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人間論および人間学コミュのイエスとマルクスの「つきもの信仰」

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イエスとマルクスの「つきもの信仰」

 死因、反吐に溺死

イエスとマルクスの「つきもの」信仰

聖餐の秘儀と復活信仰 

「人間=商品」論の試み

マルクスの「つきもの」信仰

事物の思考の可能性

           1.死因、反吐に溺死

      

 真夏の寝苦しい夜に私は激しい自己嫌悪の余り嘔吐した。ゴボゴボゴボゴボゴボゴボと限りなく戻した。やがて私は自分が戻した反吐に埋もれ溺れて激しい臭気と息苦しさの中で気絶してしまった。

番人・・ウェーくせー、今度の亡者は「やすいゆたか」、自称「哲学者」を気取っていた奴です。やたら臭いますぜ、鼻がめげそーだ。

閻魔・・どっさり水でもぶっかけろ。神聖な裁きの場を悪臭で汚すとは不埒な野郎だな。

番人・・何しろ己の腐り切った五臓六腑まで戻してしまっています。適当に戻しておきましたがね。よっぽど体に悪いものを食べたんでしょう。

やすい・・遂に俺もお陀仏しちまったか。あっけない人生だったな。

閻魔・・自分で吐いた反吐に溺れ死んだのはお前が初めてだ。よっぽどゲテモノでも食ったのか。

やすい・・いや食べたんじゃなくて、自己嫌悪ですよ。つくづく己が嫌になっちゃったんです。

閻魔・・そりゃ哲学なんて分けの分からないものをやっていたせいだろう。一体どんな下らない哲学を扱っていたのだ。

えーと、調べによると、卒論は「西周(にしあまね)」で修論は「労働概念の考察」、梯明秀門下のマルクス経済哲学だな。舩山信一の人間学的唯物論を批判的に継承したというふれこみだ。

廣松渉批判をやって相手にされず、マルクス『資本論』の物神性論を「つきもの信仰」だと大上段から批判した『人間観の転換』を出版したものの、全然売れなかったのか。あの唯物論者の親玉を「つきもの信仰」だと、こいつは気が触れているらしいな。

 それから人間論や宗教論に手を回して、『歴史の危機』でフクヤマの歴史終焉論を叩き、グローバルな世界統合を展望する歴史観を打ち出そうとしたんだな。陳腐なようだがまあまあ明るいじゃないか、自己嫌悪を抱くようなものじゃない。それからオウム真理教事件にショックを受けて「ヨハネ黙示録」を問題にし、『バイブルの精神分析』を書きはじめていたところだな。


コメント(6)

やすい・・宗教的な憎悪がいかに愚かで醜く、恐ろしいものか、閻魔様ならようく御存知でしょう。

 私は宗教的憎悪を取り除くために、『バイブルの精神分析』で『バイブル』の中に人間の憎悪がどれだけ影を落とし、神様の尊い教えを歪めているかを論じ、普遍性のある宗教を作りだそうと思っていたのです。

閻魔・・お前はマルクスをやっていた唯物論者で無神論者だろう。今更閻魔の前で「神」を信仰していたような演技をするとは、とんでもない悪党だな。

やすい・・神を信仰している振りをしても実際は、神を無視した行為をしている連中が沢山いるじゃないですか。

 私は正直に人格神的な意味での神の存在を疑っていましたから、唯物論の研究をしましたが、『バイブル』の中の愛の教えなど、普遍妥当性があるものは大切にしなければと考えておりました。

 近代人にとって神の存在を疑うのは常識です。カントにしても、理性的には神の存在証明は背理だとしているじゃないですか。

 神の存在を疑いながらも、神の救いを求めるしかないというのが、近代人の逆説的な信仰なんです。

 神に救済を求めることを否定しているマルクス主義者だって、自らの党派的な真理を絶対視して、それに殉じることで、自らの存在意義を永遠化しようとしていたわけです。

 神という人格的存在に代えて、宗派的な教義を置いたわけで、その宗教性は否めません。

閻魔・・ともかくお前は神を信じてもいないくせに、神の教えに注文をつけるというとんでもないお節介を焼こうとしていたんだな。それだけでも極悪人だ。

やすい・・様々な宗教やイデオロギーがあり、それらが不毛な対立をしており、その為に全人類的な課題に共同の取り組みができない状況にあれば、哲学者はそういう不毛な対立の原因を明らかにし、普遍性のある信仰が育つようにと対話を促進しようとするのは当然じゃないですか。      

閻魔・・数千年も続いてきた宗教の教義に今更注文を付けて、敬虔な宗教者を背徳的な無神論者に改宗させようという魂胆だったわけだな。

やすい・・いえ、とんでもございません。

 閻魔様は無神論を誤解されています。神を信じないということは、宇宙を創造し、主宰する人格神がおられて、その絶対者の命令なるものが、聖典に書かれてあり、その言葉に忠実に生きればよいという信仰形態を取らないということです。

 ですから決して、自分勝手な欲望のままに身を任せ反道徳的な行為でもやってしまっていいんだという考えではないんです。

 特定の宗派に属していますと、その宗派の聖典に書かれている律法が絶対的に正しいことになってしまいます。

 これが異教が誤りである根拠にされますから、自己の宗派を守り、異教を撲滅することが正義だということになって、恐ろしい紛争につながりかねません。

 しかし何が正しいかは、聖典に書かれてあるかどうかで決まるわけではありません。また預言者の語った言葉であることから、その真理を確かめることが出来たのでもありません。

 またユダヤ人の預言者のことばも、それが本当に神のことばかどうか怪しいもので、預言者のことばへの信仰にすぎません。

閻魔・・馬鹿な奴だな、閻魔にまで論争をふっかけるとは。

 ともかくお前は、そうやって理屈をこねて、自己弁護と合理化ばかりやっていたので、世のために人のためには何一つなっていないだろう。

 第一お前の無力さは、お前が自己嫌悪の反吐で溺れ死んだという事実が何よりも雄弁に語っているじゃないか。

 
     
