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人間論および人間学コミュの「ネオ・ヒューマニズム」宣言

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私の人間観について新しいネーミングを考え付いたので文章化してみました。皆さんのご意見を伺えたら幸いです。ご批判ご質問どんどん書き込んでください。



  「ネオ・ヒューマニズム」宣言
  −現代ヒューマニズムを超えてー

 「ネオ・ヒューマニズム」というネーミングが浮かんだ。これまで人間環境や社会的事物まで含めて人間として捉える人間観を何と呼べばよいか、試行錯誤してきたが、近世ヒューマニズム、近代ヒューマニズム、現代ヒューマニズムを超克する新しいヒューマニズムという意味で「ネオ・ヒューマニズム」が単純明快でいいような気がする。

 近世ルネサンスは欲望や感性、人間の能力の再評価から始まり、神中心から人間中心へということで古典古代のヒューマニズムを復興させたが、それが北欧ルネサンスになって内面の信仰の確立へと向かい、聖書中心主義のとなり、宗教改革に行き着きついた。

 近代ヒューマニズムは近代市民社会の中での個の自立と関連する。それが認識主観の確立となって、ベーコンの経験論やデカルトの哲学の第一原理としての「コギト(考える我)」の確立となり、客観的な自然の法則的認識による自然支配が、近代の機械文明の原理となった。自然を支配しようとする人間中心主義である。その成果が近代の科学技術である。

 現代ヒューマニズムとは、疎外論や物化・物象化に対する批判、フェティシズム批判論である。人間が作り出した近代工業文明が巨大化して、手に負えなくなり、人間性が失われるようになったことへの抗議である。人間は機械や物の一部になり、物として扱われる。物である商品や機械や生産物が、人間社会をとりしきり人間として君臨し、諸個人の主体性は喪失し、全く無力な存在になってしまったというものである。そういう状況に対して人間の主体性の回復を求めるのが現代ヒューマニズムである。

 ネオ・ヒューマニズムは、人間が生み出した人間環境、社会的諸事物も含めて、人間存在を捉え返す。つまり人間でない物が人間を圧迫し、人間性を奪っているというようにひがまないで、それらも含めて人間社会の諸関係ができあがっているのだから、身体的諸個人だけに人間の領域を限定しないで、人間存在をもっと包括的なものとして見直そうという発想である。

 社会的な事物を含めて人間とみなすことはフェティシズム(物神崇拝)的倒錯であるという批判が現代ヒューマニズムから帰ってくるが、それは身体的諸個人のみに人間の領域を固定してきたからそう思えるので、人間は自分たちが作り出した諸事物や諸関係によって再生産されていて、諸事物や諸関係が交渉的存在として、人間社会を諸個人とともに規定し、動かしているのだから、それらを除外した人間概念では人間は捉えきれない。

 実際、人間性は身体やそこに宿る自我にのみあるのではなく、社会的諸事物が構成する文化の中にこそあるのだ。それらを人間から差し引いていくとたまねぎの皮をむくように人間には何も残らなくなる。

 物の中にも人間性を求めると物を人間化することであるから人間の物化であり、人間性の否定であるという批判があるが、それは物と人間を対極概念と置いてきたからでしかない。

 逆に環境的自然や社会的諸事物を人間に包摂するのは、コスモス(世界)の人間化であり、人間中心主義の最たるものではないかという批判もある。これも人間対環境、人間対自然、人間対物の対置に固執するからで、人間は環境や自然や物と離れて、別に存在するわけではない。世界それ自体が人間のあり方なのである。

 もちろんこのネオ・ヒューマニズムは、既成の人間概念や人間観を頭ごなしに却下するのではなく、それぞれに有効な範囲で既成の人間概念を使い、身体的人間観や個人の我に固執する人間観に生きることを否定するのではない。人間性の回復を巨大な機械文明に対して叫ぶ現代ヒューマニズムの発想も大切である。しかしそれらにとどまっていては、ならないのであって、それらを包摂したうえで、人間観の転換に基づいて、環境的自然や社会的諸事物を包括した人間に目覚めるべきことを訴えたい。




コメント(20)

思いついたまま「ネオ・ヒューマニズム」というネーミングをしてしまいましたが、ネット検索をするとすでに使用されていることが分かりました。中身の規定がないだけにどんな内容でも新味があれば、ネオ・ヒューマニズムを名乗れるわけです。

