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人間論および人間学コミュの人間論の新地平 

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                人間論の新地平       
         身体論とフェティシズム論を超えて・・
                                やすい ゆたか

            一、『歴史の危機』の人間論

河口・・今日は『歴史の危機・歴史終焉論を超えて・』(三一書房)の著者やすいゆたかさんに、読者として人間論についての見解を質そうと考えまして、お伺いしたのですが。

やすい・・それはわざわざ有り難うございます。全く著者冥利につきますね。

河口・・やすいさんは『人間観の転換・マルクス物神性論批判・』を青弓社から出されており、『月刊状況と主体』に『人間観の新構想』を連載されたそうですが、どうも手に入らないので『歴史の危機』を読んでの疑問をぶつけてみたいのですが。

やすい・・『人間観の転換』はとっくに絶版になっていますので、入手は困難でしょう。『月刊状況と主体』(谷沢書房)も定期講読販売が主でして、首都圏以外の書店ではなかなか見掛けませんでしょう。その意味で市井の哲学者ならぬ日陰の自称哲学者をやっているわけです。(『資本論の人間観の限界』と改題して「やすいゆたかの部屋」に掲載)

河口・・それにしては『歴史の危機』ではフクヤマやヤスパースを相手に、大上段の大きな議論を展開されていますね。

やすい・・この年齢になれば細かい論証をしても、注目されませんし、かといって自分の歴史理論だけを展開しても大家でないので、素人の大風呂敷と冷笑されてしまいます。

 実際『歴史の危機』の書評で鈴木正さんに「著者の意図は大きい。これを『気宇壮大』とみるか、『大風呂敷』とみるか、これを目ききする読み方もあっていい。」と書かれていますからね。フクヤマやヤスパースを批判的に検証しつつ、持論を展開する形にしたのは「大風呂敷」と言われない為だったのですが。

河口・・今日は書評会ではありませんので、そのことは横において、早速、人間論の問題に入ります。「プロローグ」で、人間は機械や道具をあくまで人間の手段としてしか捉えていないけれど、実際は人間は労働力としては機械や組織の忠実な僕としてしか評価されないというような主旨のことを述べられていますね。

やすい・・確かに、そうです。労働者は機械の一部として、機械の感覚機能や意識機能を補完して、機械の活動を補助している。だから人間の意識は機械の意識として生産機構の中で再生産されているんだと書きました。

河口・・そこがどうも引っ掛かります。労働者は機械の意識を補完するわけでしょう。つまり機械には意識する能力がないわけだ。だから労働者は意識機能を補完する。ところがこの人間の意識を機械の意識だと言い直される。矛盾していませんか。

やすい・・その場合、河口さんは労働者という身体的存在は人間で、機械は人間ではないという前提に立っておられますね。それは既成の人間観では当然なのですが、私は機械というのも人間というカテゴリーで包摂すべきだと考えているんです。

河口・・機械が人間的世界の中で大きな役割を果たしていることは、もちろん認めるのですが、だからといって機械が人間だというのは概念の濫用ではないですか。

 それにたとえ機械を人間カテゴリーに含めていいとしても、やはり意識するのは人間身体であって、機械が意識するわけではないことに変わりはないでしょう。

やすい・・人間カテゴリーには身体的な諸個人しか含めないのは世間の通念というか、言語的な約束ごとに成っています。それを破る議論は、いわば約束を破っているわけで、言語秩序を乱しているとして排斥されます。例えば身体と衣服だと身体を人間、衣服を非人間と見なすわけで、身体も衣服も人間だと言えば、人間観念が成り立たないと思われるわけです。

 ところがホッブズは国家を人工機械人間だと言っていますし、パースは、人間は記号であり、記号は事物の知的性質だと規定しています。

コメント(14)

            二、ネジ・釘人間と人格存在

やすい-もちろん私も日常語の使用においては身体的諸個人を人間と考えています。そしてそれ以外の物を非人間的存在と考えています。

この本や机は人間ではなく、物だということです。しかし本や机、衣服や機械・道具などいわゆる社会的事物は、人間的世界を構成していることによって、それぞれ本や机、衣服や機械・道具であるわけでしょう。

河口-ええ、人間的世界を構成している事物ですね。人間ではなく。つまり人間的世界は身体的諸個人である人間と人間が作り出した社会的事物から構成されているわけです。

ところがやすいさんは人間でない社会的事物まで人間だとされて、人間と事物を混同されるわけです。人間と事物の混同は、人間を事物に貶める混同であって、現代ヒューマニズムが最も反発する考え方なんです。

やすい-現代ヒューマニズムをトータルに超克する人間観の構築が、ですから私の課題なんです。

人間を社会的事物のように扱ったり、社会的事物を人間として捉えたりすることが、何か人間性の冒涜のように考えるのは、人権を擁護し、人間の尊厳を守る上で大切な視点ですが、全面的には正しくないんです。

 人間は社会的事物としての有効性を示すことで市民社会の成員としての資格が与えられるのですし、またそれは社会的事物としてその自己の内容を示す必要があるわけですから。

河口-我々が物化・物件化を批判するのは、人間が機械のネジ・釘のごとく扱われたり、労働力商品として売買され、さんざん搾り取られた挙げ句、何十年も会社のために自分を百パーセント会社人間化して身も心を捧げ尽くしてきたのに、中堅社員まで解雇されてしまうからです。まるで消耗品や旧式機械みたいに使い古され、ぼろ屑の如く捨てられてしまうわけです。

やすい-機械を操作している個人が機械のネジ・釘の如く扱われるのはある意味では当然です。

 ネジ・釘がしっかりしていなければ機械は壊れてしまいます。ネジ・釘を大切にするように身体的個人も大切にするべきなのです。

河口-その論法は揚げ足取りです。ネジ・釘は機械のネジ・釘としてのみ大切にされるのです。ところが人間は単なるネジ・釘には還元できないんです。意識主体であり、人格として存在しています。人格としての尊厳が物扱いにされることで失われてしまうのです。

やすい-労働力は、労働力の再生産を前提にしています。そしてそれは家庭における消費生活や労働力の類的再生産つまり育児と結びついています。ですから労働条件はそれらがきちんと配慮されなければならないわけです。そういうことをきちんと配慮するということは、労働力という事物の特性に配慮するということでしょう。