             イエスとマルクスと「つきもの」信仰


やすい・・全くその通りです、閻魔様。

 私は、キリスト教とマルクス主義という西欧近代の二大信仰を、ただ否定的に評価するという業績しか挙げることが出来なかった。そのことに幻滅したのです。

閻魔・・キリスト教やマルクス主義の普遍性を評価していたんじゃなかったのか。

やすい・・ええ勿論、そうです。私は両者の良いところは継承すべきだと申しておりましたとも。

 キリスト教の愛の教えにしても、マルクス主義の協同主義的な変革思想も素晴らしいものです。

 それらを展開する上で何か大きな成果を挙げていれば良かったのですが、私がいままでのマルクスとイエスについての思索を振り返って、私のオリジナリティのあるものとしては、マルクスが資本論の方法論を価値をガレルテ(膠質物)とする「つきもの信仰」だということと、キリスト教の成立も、イエスが自分の肉体に宿る聖霊の力で悪霊を追い出す「つきもの信仰」の持ち主であって、霊力の衰えたことで十字架につけられたが、自らの肉体を弟子に聖餐させることで復活を計ったことによるんだという仮説なんです。

 何と二大信仰に「つきもの信仰」のレッテルを貼ってしまった。これが私のオリジナリティだということは何とも悲惨じゃないでか。

閻魔・・何と、お前は唯物論の親玉のマルクスを「つきもの信仰」だと決めつけておいて、今度はイエスまでも「つきもの信仰」だったとし、そのうえ霊力が衰えて十字架に磔になった死体を弟子に食わせて復活しようとしたというのか。

 これはとんでもない宗教を冒涜する説を出したものだな。これは飛びきりの地獄を用意しないといけないな。いかに唯物論者とはいえ、死後の世界での事を考えて、宗教には少しは遠慮した説を説くべきだったな。

やすい・・唯物論者は死後の生があるなんて矛盾したことは否定します。だって死んでいるのに生きているということでしょう。それは死んでいないって事ですよ。死ねば個体としては無になるんで、地獄も極楽も存在していない者にとっては存在しません。

閻魔・・それじゃあ、お前が閻魔の裁きを受けているという事実まで否定しなければいけなくなる。「我思う故に我有り」だから、死後の世界はもはや否定できまい。

やすい・・もし私の死とこの死後の裁きの両方が事実なら、私は死後復活したことになります。その結果当然唯物論は間違いだったことになりますね。でも私の死はまだ実証されたわけではないし、閻魔様の裁きだって、単なる自称哲学者の空想の産物で有るかもしれません。

閻魔・・性懲りもなく屁理屈をこねる奴じゃ。

 
ーーーーーーーーーーーー聖餐の秘儀と復活信仰ーーーーーーーーーーー

やすい・・私の名誉の為に弁護しておきますが、私は決してイエスを弟子たちが事実として聖餐を行ったと主張しているんではないんです。

私は明白な証拠が無い限り、聖餐を歴史的事実だと主張する気はありません。ただ聖餐があったという仮説を立てるか、聖餐をあったことにしたとする仮説を立てなければ、キリスト教の成立とその後の発展は説明できないのではないかと思っただけです。

実際、キリスト教の教会での儀式の中心はイエスに対する聖餐をパンとブドウ酒を使って象徴的に再現する「聖餐式」「聖体拝領式」です。

閻魔・・あれは「最後の晩餐」を記念して、パンをキリストの肉、ブドウ酒をキリストの血と見立てているものじゃ。その行為によって、主イエスとキリスト信徒が一体化しようとする儀式になっておる。

やすい・・つまりイエスの「血と肉」は特別の霊力が宿っていて、それを食べなければ、人々は永遠の生命を得ることはできないわけでしょう。「ヨハネによる福音書」ではそうなっています。

閻魔・・「ヨハネによる福音書」は一世紀末のもので証拠として採用することはできないんだ。思想としては色々面白そうなことが書いてあるが。

やすい・・イエスが聖霊をもっていると自分で信じ込んでいて、悪霊が取りついたせいでいろんな病気になった患者を、悪霊払いによって癒す医者であったことは「マルコによる福音書」からも窺えますね。

閻魔・・それは悪霊がついているから、それを取り払って癒すという形で、因習や迷信や差別に苦しんでいる民衆をイエスが救済したということを意味しているという説がある。つきもの信仰という俗信をイエスは利用したが、イエス自身がつきもの信仰だったとは言えないという説だ。

やすい・・それはそういう説を唱える人が、イエスを自分の信仰レベルに引き上げて解釈しているに過ぎません。

つまり後のキリスト教神学の立場で、福音書を解釈しているわけです。

つきもの信仰というのはアニミズムの段階で起こります。生き物や石ころのような自然物がそれ自体で神にされるフェティシズムから、自然物に宿っている霊が神として崇拝されるアニミズムに脱皮しているわけです。

 『バイブル』ではダビデ王の活躍を描くころから霊のがとりつく話がでてきますが、イエスのように「つきもの信仰」を中心とした展開にはなっていません。

 つきもの信仰はフェティシズムのように物それ自体に超常的な力を認めないと言う意味で啓蒙的ですが、霊を宿した身体は特別な存在になります。

 カニバリズムは身体にまだ霊が残っている間にその身体を食べることによって、霊を体内に取り込もうとするものです。これが未開の部族では戦争の際の人食いとして行われますし、族長やシャーマンの葬儀にあたってカニバニズムの儀式が行われることになります。

 「ヨハネによる福音書」の「人の子の血を飲み、肉を食べなければ永遠の命を得られない」という思想は、ユダヤ教の超越神論の伝統からは外れたものです。

 アニミズムと融合したフェティシズムとしてイエスの聖なる身体が永遠の命を与える食料と成っているのです。

閻魔・・イエスはあくまで比喩として、イエスの愛の教えが永遠の命である信仰の核心だとしているのであり、だから実際にイエスの肉を食べ血を飲まなくても、パンを食べブドウ酒を飲めばよいわけだ。お前は比喩でキリストの教えをキリストの肉体に例えているのをそのまま事実として解釈しようとしている。イエスは決して自分の肉体を弟子に食べさせようとしたのではなく、自分の愛の教えを広めようとしたのは明らかだ。キリストの愛の教えをよく咀嚼して、実践することが「二つの愛」に生きることであり、イエスと共に生きることであり、これがキリストの復活に他ならないんだ。それをカニバニズムという野蛮な猟奇的な行為として解釈するのは、キリスト教を冒涜していると言わざるを得ない。

