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人間論および人間学コミュの人間観の冒険―コペルニクス的転換―

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これは大阪哲学学校で数年前に行った講演です。
3回に分けて収録します。

人間観の冒険―コペルニクス的転換―
               講演 やすいゆたか

        鉄腕アトムにも人権を

  鉄の腕電子の脳で生まれても背負いし苦悩人に優れる



 手塚治虫の名作に『鳥人大系』というのがあるのをご存知ですか?鳥が宇宙連合のたくらみで急速に脳髄が発達し、知的能力が進化して地球を支配するようになります。逆にヒトは家畜化されて、知的能力が退化するのです。

 この話には宇宙連合のたくらみのようなものがありますが、それがなくても、猿科の動物が特に知的進化したのは、地球という環境の下であり、他の天体では、猿科の動物ではなくて、鳥類が知的進化を遂げるかもしれないわけです。まだ我々は異星人との遭遇を経験していませんから、断定的なことは言えませんが、この宇宙のどこかに地球に似た天体があって、そこに異星人が暮らしている可能性は大いにあります。そしてその星では、地球とは全く違った進化の系統樹が考えられますから、我々が遭遇するのは恐らく猿科でもなければ鳥類でもないでしょう。

 たしかにヒトは猿科の霊長類の一種から進化したわけですが、それは人間の生じる一例にすぎません。つまり人間はヒトとは限らないわけで、鳥人間がいても構わない。手塚は最後に今度はゴキブリの知能を発展させる計画に触れています。ゴキブリ人間というのもリアリティがありそうですね。

 手塚治虫といえば代表作は『鉄腕アトム』です。我々はその圧倒的な影響の下で育ってきたことは否定できません。日本はロボット生産で、量的にも技術的にも圧倒的な強みを持っているのですが、それは手塚治虫の『鉄腕アトム』を先駆けとするロボットもの劇画の文化なしには考えられませんね。

 鉄腕アトムとその後の巨大戦闘ロボットの違いは、鉄腕アトムは自己意識(自我)をもっているということです。自我を持っているけれどロボットだから、人間のために存在し、人間に背いてはならないとされます。でもロボットたちは人間の支配に反抗して起ち上がり、革命を起そうとします。鉄腕アトムもロボット革命派につくこともあるのです。

 つまりロボットも自己意識がある以上、人間としての人権を認めるべきだという主張があるのです。手塚治虫は人間とロボットの共存できる社会を求めていますが、その主旨はロボットに人権を与えるべきだということです。そこから帰結するのは、ヒトとロボットを包摂する人間概念です。

 しかし、ヒトは死ぬけれど、ロボットは死なないから、明らかに違った存在ですね。それを一緒にするのはおかしいという議論があります。しかしこの議論は机上の空論のところがあります。まだ自己意識を持つロボットは存在しません。

 手塚の予定だと鉄腕アトムはもう今年あたり出来上がっていてもいいのだけれど、そう簡単には自己意識あるロボットはできないでしょう。原理的にできないのではなく、クリアしなければならない技術的な壁がまだまだあるからです。

 自己意識あるロボットができるころには老化を抑制する薬が開発され、人工臓器もナノテクの発達で進歩し、人体のサイボーク化が進んで、両者の差異もなくなっていく可能性もあります。それにロボットも機械である以上再生不能なほど壊れる可能性があるわけでして、死と無縁ではありません。

 とはいえ、机上の空論はどうでもいいので、現実の人間は死という問題を抱えており、そこに人間性があるのですから、ロボットを含めて人間だという議論は納得いかないというのはもっともです。実は、その点に手塚治虫の問題意識もあるのです。手塚は永遠の生命をテーマに個体の身体の死と類や大いなる生命の循環を『火の鳥』で展開しました。『鉄腕アトム』にも永遠の生命へのあこがれがあるのです。つまりロボットは、人間の不死願望を担って、生き続ける可能性を実現している存在なのです。

 鉄腕アトムの生みの親は天馬博士ですが、彼は息子の飛雄を交通事故で無くしました。その哀しみから立ち直る為に飛雄そっくりのロボットを作ったのです。ところが飛雄は今度は死ななくなったけれど、全く成長しません。そこに腹を立てた天馬博士は、飛雄を売り払ってしまったのです。サーカスで活躍していた飛雄を御茶ノ水博士が引き取って改造し、鉄腕アトムになったというわけです。

 自己の不死願望を人間そっくりに作ったロボットに叶えさせるということですから、そこには人間とロボットの同一視があるわけです。同一視は元々違うものを同一視するという意味では、ロボットは人間ではないのですが、同一視できる分だけ人間に成っていると見ることも出来ます。

 ところで異星人と遭遇した時、それが自己意識あるロボットである可能性もありますね。その場合に、我々はロボットだからといって、その異星人を人格的価値に於いて蔑むことは許されません。もし彼等が地球にやってきたら最も偉大な英雄として最高のもてなしをするべきでしょう。もし彼等に敵意を持たせるとハルマゲドンをしかけてくる「天空から来た殺戮者」に豹変するかもしれません。筒井康隆の『虚航船団』では、文房具星からやってきた文房具たちは、鼬星に降り立って、天空からの殺戮者となっています。

 ロボット星というのがあると仮定しましょう、そこではロボットを作った知的生物は環境変化に適応できずに滅んでいます。遺伝子操作によって生まれた微生物が、とんでもない病原菌になって、その知的生物を絶滅させてしまったのかもしれません。ともかくロボットだけが残って、そこで生活しているのです。としますと人間は、必ずしも生命体である必要もないことになりますね。しかし死がないのに生き続けるということが可能なのか、その場合に生きる意味や文化はどのように創造されるのか、という難問にぶつかります。

 しかし星の進化とかより大きな循環を考えますと、今の人間の眼から見て不死のようにみえるロボットも様々な自己の存続に関わる危機を孕み、必ず滅び去る運命にあると思われます。その中で、危機を乗り切る為に常に自己改造を怠らないで生きなければなりませんし、社会的にロボット間の争いを調整するのも大変な面があり、生物的な人間以上に苦労が多いかもしれません。

コメント(12)

             人間もロボットか?

     人間も神が作りしロボならば、リヴァイアサンを人もつくらん

 

ロボットも人間だということについて論じてきましたが、ロボットは機械だから人間じゃないという批判があるのです。機械とは何でしょう。近代の大工場の機械は金属でできていて、原材料を加工して予定していた生産物に大量に仕上げる装置です。しかし別に金属でできていなくても、木製であっても、機械でなくなるわけではないでしょう。機械と道具を区別して、機械は自然エネルギーを使って動くけれど、道具は基本的に人間の身体的な運動エネルギーを動力にして動かされるものであると言われます。つまり道具は手の延長だけれど、機械はそれ自体がある程度独立した装置です。人間の身体が操作・操縦するとしても、その作業は補助的な作業に過ぎないのです。機械は身体の変わりに生産工程を引き受けているのですから、いわば身体の身代わりであり、人工身体つまりロボットと言えるかもしれませんね。身体の身代わりが出来ている分だけは人間化しているといえるかもしれません。

 逆に、人間身体も工場においては小型多能自動機械であるという面をもっています。そして身体自身が自己と種の自己保存を図っている自動機械として捉えられるわけです。動物は精巧につくられた身体機械だとデカルトは指摘しています。つまり内燃機関や意識中枢、運動神経などによって自己と種の保存を図るメカニックなシステムなのです。機械なら自己増殖しないのですが、身体はしますね。それは自己複製装置を備えた機械だということになります。

でも機械は何か別の物を製造したり、運んだりすることを目的に存在するけれど、身体はまず自己保存が目的だと言われますね。しかしその区別は生産工程やサービスの現場に於いては通用しません。

 しかし機械だと誰かが目的意識的に作ったことになるけれど、身体は欲望を充足することによって、自己と種を保存、再生産するという違いがあります。そこで動物は神が作った自動機械だというデカルトの議論になるのです。ただデカルトに言わせれば、神は人間まで機械としては作れなかった。つまり高度な知性や言語能力を身体という機械装置は持つことが出来ない。そこで魂を別に創造されて身体機械に置き入れられたのだと推理したのです。