河口-そのように資本は、労働力をとりかえの効く一つの小型自動機械のように扱うわけで、人格として尊重することがないのです。

 もちろん労働者の気概を引き出す為や、忠誠心を持たす為に様々な心配りをする場合もありますが、それは労働力の物としての有用性を最大限に引き出す為に過ぎません。

 だからこそ我々は人間が人間として尊重される為には新しい自由人の共同体にしなければならないと考えていたのではないのですか。

やすい-河口さんは、労働者は物としての労働力である以前に、人格的存在としての人間だ、この人格的存在としての人間が主体的に社会を構成すべきだと言いたいのでしょう。

河口-将来社会の展望はさておいて、我々は事物としての取扱に抵抗して、人格存在としての人間性を守りたいわけです。

 現代は事物として取り扱われる時代だから、人格としての人間性を主張しても仕方がないということですか。

やすい-いや決してそうではありません。私の主張は、社会的な諸個人も社会的諸事物のひとつであるということです。

 ですから人格も諸個人が社会的諸事物として機能する場面では、事物的に関係せざるを得ないということです。こういいますと人間を意志も情感もない石のごとき存在と捉えているように思われるかもしれませんが、それは事物を近代力学モデルにつられて、物体というのっぺらぼうな存在と見なしているからです。

 事物には様々な自然的事物、社会的事物があるわけでして、その中に生きて生活する現実的諸個人という人格存在も含まれているのです。

 ですから人格的存在が人格として尊重され、扱われるべきことは当然で、経済的関係においても、乱暴に踏みにじられることが多いとはいえ、様々な人格的諸権利は既に認められているわけです。

河口-それならいいのですが、やすいさんは人格も事物である人間の属性だとして、両者を混同されるので、物として扱われて当然だという主張に聞こえるのです。

 人格的存在は他の事物とは端的に区別され、尊重されるべきだという立場に立たれれば、人格を物扱いするなという場合の物は、非人格的存在としての物であると了解される筈でしょう。そうすれば人間だって事物に違いないなんて議論はできないでしょう。
          三、現代ヒューマニズムと唯物論

やすいー私が人間だって事物に違いないというのはわけがあります。

 マルクスは労働力は商品だとしながらも、それを人間を事物と規定することだと反発していますね。本来物でない人間を物化することだと。

 サルトルは、実存主義はヒューマニズムだと言いました。その理由はこうです。

 『存在と無』での「存在」はハイデガーとはずれていて、サルトルでは事物存在です。そして「無」は事物存在でないので無なのです。つまり意識存在を表しています。

 人間は本質として規定される事物ではなく、先ずあらゆる規定から自由な意識だというのです。そして自らの自由な決断によって自分を選択する実存として人間を捉えます。このように事物と意識の対置図式を置いて、その上で意識を選ぶのですから、サルトルは端的に人間は物ではないという立場です。

  エーリッヒ・フロムは、物は本質存在だから完成だが、人間は生成・過程だとします。

 死んだ物を所有すること、つまり「持つこと」は、物に依存し、それだけ自分の生命を喪失することであり、それに対して生命の充実を生きる「あること」こそ人間の本来のありかただと捉えています。

  このように現代ヒューマニズムは事物存在を非主体的で、能動性の無い死物として捉えているのです。それに対して人間存在だけが主体的で、能動的で、活きた存在として捉えられています。そして人間が事物存在に頽落することを「物化」として最も忌嫌っているのです。

 つまり現代ヒューマニズムは「物」を人格や心の対極に固定して捉えるのです。私は、逆に「社会的な物」こそ人格や心が形をとって現れたものであるし、人間身体もそれらの社会的物と切り離されたら、抽象的な単なる新陳代謝する蛋白質の固まりにすぎないことになってしまうと考えるのです。

河口ーそれじゃあ、やすいさんは伊藤仁齊のように物を活物として捉える立場ですか。朱子学では理と気を対置しているので、理つまり論理(ロゴス)を差し引いた気自体は死物になってしまうと仁齊は朱子学を批判したのでしょう。

やすいーいい例えですね。現代ヒューマニズムは実践哲学になっていますから、どうしても物それ自体を活きた主体として捉え切れません。主体性を独占する人間の側が理を物に与えるかっこうになってしまうんです。

 そうすると物質=気は単なるマテリーでしかなくて、自然それ自体はカオスだと主張されます。そこから帰結するのが、自然の客観的な法則性や認識の反映性の全面否定です。

 つまり認識をあくまで実践主体の主観的あるいは共同主観的な営みだと決めつけて、だから客観的な真理だと主張すること自体を原理的に誤謬だと見なすことになります。

河口ーやすいさんはスターリン主義的な反映論に未だに立って、自らの相対的でしか有り得ない認識を客観的真理だと独善的に主張されているのですか。

やすいーここは党派的な議論の場じゃないですから、レッテル貼り的な言い方はやめしましょう。

 例えあの恐ろしいスターリンであろうが、麻原であろうが、もし言ってる内容が正しければ問題はないのです。スターリンや麻原と同じことを主張しても、それだけで誤りだと決めつけるなら、哲学や科学は発達しません。私が認識の反映性を完全には否定しないのは、認識を主観の働きにだけ還元することはできないと考えるからです。

  確かに認識は相対的なものであり、純粋に客観的な真理が主観に簡単に映し出せるわけではありません。でも逆に客観的な世界について物事の諸性質や運動や変化を映像や法則の形に反映しないでも、この世界の中で生きていけると考えるのもおかしな話でしょう。

河口ーしかし客観的世界というのも、実は共同主観的に形成されたものに過ぎないんではないですか。我々が客観的だと考えている世界自体が、我々の五感によって構成された意識界の現象に過ぎません。

 ロックは「あらゆる観念は経験から」としましたし、バークリはすべてを意識に還元しました。マッハは感覚に還元したんでしょう。

  これらに対してレーニンは『唯物論と経験批判論』で客観主義的な弁証法的唯物論を対置したわけだけれど、最近は唯物論者の間でも、自然弁証法を唱えたり、反映論を唱えるのは独断的で独善的な党派主義として評判が悪いんでしょう。

  むしろ世界をカオス的なマテリーと捉えて、それぞれが相対的な体験に基づいて、相対的な真理を唱えます。認識対象がカオス的なマテリーなので、相対的真理が並立できると考えます。そこが世界を根源的にマテリーと捉えるマテリアリスムス(唯物論)の良さだとされているんじゃないですか。

やすいー実際そういう主張がかなり幅を効かせてきたようですね。それでもう決着がついたと思い込んでいる御仁も多いようです。でもね哲学的論争というものは、唯物論か観念論かの論争だけでなく、一般にきっちり決着がついた論争なんて一つもありません。はやりすたりがあり、勢いづいているのが勝ったように思い込んでいるだけです。

河口ーそれこそ真理が相対的でしか有り得ない証じゃないですか。『歴史の危機』でもヤスパースの「全体知」を批判する議論に対して、「全体知」を擁護する立場を対置されていますね。

  確かに総合的全般的認識が必要だとされるところは共鳴しますが、客観的な真理が認識可能で、客観的な真理だと主張すべきだとされているところはボリシェビキ的な党派主義、いわゆるレーニン的段階の立場ではないですか。

