴愚の魅力は性的な戯れの中でお互いに馬鹿になり切ることによって興奮を昂め合う形で発揮し合う事になるでしょう。

 でも、馬鹿になり切るということは互いに労りや思い遣りが必要ですし、心の機微を分かり合うことがなければうまく行かないものです。馬鹿なことほどセンスや知恵がいるものです。しかし、モリアに言わせれば小賢しい事はすべて捨て去って、自然体にかえればいいんだということでしょう。
 モリアの語っていることがそのままエラスムスの思想だと受け取ることはありません。モリアに語らせるという戯文体がモリアと工ラスムスの距離を暗示しています。

モリアはルネサンスの対象灼な知の立場を覆し、即自的な自然の痴愚の立場を打ち出しているのです。

工ラスムスはモリアの側に一度身を移すことによって知の立場を独断的なものから相対的で柔軟なものに変えようとしているのでしょう。もちろんエラスムスにしても痴愚に徹すべきだと思っている訳でもなく、痴愚に満ちた世間を批判する立場に立っているわけです。

 しかし、痴愚に対して知の立場を単純に啓蒙的に対置しただけでは駄目です。知の立場からは痴愚は知的に劣っていることに過ぎません。知が欠けていることを暴露することは批判としては大切ですが、それでは批判する側がいかにも自已の知的優位を過信する虞れがあります。

批判する側も生身の人間であり、大して偉いわけではないのです。その知も相対的で一面的であり、様々な誤謬を含んでいるのです。ですからお互いの痴愚を確認するためにモリアに登場してもらって、人間界の本質的な痴愚を徹底的に洗い出してもらおうというわけです。

しかも痴愚を単純に否定するのではなく、人間のありのままの姿として素直に受け容れるべきものとしても確認しようというわけです。こうして人間の本性としての痴愚を包容した知の立場、あるいは人間の痴愚の現われとしての知の立場をエラスムスは目指しているのです。

 最も人間の本質に相応しい痴愚は幻想を抱くことです。友情が幻想に基づくものであるとモリアは主張します。

「自分の友人達の欠点に眼をつぶったり、思い違いをしたり、盲目になったり、夢を見たり、その一番目につく欠点を長所として愛したり称賛したりすることは、痴愚に近いのではありますまいか?…こうした痴愚こそ、友人達を結合させ、その結合を保ってやるものなのです。」(83頁〜84頁)

 自分が愛情を感じている対象は、出来るだけ素晴らしいものであって欲しいと願うものです。あばたもえくぼに見える恋人はもとより、家族や親族、それに大切な友達に対しても事実以上に良いものと思っていたいのです。

良い家族、良い友達を持っていると、自分自身までも良く見えてくるものです。と言いますのは、自分自身の良さは自分自身の属性として示されますが、自分の能力や性格を自分自身で高く評価するのは難しいもので、独善かさもなくば自信喪失に陥りがちです。そこで自分の愛情の対象を良い者だとすることで、そんな素晴らしい人の家族であるとか、友達である自分もそれだけ良いと受け止めることができるのです。

 でも、自分の家族や自分の友達は自分自身とは別の人格ですから、愛情の対象が素晴らしいということは、決して自分自身が素晴らしいということの保証にはならない筈です。

そこには自分自身が愛情を注いでいる対象との区別の喪失があるのです。これを精神分析学では同一視と言います。

あくまで自分と自分以外の人間は別者であることに固執しますと、自分以外の人間は自分にとっての環境や手段になってしまいがちです。ところがこのような狭いエゴの立場に立ちますと、世間が限定された視野でしか見えてきませんし、自分の身体的な生命は極めて限られていますから、刹那的な生き方に落ち込みがちです。

愛情を注ぐ対象も含めてそこに存在する繋がりやより大なる生命を自己と捉え、自分の身体をその部分的な現われとして了解することによって、人々は自分の身体的な限界を超えて自己を意義づけようとするのです。
 精神分析学では、このような同一視を倒錯視と見なしますが、自分の身体的な主体にのみエゴの領域を限定するのも実は倒錯的なのです。

何故なら意識を生産する主体は、身体に限定できないからです。意識は身体の活動であるとともに、身体を包摂する社会や環境世界の活動としても機能しているのです。

ところが社会的に私的利害が個人的な自我意識を鞏固にしています。この個人的な自我は反省的に意識内容をすべて自分自身が産出したものと見なすのです。

確かに身体に結び付いて人格的な主体が成立するのですが、そのことから直ちに身体が人格的な主体と同一であるとは言えないのです。

自我の構造は身体の自己保存のレベルで成立する身体的生理的な自我を基底に持ちながら、自然的社会的な役割の各レベルで重層的な自我が形成されているのです。

そして各レベルの自我は相互に働き掛け合い対立します。こうしてそれぞれの均衡が保たれ発展したり変遷したりするのです。この均衡を反省的に人格として捉え返していると言えるでしょう。

 人々は家族を初めとして様々な社会集団に帰属していますが、諸個人の意識は諸集団の集団的な意識を分有することによって成り立っているのです。

もちろん各社会集団の中で集団的な利害と個人的な利害の対立が生じるものですが、それはあくまで集団的な意識を分有する中でこそ生じる葛藤です。この葛藤を通して集団を自己自身の実現として捉え返すようになります。

