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人間論および人間学コミュの神・自然・人間ーバイブルにおける人間ー

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この論稿は『月刊状況と主体』の一九九二年二月号に掲載されたものです。
『やすいゆたか著作集 第二巻 人間論の大航海ー上』に編集し直す予定ですので、ここに掲載いたします。

ーーーーーーー第一章 神・自然・人間ーバイブルにおける人間ーーーーーーー

ーーーーーーーーー第一節 イスラーム〈絶対帰依)ーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーー1湾岸戦争の背景ーーーーーーーーーーーーーーーーー

□ペルシア湾岸戦争はイラン・イラク戦争で負債を抱えたイラクが、負債の棒引と利権の拡大のためにクゥェートを侵略したのが直接の原因です。その意味では、撤退しなかったイラクに非がある訳ですが、何も経済制裁の効果も見極めないうちに猛烈な空爆を加えることはなかったのにと思います。

 イラクはいわゆるパレスチナ問題とのリンケージを提起し、イスラエルの占領地域からの撤退が先決だと主張しました。国際的な常識から見ればイスラエルの撤退を要求するのだったら、その資格を得るためにも、先ずクウェートから撤退すべきだったのです。

□ところがイラクにすればクウェートの併合は失地回復だし、クウェートを獲得してイラクの強大化を計るのはひとえにパレスチナを解放し、アラブの統合を目指すというアラブの大義のためなのです。ここでクウェートを手離し、債務から経済的困難でじり貧になったら、アラブの盟主になってイスラエルを追い出すという野望を遂げることができなくなってしまうと思ったのでしょう。

□この事情を察したアラブの民衆の中には、これはアラプの大義のために遂にイラクが立ち上がったのだ、待ち望んだアラブ解放の指導者が現われたのだという捉え方をした人も多かったようです。それがあったからこそ今のうちにイラクを軍事的に叩きのめす必要があるとブッシュ大統領も読んだのでしょう。

□ともかくイスラム教徒の中には偽りの平和のまま屈辱に生きるよりも、聖戦に死ぬ方が復活の日から永劫の楽園の生活が約東されているから絶対得だ、と素朴に確信している人も多いのです。戦争は化学兵器や核兵器の使用という最悪のシナリオに至らず、収拾されたのがせめてもの救いでした。

□背後にイスラム教とユダヤ教の対立、欧米先進国と中東周辺国の対立を抱えているだけに、今後も永く尾を引きそうです。元々ユダヤ人もパレスチナ人も宗教が違うだけで民族的には全く同じなんですね。みんなアブラハムの子孫なのです。

□ですからパレスチナを非宗教国家にして、ユダヤ人もパレスチナ人も全く平等にすれば一番よいのです。ユダヤ人国家に固執している限り真の平和はあり得ません。でもイスラエルというのは元来がヤハウェ信仰の共同体なのです。イスラェル建国運動であるシオニズムは、父祖の地に還ってユダヤ人国家を造る運動ですからなかなかそうはいかないんです。

□次善の策としてイスラエルが占領している地域をパレスチナ人に与えて、パレスチナ国家を造ることです。

コメント(32)

------------------------2ヤハウェとアラーは同一の唯一絶対神---------------------------

□ところで意外と知られていない事があります。ユダヤ教の神はヤハゥェで、イスラム教の神はアラーでしょう。名前が違うからてっきり別の神で、両方ともそれぞれ自分の神が唯一絶対だと信じているから激しく対立していると思ってませんでしたか。

□ところがそうじゃないんです。実は名前は違うけれど同じ神を信仰しているんです。同じ神がへブライ語でユダヤ人に与えた預言(予言ではなく神の言葉を預るという意味です)が旧約聖書です。

□彼らが神の言葉に従わなかったのでイエスを新しい預言者にして与えた福音が新約聖書です。だからイスラム教徒からみればユダヤ教徒もキリスト教徒も神の啓示を受けた「啓典の民」なのです。

□キリスト教徒は唯一神信仰を捨てて、三位一体論でイエスの神格化を行ったので、神に見捨てられました。それでアラビア語でムハンマド(マホメット)に新しい預言を与え、教義の明確化を計ったのです。

□「イスラーム(絶対帰依)」という根本思想もバイブルの「アブラハムの信仰」から由来しているのです。アブラハムは百歳になってから授かった最愛の息子イサクを燔祭として神に俸げるように要求されます。アブラハムは全く躊躇せず御心に従って息子を殺そうとしたとき、天使が現われて「ドッキリカメラでした」否、「これはテストで合格です」という趣旨のことを言って、止めたのです。

□神の命令ならばたとえ全人類・全宇宙を滅ぼせと言われても実行するのが、イスラームなのです。人倫からみた道徳的な善悪は超越しているのです。神の正義のためには、言い換ればそれが神の正義のためだと確信したことのためには、非人道的な事でも敢えてできるのが本当の信仰だというのです。

□これはイスラム教だけではなくユダヤ教やキリスト教にも共通します。ですからキリスト教徒は毎日神を畏れて、「試みに合わせず、悪より救い出し給え、アーメン」と祈りを棒げているのです。

もちろんジハド(聖戦)こそこの試みの場であることは言うまでもありません。

-------------------第二節 へブライズムの形成-------------------------

--------------------1バイブルは寄せ集めた本------------------------

□ユダヤ教とイスラム教は唯一絶対の超越神信仰という点では共通しているのです。キリスト教にしても、その三位一体信仰は唯一神信仰に背いていると非難されますが、少なくとも主観的には唯一神信仰なのです。バイブルとクルアーン(コーラン)を比べますと、宗教的深みや文学的価値はさておき、教義が単純明解であるという意味からはコーランに軍配が挙がります。

□バイブルは諸書という意味でして、ユダヤに伝わる文書を集大成したものです。唯一絶対の超越神信仰も次第に形成され、発達したものでして、バイブル全体が同じ教義で一貫しているわけではないのです。

------------------2神の子と人の娘の合いの子ーネピリムー---------------

□唯一神信仰にしても「創世記」や「出エジプト記」には矛盾した記述が見られます。ノア以前のことですが、「人が地の面に増えて初めて、娘達が彼らに生まれた時、神の子達は人の娘達が美しいのを見て、自分の好む者を妻に娶った。そこで主は言われた。 『私の霊は永く人の中にとどまらない。彼は肉に過ぎないのだ。しかし彼の歳は百二十年であろう』 。

□その頃、またその後にも地にはネピリムがいた。これは神の子達が人の娘達のところへ入って、娘達に産ませたものである。彼らは昔の勇士達であり、有名な人々であった」(創世記、第六章)。

