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人間論および人間学コミュの「カテゴリーとしての人間」論序説

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この論文は『立命館文学第529号』1993年3月刊より写して掲載しました。

   「カテゴリーとしての人間」論序説

                やすい ゆたか

              はじめに


 「人間とは何か?」という問いの回答は挙げればきりがない。真剣に生死を考えた人ならば、自ら回答を求めなかった人はいない。

アプローチの方向次第で、ある規定が主要な規定となり、他の規定が副次的となるのである。それぞれの回答は、それぞれ重要な真理を示しているのだ。

それでは人間性の全部面の人間概念を積み重ねていけば、包括的に人間を認識できるだろうか?

それぞれの人間性にスポットを当てる視角自体に既に特定の偏見や人間に対する観方が含まれていることを誓戒すべきだ。問題にしている人間が予め特定の対象に限定されていて、その本質はこうだと規定しているのだ。

 身体的特徴から言語使用の開始を規定したり、「考える我」を主体としてそれを人間と考えたりする場合は、身体的個人やその自我に人間の定在を見出しているのだ。

マルクスの「人間の本質は、現実的には、社会的な諸関係のアンサンブルである」という『フォイエルバッハ・テーゼ』の人間規定も、現実的な諸個人の本質規定を示したものであるにすぎない。

そこで身体及びその中に宿っているとされる自我に人間の範囲を限定して人間を規定する人間観を身体主義的人間観と呼ぶことにする。

 しかし中には、身体主義的人間観を克服している例も見出される。

仏教や老荘の人間観は、身体を越えて自然や全体との融合の中で人間を捉えようとした。

またホッブズ『リヴァイアサン』の「人間」.には、個体的な欲望機械と共に巨大な人工機械人間としての国家まで含まれる。

つまり思考や意思決定の仕組みを持ち、自己保存を追求する組織体も人間カテゴリーに含まれることになる。

そしてパース「人間記号論の試み」は、人間を記号と完全に同一だとした上で、それは事物が他の事物を表示する性質であると、大胆に事物の記号的性質を人間と定義して、身体や個別的自我の枠を突破する人間論を展開した。

これは人間が商品であるばかりでなく、商品も人間であるという私の人間商品論と、発想の上で共通している。つまり人間を社会的な事物の存在のあり方として、カテゴリーとして捉えているのである。以下、「カテゴリーとしての人間」論の可能性を追求してみよう。


コメント(9)

                    一、社会的諸事物を含む人間

 服と着ている身体のどちらが人間かと尋ねられれば、誰でも身体が人間だと答える。

機械と操作している人のどちらが人間かと尋ねられれば、誰でも操作している人だと答えるだろう。

身体主義的人間観が既に汎通的になっているからだ。服や機械も含めた人間概念を提唱しても、勝手に意味を変更してひとりよがりな人間概念だと排斥される事になる。

 ところで服を着ていない、機械を操作していない生身だけの人間は、風呂場にいるか医学的対象になっている。

その場合でも風呂場や診療器具との関係において存在するに過ぎない。

むしろパンツを穿いたり、脱いだりすることで人間になるのだから、パンツは猿を人間にする契機なのだ。身体自体は自然的存在なのだから、衣服や機械が人間的契機を代表すると捉え返してもよい筈である。

 だが衣服や機械には身体のように思考や意思の機能がない、たとえ人間身体の延長と認めても、人間主体としては認められないという反論が予想される。

それに較べて思考や意思の主体である人間身体こそが、「考える葦」や「意思主体」という人間定義に照らし人間主体に相応しいとされる。

もちろん身体には感覚器官や思考中枢が存在するから、身体が思考や意思の主体であることは疑えない。その意味では身体が人間主体である。

ところで身体も社会的存在である。言語自体が社会的に生成したので、思考や意思の内容も社会的に形成されるのである。

諸個人は社会的諸関係の中に統合されて生活している。だから社会的諸関係がそのシステムの論理で運動し、再生産されてはじめて諸個人の生活も再生産されるのである。

 そこで諸個人の意識は社会的諸関係の再生産に有効なように、社会によって生み出された社会的意識が現れたものである。それで意識を生み出す主体は諸個人の身体に還元できない身体を媒介にして、社会的諸関係全体の再生産の中で、社会的諸関係それ自体が主体となつて、意識が生み出されるのである。

 この見解には次のような猛反発がある。

 社会的諸関係が一定の考え方や価値観を生み出し、諸個人がそれから逃れられないとしても、それ自身が諸個人の関係だ、それに社会的諸事物は意識や意思を持たないので、社会的諸関係に包摂されるとしても、社会的諸関係の主体にはなれない、だから社会を構成する主体は現実的諸個人でしかあり得ないと。

