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人間論および人間学コミュの三木清と西田幾多郎の人間学

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        三木清と西田幾多郎の人間学

三木から西田へ
存在論的人間把握
交渉的存在としての人間
交渉的存在の存在構造
三木清のアントロポロギー
基礎経験とアントロポロギー
内的人間と歴史的人間
純粋経験論とアントロポロギー
ノエシスとノエマ
実在としての薔薇の意識
絶対無の場所
「死して生きる」と自己表現としての事物
   
三木清と西田幾多郎の人間学

                           やすい ゆたか
           
             
          三木から西田へ

野口:やすいさんは最近、西田や三木に関心をお持ちのようですね。

やすい:近代は終焉して、時代は世界統合の新しいステージに移っているのです。でもまだ新しい時代の思想は形成されていません。その為には日本近代の哲学を総括する必要があります。

この視点から西田・三木について見直しが求められています。それに私の場合は、社会的諸事物も含めた人間を考える「新しい人間観の構想」というシリーズの継続として、西田と三木の人間観の再評価に取り組んでいるのです。

野口:二〇〇〇年一月に停刊になった『月刊 状況と主体』に一九九二年〜四年にかけて連載されていた人間論のシリーズですね。

やすい:残念ながら現在中断中なのです。二千年代の千年間に通用する人間観の構築の課題は、物事を根底から問い直すのが任務の哲学者であれば、だれもが放棄できない問題です。

三木・西田の人間学についても、三木の交渉的存在としての人間論や、西田の「物と成って考え、物と成って行う」という人間論には、私のいう「社会的諸事物も含めた人間」論が入っているのです。

もっとも服部氏の指摘にもありますように、田辺元がやはり「交渉的存在」というタームで人間論を展開しており、自然を人間の非有機的身体とするマルクスの『経済学・哲学手稿』に通じる議論を展開しているのですが、今回は取上げていません。

野口:西田の人間学の論文というのは読んだことがありませんよ。

やすい:『続思索と体験』の中の「人間学」という小論で、西田は「哲学は人間学である」と述べています。

その意味では彼の著作全体が人間学なのです。特に『哲学論文集 第三』の第一論文「人間的存在」は西田の人間学を理解するための手がかりになります。

 西田は哲学の動機を「人生の苦悩」に求めています。それで哲学を人間学として展開したのです。ですから三木の人間学は西田哲学の人間学的解釈であったと言えるかもしれません。

ただし三木は西田哲学を人間学として深めましたから、西田は三木の成果の上に立って自分の人間学を更に深めたことは十分考えられます。西田は三木を弟子たちの中では、一番高く評価していたわけですからね。

野口:それで三木の人間学を手がかりにして、西田の人間学を読もうというのが、今回の目論見ですね。

続く
    

コメント(11)

   存在論的人間把握

野口:『パスカルにおける人間の研究』では、三木はパスカルから人間論として何を学んだのですか。

「人間は考える葦である」という言葉が、人間の本質を「考える能力」に求めているのなら、デカルトと似たり寄ったりじゃないのですか。

やすい:パスカルには、考えることによって人間はある意味で宇宙より偉大であるという、典型的なヒューマニズムが見られます。

そこが一般的には受けているのですが、三木は「人間の本質は何か」という本質論的な問いに対する解答というようには受け止めていないのです。本質論的な問いよりも存在論的な問いが重要だったのです。

野口:「何であるか」よりも「如何に存在しているか」が問題だということですね。

やすい:三木は西田の「哲学の動機は人生の苦悩である」と語っていた言葉に、魂の震えを感じていたのでしょう。

大学生の時に書いた「語られざる哲学」というノートにこう綴っています、「まことに人生は涙の谷であって人間はその谷に生うる弱き葦である。」

野口:留学前から既にパスカルに関心があったのですね。

それも偉大性である「考える」というところにではなく、悲惨さである「か弱き葦である」ところに人間の本性を求めています。

普通本質論でいくと、人間だけが持っている長所が選ばれるところです。

やすい:悲惨さは本質論的な概念じゃありません。

どうして悲惨かといいますと、人間だけが、無限を知っており、それで自己の命のはかなさ、か弱い存在だということを実感することができるのです。

ですから本質論で言えば、やはり思惟によって無限を知る能力こそが本質なのです。

野口:命のはかなさを思い知った人間の状態が悲惨なのですね。

そうすると「人間とは何か」という問いに対して、本質で答えるのではなく、状態で答えるということが可能なのですね。

それじゃあ人間は悲惨と偉大の中間者だというのも、本質論的な人間論ではないわけですね。

やすい:その中間者というのは、悲惨でもなければ、偉大でもない、その中間だという意味じゃないのです。

パスカルは「人間は無限に比しては虚無であり、虚無に比しては全体である。それは無と全との中間者である」と語っています。

つまり悲惨でも偉大でもあるわけでして、その間を常に動いている動性だということです。

三木はこういうパスカルの人間論を本質論ではなくて、存在論的人間解釈だというのです。つまり存在のありのままの姿で「悲惨」「偉大」「動性」という「状態性」で人間を論じています。

野口:「状態性」というのは、存在を物体のような客観的対象の形で捉えるのではなくて、主観・客観が未分な経験として捉えようとしているのですから、西田の純粋経験論の影響がみられますね。

やすい:ええ、ここは重要ですから引用しておきましょう。

「世界は本体でもなく現象でもない。それは特殊なる存在の存在の仕方に過ぎぬ。

我々は『存在』が何よりも対象的範疇であると考える偏見から逃るべきであろう。自然を対象化することなく然もこれが現実的となる種々なる可能性のあることは明かであって、状態性とは斯くの如き可能性のひとつに対する名である。」

野口:不安のもとに揺れ動いているものだから、そうした生の本当の姿から逃避するために「慰戯(気晴らし)divertissement」という状態にはしるのだとパスカルは分析しています。