こうして家族や学校、職場、地域コミュニティ、郷土、民族、さらには地球的な規模の人間的自然全体にまで、自我を発達させることができるのです。

それが可能なのは具体的な対人関係の中で共同的な交わりを育み、対象愛を育て上げることによってなのです。自我を拡大させるためには、当然対象と自己の区別に抽象的に固執するのではなく、むしろ対象の中に自己を実現し、見出すことが大切なのです。

 ですから対象愛は、対象と自己の区別の止揚に基づいています。対象に対する様々な幻想は拡大された自己に対する幻想なのです。これは自己自身に対する幻想である「自惚れ(フィラウティア)」に広い意味では入るのです。

「この女神(フィラウティア)は何処ででも私に力を合わせてくれますから、私の妹分と呼ぶに相応しいものです。自分で自分を愛し、自分で自分に感心するほど、阿呆な事があるでしょうか?」(84頁)

モリアによりますと、この自惚れがなければそれぞれの専門的な仕事をまともにすることができなくなるのだそうです。それに自惚れがなければ自分の顔、精神、生まれ、身分、教育、祖国についても不満になると言います。幸福とは自分の境遇に満足することだとすれば、フィラウティアは幸福をもたらす女神だということになるでしょう。
 実は自惚れは絶望の裏返しなのです。

個体的な生命は有限で大変はかないものです。光陰は矢のごとく過ぎ去り、青春は悶々としているうちに過ぎ去り、直ぐに老年がやってきます。これで終わりというのは余りに納得し難いものです。そこで人々は魂の不死、死後の生命を信じようとします。

フロイトによれば何らかの形で人間は不死信仰を持つのだそうです。しかし、死すべき運命からは人間である以上逃れる事は出来ません。ですから不死信仰は自分以外の全ての人が死んでも自分だけは死なないというとんでもない自惚れ、自己神化と表裏一体になっているのです。

 死は確実にやって来るので、人間はいつ執行されるかもしれない死刑囚なのです。それだけに死の恐怖は深刻で、絶望から逃れる事は出来ません。死へのモラトリアム(小此木啓吾)を生きているに過ぎないのです。

この悲惨を直視してパスカルは愕然としました。彼はテーブルに座るとき、左側に人がいないと奈落に落ち込む気がして、椅子を積み上げて食事をしたと言われています。こんな痴愚を犯すほど、パスカルは死の恐怖に駆られていたと言えるのです。あの有名な「人間は考える葦である。」という言葉も神は人間にこんな悲惨を与えたのだから、決して見捨てたりはしない筈だという願望が込められているのです。

 それにしてもパスカルは大した自惚れを抱いたものです。全宇宙よりも人間の方が偉大だというのですから。

「人間は自然の内で最も弱いひと茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これを押し潰すのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひと雫も、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるだろう。何故なら、人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。それゆえ、我々のあらゆる尊厳は思考のうちに存する。」(パスカル『パンセ』347頁)

 「私が私の尊厳を求めるべきは空間に関してでなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであろう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を飲む。思考によって、私は宇宙を包む。」(同348頁)

宇宙は無限に大きく、永遠に存在し続けます。これに対して人間はとても小さくとてもはかない存在です。考えることのない事物なら、自分の小ささ、はかなさについての自覚がありませんが、人間はそれを自覚しているだけに悲惨です。反対に宇宙それ自体はいかに巨大で永遠な存在であっても、自分の偉大さを自覚することができないと言います。そのことに関しては人間の方が宇宙全体よりも偉大であると言うのです。

この逆転によって、神の救済は保証されているのです。宇宙全体よりも偉大なこの人間存在を神が救済しないとすれば、神は偉大な存在ではなくなってしまいます。救済とはこの悲惨からの救済である筈ですから、人間は永遠の生命を神に与えられるのは確実だということになるのです。

 しかし、この自己の偉大さについての自覚は、人間にとっての偉大さに過ぎません。もし人間が永遠の生命を神から保証されるとすれば、逆に人間は悲惨な存在ではなくなってしまいますから、悲惨さの自覚も人間の偉大さも存在できなくなってしまいます。

神も神による救済も人間の不死願望が産み出した幻想に過ぎません。この幻想を信じるためには自分を宇宙全体にも換え難い価値ある存在と信じ込む必要があったのです。塵にも等しいと自分のことを蔑んでおきながら、それでいて全宇宙より偉大だとして、神にも等しいような存在に自分を持ち上げようとするのですから、ほんとに手のつけられないお馬鹿さんですね?