 これに対してホッブズは、霊魂を身体機械とは別に存在する実体と捉えることに猛反発しています。人間も身体機械だというわけです。ですから霊魂も、身体機械の働きに他ならないというのです。『バイブル』にある霊の出入りの記述はすべて比喩にすぎないと断定しているのです。ホッブズは徹底した唯物論者だといわれる所以です。ではどうして動物にはない言語能力を身体機械にすぎない人間が得たのでしょうか。それをホッブズは解明できなかったのです。そこで全能の神が人間という身体機械に言語能力を付与したという言語神授説になったわけです。まさしく困ったときの神頼みです。

 ホッブズは言語能力を、音声のイマジネーション、このイマジネーションは印象が粒子になって残っているものでして「うすれゆくメモリィ」のことなんです。つまり五官で感じたことが微粒子になって脳髄の中を動き回っている。似たようなもの、関連するもの。対称的なものなどが引き合ったり反発しあったりしているわけで、それらが様々なつながりを見せているのです。そうした関連を音声のイマジネーションの関連に置き換える、つまり音声のイマジネーションの関連が他のイマジネーションの関連の記号になるのが、言語能力です。その能力を神が授けたので、人間になったということなのです。それでホッブズは動物が身体機械であるだけでなく、人間も身体機械だとしたのです。それで人間は神が作った自動機械だから人間もロボットだということになります。

 十七世紀は物体間の関係を扱う物理学の時代ですから、メカニカルに物事が捉えられ、生物体も機械として捉えられるという時代精神があります。ところが十八世紀には化学反応に関心が移り化学の時代になり、十九世紀は生物学の時代になります。生体の特有な運動が単なる物理的な運動や化学反応と区別され、生体と機械は全く別だという認識になったのです。ところが生物学や医学が進歩してミクロ活動を分析するようになりますと、分子生物学が発達して再び生物も機械として捉えられるようになっています。二十世紀末になって再び人間機械論が盛んになっているようです。電脳工学、ロボット工学、分子生物学、医学、バイオテクノロジー、ナノテクノロジーを総結集していずれ自己意識あるロボット、人工人間の誕生も不可能ではなくなるといわれています。

 ところでホッブズは既に、人工機械人間を作っています。それはホッブズが個人的に作ったのではありません。人間たちがみんなで強大な人工機械人間であるリヴァイアサンつまり国家を作っているというのです。人間機械論自体が国家を人工機械人間として説明するための布石だったのかもしれません。国家が人工機械人間だというのは比喩だという人がいますが、しかしホッブズは比喩だとは一言も言っていません。ホッブズを解釈する人々が勝手に比喩だと思い込んでいるだけです。

 だってそうでしょう。デカルトの動物機械というのも比喩ではありません。それを批判してホッブズは人間機械論を唱えているのですから、人間機械論は少なくとも比喩ではないわけです。そこで展開された人間概念に基づいてホッブズは、同様にコモンウェルス(=国家)は人間たちが作った人工機械人間だとしているわけですから、比喩だと解釈する余地はないのです。つまり人間は意識中枢を持って意志を決定し、身体を統御して自己保存を図る自動機械であるというのが、ホッブズの人間観です。国家もそのような機械として捉えられれば、国家も人間だというのは、少なくともホッブズの考えでは比喩ではないのです。まさしくホッブズはそのような機械として国家を説明しているわけです。こうしてホッブズは生きた全体としての国家を人格を持つ人間として捉えました。諸個人の身体に人間概念を限定する既成の人間観を突破(ブレイクスルー)してしまったのです。

 私は近代の国家法人説、国家有機体説、法人概念などはホッブズの人間観の影響を意識的か無意識的か人によって違いますが蒙っていると踏んでいます。あたかも人格であるかのように団体や国家を見なすという解釈の人が多いでしょうが、ホッブズは国家をほんとうに巨大なリヴァイアサンつまり人格を持つ巨大ロボットと見ていたのです。今では企業やその他の法人も、それぞれが生きた人間として総体として人格をもって存在していることになりますね。そう見えているか、見えていないか、そう見る感性をホッブズは持っていました。いったんそう見え始めますと、その方が凄いリアリティを感じるものです。でもあまりこんなことを強調しますと、気が触れていると思われるかもしれません。
            百人百様の人間定義

        人間の問に答えは数あれど今この時の翼求めん



 定義次第で人間は身体的諸個人だけでなく、国家や法人でも人間だと捉えられるわけですが、それはその定義が間違っているからだという批判も考えられます。あくまでも身体的諸個人だけが人間の定在だというのが、世間一般の定義であるから、それに合わせないとコミュニケーションが成り立たないというわけです。

 しかし身体的諸個人が人間だというので終りでは、人間を論じたことにはなりません。この巨大な文明を作り上げ、様々な輝かしくもあり、愚かしくもある、なかなか一筋縄では捉えられないこの人間とは何かということで古来、人間への問が問われてきました。そして人によって様々に答えられていたのです。まさしく百人百様の人間定義がなされてきたといえるでしょう。

 最も代表的な人間観は、ギリシア人が強調した理性的な存在としての人間です。いわゆる「ホモ・サピエンス」と呼ばれる人間観です。この「ホモ・サピエンス」という言い方は進化系統樹で有名なリンネという人が名づけたもので、現生人類を指しています。つまり「智恵のある者」という意味です。ギリシア時代の智恵というのは自然科学的な智恵というよりも哲学的かつ道徳的な智恵が重要です。それで「ホモ・サピエンス」は単に科学的な智恵を持つ者という意味よりも、普遍妥当的な理性を持つ者という意味になっています。

シェーラーの人間観の分類では、科学的な智恵は環境を獲得するための道具的なものですから、それだけでは「ホモ・サピエンス」じゃなくて、「ホモ・ファーベル」ということになるのです。「ホモ・ファーベル」だと「工作人」ということで、環境を人間が適応できるように道具などを使って変革する者ということです。

つまり動物だと、環境世界に適応するように目一杯進化していますから、環境が変化しますと、それに適応できるようにするためには、自らの身体を改造しなければなりません。それで種の進化が起ります。人間は環境の方を道具を使って身体が適応できるように変革するので、身体的な進化の必要がないのです。

 シェーラーは、対象を変革して適応できるようにするのだけではまだ人間の精神性を捉えていないから、人間把握としては不充分だと考えたのです。でも同一の普遍妥当的理性もギリシア人のこしらえものだというわけで、どちらも採用しないのです。

 でもどちらの人間観が正しいかということを議論してもあまり意味がありません。かつてはどちらの立場に立つかがイデオロギー的に議論されたことがありました。

 労働ではなく理性を人間の本質と捉えるのはブルジョワ的な人間観で、労働を本質として捉えるのがプロレタリア的な人間観だと真面目に説教する人もいたわけです。

 人間を捉えるにはいろんなアプローチが可能ですから、当然「理性」や「労働」や「社会的存在」等の方面から人間を規定するのはいずれも正しいわけです。大切なことはそれらの人間の本質的規定の現代的意義を問うことです。

 人間が理性的存在というのなら、どうして感情的になってしまうのかということがありますね。九.一一同時多発テロに対して、どうしてもっと理性的に解決できないのか、とだれしも思いました。それ以後、アフガンやイラクやパレスチナの事態が改善に向かっているようには思えません。

 また工作人というのなら、どうすれば地球環境危機に対応すべきか、その本領を発揮するべきです。そうした人間観の強調によって、前に進めれば意義があります。その他の人間観も人間の本質的な特徴や欠陥を捉えている限り、現代的な意義を問い直して、リフレッシュして使うべきだと思われます。

 ここですべての人間観の見直しをする余裕はありませんが、まさしく百家争鳴で人間論を大いに展開して欲しいものです。

 廣松渉さんが亡くなられてもう十年近くになるでしょうか。彼のマルクス解釈は、大いに問題ありでしたが、事的世界観を打ち出された意義は大きかったと思います。

 当然、人間観でも事的人間観というのを展開して欲しかったですね。考えようによれば廣松哲学全体が事的人間観の展開であったとも言えるかもしれません。彼は禅宗で葬儀を行っているのです。あれほどマルクス主義を自称されておられたのに。でも大乗仏教の人間観は、事的世界観に基づいた事的人間観であると言えるかもしれません。

