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人間論および人間学コミュの器官としてのメディア

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  これも十年ほど前に書いたものではあるが今日的な意義は衰えていないので掲載させていただく。

          器官としてのメディア
                              

         組織体フェティシズム論

川口:やすいさんは「器官としてのメディア」を論じるそうですが、「器官」というのは「機関」の誤りではないのですか?

やすい:社会システム全体を一つの身体のごとく有機的な全体として捉えますと、メディアはその「器官」だということになります。

川口:社会システム全体というのは抽象的ですね?個々の社会集団、例えば「家族」「会社」「地域社会」「国家」「人類社会」など様々なレベルで社会システムが機能していると思いますが、どれも生きた全体として有機的に結合しているというのですか?

 それじゃあ、やすいさんが「グラムシのフェティシズム論」で展開された「組織体フェティシズム」ではないですか?

やすい:大なり小なり社会集団は、生きた全体として機能していると思います。

 ただ組織体によっては名前と実態のギャップがひどくて、とても大学や労働組合と呼べない実態に陥ってる組織でも、「○○大学」「△△労働組合」という名前を付けていれば、それだけで大学や労働組合だと思い込んでありがたがっている態度が、組織体フェティシズムだということです。

 たとえそうしたインチキな組織でも、それなりの組織としての活動実態があり、その構成員の生活の再生産がなされていたりしますと、やはり有機的な全体として存在しているといえるでしょう。

コメント(8)

        
            有機体としての国家

   比喩なりや国家は生きたジャイアント人間観の革命ならずや

川口:有機的な全体として存在するとは、その組織が死んでいないで、生物のように生きているということなんですか?

やすい:ええそうです。この発想は、ホッブズ『リヴァイアサン』からきています。

 ホッブズによりますと、リヴァイアサンはコモンウェルス(国家)を指しているのですが、それは巨大で強大な人工機械人間なんです。

 神経中枢にあたる主権があって、それが国家の最高意志を決定します。

 そしてその指令で行政機構が働き、人民の活動を支配し、規制して、物資と貨幣を流通させ、その中から国家の維持に必要な分を徴収するわけです。

 人民は国家の活動に従う限りで、平和な暮らしを保証されるという仕組みです。

 人民はリヴァイアサンの細胞であり、行政機構は神経、道路は血管だと考えられます。

川口:たしかに見事な比喩ですが、それは首のすげ替えをしたら国家は死んじゃうぞという脅しを含んでいて、絶対主義的専制政治を擁護するための論理として語っているわけでしょう。

やすい:それはありますが、単なる方便じゃないんです。

 ホッブズを民主主義思想家として礼讃するホッブズファンがいますが、そういう人達は、独立した諸個人が共同して平和に生きるためにコモンウェルスを樹立したという、個人主義的国家成立論に市民的な自由主義を見いだして勝手に共感しているだけなんです。

 ホッブズの真の狙いは国家成立後にあるのです。そうして自由な意志に基づいてできた国家にしても、征服によってできた国家と全く同様に、国家はリヴァイアサンだということなんです。

 つまり強大なジャイアントであって、人民は主権者と国家意志に関して永久の代理契約を結んでいて、一切異議を唱えず、主権者の意志を自分たちの意志として受入れなければならないんだと説明しているんです。

 そうでないと国家は生き物だから死んじゃって、元の自然状態つまり、「万人の万人に対する戦争状態」に逆戻りだぞと脅しています。これも単なる脅しじゃなくて、本気でそう考えているんです。

川口:そういう国家を生き物、人工のジャイアントとして捉えることで、近代国家が人民から自立して人民を支配する姿をリアルに捉える効果は認めてもいいのですが、比喩ではなくて本気だとか、やすいさんまで同じように国家を生き物あるいはジャイアントと捉えるのは、大人げないような気がしますが。
             ポリス的人間論

やすい:それは人間観の問題です。

 既成の人間観では人間をどうしても身体的な諸個人の枠で捉える限界があった。

 マルクスにしたところで「人間の本質は、現実的には、社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」としています。