やすいー河口さんの批判の仕方こそが党派的なんです。

  確かにボリシェビキもレーニンも客観的真理を主張したかもしれない。だがそれだけで誤っているわけではないでしょう。

  自己の主張する真理を客観的な真理だと言うだけで終わらず、それを民主主義のルールによらずに暴力的に押しつけようとしたことが誤っているのです。真理だと確信すれば、後は手段を選ばず、その実現に邁進するというやり方が一般にラジカリズムの欠陥だったわけです。

   
四、現象学と客観的真理

河口ー自分達だけが正しく、他の連中が間違っていると思ったら、何としても正義を貫きたいと思って、他人の意見を無視したり、人権を軽んじたりしてしまうものですよ。そしてそうすることが結局みんなの幸福に繋がると思ってしまうのです。その極端な例がオウム真理教で、邪魔になれば殺しておいて、それをポアしてあげたと相手に対する慈悲だと強弁する。

やすいーそうだからこそ民主主義のルールを厳格に守らないといけないのです。ところでたとえばここにりんごがありますね。それを私は「ここにりんごがある。」ということを客観的真理として主張することは原理的に誤りですか。

河口ーそれは実はあなたがそう思われただけです。ですから正しくは「ここにりんごが見える。」と主張すべきなのです。実際わたしも「ここにりんごが見える。」ので二人の意見が一致して、それで「ここにりんごがある。」という推論が正しいとの確信が強まります。しかしそれも二人が確信しているに過ぎないわけで、共同主観的な妥当性なのです。

やすいー何もそういう現象学的な議論が間違っていると言っているわけではないんです。現象学では「ここにりんごが見える。」のは、りんごが客観的に実在するからどうかという問題はエポケー(判断停止)しておくんですね。

その上で実際に意識にりんごが現象しているという事態そのものに即して議論するわけです。でも実際生活する上で我々は普通見えていればあると考えて、生活していけるわけで、いちいち疑っていたらノイローゼになってしまう。

だから自然的態度としては客観的真理と見なしていいわけです。フッサールも厳密な学としては自然的態度では駄目だと言っているだけです。

河口ーでもそれでは客観的真理を哲学的に弁護したことにならないでしょう。

やすいーもちろんそうです。わたしが言いたいのは、世界観は推論だということです。現象の根拠に客観的事物を置くか、神を置くか、実践概念に還元するかは推論の違いです。

人生全体がバーチャル・リアリティだという説明もあるいは可能かもしれないでしょう。その意味では客観的事物があるという考えは、完全には実証できないわけです。

でも我々は生活上の経験や実験・観察の結果、その他さまざまなデータから客観的な事物が存在していること、従って客観的真理があることを体験的にも推論的にも確信しています。

だから自分たちが帰納的・演繹的・弁証法的に考えて得た認識を、誤謬の可能性を認めながらも、客観的な対象と合致すると主張してもいいわけです。

河口ーその客観的なデータ自体が、意識現象でしかないという問題が根本的にあるでしょう。我々は客観的事物というものを主観的な感覚によって構成する以上、主観的あるいは共同主観的なものでしかありえないという限界は、原理的に突破できないのです。

やすいーそこでですね。ここが肝心で、わたしは「パース『人間記号論の試み』について」(『月刊状況と主体』一九九三年六月号)でパースと共に主張しているのですが、りんごを見るという活動は、同時にりんごがわたしの意識に現れるりんご自身の活動でもあると捉え返すべきだと思うのです。

河口ー非常に素朴な捉え方ですね。アニミズム(物活論)的な発想です。その意味ではポスト・モダンな考え方かもしれません。

普通ならりんご自身には主体性も意識もないわけだから、りんごが意識に現れようと思って現れるわけではないんで、りんご自身がそんな活動はしないと考えますよ。

やすいー反映論の欠陥は客観的事物や法則があって、それを主観の認識が反映すると考えていた。認識活動を主観的に捉えていたことには違いないんです。これでは正しく反映しているかどうかは検証の問題になってしまい、どうして反映するのかは説けません。

河口ーしかしりんごに意識活動に対する主体性を認めてしまうと、「主体性」という言葉の意味が全く違った意味になりますよ。

やすいーもともと「対立物の闘争」や「相互浸透」という弁証法の原理でも、意志的な主体性までいかなくても、互いに働き掛け合い、支え合い、前提し合う存在として事物は扱われていました。りんごは食べて欲しいとは思っていなくても、そのサクッとした歯応えや上品で控え目な甘さで我々の嗜好を魅了し、食欲をかき立てるような属性を持っているのです。

河口ーしかし人によって好き好きですし、満腹だと欲しいとは思いません。あくまでも人間の主体性に依存しているのでしょう。

やすいー事物は客体であると同時に主体なわけです。舩山信一は主体即客体、客体即主体とこの関係を規定しています。つまり客体でしかない事物なんてないんで、りんごの方では、主体として同じ色や香りや形、そして味覚を引き起こす物質で働き掛けているんですが、働き掛ける対象の個人の状態によって引き起こす反応は様々なのです。

そして働き掛けられている過程に注目しますと、それは主観がりんごを意識に現象させている過程と同一だといわざるを得ません。

つまり意識現象はりんごが自らを意識として対象化させる現象なのです。そう考えますと、不可知論に陥るのも防げます。

主観の能力や状態で誤謬や認識内容にずれが生じるとしても、客体が主体に自己を定立している以上、対象が意識に現れていることは確かで、その意味で真理性は保証されますから。

河口ーそれは現象学からみれば、客観的事物や真理が先ず有るという独断論に立っていることになりますね。

やすいー一つの推論であることは認めます。ひょっとしたらこのりんごはないかもしれない。仮に食べてみて、りんごの味がしても、それも感覚のリアリティでしかないと言えます。

でも人生が全てバーチャル・リアリティや、一睡の夢だと決めてかかって生活すること程危険な独断はありません。我々は常に本物の事物や人々との交わりや働き掛け合いに生きているのであり、意識に現れてくる物たちを本物だと思って、真剣に係わらざるを得ないのです。

河口ーでも自分がそう思うのはいいとしても、自分が勝手に思い込んだ真理を他人に客観的真理だと押しつけるのはいけないでしょう。やはり主観的で相対的な認識でしかありえないのですから。

やすいー主観的で相対的であると同時に、我々は推論による確信で自分の信念を固めて、自分の掴んだ真理を客観的な真理として主張しています。

その根拠は、意識が客体の側の働きかけで構成されており、「認識は主観の認識であるだけでなく、対象自体の認識でもあるという面を持っている」(『歴史の危機』一七七頁)からです。ただしこれを暴力的あるいは非民主的に主張するのは慎まなければなりません。

      
五、事物の述語としての感覚

河口ー客観的真理を主張するのは、真理が客観的で唯一のものでなければならないという思い込みがあるのではないですか。

王陽明は庭前の竹を切って七日間その切り口をじっと見つめていたけれど、結局事物内の理に至ることはできなかったという話があります。

心とは主となり、客とならざるものだから、心の理は心の中に見出される筈だと考えて「心即理」を唱えたのです。そして「心即理」ならば天下に心外の事、心外の理などある筈がないと、すべての事物や人々の心と一つになって万民救済を行おうとしたのです。これが「万物一体の仁」で、これは明らかに本居宣長の「もののあはれ」論にも繋がっていると思われます。

ハートで捉えた真実や共感みたいなものを基礎すれば、真理論も客観的真理論を脱皮できるんじゃないですか?