 もし我々がいつ死ぬかも分からないという恐怖に駆られていたら、自己の不死を心の何処かで信じることができないとしたら、精神分析学によれば我々は精神的な安定を欠いて何もまともに出来なくなると言います。ですから我々がこうして元気に活躍できるのもひとえに自惚れの御蔭なのです。
 自惚れつまり自己愛幻想は不死幻想と関連して自分の老化を否定する傾向を産みます。たいがいの老人は自分もかなり老け込んでいるにもかかわらず、自分と同年代の老人を見ると自分に比べて相当老けているように感じるそうです。七十才以上の老人の多くは、実際より二十才は若く自分の事を考えているという話です。

 モリアは年若い小娘や若者にうつつをぬかす「にやけ爺さん」や「ほかほか婆さん」をユーモラスに紹介しています。とびきりおもしろいのが「ほかほか婆さん」です。

「けれども何がおもしろいと申しましても、地獄から戻ってきたのではないかと思われるような屍同然の梅干し婆さんたちが、口を開けば『人生は楽しいわ!』などと繰返すのを拝見することくらいおもしろいことはありません。…この婆様たちは、金にあかせて何処かの片いパオンをたらしこみ、休む暇もあらばこそ、こてこてとおしろいを塗りたくり、絶えず鏡と御相談。隠し所の毛を抜いたり、ぐにゃりと萎びた乳房を出してみたり、おろおろ声を立てて、萎びかけた情火を呼び覚そうとしてみたり、酒を飲んだり、若い娘に交じって舞踏してみたり、恋文を書いたりするのです。誰も彼もが馬鹿にして、当然のことながら、こういう婆様こそ大気違いだと申します。ところがご連中の方では、そのままでしごくご満足なのです。ありとあらゆる快楽を飽きるほど腹に詰め込み、喜びを味わいます。つまりこの私の御蔭で幸福になっているのです。」(100頁)

 こういう婆様は確かに滑稽に見えるかも知れません。恥だとか不面目だとか不名誉だとか、あるいは、痴愚女神に惑わされて大いなる不幸だとか色んな陰口や非難を浴びるでしょう。でも当人はいかに恥だとかなんだとか言われても全くそうは感じません。むしろ有頂天で、得意になっているのです。ですからいかに非難されたところで全く意に介さないのです。

もしかこんな婆様がほかほかしていられないとしたら、それこそ落ち込んでしまって、首吊り用の梁木(うつばり)でも探すようになってしまうかも知れません。それこそ不幸というものです。

 モリアは痴愚に支配された人間こそ、これこそ人間らしい人間だと主張します。

「皆と同じような条件に従って、育てられ、造りあげられているということを、先生方は何故不幸だなどとお呼びになるのか分かりませんね。あるがままの人間でいて不幸なことは何もありますまい。

…文法のことを知らないからといって馬が不幸になる筈がないのと同じく、痴愚も人間の不幸とはなりません。何故なら痴愚は人間の本性にぴったり合っているからですよ。」(100頁)

死を間近にした老人が、生を諦めてしまって、落ち込んだり、枯れてしまったりするよりも、生に執着する余り、浅はかなうぬぼれと幻想の中に命を燃やし尽そうとする方が、よっぼど明るくて健康的で好感が持てますね。

 ここでモリアは、はっきりと、痴愚は人間の本性にぴったりだと言っています。生は「死へのモラトリアム(猶予期間)」に過ぎないのなら、人間はこの絶望、悲惨を諦観するか、それができなければ宗教的な幻想や自己愛幻想を抱いてそれに夢中になるしかないのです。幻想に酔い痴れて自分を慰めるのはまさしく痴愚ですが、この痴愚はまさしく人間の有限性という本質からくるのです。

 

 
                五、痴愚と平和の論理

 さてモリアは「どんな華々しい行為も、私の吹き込まぬものはないし、どんな美しい技芸も私が創造者でないものはない」と言います。その例の第一番目に戦争を採り上げています。

「ところで、結局は敵味方双方とも得よりも損をすることになるのに、何が何だか分からない動機から、こんな争い事をやり始めること以上に阿呆な事があるでしょうか?」当時の戦争は、王位の継承や宗教的なもめ事が絡み、大変複雑な縫れ合いから起こったようですから、確かにエラスムスの眼からはモリアな(馬鹿げた)殺し合いに思えたことでしょう。

それに戦争での武勲は大変華々しいものですが、その際必要なのは、「あまりものを考えず、前へ前へと突進するような、太って脂ぎった人間だということです。」(85頁)

「戦争のときに必要な智恵は追い詰められた世の中の霞みたいな連中の知恵に過ぎない」とするのです。
 
  人間の知というものは自然を対象的に捉え返し、それを自分の支配下に置くことに出発しているのだとします。他人に対しても自然対象のごとく扱うのが知的な対し方だとしますと、知は本来的に戦争の場合の知恵と同類だと言えるでしょう。

戦争の勝敗は国家や文明の隆盛衰退を決定づけます。ですから、優秀な武器を造ったり、巧みな戦術戦略で勝利を占めるのは、最上の知恵とも言えるでしょう。戦争の知恵は決してモリアの言うように土壇場に追い詰められたときに、咄嵯に機転を効かせるような知恵からだけで成り立っているのではありません。

  でも戦争などして大量の殺戮と文明の破壊をすることは大変恐ろしいことです。そんな事をするよりは互いによく話し合い、譲り合って、共存共栄を計る方が良いと思われます。特にキリスト教の立場に立てば、神によって授けられた生命を国家的な利害のために奪い合うなどという事は、大変罪深い事に思われたことでしょう。とりわけ宗教家が血に飢えた野獣のように戦争をしたがるのには鳥肌が立つ思いがします。