 まあ撤回することもないでしょう、もっとぴったりした表現が見つかるまでは、「人間環境や社会的事物まで含めて人間として捉える」というただし書きで使っていくことにします。

 それにしてもネットというものは便利なものですね。
現代ヒューマニズム、というのはすんなり分かるんですが。労働疎外の問題だとか、イメージしやすい。そこを揚棄した地平であろうネオ・ヒューマニズムとなると、なんだか壮大なようで、つかみようがない感じで、いまいち実感がわかないような気がします。
 書き込みありがとうございます。このコミュニティは、なかなか会員からの書き込みがもらえないので、寂しい思いをいたしておりました。今後ともよろしく。

 希流さんの実践的な問題意識に沿って説明させていただきます。

 「これまであったあらゆる唯物論、それにはフォイエルバッハのものも含まれます。その主要な欠点は、対象や現実や感性が客体あるいは直観という形式のもとでしか捉えられていなかったことです。つまり人間的な感性的活動、すなわち実践として、主体的には捉えられていないということです」

 これは希流さんもよくご存知の『フォイエルバッハ・テーゼ』の実践的唯物論の部分です。「対象や現実や感性を客体や直観の形式でなく、人間の感性的な活動である実践として主体的に捉え返しなさい」という意味です。

 つまり世界やそれを構成する諸個人や機構や諸事物は、自分を押しつぶす他者として敵対的に迫ってくるわけですが、それは実は、自分自身の現実であり、人間存在の姿なのです。そのように世界を己の実践の契機として自分自身の中に包摂して捉え返したときに、初めて冷静にどう自分の状況を変えられるかを分析できるわけです。

 以上の説明で分かりにくいようでしたら、更なるご質問を、返答が長くなっては読みにくいので、ここで切ります。
私は他のコミュでやすいさんの所説を目にしまして、気に入って一方的に褒めていたわけです。
誤解している可能性はあるかもしれないですが。


>身体的諸個人だけに人間の領域を限定しないで、人間存在をもっと包括的なものとして見直そうという発想・・・

>人間性は身体やそこに宿る自我にのみあるのではなく、社会的諸事物が構成する文化の中にこそあるのだ。


という文は素朴に正しいと思えるわけです。

やすいさんの原点はヘーゲルやマルクスの疎外論・物象化論にあることは読み取れます。
本当は労働や商品が話題の中心になるべきなのかもしれない。

しかし私の場合は哲学者ではないですし、基礎概念を積み上げて体系的な思考をするというわけでもない。
私にかぎっては共感の根拠のひとつは、「エコロジー」だと言えると思います。
「動物と環境の相互依存的な関係性」はエコロジーの基本原則ですが、この考えが頭にあると「ネオヒューマニズム宣言」の文は、私にとっては独特の意味があるわけです。
エコロジーは、踏み台としては適当なモデルではないでしょうか。
 エコロジーの前提になっているのがユクスキュルの環世界論(日高敏隆さんは環境世界論とは訳さずにこう訳します)でしょう。マルクスは、人間の環世界を人間的自然というわけで、道具や衣服や人間の生産物や環境的自然も含めて非有機的身体と呼んでいます。非有機的というのは器官としては身体に含まれていないけれど、生きていく生活活動の要素として身体化しているということですね。

 蚤なら蚤にとっては環世界は蚤的事物から構成されているわけで、蚤の身体の身体が蚤であるだけでなく、世界は蚤的事物の集合として蚤の世界が出来上がっているわけです。蚤は蚤的世界全体を対象にして初めて理解できるわけです。それは人間的世界においても同様で、歴史的社会的にさまざまなバリエーションがありますが、人間世界を構成する事物によって出来ているということです。

 ですから生態系全体を人間として捉えるネオ・ヒューマニズムは、エコロジカルなヒューマニズムなのですが、ヒューマニズムは最近ではマイナスイメージで理解されていて、人間中心主義が自然を破壊したので、ヒューマニズムに止まっている限り駄目で、脱ヒューマニズムを明確にしなければ、納得いかないという人が多いですね。せりさんは脱ヒューマニズムに対してはどのようなスタンスを取られるのですか。
「脱ヒューマニズム」とはどういうものかわかりません。
客観主義でしょうか。
理性中心主義や西欧中心主義に対する反対ならなんとなくわからんでもないですが。