 その場合マルクスの頭の中に思い浮かべている人間というのは、現実的な諸個人なんです。

 それぞれの人々はいろんな社会関係を取り結んでいて、その網の目の結束点だということです。言い換えれば、様々な社会関係をアンサンブル(重ね着)しているのが人間だということです。

川口:個人から出発するブルジョワ個人主義的人間理解に対置して、アリストテレス的に全体から捉える「ポリス的人間」論の一変種として、「社会的諸関係のアンサンブル(総和)」を人間として捉えているんじゃないんですか。

やすい:アリストテレスは正義論の中で展開しています。つまり市民が正義として認められるのはどういう場合かということです。

 それでアリストテレスは全体あっての部分、ポリスあっての市民だから、市民の正義は、まず一般的にはポリスの法を遵守することだとしたのです。

 そのうえで、特殊的には、ポリスに対する貢献に比例して名誉や財産が与えられること、それからそれが損なわれた場合は法に基づいて裁判を通して、調整されることだとしているわけです。

 ですから、人間はポリス的存在だと言っているけれど、端的にポリスが人間だと言っているわけではないわけです。

川口:そりゃ当たり前ですよ。(笑い)人間が集まってポリスを造るんであって、人間がポリスに成るわけじゃありません。ポリスは人間を統合する組織であって、決して人間それ自体じゃないでしょう。
      国家身体の器官としてのメディア

やすい:だからホッブズは、そうした当たり前の人間観念を突破したんですよ。

 それでコモンウェルスはリヴァイアサンだというわけです。ホッブズの本領はそこにあるんで、決して民主主義や自由主義の先駆者たるところにあるわけじゃないんです。

 ところがこれを見事な比喩だとしか評価しない人が多いですね。でもホッブズの成果を踏まえて、スペンサーは国家有機体説をイェリネックは国家法人説を展開しています。

川口:なるほどスペンサーの国家有機体説やイェリネックの国家法人説が、国家を生き物や法的人格と捉える場合は、あながち比喩とは言えませんね。でも人間と法人とは全く同一とは言えないでしょう。

やすい:それは定義の問題です。

 川口さんが「人間」と言われる時に、身体的な個人をイメージされておられるから、人間と法人は別だと言うことになるのです。

 人間を意思決定器官を持ち、自らの自己保存の為に活動する存在ということにすれば、人間の中に「社会集団」や「個人」が含まれることになるでしょう。

川口:そのように定義することの意義がどこにあるのかが分かりませんね。

やすい:それで本題と関係するのですが、メディアを国家なり組織体なり個人なりの器官として捉えることができるのです。

川口:国家を身体として捉えれば、情報は国家の神経であるメディアによって身体の各部位にいる人民に伝えられるわけですから当然ですね。

 その場合、国家というものは意志決定機関である主権からの意志を伝えるわけですから、国家的なメディアだけが国家の神経になり、民間のメディアは国家身体のメディアに含まれないことになりませんか。

やすい:ホッブズの国家では言論・表現の自由などに関して、主権者がいくらでも制限を加えてもいいことになっています。

 つまり人民は主権者の意志の本人は自分であることを無条件に認める契約を結んでいることになっているのです。

川口:主権者の意志の本人は人民自身だということは、表面的な君主主権の底に人民主権が存在するという主張じゃないのですか。

やすい:そういう荒唐無稽な解釈をする人がホッブズ研究の大家にもいるようです。

 ホッブズによれば、人民は国家意志の決定権を契約で、永久に主権者に代理してもらっているので、君主の意志決定過程に介入したり、意志決定の内容にクレームをつけることを権利としては一切認められていないのです。

 ただし国家は人民を細胞にする有機的全体ですから、人民が生産・流通・消費などの経済的活動やその他の文化的活動を行う為に必要な情報を伝達する民間のメディアも、国家身体の一部に含まれていると言えます。

 とはいえ民間メディアの活動はあくまで主権者の許容する範囲に制限されています。
         大衆社会とマス・メディア

川口:リベラル・デモクラシーを前提とした社会にあって、民間のマス・メディアはどういう意味で器官なんですか。

やすい:リベラル・デモクラシーの政治体制、それも議会制民主主義の下では、形式上では、国家意志は議会の議決によって決まっていることになっています。

しかしそれは手続き的なことでして、実際には国会が独自のメディアで情報を集めて審議しているわけではありませんから、マス・メディアや行政の中のメディアによって流されている情報にもとづいているわけです。

