ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

人間論および人間学コミュの対談 人間論講座

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
この講座は立命館大学の教職哲学用テキストとして作成したものです。

対談 人間論講座 
          
第一回 鉄腕アトムは人間か?
   
ゴキブリが知性体へと進化して殺人剤でヒトを駆除(ころ)すか

たとえ身は鉄や鋼で成りたれど胸に燃ゆるや恋の炎も

やすい:教職『哲学』の講義で「人間とは何か」を取り上げることにしました。一方的に講師がしゃべりまくっているだけでは楽しくないでしょうから、立男くんと命子さんと私の三人で対談形式で進めていきます。

 先ずとっかかりとして、「鉄腕アトムははたして人間か?」というテーマで話に入りましょう。

立男:手塚治虫の『鉄腕アトム』でしょう。だれでも知っていますよ、ロボットだって。

命子:だから、先生の質問は、自分の意志で行動できる、自我や主体性のあるロボットは人間に入れてもいいのかという意味でしょう。

立男:そりゃあ駄目ですよ。だって人間は動物ですよ、生きていて、そして子供を産んで、年取って死にます。

 鉄腕アトムは年を取りません。鉄腕アトムを作ったのは天馬博士です。彼は自分の息子を交通事故で亡くしました。それで息子の飛雄くんにそっくりのロボットをつくったのですが、ロボットだから全然成長しないので、天馬博士はサーカスに売り飛ばしてしまうのです。

 それを御茶ノ水博士が引き取って、鉄腕アトムに改造したのです。ですから手塚治虫は人間とロボットを生物と機械という観点からはっきり区別しています。

命子:それじゃあ、もし鳥が知能が発達して言葉を自由に操り、自己意識を持ったとしたら、その鳥を立男くんは人間だとは認めないの。

立男:さて、それは考えものですね。バードマンの登場ですか。

 鳥人ね。超人スーパーマンなら人間を超えているのだけれど、我々人間は哺乳類で猿から進化したのですからね、それは定義次第です。

 猿から進化した自己意識や理性を持つ動物を人間と定義すれば、鳥人は人間ではないわけですが、定義を緩めて、「自己意識や理性を持つまでに進化した生物は人間である。」という定義を採用すれば鳥人も人間に入れてもいいですよ。なんなら「ゴキブリ人間」というのはどうですか?

やすい:手塚治虫の名作の中に『鳥人大系』というのがありまして、その鳥人が登場します。また最後に、「ゴキブリ人間」の可能性にもふれています。(笑い)

立男:そういう定義の変更は劇画の世界では、夢を膨らませるのでとても面白いアイデアですが、現実の地球では他の動物から知性的存在が進化してくることはありえませんから、現実味はないですね。

命子:「人間とは何か?」を考えるなら、この問題は吟味する意義はおおいにあるかもしれませんね。だって立男くんの「猿から進化した知性的動物」という定義だけでは、人間概念としては不充分だから、いろんな人が「人間とはなんぞや」と難しい議論しているのでしょう。

やすい:ええ、生物学的に猿から進化した人類を吟味しても、人間とは何かは分かりません。

 例えば人類の前頭葉には第三信号系とよばれる言語中枢があります。それで言語を話せることが生物学的に人間の本質だと言われます。

 しかし言語とは何かということになると、生物学の領域ではありません。社会や人間の認識を論じる必要があります。

立男:鳥でもインコ類になると複雑な声を出せますね。イルカなどは超音波で会話しているということを聞いたことがあります。人間だけが言葉を話せるというのも、決めつけられないのじゃないですか。

やすい:言語論は、後でじっくり検討していただきますが、宇宙人と遭遇というのを仮定しますと、その宇宙人も哺乳類であるとか、猿類から進化したものである可能性はほとんどありませんね。

立男:そりゃあそうでしょう、そこまで地球と他の生物がいる惑星が偶然の一致をして、しかも地球人と遭遇するという可能性は極めて少ないでしょうね。

 でもその動物が言語や理性を持っているとしたら、それはやはり異星人であり、その異星人は人間ではないとは言えませんね。とすると人間の定義から「猿から進化した」という規定は削除した方がいいですね。

続く

コメント(11)

             第一回 鉄腕アトムは人間か? 続き

命子:その異星人が生物ではなくて、ロボットだったら、それでも人間だと認められるかということですね。

立男:ロボットは生物ではなくて、機械ですから、とても人間とは認められません。

命子:そうかなあ、ロボットは人工機械人間でしょう。だったら人間が作った人間ということになるのではないですか?

立男:ロボットというのは、コンピュータを内蔵している機械のことでプログラミングされた作業をこなすわけです。

 それ以前の機械だと機械の規格に合わせた一種類の製品しか出来なかったのに対して、注文に応じてプログラムの内容を変えることで、多種類の製品ができる多機能性があるのです。

 別に自我とか感情とかはありません。鉄腕アトムは人間と同じような自我や感情まで持てるわけですから、ロボットでありながら、人間の域にまで到達していると言えるかも知れません。でもあくまで機械ですから人間ではありません。

やすい:人間の定義から生物であるということは外せないということですね。

立男:当然でしょう。人間は生まれて、生きて、死ぬから人間なのです。機械だと死にません。壊れたら修理すればよいわけです。

 たった一回の有限な生命を生きるからこそ、そのために働いたり、食べたりするわけです。もし死なないのだったら何もすることはありません。

 「死に向かう存在」だからこそ、そこに生きがいを見出して生きる意味を考えたり、永遠なるもの,聖なるものを求めたりもするのでしょう。

命子:ロボットだって修理不能にまで壊れてしまうこともあるでしょう。

 それに星だって誕生から死までの過程があります。形あるものは必ず壊れるというのは生物に限らないのです。

 もちろん人間の寿命とは比較になりませんが、「天人五衰」という言葉があって、寿命が数万年の天人だってやはり死ななければならない、死の苦しみがあるわけです。

立男:自己意識のある鉄腕アトムのようなロボットは、人間の不死願望を実現すべく造られているのですから、体の各パーツが壊れても、意識中枢を保存して、意識の継続性を保とうとするでしょう。

やすい:その意味ではロボットは、不死願望を担っているので、超人的な面を持っています。

 しかし逆説的に言えば、それは人間の願望によって不死であるという意味では人間的な性格もあります。

 それに機械的身体を持つロボットと動物的身体を持つ人はいっしょに暮らしていくわけですから、当然、共存共栄できなければなりません。

 その意味でロボットにも人権が認められるべきかどうかという問題が生じますね。

命子:ロボットに人権を認めてしまいますと、ロボットの方が大量生産されて、たちまち多数派になり、ロボットに支配されてしまうことになるでしょう。

 たとえ自己意識があるロボットができても、それを人間と認めてもいいけれど、対等な人権を与えるのは困ります。

立男:本当に自己意識あるロボットができるとしたら、たちまち実権はロボットに移るでしょうね。だって能力の面でも人間は太刀打ちできません、人間の進化は遅々として進みませんが、ロボットは恒常的に技術革新され、知能、体力、運動能力のどの面でも進化していくでしょう。

 人間はそのうちロボットによって保護され、愛玩用に飼育される存在になってしまうでしょう。

 もし自己意識あるロボットができてしまったら、それは人類にとって破滅を意味します。

やすい:それは鋭い推理ですね。でも動物的身体を持つ個人はある意味、理想的なロボットなのです。

 だからロボットたちは動物的身体を持つ個人を理想にして進化しようとするでしょう。ですからロボットにとっても動物的身体をもつ個人を尊重するというのは、必要なことなのです。

命子:ええ?人間がロボット?どうしてですか?人間も機械だという意味ですか?