例えば息子に先立たれで、その悲しみのあまり気も触れんばかりの父に鞠を投げると、つい投げ返して、キャッチボールを始める、鞠という物の方にすっかり気を取られて、息子の死をひととき忘れてしまうというのです。

このあるがままの存在から物への頽落という発想は、実存主義的ですね。

やすい:ええ、三木はドイツ留学中は、ハイデガーの講座にいましたからね。

人間をその時々の実存として状態性において捉えるわけなのです。そしてこの気晴らしというのは真実の生から目をそらし、真実を覆い隠す虚偽ですから、結局は何の解決にもなりません。

そこでありのままの人間の姿を悲惨と偉大を揺れ動く中間者としての己の姿を、しっかりと見据える、哲学的な生が求められるのです。

野口:でもパスカルの場合、中間者としての人間は結局、神に救済を求めるわけです。

神が人間を救済するのは、結局考えるということでは宇宙を包むという思惟の無限性、偉大性においてですから、その意味では、やはり人間の本質を思惟に求めていることになりますね。

やすい:それはそうでしょう。

パスカルにすれば本質論的な考察も、存在論的な考察も行って、人間存在の解明をしているわけです。本質論と存在論をきちんと区別して存在論を選択しているわけではありません。

三木は、意識的に存在論的解釈を行うことで、人間論における本質論から存在論への転換を試みたわけです。
交渉的存在としての人間

野口:先ほど、やすいさんが引用された続きに『パスカルにおける人間の研究』と「人間学のマルクス的形態」をつなぐ重要なターム(用語)と見られている「交渉的存在」についての言及があります。

「存在は最初にそして原始的には特殊なる所有を意味する。自然は我々に交わり我々の交わる存在である。」そして注があります。

「※パスカルの意味する自然は単に状態性の関わる存在であるばかりでなく、またそれは実に人間の交渉に係わる存在であった。

彼は云う、『人間は、例えば、彼の識っている凡てのものに関係をもっている。彼は彼を容れるために場所を、持続するために時間を、生きるために運動を、彼を組立てるために元素を、自己を養うために熱と食物とを、呼吸するために空気を必要とする。

彼は光を見、彼は物体を感ずる。要するに凡てのものは彼の交渉的関係のもとにおかれる』(72)。

交渉は人間が世界を所有するひとつの仕方に外ならない。世界は我々にとって原始的には『対している』存在ではなくして寧ろ『為めにある』存在である。それは対象界でなくて交渉界である。」

やすい:「人間学のマルクス的形態」にはこうなっています。

「精神科学の対象をなす歴史的社会的存在は人間を基礎として成立する世界である。

自然は言うまでもなくそれの欠くべからざる要素であるに相違ないが、それはただ人間と交渉し彼の生と関係する限りに於てのみこの世界へ這入って来ることが出来る。」

歴史はひとつの人間的なる、人間中心的なる世界である。純粋なる自然主義の立場にとっては一般に歴史は存在し得ない。

歴史的世界は人間がそれを作るところの、作りつつあるところの、そして彼がみずからその中に住むところの世界である。

人間はこの世界に単に対立するのでなく、却て絶えず彼自身それの基本的なる契機としてそれと密に交渉する、ーそれは『対象的存在界』でなくして『交渉的存在界』である」

野口:「対象的存在」と「交渉的存在」を対立させているわけですが、両方とも主観や主体との関わりにおいて存在するわけでしょう。

やすい:対象つまりドイツ語でGegenstandですと、主観に対して立っているものという意味です。

それが主観とどう関わってくるかは、言葉の意味に表現されていません。そこで単に「事物」という訳語をあてる場合もあります。

人間に対してその観察の対象として立ち現れている自然や社会の諸事物が世界を構成していると考えるのが、三木の言い方では「対象的存在界」という捉え方です。

しかし三木に言わせれば、自然や社会の諸事物は、単に観察の対象にとどまらず、人間の意志に基づく行為の、マルクスの用語では実践との関係において存在しているという意味で「交渉的存在界」と捉えているのです。

野口:仏教によりまと、凡ての事象は「五蘊の仮和合」だといいます。

「五蘊」は、色蘊(物質的要素)・受蘊(感覚的要素)・想蘊(イメージ的要素)・行蘊(意志的要素)・識蘊(イデア的要素)から構成されています。どの要素が欠けても事象は成立しないのです。その一つにちゃんと行蘊(意志的要素)が入っています。

やすい:そうですね。西田や三木は仏教の縁起の思想の伝統も踏まえて、行為の哲学や「交渉的存在界」を語っているのです。

それに三木の場合、交渉的存在は相互的な関係なのです。つまり一方的な人間の実践によって関係付けられた存在なのではくて、人間自身が人間的な世界の中で作られたものであり、その中で交渉的存在なのです。

そして交渉的存在としての諸事物が、実践的に生み出されているということなのです。そして人間によって作り出された諸事物が、また交渉的存在として人間的諸関係や諸事物を作り出すわけです。
はじめてコメントいたします。

やすい様の言われる「交渉的存在」としての人間、実に刺激的です。人間は最初から人間として存在するのではなく、人間との交渉によってようやく人間となる、のですね。おそらくそれは、平和的な交渉だけでなく、カール・シュミットのいうような敵と味方の関係も含まれるのだろうと想像しております。

とすると、それでもなお“存在”が残らざるえないのはなぜなのでしょうか?
「世界は本体でもなく現象でもない。それは特殊なる存在の存在の仕方に過ぎぬ」のであるなら、人間もまた存在の“仕方”に過ぎないのではないか。“存在”をあっさり“関係”や“仕方”に置き換えてしまうことは、やはりとてつもなく難しいことなのでしょうか?