やすい・・私も好き好んでこんな解釈をしているのではありません。イエスが死者から復活したという歴史的事実を確信することによって、イエスの弟子達は殉教も恐れない使徒となってキリスト教団が形成され、膨れ上がっていったのでしょう。このキリストの蘇りは決して精神的な意味に限定できないと思うんです。

 弟子達がイエスの教えを実践して、「二つの愛」に生きることがキリストの復活だというのでは、説得力に欠けます。そういう精神的な意味の復活を確信する為にも、実際に死にうちかったイエスへの信仰が必要だったのです。

閻魔・・だから福音書は処刑から三日目にイエスは復活したとしているじゃないか。

やすい・・イエスが神の子であり、三日目の復活が文字通りの意味で事実だと信仰できるなら、苦労しませんよ。既に一世紀の中頃からグノーシス派は、イエスの復活を歴史的事実ではなく、精神的な意味での弟子の霊における事実として捉え返していますね。実際生身の人間として登場していたイエスが、いったん死んだのにまた生き返ったという話は、眉唾なんです。

 本当にイエスを神の子だと信仰しているなら、生き返ったって別段なんの不思議もありませんよね。ですから、鶏が鳴くまでにイエスを三回知らないと言ったペテロをはじめとして、弟子たちにしたところで、百パーセント信仰していたわけではなかったのです。だれもがユダの要素を持っていたわけです。

閻魔・・しかしイエスの十字架によって、彼の肉体は滅び、純粋の精神だけに戻った。そして彼の言葉が真実であったことが思い起こされ、彼を十字架につけた自分たちの罪に目覚め、殉死さえ恐れずに、イエスの言葉に生きようとするようになったんだ。

やすい・・しかしね、それ以前にユダヤ教の教えからいっても、「神の子」は唯一神論と矛盾しますし、人間が神でもあるということは、神に対する偶像崇拝に当たり、モーセの『十戒』にも背きます。

 イエスを神の子と信仰すること自体が、ユダヤ教から見て、背教的ないかがわしさを持っていたわけです。その上、「人の子」の血を飲み、肉を食べるというそれこそトーラーに真っ正面から背く行為を核にしていたわけですからね。辛うじてイエスの行う様々な癒しの奇跡や魂が洗われるような説教に魅せられて、弟子達は付き従っていただけです。

 もちろんイエスは聖霊を宿していることを自ら確信していましたから、その癒しは相当の迫力があり、成功例も数多くあったのでしょう。でもいつまでも奇跡が成功する筈もありません。やがて霊力が衰えたと見られます。ユダヤ解放も精神的な意味だけでした。イエスの憎しみではなく、愛で戦うという「愛の戦略」は民衆には理解されません。こうして民衆に見捨てられたのです。ですからユダヤ教によるイエスの告発と処刑は必然でした。そこでイエスは自らの聖霊の不滅を信じていましたから、聖餐による復活を企てたわけです。

閻魔・・それなら「最後の晩餐」で、どうしてブドウ酒やパンに譬えたりするんだ。そんなことをすれば、弟子達はブドウ酒やパンでいいと思い込むじゃないか。

やすい・・聖餐は秘儀ですから文書には残せません。キリストの血と肉と思ってブドウ酒を飲みパンを食べる儀式を通して、イエスはいよいよ時が迫っていることを告げたのです。ですからブドウ酒やパンは予行演習のつもりだったのです。

閻魔・・しかし、実際に聖餐を行っても、それでイエスは復活できるのか、アニミズムの立場に立てば復活するとしても、イエスの弟子達に復活するとは言えないだろう。

やすい・・ですから、あくまで仮説ですが、イエスの弟子たちはアニミズム的に復活を信じて、敢えて聖餐を行ったわけですから、自らの体内に入ったイエスの血と肉は強烈なドラッグ効果を現すことになるのです。自分自身とイエス、他の弟子とイエスの区別ができなくなり、イエスにとりつかれた状態が長く続くことになります。まさしく復活したキリストと始終出会っていたわけです。こういう原体験がなければ、あれ程夥しい殉教者を出しながらも発展しつづけたキリスト教団を生み出すことはできなかったでしょう。

でもキリスト教団内部でもこれは秘儀とされていましたから、イエスの復活と象徴的な聖餐の儀式が、表面的には直接結び付けられずに行われたのです。私の仮説的解釈が間違っていて、イエスに対する聖餐が歴史的事実としてなかったり、歴史的事実としてあったことにしたことがなかったりしますと、本当にイエスが身体的にも復活したと信仰するしかなくなりますから、私の立場は、キリスト者に極めて近いところにいることになります。その意味で決して冒涜なんかじゃないのです。

 もし聖餐が歴史的事実であるという仮説が冒涜なら、聖餐を象徴的行為として二千年間も続けてきたキリスト者がどうしてキリスト教を冒涜していなかったといえるでしょう。

閻魔・・ウーム、じゃが、お前は本物のキリスト教徒ではないのだから、イエスの弟子がイエスの死体を食べたという指摘は、人肉を食べたという誹謗になるのではないか。

やすい・・人肉を食べること自体は、特別の飢餓状態や宗教的な信念に基づいていれば、一概に猟奇的とは言えません。閻魔様は人肉の味を覚えてしまった犯罪者が、人肉を求めて猟奇的殺人と人食いを繰り返す事態を想定されておられます。そこから人食いがあれば、無条件に非人道的だと見做しているのでしょう。私は決して興味本位でこういう仮説を立てて、キリスト教を猟奇的だと非難しているわけではないのです。全く聖なる行為としての宗教的カニバニズムをキリスト教の成立の原点に見出しているだけです。