  「キリスト教会は、血潮によって建てられ、血潮によって固められ、血潮によって盛大になったというわけで、まるでキリストには、自分のものをキリストらしいやり方で護る術はないとでも言うように、ご連中は未だに血を流させ続けています。戦争は実に凶悪なものですから、野獣共にこそ相応しい、人間には相応しくないものです。それは実に気違いめいた事ですから、詩人たちは地獄の醜女たち (フリアニ)から届けられたと想像している程です。

 それはまた実に危険な疫病ですから、あらゆるところで良風美俗を腐敗させてしまいますし、極悪な強盗が普通は最上の戦士となる、不正極まるものですし、キリストとは何の関係もない不敬冒涜なのです。然るに教皇たちは、一切をほうり出して、戦争をその主な仕事にしています。」(116頁)
 当時は十字軍は終わっていましたから、教皇が戦争したというのは、ローマ教会領があって、これを護り、拡大するために行ったことを意味しています。

この後、新教徒との間に血みどろの戦いが繰り広げられることになるのです。教会の為に行う戦争は聖戦であり、その為の人殺しは反って信仰の現われであり、だから隣人愛に背くことにはならないと司教たちは強弁していたようです。

 エラスムスは「汝の敵を愛せよ。」「右の頬を打たれれば左の頬を出せ。」というイエスの博愛精神を受け継ぎ、キリスト者らしい行いを強調し、好戦的な司教たちの態度を非難しました。バイブルの解釈でも好戦的と思われる解釈に強く反撥したのです。例えば『ルカ福音書』第二二章の次の文章の解釈です。

「そして弟子たちにおっしゃった。『財布も袋も靴も持たせずに、お前たちを遣わしたとき、不足のものがあったか』と。彼らは答えた。『全くありませんでした』と。イエスはおっしやった。『しかし今は、財布を持っている者はこれを持って行け。袋を持っている者も同じようにせよ。また剣を持っていない者は衣を売って剣を買え』と。」

この文中の〔財布を「持って行け」〕について、ヴルガタ版ラテン語聖書では「持って行け」は(tollat)になっています。この動詞tollereには「持って行く、運び去る」と「捨て去る、消す」の両義がありますので、エラスムスはこれを「取れ、捨て去れ」の意味に解しているのです。この解釈によって、エラスムスは「剣を買え」を比喩として受け止めようとしたのです。

 「キリストは、ご自分の使者たちを、なおもいっそう無一物にし、履物や頭陀袋を捨て去るのみか、さらに衣をも脱ぎ去って裸身となり、一切を離脱して、福音伝道に携われるようにしようというのでした。

弟子たちは、ただ剣を手に入れなければならないのですが、それは、盗賊や親殺しの役に立つ剣ではなく、心の最も奥深い所まで突き刺さり、一撃のもとに一切の邪まな情念を切り捨て、心に信仰だけを残してくれる精神の剣なのです。」(175頁)

 エラスムスの解釈は、無理があるようです。イエスが捕らえられた夜、弟子達は難を避けるために逃亡していたのてす。イエスはそうなることを察知し、特別に危険な夜だからこそ、剣を買うように言われたのでしょう。

ですからイエスを捕まえにくる人々に抵抗する必要から剣を買えと言ったのではありません。

イエスは、メシアは義のために一度は死ぬという預言が成就されなければならないと考えていましたから、ただ弟子達の安全だけを考えていたのです。

その意味ではこの箇所を宗敵に対しては剣で立ち向かえと勧めているという好戦的解釈も、イエスの気持ちを理解しているとはとても言えません。
 エラスムスは、異端審問による処刑というローマ教会のやり方に強い批判を持っていました。「テトスヘの手紙」についての次のような解釈に強い反撥を示しています。この手紙にはこう書いてありました。

「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい(devita)。確かにこういう人達は、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。」

devitaを、異端者を議論によって改悟させるよりも焼き殺したほうがいいと考えるある老神学者は(de・vita)つまり「生命から切り離せ」の意味に解釈したのです。この老学者はこうして「異端者は殺せ!」とはっきりバイブルに書いてあると主張したのです。

 当時既に教会権力の腐敗が進み、これに反撥して様々な異端が誕生していました。異端を放置すれば、ローマ教会は求心力を失い、教会支配が揺らぐことになりかねませんでした。

ローマ教会は、異端審問や魔女狩を活発に行って、教会の権威をリフレッシュしようとしていました。また教会領を守り、拡大することにも熱心だったのです。

そのために、福音書に書かれていたイエスの精神は全く無視されていたのです。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、私はあなたがたに言う。悪人には手向かうな。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頬も向けてやりなさい。…

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害するもののために祈れ。

こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

あなたがたが自分を愛するものを愛したからとて何の報いがあろうか、そのようなことは取税人でもするではないか。」(「マタイによる福音書」第五章)
 これまでの律法は、同等報復を説き、過剰報復による報復合戦の悪循環を防止しようとしました。また隣人相互の互助を基礎に、民族的な団結と防衛を計ってきたのです。

しかし、やられたらやり返すでは、互いに恨が残り、争いの種は尽きません。イエスは、一切の報復を止め、むしろその加害者に対して愛を向け、自分を傷つけ、迫害する者の為に祈ることによって、相手の敵意を挫けさせ、真の和解、永遠の平和を実現できると考えたのです。