立男:そう言えば、ラ・メトリという唯物論者が『人間機械論』で、人間の身体を無数のぜんまいからできた機械だと説明したようですね。

 永久運動する内燃機関を持つ自己保存装置と規定すれば、動物を身体機械として捉えることができるかもしれません。

やすい:ええ、十七世紀には力学的な捉え方が強く、動物は神がつくった自動機械だという見方が有力でした。

 それが十八世紀には機械は産業革命によって単なるカラクリ的なものでなく、単一のものを大量生産する装置になって、身体との類似性は見失われます。逆に生産において身体を駆逐するようになり、生物対機械の対置図式になったのです。

命子:それが産業革命時期から生産の主力が手の延長としての道具から、自然エネルギーを利用して動く機械に進化しました。

 そうすると工場で単一の製品を作り出す機械と、生き物としての身体とは対極のように思われたのです。

 実際は機械は人間の身体の身代わりになって工場で働いていた人工身体だったわけで、機械が採用されることによって、大量の失業者が街に溢れ出したのです。
        第一回 鉄腕アトムは人間か? 続きの続き


やすい:二十世紀後半になりますと、分子工学、分子生物学などが発達し、生物の様々な構造や機能が機械的なものとして説明できるようになったのです。

 人間機械論が復活したのです。ですから機械が人工身体であり、身体が機械だとすると機械も身体もひっくるめて人間を捉えることが必要になってきます。

 鉄腕アトムは機械が電子頭脳まで持つことで身体機械として完成して、正真正銘の人間として現れることを意味します。

 元々機械も含めた人間が存在していたことの帰結なのです。

立男:おや、「鉄腕アトムは人間か?」という議論が、「機械が人間か?」という議論に摩り替わっていますね。

 そうすると「知性的あるいは理性的存在」という人間定義は吹っ飛んでしまいます。それはあまりにひどすぎますよ。

命子:身体の延長や身体の代わりも人間に含めるとしますと、服や家屋だって人間だということになります。

 それでは人間ではないものをいくらでも人間だと規定できることになり、まったく荒唐無稽な人間観になってしまいます。

やすい:荒唐無稽と感じるのは、身体的な個人だけが人間だという思い込みに陥っているからです。

命子:自己意識さえあれば人間に認めてもいいのですが、服や家屋には自己意識はありません。

 人間は考えることによって人間であるわけで、機械や道具が人間だなんて人間を物扱いしているじゃないですか。それってすごく人間を冒涜しているのじゃないのですか。

やすい:いやそれは誤解です。人間の外に服や家屋や機械があるのではなくて、服や家屋や家屋を含めて人間が存在しているとしているのです。

立男:だから服や家屋や機械は言葉を話しますか、物を考えますか、屁をひりますか?

命子:くさー、立男くんやめてよ、屁は関係ないでしょう。鼬だってひるんだから、でも話したり考えたりしないのにどうして人間に含めるのですか。

やすい:ですから、服や家屋や機械を含めて人間が存在しており、その人間が話したり、考えたりしているということです。

 こうして対談しているとき、服を着て対談しているでしょう。それが人間なのです。裸では風呂場での対談であり、命子さんは加われません。

命子:でも、話しているのは服や家や機械ではなく、生身の肉体ではないのですか。

やすい:この問題は、いずれ環境世界論との関連で議論を深める予定です。

 人間は文化を築いて暮らしています。言語や服や家屋や機械も文化に含まれます。

 そういう物を抜きに人間は存在できないわけです。

 現代人を語る時に、核兵器やパソコンや摩天楼を抜きには語れないわけです。

 人間が話をし、物を考えるのもそうした文化の中で話し、考えるのですから、そういうものとは別の身体だけで話したり考えたりしているわけではありません。

立男:それはそうですが、考えるのは頭脳であり、話すのは口だということは否定できないでしょう。まさか服や家が話しているわけではないでしょうから。

やすい:頭脳が考えると言っても、あくまでも思考活動の中枢が頭脳だということでして、頭脳だけで考えているわけではありません。

 口先だけで話しているわけでもないわけです。

 もちろん、個体として自己保存機能がありますので、身体的個人と服を比べてどちらが人間だと言われれば、身体的個人の方だというのは当然です。

 しかし、身体的個人しか人間と見ない見方だけでは、言語や文化として人間を説明できなくなります。

 人間はむしろ社会や文化の方に人間の特色があるわけでして、それらを人間に含めないと人間論にならないわけです。

命子:人間ではないものに人間性を表現するのが文化でしょう。

やすい;身体的諸個人を核に社会的諸事物や人間環境を構成する自然的諸事物がありまして、それらが人間的自然を構成しています。その全体が人間なのです。

 そして個々の事物は人間的世界や人間社会を構成しています。

立男:それは分かるような気がしますが、その中で人間は身体的個人だけで、その他のものは、道具的存在や環境的存在として捉え返されるわけでしょう。

やすい:話が広がりを見せてきましたので、今日議論したことを念頭にいて、次回はデカルトとホッブズの人間観を検討しましょう。
          第二回 人間機械論と人工機械人間

    精巧な自動機械に魂を置きいれしてぞ人となりしや

   魂を実体として捉えなば科学の基礎は損なわれしや

やすい:デカルトの『方法序説』とホッブズの『リヴァイアサン』を中心に人間とは何かを考えてみます。

 ルネサンス科学で大きな影響を与えた著作にベサリウスの『人体構造論』というのがありました。これは人体と動物の解剖結果を比較しまして、体の構造は他の哺乳類と人体はほとんど変わらないということがはっきりしたのです。

 これは大きな衝撃を与えました。人間は高度な文明や複雑な社会を作り上げていますから、さぞかし他の動物と体の構造が違うだろうと思っていたのです。

立男:それでデカルトは動物も人間も身体的には同じであり、どちらも神が作った精巧な自動機械だと捉えたのでしょう。

命子:ところが言語を自由に話せる能力や理性的に考える能力は機械に備わらせることはできなかったので、神は先天的に人間に魂を置き入れたとデカルトは主張したのですね。その程度なら高校の倫理で習いました。

やすい:高校倫理を取らなかった人の方が多いので、基礎的な知識を確認しておきましょう、デカルトは真理の体系を構築しようとして、絶対に疑えないものから出発しようとしました。それで先ず、絶対に疑えない真理を見出すためにどうしたのですか。

立男:「方法的懐疑」です。疑い得る全てを疑って、そして疑い得ないものに到達しようとしたのです。

 先ず疑ったのが感覚的現実です。見間違いの可能性がありますからね。次に数学的推理です。

 「対頂角は等しい」ことの証明はだれでもできますが、「三平方の定理」は難しいですね。難しいのは間違っていて、簡単なのは正解だというのはよくありますが、間違いの可能性はあると考えて、数学的推理は全て間違っていると考えるのです。

 次に心に浮ぶ全ての思想は夢かもしれないとして斥けます。

命子:その結果、疑っても、疑っても、疑いきれぬものとして「疑っている我」に到達するのです。それで「コギト・エルゴ・スム(吾思う、故に、吾あり。)」を哲学第一原理において、真理の体系の出発点にしたのです。

やすい:その考える我〔コギト〕は、疑いえないものですが、疑っているという事実にのみ依拠していますから、頭脳やその他の何かがなければ存在できないというものではないのです。ですから一種の精神的実体です。