 だが社会的諸事物を差し引いて社会的諸関係や諸個人どうしの関係も有り得ない。社会的諸事物が、社会的諸関係のあり方や諸個人の欲望や教養の内容を決定するのだ。

 人間的意識の内容も実は頭脳の中から取り出され、社会的な諸事物に表現され、実現している。つまり社会的諸事物が思想を語っているのだ。

 また文化を構成する社会的諸事物の中に思考や意思がインプットされている。

 諸個人の思考の多くは社会的諸事物の中に置き換えられ、組み込まれている意識を社会的諸事物に触発されて取り出す過程である。思考や意思を頭脳の中にだけしか認められなければ、文化の意義は理解できない。

 かくして人間身体を含む社会的諸事物の相互関係として人間総体は認識されなければならない。

 この構成要素である人間身体・生産諸要素・生産物はそれぞれ人間体を構成する主体である。互いに他を消費しつつ、再生産し合っている。こうしてそれぞれの必要性が再確認され、再生産される仕組みが出来上がっている。
                     二、社会的諸事物の存在性格

 森信成のように人間から独立していない効用は物てはない、とする人もいる。

 だが木質は下位の質料にとっては形相であるが、机に対しては材料でしかない。だからこの事物は机であり、木質ではないのだ。

 机自身は自分が何で出来ているのかは無関心だ。木質で出来ていようが金属質であろうが、机には違いない。

 それに机という社会的事物が存在する事実は「読み書き」の実践が日々確証しているので、それが人間の効用でしかない事では否定されない。

 机の定義は「読み書き用脚付台」である。中には「蜜柑箱も読み書き台にすれば机だ。テーブルか机か分からないのもある。読み書きによく使われている台の効用を、その台の物としての本質の如く実体化して捉えて、机と名付けているだけなのだ。」という批判もある。

 だが「台」も実は表面が水平な物体の物を置くという効用を実体化した表現だ。そうすると「表面が水平な脚付物体」という物が存在するだけで、机はその効用に過ぎないことになる。

 だが、工場では「読み書き台」として最適な物を造る。

 同じ「表面が水平な脚付物体」でも、読み書き台、調理台、食事台の各用途によって別々の物が造られているのだ。

 そして机は机としての社会的な役割を立派に果たしている。

 たしかに机とテーブルの区別は効用によるにしても、また机で食事をし、テーブルで読書をすることもよくあるとしても、それが元々机として製作販売されたか、テーブルとして出回ったかは一目瞭然である。

 だから社会的には蜜柑箱とテーブルと机は別物として通用している。

 「世界・内・存在」として社会の中に存在する事物は、まず何らかの社会的役割を担った「用在」である。

 社会的な効用連関の中で、与えられた役割を果たせなければ、存在資格が認められない。

 社会から期待された役割を果たせれば、その存続が認められる。だから効用が、社会的事物の存在性格になる。「効用」というカテゴリーに含まれて、人間にとっての存在に成り、人間的世界を構成するメンバーに成れるのだ。

 ただし消費されて有用性を示す物は、個物としては消滅してしまうが、社会的には引き続き需要されて、再生産される。

 生産財は生産過程で消費され一度の使用で消費される生産財を流動資本、多数回使用して初めて消費されてしまう生産財を固定資本と呼ぶ。

 労働力も四十年程の使用によって消費される。本来固定資本に含むべきだ。ただし他の機械等と違い、減価償却費等を基準に使用料を労賃として労働者に支払っているのだ。
                     二、社会的諸事物の存在性格

 森信成のように人間から独立していない効用は物てはない、とする人もいる。

 だが木質は下位の質料にとっては形相であるが、机に対しては材料でしかない。だからこの事物は机であり、木質ではないのだ。

 机自身は自分が何で出来ているのかは無関心だ。木質で出来ていようが金属質であろうが、机には違いない。

 それに机という社会的事物が存在する事実は「読み書き」の実践が日々確証しているので、それが人間の効用でしかない事では否定されない。

 机の定義は「読み書き用脚付台」である。中には「蜜柑箱も読み書き台にすれば机だ。テーブルか机か分からないのもある。読み書きによく使われている台の効用を、その台の物としての本質の如く実体化して捉えて、机と名付けているだけなのだ。」という批判もある。

 だが「台」も実は表面が水平な物体の物を置くという効用を実体化した表現だ。そうすると「表面が水平な脚付物体」という物が存在するだけで、机はその効用に過ぎないことになる。