お時間のあるときに、お答えいただけるとうれしいです。
Qfwfaさん、コメントありがとうございます。
 交渉的存在には、自然や社会的事物ももちろん諸個人も入るのですが、それらが交渉によって人間的社会を構成しているわけです。そのあり方が人間という状態なのでしょう。
 「存在」という概念にこだわっているわけではないので、そちらに議論をもっていくと混乱すると思います。彼の関心は「人間学」なのです。

では、続きに入ります。


         交渉的存在の存在構造

野口:交渉的存在の中には、まず諸個人としての人間が含まれます。

 厳密に交渉的存在と言えるものは、やはり人間だけじゃないでしょうか。西田哲学でも「個物」という概念を、人間の個的実存を現す言葉として使っています。

 西田によれば「真の個物は主体的な自己」でしかなく、それは人間でしかあり得ないのです。

 それに「交渉的存在」には道具や生産物のように人間に生み出されるものと、自然的な諸事物のように、人間によって認識されるけれども、人間によっては作り出されないものがあるでしょう。三木は両者を区別しないのですか。

やすい:カントは時間・空間・質量など物質に属する第一属性も、実は主観の先天的な統覚の形式だと、コペルニクス的な認識論の転回を成し遂げました。

 つまり自然的な事物と雖も、人間の感覚を素材に構成された意識の複合に過ぎないというわけです。だから事物も意識以外の何物でもないから、意識でない事物それ自体などは、不可知であることになります。

野口:それは事物が人間に対して対象となっていることを意味するのであって、自然物は人間が勝手に作り出せるものではありません。

やすい:三木は自然物の認識も、それぞれの時代の自然観や認識水準によって、歴史的に変遷していると考えています。

 夜空の星は古代には天空に空いた穴から天上の火が洩れて見えていると考えていましたが、現在では太陽に匹敵する恒星だとされています。

野口:それは「恒星」観念を作ったということです。決して恒星を作ったわけではありません。

やすい:確かに、存在を「対象的存在」つまり客観的事物として捉えていますと、それでいいのですが、交渉的存在としますと、それですまないのです。

 星は古代では天井の穴から天の火が洩れているとともに、星の神話と結びついて人間たちの運命を左右する存在です。

 現代では太陽自身を含む銀河星雲を構成する恒星として、科学的に捉え返され、人間存在の無限性や有限性を認識させると共に、地球的な人間生活の基礎になっています。

 星抜きに人間は語れないのです。その意味で星もまた人間を構成しているといえます。空や海が人間の生を構成するようなものです。

野口:それは自然存在が人間生活の環境だということです。環境と人間とは区別すべきでしょう。人間の環境が、やはり人間だとしたらそれは環境ではないことになりませんか。

 星や花や水が人間に含まれるというと、とんでもない議論のような気がします。

やすい:それは事物を「対象的存在」として捉えている限りでは、その通りですが、「交渉的存在」としてはむしろ当然の捉え方なのです。

野口:「事物」といえば既に「対象的存在」なのでしょう。それに対しては「状態性」が対置されていたような気がしますが。

 もし状態性として交渉的存在を理解するのなら、それは交渉的という限り、人間に対して他者として関係しようとするのですから、主・客未分化な状態性という概念に反しますね。

やすい:そうでしたね。三木の事物概念というのを徹底して洗い出す必要があると思いますが、日本語の「もの」「ものごと」「事物」というのは、必ずしも力学的な物体概念で捉えられるものではありません。

 本居宣長の「もののあはれ」論で語られるような、むしろ三木の「交渉的存在」に近い存在なのです。「交渉的存在」は「交渉」という言葉だけ取り出しますと、主体と客体の関係を前提にしている表現なので、状態性という表現は相応しくないと思われるかもしれません。

 しかし三木のいう「交渉」においては、客体に主体が現われています。「交渉的存在」こそ人間の姿なのです。その意味では主・客の統一となっています。

野口:それでは西田の『善の研究』での純粋経験で云えば、高次の純粋経験ですね。「事物」と言っても、それはむしろ人間の「状態性」を表現しているということですか。

やすい:三木は「所有」という言葉で、人間と交渉的存在にある事物の関係を表現していますが、もちろんこの「所有」は私有財産や商品に対する「所有」とは違って、その事物が人間自身を表現するような「固有」を意味しているのです。

 チャップリンのだぶだぶの燕尾服は、チャップリンとは物体的には別物であっても、交渉的存在としては、没落したイギリス紳士の矜持を表現してチャップリンのアイデンティティそのものです。

 IT革命後の現代人にとってパソコンや携帯電話は、切り離せない体の一部になっています。ですから人間の身体に人間存在を閉じ込める議論は、全く説得力を無くしています。

野口:パソコンや携帯電話がIT革命後の現代人を象徴していることは、だれしも認めるところですが、かといってパソコンや携帯電話を人間だと認める人はいないでしょう。

やすい:三木によればパスカルは、人間存在を個々の事物としての対象的存在のレベルで捉える人間論に対して、状態性として捉える存在論的な人間論を提起しているのです。

 存在論的な人間論では、主観と客観、主体と客体、我と汝が身体と身体、身体と対象的事物として分裂し、対立しているのではなくて、空を見れば私は空であり、花を見れば私は花なのです。

 自分が身体であり、感覚器官を持って見ているから、空や花という他者を見ていると考えるのは、まだ「物に成って見、物に成って考える」という西田哲学の絶対無の立場に立てていないのです。

野口:人間が空になったり、花になったり、パソコンになったりするようでは、まるで禅問答のようじゃないですか。 

やすい:西田は、人間と事物の絶対的な断絶を克服しているこの関係を表現するのに、「絶対矛盾の自己同一」というきつい響きのキーワードを使いました。それは結局、三木が「交渉的存在」という言葉で表現したかったことなのです。

野口:対象的事物としては確かに別物だけれど、人間存在を存在論的に捉えるにあたっては、人間とは別の事物が、人間を表現する内容になるということですか。

やすい:西田は「物に成って見、物と成って考える」と言いながら、人間と物をやはり対極的に捉え、その上で、絶対無である場所を媒介に弁証法的一般者として事物として自己を表現し、実現するわけです。

 西田自身が事物を元々人間ではないと捉えているからこそ、それを人間として捉え返したときに絶対矛盾の自己同一として受け止められたのです。でも人間が事物に自己を表現でき、自己を実現できるということは、その事物が存在論的には人間を構成しており、人間に含まれているからなのです。