それに法案の作成や政策の立案は行政がほとんど担当していますから、行政府の中で国家の意志が実質的には形成されています。

行政機構それ自体が巨大な情報伝達と操作のメディアとして機能していますから、国家身体論を適用すれば、国家身体の「器官としてのメディア」であるわけです。

川口:しかしそういう議論は、単に定義だけの問題で、あまり実質的には意味がないような気がします。

それにマス・メディアはマスコミ権力という面からは、国家権力を構成していて、しかもそれ自体、独立した組織体としても存在していますから、国家身体の器官という捉え方では不十分じゃないでしょうか。

やすい:メディアが国家身体の器官だというのは、もちろんそれだけで十分なメディア論ではあり得ません。あくまでもメディアの一面です。

しかしメディアの国家に対する関係を論じるにあたっては、重要な視点です。

マス・メディアが権力の一翼を構成しながら、それ自身独立した組織体として一個のジャイアントでもあるということは、マス・メディアの性格分析に欠かせません。

それにマス・メディアを論じる際には、国家身体が大衆社会としての様相を呈していることが前提になります。

川口:大衆社会が国家身体の様相というよりも、大衆社会の一つの政治的調整機関として国家があると見た方が適切じゃないでしょうか。

大衆社会が身体であって、国家はむしろその器官でしかないと言えませんか。

マス・メディアも国家身体の器官というよりも、大衆社会という身体の器官として捉えた方が適切でしょう。

やすい:国家に関しては、社会と機関(および道具)という二通りの捉え方があります。

マルクスにも市民社会としての国家論と階級支配の道具としての国家論の展開があるわけで、この国家の二面性を踏まえた議論が必要なわけです。

社会としての国家は、社会全体が共同利害を守り、福祉機能を果たす事を指します。道具としての国家はそうした機能が国家機関を中心にする一部の組織に集中するところから、国家が一部の組織体の機能と混同された結果生まれた見解です。

国民国家が近代の経済単位として機能している限り、国家社会はそのまま大衆社会と重なっていますが、経済・文化のグローバルな融合過程が進展していきますと、大衆社会は国民国家の枠を越えてボーダレスな発展をみせています。

こうして国民国家の近代は終焉しつつあるわけで、二十一世紀は文明圏ごとに国民国家を再編したり、世界国家的な組織化が進展せざるを得ない時代になっていきます。

川口:そういうように認識するなら、国家をジャイアントみたいに生きた人間と捉えることはできないでしょう。だって、生きた人間なら国家の再編なんてできない相談ですから。

やすい:それは個人だけを人間と見るからそう思われるのです。組織体としての人間は、解体や再編が可能なんです。
        メディアの身体化問題

川口:では「メディアと身体」とやすいさんの「器官としてのメディア」論の関わりについて説明してください。

やすい:まずメディア自体が身体の器官だという指摘をしたわけです。それは国家身体の器官という意味ででした。

そしてメディア自体がマス・メディアにしても一個の組織体として身体化しているわけです。

まさしく「電脳メディア」は組織体としての身体の中枢神経系としての器官に成っているわけです。たとえばローソンチェーンが夥しい繁殖を遂げているのも、その中枢神経系として「電脳メディア」が機能しているからです。

レジにおける端末情報が瞬時にして「電脳メディア」に集められ、品ぞろえメニューが細かく決められるというシステムに支えられています。組織が巨大化し、その情報量が膨大になりますと、どうしても瞬時に情報を処理して、すばやく変化に対応できなければ、組織はたちまち機能麻痺に陥るわけです。

川口:「メディアと身体」という問題意識でいくと、電脳メディアがそれを使用する人間の身体化してしまって、人間の感性や思考回路が歪みを被ってるんじゃないか、あるいはこれからの時代はメディアを身体化してしまった人間を論じなければならないんじゃないかという事なんでしょう。