もちろんそのヒューマニズムが「人道主義」のことでないことが前提ですが。
 梅原猛先生も脱ヒューマニズムの典型ですね、最近の私との対談で次のように語られています。

「そして人間中心のつまり理性中心の哲学をソクラテス、プラトンが作ったのです。そういう哲学は結局は人間中心主義になります。人間中心の哲学がやはり西洋の文明を産んでいるのです。それをやはりもういっぺん人間中心の哲学から宇宙中心の哲学に変わらなくてはならない。そういう人間を神とするような哲学を否定して、つまりデカルト哲学を否定して、もういっぺん太陽中心の哲学を構成しなければなりません。

 だから近代哲学は、私はやはり、近代というのは太陽が地球の周りを回っているというそういうのに対して地球が太陽の周りを回っている、つまり天動説から地動説、近代科学は地動説だけれど、近代哲学はまだ天動説ではないかということを考えているのです。だから地動説の哲学を作らなくてはならないのです。これはえらいことですね。

 近代哲学を天動説だと批評するのはもうものすごく多くの哲学者は怒ると思いますが、あえてやらなければなりません。人類が生き残るためにやっぱり地動説の哲学を作らなければならないというように考えています。」

 これは大学での学生のコメントでもありましたが、人間は自然の一部でその中で生かされているとしいう謙虚な気持ちにならないといけないのに、やはり自然を人間に包摂しようというのは傲慢ではないかというわけです。
>7

梅原先生の言われる事理解できませんねえ。
プラトンまで遡行してこの文明のありかたを批判するなら、それ自体理性の仕事でしょう。
エコロジーだって別に理性を放棄した思想でもなんでもなくて、自然科学の真っ当な成果ですから。



ただ宇宙中心哲学というのは一定の興味を惹かれます。
ピアジェの発達心理学なんかですと、幼い子供の認識は自己中心的なんだと言います。自分中心に世界を認識している。そこから「脱中心化」して客観的世界の中に自己を位置づけるようになると。
人類の認識史にもそういう発展があるかもしれないとは思いますね。

とはいえそれは具体的な方向性が見えて来ないと何とも言えませんね。
ぼんやりと空海を思いうかべますけど。
梅原さんのおっしゃることは理性的でなく悟性的な気がします。やはり、あくまで人間の理性を最高存在におくべきだと思います。
 逆説的に言えば、脱ヒューマニズムの立場で覚ってしまうと、結局その人の意識は自然の意識になり、梯明秀的に言うならば、地殻の自己反省ということになります。それは人間を脱しているようで、人間の理性なのですから、私は人間の概念を身体的限定から解き放った方が筋が通ると考えて、脱でなくネオにしているわけで、まあ言いたいことは梅原先生と近いとは思っているのですが。

 人間の理性を最高存在という表現をすると、語弊があるというか、誤解や反発が強いですね、人間理性が自然を認識し、支配するという形で、近代の主観主義的偏向や、自己疎外が起こったわけです。つまり理性という言葉は存在と対置されて観念に堕していると受け止められがちなわけです。

 本当はせりさんが注目されているように事物というのが感覚が構成した人間の心なのであり、物と心、物質と精神の二元論を止揚した形で捉えるべきなのでしょう。認識論と存在論の統一といった方がいいのかもしれませんね。

 だから私は、目に見えない超越神を信仰するという形は、理性信仰というか、主観性の論理なわけです。それに対して素朴に太陽や海や川や穀物や蛇や熊を信仰するというのは二元論ではないわけですね。日本的霊性というのは元々はそういうものだったと思います。そういう原点を見直すことも大切ではないでしょうか。

 梅原先生の脱ヒューマニズムは、結局太陽信仰であり、主観性の論理を批判されて、それが一神教批判ともなっているわけで、そういう意味で自然や生命への還帰なのです。私は、そういう志向を包摂する形でネオ・ヒューマニズムを説いているつもりなのですが。
読み返してみて意味が通じにくい文章だったかなと反省しています。