 目覚めて仏陀になるとダルマ(法)と一体化します。宇宙は法の現われなんですね。すべての生きとし生けるものは、法の現われです。ということは仏陀の現われでもあるわけです。それで一切衆生悉有仏性(一切の生きとし生けるものはことごとく仏であるという本性をもっている)ということです。

 この仏性は実は「諸法無我」ということです。つまりもろもろの物は法の現れであり、それ自体で存在する自性はないということです。

 それで、存在は結局その刹那、刹那の自然的社会的連関によって、断続的に生じている事の連続だと言うことになります。今、この刹那、刹那に精一杯命を輝かして燃え生きるというのが、事的人間の生き方です。物としての身体的な自己への拘りなどを弾き飛ばして、過去や未来を「永遠の今」に止揚して生きるわけです。

 また事的世界観は、主観・客観認識図式を超克していることになっていますから、必ずしも身体的な自己に拘束されません。空海は太平洋を見て空と海を自己として認識したわけです。

 その意味では自己をあらゆる存在に見出せるのです。塵さえも御仏の慈悲に輝きますし、宇宙全体が自己(マハートマン)だということもできます。そして御仏というのも本当の自己のことですから、宇宙は極大化した自己です。かくして仏教はヒューマニズムの貫徹ということができます。

 私は事的世界観が素晴らしい人間観に通じていると思いますが、それだけで世界が捉えきれるものではなく、物的世界観や身体的な人間や自然的社会的諸事物の方から、その連関を捉え返す観方も必要だと思います。

              つづく
           人間論への三つの視角

  人間は思考なり人間は悲惨なり人間は交わりなり人間は範疇なり



  本質論的な人間論は人間の本質を様々に規定しますが、三木清は『パスカルにおける人間の研究』で、本質論じゃなくて、存在論というべきか、そういう人間論が展開されているのに注目しています。

つまり状態性において人間を捉えているのです。「人間は考える葦である」というパスカルの言葉は有名ですね。人間は宇宙の無限を知ってしまいました。それに比して人間存在は葦のようにか弱い悲惨な存在に過ぎないのです。

この「悲惨」というのはひとつの「状態性」です。このちっぽけでほんの刹那の命に過ぎない人間を無限の大きさと時間をもつ宇宙が包んでいるわけです。

人間を殺すのに雨の一しずくで充分だ。だが人間は宇宙の強大さや人間のちっぽけさ、「悲惨」を知っている。知っていることにおいて、宇宙を包んでいる。それを知らない宇宙よりも「偉大」だというわけです。

人間は「悲惨」であり「偉大」である。その間を揺れ動く「動性」だと状態性で規定していきます。これらは本質ではないわけです。おそらく三木は状態性を西田哲学の主客未分な純粋経験で捉えていたと思われます。

三木は「交渉的存在」という言葉を使って人間学を展開しています。大変重要なので長くなりますが引用しておきます。

「存在は最初にそして原始的には特殊なる所有を意味する。自然は我々に交わり我々の交わる存在である。」

そして注があります。

「※パスカルの意味する自然は単に状態性の関わる存在であるばかりでなく、またそれは実に人間の交渉に係わる存在であった。

彼は云う、『人間は、例えば、彼の識っている凡てのものに関係をもっている。彼は彼を容れるために場所を、持続するために時間を、生きるために運動を、彼を組立てるために元素を、自己を養うために熱と食物とを、呼吸するために空気を必要とする。彼は光を見、彼は物体を感ずる。要するに凡てのものは彼の交渉的関係のもとにおかれる』(72)。

交渉は人間が世界を所有するひとつの仕方に外ならない。世界は我々にとって原始的には『対している』存在ではなくして寧ろ『為めにある』存在である。それは対象界でなくて交渉界である。」


「人間学のマルクス的形態」にはこうなっています。

「精神科学の対象をなす歴史的社会的存在は人間を基礎として成立する世界である。自然は言うまでもなくそれの欠くべからざる要素であるに相違ないが、それはただ人間と交渉し彼の生と関係する限りに於てのみこの世界へ這入って来ることが出来る。」

歴史はひとつの人間的なる、人間中心的なる世界である。純粋なる自然主義の立場にとっては一般に歴史は存在し得ない。歴史的世界は人間がそれを作るところの、作りつつあるところの、そして彼がみずからその中に住むところの世界である。人間はこの世界に単に対立するのでなく、却て絶えず彼自身それの基本的なる契機としてそれと密に交渉する、ーそれは『対象的存在界』でなくして『交渉的存在界』である」

  これらで三木が言いたいのは、交渉的存在として人間の環境世界は存在するということです。自然的事物である太陽や月や星などの天体でも、動植物や山や川や森などでも、社会的な諸事物でも、人間との関わりで存在しているし、人間自身がその契機になっている。そして交渉的存在こそが人間の交渉的あり方だということです。

これも西田哲学が前提になっていると考えればよく理解できます。太陽も牛も花もパソコンも机も、行為的直観によって捉えれば、人間の実践のあり方なのです。

このことをマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』を読んで、西田は我が意を得たりと思ったのです。

「従来のすべての唯物論の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとでのみ捉えられ、感性的な人間的活動、実践としては捉えられず、主体的に捉えられていないことである。」

  「対象Gegenstand」つまり「事物」は、西田哲学では客体的な事物ではなく、人間の存在のあり方、五官を通して現れる自らの感覚の世界であり。実践なのです。

ところがこれまでの唯物論では、それを自分の外部に自分と対立して立っている客観的事物としてしか捉えることが出来ていないのです。

それを自己自身の実践として状態性において主体的に捉え返さなければならないということになります。これはヘーゲル的な言い方をすれば他在にあって自己の許にあるということです。たしかに客体としては身体の外部にあるわけですが、それは自己の感覚の統合であるという意味では、主体の実践でもあるわけです。

  これは身体の外部にある事物が、身体の外部でありながらも自己の感覚の統合であり、実践として自己自身でもあるということです。それで「交渉的存在」である事物が人間学を構成することになるのです。つまり環境としての事物を、三木は、人間に包摂して捉えている、人間の定在であると解釈をしていると受け止めるべきだと私には思われます。

  そこで人間の身体の外部にある事物をも人間に包括して捉えてもよいのかどうかという問題提起が、人間論の大きなテーマになってきます。環境としての自然的社会的諸事物まで人間に包摂されるのなら、それはどういう意味においてなのか、それは人間の本質定義つまり理性や労働や社会や言語との関連でどうなのかという問題です。



 
       マルクスの疎外論とその超克をめぐって

      青春の甘きすっぱき疎外論一度捨てたが又拾いきぬ



 マルクスの人間観に関して解釈が色々分かれています。マルクスは労働を類的本質として捉えていたわけで、『経済学・哲学手稿』での「四つの疎外」には類的本質からの疎外として、人間の本質である労働が目的ではなく、手段になってしまっていることをそう呼んでいるのです。そして先ほどの『フォイエルバッハ・テーゼ』には「人間の本質は、現実的には、社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」と規定しています。

 この二つの本質規定を対立させて、どちらがマルクスの立場かというように考えるのは混乱のもとです。人間は労働するという類的特徴があるのは確かです。それを否定するのは土台無理な話です。しかし個々の人間を問題にするときには、「現実的には」とありますように、労働しているかどうかは分りません。社会的諸関係の総和として捉えていくしかないわけです。

 この両規定の間に自己疎外論の払拭があったという切断論がありました。私も廣松さんの影響を受けて十年間ほど切断論を採用していたのですが、経済哲学研究会(現代思想研究会の前身)で侃侃諤諤の議論がありまして、それでははっきりさせようということになり、グルンドリッセ(経済学批判要綱)・メアヴェルト(剰余価値学説史)・ダス・キャピタル(資本論)からすべてのエントフレムドゥンク(疎外)の用例を調べ、表にして疎外概念がどれぐらいどういう主旨で使われているか確かめました。その結果、切断論は撤回せざるを得なかったのです。

 廣松さんは物象化論と疎外論を対立させます。疎外論は労働の自己疎外論ですから、投下労働価値説を否定されるわけです。しかし古典経済学から継承したのは労働こそが価値の源泉であるという発想です。これを否定したら『資本論』にならない。