野口;空も海も花も人間に含まれていたのですか。

続く
三木清のアントロポロギー 

やすい:三木が「交渉的存在」をいかに捉え、そこから人間をどう理解して、人間学(アントロポロギー)をいかに展開したのか、次の引用から検討してださい。

「人間は彼が存在と交渉する仕方に応じ、直接に自己の存在を把握する。彼は存在を語ることに即してそれに於て自己を語る。一切の物は、人間の交渉を受ける程度に応じて、人間にとって見ゆるものとなり、即ち初めて物となり、ここに於てその 称呼 ( しょうこ ) 、その名称を与えられるのであるが、その場合、ノアレによれば、『固有の人間の活動が原本的語根の内容として留まるのである。』この過程に於て彼が自己を語るところの言葉即ちアントロポロギーが生れると共に、このロゴスはひとつの独立なる力となり、彼の経験の先導となり、支配者となる。

このとき彼の経験する存在は凡て人間学的なる限定のもとに立つこととなる。かようにして、高次のロゴスである歴史的社会的諸科学が自己の研究の出発点に於て与えられたる現実として見出すところのものは、つねに既に斯くの如く人間学的なる限定のもとにある存在に外ならないのである。」

野口:「人間は彼が存在と交渉する仕方に応じ、直接に自己の存在を把握する」の「存在」は存在論的な状態性や実存だけでなく、自然的・社会的な諸事物も含まれると解釈されるのですね。そして諸事物は人間の活動を対象的な事物の姿で捉えたものなのですね。

やすい:ええ、この時期の三木の立場は、実践を存在の根底に置く「実践的唯物論」に最も近かったと思われます。

初期マルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の冒頭に「従来のすべての唯物論の(フォイエルバッハの唯物論も含めて)の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとでのみとらえられ、感性的な人間的活動、実践としてはとらえられず、主体的にとらえられていないことである」とあります。

これは目の前に現れる事態や現実、様々な事象を客体的な事物として固定的に捉えたり、ただその場の直観的に見えたままの姿で捉えてしまっては駄目ですよ、事態や現実や事象というのは、根底的には人間の活動の状態なのであり、我々の実践のあるがままを表現しているものとして主体的に受け止めなければならないというのです。

野口:普通、唯物論は世界が自然的社会的な諸事物から構成されていて、それらの中で人間の諸活動が行われていると捉えています。

ところがマルクスの立場では、諸事物が諸事物であるのは、活動や実践との相関関係においてなのです。

読書という活動抜きにこの紙の束が書物であることはなく、寒さを防いだり、見栄えを良くすること抜きに、この布切れがセーターということはないのです。

やすい:ええ、この部屋を仕切っているのでこのセメントは壁であり、この板ガラスは窓なのです。

野口:一寸待ってください。部屋を仕切るという活動はこの建物を建てる時には、確かに人間の活動だったのですが、今現在ではこの壁や板ガラスなどの事物が行っているのではないのですか。

やすい:そこですよ、問題なのは。

人間が作り出したものは、人間として活動を続けるわけです。実践を根源に置くとすれば、人間を身体的な枠内に閉じ込めておくことはできないんです。

生産物や機構なども含めた人間を捉え返すべきだとうのが私の『人間観の転換−マルクス物神性論批判−』(青弓社刊)の議論です。

野口:壁は部屋を仕切っていますが、別に部屋にそうする意図や自覚があるわけじゃありませんし、それ以外にはなにもできません。つまり壁は所詮壁でしかなく、人間ではないのです。

やすい:壁は壁でしかないというのは、人間の身体ではないということを意味しているのでして、人間を構成していないということではありません。

三木の解釈では、社会的な諸事物は交渉的存在ですから、人間の活動を対象化したものとして捉えられているのです。

ですから三木の人間学は、交渉的存在である人間の身体や社会的事物の解釈を通して、人間の行為のありのままの姿を解釈する営みなのです。

三木は、人間を精神物理的統一として捉えました。それは人間の身体が精神物理的統一であるだけでなく、社会的諸事物も精神物理的統一であると捉えていた可能性もあります。紹介しておきましょう。

「ところで歴史的社会的存在界を構成する者として、そして同時にそれと交渉する者として、人間は、単に精神ではなく、精神物理的統一であり、単に思惟する主観でなく却て意志、感情、表象のあらゆる方面に自己を表現する統一的主体である。」

野口:意志・感情・表象を持っているのでしたら、壁やパンだとは考えられないでしょう。

やすい:単なる物体ではない、交渉的存在としての人間学の対象である「壁」は、壁と向き合い、交渉している身体に媒介された存在です。その意味で個々の壁は、その壁をめぐる意志・感情・表象を含んでいるのです。こうして三木のアントロポロギー(人間学)では、物が人間を語ることになります。

これは西田の絶対無の立場立って、「物と成って見、物と成って考える」の人間学的解釈と言えるかもしれません。

野口:それでは西田や三木の立場は、物によって社会的諸関係を構成するのですから、『資本論』におけるマルクスの立場からは、全くのフェティシズム(物神性)的倒錯だということになりますね。

ところがマルクスも三木も、やすいさんの解釈では実践的唯物論だったというのですから、首尾一貫しませんね。

やすい:そういう意味ではマルクスのフェティシズム論は、人間と社会的諸事物の区別に固執していて、対象を主体的に捉え返す実践的唯物論が貫徹していないといえます。
基礎経験とアントロポロギー

野口:三木の人間学と基礎経験との関連が分かりにくいのですが、基礎経験は一方で論理化できないようなものだとしながら、人間学の基礎になるような経験でもあるわけでしょう。そこが整理されていないような感想を持ったのですが。

やすい:そうですね、ロゴスによって指導され、支配されている日常的な経験とは区別されたものとして「基礎経験」が位置付けられています。

既存のロゴスでは救済できない、止揚できないものであり、ロゴスの支配できない根源的な経験であるとしています。それは「不安的動性」であり、言葉では表現できないので、現実の経験としてはひとつの闇であると云われているのです。