やすいー真理が人それぞれでしかないというと、どうして共通の認識や共感が得られるのかが分かりません。

民族や宗教の違いで文明間の衝突が避けられないから、軍事的に備えるべきだというハンティントンのような怖い議論もあります。

だから心を単に主観的にだけ捉えるのではなく、様々な事象や事物が登場する場としても捉えるべきなんです。そうすれば認識に共通性や客観性の根拠が与えられますし、認識が一致しうるものという希望も持てます。

 先程事物を捉える内容自体が感覚に過ぎないという指摘がありましたが、感覚は主観の表象であるにも係わらず、客観的な事物の述語として機能しています。

例えば「この玉は赤い。」という場合、「赤い」という感覚は「玉」という事物の述語なのです。つまり単に私の感覚に止まらず、客観的事物の属性として捉えられているんです。

河口ーでも色盲の人が見たら、青く見えるでしょう。どちらの色が本当とは言えません。つまり客観的事物の属性と言われているものも主観の感覚に過ぎないんです。

やすいーそれでもこの玉は九十九人には赤く、一人には青く見せる色をした玉であることは否定できません。またこれが玉だというのは球形に見えるからですね。球形というのも表象にすぎません。形も感覚の一種です。これがゴム毬だとしますと。ゴムの柔らかい感触があります。これも感覚です。こうした感覚を統合して私は赤いゴム毬という事物が、私の肉体の外部に、掌の中に存在すると判断します。

つまりこのゴム毬は私の感覚の集合でしかないのに、私の外部の事物でもあると思われるのです。その場合、様々な感覚はゴム毬という事物の述語になっています。つまりこのゴム毬なる事物は、私の感覚を述語にして、私の心に現れているわけです。

河口ー私の外部と言われましたが、それは肉体の外部であっても、感覚の外部ではあり得ません。感覚や表象の外部は原理的に体験できないのです。

やすいーそうですよね。肉体の外部と感覚の外部は峻別すべきです。よく主観・客観図式の超克といいますが、主観・客観図式は肉体の外部にある感覚対象を感覚を素材に構成する図式なんです。ところがこの図式を感覚の外部にある事物を感覚を素材に認識する図式だと受け止めて、誤った図式だから超克すべきだと主張する。これでは水掛け論になってしまいます。

河口ー実際に主観・客観図式を説く人は、感覚の彼岸に事物を立てる議論を展開しているように思いますが。

やすいーそれは肉体の外部にある事物が肉体に刺激を与えて感覚表象を引き起こし、一定の像を結ぶので、そのような生理現象が起こっている体内の部位のことを感覚表象と考えて、その外部に事物の存在を立てているのです。つまりそれは肉体の外部に他の事物を想定しているわけです。肉体の外部の数万光年先に在る星だって、感覚の内部には違いないですよね。だって星の色も明るさも私の感覚には違いないんですから。

河口ーそういう言い方をすると、星があなたの内部に存在することになりませんか。

やすいー視覚で星を見る限り、星が私の感覚であることは確かです。でもそれは肉体の内部に見ているのではなく、外部に見ているわけです。事物の肉体からの距離感は肉体の運動や学習によって、視覚が訓練されますからね。

わたしが言いたいのは、主観的には外的事物は感覚によって捉えられ、感覚を素材に構成されますが、だからといって外的事物が感覚に還元されたから客観的実在でなくなるのではないということです。逆にその過程を事物の働きから見ますと、外的事物が感覚の統合として自己の客観的実在性を示しているのです。

 それに外的事物が感覚の外部に実在するという意味は、感覚に実在が現れるとしても、一度に全てが現れるのではないということです。

あなたが今ここで見える事物は、これだけに限られているでしょう。ほとんどの外的事物はあなたの感覚の外部に実在すると推論されます。もちろんこの部屋の外部は実は存在しないかもしれません。でもそういう推論は全く頭の中だけの形而上学的な意味しかないのです。そういう推論を採用していては暮らしていけません。        

河口ーすると、感覚の外部がこの部屋の外と同じ意味だということですね。でもね、この部屋の外部の事物だって、我々は感覚によって捉えるしかないのですから、その意味は感覚の外部ではないでしょう。

やすいーですから外的事物が感覚を述語に捉えられても、外的事物ではなくならないのです。つまり外的事物だと言いますと、感覚以外のもので構成しなければならないと誤解されがちですが、肉体の外部だとか、この部屋の外という意味での感覚の外部に存在する事物という意味でも使えます。「このゴム毬は赤い。」では、客観的事物としてのゴム毬が赤いという感覚的刺激で現れているわけです。

河口ー感覚で捉えられる事物は、感覚に還元されているのでしたら、客観的実在だというのはやはりおかしい気がします。やすいさんの議論では感覚が客観的実在だと言われているのと同じです。だから元来主観でしかない感覚が客観だというので変なんです。それも主観・客観図式を超克される議論なら分かるのですが、主・客図式の超克論を批判されながら、そう主張されるのですから釈然としませんね。

やすいー我々は事物を感覚によって知覚するわけでして、感覚以外のもので知覚することはできません。ですから事物は感覚で規定されるわけです。逆に言えば事物は我々の感覚を刺激して、感覚を通して現れます。感覚以外のもので現れなかったら、客観的実在ではないということになれば、事物は超感覚的存在だということになります。

そういう議論は真実在をイデアと考える議論になります。わたしが強調しているのは、わたしの意識は、わたしの身体機能であるだけでなく、外部からセンス・データとして外的事物が自分を示している過程でもあるということです。

河口ー外的事物はセンス・データを与えるまではしても、意識を形成するのはあくまで脳髄の働きではないのですか。

やすいーだから考えているのは脳髄か、身体全体か、それともそういう人間の思考を生み出す自然や社会のシステムかという問題になります。

そしてそれぞれのレベルで解答が可能なのです。意識は意識している人の側からはあくまで私だけの意識でしかないけれど、それは対象の働きかけが生み出した意識であり、この意識を通して対象は人間的世界を構成して、人間界に存在するわけです。

 

 

     

 
             六、フェティシズムとは何か?