 この魂をデカルトは身体とは全く別個に作られ、先天的に神によって身体に置き入れられたと考えたのです。

立男:心身二元論ですね。それでいくと精神的実体の方は認識する主観だから、対象化して認識することは出来ないことになります。認識できるのは延長的実体とされる様々な物質だけです。

命子:それは困りますね。魂の能力や働きを解明することが原理的に不可能になってしまいます。

やすい:そうなのです。魂が別個につくられたとしたら、直観的に真理を見通す能力や、プラトンのイデア論のように、事物の様々な概念が先天的に与えられている可能性が生じます。

 そうしますと認識がどうして成り立ち、言語がどのように生じたかなどは解明できなくなってしまいます。

立男:近代的自我の確立として高く評価されているのでしょう。

やすい:その面は重要ですね。

 デカルトでは、思考や認識の主体として、対象的事物や現象と截然と区別される超越的自我が確立しています。物事の客観的な認識には超越的自我が必要ですから。

 しかし超越的自我を魂の置き入れという形で実体化するのは困りますね。そうなりますと魂は物質ではなくて、精神なのだとされ、それ以上は追求できません。

 むしろ実体としては空だけれど、感じ方や判断の基準が個性的に形成されることによって、虚焦点のように、超越的自我が形成されていると捉えた方がいいと思います。

命子:分かり易く言えば、私と言う人格は、頭のどこかに魂として入っているのではなくて、これまでの私の人生を通して形成されてきた、私の感じ方や判断の規準であり、個性的な行動の様式であるということですね。

 そういう形で私の人格は確かにあるけれど、それは決して魂というような何かあるものじゃないということでしょう。

立男:それでホッブズが魂を実体として捉えるデカルト的な説明を突破したと言うことですか。

やすい:そうです。ホッブズは「霊が降りる」というような『バイブル』の表現は全部比喩だとしています。

 イギリスの経験論の伝統では、実験と観察の結果を重要視するわけです。霊とか魂とかを実体としてしまいますと、実験や観察で真偽を確かめられません。それでは認識の仕方に改良を加える事もできないわけです。

続く
                
                 第二回 (2)

命子:それでは、ホッブズはどうして人間だけが高度な会話をし、文明を発達させることが出来たと考えているのですか。

やすい:ホッブズとデカルトの共通点は身体が機械だということです。

問題は人間だけが言語を使い、それに基づいて高度な文明を築き上げてこられたのは何故かということです。

身体機械がいかに高度になってもそれは機械である以上限度があるので、言語や理性の能力を持っている魂を神が先天的に置き入れたのだろうとデカルトは説明したのです。

立男:するとホッブズは人間機械の働きとして言語活動を説明したことになりますね。

ということは身体機械としては他動物とあまりかわりがないのに、どうして言語能力を獲得できたのか分かったのですか?

やすい:少し理論的になりますよ。

様々な感覚表象がありますね、それはいずれ忘れしまいます。でも忘れてしまうまでは残像として残っているわけです。この薄れゆく記憶のことをイマジネーションと名付けました。

無数のイマジネーションが頭脳では動き回っているというのです。

命子:そんなのどうして調べたのですか?

やすい:もちろん推理です。

動き回っている内に似たもの同士や正反対のもの、関連があるものなどがさまざまな配置をとるようになり、表象が整理されるようになっていると考えました。

こうしてイマジネーションが互いに引き合ったり、反発しあったりすることで、新しい刺激に対して、どのように反応するべきかが判断できるとしたのです。

高等動物の場合は、刺激に対して機械的に反応するのではなく、イマジネーションの組み合わせと照らし合わせてから反応するので、時間がかかる場合があります。これを熟慮と呼びます。つまり高等動物は相当じっくり考える事もあるということです。

立男:動物と人間との差はあまりないということですね。そうしておかないと身体機械の働きで言語や理性を展開できません。

やすい:音のイマジネーションの組み合わせが、それ以外の感覚のイマジネーションの組み合わせの記号として働いた時、言語が成立したという言語論なのです。

命子:なるほど音で様々な事象を指し示すのが言語だということですね、問題はどうしてそれに気づいたのかということでしょう。

やすい:動物は身振りで表象を伝え合っています。音声信号を送り合っている動物もいますね、イルカは超音波ですが。

 ですから音声信号と言語の区別がはっきりしなければなりません。その点はホッブズははっきりさせていません。人間の場合は神が音声で物事を表すことを教えたという言語神授説を採用したのです。

立男:なあんだ、困った時の神頼みですね。でもそれで魂の置き入れを仮定する必要がなくなったということですね。

 そうすると哺乳類のしかも猿から人間が進化したというのは偶然的なもので、他の動物が人間になってもおかしくなかったということになりますか。

命子:『バイブル』の「創世記」では人は神に似せて作られています。だから、言語を教えて地上の支配者にするのは人以外には考えられないのです。

やすい:ホッブズは、魂の活動をイマジネーションの運動によって説明したのです。

 つまり魂というものが実体としてあって、それが考えたり、苦悩したりしているわけではないということです。そうではなくて、思考過程はイマジネーションの運動であって、それ自身が魂の活動に他ならないということです。

立男:つまり、神が魂を置き入れなくても、頭脳が考えているということでしょう。

やすい:そういうことです。デカルトは身体という機械では言語まで習得できないと考えたのですが、ホッブズは、身体機械は言語機能を習得できるとしたのです。

 つまり人間は話し、考え、悩み、感じる機械だということです。

命子:それじゃあ人間こそ神が作ったロボットということになりますね。それで「鉄腕アトムも人間か?」なんて設問をしていたのですね。

立男:それじゃあ、神が存在することが論証されなければなりませんね。

 それに機械というと何か生産する手段になりますが、生物体の場合は個体と種の自己保存が目的です。何か他者の意志の手段ではありません。

やすい:機械は生産機械だけでなく、輸送機械、戦闘機械などもあります。

 それに必ずしも金属製でなくても機械です。水車なども機械でしょう。蛋白質でできている機械だっておかしくないのです。つまり決まった運動をするような装置になっていれば機械と言えます。

 生物は個体と種の自己保存をするのですが、自己複製機能がついているわけです。

命子:「生物」と「機械」は反対語みたいに使われてきたのに、無理やり生物も機械だと強弁されているようですね。

やすい:生物は大変複雑な構造になっていて、どういう仕組みで生殖や成長するのかなどのメカニズムが解明が難しかったのですが、二十世紀も後半になってから分子レベルの解明が進みますと、機械としてのメカニズムがどんどん解明されてきているのです。

 今後分子工学やナノテクノロジーの発展によって、生物の驚異の仕組みが解明され、それが巨大なイノベーションをもたらすとされています。
                   第二回(3)

立男:ところで人間機械論から、ホッブズはどのような理論的な帰結を導き出したのですか?

やすい:動物一般にも言えますが、人間は欲望機械なのです。

つまり欲望を充足することによって、自己保存や生殖が可能になります。欲望を充足させる為には富が必要ですが、富は不足しがちですので、どうしても自然状態では奪い合いになると捉えたのです。

命子:「万人の万人に対する戦争状態」ですね。でもロックは、自然状態でも、人間は理性的に話し合い、協力し合っていくものだと考えたのでしょう。

やすい:他の動物と比較すると人間は知性体として捉えられるわけですが、欲望機械という面ではどうしても自己保存の為に衝動が抑えられなくなってしまうということです。

立男:それでは戦争状態で共倒れになってしまうので、社会契約によって強力な共通権力を作り、それによって法律を作ってもらい統治してもらうことで、平和に暮らせるようにしたということですね。

やすい:その共通権力のことを何と名付けましたか?