 だが、工場では「読み書き台」として最適な物を造る。

 同じ「表面が水平な脚付物体」でも、読み書き台、調理台、食事台の各用途によって別々の物が造られているのだ。

 そして机は机としての社会的な役割を立派に果たしている。

 たしかに机とテーブルの区別は効用によるにしても、また机で食事をし、テーブルで読書をすることもよくあるとしても、それが元々机として製作販売されたか、テーブルとして出回ったかは一目瞭然である。

 だから社会的には蜜柑箱とテーブルと机は別物として通用している。

 「世界・内・存在」として社会の中に存在する事物は、まず何らかの社会的役割を担った「用在」である。

 社会的な効用連関の中で、与えられた役割を果たせなければ、存在資格が認められない。

 社会から期待された役割を果たせれば、その存続が認められる。だから効用が、社会的事物の存在性格になる。「効用」というカテゴリーに含まれて、人間にとっての存在に成り、人間的世界を構成するメンバーに成れるのだ。

 ただし消費されて有用性を示す物は、個物としては消滅してしまうが、社会的には引き続き需要されて、再生産される。

 生産財は生産過程で消費され一度の使用で消費される生産財を流動資本、多数回使用して初めて消費されてしまう生産財を固定資本と呼ぶ。

 労働力も四十年程の使用によって消費される。本来固定資本に含むべきだ。ただし他の機械等と違い、減価償却費等を基準に使用料を労賃として労働者に支払っているのだ。
                       三、価値形成の実相

 人間世界は、巨大な効用連関として形成されている。

 それぞれの効用を有する社会的諸事物、その維持あるいは再生産の為に他の社会的諸事物を使用したり、消費したりしなければならない。

 この為に必要な相互の支配関係が、商品経済では価値関係として捉えられる。

 例えば、このワープロは需要が多いので、生産費が等しい他の機種に比べて、高い価格を付けても売れるとする。そこで利潤幅が大きくなり、再投資されて拡大再生産される。或いは技術的改良が施される。こうしてシェアが大きくなる。この種の商品の価値は、それを同じだけ再生産するのに必要な生産手段の価値の総額を上回る。

 じり貧の商品の場合は逆に、価値は下回る。だから同じシェアを保つ商品の場合は両者が一致することになる。

 異種類の商品の価値を同一単位で示す方法は、交換方程式[x量のリンネル=y量の上着]による。これは同じシェアを保つ商品「x量のリンネル」を「y量の上着」と交換すれば、y量の上着を他の商品と交換することによって、終極的にはx量のリンネルを再生産できる生産諸要素を入手できる事を意味している。

 y量の上着が一般的等価形態である貨幣商品の場合に、これがある商品の再生産に必要な様々な生産手段の同一単位の数量の合計を示してレる。

 それでも商品の価値は、商品一単位と貨幣との交換比率である価格に当たるわけではない。その国の貨幣需要の動向次第でかなりのずれが生じるからである。

 そこで貨幣とは別の数量単位を考えることになり、労働価値説が古典派経済学やマルクス経済学によって唱えられた。

 労働価値説は「より多くの労働時間を費やした商品が、より少ない労働時間で造られた商品と交換されるならば、より多くの労働時間を費やした生産者は、余分の労働を強いられるので、有利な商品の生産に変わろうとする。その結果、有利だった商品の供給が増加し、交換比率が変動する。結局、両商品の労働時間が等しくなるような力が市場を支配する。」という傾向が基本原理だという認識に基づいている。

 たしかに労働時間以外の条件が全く同一だと仮定すれば、労働時間の比率と交換比率が等しくなるのは同義反復である。だが労働力ばかりでなく、機械や原材料・燃料の相互の働きの上で生産過程は進行する。仮に労働力の価値生産性が同一だと仮定すれば、他の生産手段の価値生産性の相違によって全体の価値量に差がでることになる。

 『資本論』では労働力を労働主体、機械や道具を労働手段、原材料を労働対象に分類する。

 こうしておけば労働するのは労働力だけで、機械や原材料がいかに大きな役割を果たしても労働主体ではないから、労働していないことになる。

 こうして価値を生むのは労働力だけだと論証したのである。

 しかしこれは予め機械や原材料は価値を生めないと定義しておいて、労働力だけが価値を生むと論証するのだから、同義反復である。機械や原材料も生産過程で、自己に含まれていた価値を生産物に対象化する筈である。

 機械や原材料が価値を生むことを物神性的倒錯として否定するマルクスは、労働力は抽象的人間労働では価値を形成し、具体的有用労働で労働対象を生産物に変革することを通して、生産手段の価値を生産物に移転すると、「価値移転論」で説明したのである。

 しかし生産過程で機械よりも労働力の方が主体的であるとは限らない。

 機械システムの中に目的連関がイン・プットされている。多くの労働力は機械の補助をしているに過ぎない。労働力を自動機械に代替させるかどうかは、どちらがコスト節減に有利かできまるのだ。