河口ーどうも納得いきませんね。意識が事物の自己定立であり、認識が事物の認識だとしますと、人間の喜怒哀楽や精神的活動もすべて事物の活動だということになり、事物の人間の差異が全く消失してしまいませんか。それこそマルクスが指摘した資本主義の精神病理である「机が踊り出す」物神崇拝(フェティシズム)そのものじゃないですか。

やすいーなかなか鋭い批評眼をお持ちですね。マルクスのフェティシズム論こそ近代的人間観の典型であり、この超克なくしては真の近代思想の超克はありえないというので、全力で『資本論』をフェティシズム論の体系として大上段から批判したのが、『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(青弓社)なんです。

マルクスのフェティシズム論および『資本論』全体を総括的に批判したほとんど唯一の著作と自負していたのですが、ごく一部の人にしか注目されず、断裁の憂き目に遭ったのです。

 人間の喜怒哀楽や精神活動が事物の活動だという発想は、例えば先程の本居宣長では「物の哀れを知る心」や「物の心を知る心」という形で出ています。

河口ー宣長の「ものの〜」は、具体的な事物のという意味ではなく、「ものごころ」とか「ものの本」とかいうようなつかい方と同じです。ですから「もののあはれ」は「あはれ」とは同じ意味なんです。

やすいーいや私の解釈では、「対象から受ける感動」という意味で「もののあはれ」と言うのだと思います。

 元々情感は何の原因もなく起こるのではなく、「もの=対象」に接して引き起こされるわけです。その意味で「もののあはれ」と「あはれ」は同じ意味です。でも宣長の場合、主体の側の喜怒哀楽が対象自身の「心」として捉えられていて、主観・客観が合一しているのです。小林秀雄はこれを「情感による認識」と評しています。

  つまり人間の情感が物の述語となって、物に帰属しているのです。たとえば薔薇が栽培されたり、桜並木が保存されたりするのは、薔薇や桜が人々の情感を支配しているからです。薔薇や桜とそれらに感動する心は他者じゃないんです。もしそういう感じる心がなくなりますと、自然が破壊され、人類の存続(サバイバル)の危機になるでしょう。一般に社会的諸事物が心を持つという意味もそこから類推できるでしょう。

河口ー文学的発想と哲学的発想を混同していませんか。

 やすいさんは『歴史の危機』を読んでいると、わりと常識的な議論をする人だと感じたのですが、人間論になると逆に全く非常識というか、極端な議論をされているのですね。

 フェティシズムは立派に精神病に分類されますよ。女性の肉体を愛せなくて、下着や靴下・ハンカチなどを愛好したり、人形愛に耽ったりする異常性愛をフェティシズムと言います。また石化症といって他人がみんな石に見えたり、自分が石のように動かなくなる病気があるんです。

 つまり対人恐怖症が嵩じて、人格性を否定して石化するそうです。やすいさんも対人恐怖症か何か深い人間嫌いが嵩じて、フェティシズムに陥られたのではないですか?

やすいー確かにマルクスのフェティシズム論を基準にしますと、私の議論は典型的なフェティシズムに含まれるのです。

 でもマルクスも資本主義をフェティシズムの体系だと診断することによって、社会的な事物が人間として社会関係を取り結び、人間として機能している事を認めているのです。ただしそういう倒錯が罷り通っている狂った社会だという批判の形ですが。

河口ーじゃあ、やすいさんはリンネルと上着が商品として関係し合って、価値関係を取り結び、労働の社会関係が事物相互の関係に置き換えられたり、貨幣が物神として崇拝されたり、資本が自己増殖して人間や自然がその中に飲み込まれ搾取・開発されるという事態を倒錯的ではないと考えるのですね。

やすい―社会的事物が社会的性質を持ち、社会関係を取り結ぶこと自体にはなんら倒錯性はないんです。

  また商品交換社会では生産物が商品としての社会的性質を持ちます。再生産に必要な労働時間の体現物として価値物として扱われます。諸個人は商品交換を通して社会的分業に組織されますから、諸個人の人間関係は、商品間の価値関係に置き換えられてしまいます。この置き換えをマルクスは倒錯だと考えます。しかし身内的な共同体内の物資の交流ではなく、他者として物資を交流し合う市場経済の場合は、商品間の価値関係として人間関係が取り結ばれることは別段倒錯とは言えません。

河口ーマルクスは、物と物の関係のように商品関係を捉えていますが、それは基底にある労働交換の倒錯的な表現に過ぎないとしているんです。

  たとえば机と上着が交換されるとすると、その社会関係は机と上着が取り結ぶ物同士の関係のように見えるけれど、本当は机を作った労働と上着を作った労働の交換関係なんだと言うわけなんです。

  だって、机も上着も社会的な事物に過ぎないわけでして、それらが関係を取り結ぶなんてことは「机や上着が踊り出す」ことであり、「おもちゃの兵隊」の軍楽行進のようにありえないことなんです。

やすいー「おもちゃの兵隊」の軍楽行進はおもちゃが精巧なからくり人形で、本当にラッパを吹き鳴らして行進できるように作られていないのなら有り得ないのは当然です。

  商品関係の場合は双方の商品に価値が含まれている以上、むしろ商品関係を取り結べない方が不自然です。商品は自らの価値を実現する為に商品所持者の欲望や需給関係を通して他の商品との関係を取り結んでいるのです。商品所持者の意識は商品の意識の代弁者であり、市場全体としては商品所持者の意識は商品の価値意識として機能しているのです。

河口ーやすいさんは商品所持者が商品の意識を代弁すると言われながら、つまり商品には意識がないことを認めながら、その人間の意識を商品の意識だとされて、フェティシズムに陥っているのです。

 
           七、事物の意識と事物の主体性

やすいー『資本論』では個々の商品交換にあたって、所持者は所持者として意識で交換するけれど、市場全体を見れば平均としては、所持者の意識は商品の価値に従っていることになります。

 それで商品同士があたかも価値語を語り合って、関係していることになるわけです。これが倒錯的だというのは、所持者の意識と商品の論理の区別に固執するからです。私は個々の所持者の意識は法則的には価値法則を反映せざるを得ないのだから、所持者の意識は商品の意識の現れだとみなすべきだと思うのです。

河口ーマルクスの場合、商品語という表現は商品があたかも語るようにということです。実際語ったら妖怪です。語らないけれど語るように関係が生じる、だからフェティシズムの体系なのです。

やすいーそういうように意識を身体的な諸個人に独占させて、商品の働きで生じたように考えない。そこが近代主観主義の欠陥だというのです。

 この私のスーツはだいぶくたびれてきましたので、そろそろ買い換えないといけません。この靴も買い換えるように私に意識させています。そしてバーゲン・セールかなにかで買うことになります。