 せりさんの注目されているギブソンの心理学ですが、まだ入手できていません。このところ講義がはじまっててんやわんや状態です。私の察するところ既成の心理学というのは、心が身体内にあることが前提になっていましたから、心が世界をどう解釈するのかは、内心の問題として主体の受け止め方次第みたいにみられてきたわけですが、実は見えている世界、体験している対象がその人の心なのだとすれば、むしろその人の問題は、社会的な諸関係や諸事物、環境的自然の問題ではないのかということですね。その意味で、事物も環境も人間だというように受け止めてもいいのでしょうか、この解釈でいいのか、修正したり、補足すべき点をご教示願います。
遅レス失礼しました。

>心が世界をどう解釈するのかは、内心の問題として主体の受け止め方次第みたいにみられてきたわけですが、実は見えている世界、体験している対象がその人の心なのだとすれば、むしろその人の問題は、社会的な諸関係や諸事物、環境的自然の問題ではないのかということですね。

そういうことです。
良い関係も悪しき関係もあるということです。
「心理主義」と申しまして、現代人の特に若い人は、過剰に内省的だということが言われています。「自分探し」という考えや行動にそれが現れています。
社会の側もシステム上の不都合を個人に持ってゆく言説が多いですね。「自己責任」なる珍語がそれを物語っているかと。

必要なのは、関係のあり方を探索することなのだ、と考えています。
ニッチ(生態学的地位・棲家)という用語が鍵になるかと思います。ニッチにおける生命活動を、拡張された「わたし」として捉え返すことが健全な方向だと考えます。

ネオヒューマニズムについて、某トピで厳しく批判する人がいましたが、あの人も自己責任的な考えが背景にあるようにみえます。


わたしは「ヒューマニズム」というラベルには関心が薄いのかもしれません。
しかし社会関係や環境的自然を「人間」とすることには異存はありません。
「ネオ・ヒューマニズム」という事物を人間として捉えるという新しい人間観を表現する言葉を暗中模索していたわけですが、「カテゴリーとしての人間論」とかではインパクトがないですし、内容的なことは抜きにして、現代ヒューマニズムを超克する新しいヒューマニズムですね、そこには身体的個人に囚われないとい意味では脱ヒューマニズムの問題意識を包括しているつもりなのです。ただヒューマニズムを名乗っているだけに、既成のヒューマニズムからだけでなく、脱ヒューマニズムの人々からは反発がきそうかなという気がします。

 でも中身を吟味していただければ、事物を含めて人間を捉える発想も必要だということであって、これまでに欠けていた視点を補完しようというわけですから、決して既成のヒューマニズムや脱ヒューマニズムと対立するわけではなく、それらを包括し得るような地平を切り開こうという問題意識なわけです。

 既成のヒューマニズムからはやはり、人間と事物を同じ地平に置くこと、そういう意味で価値的な水平化が起こることに反発が強いわけですね。つまり人間の尊厳は自由意志にあるとか、人間は考えることによって宇宙を包み、その意味で人間は宇宙より偉大だとか、我思う故に我有りだから、考える我が全ての根拠だというような主観性の立場に拘っているわけですね。

 それは人間は道具ではなく、事物が道具で、道具を人間としたり、人間を道具と考えたりしてはいけないという不文律があって、これに触れると逆鱗に触れたことになって激しい拒否反応が起きるわけです。しかしそういう発想こそが厳しく問い直されるべき時になっているということでしょう。
>既成のヒューマニズムからはやはり、人間と事物を同じ地平に置くこと、そういう意味で価値的な水平化が起こることに反発が強いわけですね。つまり人間の尊厳は自由意志にあるとか、人間は考えることによって宇宙を包み、その意味で人間は宇宙より偉大だとか、我思う故に我有りだから、考える我が全ての根拠だというような主観性の立場に拘っているわけですね。


ははは。面白い。
面白いです。やすいゆたかさん。

ここまで固定化されている「既成的ヒューマニズム」と「既成的脱ヒューマニズム」を包含するところの「ネオ・ヒューマニズム」というものを論じる立場-その-さまに対し、『もうホントに総てを振り出しに戻す』にも似た方向性を感じると同時に、『皆に、一旦、馬鹿になることを勧める』に近い流れ方の必要すら感じますところであります。