 それに価値移転論は、価値は抽象的人問労働のガレルテ(膠質物)つまり、それ自体の固まりであって、それが生産物に膠着しているという発想に基づいている。

 要するにマルクスによると価値は、生産物の属性ではないのだ。抽象的人間労働のガレルテが生産物に膠着しているので、生産物が価値を属性として持っているように思われるだけだとする。

 このような倒錯を、マルクスは「商品の物神性的性格」として批判したのてある。価値と生産物が元々別物であるという「隠された真相」は、生産過程で生産手段から新たな生産物に価値が移転することによって上演されるとするのだ。

 価値を生産物の属性ではないというのは極端な議論である。「価値」とは元々値段の意味なのである。

 市場においてある商品が他の商品のどれだけに相当するか、その社会的な力としての交換力である。この力は商品所持者のオリジナルな力ではない。生産物を所有する事によって、生産物にオリジナルな交換力を、商品所持者は生産物を代行して行使するのである。

 しかしマルクスは、この力は労働者の労働に由来するから、生産物に固有ではないとした。

 機械や原材料の働きもあって価値は形成されているのに、機械や原材料も労働が生み出したとして、結局労働者の労働に価値を還元してしまったのだ。しかし機械や道具が出現する以前に戻っても仕方がない。何を造るにも機械や道具や原材料が大きな役割を果たしていることに違いないのだ。
              四、事物と人間の区別の止揚としての価値

 価値論の詳しい検討は、拙著『人間観の転換ーマルクス物神性論批判-』(青弓社)(『『資本論』の人間観の限界』として「やすいゆたかの部屋」に掲載http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/shihonron/mokuji.htm)を参照願いたい。

マルクスは価値を抽象的人聞労働のガレルテであると共に、労働の社会的関係でもあるともした。

 労働している状態が価値ではなく、凝固状態において初めて価値なのだと、マルクスも認めている。

 この凝固状態は、彼によれば労働が凝結して物になった状態ではないのだ。

 価値を形成する抽象的人間労働はそれ自体が固まった目に見えないガレルテ状態になり、具体的有用労働が造りだした生産物に膠着するのである。

 この状態で生産物が商品関係で、自分の属性であるかのように価値を対象的に示した時に、労働の社会的性格が価値なのである。

 このガレルテとしての価値は単なる比喩ではない。マルクスは労働の社会関係である価値を同時にガレルテとして実体的にも捉えていたのだ。

 マルクスは価値を生産物の属性だと認めるとフェティシズム(物神崇拝)だと考えたから、価値をガレルテ化して憑きもののように捉えてしまったのである。

 結局物神崇拝を排斥して憑きもの信仰に陥ってしまったのだ。

 価値を生産物の属性だと認めることは、労働の社会関係が生産物という物の姿で現れることである。つまり、物が社会関係を取り結んでいることになる。

 そこで人間でない物が社会関係を取り結ぶと見なすのは、物の擬人化的倒錯ではないか?

 これは人聞の社会関係が物と物との社会関係に置き換えられ、取り違われているから生じる物象化ではないかとマルクスは考えたのである。

 物と物が人間関係を取り結び、人間関係が物と物との関係として現れることをとんでもない倒錯の如く捉えるのは、個人と個人との関係としてのみ社会関係を捉えているからである。

 しかも人間を身体主義的な人間観の枠内でしか見ていない。というのはマルクスの唯物史観自体が市民社会を現実的諸個人の関係として認識する構えをとっているからである。

 そして彼のいう現実的諸個人には生産手段や生産物は含まれていないのである。

 しかし現実的諸個人は先ずもって、経済的な関係を取り結ばなければならない。経済的関係とは物と物の関係として現れる人間関係である。

 例えば商品関係は商品と商品の関係であると同時に、商品の売買を通して成立する人間の市民社会的な社会的分業関係を表現しているのである。

 共同体的な生産社会でもそれぞれの構成員は自分が担当する労働やサービスを提供するのだが、それを通して必要な生産物が生み出され、生産物相互の関係が円滑に結ばれてこそ、存続することができるのである。

 社会的諸事物の中には身体的諸個人だけでなく機械や建物、原材料・燃料、それらによって生み出される様々な生産物、文化財、更にはそれらを取り巻く人間の自然環境が含まれる。

 それらが巨大な効用連関を形成しており、この効用運関が変動しつつ拡大再生産されているのだ。

 だから各社会的諸事物はそれぞれの効用に応じて、市場を介して存在を承認される数量が決まってくる。それで先述したように、各社会的諸事物は、その数量を再生産するのに必要な社会的諸事物を支配する力を価値として持つのである。