 各商品や市場の動きで私の意識が刻々と生産され、変化させられているのです。こういう私の意識を市場は取り込んで、商品の意識を形成し、商品相互の社会関係を作り出しているのです。

河口ーほら又言い換えて誤魔化す。商品関係が生み出した意識だとしても、意識しているのはあなた自身であって、商品ではないでしょう。あなたと商品はあくまで別物なのですよ。

やすいーあくまで別物という発想は弁証法的ではありません。

 現実的諸個人は自然的諸事物や社会的諸事物との関係・様々な人間関係・社会的関係を担っている存在です。それらの総和(アンサンブル)なんです。

 もちろんそれらの総和であり得るのは身体的な個人として存在しているからですが、それは身体が意識として諸関係が現象する場だからです。

 社会的な諸事物はこの場に働き掛けて、自己の存在を対象化つまり意識化することで存続しているのです。ところが諸個人は自己の意識内容を私物化して、あたかも自分だけで作り出した意識のごとく考えているのです。

河口ー確かに意識形成に意識対象が関係することは否定できません。でも諸事物の方には感覚器官や意識中枢がないのですから、諸事物が意識させるというならともかく、諸事物自体が意識するというのは事実に反するでしょう。

やすいーそれは意識を身体の機能としてのみ捉えるからです。意識しているのは身体全体ですか、それとも中枢神経としての脳ですか?鳥肌が立つとか、全身で神経を集中するとかいいますが、部位によって意識に係わる程度は随分差があるようです。裸でいる時の意識と衣服を付けている時の意識はかなり違います。

 衣服もパジャマ姿とジーパン姿と背広姿とでは意識内容に影響がでますね。でも影響を与えることと意識することはまた別だといわれるでしょう。

 そうすると衣服は関係ないとすると、身体部位でも意識を感じている部位に限定しないといけない。そこで大脳の一部に、電気的・化学的変化が起こっている局所に逆に集約されてしまいますが、じゃあ電気的・化学的変化が意識なのかということになります。

河口ー電気的・化学的変化は意識を実体化した外見です。

 たとえヘーゲルの哲学的思惟であっても、それを脳波の変化で表現すれば波線になってしまいます。

 この問題は意識を主体の実践活動の一環として捉えないと議論がこんがらがるだけです。人間的実践はその基礎を身体の自己保存活動に置いていますから、身体的な営みとして捉えてよいのです。

やすいー意識活動には身体の自己保存に基礎を置くものもあれば、身体を超越した社会的・精神的な活動に基礎を置いているものもあります。

 生産・流通・消費に関する経済的活動での意識は、経済システム全体の再生産構造から生み出される意識なのです。

 マスメディアや書籍なども意識を生み出す重要な活動をしています。それらは映像・音声・文章などの形でパックされた意識・思想であり、見られたり、聞かれたり、読まれたりすることで確実に意識を受け手の中に再生しているわけです。

河口ーそれじゃあ、本を読んでいるというより、本に読んでもらっていることになってしまうでしょう。

 やすいさんは読書という読み手の活動を、読まれる本の活動にすり替えてしまう。こうやって私がお茶を飲みますと、それは私の活動だけど、やすいさんの言い方だと、お茶が主体的に飲ませているということになりますよ。

やすいーそうなんです。そういう面もちゃんと見ないといけないと思うのです。

 この煎茶は香りが良くて、濃く入れるといい渋味が出ます。体にもすごくいいそうですよ。そういう属性で我々に飲ませているわけです。

 お茶を飲むのは飲む側の活動であると共に、飲ませるお茶の活動でもある。

 近代人は人間を主観的に捉え、身体的個人だけを実践主体にしてしまった。自然的・社会的諸事物に働き掛けられ、意識させられ、生命を再生産させられているという面を忘れていたと言えます。

 たとえば蜜蜂は蓮華の蜜を吸います。これは同時に蓮華が蜜蜂に蜜を吸わせる活動であり、こうして受粉をさせているわけです。

 

  
              八、マルクスの憑もの信仰

やすいーたしかにマルクスのフェティシズム論は、社会的諸事物の主体的な社会活動を認めていませんから、社会的諸事物が様々な社会的属性を持ち、社会関係を取り結んでいるように見えること自体を倒錯だと決めつけています。

 上着はあくまで上着という使用価値でしかないのに、商品としては価値物と見なされる。これは倒錯だというわけです。

 つまり労働の社会関係は人間関係であり、物の関係じゃない筈だ。ところが商品では労働の固まりである価値が上着に取りついて、上着の属性と見なされるから、上着が商品という物神になっているという理屈です。

 上着は人間労働の体化物だから、社会関係を取り結ぶ主体になる資格があるとは考えていないのです。

河口ーマルクスも社会的事物が社会的な属性をもって、社会的な関係に組み込まれていることは認めているでしょう。

 たとえば交通信号は社会的な役目を果たしています。機械も生産という社会的役割を果たしているわけです。

 ただマルクスは価値関係については、実体的には人間の抽象的人間労働の関係だとして捉えているわけです。

 ところがそれが商品関係ではこの労働時間の凝結の比が交換比となって現れるものだから、あたかも事物の属性のように見なされてしまう。だからこの置き換えは倒錯だというのです。労働の固まりである価値が上着に取りつくなんて考えていませんよ。

やすいーこれは『人間観の転換・マルクス物神性論批判』の重要な論点だったのですが、全く無視された論点です。

 マルクスは価値を抽象的人間労働の凝結だと定義しているわけですが、この凝結というのは実はドイツ語では「ガレルテ」なんです。つまり「膠質物」という意味なんです。有機物がドロドロに融けて、そのまま固まった状態を意味するわけです。

 ですから価値は抽象的人間労働自体の固まりとして表象されています。これは膠だから付着するわけです。それで生産物それ自体は使用価値でしかないけれど、価値が付着して商品となり、価値を属性として社会関係を取り結んでいるように見える、だから机が踊り出すわけです。

河口ーアッハッハッハ、こりゃあおもしろい。なるほどね。そういう解釈も可能かもしれない。

 でもそりゃあ比喩でしょう、いくらなんでも。マルクスは科学的な思考をする唯物論者ですよ。あたかも抽象的人間労働の固まりがくっついたもののように事物の属性と価値が見なされるといいたいのだと思いますよ。

 だって目に見えない抽象的人間労働の固まりが商品に実際にくっついているなんて、とんでもない憑もの信仰ですよ。そんなマルクス解釈をしたってだれも相手にしませんよ。

やすいーおもしろいでしょう。この解釈を思いついた時は、私も笑いました。そして比喩だとも思ったのです。

 でもマルクスの資本論での生物学的用語は、単なる比喩じゃないんです。「蛹化」や「骨化」でもそうですが、価値実体である抽象的人間労働が見えなくなって、事物としての金属や機械が商品や資本となり社会関係を支配している「倒錯的事態」を示す用語になっています。