□なんと神の子達がいて、人の娘と結婚し、人と神の合いの子までいたのです。人と神との絶対的な断絶に基づく超越的な唯一神信仰とはおよそかけ離れています。神と人の結婚から生まれた子が部族の族長になるという類型は、ギリシア神話など多神教ではよく見受けられます。その痕跡が残っているのかも知れません。

□ヨブ記にも第一章に「ある日神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた」という表現があります。

ーーーーーーーーーーーー3単一神信仰の名残ーーーーーーーーーーーーーーー

□ノア以後、神は契約神の姿を明瞭にしますが、これも唯一絶対の超越神信仰であったかどうか疑問です。モーセが神の山ホレブで神の名を問う有名な場面があります。そこで神は「あなたがたの祖先の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗っています。それで族長の名をとって神の名にしているので、神は族長の守護神のようなもので、それぞれの部族は族長の守護神だけを崇拝する単一神信仰だったとも推量できます。

□自分達の部族が信仰している神だけが唯一つの本物の神で、他の部族が信仰している神は皆偽者の神だという信仰が初めからあったのか疑問なのです。

ーーーーーーーーーーーー4へブル人の神の勝利ーーーーーーーーーーーーーー

□モーセに対して、神は自分をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と同一の神だとしたわけですから、この段階でそれぞれの族長神はへブル人の単一神に統合されているわけです。「出エジプト記」のエジプト脱出説話では、へプル人の神がエジプトの神々に打ち勝っ形をとっています。このクライマックスが「過ぎ越し」です。

□「その夜私はエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣と全ての初子を打ち、またエジプトの全ての神々に審判を行うであろう。その(犠牲の子羊の ) 血はあなた方のおる家々であなた方のために印となり、私はその血を見て、あなた方のところを過ぎ越すであろう」(第十二章)。

□さらにエジプト脱出成功に当たって、イスラエルの人々の神への讃歌では「主よ、神々のうち誰があなたに比べられようか、誰があなたのように聖にして栄えあるもの、褒むペくして恐るべきもの、奇しき技を行うものであろうか」(第十五章)と謳われています。

□これ等の引用からこの段階では最もすばらしい神と意識されていたとしても、まだ唯一の神だとは考えていなかったことがわかります。「十戒」の中で「あなたは私の他に何者も神としてはならない」とあり、これが唯一神信仰の宣言と思われますが、解釈によっては「自分の神としてはならない」とも受取れます。

□もちろん創世記神話の天地創造神がイスラエルの民を選民としたとする説話には唯一神信仰がはっきり現われています。しかし、各説話の成立時期についてはバイブルの順序通りではないので、唯一神信仰の成立時期の確定は難しいのです。

□ともかく族長神に対する単一神信仰から出発して、他の民族神との対決、勝利を経て絶対化し、へブル族の神が天地を創造したとまで主張されるようになり、その結果唯一神信仰が確立したという順序でしょう。

-----------------------5「見えざる神」信仰----------------------------

□へブライズムとへレニズムを比べますと、へブライズムの神は超越神でへレニズムの神は自然神だと区別されます。超越神論では、神と自然は創造者と被造物の関係にあります。神自身は自然から絶対的に断絶しているのです。神は無から有を産み出します。神の言葉がそのまま存在になるのです。

□これに対して自然神論では、神は自然それ自体であり、自然を貫いて存在する普遍的な原理であるとされます。具体的な個々の自然物を神だと考える形と、個々の自然物の中に宿っている生命=魂を神だと考える形と、個々の具体物は生成消滅するから神ではないけれど、類は不滅だから類を不死なる神と考える形があります。

□へブライズムの超越神の成立の動機は二つ考えられます。一つは唯一神にまで絶対化されたので、神が天地まで創造したとされて、その結果、創造主体として被造物である自然全体から絶対的に区別されたという契機です。もう一つは「見えざる神」信仰です。どうもへブル人だけが古くから「見えざる神」を信仰していたらしいのです。

□部族の中には、その部族を守護する単一神を祭っていた部族が多かったようなのです。その起源はトーテム信仰です。部族は部族としてのアイデンティティを確立するために、自分たちをなんらかの動物と同一視して、その種類によって他の部族と区別していたのです。自分たちはその動物の生まれ変わりだし、死ねばまたその動物に生まれ変わるとも思っていたのです。その動物の像を造って守護神にしていました。

□ヘブル人にもトーテム動物があったらしいことはモーセが、神の山からなかなか帰らなかったときに、子牛の像を造って神にしたことから窺えます。ではどうして「見えざる神」信仰になったのでしょう。

□山形孝夫は『聖書の起源』(講談社現代新書)で、へブル人たちが半流浪民であったことから説明しています。大河の流域やオアシスには定住民がいて農耕を営んでいました。砂漠にはペドウィン族が居て、これが定住民を襲って略奪を生業にしていました。定住民も強力な国家を形成し、軍事力に優れていれぼ良かったのですが、文化の発展と反比例して軍事的には弱体化しがちなのです。そこで定住民の耕地の周辺に半定住のへブル人を寄留させて、護衛してもらったのです。

□へブル人は定住民から貸し与えられた土地で半農半牧の寄留地生活をしていました。もしへプル人の数が多ければ定住民は征服されてしまう恐れがありました。少数だったので寄留が可能だったのです。しかし不安定で中近東の地域を永年流浪しなければならず、彼らが献身的に働いたカナンの土地でもやっと墓地を手に入れただけで、定住することはできなかったのです。

□定住民は農耕文化を発達させ、宗教的にも農耕に関連した自然神信仰を発展させます。カナン地方には大地母神アシュ夕ロテや雷神バウル、河の神エール等の信仰が根付きました。しかしへブル人にとってはあくまでもそれらは他民族の神です。自然は彼らのものではなかったのです。

□彼らは自分たちの団結によって強力となり、べドウィンを退け、さらに仲間を増やして自分たちの土地を手に入れなければなりません。ただ民族の団結だけが頼りなのです。こうして眼には見えない団結の力が信仰の対象になって、「見えざる神」信仰が成立したとされています。

□そのことはパイブルに書かれているわけではなく、宗教学者の推測ですが、説得力はあります。非常に主体的な信仰ですね。見えざる神を信じ、団結して事に当たれば活路は開かれるけれど、自然や他民族の恩寵を当てにしていたら弱体化して、やられてしまうと肝に銘じていたのです。「見えざる神」信仰と自分たちの神は絶対だという信仰が結合して、自然から断絶した超越神信仰が成立したという理窟です。
----------------------第三節「YHWH」解釈をめぐって------------------