 だから価値は社会的諸事物が人間社会に占める社会的支配力である。

 身体的諸個人もその他の事物も市場経済的諸関係を取り結ぶためには、価値存在として社会的に承認を受けなければならない。

 それを事物が人間的性格を示すから物神性倒錯だと捉えてはならないのだ。

 社会的事物は効用を本質として存在する以上、造られたときから人間的性格を持っている。そして人間としての社会的力が事物の価値に当たるのである。

 だから身体的諸個人を含めた杜会的諸事物の総体を人間と見なすべきなのである。価値は社会的諸事物が人間総体を構成する諸人間体であることを示しているのだ。

 価値は人間の社会的支配力であり、人間と事物、労働と事物の抽象的な区別の止揚である。

 人間は価値として自己を示すとき、価値物である生産物に自己を対象化し、社会的事物として自己を主張する。

 社会的事物は市場を介して自己を価値物として主張することにより、人間総体の不可欠な要素として認められる。

 社会的諸事物はそれを産出する活動の成果であり、自己の再生産の為には産出活動量を自己の価値として市場で認められなければならない。

 この観点が労働価値説の正しい説明である。従って広い意味では機械や原材料も人間体と認める以上、それらの働きも人間労働に含めるべきである。

 それでは社会的諸事物が価値形成する労働時間はどのように計測できるのか?

 平均的な価値生産性を示し、シェアを同じだけ保っ場合は、減価償却されたと同量の価値を対象化するから、単位時間当たりの価値産出量を計算することも可能である。

 単位時間当たりの価値産出量が分かれば、平均的な労働力が単位時間当たりに産出する価値量の何倍に当たるかを乗数にして、生産稼働時間に掛ければ生産手段の広義の労働時問を計算できる。
                       五、価値カテゴリーの転倒性

 価値カテゴリーに含まれる存在のあり方を示すことによって、事物は人間を構成する主体的要素になる。

だから社会的事物にすれば、価値カテゴリーに含まれるかどうかは死活に関わる。

 そこで身体的諸個人を含む社会的諸事物の様々な存在のあり方が、価値カテゴリーに包摂されることになってしまった。

 崇高性・真・善・美.かけがえのなさ.効用等のカテゴリーは、本来は価値に含まれていなかった。

 価値は元来商品経済での交換力を意味するが、交換力の大小によって崇高性、真・善・美・.かけがえのなさ・効用等が成り立ったり、それぞれの量的な判断が決定するわけではないからだ。

 市場が社会的諸事物を抽象的に量化して富に変え、交換力次第で事物の大切さが決まると一般に臆断されるようになって初めて、価値が大切さや良さの代名詞のように成ってしまったのである。

 この過程は無自覚に深化した。いつしか何でも大切なものや良いものを「価値あるもの」と呼ぶようになっていた。交換力で計れば冒涜になるようなものまでである。だからそのような場合は、意識的には、価値を交換力の意味では使っていなかったのである。

 経済的な価値の権化は貨幣である。貨幣の支配が汎通的になると、価値追求は悪無限的なものになり、疲れ果ててしまう。

 しかも実際に獲得できる貨幣は大多数の人々にはほんの僅かである。貨幣が獲得できないために実現できない欲求や希望が多くなる。

 人々は経済的な価値に対して渇望すればするだけ、強い反感を抱くようになるのだ。そこで価値哲学では、価値の原義を忘れて、真の価値は交換力ではなく、むしろかけがえのないものであると考えるようになる。

 或いは崇高性・真・善・美等の精神的価値が真の価値とされ、効用や経済的価値=交換力は真の価値を得るための手段、或いは真の価値に奉仕するものとして低く位置づけられることになる。

 とはいえ「価値」という言葉に固執する深層心理には、交換力としての価値=貨幣に対する渇望とルサンチマンが渦巻いているのである。

 この価値概念の転倒によって、商品人間は、自己の本質を一つは交換力として持つと共に、もう一つは真の価値としての真無限的な人格として持つ。

 つまり何物にもかえがたいたった一つの、たつた一度だけの人生を生きる自分自身の無限の内的世界が、あたかも実数に対する虚数のように、実世界に対置されるのである。

 ところで価値は、客観的な物の属性なのか、主観的な意識なのか、共同主観的な妥当性なのかに関して論争がある。

 例えば此処に美しい薔薇があるとする。論者Aによれば、美しいとされているのは客観的な薔薇であるから、美は薔薇の客観的な属性である。しかし論者Bによれば、同じ薔薇を見ても美を感じない人もいるから、美は薔薇を美しいと感じた主観的な意識を、あたかも客観的な事物の属性であるかの如く表現しているに過ぎない。だから美は主観的な意識である。