このような発想は、世界の大多数の人々がそうするならともかく、反って悪人をのさばらせる効果しかないでしょう。ですからイエスの説いたことは、世間の常識からは全く痴愚なのです。

イエスの教えは、そうする他に根本的な平和の実現は不可能という意味では、最も深い知であると同時に、手の付けられない痴愚でもあるのです。

恒久平和を願うなら、殴られれば殴り返すという論理では駄目です。あらゆる武器を捨て、こちらからは絶対に戦争を仕掛けられないようにしておくだけでなく、相手が攻め込んで来た場合でも、武器を取って応戦するのではなく、非暴力的な、不服従で粘り強く抵抗し、説得すること、憎しみでなく愛で対応することが、侵略行為そのものを恒久的に無くすただ一つの道なのです。

日本国憲法およびその第九条は「日本の常識、世界の非常識」の見本と言われるくらい、国際関係の現実から見て、非現実的に映るかも知れません。

世界中の国々が軍備を整え勢力を競い合っている中で、日本だけ丸腰で防衛しようというのですから。

しかし、二度の世界大戦の体験を踏まえ、これ以上戦争を繰返すことは、人類の破滅だと悟ったのなら、それぞれの国が自発的に武装を解体していく他に戦争を防ぐ方法はないのです。

 そして、もしそうした非武装国に侵略する国があれば、あくまで非暴力的不服従で抵抗するのです。これは、あるいは自衛のための戦争をするほうが何倍も楽で賢明かも知れません。しかし、一旦、痴愚の途を選択した以上この途をあくまで貫くべきです。非武装国の出現と、その歴史的な受難が世界史を恒久平和に導くのです。

 ですから憲法第九条を貫く痴愚の途を取るか、あるいは世界の常識に帰って再軍備をするかは、非常に重大な国民自身が決定すべき問題でした。

 決して解釈を変えることによって、実質的な戦力保持を既成事実化すべきでなかったのです。憲法九条の痴愚性とそれゆえ持っているラジカルな恒久平和への牽引力について国民に理解を求め、予期し得る受難に対する覚悟も含めて、国民に積極的な討論を呼び掛けるべきだったのです。

 憲法第九条は世界史にとってかけがえのない宣言です。自衛権は主権国家である限り決して放棄できないというこれまでの国際法の大前提が、二度の世界大戦が流した大量の血によって否定されたのです。世界理性が新しい地平に到達した証だと言えるでしょう。

 ところが大変残念なことに、違憲判決ですら、そのことの意義に気付かなかったのです。伊達判決は、「憲法第九条は自衛権は否定しないが、侵略的戦争は勿論、自衛のための戦力を用いる戦争、自衛のための戦力の保持を否定」という、全く矛盾した説得力のない内容になってしまったのです。つまり、「自衛権は否定しない」としながら、自衛権の概念内容を否定するという破綻した理論になっているのです。これこそ痴愚の見本です。

 勿論、武器をもって戦うだけが自衛じゃない、侵略軍を排除するための様々な国家的、民族的低抗によって自衛するべきとしているのだ、という考えでしょう、でもそれではこれまでの自衛概念を否定したことになります。ですから通常の意味では自衛権を否定していることになり、ひとりよがりな世間一般には破綻した文章です。

 これに比べると自衛隊合憲論のほうが筋が通っています。しかし、合憲論は、憲法第九条の意義を無視し、消し去ったのですから、これは罪深い痴愚だというべきでしょう。
               六、知と痴愚


  いかに世間では痴愚狂乱が幅を効かしているかを得意気に語ってから、モリアは学者賢人たちの批判に乗り出します。

まず最初に槍玉にあげられるのは文法学者です。

小学校のことをグラマースクールと言いますが、欧米では文法教育が昔から重視されていたのです。もちろん、幼い子ども達にむつかしい文法の決まりなど教えても、どれだけ役に立つか疑問です。特に幼いときは論理的な思考が未発達ですから、文法など構わずに易しくて楽しいしかも情操を育むようないい文章を繰返し読ませる事の方が大切です。

無理やり、文法をたたみ込もうとするものですから、生徒達は文法を毛嫌いするようになるのです。ところが何処の国でも、正しい名を遣い、正しく文法に従って話すことにより、世の中の正しい人間関係部成り立つという正名論が有力です。そこで文法を教える教師達は人一倍使命感に燃えて、生徒たちを怒鳴り散らし、鞭を奮って教え込もうとします。

 「私は、今学寮と申しましたが、悲哀の家あるいは更に.徒刑船ないし拷問部屋と言うぺきでしょう。」(220頁)

 教師達はモリアの所為で自分達こそ第一流の人間だと思い込み、生徒達を震えあがらしたり、鞭で打ち据えたりしては得意になっています。

ところが彼らが誇っている知識とは変わった名前や言葉を腐った羊革紙の上にみつけては大発見だと興奮するようなものなのです。

そしてちょっとした言い間違いが指摘されたりすると猛烈に敵意を示し、たちまち、罵詈雑言が飛び交うのです。実際、一つの品詞さえ完全に定義するのは難しいのに八つの品詞を徹底的に定義するには人生は短すぎるのです。そこで