 ガレルテとしての価値が付着したものであることは、実は「可変資本と不変資本」での価値移転論の形で表面化します。具体的有用労働が不変資本である生産手段のガレルテとしての価値を労働の熱で溶かして、新しい生産物に移転して付着し直す論理になっています。

  これは生産手段は価値を生まないことにするために、生産手段は生産過程で自己の価値を生産物に対象化すると解釈されないように、踏ん張って労働力だけが価値を生むという労働価値説を守っているのです。

河口ー価値移転といっても結果的に、生産を通して生産手段の価値が完成品に含まれて、移転したことになるとしたまでです。

  ですから「移転」も比喩だと言えます。価値移転の担い手が具体的有用労働だとしたのも、生産手段を完成品にするのは具体的有用労働だからです。それを憑もの信仰のように実体的に解釈してしまっては、マルクスを迷信家に仕立てあげる議論になってしまいます。

やすいーマルクスは比喩だとは断っていません。

  自分と違うマルクスに出会うと比喩だと解釈してしまう。そういう解釈法では我田引水になっしまいます。

 人間関係である労働関係が生産物の関係を包み込み、規制する構造を説明するのに、抽象的人間労働が実体的にガレルテとして生産物に付着し、商品物神を作る、そして必要に応じて価値移転するという展開になっているわけですが、これを河口さんは憑もの信仰だと言われる。

 だからマルクスのような科学的な唯物論者がそういう表現をしても比喩だと解釈すべきだということでしょう。科学者が手かざしをしたり、唯物論者が四柱推命の卦を気にしたりするのは確かにおかしいですね。でも実際にはよくあることです。

 マルクスも宗教的な論理を使ってしまうことはあるかもしれない。頭からないとは決めつけられません。

 では宗教的に考えますと、憑もの信仰というのは、神や霊と事物を絶対的に区別した上で、神や霊が霊験を示すために事物に付着するという構造になっています。

 つまり憑もの信仰というのは素朴に物を神と考える物神信仰を批判する啓蒙的な信仰なんです。だからついマルクスも物神信仰を批判するのに憑もの信仰を使ってしまったのです。

 人間は物でない、しかし生産物交換という形で労働交換を行わなければならない、この置き換えを実体的に労働ガレルテの物へのとりつきとして展開したわけです。

 マルクス解釈として労働の凝結という実体的表現を「叙述の便法」とする廣松式解釈がありますが、マルクスの実体的な叙述は一貫しており、廣松式解釈とても資本論に内在した解釈とは言えません。

 
九、労働価値説の脱構築

河口ーマルクスが労働価値説を守るためにフェティシズム批判を資本論で展開していることは確かでしょう。このフェティシズム批判を批判されるやすいさんは、結局労働価値説を批判されることになります。

やすいー『資本論』の労働価値説は、労働者の抽象的人間労働だけが価値を生むという考えです。

これは価値の定義を抽象的人間労働のガレルテとしたことで、いわば同義反復的な真理になってしまいます。それで都合が悪くなると、倒錯だとフェティシズム論で切り抜けるのです。

価値移転論だけじゃなく、特別剰余価値の源泉問題でも、改良された機械が特別の剰余価値を生むと思われるけれど、マルクスは改良された機械によって「強められた労働」が特別剰余価値を生むことにします。

マルクスも現実をよく見ていますから、機械制生産では労働力は補助的な役割しか生産現場では果たしていないことを知っているんです。だから機械が生産の主役になっていて、労働条件が悪化し、資本のキャタピラに踏みにじられている労働の疎外を指摘しています。でも労働者の労働だけが労働の主体であることは、労働過程論で確定してあるわけです。それであたかも労働力が補助的に見えたり、機械が価値生産の主体に見えると倒錯的だということになります。

河口ーつまり機械も価値を生むということですね。しかしその価値生産量はどのように計測できるのですか。そのことと機械も人間に含めるという「人間観の転換」とはどうつながるのですか?

やすいー元々商品の価値は、交換が成立する以上両者に共通の何かが等量含まれている筈だということで、想定されたものです。価値はですから、各商品の交換に際しての社会的な支配力の大きさだと考えればいいんです。

アダム・スミスは、自由競争で他の条件が均等になれば、その何かはその商品が交換される相手商品に含まれている労働時間にあたるとしました。また各商品の価値は投下された労働時間に比例する筈だとも考えたのです。

 マルクスの場合は、価値を定義する段階で労働価値説は前提になっていますから、極めてドグマティックです。しかし現実の経済に即して考えますと、機械制商品生産の現場では、労働者が機械以上に主導的だとも能動的だとも言えません。労働者が自己の労働時間分の価値を生産物に対象化している間に、機械も自己の減価償却の分だけの価値を生産物に対象化していると捉えて一向に差し支えないのです。

ついでに原材料も使用された分の価値を使用されることによって生産物に対象化しています。このように捉えても労働力や生産手段の価値が生産物に対象化される仕組みは説明がつきます。価値対象化論を使えば価値移転論は必要ないわけです。

河口ー価値対象化と言う場合、機械や原材料まで行うのなら、それらを生産の手段ではなく主体の位置に付けなければなりません。それに労働者の労働だけがどうして剰余価値を生産することができるのかも謎になります。

やすいー労働者が労働主体だという場合、労働者は目的意識的な対象変革活動を主体的に行うということですが、実際はマニュアル通りに機械を操作するだけです。しかもその操作を別の機械に代替できれば、そうしてもいいわけです。

この選択は主としてコストの問題なのです。そしてこの生産における目的意識的連関は機械の連結によって、ベルトコンベアー・システムによって形成されていますから、個々の労働者より、機械システム全体の方がよっぽど主体的だと言えます。

労働者が行う機械を補完する意識活動は、機械の付属物としての意識機能ですから、機械の中枢神経の部分に労働者が入って意識活動をすることになり、もはや機械とは別の独立した意識ではないのです。ですから労働者の意識内容も機械の意識として、生産機構全体の働きにによって生み出されるものなのです。

そこで問題の剰余価値の生産ですが、生産手段は使用によって価値が減少する分、生産物に価値が対象化されると捉えばよいのですが、労働者は労働者階級だけではなく、不労所得を得ている階級の価値も産出しなければなりません。

ですから労働力の再生産費としての労働力商品の価値は、自己が労働によって対象化する価値よりもだいぶ少ない額で我慢しなければならないのです。

  では生産手段が剰余価値を生むことは有り得ないかというと、それがあるんです。飛び抜けて生産性の高い機械を導入した場合の特別剰余価値は、当然その機械が生産していると言えます。その機械を操作している労働者の労働の複雑度は変わらないとすれば、労働力の価値生産力が強められることはないのです。