野口:かといってそれは神秘的なものではない、全く単純なる原始的事実だというわけです。そして基礎経験の概念によって、素朴実在論から脱却するとしています。

やすい:そこで人間は、物自体のようなものではなく、植物と環境のようなものでもないとしています。人間は他の存在との動的な連関的関係として交渉的関係にあって、その中で互いに意味付けられ、現実的になり、自己を実現するわけです。

野口:基礎経験は、この交渉的関係の中で、既に在るロゴスによって予め強制されることのないものを意味するというのですが、どういう意味でしょう。

やすい:基礎経験は論理の枠に収まらないという意味では、非合理的なものの如く受け止められやすいのです。

そして確かに抑えがたい生命の欲動と深く関わっているのですが、人間の交渉的関係を一定の秩序に押さえ込もうとする力に、根源的な人間の生命力が反発するということです。

野口:ニーチェの『悲劇の誕生』におけるディオニソス的なものアポロン的なものの対置で言えば、三木の基礎経験はディオニソス的なものにあたり、これをアポロン的なロゴスが表現して、枠をはめ限定します。

しばらくはそれで安定している様にみえますが、それに収まりきれず、再びアポロン的なものをディオニソス的なものが氾濫して、押し流してしまうのです。三木はこれをプロレタリアの基礎経験の分析に使ったわけでしょう。

やすい:使おうと考えたでしょうね。

しかしいわば「闇のパトス」のようなものですから、形容しがたくてうまくは使えません。

プロレタリアの運動のエネルギーをこういう論理で説明しますと、それを指導しようとする前衛政党は、理性的に対応できなくなります。既成左翼から反発されたのもそのためです。ただし唯物史観を生の哲学から説明する試みとしては、大変わかり易いですね。

野口:基礎経験とイデオロギーの間に人間学を挟んだのが良かったと思います。

基礎経験を搾取と抑圧の現実としますと、そこから直接それらを否定した階級闘争と革命の理論がイデオロギーとして性急に提起されがちです。 既成の唯物史観は、そういうものでしたね。

ところが間に人間学を挟みますと、基礎経験から先ず世界がどのように見えるかが論じられます。第一次の論理化ですね。その上に立ってその世界をどうすべきかというところでイデオロギーの形成という第二次の論理化がなされるということになります。

やすい:基礎経験を全部非合理な闇としてしまいますと、人間学という第一次の論理化もできません。衝動的な闇の部分も含む日常的経験として基礎経験を捉えてはじめて人間学が成り立つと思います。その点の明確化は必要でしょうね。

人間学はある程度、日常生活の論理として機能していますが、やがて社会の変動や生活の危機、労働現場での矛盾の先鋭化、さらには政治的な危機の深刻化などで、既成の交渉関係が破綻し、人間学が今までどおりでは行かなくなるわけです。そして基礎経験の変化と人間学の変化によって、やがてイデオロギーの組換えも迫られるようになるのです。

このように三層的に唯物史観を展開することは理論の豊富化であり、発展なのですが、生の哲学という不純物を唯物史観に紛れ込ませたと、俗流的な唯物論者たちが反発したのでしょう。

野口:基礎経験の第一次の論理化を「人間学」と呼んだのはどうしてですか。

やすい:それは交渉的存在として諸個人や諸事物が、人間の交渉的ふるまい、実践を表現したものであり、それらが人間の定在なのだからです。


      
----------------- 内的人間と歴史的人間 ----------------

野口:三木は西田哲学を歴史的人間の人間学として深めたのでしょう。あきらかに三木は一九二七年の「人間学のマルクス的形態」でその立場に到達していましたね。その時、西田はどうでしたか。

やすい:西田はまだ小論「人間学」で社会や歴史から人間を論じることを「外的人間」とし、社会や歴史を形成する人間自体は社会や歴史に還元できないという発想で、哲学を「内的人間学」と規定していました。

野口:やがて西田もマルクスの影響を受け、三木の成果の上に立って、歴史的人間学に到達したのでしょう。

やすい:ええ、西田は「人間学」への跋文で「私は今後人間学といふものを書くことがあるならば、此論文と非常に異なつたものとなるであらう」と断り、「人間は歴史的人間であり、創造的世界の創造的要素といふ如きものでなければならない」としています。それで西田の立場は「内的人間学」から「歴史的人間学」へと転回しているとみなせます。そこには田辺や三木の人間学の影響が考えられるのです。

        純粋経験論とアントロポロギー 

野口:西田幾多郎のアントロポロギーつまり人間学というのはあまりなじみのない表現ですね。やすいさんは西田哲学自体が丸ごと人間学だとおっしゃりたいわけでしょう。

やすい:『善の研究』で純粋経験を唯一の実在だとしたのも、そういう意味があります。純粋経験は人間の経験ですからね。花を見れば花が人間の経験なのです。パースの「記号=人間」論やジェームスのラジカル・エンピリシズム(根本的経験論)のように人間を経験の流れと考えれば、花もまた人間だということです。

野口:それは人間と人間の経験を混同している議論です。「花もまた人間なのではなく、花も人間の経験」だということでしょう。純粋経験においては主観と客観は未分化ですから、花と人間が未分化だと言われるのでしょうが、それは意識において言われることでして、事物としての花とそれを見ている人間とは明らかに別物です。

やすい:ですから、純粋経験の方を唯一実在だとしますと、事物としての花やそれを見ている主観は、純粋経験の解釈として反省によって捉えられるわけです。ということは、西田に言わせれば純粋経験としての花は人間の経験だけれど、事物としての花よりも実在的だということです。

野口:そうしますと、純粋経験が唯一実在であり、また人間であるという西田の議論はまさしく唯人間論ということになりますね。
ーーーーーーーーノエシスとノエマーーーーーーーーーーー