閻魔・・それならお前はどうしてそんなに自己嫌悪に陥る必要があるんだ。キリスト教の成立の秘密に関するユニークな仮説を提出出来たのだから、もっと胸を張ればいいのじゃないか。やはりお前はイエスの弟子達がイエスの肉体を貪る姿を想像して、それで戻したのではないのか。

やすいーいいえ決して私は、弟子達の聖餐をおぞましいとは思いません。それは恐らく、天使達の清らかな歌声が聞こえてくるような気持ちで行われたに違いないのですから。私はそれよりも、自分の哲学者としての仕事に不満なのです。私は自分はヘーゲルのような哲学の大樹を打ち立てて、その中にすべての古今東西の思想家の思想を位置づけ、全体として、人類統合の時代に相応しい自分の哲学を打ち出したいと願っていたのに、自分がこれまでやってきた仕事でオリジナリティを誇れるものは、マルクスとイエスの「つきもの信仰」の指摘位じゃなかろうかと思うと、思わず反吐が出てしまったのです。

 
ーーーーーーーーーーー「人間=商品」論の試みーーーーーーーーー

閻魔・・調べによるとお前は、「人間=商品」論を吹聴して、嘲笑を浴びていたんじゃなかったのか。この悪ふざけのような人間論をくそ真面目に説いていたのだろう。

やすい・・ええ、別に「人間=商品」論を撤回したわけじゃないんです。

 ただ「人間=商品」論を完成させる以前に、人間についての内容をいろいろ論じている内に、「人間=商品」なんだと強調することに熱心じゃなくなったんです。

 それは「人間=商品」じゃないという現代ヒューマニズムが勢いを無くしていることにも関係があるでしょう。逆に言えば人間の商品的な存在性格は、だれしも認めざるを得なくなっています。

閻魔・・それは社会主義世界体制の崩壊や冷戦終焉によってマルクス主義と、そこからの資本主義の原理への根源的批判が弱くなって、鋭いヒューマニスティックな批判ができなくなったことと関連しているな。

 今では商品的な存在のあり方を前提して、市場関係のなかでどのように対話的なコミュニケーションを計っていくかが問題になっている。

 だから人間は商品ではないということを出発点にした、批判理論が組めない。それで、逆に批判理論に対する批判としての「人間=商品」論も意気があがらなくなったというわけだ。

やすい・・私も決して「人間=商品」のままでいいとは思っていません。

 でも人間が商品でないかのような議論の立て方は現実的じゃないわけです。

 むしろ人間は商品性によって初めて人間になったと捉えるべきで、私のオリジナリティは、そこにあったわけです。

 この人間起源論は実は、言語起源論とも連関していて、人間本質論にかなりの衝撃を与えたつもりでしたが、全く無視されたままです。

閻魔・・人間性を商品性に置くという議論は、結局はカント的にいえば、傾向性に従って生きるということになる。つまり自己の欲望や利害によって行動するという原理だ。それでは人間の人格としての尊厳は成り立たない。むしろ人間の人間たる由縁は、そういう傾向性を抑制して義務に従うという道徳性にこそあるわけだ。

やすい・・傾向性を抑制して義務に従うことも含めて、人間は市民社会の中に適合して生きなければならないんです。

 市民社会という私的な商品関係の社会は、それ自体で自立した社会ではなくて、公共部門によって支えられているわけです。

 ですから傾向性にのみ従っていたのでは都合が悪いのです。必要な場合には、傾向性を抑制して義務を優先しなければならないのです。 ですから人間は商品社会で生きていこうとする限り、傾向性と道徳性を両方満足させなければなりません。

それから商品社会における商品としての自己意識は、単純な打算に還元できる意識でもありません。むしろ自己の価値を商品的な交換価値に還元されることに反発するのです。

 そして家族に対するかけがえのなさなどの真無限的な価値として自我同一性(アイデンティティ)確立しようとするのです。

 ですから一見、人格は商品の人格ではないかのような外見を示します。そこで労働力の商品化を商品化され得ないものが商品化されてしまう矛盾として捉え、そこに資本主義の根本矛盾があるという指摘がなされました。

 もし労働力商品として自己を実現できなければ、労働者としての生活が成り立ちませんから、どれだけ、自己の商品としての存在形態に反発しても、仕方がありません。

 自分の労働やサービスが非商品的な自由な生き方を表現するものであっても、それが売れて自分たちの商品としての生活がそれで支えられなければ、商品社会では通用しないのです。その意味で先ず「人間=商品」論を根底において捉えるべきなのです。

閻魔・・そういう議論は近代の資本主義社会を前提にして論じるからそうなるのだ。近代より前の時代では人間は商品でなかったのだから、近代資本主義の普及によって商品生産に巻き込まれる内に人間は商品性を身につけたのではないか。

やすい・・そういう誤解が多いので困ります。人間は労働力の商品化によってはじめて商品化したのではないのです。商品交換を始め、商品交換を前提にする生産を始めるようになって人間の商品化は始まっています。

 むしろ私の「人間=商品」論は、人間は商品性をもつことによって人間に成ったという議論だったのです。もちろん総スカンをくらいましたがね。

閻魔・・奇をてらった議論を好む奴だな。商品生産が普遍的になるのは近代になってからで、だから商品性で人間性を規定するのは、近代の原理で過去を規定することになる。

やすい・・商品は生産物の社会的な規定ですが、労働生産物ですから当然それを作ったり、取引したりする人間の生活をも規定してしまいます。その商品の生産や流通や消費に係わっている時間は、人間も商品性に規定されるのです。

 それに商品として交換されるのでない共同体的な物資の交流は、身内内での物資の交流ですから、損得の駆け引きがなく、この分業で結合している人間同士は他者として感じられません。生産物も身の延長としてしか捉えられないのです。それは融合の論理ですから、いわゆる他者としての人間同士や物同志の関係になっていません。ということは人間性というのは、商品交換による他者性の論理によって成立したということなのです。