 そして論者Cの考えでは、そもそも美意識は個人的なものではなく、文化環境の影響の下で共同主観的な美意識を受容してきたことによって育まれたものである。

 だから品評会や私的な討論等で積み上げた社会的な基準があって、そこで妥当した美のレベルについての判断から、或る薔薇を美しいとした判断の妥当性は共同主観的に判定されることができる。

 美的対象は感覚的に快感や感動をもたらす形姿をしているものである。その意味ではもちろん美的対象は客観的実在である。

 空想や幻想の薔薇でなければ、現実の薔薇が美しいのだから、美は客観的実在なのだ。

 美意識の範型によって、美しいと感じるとしても美意識が美しいのではない。美しいのは、あくまでその薔薇である。

 美的感性がいかに鋭くても、華麗に匂い立っ薔薇の側のパフォーマンスがなければ、美意識は惹起されないのだ。

 また共同主観的な美意識の範型の形成には、各時代の文化を象徴する社会的諸事物が大きな役割を担っている。意識は主観が形成するものという思い込みがあって、共同主観的な意識を形成する主体も、身体的な諸個人によつて取り結ばれる社会関係だと決めつけられがちだ。

 しかしこの社会や社会が生み出す意識にしても、単に身体的な諸個人の働きかけだけで形成されるのではない。社会的な諸事物の相互関係にも規定されているのだ。

 意識が単に主観の意識であるだけでなく、対象の主観への自己定位であり、対象の意識でもあること、単に個人の意識であるだけでなく、社会的な意識であること、また社会は身体的諸個人だけでなく、社会的諸事物によっても形成されていることに留意すべきなのである。
                       六、オイディプスの闇

 「カテゴリーとしての人間」論で、身体的諸個人も他の社会的諸事物も一緒くたに「人間」に含めてしまったので、人間の人間足る尊厳性の根拠になる「人格」の意義が薄れてしまうのではないかと危倶される向きも有るだろう。

ピコ・デラ・ミランドラは『人間の尊厳について』で自由意思による自己決定の意義を強調した。

この思想はエラスムスに受け継がれ、カントの人格主義やサルトルの実存主義へと発展する。デカルトやパスカルも主体的に考え、選択し、意思決定する自我を出発点や基本原理に人間を説いたのである。

 デカルト的な主観・客観の認識図式によれば、主観の側の精神的実体を対象的に認識することは原理的に不可能だ。

「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我有り。)」とある如く、考える我の存在は、ただ考えているという絶対確実な事実によってのみ支えられている。

ということは自我は、疑い得る感覚的現実によっては支えられていないということである。

だから自我は神から直接創造されたか、不滅の実体として超時間的に存在すると仮定される。この説明は自我の形成や構造は、原理的に説明不能だと言うに等しい。

 ホッブズは、デカルトの霊魂と身体の二元論を退けた。

考えている過程の外に考える主体など無いのだ。

彼は思考過程を、感覚から形成された様々なイマジネーシヨンの運動や連結として説明した。

そうだとすれば、自我はイマジネーションの運動や連結の仕方の特色を、他者と比較して、それぞれの個性を生み出す主体として実体化したものなのだ。

これは自我を身体の主体性として示している。ところが自我を身体的な自己保存や欲求の原理に基づいて展開するのは無理がある。

何故なら自我が帰属するのは、魂や身体だけでなく、家族や仲間、学校、職場、企業、地域社会、階級、民族、国家、人類、地球環境等である。身体的な原理で、他の分野における自我の内容が規定できるわけではないのだ。

 そこでマルクスの「人間の本質は、現実的には、社会的な諸関係のアンサンブル(総和=重ね着)である」という『フォイエルバッハ・テーゼ』の人間規定が思い出される。

 しかしこの場合の「社会」の意味は、現実的諸個人の関係であり、社会的諸事物は関係主体に含まれていない。

 社会的諸事物が社会関係を取り結んでいるように見なすことを物神性的倒錯と批判しているのである。

 この見解に対して私は、「社会的な諸関係」の中に社会的諸事物の関係も当然含まれるべきだと主張している。諸個人の意識の中身も、直接、間接に社会的諸事物が形成している場合があり得るのである。

 様々なレベルの社会的諸関係を重ね着して、一個の人格として社会的に認知される。

 それぞれの関係にはそれぞれ支配的な考え方や生き方があり、またそれらに反発した型に嵌まらない考え方、生き方が存在する。

 どれを選ぶのかは、その人がどの社会関係を最も重視するのかと大いに関係する。

 例えば、身体的な快楽を最も重視する人であれば、3Kの仕事は敬遠するだろう。

 家庭の幸福が一番の人は安定した収入を得れれば政治的な関心は持たなくなるだろう。

 実際には様々な社会関係は密接に結びついているから、家庭の幸福の為に頑張ろうと考える人は、安定した地位と収入を得ようとして会社の為に一所懸命に働き、かえって家庭の幸福を破壊してしまうという「ダブル・バインド(二重拘束)」に苦しむ。

 様々な矛盾に苦悩しながらも一身に諸関係を担って生きなければならない以上、そこに何らかの調和と均衡をそれぞれの立場から見出していかなければならない。こうして自分なりの考え方、生き方が身につくようになることが人格の形成である。

 ただし社会的諸関係のアンサンブルとしての自己の調和を保っていれば、それで良いのか?