「御存じの通り、文法学者の数だけ文法があり、それどころか学者の数よりも文法の方が多いくらいですがーと申しますのも、私の友人のアルドゥスは、この人一人だけでも五種類以上の文法書を印行しましたからね」

 日本語についての文法も、文部省認定の国文法はヨーロツパのグラマーを翻訳して当て嵌めたものに過ぎません。日本語の特徴に即して品詞区分を行ったとはとても言い難いのだそうです。
 次にモリアは詩人達についてこう語ります。

「詩人達は格言にもあるとおり、独立独歩唯我独尊派でして、根も葉もないことや笑止な絵空事で、気違い共の耳を絶えず魅惑しようと躍起になっています。驚くことには、詩人という連中はこんなつまらぬものだけで、神々の生命にも等しい生命、つまり不死を得られると思っているのですし、他人にもそれを与えてやれるものと信じているのです。」(132頁)

 詩は想像力のままに、詩人の憧れの世界を謳いあげます。詩の中で、英雄達は不滅のドラマに生きます。詩の不滅の感動が永遠の生命に対する確信に導くのです。

もちろん、如何に素晴らしい詩を暗唱しても、それによって人間が不死を得るわけはないのです。そんな事は分かり切っていても、詩のもたらす精神の昂揚によって、詩のリアリティが現実のリアリティに優るように感じられるのです。やはりモリアの管轄です。

 「雄弁家はときおり私に不実に働き、哲学者と気脈を通ずる事がありますけれども、これまた私の配下です。・…なにしろご連中は揃って、痴愚をじつに重要なものと見なしていますのでどんな議論でも解決できないことを、痴愚なら笑い飛ばしてしまえると考えています。こっけいな言葉で皆を抱腹絶倒させるのが女神の役割でないなどと、誰が考えられましょう?」(132〜133頁)

 雄弁家は自分の論旨に自信があるときには、宇宙の真理を神のごとき知恵で知っていると称する哲学者のように、自信満々でまくしたてますが、形勢不利でうまく反論できないときは、滑稽な笑い話にしてしまって、その場を誤魔化すのが十八番です。知で敵わないと見るや痴愚で対抗しているのです。

 モリアは三種類の文筆家を紹介します。

 一つは、大家に認めてもらおうと思って、推敲に推敲を重ね九年間も手元に置いても決して満足しません。睡眠を減らし、貧困に陥り、盲目になったり、早老したり、様々な悲惨事に見舞われても、或るよぼよぼ爺さんに認めてもらえば、犠牲はそれ程高すぎるとは思わないそうです。第三者から見ればなんてモリアなことでしょう。

  二つ目は、モリアの手下の文筆家です。彼は幸福な狂乱により頭に浮かぶままに書きなぐります。

「書くでたらめがでたらめであるだけ、それだけ拍手喝采に、つまり、気違い共や無知蒙昧な連中の異口同音の拍手喝采にありつけるということを心得ているのですよ。二、三人の学者がたまたまそれを読んで、軽蔑するかもしれないとしても、それがなんでしょうか?」

 でたらめであるということは制約がないということですから、事実からも論理からも自由に文章が書き手のセンスにだけ忠実に舞跳びますので、読者に独特の解放感を与える効果があります。最近のニュー・アカデミズムも無責任で自由奔放なタッチからはでたらめの美学の実践を思わせます。

 三つ目は「もっと頭がよい」とモリアに評された剽窃家です。
 さて続いて法律学者、論理学者、詭弁学者をやっつけてから、いよいよ哲学者の批判に入ります。ソクラテスの「無知の知」の顰に倣っていますから、自然哲学的な独断論が、まず批判の的になります。

「けれども自然は、哲学者連中の臆測を聞いて呵呵大笑い致しますね。何故かと申しますに、この連中には、確かな根拠などは一つもないからなのですが、これは、あらゆることに関してご連中が際限もない論議をやらかしていることによって、充分に証明されています。」(137頁)

 アルケーや真実在やアトム等について様々な見解が出され、それに基づく現象の解釈が犇(ひしめ)きあったわけですが、なにしろ目に見えない世界の実相を類推するのですから、どうとでも説明できる性格を持っています。

元々哲学は、神話的な世界解釈の破綻を踏まえて、合理的な論理的に筋道の立った、説明の試みなのです。実証の術がないのですから、幾通りにでも説明ができることになってしまいます。ですから確かな根拠などありません。

「何一つ分かっていないくせに、あらゆる事を知っていると主張します。自分自身について無知です。」

この表現はソクラテスそのものですね。

 梵我一如的に存在を了解していますと、真実在の解釈は実は自分自身の真の姿を知ろうとする試みなのです。

たとえ原理的に不可能であっても、それを追求する人にとっては、自分自身にとって納得できれば良いわけです。

「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。」(『論語』)これは、孔子の言葉ですが、永遠にして不減である自然の原理を知ることによって、そこから出て、そこに帰るのですから、それを知ることによって、個体的身体的個我への執着を離れようと努力したのです。このように悟りを求める場合には、見解の多様は不真理の根拠にはならないのです。

 とは言え、真実在は、事物を対象的に認識するように認識できる相手ではありません。世界が水から構成されていると分かっても、認識する主体は水に自分を還元させることによって、自己に対する認識は極めて貧しい内容しか持てないのです。