-------------------------1神の名は「存在」か?------------------------

□ところがこの超越神信仰に関してもバイブル解釈上問題があるんです。それは先ほどの神の名前に関するさわりです。モーセに対して神はこうも答えているのです。出エジプト記第三章です。「神はモーセに言われた。『YHWH asher Y HWH (邦訳は〈わたしは有りて有るもの〉)』。また言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい、〈YHWH という方が、わたしをあなた方のところへ遣わされました〉と』」。

□「YHWH」は「EHEYEH〈エへイエー〉」の略字だとしますと、古代ヘブライ語「ある」の一人称過去形ですので、邦訳のような意味になります。そこで神の名前は「存在」だということになり、ヘレニズム的な神解釈と共通性が生じたのです。

□へレニズムでは神は自然の外に在って無から有を産み出すような超越的存在ではあり得ません。そして不死が神概念の中心でしたから、個々の生成消滅する事物や現象ではなくアルケー(根源物質、原理)だとかプシュケー(生命=魂)だとか類だとかイデア等が真実在であり、神的な存在と考えられていたのです。オリュンポスの神々もその神格化なのです。存在が神の名なら自然の内にある摂理と受け止めてもいいわけです。

□実際、神の名を「存在」とする中世のキリスト教神学では、プラトンやアリストテレスの影響が強く、へブライズムと ヘレニズムが融合しているのです。

□けれども素直にバイブルを読む限り、神は超越的な人格神です。内在的な自然神とは考えられません。神は同じ第六章で、「イスラエルの主」であるとも名乗っていますし、イスラエルと契約し、それに基づいて審判する神です。

□またバイブルの神は超自然的な神であり、それゆえに他の総ペての「神々」から区別されます。神は決して姿を現わさず、土くれや木や金属で偶像にされたり、動物や人間の姿で現われることを絶対的に拒否しています。極端なことに名を呼ばれることすらいけないと言うのです。音声も相対的な自然物には違いないということが一つの理由と考えられます。
ーーーーーーーーーーーーー2YHWHは神の暗号か?ーーーーーーーーーーーーー

□もっとも最新の聖書学の趨勢では、 YHWHがEHEYEHの表記であるという決定的な証拠はないという見解が有力だそうです。神を限定して捉えさせる効果を生みがちな、神の名付け自体が禁止されていた結果、神を示す暗号として用いられたとされているのです。

□私のような素人が口を挟むと、この解明に人生をかけて取り組んでいるプロパーの人たちに叱られそうですが、この解釈も矛盾しています。元々名付けは長男を表わすから「太郎」にしたり、桃のように美しくという願いから「桃子」にしたりしますが、全く規定してしまうことを狙ってはいません。

□名付けの主たる役割は記号的なものに過ぎません。音の響きのよさや画数の吉凶などから意味のない名前が選ばれる事も多いのです。神の場合は意味もなければ発音もできない「YHWH」だから結局、「名無しの権兵衛」と同じと解釈するひともいます。 

□でも名が無いとするなら神は名付けられない程超越的で絶対的な存在だと説明したらよかったのです。発音できないにしても「YHWH」だと名乗った以上、名前になってしまいます。無理に発音して、それで後世エホバやヤハウェと呼ばれたのです。

□それにバイブルの他の箇所における名乗りは「全能の神」や『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イスラエルの祖先の神」や「イスラエルの主」などで意味のある名付を自ら行っています。

□契約が絶対に履行されること、イスラエルの族長神であり、絶対的な支配者であることを宣言しています。これだけいろいろ名乗り、正式の名前とも言っでいるのですから、名無しと解するのは無理があります。

□それに名前に意味が無いというのも余り説得力がありません。神の名として「YHWH」が出てくれば、意味のある名として解釈されることになるのは当然てしょう。

画像はヤハウェの「聖四文字」右から読む。
ーーーーーーーー3ストーリーからの「エへイエー」解釈ーーーーーーーーーー

□私は、神がへブラィ語で動詞「有る」の第一人称半過去形にあたる、「エへイエー」を名乗ったと読み込んでいます。現代聖書学の成果よりも、物語としての「出エジプト記」から受ける印象の方が私には説得力があるものですから。聖書学者には失礼かも知れませんが致し方ありません。

□へブライ語については無知ですが、「YHWH」を「エヘイエー」と解するのが正しいとしても、「私は存在だ」と名乗ったのではなく、「私は存在する」あるいは「私は存在してきた」と名乗ったことは否定できないでしょう。そんな変てこな名前はおかしいかも知れませんが、「エへイエー」には名詞や補語がありませんから、文法的にはそう解釈すべきです。

□つまりこれはイスラエルの人々へのメッセージなのです。「私はちゃんといるよ!忘れたら駄目だよ!」と告げているのです。ヘブル人たちはヤコブの末の息子ヨセフ以来、四百年にわたってエジプトにいたようですから、その間にエジプトの地で増え、エジプトの文化にも馴染み、宗教的にもある程度同化したと考えられます。父祖から伝えられた神との契約についても昔話として受け止められ、信仰心も薄れていたと考えられます。

□そこで神は自分がイスラエルの父祖の神である「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると名乗り、父祖と交した契約は神と共に今も生きていることを告げたのです。彼は契約神ですから神の存在と契約の有効性は同義なのです。

□バイブルによりますと、ヨセフは夢の謎を解読する超能力によって、エジプトの実権を委ねられるほどの権勢を持ったのですが、彼の死後はへブル人が増えたので、強力になって国を奪う事を恐れた王が、へブル人に奴隷的な苦役を課すようになります。

□そこでへブル人を救い出してカナンの地に帰してやろうと神がモーセの前に現われたのです。モーセは生まれてすぐに、へブル人の初子を殺せという王の命令から逃れるために篭で河に流されたのです。運よくエジプトの王宮で救われて育てられていたので、全くへブル人の伝説を知らなかったのです。大きくなってから出生の秘密を知り、ヘブル人に鞭打つエジプト人を殺してしまって逃亡し、神の山ホレブに辿り着いたのです。

□このような出エジプト劇の展開から考えて、モーセが神に名を尋ねた時に「私の名前は存在です」と答えるのは場違いです。そんな言葉を聴いてその意味をじっくり考えるような状況にモーセもへブル人たちもいなかったのですから。

□それに突然唐突にも暗号で名乗るのも納得いきません。ところで「私の名前は『私は存在する』だ」と答えるのなら納得がいきます。つまり神は「契約は生きている、これからイスラエルはエジプトから脱出し、父祖の地に戻って建国するのだ」と宣言しているのです。これこそシオニズムの原型です。神は「わたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナン人、ヘテ人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した」とモーセに神の言葉を告げさせます。