閻魔・・馬鹿も休み休みにしろ。人間の本質は言語を話したり、思考活動を行ったり、労働したり、神を信仰したりするところにある。

 他者性の論理だって、分業による区別や私的所有による自分のものと他者のものの区別、利害対立や戦争等を通しても成立する。私的所有によって商品交換が成立したのであって、その逆ではないんだ。

やすい・・問題は自己意識がどうして成立したかです。それには当然対他的な社会関係が必要ですね。

 分業による区別は差異を意識させるものであっても、それぞれの役割分担によって互いが共同体的に融合していることを意味するだけです。実際動物の社会でも高度な分業が成り立っているように見えますが、自己意識の形成に至っておりません。

私的所有によって商品交換が成立したというのは、その通りなんですが、では私的所有がどうして成立したのかを解き明かさないといけません。やはり他者性の論理が必要です。

 動物同志の関係でもなわばり争いや、猛獣とその餌食になる動物の関係等は、対他関係と見られがちですが、その動物自身の意識からみれば疎遠なあるいは危険な生理状態であったり、食欲を喚起し、飛びつかずにはいられないような生理状態であるわけです。つまり自己の生理から独立した、生理的に働きかけるのではなく、理性的に交渉しなければならない他者というのは、動物には存在しないのです。

 ですから生理的な融合関係で処理される身内的な分業や協業では対他的な自己意識は発生しません。だから理性的な交渉相手としての他者は、交換関係によって始めて成立するのです。

閻魔・・だとしても交換が成り立つためには他者関係が必要だろう。つまり対他的な自己意識がなければ、交換は成り立たない。

やすい・・つまり動物的な生理的存在構造から人間的な人格的関係への飛躍がどうして生じたのかという問題なんです。

閻魔・・するとお前は、人間がどうして動物から進化してきたのかという、人間進化の秘密を解き明かしたというのだな。

やすい・・動物的なサルからヒトへの進化は、樹上生活から降りたサルの一種が二足歩行を始めたことで起こったと考えていいと思うんです。その結果、直立して咽喉が発達し、豊富な発声が可能になった。これは音声信号を著しく豊富にしました。しかしその段階ではまだヒトではあるが、動物と端的に断絶した人間にはなっていません。他者性の論理には共同体間の交換が必要なんです。

 その為にはフラトリア(母氏族)があって、それを構成する部族は互いに血縁のある親縁同志だったとします。ところが移動で一部の部族が欠けて、フラトリア内の社会的分業が壊れてしまったとします。そこへ他の血縁のない共同体が引っ越してきて、フラトリアにとって必要な分業の穴を埋めるような物資を作り出していたとします。そこで分業関係に入りたいのですが、血縁がないので、生理的に対応できないのです。

 そこで無人の境界に物資を捨て合う、無人の物物交換が起こったと言うわけです。こうして物の背後に他者である異縁共同体を意識せざるを得なくなります。つまり表象としての物の背後に表象を超えた存在を仮構するわけです。

 そして表象としての物の相対している自己を表象を内に超越する形でやはり仮構せざるを得ません。これが人格的な自己意識の起源です。

閻魔・・見てきたようなことを言うが、単なる推論でなんの証拠もない。そんな説明を思いついたところで、今度は労働から自己意識や他者意識の推論をもっと巧みにする輩が出てくるだろう。

やすい・・労働は、{二本の手ー多種の道具ー多種の労働生産物}という図式で、身体の進化は伴わないで、次々の道具や生産物が改良され、増産されるという図式になります。そこから不変の中心に主体概念が反省される可能性があります。そして道具、生産物、自然物の区別が生じて、人間的な認識が発達する論理を包蔵しているのです。

 でも未開の段階ではまだ人間たちは融合的な共同体の中にいました。一生のうちにほんの僅かな改良しかしなかったのです。ですから労働の持つそうした理性的な論理を対象化できるわけはありません。

閻魔・・馬鹿者、わしの言うのは、そういう意味ではない。お前の屁理屈は、一つの推論に過ぎん、何の証拠もない。だから他の説明だって可能なわけで、お前が勝手に自分の説明が最善だと独断しているに過ぎない。だから世間はお前の論証を受け入れることもなく、お前の説はお前の死と共にもはや滅んでおるということじゃ。

やすい・・そうです、その通り。だから私もそういう知の為の知は意味が無いと思います。私が交換の発生によって、人間が生成したというのは、「人間=商品」論の基礎づけの為なんです。

閻魔・・「人間=商品」論なるものもどうせ何の役にも立たん屁理屈に決まっておる。

やすい・・「人間=商品」論も頓挫していますからね。そう言われても仕方がないかもしれません。しかし私の狙いとしては、人間の存在構造を商品として捉えることで、商品としての人間のあり方やその可能性、限界、そこからくる様々な意識形態を明らかにできると思ったんです。そして商品性を止揚する可能性や意識のあり方を論じることもできると思ったのです。

 『人間論の可能性』(北樹出版)や『人間観の転換』(青弓社)である程度は触れましたが、まだまだ中途半端なままでした。それに自分だけ了解できる理論展開をしても、だれにも相手にされない気がして、古今東西の人間論から学べるものを学んで普遍的な説得力のある人間論に脱皮すべきだと気づいたんです。

 
--------------------------マルクスの「つきもの」信仰-------------

閻魔・・ところがそこでお前が発見したのは、マルクスもイエスも結局は「つきもの信仰」だということなんだな。それでこんなことしか発見できないので自己嫌悪に陥ったという始末だな。

やすい・・イエスが悪霊払いの魂の癒しの医者であり、その意味で「つきもの信仰」だったてことは、それが説明の為の方便かどうかは別として、周知のことです。

問題は歴史的事実としての復活と聖餐が不可分ではないかとい仮説です。これは私のオリジナリティでしょう。

 マルクスの「つきもの信仰」の発見は、私の理論的な能力がピークにあった時に閃いたもので、いまだにその時の興奮は忘れられません。なにしろ唯物論の親玉が迷信とされる「つきもの信仰」に陥っているというのですから、全く自分でも信じられない発見でした。