命子:ハイ、「リヴァイアサン」です。地上最強の怪獣という意味でしょう。

やすい:その怪獣はどんな姿をしていましたか?

立男:えーと、恐竜みたいな感じですか?

命子:ああ、表紙に絵があって、巨人が剣をもって村を守っていたわ、リヴァイアサンは巨人のイメージなのですね。

やすい:ホッブズによると、単なるイメージではなくて、国家は巨大な人工機械人間なのです。

「人工人間にあっては、『主権』が人工の『魂』であり、それが全身に生命と運動を与える。

『施政官』とその他の司法行政上の『役人たち』は人工の『関節』である。

また『賞罰』〔これによってあらゆる関節や器官か主権の座に結び付けられ、それぞれの義務を遂行させられる〕は『神経』あり、それは自然的肉体におげる神経と同じ働きをする。

また個々の成員が所有する『富』と『財宝』は『体力』であり、『人民の安全』が人工人間の仕事である。

さらに人工人間にとって知る必要があるあらゆる事柄を提示してくれる『顧間官たち』は『記憶』であり、『公平』と『法律』は、人工の『理性』と『意思』、『和合』は『健康』、『暴動』は『病い』、『内乱』は『死』である」(序説、五三頁)

立男:それは、単なる比喩でしょう。

そういえば国家法人説や国家有機体説というのがありますが、それらはみんな比喩として「あたかも人格を持つ主体であるかのように国家がみなされる」ということだった筈です。

命子:国家有機体説の場合は、十九世紀の進化論の影響で、スペンサーなどは社会も有機体つまり生物であって、時代によって進化すると捉えていたわけでしょう。

やすい:そうですね。ホッブス解釈で比喩的に解釈する人が多いのは確かでしょう。

国家が生き物で、国家意思があって国家が法的人格を持つとしても、だから国家も人間なのだとまで明言する人はあまりいなかったでしょうね。

ホッブズ自身は、比喩ではなく国家は人工機械人間だとしているのです。それを後世の人々が勝手に比喩だと受け止めているわけです。

立男:たとえ断言的に「国家は人工機械人間だ」といっても、それは表現の問題でしょう。国家が人間だと、同じように企業も人間だということになりかねません。

命子:そう言えば、和辻哲郎は「人間は、個人であると共に社会である。個人と社会の弁証法的統一である」と考えていたのでしょう。

立男:「人間」は人の間と書くので、江戸時代には「世の中」の意味で使われていたそうですね。それが近代になって、人を指すようになりました。

「人間」とする場合は、人が社会的存在であることを印象づけているのです。それを和辻は江戸時代の意味も含めて、人間は間柄的存在であるとしたのです。つまり個人であると共に社会でもあると、個人が社会を体現しているということでしょう。

その場合、社会全体も一個の人間だという意識もあったのですか。

やすい:それはあったでしょうね。『軍人勅諭』に「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ、されは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰(あふぎ)」とあります。

これはホッブズの『リヴァイアサン』で人民が体の各部分の細胞のようなものを構成し、主権者が中枢神経に当たるのと同じです。

立男:和辻と『軍人勅諭』を同列に扱うのはどうでしょう。

やすい:社会も一個の人間と捉えていた可能性の問題です。

大山岩男の『世界史の哲学』でも国家は意思と個性を持つ主体として捉えられているようですし、やはり当時は、戦争へと突き進む国家に対して、生きた一個の人間のように捉えていた面は否定できません。

命子:ということは、国家が人工人間だという説は全体主義的な考え方だということですね。

やすい:国家が生きた人間であるということを事実として認識することは、全体主義ではありません。

 そこから主権者への絶対服従を説き、主権者の専制支配を正当化するとなると絶対主義的専制主義です。全体主義は国家への忠誠を強調します。国家を生きた人間として捉えても、それに対してどう個人が対処したらよいかはいろんな立場がありえます。

 国家の利害と当人の利害が一致している場合には、全体主義でもいいのですが、対立している場合には、国家の抑圧からどう個人的な利害を守るか、あるいは、国家を改造して自己の利害と一致させるかという立場になりますから、その場合は全体主義と厳しく対立する場合もあります。

 ただ相手は巨大な専制権力を持っている国家です。そして個人からは相対的に独立した存在です。そう簡単には変革できないのです。

立男:普通の社会契約説だと、国家は人民が自然権を守るために造ったものだから、自然権が守られないなら、そういう国家は社会契約をやり直して、人民の自然権を守る国家に変革すればよいのだという考えですが、そんな簡単じゃないよということですね。

命子:ホッブズの場合は、革命で主権者を変えることは、国家の死であり、戦争状態への復帰なので、もっともいけないことですね。

やすい:国家も人間だとしても、身体的個人としての人間と、国家としての人間はやはり構造が違いますから、身体的個人なら首はすげ替えられないけれど、国家の場合は、革命で主権者を取り替えることによって、国家がリフレッシュする場合だって考えられます。
              第二回(4)

やすい:国家や自治体、企業、組合などが人間として捉え返されることで、身体的個人だけが人間だという固定観念が取り払われるのです。

立男:その結果個人の人権と共に、集団や組織も人格的な法人であるとして国家や企業や組合などの権利も人権だということになってしまいますよ。

 ある場合には、国家や企業の権利が強められ個人の権利が圧迫されることが心配です。

命子:確かにそうですね。これまでの人間観だと個人としての尊重が強く打ち出されたわけですね。

 そして組織や国家は個人の幸福のためにある、あくまでも手段だと言えました。組織の為に個人を切り捨てると本末転倒だと言えたわけです。

やすい:もちろん個人の人権は大切にすべきです。組織人間論を掲げて、個人の基本的人権を抑圧するのは許せません。

 しかし国家や企業が存在し、それが自己の意志をもって行動していることも事実です。そして自己保存のためならリストラやリエンジニアリングを行ってリフレッシュしようとし、そのために多くの個人の生活が追い詰められてきました。

 やはり国家や企業も自分の生き残りのために、やむを得ない場合は、自分の体の一部を切除したりも見放したりすることもあるわけです。

 そのことを冷静に捉えた上で、どうすれば個人の基本的人権を守ることが出来るのか考えるべきです。

立男:ところで国家や組織も人間だと言う場合の人間概念はどうなのですか。

やすい:それは生きている以上、常に自己保存を図ろうとすること。

 そして意思決定機能が存在し、その意志に体全体が従うことでしょうね。もちろん人間ですからその意志の内容は言語を使った認識に基づくものです。

命子:組織によっては便宜的に生まれて、目的を成し遂げたり、失敗すれば解散するものが多く見られます。国家にしても歴史を振り返れば離合集散を繰り返していて、必ずしも自己保存は目的ではないでしょう。

やすい:そんなことを言えば身体的個人だって、自己破滅的な行動をとることもあります。

 一応独立した組織は自己保存の為に日夜戦わなければならないのです。

 たとえある目的が叶えば解散する組織だとしても、解散の日までは自己保存の為の涙ぐましい努力があるのです。

 特に企業などは従業員の生活が成り立たなければ存続できません。その為にもその企業が社会に提供しなければならない業務を、厳しい市場競争の下で提供し続けなければならないのです。国家にしても厳しい国内外の情勢の中で存続の危機と戦っているのです。