□契約神であるイスラエルの神は、いったん契約した以上、契約の絶対的な履行を要求します。何がなんでもエジプトから脱出させるのです。エジプト王パロはモーセのヘブル人の帰還要求を蹴り、さらに苛酷な苦役をへブル人に課そうとします。

□神はヘブル人がエジプトにとてもいられなくなるようにするために、エジプト王まで利用するのです。その上で神は「私は主である」と宣言します。イスラエルの民は神に服従を誓った以上、絶対的に命令には従わなければならない、力ナンへの帰還は主である神の意志であり、僕であるイスラエルの民はその意志に絶対服従すべきである、というのが神の立場です。

□そこで神の位階名としての「イスラエルの祖先の神」や「イスラエルの主」が出てくる文脈と、呼び名は無いとする聖四文字YHWHの文脈は、全く異なった文脈であり、バイブルの発展により「出エジプト記」に混在しているという解釈も成り立つようですが、これにはコメントはとてもできません。あまりに専門的過ぎます。出来上がった作品世界から受ける印象から素人の解釈を述べたまでです。

------------------4ロマンとしてのイスラエル建国劇---------------------

□エジプトでの苦役が実際にどれほどであったのかは、わかりません。出エジプトも大変な苦難ですから、留まるも地獄、行くも地獄でなかなか決断がつかないのです。へブル人の意志統一にもかなり困難があったことが窺われます。

□神が主であると宣告することは、実際はへブル人の中の帰還運動派のリーダーであるモーセが、へブル人全体に専制的な支配権を確立する宣言に他なりません。個々のへブル人には帰還するか残留するかの選択の自由は認められないのです。

□このように権威としての神への服従は、神の言葉を独占的に預言する預言者への服従となり、後には神によって油注がれた王への服従となります。権威主義的な信仰は信仰者の自主的な判断を排斥し、権威への服従が善であり、義務とされ、自主的な価値判断、選択が神に背く悪とされるようになります。

□その結果人々は、人格を喪失して、自主的な判断力を持てなくなり、権威を振りかざした権力者の扇動的な言辞に陶酔して盲従することに、宗教的な情熱を感じるようになるのです。でも現代人であるわれわれが権威主義的専制的な信仰に対して、個人的で内面的な信仰を対置し、それを古代のエクソダス(脱出)期のへブル人に要求するのは筋違いでしょう。

□神の意志を掲げるモーセへの絶対服従と狂信的な宗教的情熱に支えられてこそ、民族の存亡を賭けた巨大な建国ロマンが最初のクライマックスを迎えることができたのです。

□そしてこの感動体験がユダヤ民族の原点にあればこそ、バビロン捕囚にも耐え、亡国後のディアスポラ(離散)による幾多の凄絶な受難を耐えることができました。そして近代のシオニズムによる建国運動を見事に実らせ、非常に強力なイスラエル国家を建設したのです。

□この偉大さに比べれば、ユダヤ人にとっては古代カナン人や現代パレスチナ人の犠牲など取るに足らない事ですし、中近東や世界が深刻な危機に陥っても、それはユダヤ人が上演したスペク夕クルの感動で充分に償えているはずなのです。

□それにイスラエルはアラブの大義という新しいロマンをアラブ世界に与えてあげたのですから、感謝されてもいい位だと思っているのです。

□唯一絶対な神や原理に対する信仰は、多様な出来事や人々の営みに体系的な統一性と方向性そして確信を与えます。それが民族の結東や世界史の統一に巨大なエネルギーを与えた事は、その内容がいかに低劣で野蛮であっても、大量虐殺の繰り返しであっても、銘記しておくべきです。その教義体系は文明の発達によって更新され理性的なものに啓蒙されていきます。

□いつまでも絶対的な権威が専制的な権力によって支えられ、理性の圧殺によってはじめて受容されるようでは困ります。とはいえ価値相対主義だけではやっていけないのです。近代において唯一絶対の原理は、盲目的には功利の原理を基底にした資本の論理として貫徹しています。それを自覚的に否定し、真向から対抗したのがマルクス主義です。

□二千年代が開始されるにあたり、人類がどのような統一原理を選択するかはやはり重要な問題なのです。もちろん平和・自由・民主主義・自然保護の全てを重要な価値として含んでいないと通用しません。
--------------------第四節 フロムの宗教心理学の問題点--------------------

-------------------------1アダムの「嫉みの神」--------------------------

□パイブル自身の中に、権威主義的な面と自律的人間主義的な面が含まれていることに注目し、ヒューマニズム的な信仰を再評価したのが、『ヒューマニズムの再発見』(原題エーリッヒ・フロムの You hall be as Gods 『ユダヤ教の人間観』に改題、河出書房新社)です。

□フロムはそこで「アダムの嫉みの神」「モーセの名の無い神」「マイモニデスの属性の無い神」を取り上げ、彼自身の立場である宗教的な「?体験」へとヒューマニズム神学を展開しています。

□ヒューマニズム神学では、神は人間の理想の姿であり、到達すべき目標です。イカロスが臘で固めた鳥の翼を背中につけて太陽を目指したように、オリンピアで競技者たちが人間の限界に挑戦するように、人間が人間の限界を超えて神に迫ろうとするところに肯定的な意義を見出すのです。

□アダムは禁断の木の実を食べて善悪を知る存在になりました。放っておくと今度は生命の木の実まで食べて永遠の生命を得、神のようになるかも知れません。神は自分の領域が犯されるのを恐れてアダムとエバをエデンの東に追放したのです。

□これが「アダムの嫉みの神」です。神に迫ろうとしたという意味ではヒューマニズム的と言えますが、逆にこの説話は断絶を示す追放劇でもあるのです。

-----------------------2モーセの「名の無い神」-----------------------

□「エへイエー」という神の名前は先程述べましたように動詞「私はある」の半過去形です。それは現に「私はある」という意味ですが、完了していませんから既に何かの物に成ってしまったのではない、生成・過程だとフロムはいうのです。物に成っていないから未だ名前がありません。そこで「エへイエー」という名前は、神は生成・過程であって神には名前が無いということを意味する、神の名前は「名無しの権兵衛」というわけです。

□これがモーセの「名の無い神」ですが、どうしてこれがヒューマニズム的かと言いますと、彼は物に成ってしまったら神ではないというのですから、前に成りつつある状態すなわち生成・過程が神だというわけで、神を自然自体の営みに還元しているわけです。

□しかも彼は独特の主観客観図式の超克を行っており、それを人間の体験として捉え返しているのです。自然の営みも人間の実践も、人間にとっては全て人間の経験や体験として現われますので、人間自身の生成・過程の体験が神なのだということでしょう。