マルクスの「強められた労働」説は、労働者の労働のみが価値を生むという証明抜きの前提に立ってのみ言えることです。

河口ーしかし機械も労働するという証明が無いかぎり、機械が価値を生むという議論も説得力がないでしょう。

やすいーですから生産における作業としては、労働者が作業するか、機械が作業するかはどちらがコスト面からみて器用に効率的に行えるかで決まるわけです。

マルクスの立場からみればフェティシズムの極致でしょうが、近代経済学ではコブ・ダグラス生産関数等を使って労働と資本つまり労働力と生産財の代替関係を説明しています。

ですから、殊更労働者の場合は価値を生むが、機械の場合は生まないということはあり得ません。ただ一億円分の価値を生み出す機械は、購入に一億円かかるが、月百万円の価値を生み出す労働者は月五十万円で労働力を販売するところが違うだけです。

ただし一億円の経費で開発した機械が十億円分の価値を産出する場合があります。これが特別剰余価値です。でもその機械が普及しますと特別剰余価値はなくなりますが。

 

  
十、機械の意識としての身体の意識

河口ーやすいさんの場合は、機械が人間同様の作業をするばかりじゃなく、人間として意識活動もするということなんでしょう。

やすいー身体が労働をする場合は、機械や道具を使って物を作るわけです。つまり機械や道具と共同で作っているわけです。ところがマルクスは労働過程論で、労働主体は労働力であり、機械や道具は労働手段であり、原材料や燃料は労働対象だと定義づけます。

  そうするといかに機械が目的連関を構成していて主体的に見えて、労働力の作業が単純で補助的に見えても、労働主体は労働力、機械は労働手段という図式は崩れないことになってしまい、機械の補助をするだけの労働は非人間的だとされてしまいます。

  たとえば自動車の組立システムがありますと、これは自動車を組み立てようとする意志が装置連関になって物化しているわけです。それはだれの意志かと言いますと、例えば日産という企業の意志ですね。それが貫徹しています。

まあ企業が一つの人間体になっていて、機械は内臓器官に当たるといっていい。そこで働く労働者は血液やリンパ液かもしれない。そこでうんちならぬ製品を生産しているわけです。目的意識的にね。ですから労働しているのは労働者だけでなくて、機械もだと分かります。

河口ーそれじゃあ意識しているのは経営者や資本家であって、機械とは言えません。だから機械も人間だってことにはならないでしょう。

やすいー機械や機械システムが目的意識的に生産しているのですから、その意志は機械という装置に体現されているわけです。でも実際に機械が稼働するには機械を生産計画に沿って稼働させる意志決定が必要で、それは企業中枢から指令として送信されるわけです。

ただしこの意志は機械装置から完全には独立していません。工場を建てておいて稼働させないと、企業はたちまち麻痺してしまいます。設備に合わせた指令がくるわけで、その意味では、食欲は大脳の欲望であるだけでなく、胃腸の欲望であり、全身の欲望です。

  もちろん何百万円も出して乗用車を買っておいてまったく運転しない人もいるでしょうが、それは無駄遣いという損失を伴います。つまりそれだけ乗用車は運転する意志を運転者に持たせるわけです。

こうして乗用車は、自分の意識活動を人に補完させ、運転者を自己の意識中枢にすることで、自己実現するわけです。乗用車を運転者なしで存在する独立した事物と見なすと、走らなくても車は車ですが、走ってこそ車という意味では、運転者も含めて活きた全体なのです。

  同様に機械や機械システムもマン・マシンシステムとして活きた全体になれるわけです。その場合機械では身体の延長の道具と違って、身体が機械の部品化しています。だから身体の意識は機械の意識と言えるのです。

河口ーそのように無理に人間の意識を機械の意識だとするから、人間性が否定されてしまい、機械的にしか考えられないようになるのでしょう。機械を使っている時には、機械が安全に正確に稼働するように気を配らなければなりませんが、人間の意識は機械ばかり動かしているわけではなくて、様々な精神的な活動をしているわけです。

  やすいさんは豊かな人間の精神生活を無視して論じるので、人間性を否定する議論だと思われます。

やすいーいやそれは誤解です。乗用車と運転者の関係で走行においては、運転者の意識は乗用車の意識でもなければならないと述べているだけです。

運転中は運転に集中しないといけません。まさか哲学の込み入った問題を考えながら、運転されるわけではないでしょう。生産活動でも、工芸品の創造でもその物の心になって作ることが大切なんです。

  もっともこれは『幕の内弁当の美学』(ごま書房)の栄久庵憲司に啓発されたことですが。豊かな心は物と断絶した抽象的で貧しい人間の心ではなく、物に触れ感動して物の心になった人間の心なんです。

物・道具・機械というとなにか大変非人間的で冷血で心が無いように思われがちですが、それは労働の疎外の現実なんです。元々は物・道具・機械と取り組む人達と熱く心を通い合わせて、人間の豊かな姿を展開してくれるものなんです。

  現代ヒューマニズムによって貶められた「物」の人間としての人権宣言が今こそ必要なんです。
 パースやホッブズが比喩で言っていると断定される根拠は何ですか。後世の人の我田引水的解釈ではないのですか。

 私は既成の人間観が間違いだというのではなく、そこに見出される新しい人間の見方に注目して、そこにも学ぶべきものが大いにあると思うのです。
http://www.dcn.ne.jp./~skana4/yasuiyutaka/mokujip.htm
から「ネオ・ヒューマニズム宣言をめぐって」をお読みいただければ、少しは私の言いたいことがわかっていただけるのではないでしょうか。
 パースやホッブズが比喩で言っていると断定される根拠は何ですか。後世の人の我田引水的解釈ではないのですか。

 私は既成の人間観が間違いだというのではなく、そこに見出される新しい人間の見方に注目して、そこにも学ぶべきものが大いにあると思うのです。
http://www.dcn.ne.jp./~skana4/yasuiyutaka/mokujip.htm
から「ネオ・ヒューマニズム宣言をめぐって」をお読みいただければ、少しは私の言いたいことがわかっていただけるのではないでしょうか。
 古井戸さんは「〜と思います」と書かれますが、「これこれの理由で〜と思います」と書いていただけませんでしょうか。お考えには、それぞれ根拠があるはずで、根拠を示されるから、こちらも「なるほど」とか「それは違う」とかいうことで、間違いにも気付くことができ、反論もできて生産的な議論になると思います。

 私はホッブズやパースの書き方を読んでいますと、それが重要な前提になっていて、とても比喩とは思えない、大変大胆な人間観の転換に思えるのです。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/hobbs/mokuji.htm
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/Peirce/mokuji.htm
に詳しく論じていますのでお読みいただければ幸甚です。
よろしくお願いいたします。

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