 実際、『資本論』は投下労働価値説に基づいて展開されているわけです。そのことは廣松さんも否定できません。そこで廣松さんは物象化論を採る以上、疎外論的な発想で書かれた内容はマルクスの本意ではない、「叙述の便法」だというわけです。マルクス自身は「叙述の便法」だとは言っていません。そしたら物象化論と疎外論が両立するように解釈すべきじゃないかというのが私の立場です。

 実はマルクス物象化論は『資本論』では「人間関係を物と物の関係に置き換える」ことへの批判なのです。つまり価値関係というのは、労働価値説からみればその実体は労働の社会関係であり、互いに他人の労働を支配し合う関係なのです。

 それが労働が物の属性にされることによって、物と物の関係として現れてしまっている、しかしよく考えれば、物は人間でもなければ労働でもない、その物をあたかも人間関係を取り結ぶ主体であるかに倒錯視しているところから生じているのだ。という論理なのです。

 マルクスは、これは未開人の宗教であるフェティシズム(物神崇拝)だというわけです。資本主義は未開人の宗教であるフェティシズムが全面展開する社会であるというのが、『資本論』の大系になっているのです。

 文明が発達し、啓蒙されればされるほど未開、野蛮になっていくことをアドルノーとホルクハイマ―は『啓蒙の弁証法』と名付けて現代社会を批評していますが、その発想は『資本論』からきているわけです。

 私は『資本論』全三巻をフェティシズム論が体系的な展開の基軸になっているという視点から分析しなおしました。その成果が『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』(青弓社一九八六年刊)です。これが未だに私の代表作だと思っています。

 『イエスは食べられて復活した』(社会評論社二〇〇一年刊)はその副産物ですね。マルクスとイエスはつきもの信仰で共通しているということが分ったのです。そこから「イエスの復活」の謎も解けたという次第です。

 その関連につきましては「イエスとマルクスのつきもの信仰」という閻魔大王との対談形式のエッセイを参照してください。石塚正英さんとの共著『フェティシズム論のブティック』(論創社、一九九八年刊)に収録されています。抱腹絶倒間違いなしという代物です。これらはもう入手困難になりつつありますが、「やすいゆたかの部屋」に収録されているものもあります。

 どうしてマルクスが「つきもの信仰」なんだと、いい加減なことを言うなとご立腹な方もおられると思います。私もそれが分かった時は、驚きました。吃驚仰天ですな、全く。学問をやっていて、こんな驚くということが本当にあるんだということです。

 それに気付くには自己疎外論の払拭という廣松さんの影響があったわけです。プライベートの事情がありまして、それを話さなければご理解いただけないと思います。

 私にも「キルケゴールの大地震」のような精神的な事件がありました。キルケゴールの父は敬虔なクリスチャンでして、それがゼーレンにとって誇りでした。

 でも父は若き日の告白を息子にしたのです。「少年の頃羊飼いをしていたとき、落雷があって寒さに凍え、自分を貧困の境遇にした神を呪った」と語りました。

 普通ならお父さんは苦労して育って、そんな神を呪うほどだったのに、これほど敬虔なクリスチャンになって偉いと感心するはずですね。ところがゼーレンは違った。神を呪うなんて悪魔のすることだ。お父さんは悪魔じゃないか。私は悪魔の血を引いている。

 それからもうひとつ「先妻を亡くして、淋しかったので、結婚前に女中だったゼーレンの母親と出来てしまった」という告白です。これも後にきちんと入籍していますから問題はない筈ですが、ゼーレンは、結婚もせずに結ばれるなんて不義だ、私は呪われた不義の子、悪魔の血を引く不義の子だ。というような反応であったわけです。

 キルケゴールは敬虔なクリスチャンですが、私は熱心な疎外論者だったのです。私の父は小学校の教師で母は中学校の教師でした。教師は教育のために働いているので、生活のために労働力を売って、賃金を得ている賃金労働者のようには疎外されていないと素朴に信じていたのです。

 ところが何がきっかけだったか忘れましたが、たしか学部の四回生の頃だったと思いますが、父がこう言ったのです。
「自分の子供を育てる為でなかったら、学校の先生なんかしていない」と。

 これはショックだったですね。私にすれば、父は学校の児童たちを教え、育てるのが生きがいで、教師をしているはずだったのです。そのために働いているのであって欲しかった。こっちにふられるのは困ります。

 私の犠牲で両親が働いているなんて、そりゃあ精神的にこちらも気が重い、学校の生徒たちにも悪い気がしました。政治問題などでは親父とよく激論を交わしていましたが、その問題では、何か気が引けてそれ以上何も言えなかったと思います。

 教師ですら、労働力商品としての意識が強いわけですから、これは相当疎外は根が深いなと痛感しました。疎外されない、仕事自体が生きがいである仕事として教師というのがあったけれど、それは見事に自分の両親によって挫かれてしまったのです。みんな疎外されているんだということですね。みんな疎外され、人間性を喪失していきるのだということです。暗然たる気持です。

 ところが廣松さんによると、自己疎外論は払拭されているというわけです。ということは疎外されない本来の人間などというものはなくて、現実の賃金労働者や資本家や商売人や主婦などがそれぞれの人間性をもって生きているということになります。

 それらはたしかに色々問題を抱え、惨めであったり、悪どかったり、ひねくれていたりするけれど、商品経済、貨幣経済が続く限り人間の商品性、貨幣性というのはなくなりません。それらも人間性なのです。

 社会主義経済だってなかなか商品経済、市場経済は抜けきれないし、労働力も商品性を持たざるを得ないわけです。そんなことを考えると、商品性を払拭して完全な共同体社会になるのは、人間が人間であることを超えるくらい大変なことではないかという思いがしたのです。ニーチェの『ツァラトストラはかく語りき』でいう超人ですね。

 ということはかえって商品であることが人間性の本質で、商品性の超克は、人間性自体の超克といえるのではないかという気がしてきたのです。この超克は不可能ということでもなければ、目標にすべきでないということでもありません。

 商品性を人間性として捉えることによって、その内容が我々自身の存在構造として明確に捉えられることになりますし、それを乗り越える条件もまた見えてくるのではないかということです。かくして人間商品論というテーマができまして、商品としての人間の存在構造を探求していたのです。

 
 

         『資本論』の人間観の限界

    物なれど人の交わりなしたれば人と認めてなんぞはばかる



 資本主義社会は巨大な商品集成として存在するとマルクスは語ります。商品をアトムとするアトム商品社会です。資本主義社会は、現代における人間社会だから、商品としての存在構造を人間は持たざるを得ない。これは『資本論』の「商品論」は人間論に他ならないぞ、と意気込んで『資本論』分析をやっていました。大学院では梯明秀先生という当時世界でも最高水準の経済哲学者のゼミに属していたのです。

 ところが、マルクスは人間関係を商品関係に置き換えるという、物象化論を展開していたのです。物が人間関係を取り結ぶ場合の物の規定が商品なんです。その意味では商品は人間にとって代わった物の姿なんです。ですから商品自体は人間じゃないことになりますね。

しかし物が人間関係を取り結ぶのはおかしい、とマルクスは批判します。それは物を擬人化することだ、まるで机が踊りだすようなものだ。人形の軍楽隊のようなものだとは言わなかったかな。まあそういうようなもので、これはフェティシズム(物神崇拝)だというわけです。そこにはとんでもない倒錯が働いているという論理なんです。

 マルクスは物が人間でないことを頭から前提しているのです。ところが資本主義社会は商品社会であり、商品関係がアルケーになってできている。ということは資本主義社会では、人間が商品だということです。ところがマルクスは定義的に人間は物ではないから、商品ではありえないということになります。

 にもかかわらず商品が人間関係を取り結んでいると言うことは、商品が人間に成りすましている、人間たちも商品が人間だと認めて、商品関係に従ってしまっている。それで人間自体も物として扱われ、労働力まで商品化しているわけです。これはとんでもない未開宗教フェティシズムに陥った社会だということになります。どうしてそういう倒錯に陥ったのかを追求しているわけです。『資本論』全三巻はそういう視点から読むべきなのです。

 だからこれは疎外論の一種ですね。人間は本来、物ではない、でも資本主義社会では物となり、商品化されている、それで商品が人間関係を結ぶ倒錯に陥っている。やはり本来の人間性の喪失なのですから。何故そういう倒錯に陥ったのかを解く鍵は「抽象的人間労働」にあります。労働は二重性があるというのです。具体的有用労働としては、生産物の効用(使用価値)を作り出します。そして抽象的人間労働の面が、価値を形成します。

 価値が商品の社会関係を取り結ぶわけですね。当然商品の本質的な属性です。しかしまてよ、マルクスは社会関係は人間関係の筈じゃないか、だから価値関係というのは本来人間の労働関係の筈なのだ。ところが価値は商品に属している、ここに何か倒錯のカラクリがあるに違いないというわけです。

 そして一応、労働を使用価値を作るのと、価値を作るに峻別してみたわけです。この抽象的人間労働のかたまりとしての価値は人間の属性なのだが、商品の属性として倒錯されている、何故だろう?