やすい:純粋経験から自覚へさらに絶対自由意志へと突き詰められていきますが、それは決して、意識経験から主観や意志を切り離すのではないのです。意識を統合する意識自身の働きを自覚や絶対自由意志として捉え返し、そこにおいて意識経験が成り立つことを説いているのです。

野口:意識経験が成り立つ主観と、その意識経験の中身を区別してはいけないということですか。

やすい:もちろん区別しているからこそ、その区別の仕方を西田は問題にしているのです。

 デカルトやカントでは意識する主観と意識内容は超越的です。意識する主体としての自我が先ずあって、それが意識をしているわけです。

 この自我が存在するということは、デカルトによれば「我思う、故に、我有り」であるから絶対に疑えないというわけです。しかし意識しているということは、意識する主体が先ず在って、その主体が意識を生み出しているとは限りません。

野口:デカルトのように、意識する主体の実在が、意識しているという事実からだけ帰結されますと、意識は身体の有無に依存しなくなり、霊魂として誕生以前から存在して、肉体と結合していたことになります。

 その点、イギリス経験論では意識自身の内部に意識を統合し、整理する働きを認めようとしていたようです。

やすい:つまり自我や霊魂を「もの」として実体化せずに、意識自身の働きとして捉え返していたわけです。その意味で西田は経験論の伝統に忠実です。ですから意識内容と自我=霊魂は別物ではないわけです。

野口:同じ意識の統合する働きと統合された対象との違いとして、やはり人間の主観と客観的な事物、例えば花は区別されるのでしょう。

やすい:それが意識の作用面であるノエシスと、同じ意識の対象面であるノエマの違いでしかないんです。

野口:人間の身体と他の事物とは空間的に離れていることは否定できないでしょう。身体的に別物として認知できる以上、花や鳥や獣や石や道具や建物を人間だというのはやはり納得できませんね。

やすい:その思いは西田にもあります。人間身体と他の事物は明らかに他者ですし、それらが人間だというのは間違っているとは思っているのです。でも人間とは何かということを考えますと、人間を人間の身体に還元できません。人間にあらざる物に自己を表現し、物の中に自己を見出すのです。

野口:ヘーゲルの言い方だと、「他在にあって自己のもとにある」ということですね。

やすい:ええ、むしろ絶対無の自覚に立って、「物と成って見、物と成って考える」ことを強調します。

野口:確か「物と成って考え、物と成って行ふ」となっていたと思います。『日本文化の問題』でしょう。これは「物に成りきる」ことを大切だと「無心」の境地を説いたものでして、決して物が人間になって考えたり、行動したりするという意味ではありません。

やすい:全集第十二巻三二四頁では、見ることが働くことであり、働くことが見ることである行為的直観においては見ることは物となることであり、物となって考え、物となって働くことだとしています。

 また三二七頁にも同じ主旨の文章があります。また三七七頁では、「我々は何処までも我を主張することによって創造するのではなく、真に物になって考え、物となって行うところに創造するのである。」

 と表現されていますから、物の考える機能を物と一体化した人間が補完していることになります。そのことによって逆に物は人間を表現し、人間の一部と成っていることになります。

 西田は三木が「交渉的世界」と呼んだのに対して、「表現的世界」と呼んでいますが、やはりこれも人間学的発想です。

 あえて人間と事物の断絶を克服して、物に成り切ることを説くわけです。それが行為的直観でもありますし、「絶対矛盾的自己同一」という発想も、人間はむしろ身体以外の事物を自己の定在とするところに特色があるわけです。

 たとえば大工さんは大工さんの身体ではなく、彼が建てた家こそが彼のアイデンティティであるわけです。

野口:いや、建物の出来で評価されるにしても、建物自身が大工ではなくて、その建物を建てた行為の主体としての仕事ぶりにこそ、大工の存在があるわけです。

 それを対象面だけで捉えて、大工と家を混同することを、ノエシスとノエマの対置で西田は批判しているのではないですか。

やすい:それはあくまで「有の場所」で言えることです。

 家は家を建てたり、家に住んだり、家を見たりする作用、つまりノエシスを捨象して、ノエマ面だけを捉えますと、事物として大工や居住者とは区別されます。でも家が家としての居住空間であるためには、そこに住むことやそれを見ることなどを含まないといけないのです。

野口:三木の言い方だと「交渉的存在」ですね。

やすい:ええ、そうです。家は住むことに関係する意識活動の集合として、意識の場所に現れます。この「意識の場所」が述語論理で捉えられる「無の場所」です。

野口:事物が有に対して意識が無ということですか。意識のレベルではあくまでも有ですよね。

やすい:事物の有というは主観としての意識を捨象して、客観としての事物が有ることを主張しています。それに対して、その有は主観の意識としての有でしかなく、それ自体としては無であることを自覚の立場に立った意識は自覚するわけです。

野口:カントの立場からは、事物はすべて感覚を素材に構成された現象に過ぎないということですね。もっともカントの物自体というのは、感覚に現れないのですから、意識としては「無」だということになります。
---------------------実在としての薔薇の意識-------------

やすい:西田哲学ではあくまで経験を実在として捉えますから、現象即実在なのです。

 それは人間の感覚によって構成された事物が実在だということですが、その場合、ノエシスつまり意識の作用面とノエマつまり意識の対象面の統合としての事物が実在なのです。

 それは人間の意識でしかないという意味では、無の面を持っています。

野口:個々の事物が単なる主観の意識でしかないのでなく、実在でもあるのは、それが一般者の自己限定でもあるからでしょう。

やすい:そうです。個々の意識は自然的・社会的な諸連関の中で成立します。

 それを各個人は、私の意識としか受け止められないものですが、観念や言語による認識は、生物的な種の体験知を踏まえたものですし、社会システム全体の活動の一環として機能しているのです。

  ですからこの花を薔薇として意識できるのは、社会的にだれもがこの花をチューリップではなく、薔薇だと意識するからです。それが一般者としての薔薇の自己限定という意味です。