□この議論は説得力がないですね。だって、神が生成・過程でしかないという議論は、言い換れば神は完成ではないということになり、神を相対化する議論になってしまいます。

□ところがバイブルの神は全智全能であり、完全者です。だから人間を超え、人間と断絶しているのです。本音はともかく建て前はそうです。神は人間に対して「お前なんか塵だ」と冷たく言い放つ事ができるのです。神が物でないのは、神が生成過程であり、完成ではないからでは断じてありません。その逆です。物が被造物でしかなく、有限で相対的なものであり、生成消滅するはかない存在であるからなのです。

□第一、物が完成であり、生成過程ではないという物に対する理解が問題です。生成過程にある物も何らかの物に違いありません。物は運動し、変化しています。本質が変わって次の物になる前はやはり別の本質を持つ物だったわけなのです。

----------------3マイモニデスの「属性の無い神」------------------------

□マイモニデスは十二世紀後半に出たユダヤ教最大の神学者です。彼は神の絶対的統一性と無形性を主張しました。神の属性はすべて否定形によってのみ表現されるべきであると主張したのです。これが「マイモニデスの属性の無い神」です。

□また律法の目的は理性と徳性の健全な発達を促し、神の知識と神への合一へ人間を導くことにあるとも主張しています。フロムは、マイモニデスが神を肯定的な属性で語るべきでないとし、沈黙において語るべきだとしたのに関して、神を主体に取り戻す論理だと評価するのです。フロムは、属性が無いということを非対象的であって、だから主体的であると受け止めたのでしょう。フロムの考える主体が抽象的な貧しい主体であることがわかります。

□神と人間の断絶(=超越)と合一はアンビバレントなテーマです。ですからマイモニデスが合一を主張しているからといって、必ずしも超越の否定していとは限りません。

□マイモニデスは、神には人格がないから擬人化された表現はすべて比喩だと理解します。アリストテレスのごとく第一原因を神としているのです。それで、あれこれの属性を神と考えないのです。確かに神を理性の昂揚と解したようですが、この神の主体化も理性をいわば実体化し、月面からの放射によって人体に入るものとします。死後の魂はこの実体化された理性と合一するとされているのです。だから人間の主体的体験に神を還元するフロムのヒューマニズムとは全くかけ離れているのです。

□またマイモニデスはメシアの到来や、審判による死者の復活なども信仰箇条に入れています。これらも超越的な理性としての神を前提にしていると言えます。
ーーーーーーーーーー4フロムの「?体験」ーーーーーーーーーーーーーーーー

□フロム自身は、神を人間から切り離し、人間の外にある超越的な存在だと考える超越神論は、権威主義的神観念だとして、これに彼自身の「X体験」をヒューマニズム的な宗教的体験として対置しています。

□われわれは有限ではかない生命を生きていて、様々な苦渋を嘗め、つまらないことに神経を磨り減らして生きています。でも生まれてきて良かったと、それで有限な生命を納得し、そこに永遠の意義を与えることができるような、そんな体験をすることがあります。

□フロムの「?体験」もおそらくそのようなヒューマンな体験なのでしょう。そしてこの体験こそ生きている存在なのであり、それに対して物は死んでいるのです。生きている真実の体験ができない人間がその代償として死んだ物を大切にし、有難がり崇拝したり所有しようとするのです。

□彼は七十六歳の時の著作を『TO HAVE OR TO BE』(邦訳『生きるということ』 紀伊國屋書店)と名付けています。つまり「持つこと」は真実に生きていないので、自分自身の体験ではない死んだ物を持とうとすることです。それより真実の体験に生きることつまり「あること」が本当の喜びと充実をもたらすのだと主張したのです。

□とてもラジカルで純粋な思想です。すべての超越的な権威を退け、真実の生命の輝きに生き抜いたフロムの生涯は深く心を打ちます。でも主体的に生きるためにも客観的な社会や自然について対象的に捉えることが必要です。事物を単に死んだ物と捉えるのではなく、対象的な存在として活きた主体として認識しなければなりません。その上ではじめて自己の活動的な契機にすることができるのです。
--------------------5神との断絶と合一のアンビバレント-------------------

□バイブルにおける超越神論的要素とヒューマニズム的要素は、単純に対立しているのではなく、実は相互補完的なのです。元々「見えざる神」は共同体の団結の神格化であり、極めて主体的なヒューマニスティックな神だったのです。

□この神の力を絶対化することによって権威主義的な超越神になったわけです。しかしそれは自分が絶対化した神によって救済されようとして行った疎外ですから、自己の疎外態である神の救済によって、神と合一しようとするヒューマニズムが基底にあるわけです。

□どうして絶対的で超越的な唯一神でなければ救済されないかと言いますと、有限で相対的な自然の力では、到底無理だと思われたからです。超自然の力であるからこそ自然の運命を克服できるわけでして、人間に対立した自然を超越している神は実は「見えざる神」であり、建て前では絶対的に否定していても、潜在的な意識の中では共同体の団結の力の権化なのですから、合一が可能なのです。
ーーーーーーーーーーー第五節 偶像崇拝の排斥ーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーー1侵略を合理化するのに利用された偶像崇拝排斥論ーーーーーーー

□さて超越神論は自然物との絶対的な断絶に固執します。自然の摂理も実は厳密にはへレニズムの神であって、へブライズムの神ではないのです。そのような摂理も含めて神は自然を創造されたのです。

□自然の摂理を超越して神の力は発揮されます。被造物の力は創造者の力であるという意味では自然の恵みは神の恵みですが、そこから神を自然に還元したり、自然自身の創造的な営みと捉えることは、神を相対化することになるのです。

□神と自然の断絶の最もシンボリックな表現が偶像崇拝の排斥です。有限で相対的な事物によっては神は表現し得ないし、神を表現すること自体が神を土塊や木切、金属片に相対化する瀆神なのです。

□もちろん動物や特定の人間を神格化するのも神を貶める行為です。神の名誉のために偶像崇拝を排斥し、神を侮辱する行為を止めさせなければなりません。本当は止めさせるだけでは駄目で、神の怒りは激しいですから偶像崇拝を行う部族は絶滅させる義務があるのです。

□これがカナンの地を征服してイスラエルを建国する際の、侵略や大量虐殺を合理化する論理であることは容易に推察できます。何故神は、「ヨシァの踏む土地はヨシァの領土となる」「ダビデに地の果てまでも所領として与える」と言ったのでしょう。それは彼らが「見えざる神」を信仰していて、偶像崇拝を行わなかったからなのです。

□神を瀆すものは神から見放されます。当時イスラエル人以外はすべて偶像崇拝を行っていましたから、イスラエルの全地支配は当然なのです。「盗人にも三分の理」と言いますが全く主観的に造り上げた論理で、侵略や虐殺等が神を讃える神の名誉回復の行為として神聖化されたのです。