閻魔・・もしお前のマルクス解釈が正しいのなら、マルクスの唯物論というのも底の浅いものだということになるから、おもしろいじゃないか。

閻魔にとってはマルクスはやはり不具載天の敵じゃからのう。

やすい・・何をおっしゃいます閻魔様、それは大いなる誤解です。

マルクスこそ資本の論理がいかに人間性を歪めたかを暴き出した功労者です。

 現在から見れば欠陥だらけですが、現代社会の悪を鋭く分析し、根底的な社会変革の展望を示したわけです。

 閻魔様が政・官・財の腐敗した癒着を告発し、現代の悪を懲らしめるには、マルクスの分析方法やヒューマニズムの視点が是非とも必要です。私は、もし閻魔様の裁きが本当にあるのなら、その時は、マルクスが閻魔様の助手をしているに違いないと思っておりました。

 確かに唯物論者にすれば死後の審判など認められません。

 そんなものに期待して、善良に生きるのは庶民だけでして、本物の悪党は、地獄の沙汰も金次第とうそぶいていくらでも、平気で罪を重ね、私腹を肥やしています。

 マルクスにとりましては、有限の生をいかに生きるかが問題です。歴史時代を歴史の前史である、階級闘争の時期として捉え、労働者階級の解放がすべての階級の止揚の前提条件になっているとしました。それで労働者階級の解放に貢献できてこそ、持てる者の持たざる者への支配がなくなる理想社会を作り上げるという不滅の事業によって、自分の人生を輝かせることができるとしたのです。

閻魔・・将来の解放の為に現在を犠牲にして、憎しみによる戦いの世界に身を置いて献身しろというのだろう。

 そういう自己犠牲的精神で闘争を指導した連中は、権力を握るとやたら独裁的になって恐怖政治を行い、私腹を肥やすと相場が決まっている。それに革命に失敗すれば、哀れなものだ。何のための人生だったか分からない。

やすい・・そういう風に自己犠牲的に奮闘したものの、展望をなくして、自分の人生の意味を問いなおす場合が多いようですね。

 また闘争を指導するなかで、自ら党や組合の幹部になって権力を握り、今度は自己の権力の維持や拡大の為に闘争を利用し、人々の闘争を妨害したりする連中がいます。

 それが国家権力まで手にしますと恐怖独裁をしき、人民のあらゆる権利を蹂躪して、世界を核戦争の危機など破滅にまで追いやろうとするようになりました。その点、閻魔様の怒りはご尤もです。

 でもマルクス自身は、将来の為に現在を犠牲にするという発想を嫌ったようです。

 コミュニズムを将来社会の状態ではなく、現在において、いかに人々と連帯して、自己の可能性を実現するか、その戦いの中にこそ、共同社会を見出そうとしたようです。

 実際我々の生活は、小さな共同の積み上げですから、その中に共同社会が、理想とは程遠いかもしれないけれど、実現しているわけです。

閻魔・・ところでマルクスの「つきもの」とは何なのだ。まさか魂と肉体の二元論を説いたわけではないだろう。

やすい・・マルクスは、価値を「抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)」だと規定しています。ガレルテというのは抽象的人間労働自体が膠のように固まった状態なんです。それが生産物にとりついて、生産物に価値対象性を与えているというのです。

 つまり生産物自体は具体的有用労働の結晶です。そしてそれ自体は価値ではない、とマルクスは考えます。労働の抽象的な性格があって、その面は価値を形成していると考えたのです。それは具体性を捨象しているから透明で見えません。それがくっつくとあたかも価値ではない、有用物の方が価値であるように見えるわけです。それで使用価値が価値であるように見えるという倒錯視の構造が説明されたわけです。

閻魔・・わしはマルクスなどの肩を持つ気はないが、マルクスは生産物そのものには価値はないと考えたんだな。

 価値は生産物の属性ではなく、あくまで労働の社会関係だというのだろう。

 この労働の社会関係は量的には労働時間で表現される。この労働の社会関係の中で生産物は価値として扱われるんだ。

 たとえば十時間でつくられた服は、十時間分の価値を持つとされる。服自体は十時間分の価値ではない。価値というのはあくまでも労働の量あるいは労働の量的評価だから。

 偶然、この社会ではその服には社会的平均で十時間分の労働が必要なので、その服の価値と認定されている。この認定は市場では均衡価格という形で表現されるんだ。これは服という労働生産物への社会関係の投影であり、刻印であるわけだ。

 「抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)」という表現もそういう文脈で捉えれば、ひとつのレトリックとして許容できるんじゃないか。

やすい・・労働の社会関係は価値ガレルテとしては生産物に膠着した形であるんですよ、マルクスの表現では。

 だからまさしく「つきもの」なんです価値ガレルテは。

 それで生産物が価値に見えるというレトリックになっています。そこから机が踊りだすだの、労働生産物が社会関係を取り結んで活躍する有り様を、あたかも倒錯的であるかのように表現しているのです。

 つまり彼は労働生産物が経済社会の中で価値によって、主体的に関係していく事態を転倒として批判しているのです。

閻魔・・マルクスはあくまで、人間の経済関係を人間どうしの関係として把握しているわけだ。

 だから人間に代わって、商品どうしが勝手に自分の属性とされる価値関係によって商品関係を取り結んだり、それが貨幣や資本に発展していく事態を倒錯的だと表現するのは当然じゃないか。

 もし倒錯じゃないとすると経済関係は物の関係であって人間関係ではないということになる。

 マルクスは人間関係として経済関係を捉えるから、人間関係を変えていけば、経済関係も変えていけると考えたんだ。経済関係が人間関係でないなら、人間関係を変えても、経済関係は変わらないことになるだろう。

やすい・・そこにマルクスの人間観の限界があるんです。

 マルクスが人間として想定しているのは、人間の身体を持つ諸個人です。そして人間の経済関係を身体的な諸個人の関係に限定して捉えていたのです。でも経済的な人間関係というのは、生産手段や労働生産物などの社会的諸事物を含んで成立しているのです。