それでは対象に対する知という認識を離れ、「汝自身を知れ!」の呼び掛けに応えたとしましょう。これも、豊かな対象的な自然を欠いた自己自身は、自分の手で自分の眼を潰したオイディプスの暗闇として現われざるをえないのです。「無知の知」の自覚によっては、知ではなく無知が知られるだけです。
「目が疲れている所為(せい)か、それとも放心のためか、通り道にある溝や小石にも気が付きませんね。それなのに自分等は諸々の観念、普遍概念、独立的形相、第一質料、本質性、個体性等という、リュンケウスでも目に止まるまいと思えるようなものを、明らかに見られると称しているのです。」(137頁)

 具体的な自然の事物は真実在や根源物質を求める哲学者にとっては目に止まりません。

べーコンなら第一物質を知ったところで、その知識が我々の利用できる目に見える具体的な事物に働きかけるのに役に立たなければ何にもならないと言うところです。

エラスムスにしても、溝や小石に気が付かない知の在り方は、生きた現実の知ではないのですから、人間を導くことの出来る知とは言えないと考えていたと思われます。

 モリアは抽象的な概念が目に見えないという立場を採っていますが、それは目に見えるものは観念ではなく、事物の方だという考え方に基づいています。

確かに事物と切り離された観念自体は見えないでしょうが、しかし、観念と切り離された事物は、如何なる規定でもないのですから、やはり目に見えるだけの具体的な規定性は持っていないと困ります。

ですから我々が見ているのは、事物として現われている観念であり、観念の現われとしての事物です。

例えば溝や小石なども溝や小石の観念を通して見ているので観念や本質を見ていると言えます。

またそうだからといって、事物は見えないわけではありません。事物と観念の抽象的な対置にこそ問題があるのです。

例えば、観念は目に見えないという立場からは「丸く見える図形は円の観念ではない。円の観念は、定点から等距離の点の集合という定義だ。」と言われます。確かに数学的には厳密な円以外は円ではないことになるでしょうから、完全な円を見ることは不可能でしょう。

 しかし、その議論を犬という観念を見ることに当て嵌めることは出来ません。「見えるのは現実の犬であって、犬の観念ではない。」という反論は、イメージを思い浮かべることに当たる「観念」という言葉の意味に照らしても、説得力がありません。

「表象・観念」に当たるドイツ語は、Vorstellungですが、やはり「前に立てること」という意味です。観念、概念が意識として事物と対置されて捉えられますと、見られるのが対象としての事物で、見る側は見られないので観念や本質は見られない事になってしまったのでしょう。

しかし、両者を機械的に分けてしまっては観念や本質が、事物の観念や本質であり、また自然的社会的な諸事物の関係や運動についての諸規定である事が理解できません。

諸個人は自然的杜会的な事物関連の中で、自分の働きに応じて、これらの諸観念や諸本質を意識することになるのです。
 宗教家は神や仏の知恵と比べて、人間の知がいかに幼稚で誤ちに満ちているか、またほんの少しでしかないかを説き、知の傲慢を諭します。また精神分析家も、人間の知識がいかに倒錯的であるかを分析します。

でもこうした批判は人間の意識やそれがもたらす知識が、ちっぽけではかない個人の中からだけ生じたものであるから、どうせ詰まらない、いい加減なものだという独断に基づいているのです。

でも人間の意識は、諸個人を包摂して運動している人間的な自然および社会の意識であり、その自己反省でもあるという面もあるのです。

ただ私的所有に囚われていますと、意識は自分の意識なのだから、対象の側が主体となって産み出した意識ではないと思い込んでしまうのです。

ところが意識が現実の意識としてのリアリティを主張できるのは、意識が現実によって産み出されたからに他ならないのです。

 さて、次に神学者たちが槍玉にあがります。もちろん神学者たちの独断的な論証がいかに馬鹿げているかが、紹介されます。

元々原理的に分かりっこないものをモリアが与えた「豪壮な定義やら、結論やら、必然的帰結やら、明白なる命題やら、明白ならざる命題やらの軍勢」と当人達が用意した実にたくさんの抜け道によって、説いてしまいます。

確かに次のような問題にまともに回答を神ならぬ身の人間が与えようとすること自体、馬鹿げていて、これほど瀆神的なことはありません。

 「この世界はどのようにして創造され配置されたのか?如何なる溝孔を通って、原罪の流れがアダムの子孫に広がったか?(これが類を実体と見なすべきか、それとも単なる共通名前と考えるべきかというスコラ哲学の最大の論争点です。)

…聖体の秘蹟では、どうして実体がなくとも隅有物は存在するのか?(聖餐式では、パンと葡萄酒をキリストの肉および血としていただくが、パンはどのようにしてその形色や味や重量などの「隅有物」を持ったままパンからキリストに実体が変化するのかフ?)

…神の創造行為には決まった瞬間があったかどうか?