 調和や均衡を保つ為に安易に状況の変化に合せて自分の考え方や生き方を変えていたのでは、自分自身がどんな人間なのかわからなくなる。

 かえって精神的に不安定になり、分裂症的になり易い。状況が変化しても自分の考え方や生き方を変えなくて済むような、確固とした自分の思想や価値観を持ってこそ、人格的な自我の確立が可能なのである。

 確固とした自我の確立は、真無限としての自我の主張に示される。しかし真無限としての自我は、実は「オイディプスの闇」である。

 オイディプス王は、開いていても何も真実を見ることができなかった自分の両眼を突き刺し、自己の内面の真実を見つめる。

 だがそこにあるのは闇でしかなかった。闇こそ自己のモイラ(運命)に対峙した彼自身の実存に他ならなかったのである。

 その真無限としての価値は、死すべきモイラの人間が侵すべからざる聖域を侵すことを彼のみ許される程であった。

 しかし「オイディプスの闇」は、いかに真無限の内的世界であるにしても、それは所詮自然的、社会的な諸関係の網の目の結節でしかない。

 自我が何か実体的な存在として実在するわけではないのだ。仏教では自我を縁起で説明し、無我の真理を説いたのである。ただし仏教の場合は、自然的、社会的な諸事物も実体のない関係に還元してしまうので、一切が空になってしまう。

 もちろん我々も、関係抜きにそれ自体で存在するような物を実体と考えるような形而上学的な実体概念は斥けるが、互いに前提し合う事により事物は相互に実体性を持つと考えてよい。では諸事物から超越的な、ある意味では身体からも超越的な自我はいかなる存在なのか?
                 七、融即存在から対他存在へ

 社会的諸事物の交わり方は基本的に二つのタイプに別れる。一つは共同体的交わりともう一つは市場的(=市民社会的)交わりである。

原始・未開の共同体では基本的に融即の原理が支配しており、諸事物は対他的な相互支配の関係にはなかった。

これに対して交換によって成立する市場的関係では、社会的諸事物は互いに商品として対他的相互支配関係にある。

十九世紀のコミュニスト達は私有財産に基づく商品的関係全般の止揚をめざし、しかも融即の原理を脱却した、人格的理性的な新しい共同体的関係の構築を構想した。

 融即の原理には対他的、人格的関係は存在しない。動物的な群れの共同観念を共有し、刺激に対して共同で反応できるコミュニケーションの体系の下で行動している。

つまり厳密には事物は生理的な表象に止揚されており、他の社会的諸事物と対他的な社会関係を結ぶに至っていない。

これに対して私有財産制の下では、社会的諸事物は商品として或いは商品化されうる財産として対他的な関係を取り結ぶ。

認識論の視角から見れば、生理的表象から客観的事物へと変化して、知覚の対象から認識の対象へと発展しているのだ。

 高等動物の場合、生理的な表象を刺激として受け止めて、個体と類体の体験知に基づく条件反射の積み重ねで反応している。

そこには超越的自我は存在しない。ところが人間の事物認識にあたっては、生理的表象は自己の他者として外的な物として受け止められる。

 つまり超越的自我が生理的表象を対象化するのである。

 このように事物認識には生理的表象を対象化する主観としての超越的自我が必要なので、事物認識が行われている以上、超越的自我の実在性も疑い得ないとされる。

 また超越的自我は身体の機能である生理的表象を超越しているので、身体に宿っているとしても身体とは別の、身体が滅んでも滅びないような精神的実体であるかに思われがちだ。