 価値を抽象的人間労働のガレルテとすることで、事物の属性でないとしますが、労働それ自体が事物の属性になることなしに価値であるというのは、説得力がありません。

 そこでマルクスも価値対象性を持って初めて価値であることを認めています。でもやはりマルクスにすれば、価値は労働それ自体の固まりであって、事物自体ではないとしなければならなかった。

 マルクスにすれば、価値対象性は本来価値ではない労働生産物が自己を価値物として示すことです。ところが労働生産物は価値ではないし、価値を属性ともしていない。にもかかわらず、あたかも価値を自己の属性と見せなければならない。

 だから透明な抽象的人間労働のガレルテである価値が事物に付着していれば、価値はあたかも労働生産物の属性だと倒錯視されるのことになります。

閻魔・・結局、お前が言いたいのは、価値はマルクスでは「つきもの」になっている。それは価値を素直に事物の属性と認めないからだ。

 価値を事物の属性と認めれば、「つきもの」と見做さなくてもよいということだな。

 そうすればしかし、労働生産物が価値関係を取り結ぶことになってしまう。つまり経済関係は人間相互の関係ではなくて、物と物の関係になってしまうじゃないか。それこそマルクスが言うように、机が踊りだしたり、物が人間として社会関係を取り結ぶフェティシズム(物神崇拝)に陥ることになるぞ。

やすい・・でもよく考えて下さい。人間労働が作りだした服や机やパンや宝石が価値をもって商品となり、経済関係を取り結び、それによって人々を経済的に規定しないとすれば、それこそおかしいじゃないですか。

 労働とその生産物を抽象的に区別し、経済関係は労働関係なんだ、生産物の関係じゃないんだというのは、結局、人間と生産物は別物だという固定観念があって、その観念にあっていないから、価値を事物の属性としてはならないと言ってるだけなのです。

 価値は実は、人間と社会的事物の抽象的区別の止揚なんです。人間は単に身体的な諸個人であるだけてなく、社会的な諸事物でもあるんです。

 そのことを経済学の諸範疇は示しているわけです。

 そこにマルクスは社会的諸事物を人間化するフェティシズムを発見しました。

 ですから、ああ、この服も机もワープロも人間を構成している事物だったんだ。今まで身体的諸個人だけに限定して人間を捉えていたが、これからは生産手段や生産物、あらゆる人間環境も含めた人間概念を構築しようということになれば良かったんですよ。

閻魔・・そりゃ困る。わしは亡者共を審判する役目だから、煩悩具足の諸個人を人間として相手にしてきた。それ以外のがらくたまで裁くわけにはいかん。

 第一、事物には意志や感情がない、主体として関係するわけでもない。やはり人間に含めるなら意識主体であるべきだ。

やすい・・マルクスも同じ気持ちでした。

 しかし私に言わせれば、それは了見が狭い。

 フェティシズムは、ド・ブロスによりますと、人間が石ころや蛇などをフェティシュ(物神)に選び、お祭りして捧げ物をします。そして願い事が叶えば神に感謝し、叶わなければフェティシュに攻撃をかけて叩いたり、破壊したりするんです。身勝手に神にして、身勝手に攻撃しているんです。

 でも商品の場合は、それなりの労働が込められていて、人間社会の中で人々に働きかけ、役割を果たしているわけですから、そこに倒錯性はないわけなのです。

 机が踊りだすと言うけれど、机にはそれだけの商品価値があって経済的役割をしているのです。机が踊り服が歌いだす。それでいいじゃないですか。

 マルクスは机が踊り、服が踊る原因を、謎解きして説明しなければならなくなった。そこで彼は机や服にとりついている「つきもの=価値ガレルテ」があって、それで事物が価値に見えているんだとしたのです。しかしこのマルクスの説明では、アニミズムと融合したフェティシズムになるんです。

 イエスは聖霊が宿った身体として「神の子」として崇拝されます。

 悪霊のとりついた身体は汚れた身体であり病気ですが、悪霊を取り払えば健康体です。

 価値がとりついているなら、その事物が価値物とみなされますから、人々が事物を価値として扱うことを批判したことにはならないのです。ただ価値がとりついていることが分かっていないという批判にしかなりません。

閻魔・・だからマルクスの本当に言いたいことは価値がガレルテだということではないんだ。

 労働の社会関係だということなんだ。

 労働の社会関係が価値関係として商品取引を規制する結果、あたかも抽象的人間労働が事物に投下凝結しているように扱われてしまっているということなんだ。

 それをガレルテという比喩的表現にこだわって「つきもの信仰」だと大騒ぎするものだから、嘲笑を買うのが落ちなんだ。

やすい・・残念ながらマルクス研究者の間での評価はその程度です。

 だから『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(『資本論の人間観の限界』と改題して「やすいゆたかの部屋」に掲載)では『資本論』の全体的な体系的展開の中で価値ガレルテがどのように扱われているかを検証し、そこでは価値が生産物から生産物に移転したりすることも論証し、マルクスが如何に価値を実体的に扱っているかを証明したつもりなんですが、細かいところまでは問題にしてくれないんです。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/shihonron/mokuji.htm

 
ーーーーーーーーーーーーーー事物の思考の可能性ーーーーーーーーーー

閻魔・・それ以上マルクス批判をやっても無意味だな。

 結局、お前のマルクス解釈は、マルクスが「つきもの信仰」に陥っていたように読めるということだ。この解釈にマルクス研究者が反発するのは当然で、嘲笑されても仕方がない。

 それよりも、人間概念を拡張して、社会的諸事物まで含めるというところでどれだけ説得力が持てるかだ。これも奇妙キテレツな議論のようにも思える。

 じゃがそれだけに可能性のある議論のような気もする。

 たしかに人間文化の総体、人間環境の総体を人間として捉え返すというのは必要な視点かもしれんな。

やすい・・閻魔様に可能性を認めてもらえるとは、びっくりです。さすが器量が大きいですね、閻魔様は。

 何しろ閻魔様はファースト・マンとして誕生されて以来、人間界をずっと見てこられたわけですから、人間論にも造詣が深いわけですね。

 私は、人間の意識なるものも、実は単に身体的諸個人が作りだしているだけじゃなくて、社会的諸事物を含めた社会的諸機構や文化の総体の中で作られていると思うんです。ですから、社会的諸事物が意識を持たないというのも、再考の余地があります。