…人間はその復活のあと、食べたり飲んだりできるものだろうか?」(138〜139頁)

 神学は、宗教上の様々な疑問に答える必要上、これらの疑問にも解答が迫られたのでしょう。しかし、宗教は元々人間にとっては不可思議な神の技に基づいているのです。それを人間が論理的に説明できるわけがありません。

無理にそれらを説明しようとする神学は、自分の賢さを過信して、自分の痴愚を忘れているのです。自己の痴愚に対する痴愚に陥ってしまっては、神の技の不思議に素直に感動する信仰の立場を失っていると言えるでしょう。

 このような神学者の高慢は、とんでもない詭弁を、いかにも最も敬虔なる信仰のごとくに説く破廉恥を招きます。例えば

「千人の人間を殺すことは、日曜日に貧乏人の靴を縫ってやることよりも罪が軽い。」

「どんな軽いものであろうとも、ごく小さな嘘を一つ言うよりも、宇宙全体がいわゆるこれに住むもの、これに備わったもの諸共に亡んだ方が、まだしも結構だ。」等です。

 エラスムスの時代にこんな表現をした神学者がいたかどうか知りませんが、きっと律法を守ることは何より重要だと、修道院できつく言われていたのでしょう。それをイローニツシュに表現すればこうなります。

修道院ではひたすら信仰に生きるために、厳しい戒律を課して私心を減ぼし、魂を清浄にしようとしたのです。

ところがこの発想は、律法の順守によって神の国に入れると考えたパリサイ派の立場に近いのです。

イエスは、御国に入ろうとして律法を守るのは、少しも律法の成就とは言えないと断定したのです。何故なら神の国で自分さえ幸せになれればいいという私心が見え透いているからです。

 
 律法において、真に重要なのは律法の精神です。

「心を尽くして汝の神を愛せよ。」「汝自身を愛するごとく汝の隣人を愛せよ。」この二つに尽くされているのです。

「安息日を聖とせよ」「偽りを言うなかれ」という戒律はこの二つを実践する為のものです。愛の気持ちで実践しているのでなければ、全く意義を持たないのです。

反対にこれらの律法を表面的には犯していても、神への愛、隣人への愛から発しているのならやはり律法は成就されているのです。

 修道院の戒律主義に対するエラスムスの批判は、ルターと一致しています。

ルターは、修道院での修行で、戒律を守ろうとすればするほど、無理にそうしている自分に気付きます。つまり自分の内面の悪への傾向に気付き、絶望せざるをえないのです。

しかし、彼は人類の罪を一身に背負うキリストの十字架に神の愛を知ります。このキリストを通して救われることを確信するのです。でもそう確信できるのは、自らの罪業の深さを悟り、律法の不可能性を悟ることによってです。

 神学者達は、様々な定義を与え、独自の論理を編み出し、実に込み入った見事な証明をやり遂げます。実に煩瑣な神学者達の論議は果たして信仰にとって意義のあるものでしょうか?

少なくとも、キリストの使徒達はキリスト教の信仰の定義とも言うべき三位一体論すら論じてはいなかったのです。それでも彼らの信仰は神学者達に劣ってはいないのです。むしろ神学者達が精緻な議論をすればする程、知にはしってしまうため、信仰からは遠ざかるのです。

 彼らは自分達の議論の正しさに固執し、自分達の存在意義を認めさせるために好んで異端を作り出し、排斥しようとします。

「『溲瓶よ、おまえは臭いぞ』と『溲瓶は臭い』という二つの言い方が同じ意味だと言ったら、キリスト教徒ではなくなるのだということが誰に信じられましょうか?」(145頁)

これは元は、「イギリスの一修道士は『ソクラテスよ、汝は走る。」と『ソクラテスは走る。』とは同じ意味だと主張したために、オックスフォードの神学者達に異端と断ぜられたといわれる。」
からきたと注から推察されます。「ソクラテス」を「溲瓶」に置き換えたことによって、強烈な風刺の効果をもっています。

 パウロの信仰は、真正面からパリサイ派の律法主義を批判したため、捕らえられて十字架に付けられた男イエスが全人類の罪を贖ったという、とんでもない馬鹿げた発想に基づいているのです。

しかし人間が本当に救われることができるのは、こんな一見馬鹿げた発想をまともに信じ、それに生涯を捧げ尽すことによってではないでしょうか?

まさしく「信ずるものは救われる。」ですし、「馬鹿は死ななきゃ治らない。」です。そして、「馬鹿のまま死ねたらそれに優る幸せはない。」ということでしょうか?

 エラスムスは、免罪符の販売に反対したルターを始めは陰ながら支えます。でも自分から宗教改革の運動に身を投じることはしません。

あくまでこれまでの啓蒙的な批判の立場を貫こうとします。それはプロテスタントかカトリックかいずれかの立場に立ってしまいますと、自分達は正しくて、相手は間違っているという明らかに知の立場に立ってしまうからです。

そして「右の頼を打たれれば、左の頬を出せ」という愛の寛容の立場をかなぐり捨てて、憎しみの狂乱に落ち込むことになることを警戒したのです。

 しかしいつまでも中立は許されません。ルターの味方でないことを示すために、ルターとの違いをはっきり著作の形で示すようにカトリックの教会から要請され、『自由意志論』を書き、ルターの猛反撥を招きます。

この論争こそ宗教改革期の「痴愚」の競演を代表するものと言っても過言ではないでしょう。
(了)

  

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