やすい:全くその通りです。ただし生意気なようですが、私に言わせれば、電脳メディア以前からメディアは元々人間であり、身体であり、器官なんです。

個人としての人間しか見えてないから、電脳メディアが出現して個人の身体機能が直接電脳メディアに接続されて反応するようになると、メディアの身体化だと慌てちゃうことになるんです。

川口:宮崎勤の幼女連続殺人や神戸の酒鬼薔薇聖斗事件などでは、ロリコンビデオやホラービデオなどのお宅的な猟奇趣味が、ビデオの世界と現実の区別がつかなくなって引き起こしたと言われます。電脳メディアが発達して、電脳メディアが加工し、創造する情報や、電脳メディアが造りだす疑似的な現実に取り囲まれ、人間身体は電脳メディアによって与えられる疑似環境に適応しようとすることになります。

やすい:電脳メディア社会というのは、電子通信機器やコンピュータによる情報の収集・加工・創造を前提にしています。

そういう情報生産過程は生きている社会システムの神経中枢として機能しているわけです。諸個人の感性や思考の回路もそれに接続してはじめて社会的な思考に参加できるのです。

社会システム全体に果たす電脳メディアによる情報処理機能の比重が大きくなりますと、当然個人の身体に内蔵された思考回路も電子メディアによって補填されますから、デジタル思考が優勢になっていきます。

感性的にも電脳メディアの音声や電子映像に聴覚や視覚が慣らされることになります。

川口:一九六〇年代からベンチャーズ等によるエレキ・ギターのサウンドが軽音楽で盛んに使用されました。今や電脳音楽の時代とも言われています。

やすい:近代になって工業の発達と共に金属音が音楽に採用されます。ピアノなどはその典型ですね。現代音楽は不協和音に満ちた都市のノイズを盛んに用いて、神経を刺激します。

苛立つ筈のそうしたノイズに慣らされすぎて、いつしかノイズがなくては神経が持たないようになるのです。

人間の個人的身体は変わらなくても、その感性は個人的身体だけに規定されていないのです。社会システムという生きた全体に組み込まれて生きている以上、思考ばかりでなく、感性も変質していくわけです。

田舎の生活に慣れた人が都会での便利な生活がかえって無味乾燥に思えるように、都会の生活に慣れた人は、時には憧れていた筈の田舎の生活にも、すぐに耐えられなくなるものです。

川口:例えば大和の古寺を巡って、仏像の慈悲に接して心洗われるというような感性が、私たちの若い頃にはまだあったと思いますが、この頃の若い世代はどうでしょう。

でも一方で自然環境の問題が深刻になっていますから、かえって自然美への憧れは強くなっているかもしれませんね。
                   器官としての宗教メディア

やすい:この前、秋篠寺に三十年ぶりに行って来ました。近鉄奈良線の西大寺駅から歩くのですが、のどかな田園地帯だった筈がびっしり住宅で埋まっています。

 秋篠寺の境内だけが、別天地になっているんです。その中で伎芸天は昔と同じですっかり圧倒されたのですが、そういう都会の中の異次元空間になってしまっているわけです。

 これでは若い世代に、あの田園の中の古道を通っての古寺探訪の末の伎芸天との出会い体験は、とても継承できません。

川口:しかし古寺探訪という発想自体が大正ロマンティズムの産物みたいなところがあります。

 それは戦国時代の荒れ寺とはまた違うし、ましてや奈良時代の栄えていた当時の寺院とは全く違います。それは奈良時代には、エキゾティックな時代の最先端の信仰でしたし、仏像や寺院も極彩色で、落ちついた静かな佇まいではなかったでしょうから。伎芸天のスマイルも古寺巡礼期とは全く違った意味を持っていたでしょう。

やすい:ええ、その通りです。

 仏像も、元々は信仰のエッセンスを直観の形式で伝える最新のメディアとして機能してたわけです。

 巨大寺院や仏像、難解な教義体系などは全体として当時の古代律令国家の支配装置を構成していたわけで、身体化したメディアとして機能していたのです。

 つまり当時の人々の感性に大きな歪みを与えていたわけです。具体的な内容は全く違っても、「メディアの身体化」それ自体は文化の永遠の問題点なんです。

川口:古代においては宗教メディアが神秘性や、呪術性で感性を歪めていたのが、現代の電子・電脳メディアは情報の大量収集・加工・大量生産によって生み出される疑似現実で感性を歪めているということですね。