□敬虔に地の神、雷の神、河の神に祈りを捧げるために、それらの像を造り、豊作を祈願していたカナンの人々は、まさかそれを理由に虐殺されるとは思いもよらなかったことでしょう。

□被害者にとってはほんとに理不尽なことですが、宗教上の根拠で侵略や虐殺を正当化することはよくあります。『古事記』によりますと日の神の子孫を名乗るカンヤマトイワレヒコは、大和地方に侵略して地元の人々を虐殺します。そしていわゆる大和朝廷という政権を樹立したのですが、その際、日の神の子孫が地上を治めることは、高天原の神々の会議で決定されていたと正当化しています。実際、「うちてしやまん」と叫んで戦いに勝ったのが、そのなによりの証拠だという理窟です。
-----------------------2恵林寺本尊仏焚火事件---------------------------

□偶像崇拝というのは欧米人にとってはすごく幼稚な迷信に思えるのですね。木切れに拝んだって仕方がないのにと思っているのです。ですから偶像破壊説話はとても痛快に受け止めます。フロムも『精神分析と宗教』で鈴木大拙の次のような話しを紹介しています。

□「昔、唐の時代に丹霞禅師と言われるお坊さんが、都の恵林寺というお寺を訪れました。それはそれは寒い日でした ので、そのお坊さんは 『薪にするのに丁度よい』と思い、こともあろうに本尊の仏像を取り降ろして来て、焚火を始めて気持ちよさそうに暖まったのです。

□それを恵林寺の院主さんが見付けて、ぶったまげたのなんの。『こらあーお寺の命みたいに大切な御本尊を焼くとは、一体どういうつもりだ!』と怒鳴ったのです。

□丹霞さんはそれには答えないで、灰の中を掻き回し始めます。そして言うことに『おれは舎利(骨)を取りたいんだが、見つからんな』 。

□院主さんは 『木仏に舎利なんかあるもんか』と呆れます。

□そこで丹霞さんは平然と『舎利もないような仏ならば、残った二つの脇侍も焼いちまおうよと言ったのです。

□さて皆さんはどちらに仏罰が下ったと思われますか。丹霞禅師のうわべの不信心を詰ったので院主さんの両眉がすっかり落ちてしまったのですが、丹霞禅師にはちっとも仏罰は当たらなかったということです」
----------------------3絶対者の回路としての偶像------------------------

□舎利が無いということはつまり生命が無いという事です。だったらただの木切れじゃないか、まがいものなど拝んでないで燃やしてしまえと言うのです。しかしこの理窟には説得力はありません。偶像崇拝者は偶像だと知らないで、偶像を崇拝しているわけではないのです。彼らにすれば偶像を通して本物を崇拝しているのです。偶像が尊いのはそれが本物が現われ出る回路だからなのです。

□確かに素材である木切れには仏の慈悲はないでしょう。仏像はただの木切れではないのです。木切れという素材を使い、仏の慈悲が姿を現わしているのが仏像なのです。木切れだと素材ばかり問題にして、その仏像が語りかけてくる仏の慈悲に接しようとしないから、偶像崇拝者の信仰が理解できないのです。

□偶像は神を貶めているという捉え方は、一面の真理を含んでいますが、では神は偶像として現われ出る必要はないのかという問題が生じます。単純に偶像崇拝をしなくても世界宗教は成り立っているじゃないかという反論があるでしょうが、これが実は後に触れるキりスト悲劇の原因なのです。

□神は偶像に自己を表現する能力や意志を持たないのでしょうか。絶対者と相対者の断絶が絶対的で絶対者が相対者として相対者の前に現われ出ることができないとしたら、神は自分をどのように人間に表現し、コミュニケーションできるのでしょうか。

□神は啓示や奇跡によって人間に自己を示すとされます。啓示は預言として預言者に示されますが、真の預言者か偽の預言者か判断は難しいのです。奇跡も単なる偶然かもしれませんし、サタンの仕業とも考えられます。それに啓示や奇跡も人間の言葉や自然現象に神を表現していると解釈すれば、厳密には偶像崇拝になります。ともかく超越神は人々による屈曲や不信仰に悩まなければならないのです。でもこのような神の無能は全智全能という神の概念に矛盾します。
ーーーーーーーーーー4「憑きもの信仰」の論理ーーーーーーーーーーーーーー

□神と物との絶対的な区別に固執したままで、神が物に宿ることができると考えるのが「憑きもの信仰」です。神や霊は姿を現わすために、相対的な事物に乗り移らなければなりません。憑依される事物を依代(よりしろ)といいますが、それは憑ものが現わす霊現や崇りについて全く無実です。

□それはあくまでも神や霊が惹き起こしているのです。ところがあたかもそれは、依代である事物の仕業のように見えるのです。この錯覚は物を神だとみなす物神崇拝です。そこで憑ものに詳しい修験者は、憑ものの正体を突き止め、物神崇拝の迷妄を正し、それが崇りをもたらすものならば、悪霊退散のお払いをするのです。

□偶像崇拝を憑もの信仰で説明しますと、偶像自体は事物でしかないけれど、そこに神仏やその霊が宿っているから霊現があるのです。この論理ですと超越神論でも偶像崇拝を行える可能性が生じます。

□実際、霊が宿るという表現がバイブルにも幾つも出てきます。ホッブズは 『リヴァイアサン』では霊を実体化することに反対していますから、バイブルでの用例にいちいち注釈して比喩的に解釈しています。

□神霊が人間に宿った最も典型的な例はマリアの霊による受胎と、イエス・キリストです。しかし全体としてはバイブルの超越神論は、この憑きもの信仰による偶像崇拝をも神の相対化として拒否しています。
ーーーーーーーー5現代ヒューマニズムの偶像崇拝排斥論ーーーーーーーーーー

□フロムはヒューマニズムの立場から偶像崇拝に反対しています。彼は自己自身から由来したものでない、自分から超越的な死んだ事物や超越神を礼拝し、それらに依存することを権威主義として退けます。

□そして特に自分から超越的に存在する事物や人物、機構、組織、国家、旗等を神聖化し崇拝することを偶像崇拝に含めたのです。

□人間は充実した生活を享受できないと、その分死んだ偶像に憧れて偶像に依存して、自分をますます喪失するのです。ですから偶像崇拝からの解放は死からの解放であり、充実した生を取り戻すことなのです。スターリン死後スターリンの偶像が破壊されましたが、これは指導者に対する個人崇拝が偶像崇拝の一種であることを、映像で世界に象徴した事件でした。