 ですから私の意識は、同時に社会システムの意識でもありますし、薔薇の意識でもあるわけです。

野口:薔薇が意識するのですか、薔薇に関する意識なんじゃないですか。

やすい:この花が薔薇だという時には、この花は個物ですから、個物としては一般者ではないのです。つまり、一般的に薔薇とは言えないと西田は考えます。

 でもこの物という個物の意識は、意識している個人に固有であって、一般化できないけれど、一般化しなければ何物でもなくなってしまい、規定できないわけです。

野口:それで個物は個物であることを否定して、一般者として自己を規定するわけですね。その場合の意識は、一般者としての薔薇が意識しているのではなくて、私が一般者としての薔薇を意識しているのではないのですか。

やすい:「私が意識する」という言い方には、西田哲学の立場からは抵抗があります。

 つまり霊魂が実体としてあって、それが意識主体として意識を生み出しているというデカルト的な捉え方はしません。

  自我はあくまでも意識自身が自己を統合する働きを指しているにすぎないのです。「この花は薔薇である」という意識は、一般者としての薔薇がこの花として現れたこととして捉えられます。

野口:でもそれは私の意識に現れているのであり、意識しているのは私で、薔薇ではないのでしょう。

やすい:「意識する私」と「意識内容」と「意識対象としての事物」の三者は、意識現象が実在である立場からは、本来、純粋経験や行為的直観としては未分化なのです。

 薔薇が意識として現れることが意識するということなら、この意識が薔薇が生み出しているとも言えるわけで、一般者としての薔薇の意識とも言えるわけです。

野口:それじゃあ具体的に西田の書いたもので、事物が意識するという表現を抜き出してもらいましょうか。

やすい:『日本文化の問題』で、西田がよく使うフレーズとしては「物と成って考え、、物と成って行う」という言葉ですね。

 それに西田の『働くものから見るものへ』への「内部知覚について」の中にこうあります。

  「数理を考へるといふことは、数理自身の内面的発展と考へられなければならぬ如く、色を視るといふことも、色自身の内面的発展でなければならぬ。考へるといふことが、思惟が思惟自身を見るという得るのみならず、見るといふも色が色自身を見ると云ふことができるでもあらう。」

 また『無の自覚的限定』にもこうあります。

 「判断とは物が物自身について語ることでなければならぬ、客観的存在が自己の客観的内容について語ることでなければならぬ。」(全集第6巻15頁)

野口:なるほど、でも例えば「雨が降っている」という判断は、客観的に「雨が降っている」という事実に照応していなければならないことを西田は指摘しているのではないのですか。

やすい:それは違います。意識現象が実在なのですから、事実も意識現象に他ならないわけです。だから「雨が降っている」という判断は、「雨が降っている」という経験を意識として反省したものに他ならないわけです。

野口:それじゃあ、「雨が降っている」のが事実かどうかは問えないじゃないですか。

やすい:「雨が降っている」という判断は、実際に雨の中での体験もあれば、屋内にいて、屋外の天候を推測している場合もあります。

 だから言語表現では同一でも、同じ体験に基づくものとは言えません。

 当然、言語表現が事態を正しく表現しているか問える場合もあり得ます。

 いずれにしても、「雨が降っている」という判断を下すような、体験があることは共通しているのです。そしてこのような体験を構成しているのが、実在としての事物なのです。
-----------------------絶対無の場所--------------------

野口:ところで世界が意識として捉えられる「無の場所」と「絶対無の場所」はどう違うのですか、「物と成って考え、物と成って行う」というテーマと関連しているようですが。

やすい:「有の場所」では、世界は事物の諸関連だと捉えられていて、それが意識でしかないことは反省されていません。

「無の場所」では、逆にすべてが主観の意識に還元されてしまっているのです。それは意識でしかないことによって、実在性が否定されてしまっていると言えます。あるいは意識としての実在でしかないと言えます。

野口:空間や時間も意識なんでしょう。もちろん色彩や音や臭いや、柔らかさも意識なんでしょう。

やすい:だから「窓を開ければ港が見える」というように同じ人の意識に狭い空間も、広い空間も意識されるわけでして、意識が現れる「場所」には空間カテゴリーや時間カテゴリーは適用できないのです。

あらゆる有やその否定としての無とも区別されて、絶対無としか言えないのが「絶対無の場所」なんです。それだからこそ全ての存在が現れてくる可能性を持っている場所でもあります。

野口:パスカルに言わせれば「思惟は宇宙を包む」ということですか。

でも西田は歴史的・地理的な「場所」の置かれた制約や条件を論じています。「場所」にも時間・空間カテゴリーが適用されているということじゃないのですか。

やすい:歴史的条件として、「開国」の時期、「日清戦争・日露戦争」の時期、大戦間時代それぞれに民族意識が違ってきます。

それは場所の置かれている状況の時間・空間的な変化ですが、場所自体がそこに現れる事物のような時間・空間性を持たないという問題とは次元が違います。

例えば、デカルトのような、主観・客観図式で考えますと、客観的な事物には時間・空間性があるのですが、主観は対象化できませんから、主観が時間的にどれだけ変化したかとか、主観の空間的な大きさは云々できませんね。

野口:「絶対無の場所」では、「実在としての事物」が現れるのですか。

それではその「実在としての事物」は「有の場所」の「単なる事物」とはどう区別されるのですか。

やすい:「有の場所」では、ノエシス面を捨象して、ノエマ面だけを実体化していますから、単なる事物の関係として自然や社会の諸現象が捉えられるわけです。

しかし、「絶対無の場所」では事物は人間のノエシス・ノエマの統合としての実在的な事物なのです。

野口:その場合、実在的という意味はどういう意味ですか。

やすい:それは純粋経験としては生の体験としての事物であるということです。

あるいは行為的直観としては、生々しい歴史的・社会的現実体験ですね。

野口:客観的な外的事物ではなくて、我々の生きる苦悩や情熱の表現としての、喜怒哀楽のこもった事物ということですか。

それではドロドロした自我が出ていて、「絶対無の自覚」からは程遠い気がしますが。

やすい:「わが心深き底あり、喜も憂の波もとどかじと思ふ」と西田は詠んでいます。

深い苦悩の末に、自己の運命を達観したような境地に達したのです。そうなれば、もう個々の不幸な出来事や、苦悩の種としての肉親や財産や仕事や人間関係などを突き抜けています。