 ところで古代の宗教メディアに関しては、身体化が問われなかったのに、現代の電子・電脳メディアの身体化が改めて問われるというのはどうしてなんですか。

やすい:だから古代律令国家では国家身体と仏教メディアは一体化していて、租・調・傭の収奪地獄である国家が、天皇自らが「三宝の奴」を名乗って、仏教の柔肌で包まれた極楽でもあるという装いを凝らしていたわけです。

 それは国家身体のレベルであって、個人のレベルではありませんでした。

 僧侶だけは個人身体レベルでも仏教メディアを身体化していたわけです。

 現代では諸個人の衣食住や文化生活のレベルで電子・電脳メディアの役割が決定的になってきています。最も象徴的なのがほとんど個人身体器官化している携帯電話ですね。

 これがユースカルチャーにもなっていて、若者から携帯電話やPHSを引いたら若者ではなくなります。この傾向は全員が携帯電話を持つまでに発展するでしょう。
             「メディアの身体化」の是非

川口:パソコンの普及もインターネットの発展によってますます加速するとされていますね。

 世界中から情報を受信し、世界中に情報をパーソナルにも発信できるようになっているわけですから、それを利用してビジネスチャンスが拡大したり、文化的な交流が進展することになります。

やすい:ええ、ですから二十一世紀の新しい人権に「世界中から情報を受信し、世界中に情報を発信する権利」が掲げられるだろうと、私は常々授業で吹聴しているのです。

 これは個人レベルの活動として電子メディアが不可欠になるということです。

 パソコンが巨大なインターネットというグローバルな神経系に接続することによって、世界に届く目や耳をパーソナルに持つことが出来るわけです。

 これまでも国際電話などでも一部可能であったのですが、コスト面で飛躍的に便利になりましたし、不特定多数の人と交流できるようにもなってきているわけです。

 やがてこれがビジネス面や文化面で圧倒的に使われるようになりますと、パソコンを差し引いた個人は社会的に生存できなくなりますので、パソコンを所有し、自由に利用できるという権利は、生存権にも含まれることになりかねません。

 その段階ではパソコンという電子・電脳メディアは、完全に個人身体の器官化しているといえるでしょう。(そしてこの言葉は現実化しました。−やすい追記)

川口:「道具は手の延長である」というエンゲルス等の表現がありますが、「手の延長」と「手」は違うでしょう。

 やすいさんの議論だと身体と道具を混同しているような気がしますが。

 それに道具が器官であり、メディアが身体であり、器官であることは当然ということになって、町口哲生さん達のように「メディアの身体化」を批判する論陣には加われないのじゃないですか。

やすい:もし町口さん達が「メディアの身体化」によって引き起こされる弊害に警鐘を鳴らすというのではなくて、「メディアの身体化」それ自体がそもそもいけないことだというように議論を建てているのでしたら、それは文明性悪説だと言わざるを得ません。

 そもそも道具を使う事自体が、人間の生身の身体能力の停滞を引き起こす元凶なわけです。

 しかし人は生身では、シマウマみたいに速くは走れないし、鳥のように空は飛べないけれども、道具を使ってどんな獣よりも速く走れますし、どんな鳥よりも遠く、高く天かけることができるのです。