□彼は「人類は偶像を拝まず、神を瀆さない限り、祝福の状態に入ることができるであろう。ー人類が平和と連帯を達成するのに限れば、唯一の神を共に拝することすら必要ではない」(『ヒューマニズムの再発見』)とユダヤ教の立場を紹介し、寛容で独善性を排した立場だと高く評価しています。

□しかしこれは偶像崇拝が瀆神であるという前提を認めない限り一致しませんから、寛容でもなければ独善性を排した立場でもありません。むしろ逆に偶像を拝して神を瀆している限り、平和的に共存できないぞという好戦的な立場が、払拭できていないことを意味しているのです。

---------------------第六節 偶像崇拝の論理-----------------------------

---------------------1依代としての偶像製作者--------------------------

□神仏は自分の像を製作する者に憑依して、自分の像を造ります。その際、依代になっている名匠の技量は絶対者が相対者を通して現われる媒介である以上、まさしく神技と言われる程でなければなりません。

□とはいえ技量が絶対的な契機ではないのです。依代としての絶対的な契機は、技量よりも信仰心です。ひたすら神仏を求めて彫り続ければ、その心が写し出された彫刻の中に神仏が姿を現わすものです。

□神仏が木切れや金属片、土塊に造形されるのは、それらが半永久的な耐久性を持つからでして、決して神を貶めるためにそうするのではありません。そんな瀆神行為をするくらいなら偶像を造らない方がましだと偶像破壊者は唱えます。

□しかしそれこそ偶像崇拝者から見れば、絶対者が相対者を媒介にして相対者の真理として現われ出ることを妨害する悖徳(はいとく)です。また神を無能にする瀆神行為なのです。

□頑迷な超越神論者は、絶対者と相対者の絶対的区別に固執していますから、絶対者が相対者の真理として相対者の姿をとることを理解できないのです。

□この頑迷さが相対者の中に絶対者を感受するセンスをスポイルしてしまっているのです。ですから素直に偶像の持つ気高さに心洗われる思いに浸ることができないのです。

□超越神論には事物をフォルムとして捉えないで、専らマテリーとして捉えるマテリアリスムス(質料主義)の傾向が窺えます。偶像においてはそれが何から出来ているのかよりも、それが何を表現しているかの方が主要な契機ですから、マテリーを捉えて瀆神を結論づけるのは筋違いなのです。

□偶像が与える宗教的法悦によって、偶像が絶対者の回路であることを示した積極的意義は、絶対者が相対者の真理であり、相対者として絶対者が現われることができることを、感覚的に確信させるところにあります。そのことによって偶像ばかりでなく一般の相対的な事物も、絶対者を真理として宿していることを悟らせるきっかけを与えるのです。

画像は広隆寺弥勒菩薩像

---------------------2アイドル化による聖俗差別------------------------

□聖なるものを俗なるものから聖別するのは、聖なるものを救い、俗なるものを見捨てる行為ではないです。聖なるものを崇拝することによって、俗なるものは聖なるものによって救済される可能性を信じることができるのです。俗なるものばかりで聖別をしなければ、救済の可能性を産み出すことができないのです。

□偶像は神仏の像だということで一般の事物からは聖別されています。しかし偶像に聖なるものが宿るのに他の事物やわれわれ人間に聖なるものが宿らない道理はありません。

□雨上りに葉のひとしずくの露がきらめく刹那に、心打たれて永遠を感得することだってあるのです。初めは俗なるものたちが自分たちの仲間の内から、何か気紛れな理由付けによって誰かを差別し、仲間から排除して聖なるものを聖別したのです。やがて聖と俗の差別が固定し、崇拝すればする程聖なるものはより神聖になり、俗なるものはより俗になります。

□そのことによって俗なるものはますます自らを蔑み、自分に絶望し、聖なるものに依存するようになります。このコントラストが強烈であればあるだけ聖なるものの救済力が大きくなるのです。

□つまり心の底では聖なるものも自分たちと同じ仲間なんだ、だから自分自身の中に聖なる力が隠れている、聖なるもののあの力も自分の中にあるに違いないと思っているのです。

□権力者はこの心理を利用して常に権力の正当性を聖なるものから得ようとします。アイドル歌手は、ミーハーの中から聖別されて登場します。プロフェッショナルの歌手のような抜群の歌唱力では駄目なのです。ミーハーにとってはアイドル歌手は、舞台で輝いているのは、もう一人の自分なのです。アイドルとはまがい物、偶像という意味です。

画像はアイドル歌手の老舗近藤真彦
-----------------------3物のあはれを知る心----------------------------

□自分自身の中にも相対的な事物の中にも絶対的な真理があるのです。それはどうしたら見出せ、対象化できるのでしょう。そしてそこに自分の永遠性を輝かせる事ができるのでしょう。とても大切な問題です。それはわれわれが有限ではかない人生を納得して生きる上で、大きな支えになるのです。

□自分の有限ではかない人生をいとおしみ、かけがえのないものとして大切にする、その思いを込めて、日々の営みを充実させようとすることです。そして自分同様に自分に繋がる人々や品々、眼に触れる風景、地球全体や宇宙にまで広がっている、やはり有限ではかないそれゆえに存在を意義づけられるべき一つひとつの事物や出来事が、どんな感動のドラマを演じ、どんな輝きを残して過ぎ去っていくのかに心ときめかすことです。

□これが本居宣長の言葉を借りますと「物のあはれを知るこころ」です。ただ感じるだけではなく、感じる心を日々の生活に活かし、人間や事物との関わりの中で表現し、対象化することが大切なのです。

□自分の感じる心を人や物に伝え、表現することによって、そこに暖かい関係や信頼が生まれ、生命の充実が実感できるのではないでしょうか。物の心を知り物に心を伝え、互いの技を出し合って、新しい物の世界を造り上げる、そこにクラフトの精神があると栄久庵恵司は常々強調しています。それは決して芸術や工芸に限定される世界ではありません。生産・流通・消費、その他の対人・対物、対自然のどの部面でも、われわれの構えひとつで見出される世界なのです。

□超越神論にしてもフロムのようなヒューマニズムにしても、偶像崇拝を切り捨てることによって、事物から主体性を奪い、事物を死んだ物としてしか捉えることができなくなってしまったのです。

□そこに「物の心を知る」というセンスを枯らしてしまった限界を指摘せざるを得ません。その対極に事物の中に神を見、事物を神として捉える自然神信仰の伝統を見出すことができます。活動的な主体として事物を見直す意味からは、自然神信仰の再評価が二千年代を迎えるに当たり求められます。
(注―一九九二年二月号に掲載)