閻魔・・事物も意志や感情を持つとして、事物と融合することを説いたのが本居宣長の「もののあはれ」論だが、「天地一体の仁」を強調した陽明学も人間の意識を個体の意識を超えて天地の心として捉えているようなところがあるな。

やすい・・宣長自身は陽明学の本を読んでいたという証拠はないのですが、発想はとても似ていますね。やはり「もののあはれ」論は、事物の思考を再評価する際に重要です。

 では話を戻します。まず社会的諸事物自体が意味を表示していますね。

 机ならどう使って欲しいかその姿で語りかけています。

 つまりいろんなメッセージや主張、センスが物にはあるのです。

 これはその意味で意識の現れの形だと言えます。それを読み取ることで我々の意識も形成されます。ですから事物は意識の受肉であると同時に、意識形成の働きかけでもあるわけです。

閻魔・・おい待て、そうすると人間の頭脳の活動はどうなる。諸事物によって意識内容が決まってしまうのなら、事物が考えていることになってしまい、自由な思考は成り立たなくなる。それでは閻魔の審判も意味をなさなくなるじゃないか。

やすい・・いえ滅相もございません。身体的諸個人にはそれぞれの自我が形成されている以上、自己の主体的な判断で思考し、決断し、自己の責任において行動していますから、その道徳的・倫理的・法的審判を受けることは当然です。

 私が申していることは、そのような脳髄の意識活動を社会的諸事物が生み出している面も、ですから大枠では事物の思考でもあるという面も認めるべきだということです。

 ですから現実の社会的諸事物によって形成されている状況次第では、ほとんど画一的な思考しかできず、決まりきった決断や行動しかとれない場合もあり得ます。

 それをあくまでも人間関係は生身の身体的諸個人の関係でしかないというように甘く捉えますと、観念的で過激なやり方で状況が変えられるかの幻想に陥ってしまうのです。

 社会的な諸事物も含めて人間の諸関係を捉え返し、それがどの様な文化とイデオロギーの諸形態生み出しているのか冷静に捉え返した上で、その変革の可能性を分析しないと思想の空回りに終わってしまうのです。

閻魔・・どうもお前の話ぶりだと、個人の思考が同時に社会的諸事物の思考でもあり、社会的諸関係の思考でもあるように聞こえる。そうすると個人の思考が同時に一般者の思考でもあるという、一般者の弁証法的な自己限定という西田哲学的な発想も感じられるな。

やすい・・私はやはり梯明秀門下ですからね。

 西田哲学からどう行為的直観の立場を学べるか、まだまだ悪戦苦闘しなければならないところです。

 まだこれから本格的に哲学しようというところなのに、これからイエスからもマルクスからもそしてもちろんヘーゲルやニーチェからも学びなおして、舩山人間学的唯物論と梯経済哲学を批判的に継承し、人間商品論を出発点にして人間論の体系的展開と哲学の大樹の構築、できればそれと平行してグローバル・エコノミーを形成したかったのですが、どうして自己嫌悪で自分の反吐で溺死してまったんでしょう。多分相当追い詰められていたんでしょうね。

閻魔・・おいおい他人事じゃないんだぜ、人生何に躓いて、「はいお終い」ということになるか分からない。

 たとえ大きな志を持っていたって、石ころに躓いて頭を打って臨終ってこともある。だれかに変に恨みを買って、殴られて打ち所が悪くて死んじゃったり、仕事が全部無くなって、浮浪者になって研究どころでなくなることだって、お前の場合は、常にあるわけだ。

 癌などが密かに進行しているってヤバイこともよくある話だ。今回は何と自分の研究に自己嫌悪、つまり自信喪失だな、に陥って、こんな筈じゃなかったって、嘔吐したわけだろう。それが吐くわ吐くわ五臓六腑まで吐いてしまったっていうことだ。

 まあそれも人生だな。どうせあと十年、二十年生きたところでもうピークは過ぎているから、ますます行き詰まるばかりだろう。年貢の収め時だということだな。まことにお粗末だったな。

やすい・・でもね、ほら、閻魔様が居られるということは、きっと六道輪廻があって、また生まれ変わって、四苦八苦の人生をおくることになるんでしょう。

 それならもう一度人間の境涯でやり直させて下さいよ。今度こそ腹を括って哲学をしてきちんと体系を打ち立ててみせますから。いや私みたいな根性なしなら、何百回・何千回かかったっても無理かもしれない。でも『法華経』によるといつかは皆悟れるんだということでしょう。

閻魔・・こらこら、お前は考えが甘いな、唯物論だと人生はただ一回、有始有終だ。そう覚悟を決めて学問をしてきたんだろう。それで駄目だったんだから。お前は消滅して、もうお終いだよ、生まれ変わるなんて今更身勝手は許されないよ。

やすい・・それなら閻魔様が出てくること自体土台おかしいじゃないですか。

 もし私が既に死んでいて、消滅してしまったのなら、意識すらないはずです。閻魔様の審判を意識していることは死んでいることと矛盾するでしょう。じゃあ私は死んでいない筈です。娑婆に戻して下さい。

閻魔・・ハ、ハ、ハ、お前は生死しか知らないからそういうことを言うんだ。お前は既に消滅しているが、俺様の意識の中に存在しているんだ。それは時空を超越した世界で、常に俺様の一つの問題意識であり続けている。

やすい・・それならそれでいいから、閻魔様の意識の中で常にあなたと議論させて下さい。

閻魔・・おいおい、あんな糞おもしろくもない哲学の相手をさせられるのは真っ平だ。もう少し娑婆で苦しんだら、哲学にも絶望するだろうから、時刻を反吐を吐いた以前に戻して娑婆に返してやろうか。

長い悪夢から覚めて、私は、びっしょり寝汗をかき、呆然としていた。

 

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