 マルクスによりますと、労働生産物から使用価値を捨象するとそこに残っているものは、無差別な労働力の支出のつまり抽象的人間労働のただのガレルテ(Gallerte)にすぎないというのです。

 あるいは「価値としては商品は人間労働のたんなるガレルテである」とも表現しています。ガレルテというのは凝固物と翻訳されているのですが、ここでその表現にひっかかったのです。

 元々「膠質物」とか「膠状物」とかの意味なのです。つまり価値は人間労働の固まりが膠として労働生産物にくっついたものだということですね。本当はくっついた膠の部分だけが価値なのだけれど、無差別な抽象的な労働なので、無色透明で価値だけは見えないわけです。だから労働生産物自体が価値を自己の属性として持つ商品と見なされるという倒錯のカラクリになっている、マルクスはガレルテという言葉でそれを表現したかったのではないかと解釈したのです。

 このように価値は労働生産物にくっついている抽象的人間労働の「つきもの」なのだとマルクスは本気で言っていると思われますか?そりゃあ比喩でしょうといなされそうですね。廣松さんだと投下労働価値説に属する表現はすべて「叙述の便法」です。

 しかし「なんとおっしゃる兎さん、それなら『資本論』全三巻を価値つきもの論で解読できるかどうか、検証してみようじゃあーりませんか」と言いたかったですね。

 でも向うは大物で、私如き相手にしてくれません、残念ながら。それでこの本『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』を書いたのに、全く売れなかった。ここで展開する時間がないのですが、本当に価値はつきものとして生産物にくっついたり離れたりするんですよ、『資本論』では。俄かには信じがたいでしょうが。

 それはともかく、マルクスは商品である労働生産物は、人間関係を取り結んでいるけれど、人間じゃない、それを作った労働者が人間なんだと言いたいのです。ところが労働者は労働力商品としてかえって人間性を否定され、物にされている、あべこべだ狂ってる、とんでもないフェティシズムだと絶叫しているのです。

 それでは困るんですね。何故って、私は商品に人間性を求めて、人間論を展開しようとしていたのです。あれれ、マルクスとはえらい違いだ。そんな時マルクス主義者だったら自分が間違っていると思って、自分の方を訂正する人が多いでしょう。ところがお生憎さま、私はマルクス主義者じゃなかった。

 労働生産物と価値というのは切り離せるでしょうか。マルクスは価値を労働生産物に膠のようにくっつくと考えたので切り離せる、移転するものだと考えました。

 労働生産物は具体的有用労働が作ったのだが、抽象的人間労働が作ったものでもある筈です。つまり価値は抽象的人間労働の固まりである、労働生産物の抽象的な性格なのです。

 価値を人間の方に取り戻したかったから、マルクスは価値は人間労働の固まりでしかないと言って、それ自体は物ではないことにしたかったのです。しかし物になっていない労働そのものには価値はありません。物の関係でなければ商品関係にならないのですから。

 マルクスは物は人間でない、人間は物でないということに固執したのです。もちろんどんな場合でも人間は物であるとか、物は人間であるとかは言えません。例えば人間同士会話する場合に、身体的諸個人と社会的諸事物を比較してどちらが人間か、と問われれば身体的個人を人間だと言ってもよろしい。服と体を区別して服も体も人間だと言わなくてもいいわけです。服や机を相手に話し掛けても空しいわけですから。

 でも経済的諸関係における人間概念はどうでしょう。人間は労働を物に対象化し、物となった自分の労働で評価してもらうしかないわけです。価値は、労働それ自体に抽象的に存在するのではなく、物の社会的性格として評価されるのですから、人間はそこでは物になっていなくてはならないわけです。

 大工さんは建てた住居として自己の労働を評価してもらうわけです。労働とその成果は別だということに固執していては、労働に値段がつけられせんね。それで労働は物やサービスとしてまとまった形で商品価値として評価されるわけです。

 経済関係においては、物も人間の社会関係を取り結んでいるということを認め、交渉的存在として、人間学で取り扱うわけですから、人間の定在と認めればいいわけです。物が人間でないという立場は経済関係においては少なくとも成り立たないということです。
         人間の本質としての価値

     他人様の労働の実を取り持ちてヒトははじめて人間となる

商品生産社会では、人間が商品なのです。それは資本主義社会では労働力の商品化を通して実感されますが、それ以前は、人間の商品性は労働生産物の商品化によって示されます。

 それでは人間の商品化ではないと思われますね。労働生産物が人間でないのなら、人間の商品化ではないのですから。

 しかし商品交換においては、人間身体ではなく、労働生産物が商品として社会関係を取り結びます。それで物と物の関係に人間関係が置き換えられているのは物を人間と取り違える倒錯だとして、そこにフェティシズムをマルクスは見出しました。

 つまり、マルクスに言わせれば労働生産物は物であり、人間ではない。なのに人間関係を結んでいるから倒錯だというのですが、私は労働生産物が労働の成果であるという自己の性質によって人間関係を結んでいるのだったら、労働生産物も人間に含めればよいという観点なのです。

 ともかく商品としての労働生産物の本質は労働の成果だということですから、どれだけの人間労働を体現しているかということになります。その量が価値ですね。価値はそれで抽象的人間労働の凝固だということになります。

 しかしこれは価値の実体であって、価値は働きとしては、他の商品との交換力です。その商品の他の商品に対する市場での支配力といってもよい。この面をアダム・スミスは支配労働価値として見ていたのですが、リカードやマルクスは投下労働価値説だけに純化していると言われます。

 というのはマルクスは価値を事物の属性とは認めたくなかったのです。あくまでも価値関係というのは労働の社会関係であって、それが労働生産物の関係という外観を呈するのは、人と人の関係を物と物の関係に物象化的に倒錯して捉えているからに過ぎないと考えているからです。

 しかし物に成っていない労働、物の属性でない価値というのは評価できません。その意味で人間労働の固まりである価値は、それ自身物である商品の本質なのです。これを社会関係を取り結んでいるので人間であると認めれば、その場合の人間の本質は、他人の労働の成果を支配する力であるということになりますね。

 なんとハードボイルドな人間本質論ではありませんか。それは確かに言えている。人間は私的分業社会に暮らしていて、それぞれ一種類の仕事しかしていませんから、他人の労働の成果を支配する力がなければ、独力では生きていけません。

 そんな場合は他人の世話にならなければなりません。人間が社会の中で生きていく最低限度の資格として他人の労働の成果に対する支配力が必要です。それはですから、商品としての労働生産物の本質であるだけでなく、それを作っている生産者の本質でもあるということになりますね。

 生産者は他人の労働の成果を支配する力を示さなければなりません。それは他人の労働の成果である労働生産物を所有することによって示すわけです。

 どうすれば他人の労働生産物を所有できるかというと、他人から他人の労働生産物を奪い取ればよろしい。しかしそれでは暴力沙汰になってしまいに殺し合いになり、共倒れになります。それで他人にとって他人である自分の労働生産物を他人に与えて、相手に価値支配力を与える見返りに、相手の労働生産物を譲渡してもらえばよろしい。この相互譲渡が交換です。