人間の経験におき、そこに「実際についての情報」というものがあるということ-その-情報の受動は、同時に「それが情報であったという事実」により人間の無意識下に残りつつ、「情報は情報としてそれは記憶にしか残っていない」という現象も然りであると考えます。

要するに、「脳内においては行為に伴うほどの地動説化はされてない」という事実があって然りであるということを私は云いたいというわけです。

ですから、今・正にやすいゆたかさんがなさりつつあると思われるご行動-それ-はやすいゆたかさんご自身が仰いますように「>これはえらいことですね。」なのであります(笑)。

私がこうして笑っておりますのは、やすいゆたかさんに対し、独特の「尊敬心」を抱いていることの現れであるとご解釈くださいませ♪

では、また何か「思うところ」あったら書き込みさせていただきます。
ティナさん
おっしゃる意味が明確には読み取れませんので、何と反応したらよいのかわかりません。
ともかく最新作『ネオヒューマニズムの疎外論』をお読み下さい。
関連あると思いますので。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/tuiron.htm
訂正
間違い 最新作『ネオヒューマニズムの疎外論』
正しい 最新作『追論 ネオヒューマニズムと疎外論』
>おゃっしゃる意味が明確には読み取れませんので、何と反応したらよいのかわかりません。

確かに「明確」には書いておりません。
「明確に書く」ことにより「モノ」が主流となるからであります。つまりが「作られた物が人間に含まれる」という感覚的受動性が受け手において無くなるからであり、例えば(これはやすいゆたかさんも仰るように)「靴を履く人間」上にある「靴と人間」との関係性におき、「明確に『靴』に着眼する」ところでは『履かれている靴における人格性』が疎外されてしまうのと同様であるところから、私には「明確に書くこと-其処-からは離れる]」ということが(それを謂うやすいゆたかさんを前にすればごく自然的に)自ずと起きてくるわけであります。(言葉も「モノ」ですから)

さらに何故を云わせていただくとすれば、、
それはやすいゆたかさんご本人が、

「>もちろんこのネオ・ヒューマニズムは、既成の人間概念や人間観を頭ごなしに却下するのではなく、それぞれに有効な範囲で既成の人間概念を使い、身体的人間観や個人の我に固執する人間観に生きることを否定するのではない。人間性の回復を巨大な機械文明に対して叫ぶ現代ヒューマニズムの発想も大切である。しかしそれらにとどまっていては、ならないのであって、それらを包摂したうえで、人間観の転換に基づいて、環境的自然や社会的諸事物を包括した人間に目覚めるべきことを訴えたい。」

ということや、

「>生産物からの疎外は、作り出した人から作られた物が自立して、作った人を圧迫してくる場合に言われるわけです。つまり、作られた物が作った人に属さなくても、作られた物が人間に含まれるといえる場合もあるわけですから、ネオヒューマニズムが自己疎外を論じてもおかしくないのです。」

ということや、

「>生産物が原理的に非人間的な事物で、生産主体が主体的な人格でしかないという図式にとらわれていますと、原理的に生産物を自己自身として捉え返すことができません。それに対して、生産物を自己の非有機的身体として捉え返せるならば、他者的な疎外された関係は非本来的な関係だということができるでしょうから、疎外からの回復が見通せるわけです。」

ということや、

「>脱ヒューマニズムを明確にしなければ、納得いかないという人が多いですね.」

と、仰っていらっしゃるからであります。
では私に対する批評を超えて、このネオヒューマニズム的人間把握に対して、ティナさん御自身の考えを対置していただければ幸甚です。
>では私に対する批評を超えて、このネオヒューマニズム的人間把握に対して、ティナさん御自身の考えを対置していただければ幸甚です。

まあ、おそらくそう来ると思いましたし、やすいゆたかさんとしても「そう返すしか手が無い」こともわかりますし、「そう返すことでしかやすいさんご本人のメンツが立たない」というのもそうなのでしょうが、お断りします。

仰るところの「幸甚」という語から、やすいゆたかさんご本人の『は〜〜??! 俺様に向かって何ゆーの?このティナってヤツぅー!! ああ、そうかよ、そんならテメエの考えをここでゆーてみーむかっ(怒り)』との本音が丸見えです。

大切な「自分の考え」なので、特に、やすいゆたかさんには教えません♪

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