立男:それはそうですが、個人の場合と企業の場合と国家の場合はそれぞれ違うわけで、どれも人間だというのはおかしいのじゃないですか。

やすい:どれも知性体として理性的に考え、意志を決定して、それに基づいて行動しています。その意味で人間という共通性があるのです。

命子:その内の身体的個人だけを人間と呼び、国家は国家、企業は企業と呼ぶのでしょう。

やすい:それは固定観念ではそうですが、人間は個人としてだけではなく、組織体としても存在していて、企業や国家や組合や党という姿でも存在しているのだということです。

 そのように捉えますと、人間として生きるといっても、ただ身体的個人だけを生きているのではなく、家族や従業員や国民としても生きているわけで、家屋、工場、国土などと共にそこに生きることで、家族や企業や国家がそれぞれの個人の姿の中にも見られることになります。

立男:なんだかややこしいですね。

 人間は身体的個人だけではなく、家族や企業や国家でもある。身体的個人は身体を見ればよいわけですが、その他のものも結局、身体的個人の姿をしているのですか、それじゃあやっぱり、身体的個人が人間でいいでしょう。

やすい:身体的個人は身体がその人ですが、家族の場合は、家庭生活を構成する家屋とそこに暮らす構成員及び必要な家財道具や日常の消費財なども含めて捉えなければなりません。

 企業の場合は社屋、工場、機械設備、製品等等が含まれます。その企業が生み出している企業文化もその企業の姿を表しているわけです。

 国家は国民だけではなく国土も当然含みますし、その国の文化やその国の産物や製品などもその国を表現します。人間だからといって身体だけを思い浮かべることはありません。

命子:それは変なことになりますよ。フォードの車は日本人が買って乗っていると、日本人のものですから、当然日本に属していますが、アメリカ製だからアメリカを表現するわけですか。

やすい:それは臨機応変に捉えてください。フォード車を乗り回している日本の姿であると共に、日本に進出しているアメリカの姿でもあるわけですから。

立男:グローバル化が進んできましたので、製品は企業イメージが強くなって、国家イメージは薄れていますね。

 企業や国家が人間であり、製品もその現われとしますと、携帯電話や乗用車が人間だと言うことになってしまいますね。

やすい:もちろん携帯電話がそれだけで人間だというのではありませんよ。

 携帯電話も乗用車も今日の人間世界を構成している不可欠な要素だということなのです。

 もし人間を身体に限定してしまいますと、身体の特徴だけから人間の全体を演繹することになりますが、それは無理です。

 ビーバーの鋭い歯とかわいい尻尾から、ビーバーダムや三階建ての水中家屋などを演繹するのは無理です。

 ビーバーの身体とビーバーダムと三階建ての水中家屋の全体をビーバーと捉え、ビーバーの身体とビーバーダムと水中家屋などをビーバーの定在としてビーバー的事物とみなすのです。

 ビーバーとは何かと聞かれれば、それはビーバーの身体であり、ビーバーダムであり、水中家屋でもあるということです。
      第三回 アダムとエバの人間論
            
                (1)

    神々は自分の姿にかたどりて、アダマ(土)の塵でアダム(人)造りぬ

やすい:今日は、『バイブル』の「創世記」のはじめの数ページからアダムとエヴァの人間論を検討してみましょう。

 西欧思想は、『旧約聖書』に著されたヘブライズムと古代ギリシアのヘレニズムの融合によって形成されました。ですからこのアダムとエヴァに関する記述は西洋人の人間観の基礎になっています。

命子:天地創造は六日間で行われました。その最後に作られたのが人間です。

 「我々にかたどり、我々に似せて、人を作ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、知の獣、地に這うものすべてを支配させよう。」(「創世記1」)

 ここでまず「我々」が複数になっているのが気になりますね。神は唯一絶対の神ですから、複数は間違いですね。

やすい:「創世記」では神は複数形なのでびっくりしますね。

 元々ユダヤの先祖であるヘブライたちも自然神信仰だったと思われます。神の山ホレブや聖石信仰や族長の守り神を信仰するとかが古い形だったのです。

 唯一神信仰はモーセ以降です。「創世記」は紀元前四世紀頃に完成しますが、伝承されたきた文章には古い形の信仰の名残が残ってしまっているのです。

 人間論として重要なのは人間は神々に似せて作られたということです。つまり人間は神そっくりの神形なのです。

立男:神は自然から超越している神ですから、「見えざる神」の筈ですね。ところが神に似せて人間を造ったとされています。これも矛盾ですね。

やすい:ええ、矛盾ですね。元々「見えざる神」信仰は、族長の守り神信仰の時代には、族長にだけは見えていたのです。

 アブラハムやヤコブには神は堂々と姿を現わしています。モーセにも見えていたようです。

  ですから唯一絶対の超越神という神概念自体歴史的に作られてきたものなのです。

命子:人間が神に似ているということは、人間は神に近い尊い存在であると言うヒューマニズムが感じられますね。

立男:それを理由に動物に対する支配権を人間に与えています。だから単なる人間主義ではなくて、人間中心主義ですね。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」

 そして植物を食料として人間に与えています。

 結局天地の創造も含め、人間中心の世界、人間の為の世界を神は作られたわけですから、神も人間のために存在する神だということになります。

命子:神が自分に似せて人間を作ったのですから、当然、人間がかわいくてたまらないので、人間に特別の地位を与えたのでしょう。

 でも神はあくまでも自分の愉しみで神形である人間を作ったのであって、人間が神の為に存在しているのです。

やすい:唯一絶対の超越神という観点からみますと、神は最高価値です。

 ですから「神のための人間」です。あくまで神に奉仕し、神を喜ばせる為に人間が存在しているという神中心の考え方です。

 ユダヤ教、キリスト教の建前の考え方はこれです。でも宗教ですから信者が納得して、喜んで信仰する中身がなくてはなりません。

 本音の部分では人間中心の面も必要です。あくまで神は人間から超越し、人間と断絶しているように見えます。でもそのことによって絶対化した神は、なんでも可能ですから、人間を死から救うこともできることになります。

  そのことによって人間は神のごとく永遠の生命を得るわけです。つまり人間を救う為の神という人間中心の神観念が併存しているのです。

立男:だいたい神を信仰すること自体、神によって救ってもらおうという考えによるのですから、宗教の本質は人間中心主義ですね。

  神が人間を作ったって言っているけれど、本当は人間が神を作ったのでしょう。

やすい:その論法は近代の啓蒙的な宗教批判の典型です。

  最も古い宗教形態であるフェティシズム(物神崇拝)では、本当に神を人間が作ったのです。石ころや蛇などから一つだけ神に選んで、お供えを捧げ願い事をします。

  それが叶えられれば、いいけれど、叶えられなければ、神を攻撃し、破壊したり殺したりするのです。

  だから神は人間によって作られ、人間の願いをかなえなければならない人間の奴隷だったのです。

命子:人間による地上の支配、特に動物や植物への支配は問題ですね。

立男:神が人間に自然を支配させようとされたことは、人間にとって光栄なことですが、それは神から自然の管理を任されたということです。

  神の期待に応えて、自然を立派に管理しなければならないのに、現在のところ人間は自然のバランスを破壊しています。

  『バイブル』で神から支配権を与えられているということで、好き勝手に支配してよいと言う意味に解釈してしまった結果かもしれません。

やすい:人間は、先ず神から作られた神の被造物であること、これが最初の人間規定ですね。

  そして神の似姿であること、これが第二の人間規定です。

  そして第三が人間は地上の支配者であり、他の動植物の支配者として規定されているのです。

命子:動植物の最後に人間を作ったという記述に続いて、正反対に生物では最初に人間がつくられたという記述があります。

  これは明らかに全く別の種類の創世説話を繋ぎ合わせたことが窺がえますね。

立男:「水が地下から湧き出て、土の面を全て潤した。主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。

  つまり人間は土から作られたということです。これは地表の一部が人間になったということで、人間が大地や大自然の一部であることを意味しているのですか。

命子:ギリシア神話でも人間は土をこねて作られていますね。

やすい:ギリシアではアルケー(根源物質)が何かが議論されて哲学が発生しました。

  水がアルケーだとターレスが言ったわけです。土・水・空気・火の四つが混ざって様々な物質ができていると考えられていましたが、その内のどれが根源的かで議論されていたわけです。