 そこで肝心なのが労働生産物だったらなんでもいいというのではなく、他人の労働生産物に匹敵する価値を持つ必要があります。

 それにはきちんと社会的必要労働時間をその労働生産物に対象化できないといけないわけです。ひとりよがりに一時間分働いたから一時間分の価値があるとはいえません。社会的平均より能率が悪ければ、二時間働いても一時間分の価値しか対象化できないこともありますし、逆に、三十分しか働かなくても一時間分の価値を対象化できる人もいるわけです。

 そこで労働生産物は人間労働の物質化であり、労働時間が凝固したものでもあるわけです。ということは労働生産物は価値としては、労働時間の事物化であるという性質を持つことになります。労働時間は人間の現存ですから、労働生産物も人間の事物化されたものであるわけです。

 具体的有用労働の事物化としては具体的な効用ですが、抽象的人間労働の事物化としては事物の価値支配力です。つまり生産者の本質である価値支配力を物に対象化したわけです。その意味でも商品は労働生産物に対象化された人間だと言えますね。

 ところで商品が社会的に存在できるためには、特定の商品としか交換できないということでは困ります。人間は多くの種類の商品を入手し、消費することによって自己を再生産できるからです。これが特殊な一商品が他の全ての商品に対する交換力を持つという貨幣です。

 貨幣と交換できることによって、商品は普遍的な価値支配力を発現できるのです。こうして人間は、特定の効用しか生産しないにも拘らず、全ての効用を生み出しうるという普遍的な人間性を獲得します。

 この貨幣の魔術を通して、何億分の一に過ぎない個人が、全能の父として崇められるのです。もちろんしがない賃金労働者であれば、その金額は高がしれているとしても、生活に必要なものはそこからすべて賄われるのですから。家族にとっては一家の大黒柱であり、全能の父には違いないということです。

 そのように家族生活を支えることが出来ることは、父にとっては大変幸福なことです。しかしもし妻子がいなければ、自分は一億分の一でしかないわけですから、妻子はかえって自分を塵のような存在から、神へと聖化してくれる救い主なのです。

 子が救い主であるというのはそういう含意があるのです。また母は父にとって自分の子を産み育ててくれるというので、聖母マリアであるわけです。こうして家族は神聖家族になります。そのように捉えれば、夫婦の子を作る営みも神聖ですし、婚外交渉をタブーにする意味もよくわかります。

 このような家族主義的価値観にたてば、価値は単なる量的な商品支配力だけでなく、かけがえのなさや聖なる意味をもってくるわけです。しかし元々、価値は労働の成果に対する支配力の意味だったのであり、精神的な意味、聖なる意味に使われるのは、商品生産が普遍化して、貨幣の支配が貫徹することによってです。

 ところが哲学的価値論はそのよう商品人間論を踏まえた価値の意味の転換の構造を解明できていないので、価値の定義がきちんとできないままなのです。

 人間が商品性を本質とする限り、商品生産が普遍化してやがて労働力まで商品化し、自己の商品性が悲惨な形で現れざるを得ません。常に失業の危険を伴う、最低限度の生産費で売買される商品になるわけです。そうして初めて商品性の克服が課題となるのですが、それは単純に自己の商品性を拒否することによってではなく、商品性を生き抜く中で、その超克の道を探るしかないわけです。 
 何度もやり直したのですが、行頭一字空けがうまくいきません。

物も感じるのか

        滅び行く森の哀しみ誰か知る人の心は天地の心か


事物も含めて人間と言いますと、事物も考えるのか、事物に主体性があるのかと問い詰められることがあります。

商品を経済関係において人間に含めたのは、商品が考えるからではありません。労働を対象化した存在として価値をもつからです。商品関係を取り結ぶことによって、人間の社会関係を構成しているからでしたね。それで人間に含めたのでした。

ところがそれではかなりご不満のようです。「人間に含めるのだったら商品は、話をするのか、ものを考えるのか、踊りだすのか、泣きわめくのか、ウンコするのか」というように批判されるわけです。

私は人間概念を身体的な諸個人だけでなく交渉的存在全体を包括するものに広げているのですから、身体的諸個人と同じでなければならないとしたら、広げたことになりません。そしたら人間でないものを人間とすることになり、全く通じないではないか、というわけです。

ですから人間環境を問題にする場合は、太陽や水やオゾンを含めて人間的自然を構成している事物は交渉的存在として、人間世界を構成します。そうしてはじめて貫徹されたヒューマニズムは貫徹されたナチュラニズムだという『経済学・哲学手稿』の立場が生かされるわけです。

経済関係においては商品や労働生産物が人間世界を構成するわけです。人間関係は多層的ですから、それぞれの層において異なった人間概念を用いなければならないのです。「多層的人間観」と言ってもよいかもしれません。

ただし人間に含まれる以上、人間の思考や感情に全く無縁というわけではありません。近代は主観主義の時代であったわけで、すべて個人の主観の営みに意識や実践が還元されていました。しかし近代を超える時代に直面して、人間観をコペルニクス的に転換しようというのですから、当然、この近代主観主義の壁もブレイク・スルー(突破)してしまいましょう。

なんて大見得を切っていますが、本居宣長のいう「物の哀れ」「物の心」を知るということですね。西田幾多郎の言い方ですと「物となって見、物となって行う」ということです。

私はカントの認識論におけるコペルニクス的転換に匹敵するような、認識論的な転換だと勝手に自負しているのですが、主観が対象を認識するという営みは、実は、対象が主観に自己を対象化する営みと表裏一体ではないかと思うのです。

ですから主観が対象を認識するという面に即せば、それは主観の営みだけれど、それは同時に対象側の営みでもあるわけです。

言い換えれば、主観の意識は対象の意識でもあるということです。それを自我が私の意識として私有するので、客体の意識、対象の意識でもあるという面が、忘れられてしまっているのです。このような近代主観主義が、個体の生命と大いなる生命の分断を固定化してしまっているわけです。

人間に個人の意志、感情、行動に還元してしまってきたけれど、その個人の意志、感情、行動は交渉的存在である社会的事物や環境的自然、歴史的・社会的諸関係などによって生み出されたもので、事物や社会の意志・感情・行動でもあるといえないかということです。

物と言ったらなにかノッペラボ―の色も匂いも情感もない力学的な物体や、センスレス(無意味)、パーパスレス(無目的)、バリューレス(無価値)なアトムから構成された物を思い浮かべて、それらの複合としての諸事物には意志も感情も主体性もないと決めつけてしまいます。

しかしそんな物体は、それ自体抽象的な思考の産物に過ぎません。現実に我々が接している自然的諸事物や社会的諸事物は、我々の意志や感情を形成しているわけです。

太陽や月といった天体も天照大神や月読命と呼ばれていたように古代から神として仰がれていました。毎日光と熱と命を供給してくれ、生活のリズムを刻んでくれていたわけです。

月の満ち欠け、太陽の高さなどで感情が大いに左右されるものでして、古来様々な歌にも詠われていますね。それは確かに個人の身体的な感覚から生じた意識としては、個人の意識かもしれませんが、太陽や月がそれらの感情を作り出しているという意味では太陽や月の感情だともいえるのです。

しかしほとんどの人はこう反発されているのではないでしょうか。オイオイ、そりゃあヒドイぜ。太陽はただ何も感じることなく照り輝いているだけだ。勝手に人間がめいめいで感じているだけじゃないか。

満月を喜ぶ人もいれば、有明の月なんていって、ほとんど欠けてあさぼらけに冴えない様子で出ている月にひときわ風流を感じるひねくれものだっているわけだ。それを月が知っているわけじゃなし、月に感情なんかこれっぽっちもあるわけないんだ。

でもそういう反論をする人は個人の身体と太陽や月をそれぞれ別物だと対置して、その上で、身体の方に感情が生じると捉えているわけです。もちろんそうした捉え方が必要であり、正しいわけですが、それはあくまでも物と物の関係として世界を捉える場合でして、そのような観方だけでは、世界は捉えられないわけです。

三木清が「交渉的存在」として事物を捉える場合は、その事物は人間との関わりで存在する事物であり、人間世界を構成し、人間が見、感じている事物です。つまり人間の経験として存在している事物なのです。