 そのお陰で、非常に美しい脚や手を持っているわけです。道具を使うことで身体能力を生身では停滞させたけれども、それは弊害とも言えますが、弊害とばかりは言えません。

 車社会になって運動不足になると映画『宇宙戦争』の火星人のように蛸みたいなるのをおそれて、適当に運動する事もできるわけです。

 でも乗用車が身体機能を阻害するということは事実であり、その弊害を指摘することは、サバイバルにとって絶対不可欠なわけです。

 ということは乗用車が身体化すること自体は、事実としては否定すべきではないわけです。
                       電脳メディアと人間観の転換

川口:やすいさんの場合、乗用車が身体化するという場合は比喩じゃないでしょう。比喩としてなら納得できますが、本気で言われると反発を感じます。

だってやはり自分のアイデンティティは生身の身体に感じますが、自分の乗用車は、あくまで自分の所有物であって、自分自身じゃありませんもの。

というより、もし自分の乗用車を自分の身体と同様に執着してしまうと、それはクルマ・フェティシストであり、一種の病気です。

やすい:この問題は共著『フェティシズム論のブティック』(論創社刊)で石塚正英さんとかなり議論しています。

 電子・電脳メディアでも乗用車でも生活レベルで不可欠になれば、それを抜きにサバイバルできないので、身体化と言ってもよいでしょう。

 もちろん電脳メディアを使うとかえって弊害の方が大きくなって、危機に陥るとなれば、電脳メディアを切ることができなければなりません。

 乗用車が改善出来ず、環境破壊が深刻化する一方なら、乗用車を捨てる必要もあるでしょう。

 こうして今まで不可欠なものとして自己の身体化したものでも、それがかえって自己の生命に致命的となれば、切除して、他の代替物に転換する勇気をもつべきです。これが石塚さんによれば、ポジティヴ・フェティシズムです。

川口:それじゃあ、あえて切れるものを身体として捉えるのはどうしてですか。

やすい:個人の身体と言う場合、もちろん狭義には生身の身体が身体の範囲です。

 でも例えば、貝殻は生身の貝の身体ではないけれど、貝殻も含めて貝と見なされています。排出したカルシウム分で造られた住処でも非有機的な身体だということです。

 蓑虫の蓑、ビーバーのビーバー・ダムと水中家屋、狼と獣道などいろんなレベルで身体性を帯びた事物が語られるわけです。

川口:そうやって拡大していくと、身体と環境との区別がつかなくなりませんか。

やすい:生身の身体を最も狭義の身体としますと、種の環境系は最も広義の身体ということになります。

 生身の身体を含めた環境系を構成する諸事物は、相互に限定し合って、関係して、全体としてその種を形成し、再生産しているわけです。

川口:でもその中で主体的に意識しているのは生身の身体だけですから、他の事物とは区別されるべきでしょう。

やすい:意識の内容を限定するのは必ずしも生身の身体に限りません。生活にとって不可欠な諸事物は、生体の意識に自己を映して、自己を再生産せざるを得ないように働きかけています。

 この事情は人間身体の意識でも同様です。それに人間社会の意識の場合は、言語に基づく知識の客観化、事物化によって、記憶や認識内容を身体の外に溜め込んだり、情報の収集・加工・処理・生産を機械や組織体に任せたりできるわけです。

川口:ということは、人間身体の特権的な地位を否定し、人間身体を道具や機械と同レベルに引下げて人権を根本的に否定することに帰結しませんか。

やすい:これまでに生産されたどんな道具や機械や電子頭脳よりも、生身の身体は生命進化の数十億年の歩みによって洗練された、高度なメカニズムを持っており、頭脳も潜在能力まで含めますと、イマジネーションの能力、感受性や情愛の能力において驚嘆すべき創造力と尊厳性を備えた存在です。

 とはいえ、それらは社会的諸事物の発展によって守られ支えられているわけであり、社会的諸事物との正しい関係を認識すべきです。

 電子・電脳メディアが身体化していることは事実であって、そのことによって生じる弊害は個々に解決しなければなりません。

 また逆に諸個人のコントロールの及ばないところで電子・電脳メディアが機能し、それによって構築されている社会システムによって、諸個人の自由な活動が著しく制約されていたりすることは、きちんと認識して、その克服のための取り組みをすべきなのです。

 その際、私が言いたいのは、身体のみを人間として捉える狭い了見ではもう駄目で、電脳メディアみたいな計算能力では個人の頭脳の数億倍の能力をもっているような機械が現れたのだから、これらや組織体を含めて人間カテゴリーを組み替え、人間の器官としてメディアを捉えなおすべきじゃないかと提言しているのです。

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