  ギリシア神話はアルケーは土だという立場です。『バイブル』も同じですね。アダムは後に神から宣告されます。「塵にすぎないお前は塵に返る」

立男:「命の息」が吹き込まれるという表現があって、この命が魂に当たるのでしたら、死んでも魂だけで生きていることになりませんか。

やすい:魂の輪廻転生はインドやペルシアやギリシアなどのアーリア人の発想です。ユダヤ教徒でも祭司階級にはそういう解釈をする人々もいたようですね。

命子:次にエデンの園をつくってアダムをそこに住まわせるのですね。園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」があります。この二つの木からは木の実を取ることは禁止されます。

やすい:その話は罪と罰という大きなテーマですので、先にアダムとエヴァの関係の話をしましょう。
   イシュ(男)の骨、イシャー(女)と成りて現れぬ、吾が骨の骨、吾が肉の肉

命子:「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」ということで獣や鳥を土で造って、アダムに名付けさせました。

 でもなかなかアダムとは合わないので、アダムを眠らせて、あばら骨をとって女を造ったのですね。

 このお話、いかにも女性は男性の添え物、補助役の感じで、男尊女卑の典型ですね。宗教書にこういう扱いをされてしまいますと、その宗教が生きている限り、批判しにくいですから、なかなか差別がなくならないという弊害があります。

やすい:その通りですね。男が先で女が後というのは生物学的には反対で、胎内では女から遺伝子の働きで男に変わるのでしょう。

 まあそれはどちらでもいいことですが、このバイブルの記述ではアダムの一部がエヴァになるわけですから、アダムは父でエヴァは娘にあたるわけです。

立男:母がいなくても父と娘と言えますか。

やすい:直系の尊属であることは確かです。

 それでアダムは大変気に入って「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」とあります。

 それで二人は一体になるわけです。私はここに父親の娘に対するコンプレックスが現れているような気がして、また娘も自分のルーツである父親との一体感があるので、アダム・エヴァコンプレックスと名付けました。息子の母親に対するエディプスコンプレックスに匹敵するのじゃないかと主張しているのですが、相手にされていません。

立男:エディプスコンプレックスの場合は、実際に生母との関係ですが、アダムとエヴァの場合は父と娘という意識が明確になる以前ですよ。はじめから男に対する女として作られているわけですから。

 ただ父親と娘の間の抑圧された性的衝動に注目するのは良い思いつきですね。母親と息子の近親相姦より、事例としてはずっと多いでしょうから。

命子:互いに片割れだという意識から、一体性の取り戻しを図る、その結果子供ができて、そこに二人が一人の子供の中に受け継がれているので、二人の一体性が証しされるわけです。その意味でバイブルの「私の肉の肉、私の骨の骨」という表現はぐっときますね。

    姿見て声を発して名付けたり、そは言の葉の初めなるかな

やすい:人間本質論で言葉を使うということが重要です。

 人の助け役になるかと思って神は土で獣や鳥を造って人のところへ持っていき、人がどう呼ぶか見ていたのてす。すると人が呼ぶとそれがその獣や鳥の名前に成ったというわけです。ということは神は言葉を教えたり、名前のつけ方を教えたわけじゃないのです。

立男:それじゃあ、ホッブズの言語神授説はバイブルを誤読していたわけですか。言語能力は生まれつき持っていたということになりますね。

やすい:誤読というよりも、ホッブズの場合は、バイブルの記述も納得いかなければ、比喩と受け止めたりします。「霊が降る」という表現なども霊が実体として存在するかのようなので比喩だとしています。

 この記事に付いては、人が声にした音が名前だと神が教えたというように解釈したのでしょう。

命子:神が教えても言語を知らなければ、名前がどういうことなのか分からないでしょう。

やすい:それはその通りですが、それは言語の発生の論理が分かっていなければ説明できないことです。

 「宇宙の起源」「生物の起源」「言語の起源」という三大起源は未だに明確には解明されていない謎です。言語起源論については、いずれ詳しく取り上げましょう。ともかくこの個所では、人が名付けという言語能力を持っていることが人間の本質であることが語られているわけです。

命子:やはり言語を話せることが、人間が他の動物と区別されることなのですか?

やすい:そうでしょうね。すぐ後で出てくる蛇以外は言葉を話せません。この言語使用能力が人間の尊厳を表していると捉えた話が、イスラムの『クルアーン(コーラン)』に出ています。

 神は自分そっくりのアダムが可愛くてたまらないので、天使たちにアダムに跪拝しろと命令しました。

 でも天使たちにすれば土で造られたアダムよりも、火で造られた天使の方が格が上だと思っていますから、心の中では不満です。

 でも神の命令は絶対ですから、仕方なく跪拝したのです。その中でプライドが高かったイブリースは、跪拝を拒否しました。そこで神は獣たちを連れてきて、天使たちに名前を言わせますが、神から教わっていなかったので言えません。ところがアダムは次々と名付けていったのです。

 それで神に逆らったイブリースを滅ぼそうとされますが、イブリースは神に提案をして最後の日まで猶予して欲しいと言ったのです。

 つまり、最後の日までに人間どもを誘惑して罪に落とし、地獄を人間たちで一杯にしてみせるからと提案したのです。

 すると神は賛成しまして、お前に誘惑されるような人間は、楽園に入れるわけにはいかない、大いに頑張って、地獄を悪者でいっぱいにしなさいと励ましたわけです。

命子:神と堕天使がつるんでいるのですね。恐ろしいわ。

立男:神は人間を救う愛の神ですが、同時に人間の罪を裁く神でもあるわけです。イスラムは裁きの神の面も強いですね。
               
                 (3)

    アンニュイをかこちて人は欲望の黒きとぐろの蛇を宿しき    

命子:さていよいよ誘惑の蛇が登場します。蛇は野の生き物のうちで、最も賢いのですね。

やすい:蛇はフェティシズムではよく神にされるのです。石とならんで代表的なものですね。

実はヘブライ人は元々石を神にする部族だったと言われています。その風習はヘブライ人から分かれたアラビア人には七世紀まで残っています。それで蛇にはライバル意識が強くて、「創世記」で悪者扱いされたという解釈をする人もいます。

立男:蛇は誘惑するので人間の欲望の象徴なのでしょう。

やすい:それは鋭い分析ですね。エデンの園はたくさん果
物がありますが、食べ飽きたのでしょう。だって、まだエデンの園には歴史的な時間というものは流れていません。ですから実際にはほんの数日だったかもしれませんが、何十年、何百年、何千年の長きにわたっていたのと同じぐらいに思えたかもしれません。

もうこんな果物食べ飽きた、他のものが食べたいという欲望が膨らんで我慢できなくなるのです。それでその欲望が一人歩きして、悪智恵の働く蛇の姿をとって自立します。ですから蛇は人間の欲望の自己疎外と言えるかもしれません。

命子:何ですか、その自己疎外というのは?