ですから、Aさんが見ている太陽と、Bさんが見ている太陽は、たとえ同時で同じ太陽であっても違う太陽なのです。

月にたくさんの名前がありますが、経験としての月は、毎日違う月なのですから、満ち欠けの状態でたくさん名前がつくのです。

経験としての事物が様々な感情を惹き起こすとしても、その感情を感じているのは事物ではなくて、心の側ではないかという反論が予想されますね。しかし朝日がほのぼのとした希望の感情を伴い、夕日が胸に切なく迫ってくるの時、太陽と感情は一体のものではないでしょうか。そのことを本居宣長や西田幾多郎は「もののあはれ」「もののこころ」「物に成る」と表現したのではないでしょうか。

もちろん感情を持たない、物理的な天体としての太陽を経験としての太陽の実体として推論するのはいいのですが、そういう太陽は、我々が経験している太陽とは違う科学的な太陽です。それを持ち出して太陽自体は何も感じないのだと言われても困ります。

自然的事物に日本人は物のあはれを強く感じてきたのですが、本居宣長の「もののあはれ」は陽明学の「万物一体の仁」からも強い影響を受けているのではないかと思います。でも残念ながら、宣長が陽明学にどの程度造詣があったか証明する史料がないのです。

 陽明学の「万物一体の仁」の立場では、生民の疾痛を吾身の疾痛と感じない者は是非の心なき者だと言います。これも「もののあはれ」です。あるいは「純粋経験」ですね。

 今、子供が井戸に落ちかけている、その時に子供と自分は別人だと考え、子供を助けることの意味を問い掛けていたのでは、子供は死んでしまいます。自分の経験であり、自分の危機なのです。事物や人の喜びを共に喜び、苦しみを共に苦しむという「共苦」を通して我々は大いなる生命につながっていきますが、そのときに人の心は「物の心」「天地の心」だと実感できるのです。
      

           物も考えるのか

     考える事とは何か山海がその哀しみを語ることかな



 「人間は考える葦である」というパスカルの言葉はあまりに有名ですが、何も考えることのない事物まで人間に含めるのはヒドイじゃないかというのが、私の人間論に対する素朴な疑問と言うか、常識的な反応です。

 しかし私が考えていると言うことは、私の脳髄が考えていることであり、私の身体が考えていることです。ということは天地が考えていることではないでしょうか。

 考える主体は何かということを物質的に特定することは困難ですね。大脳生理学で前頭葉に特に大きな反応が考えているときに起っているとしても、だから前頭葉が主体というわけにはいきません。同様に身体だけが考える主体というのも無理があります。

 思考は自然的社会的な諸関連、個人的社会的な知的蓄積や体験を前提に、物事に触れて生じてくるものです。思想家や文学者は個人的な主体性が,思想の生命だとばかり、自己の思想の独自性を競いますが、しかし既成の思想の焼き直しであったり、外国の流行思想の受け売りでしかになかったりすることが多いですね。

 それはやはり個人の思考は同時に社会や人類の思考の現われでしかないという面があるからです。私の今日の話も例外ではないでしょう。このことをフーコーは「人間の死、言語の支配」と表現したのでしたね。

 乗用車の運転者は、乗用車という自動輸送機械の意識機能を補完しています。本来乗用車は人や荷物を目的地に運ぶ機械ですから、できれば運転手がいなくても自動的に運んでくれるのが理想です。

 しかし現在ではまだ意識機能を機械が持っていないので、運転者が乗り込んで、意識機能を補完しなければならないのです。ですから運転者の意識は、乗用車自身の意識として働かなければ、安全な運行はできません。酒気帯びなどで運転されますと、乗用車の意識からずれてしまって事故を起してしまう危険性が高いのです。

 つまり乗用車という機械は運転者を含んでマン・マシーンシステムとして個体なんです。産業革命以降は身体が主役から補助役に交代したわけです。それまでは生産において、身体が主役で道具を使って生産していましたが、産業革命以降は機械が主役で、機械の補助役として身体が働いているのです。そのことをマルクスは何か倒錯した事態のように誤解しているのですね。

 つまりマルクスの労働価値説では身体的労働だけを労働とするために、機械などの価値対象化を認めることができないので、労働者の労働が機械の価値をつきものとして移転させる展開になっているのです。

 機械を生産主体として認められない,機械が人間労働を行うことを認められないのは、機械が人間ではないという誤解があるからなのです。それはおそらく機械が意識機能を持っていないという理由からでしょう。もちろん機械だって意識機能なしに生産活動を行うことはできません。しかし巨大な機械が動いて実際に生産活動を行っているわけですね。そこにはちゃんと意識機能が働いているのです。それは身体を機械の付属品として取り込んでいるからなのです。

 ですから身体の意識は機械の意識として機能しているのです。そこで身体が考え、作業していることは機械の考えであり、機械の作業と捉えるべきなのです。

 生産活動を人間の活動と規定するのなら、身体を付属した機械を人間として捉えるべきです。そして機械を操作している人間の意識を機械自身の意識としてとらえるべきなのです。そして機械は身体なしでも意識活動が出来る方向に発展していきます。それが感覚装置と電子頭脳を備えた機械であるロボットなのです。

 なんだ機械が考えるといっても。結局身体の頭脳が考えているのじゃないかと安心された方もおられるかもしれませんね。どうしても事物が考えると言うのは納得できない、気が狂っているとしか思えないかもしれません。

 しかし原理的に文化を再定義しますと、それは思想の身体化を含む事物化ではないかという気がします。言語自体も思想のシンタックスを伴う音声化であるわけですが、その思想が様々な身体表現をはじめとする事物表現を得たものが文化ではないでしょうか。歌や踊りや工芸品や様々な道具や祭祀など人間の思想が事物として現れているわけです。それらを解読したり、使用したり、消費したり、再生産したりすることが考えるということでもあります。

 書物には文章という形で思想が集積されていて、それを読むことが考えることですね。読むと言うと読んでいる人の行為であるわけですが、同時に書物が自己の思想を読んでいる人の脳裏に展開する作業でもあるのです。ですから読んでいる人が考えると言うことは、書物が考えを展開することに他なりません。読む人の主体性だけに任せるとなかなか読んでもらえません。読ませる力、内容、工夫が必要なのです。

 事物にという形で文化になった思想は、事物として思想を語っています。ピカソの絵画『ゲルニカ』は戦争が大虐殺に他ならないという思想を語り続けていますし、水瓶は、水を貯蔵しておかないと困ると語っています。

 さまざまな道具はそれを使って仕事をし、暮らしが立つようにせよと命令しているわけです。道具を使うことはさまざまな考えることを伴いますが、これも使う側だけの思考ではなく、道具の思考でもあるという面をもっているのです。

 刀があまりに切れ味が凄まじいと妖刀と呼ばれて、持つ人がつい辻斬りをしてしまうといわれますが、「人の血を吸いたい、早く人を斬らせてくれ」と持ち主に誘いかけているのです。まさか刀がそんなことを考えないだろうと思われますか、刀にはそういう思想が物質化しているのです。

 原水禁運動で大問題になったのが、核兵器それ自体が悪かどうかです。米ソとも相手の核兵器は世界侵略のための悪い核兵器だが、自分とこの核兵器は侵略政争を抑止するよい核兵器だというのです。それでソ連や中国の核兵器に反対するかどうかで散々もめましたね。

 よく考えて見ますと、核兵器はやはり持っていると使いたくなるものです。これだけの破壊力があるぞとさかんに自己アピールをしているわけですから。核兵器は敵を絶滅したいという思想の物質化であり、そういう思想やそれに反発する思想を常に人々の中に生み出しています。そういう形で核兵器も苦悶しつつ考えているのです。
          化身としての身体と事物

       草薙の剣を置きて吾はなし氷雨に打たれ露と消えゆく

ヤマトタケルは「草薙の剣」の化身だと書いておきましたが、八股大蛇から取り出された天叢雲の剣は、この列島の生命力の化身ですから、これに逆らうことはできません。

そこで朝廷の支配に逆らうと、この剣に成敗されてしまうのです。まつろわぬ連中が暴れ出すと、剣は自らが人格化したヤマトタケルを生み出して、大活躍するのです。

新羅にも天日鉾伝説があり、鉾の化身のような王子がいたことになっています。物の神の世界では、当然物の精神が人格化して英雄に化身します。勾玉は山幸彦を、鏡はアマテラスに化身したかもしれません。