 それに超越的自我の生成の解明は難しいので、神から直接造られたか、不生不滅の輪廻転生する存在であるかに思われるのだ。

 ところで超越的自我は生理対象を他者として事物化して捉える意識に基づいている。

 だから、社会的諸事物に対して他者として関係する主体である。

 このように事物を他者化できるのは、自他の区別が成立しているからである。

 自他の区別が生じた原因としてよく分業の発達や道具の使用等労働の論理が挙げられる。

 しかし他の高等動物でも分業が見られるので、分業により自己の役割の特殊性から直接自己意識が発生するとは言えない。

 たしかに手の延長としての道具の使用は、変わらない一つの主体と多くの他の事物を区別して捉える契機になり、自我の形成の論理を持っていると言える。

 とはいえ原始・未開における労働の発達は、融即の論理の範囲内で永い時間をかけて、何世代もかかって漸く一つ達成された程度だったのだ。

 だから分業の仕方や道具の製作方法は、高等動物と同様、養育期間に親から子に身を持って伝授される後天的形質にすぎない。だからそれらだけで融即の論理が破られ、事物認識が確立されるわけではないのだ。

 言語の発達によって主語・述語的表現が生まれ、実体・属性的に表現できるようになったので、事物認識が可能になったというのは順序が逆である。

 正しくは自他の別に基づく事物認識が可能になったので、実体・属性的表現が求められ、主語・述語的表現の言語が音声信号から発生したのである。

 何故なら動物的な融即の論理に基づいて、音声信号が生理的表象を信号化して伝えていた。

 その音声信号がいかに発達し、音節を使って相当複雑で多くの種類の音声信号を伝える事ができるようになっても、それは複雑な生理的表象を伝えているに過ぎないからだ。

 絵画や舞踊による表象の模倣がシンボル化に発達して言語や自己意識の発生になったという説も、表象の模倣にとどまるなら、信号レベルの置ぎ換えや身振り信号に過ぎないから正しくない。
                  八、超越的自我の位置づけ

 フラトリア(母氏族)内の各部族は一定地域内で散在していた。そこで地域的な社会的分業が構成されている。各部族は、家族単位での物資と性の交わりを親縁共同体と取り結ぶために部族内部の性交をタブーにしていた。この段階を一応広い意味でプナルア婚とする。

ところが未開フラトリア内の部族は歯が抜けるように次ぎ次ぎと移動していく。だから社会的分業の環が途切れてしまう。

そこで後から入ってきた異縁共同体とも交流が必要となる。ところが音声信号もその他の文化も異なるので、生理的には疎遠な、避けるか排除すべき表象でしかない。しかし交流が不可欠である。そこで共同体の境界に互いに物資を捨て合う形の物々交換が開始されたのである。

 この特別の物の表象には生理的に対応することができない。物の表象の背後にある異縁共同体との対他関係が生じているのだ。

物の表象は既に生理的な反応の対象でない。他者を代表する事物として自己に対峙している。生理的表象が自己の外部の他者として意識されたので、自己は生理的表象から逃れて、その外部に自己を定立しなければならない。これが超越的自我である。

この超越は生理的表象からの超越であるから、自我は交換する主体として自己を認識すればよい。

共同体が自己でも、家族が自己でもよいのだ。身体的個人が実質的な主体であれば、身体的個人が自己と同一視される。交換主体の変化で自己を何と同一視するかも当然変化する。生理的表象という身体機能から外的であるという意味で霊魂のような精神的実体が超越的自我の如く解釈されることにもなる。

 私有観念が発達すると、元々自然的、社会的諸事物が働きかけて自己を意識に定立する活動でもあった意識活動、認識活動の私物化が顕著になる。私の意識内容はあくまで超越的自我である私自身の意識であり、決して意識内容である自然的・社会的な諸事物の意識でもあるとは見なされない。

その為に社会的諸事物が社会的な意識的活動をする主体とは認められないことになる。

かくして社会的諸関係はあくまでも身体的な現実的諸個人の関係でしかなく、社会的諸事物が人間の社会関係を取り結ぶと考えるのは擬人化的倒錯、物神崇拝と見なされることになる。

そして超越的自我の主体的な活動次第で社会的諸関係がいかようにも変革され得るような、主体主義的、主観主義的偏向に陥り易かった。

 実際は、超越的な自我が主体的に物事を判断する際の基準は、社会的諸事物の諸関係がアンサンブルされて自ら均衡を保つ仕方である。その仕方が一定の恒常性を示すのを実体化したのが超越的自我である。

 だから元々超越的自我自身が社会的諸事物の均衡の仕方によって傾向づけられているのである。

 従つて、超越的自我やそれが宿る身体的自己にのみ人間性を見出すのではなく、人間を社会的諸事物の存在性格を示すカテゴリーとして捉え返し、社会的諸事物の相互関係の総体を人間として捉え返すべきである。

 これはあるいは超越的自我の相対化でありり、真無限として内面的世界の冒涜の如く受け止められるかもしれない。

 だが人格の尊厳を守り、豊かな心を培うためにも、人格の存立する機制を社会的諸事物の相互関係の総体の中で冷静に位置づけておく必要がある筈である。



           

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