そこにあらゆる有を超越した絶対無を実感したわけです。

野口:場所はどうして絶対無とよばれるのですか。

やすい:経験は様々な事物として現れます。

事物的なものは有の世界を構成しているのです。そこには時間空間、質量、色彩、音、臭いその他の様々なカテゴリーで捉えられます。

しかしそれが現れる場所それ自体にはそういうカテゴリーは当てはまらないわけです。つまり有や有に対する無、「ハンカチが有るとか、ハンカチが無い」とかから区別された実在が現れる場所としての無なので絶対無なのです。

野口:実在が現れる場所は有るわけでしょ。有るのだったら無ではないでしょう。

やすい:その意味では、絶対無は絶対有でもあります。ただ個々の実在のみならず、実在一般と区別されるという意味で絶対無なのです。

野口:人それぞれに現れる世界が違いますね。

それぞれの人生が一つの宇宙だと言えるかもしれません。

だけど同じ世界や事物をめぐって対話がなされ、そこで取引や争奪などの駆引きが行われるのですから、世界を共有しているわけでもあるわけてす。

やすい:ええ、個々人に現れる世界が、実在なのですが、それは個性的なものでして、他の人の人生とは全く違うものです。

とはいえ、同じ空気を吸い、水を飲んでいて、人類という同じ命の幹から生まれています。

世界は宇宙は当然ひとつしかないわけです。その意味では個別的なものは普遍的なものの現れに他ならないことになります。

野口:唯一の存在である個物が、一般者の現われでもあるということは、西田にとっては個物の否定であり、死を意味するわけでしょう。

やすい:西田の場合、真の個物は個人であるというように、個人と個物が混同されていて、個別を特殊や普遍として捉えることは、個物性の否定だとされます。

しかし、元々個物は類や種に属しているからこそ、個物として具体的に現れることができるわけです。

何の規定もできない個物はいかなる存在でもありえません。それに対して、個人の体験は他人の体験とは取替え不能ですから、個人性の否定というのはある意味で死を意味するというのも大袈裟ではないかもしれません。

野口:西田の場合、主観・客観の合一という立場があり、実在としての個物も個人の生とは切り離せないわけですから、個物を一般者の現れとして捉えることが、個人の個性の否定であり、死であると受け止められたとも考えられますね。
------------「死して生きる」と自己表現としての事物------

やすい:「死して生きる」というのが西田の自己否定による自己実現の論理なんです。

一般者としての規定を個物が引き受けるのは、個物が唯一存在であることを否定したことを意味します。

その意味で個物としての自己は死に、一般者が個物となって、自己を実現するわけです。

一般者も個物でないことが一般者たる所以だとしたら、個物として自己を実現するのは、自己否定です。

こうして個物はヘーゲル的には具体的普遍として復活することに、つまり「死して生きる」ことになります。

野口:社会的な諸事物だけでなく、自然的諸事物までも人間の自己表現に含まれるのですか。

やすい:自然的諸事物の分類や規定は、イデアとしての概念体系を当てはめて構成したものです。その意味では自然的諸事物も含めて、その時代、その社会の自然観に基づいた自己表現なのです。

野口:しかし現象がそのまま実在である西田の立場から言えば、人間が与えた規定であっても事物自身の規定でもあることになるのでしょう。

やすい:ですから、「絶対無の場所」における認識は個人的な認識であると同時に、その個人性の否定によって、一般者自身の自己限定でもあるわけです。

「この花は薔薇である」という意識は、私の判断であると同時に、薔薇が意識として自己を語っているとも言えるわけです。

野口:それじゃあ、世界は事物自身が互いに連関し、自らを表現していることになり、人間の自己表現であるという人間学的な見方は成り立たなくなりませんか。

やすい:事物は人間の意識として自己を実現しているのですから、それは同時に人間の意識としての自己実現でもあるのです。

そして絶対無においては意識は実在としての事物であることを自覚していますから、事物自身が人間の自己実現であることになります。つまり人間と事物の断絶は止揚されているのです。

野口:しかしそれはそうあるべきだという「当為」にすぎないのじやないですか。

それが純粋経験論でいう主客合一ということですか。でも人間と事物の断絶も、自らの死によってしか克服できないという意味で絶対矛盾的なものだから、この合一も「絶対矛盾的自己同一」として捉えられざるを得なかったのでしょう。

やすい:ええ、全くその通りです。

西田にすれば主体は絶対自由意志だから、それは物ではありえないのです。しかし人間は自己の自由を実現するためには、目の前の物事に取り組み、それを一つ一つかたづけていかなければなりません。

そうしているうちに人生の大部分が消え去ってしまいます。目の前の事物に関わっているうちに、自分がやりたかったことは、何も出来ずに人生おしまいじゃないかと思います。そこで事物を自分と認めたくない気持を持つのです。

野口:でも、それらの事物として自分の世界は現れているので、それらが自分の生命であり、実在であるというのでしょう。

だから、そこに人間としての自己を見出さなければならないとおっしゃるわけですね、やすいさんは。

やすい:西田もそうですよ。

物に自己を見出すためには、自己の特殊性や様々な傾向性に囚われる自己を否定し、自己の底に普遍的な生命の意志と一つにならなければなりません。

そうなってはじめて、物に成り切ることができるのです。

それが物を創造的世界の創造的要素としてポイエシス(制作)的に捉えることに他ならないのです。

現在、世界統合の新世紀は既に始まっているにもかかわらず、閉塞状況に陥っています。これを打破するためにも、時代の課題を明確にし、目標を定めて歴史を導く「ポイエシスの哲学」が求められているのです。

   

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