やすい:人間が自分の本領を発揮しようと思えば、自分の能力を生産物を生み出すことによって示す必要があります。まあ物の形ではなくてサービスでもいいですよ。教師なら素晴らしい授業をして皆を感動させるとかね。

 ともかく自分の中にしまっておかないで外に出す必要があります。これが対象化です。この対象化されたものが自分から独立してしまい、自分に対して疎遠になって、自分を支配したり、自分を苦しめたり、自分に敵対してくる場合が自己疎外と呼ばれます。

 これはヘーゲル哲学で、意識や精神の自己疎外として使われていたターム(用語)だったのを、若きマルクスが労働の論理に応用したのです。

立男:それじゃあ、蛇は神に逆らってまで自分の欲望を遂げようとする抑圧された衝動だったのが、人間たちから独立して邪悪な心の化身である誘惑の蛇に成長して、人間たちを罪に誘ったということですか。

命子:いかにも蛇が悪いみたいに言うけれど、蛇は善悪の智恵の木から実をとって食べても、賢くなるだけで命に別状がないと言っただけで、騙したわけではありませんね。

 むしろ人間は善悪を判断する能力を得たわけですから、蛇に感謝すべきでしょうね。

立男:でも蛇の正体はサタン(悪魔)で、エヴァを性的にも誘惑し、そのために女性にはサタンの血が混じって汚れているという話を聴いた事があります。

やすい:それは韓国の統一協会の教祖文鮮明などの解釈です。それで統一協会では統一結婚式をおこないます。そこでキリストの生まれ変わりである文鮮明によって、花嫁の血を清め、その上で清められた花嫁によって新郎の血も清められるとするのです。

 蛇はサタンだと解釈されていますが、「創世記」にそう書かれいるわけではないのです。蛇がエヴァを誘惑したというのも一方的な見方ですね。蛇の方が後から造られて、エデンの園でエヴァに誘惑されたかもしれません。

命子:お相手はアダムだけですものね、蛇はとても新鮮で魅惑的だったかもしれません。

やすい:蛇との性的スキャンダルが問題になるのは、フロイトの精神分析学では蛇は男性性器のシンボルだからかもしれませんね。まったくの邪推です。

立男:今のは駄洒落ですか?笑えないな。ところで蛇は「決して死ぬ事はない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」と言ったわけで、そのことを蛇はどうして知っていたのですか。

命子:蛇も神様から止められていたのだけれど、食べてしまっていて、それでも死ななかったし、賢くなっていたからではないですか。

やすい:それは書いていませんが、あるいはそうかもしれませんね。それでも神はそれを気づかないふりをして、蛇がエヴァを唆すのを待っていたのでしょう。

立男:これは元々神の予定にあったのですか。

命子:そりゃあ、そうでしょうね。いつまでもエデンの園で退屈そうにあくびばかりされていたのでは、神にとっても面白くも何ともないですからね。きっとエデンの園からいずれ追放して苦労させてやろうと思っていたに違いありません。

 蛇というのはそのお膳立て役に造られたのですね、きっとそうです。

立男:そうだとしますと、神がわざとアダムとエヴァを罪に堕として、それを理由に追放したことになりますから、本当に悪いのは神だということになりませんか。

やすい:『バイブル』を書いたのは人間ですから、神の意図を正しく伝えることはできません。

 神が悪いという評価は論外なのです。つまり人間は神が造った神形だから、煮るなり、焼くなり神の勝手で、神が罪に堕ちるように仕組んだとしても、罪を犯したのはあくまで人間であり、悪いのは人間なのです。

 神は道徳的評価の対象ではないのです。我々は唯一絶対の超越神というのを伝統として持っていませんから、そのあたりは納得できないところですね。

命子:女が蛇に唆されて木の実を取って食べ、男にも渡したので男も食べたとしています。

 つまり女は放って置くと誘惑にひっかかって何をするか分からないから、男が女を支配し、管理して当然という考えですね。そういう男支配に対してこの記事は宗教的説話で正当化しているわけです。

やすい:『バイブル』や『クルアーン』は、男による女支配の社会の中で書かれていますから、そういう体制を当然と思わせるような表現にしないと、認められないわけです。

 その意味で女性は聖典をラジカルに批判して、新しい時代の宗教や社会を造る役割を担っているでしょうね。そのわりには未だに女性の宗教家や宗教批判家ではなばなしい活躍をしている人はいないのは淋しいですね。命子さん大いに頑張ってください。

命子:「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」

 ということは、善悪を知る木の実を食べて、はじめて気づいたことが性器の露出が恥ずかしいという性的羞恥心だったってことですね。

 それで神に裸を見られるのが恥ずかしいから身を隠しますと、善悪の木の実を食べたことがばれてしまいます。どうして性的羞恥心が最初に出てくるのでしょう。

立男:それは性器を隠すということが、人間と獣を分ける第一歩だからでしょう。人間は性欲をコントロールすることによって、文化を築きました。その為には性器を隠して、発情を抑える必要があったのです。

命子:獣はフェロモンが出て、それで発情するけれど、人間は女性のフェロモンと関係なく男性が発情するそうですね。だからあまり男性を刺激しないように性器を隠すわけですね。

やすい:ええ、人の女性の体つきは他の獣と比較しても、性的刺激に富んでいますからね。

 男性も直立しますと性器が露わ過ぎます。ですから哺乳類の中でも特に人は好色です。これでは生産など仕事や文化に支障があります。それで抑圧するために隠すことを始めたのです。そのことによって動物的な生活から脱却したという面がありました。

立男:好色性が人間の本質だという話は聞いたことがありますね。パンツを穿くのは脱ぐためだという話です。

やすい:フロイトの精神分析学では文化は、性欲を抑圧して昇華することによって生まれたと考えています。栗本慎一郎が『パンツを穿いた猿』というベストセラーをカッパブックスから出しました。

 パンツを穿く事で、脱いだときの刺激が強くなるわけで、それで脱ぐために穿くというわけです。彼の理論はポランニーの余剰・蕩尽論から来ていまして、文化というのは全て余剰を積み上げては蕩尽する習性に由来しているとするのです。パンツを穿いて性欲を抑制して築いた文化も、最後は蕩尽するのです。

 栗本は核兵器廃絶運動に対してそんなことをしてもナンセンスだと言います。なぜなら核兵器というのは近代文明を蕩尽するための兵器です。文明はそれを蕩尽するためにこそあるのですから、核兵器をなくしてしまいますと、蕩尽できなくなるので人間の本性に反しているというのです。

 そういう学者がいて、思想を無責任な享楽的な消費の対象にしたわけです。

立男:ああ、そう言えば自民党の国会議員だったですね。しかし巨大な文明を作り上げる人間が、同時にそれを蕩尽しようとする衝動を臨界点まで積み上げつつあるという捉え方は、実に不気味でリアリティがありますね。

やすい:性欲をコントロールして文化を生み出すことができるように、文化を蕩尽破壊しようとする衝動も、変革や革新のエネルギーに昇華できるはずです。
                
                    (4)

       楽園を追われて人は鍬を持ち土にまみれて命削るや
       労働は神が下せし労役か塵に戻りて果てる時まで

命子:いよいよ最初の審判ですね。被告は蛇とエヴァとアダムで裁判官が神です。

アダムは「あなたが私とともにいるようにしてくださった女が木からとって与えたので、食べました」と言い訳しています。

こんな言い訳してもいいわけ?(笑い)食べないともう遊んでやらないと言われたわけじゃなし、自分が欲しかったから食べたくせに、女のせいにするなんて最低ですね、全く。

これじゃまるで国会議員の「秘書が」というのと同じで、責任転嫁ですね。

立男:しかし女もひどいですよ。「蛇が騙したので食べてしまいました」ですからね。自分が欲しくてたまらなくなったから食べたのに、蛇のせいにするなんて可愛くないですよね。