父と子と聖霊が神格としては三つであるが、実体としては一つだというような訳の分らない「三位一体説」をキリスト教徒は編み出しましたが、剣と英雄が実は一体というような捉え方があったのです。

太陽と鏡と巫女は全く別の姿ですが、どれも実体はアマテラスという神なのです。嵐と剣と荒ぶる英雄の実体もスサノウという神であるということです。

おそらく実体は霊でしょう。霊といいましても魂は玉でもあるわけでして、物として捉えられていました。物部の物は武器の意味にも、霊の意味にも使われます。物部氏は巨大な軍事集団てあり、祭祀集団でもあったわけです。

霊は変身します、あの世に行くのに鳥になったり、蝶に成ったり、魚に成ったりします。また霊は玉になって人の命をまもります。あるいは霊はその集団によって作られた武器や道具としての姿をとるのです。

古代の日本の信仰においても物も神も人の身体もみな大いなる命である霊の姿としての同一性をもっています。人間学的に読みかえますと、人間は身体であるだけでなく、社会的諸事物や環境的自然も包摂するということになりますね。

それは古代の迷信ではないかというお怒りを賜りそうですが、人間の生命の循環は動植物や水や雲だけでなく道具や住居や装飾品、武器や農産物に及んでいました。つまり人間の生命がないように見える事物にも生命を感じていたのです。

現代人は人間の生命循環をどう捉えているでしょうか。巨大な産業廃棄物も含めた人間の生命循環捉えているでしょうか。相変わらず食物連鎖のことだとしか考えていないのではないでしょうか。

特に無生物の部分が圧倒的に大きいものですから、産業循環を生命循環とは捉えられなくなっています。しかし「大いなる生命の共生と循環」を考えるとき、産業循環を含めなければお話になりませんね。

 グローバルに展開している生産・流通・消費機構、資源の巨大な消費と産業廃棄物の処理、これを抜きに人間の生命を語ることは出来ないのです。私が人間概念を身体外の事物を含めるべきだという場合、当然この環境問題があります。

 これに対して確かに物質文明によって生命が脅かされているけれど、それは人間の生命活動を超えた、物質が肥大化し過ぎたためであり、何も機械や生産物まで人間に含める必要はないのではないか、という反論が予想されます。

 古代でも専制国家ができると象徴的に巨大建造物が現われ、人民が圧制で苦しめられました。産業革命後、機械の発達につれて、圧倒的な物量の建造物、巨大機構、大量の生産物の中に身体的な諸個人は埋没し、無力になりつつあります。こうした情況下で、諸個人の主体の回復は絶望的にも見えますね。

 しかしこの一見人間の外にあるかにある社会的諸事物や環境的自然は、人間の感性や知性の現れであり、人間の定在でもあるわけです。それらを他者としか見ないのではなく、それらも含めた人間を捉え返すことによって、産業循環も含めた人間的生命の共生と循環の哲学が語れるのではないでしょうか。

 梅原猛の大いなる生命の共生と循環の哲学は、人間中心主義から脱却ではなかったのか、ところがやすい人間学は徹頭徹尾、人間中心主義ではないかという懸念の声も聞こえそうですね。いや、その懸念の声で意味する人間中心主義の人間は、身体的な個人を人間と考える既成の人間観の枠内にあります。

 私の人間観の転換は、「身体的な人間」中心主義を脱却して、交渉的存在である環境的自然や社会的諸事物を含む大いなる生命を「人間」に包摂して、その共生と循環の哲学を構築しようということです。

 では何故その包摂したものをすべて「人間」と呼ぶのかということですね。それは人間の環境世界を構成する要素であり、人間的自然や人間社会を主体的に構成している単位だからということにしておきましょう。



         むすびにかえて



 例によって、とっくに予定時間をオーバーしていますので、早々に切り上げますが、感想として私が予想していますのが、一つは既に三木や西田などの展開した人間学の枠内にあって、新味がなく陳腐ではないかという反応です。確かに彼等が既に示唆しているといえることではあるのですが、それを三木や西田の人間学のテーマとして研究者たちはきちんと中心に押し出してきただろうか、そういうことができてないのに、あっさりそんな批評をする人がいるものです。

 パースの「人間記号論の試み」については特にそうですね。パースは事物が他の事物を指し示す事物の記号的性質を人間だと言いました。それは既成の人間論を完全にブレイク・スルーしています。

 しかしパース自身その命題をそれ以上展開しようとはしなかったのです。もちろんパース解釈者たちも、その意義を指摘した私の論稿を無視したままです。それでいて、そんなのとっくにパースが言ってるでは困りますよね。

 でも確かに社会的事物に人間性を認める発想は、ある意味で常識に極めて近いものでして、改めて強調しますと陳腐という批評が返って来る危険性が高いものです。しかしそういう批評をする人が本当に社会的諸事物を人間として認めているかどうかは、極めて怪しいですが。

 もう一つの反応は、相変わらずの反応です。概念の乱用に過ぎず、人間以外のものを人間に含めることによって、コミュニケーションを阻害する議論に過ぎない。というそっけない反応です。

 私に言わせれば、身体的個人だけを人間とみなし、それ以外は人間でないと見なしてよい場面と、それではすまない場面があるわけです。

 『資本論』は経済的諸関係を取り扱っているのですが、身体的個人しか人間と認めないため、資本主義は未開人の宗教であるフェティシズムの倒錯に陥ったことになってしまったのです。その場合は、社会的諸事物を含めた人間概念を構築しなければならなかったということです。

 グラムシも「社会的諸関係のアンサンブル」という概念に到達したのですが、身体的個人からみて他在である組織や歴史的、社会的諸事物を含めた「歴史的ブロック」としての人間概念に改革すべきだと語っているのです。

 とはいえ、一番難しいのは、環境的自然や社会的諸事物を「人間社会を構成する主体」に置こうとする場合に、主体概念や実体概念の脱構築という問題でしょう。これは意識や思考の物質化、対象化として社会的事物を捉えた上で、事物が身体に自己を対象化し、定立する作業を事物の思考として認めるということです。これはコペルニクス的な認識論上の革命ですから、容易には納得されないでしょう。

 最後に一言、実は私自身、この人間観の転換は、人に話してはならないことのような気持があるわけです。もし話しても、とても共感は得られないだけでなく、狂気の沙汰として相手にされないかもしれない。

 しかしこれを話さなければ、私の哲学を話したことにはならないわけで、陳腐にして狂気と評されることは覚悟の上で、あえて問題提起をさせていただいたということです。  
こちらでは、初めまして。。。

少し疑問に感じたことがありますのでお聞きいたします。

===
とはいえ、一番難しいのは、環境的自然や社会的諸事物を「人間社会を構成する主体」に置こうとする場合に、主体概念や実体概念の脱構築という問題でしょう。これは意識や思考の物質化、対象化として社会的事物を捉えた上で、事物が身体に自己を対象化し、定立する作業を事物の思考として認めるということです。これはコペルニクス的な認識論上の革命ですから、容易には納得されないでしょう。
===

ですが、アフォーダンス理論と同一の視点のような感覚を抱きましたが、異なっているのでしょうか?
アフォーダンス理論の延長線上として捉えるのであれば、「個人的に」は、至極納得のいく話に思われましたので、お聞きしております。
 私はアフォーダンス理論についてはほとんど知りませんが、環境や対象が主観の認識を構成する主体でもある面を捉えているとしたら、同一の視点といえるでしょう。
 
 私の場合、それは同時に主観の側の関心相関性と合致ということを前提します。そのことを通して人間概念の転換を遂げているとしたら、私の言う人間観の転換の先駆を成しているといえるでしょう。

 きすぎさん、できましたら「アフォーダンス理論の延長線上として捉えるのであれば、「個人的に」は、至極納得のいく話に思われました」その内容を展開していただけませんか、ちょっとアフォーダンス理論に興味が湧いてきましたので、コメントを是非お願いしたいと存じます。
やすい様

数年前にまとめたものなので、現時点での思考と若干のずれがあるかもしれませんが、下記を参照してください。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4597/afordance-1.htm

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