正直に「あまり美味しそうだったし、それに私って馬鹿なことばかりやってるでしょう、少しは賢くなりたかったから、とても我慢が出来なくなって食べてしまいました。ごめんなさい、これからは神様の言いつけは守ります。」とでも言って謝ればよかったのに。

やすい:たしかに二人とも主体性の主の字もないね。それで蛇に対して「呪われるもの」とされ、生涯這い回って塵を喰らうものにされたわけです。

命子:ということは蛇はもともとああいう姿じゃなくて四足動物だったということですね。

やすい:女に対して「お前ははらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」と宣告しました。

命子:ほらね、女がお産で苦しむのは、自分の罪のせいだということにしているのです。まるで男には責任がないみたいでしょう。

男の女に対する支配も罪の報いであり、神の定めだということになっています。こういう話をでっちあげて男の女支配を聖化しています。これでは女の言葉に従った行動すれば、男は駄目になると言っているようなものです。

やすい:そしてアダムに「お前ゆえに土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生え出でさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。

お前がそこから取られた土に塵にすぎないお前は塵に返る。」

立男:ということは罪を犯していなければ、土はどんどん喜んで命の糧を生み出すので、なにも労働しなくても食糧は豊富にあったわけですね。

罪を犯してしまったので、土は食べられない茨やあざみしか生えさせてくれないわけです。そこで朝から晩まで働き詰に働いて、一生休む暇なく働いてやっと生きていける状態になるということですね。

そして罪がなければ、存在しなかった死が訪れ、土に返ってしまうとしたわけです。

やすい:アダムの罪のために土が呪われて、雑草しか生えなくなったということですが、逆に言えば、罪がなければ土とアダムは命が通い合って、命の糧が生み出せるということです。

これは神が土やアダムの生命活動を神格化した命の神というべきものだったことを意味しています。大いなる生命が神で、神の命令に背き、疎遠になるとアダムと土の生命のつながりも衰えて、稔りが少なくなってしまうのです。

命子:その結果、労働は苦役になってしまいます。しかも死ぬまで働き詰に働いてやっと生きていけるぐらいですから、これは終身懲役刑のようなものですね。たかが木の実一個食べただけで、ひどすぎませんか。

立男:善悪を知り、賢くなったのですから、今までのようなエデンの園での死にそうなぐらいの退屈で怠惰な生活から脱却して、自分の力で荒野に立ち向かって、生き抜くべきなのです。

 エデンの園はいわば子宮だったわけで、そこから出てはじめて本当の人生、本当の歴史がはじまるのです。死に物狂いで働いて、生き抜いてこそ、生きる喜びや意味を見出せるということです。

やすい:人間の本質が労働だという場合、労働を神から背いた罰として労役のように否定的にとらえがちです。

 たしかに「創世記」はそういう記述になっていますからね。しかし神は人間を楽園から追放して、自分の力で自然に立ち向かい、自然と格闘させ、人間が自分の力を発揮して、自分の労働で生きる喜び、自己実現する喜びを与えてくださったということで、これも神の愛なのです。

命子:そのうえ、神は「お前は塵だから、塵に返る」と死まで与えます。厳しい労働で疲れ果て。年老いて死んでいくだけというのは悲惨ではないですか。

やすい:パスカルは悲惨だと感じました。

 しかし罪によって死が与えられたのなら、人類の罪を贖えば、死を克服できるという発想も生まれます。ユダヤ教はトーラー(律法)の成就によって罪は贖われると考えました。しかしトーラーは相矛盾したところがあって、トーラーを成就するのは困難なのです。そこでキリスト教は、神の子であるイエスが人類の罪を自らの贖罪の十字架で帳消しに出来るという信仰を作り出したのです。

立男:宗教は死んでも、あの世にいけるとか、来世があるとかを説くものだと思っていましたが、「創世記」ではあっさり「塵だから塵に返る」となっていますね。

 これは土に返ってまた生まれてくるみたいな輪廻転生を前提にしているのですか。それとも人間存在の有限性をはっきりさせているのですか。

やすい:ユダヤ教徒の中でも祭司階級であったサドカイ派は輪廻転生の立場でした。

 ですから土はアルケーであり、生命の循環を説いていたわけです。

 しかし『バイブル』は超越神論の色彩が強いので、そういうコスモス全体が大いなる生命の循環だという自然信仰とは異質な面が強いのです。

 ですから『旧約聖書』ではあの世や来世の信仰は明示されていません。死んだら塵に返るわけです。律法を成就しますとイスラエルの栄光は約束されていますが、個人の復活は約束されていません。

 ただ律法学者のファリサイ派などは律法を守れば、死後神の国に入れてもらえるという信仰をもっていたようです。

命子:罪の結果としてであれ、死を人間の定めとして規定しているわけですから、死への存在としての人間論が含まれていることになりますね。

やすい:ただしまだエデンの園から追放される失楽園の段階では、死は実感されていません。だれも死んでいないのですから。死が現実化するのは、子供ができて、兄カインが弟アベルを殺してからです。
                 (5)

      直向に時は流れぬ罪を得て追われし日より終りの日まで

立男:そう言えば、ユダヤ・キリスト教などのヘブライズムの時間は、楽園追放から最後の審判までの直線的な時間であるという話をうかがったことがあります。それはヘレニズムの時間の流れが循環的なのとよく比較されますね。

やすい:ヘレニズムは自然の季節の変化があり、毎年循環していますね、それに天体の動きも周期的です。人間の歴史も周期的に大洪水が起って、また一からやり直しというように循環するという捉え方がありました。

それに対してユダヤ教・キリスト教は楽園では時間がなく、楽園追放から最後の審判まで真っ直ぐに歴史が流れると捉えられていたようですね。

これは人間というのは性悪なもので、トーラー(律法)を与えても守れないし、預言者やメシアを遣わしても悔い改めたり、回心したりするのはごく少数なのです。

ところが神の愛は全ての人々に分け隔てないものですから、悪いことしていた人が必ずしも罰せられないし、義を貫いた人が恵まれるわけではありません。

これでは神の正義はどこにあるのだと民衆の不満が起ります。それでノアの大洪水やソドムとゴモラの炎上などの審判がありますが、最終的には、歴史の終りに死んだ人も含めて全ての人々に対する審判が行われ、改めて楽園か地獄かに分けられるわけです。

命子:死んでいる人は死んだまま審判されるのですか?

立男:そりゃあ当然全員復活させられて、そのうえで審判されます。そして楽園も地獄も時間はなく未来永劫ですよね。

やすい:その点は『バイブル』では明確ではないのです。『クルアーン』はそこをはっきり打ち出したので、教義が明確なのです。

命子:ヘブライズムは審判に向かって罪深い人間が突き進んでいるようで、宿命論的な大変暗い印象がありますね。

やすい:そうですね。最後は神に裁いてもらって不信心な者、悔い改めない者を地獄に落として欲しがっているわけです。

それでは嫉みや怨みから自由だとはいえません。そういう心は実は地獄の住人なわけです。

それで現実の生活は神の愛を実践できません。だからイエスは「汝の敵を愛し、汝を迫害する者の為に祈れ」と教えたのです。

愛の実践に生きていれば、心は満たされ、心の中に神の国は到来します。そこでは過去を悔やんだり、未来を不安がることもなく、時は永遠の今なのです。

 このようにヘブライズムの直線的な時間を愛の実践で乗り越えることこそが、永遠の生命の実感なのです。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

人間論および人間学 更新情報

人間論および人間学のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。