訂正 誤ー栄久庵恵司 正ー栄久庵憲司
画像は栄久庵憲司さん
ーーーーーーーーーーー第七節 キリスト悲劇ーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーー1何故メシアは「人の子」と呼ばれたか?ーーーーーーーーーーー

□「バイブル」での最大の問題はキリスト悲劇の解釈です。ユダヤ教はイエスをメシア(救世主)とは認めていません。イスラム教ではイエスをモーセ以来最大の預言者として認め、マリアの処女懐胎まで認めて大変同情的ですが、イエスの神格化には唯一神論の否定として絶対反対しています。

□キリスト教は、イエスをキリスト(メシアのギリシア語)と認めることによって成立し、イエス・キリストが神か人かによって分化しました。正統派教会は父なる神ヤハウェに対して、キリストは子なる神であるとしています。聖霊なる神はイエスをキリストと認めて、神の愛に生きることによってキリスト者の中に宿る神です。この三つの神格は三位一体であり、同じ唯一神が父と子と聖霊となって現われるとされるのです。

□ユダヤ教の中にメシア信仰が現われたのは、比較的新しい事だとされています。バビロニアによってユダヤ神殿が破壊され、バビロン捕囚があり、数十年後ユダヤに帰還して、ユダヤ神殿が再建されましたが、その後も異民族の支配に苦しみ続ける年月を永く耐えなければなりませんでした。

□彼らは神から与えられたトーラーをしっかり遵守すれば、いつの日かソロモンの栄華が蘇ると信じてきたのです。彼らは神の直接の審きを期待しましたが、それはどうも起こりそうもありません。そこで神は「人の子」を派遣して審かれるという信仰が起こったのです。

□何故メシアは「人の子」かと言いますと、それは「神の子」ではないという意味です。唯一神信仰からすれば「神の子」も神ということになり、復数の神を認めてしまうことになります。

□先に触れましたが実は「神の子たち」は「創世記」や「ヨブ記」に出てきます。それもこれは「神の実子」ですから唯一神論と矛盾します。これは唯一神論の形成過程としてやむを得ないのかも知れません。

□その他に「神の申し子」という表現があります。神の指示で預言者によって油注がれた「神の養子」の意味です。「神の申し子」にはユダヤの王になる資格が与えられています。ですから唯一神論とは矛盾しません。

ーーーーーーーーーー2.メシアの死と再生の儀式ーーーーーーーーーーーーーー

□ところで「人の子」は「神の子」でないのですから、自らの力で奇跡を行ったり、審きを行ったりできないはずです。しかしメシアとしては神の力を示し、自分がメシアであることを示そうとします。人が神のように振舞うことは神のアイドル(偶像)となることですから、敬虔なイスラエルの民にとっては、神を騙る最大の瀆神として指弾の対象となります。そこで民の怒りに触れて死を免れないのです。

□神が助けますと、「人の子」が奇跡を行ったと見えますから、それも叶いません。「人の子」は一度死んで、神は「人の子」の死を聖化され、甦えらせるのです。そして「人の子」は雲に乗って再臨します。これが「メシアの時」なのです。

□その時、終末が訪れ、時は止まり、罪人は裁かれ、義人は復活します。そして神の支配が回復され、地上は楽園に戻り、永遠の平和が実現します。これはしかし預言者の夢想として語られますから、絶対の真理として説かれていると考えることはできません。むしろ民衆の抱いた解放のイメージなのです。

□イエスはこのような伝承を承知していましたから、自分は「人の子」であると考えていました。彼自身が「神の子」のように言うときは、実子の意味ではなかったのです。彼は御国の到来を告げ、人々に悔い改めを求め、人々に神の愛に生きることを説いて、ユダヤを解放する道を示したのです。

□ですから彼自身は自分をメシアだと確信していました。民衆はイエスの説く、戦いによってではなく、愛によってユダヤを解放する戦略を納得できませんでした。民衆の支持がなければ、戒律主義に反対し、ユダヤ教の伝統的権力に反抗するイエスには十字架しか残されていません。

□イエスはそれを「人の子」の死と再生の儀式の預言の実現と受け止めるしかなかったのです。キリストの十字架は超越神論によって一切の偶像崇拝が排斥され、絶対者が相対者の姿で現われることができないというジレンマから必然的に招来せざるを得ない悲劇だったのです。

-----------------------3約束されたダビデ王の子孫------------------------

□メシアはユダヤを解放すると考えられていましたから、ユダヤを率いるユダヤの王になる必要があると考えられていました。そのための条件としてはダビデ王の子孫でなければなりません。神はダビデ王に対して子々孫々に至るまでユダヤの王にすることを約束していたことになっています。

□『新約聖書』ではイエスはダビデ王の血統の大工ヨセフの子である事を示し、イエスがその条件を満たしているとしています。ところがイエスがヨセフの子であることがメシアの条件ならば、聖霊によるマリアの処女懐妊の説話と矛盾します。処女懐妊ではイエスがヨセフの血をうけていないことになるからです。それでこの処女懐妊説話はイエスの神格化の必要から後に造られたものと言えます。

□そのことは「ローマ人への手紙」からも言えることです。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力によって神の御子と定められた」(第一章)とあります。

□「使徒行伝」では「このイエス(約束されたダビデの子孫、あなたの聖者)を神は甦らさせた。そしてわたしたちはみなその証人なのである。それでイエスは神の右に上げられ、父からの約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。………中略………あなた方が十字架につけたイエスを神は、主またはキリストとしてお立てになったのである」(第二章)とされています。これらは死後復活して神の養子となった事を示しています。
-----------------4エディプス的願望としての「神の死」------------------

□フロムは、一九三○年に書かれた「キリスト論教義の変遷」で、原始キリスト教では養子説であったとし、そこにヒューマニズム的傾向を見出しています。何故なら、最下層のアム・ハーレツ(地の群れ)の一員であるイエスが、義のために死んで神に聖化され、神の御子に成ったのですから、人が神になるというヒューマニズム神学の最大の目標を実現しています。つまりイエスは自分たちが神に成りたいという願望を代償的に実現してくれたというのです。

□フロムはライクと共に、そこに父の死を願うエディプス的願望すら見出しています。超越神はユダヤ人たちの永い苦難の歴史を知りながら、約束の救済の義務を果たしませんでした。この契約不履行に対して絶望と共に、潜在意識の中で神を取り換えたいという願望が強くなります。

□この願望は、できれば神を殺して神にとって替わろうという恐ろしい瀆神です。イエスが神の養子になったことによって、再臨・審判・地上の支配はイエスの役割になりますから、実質的には神は隠れ、用済みになります。つまり神の死なのです。

□イエスはアム・ハーレツ(地の群れ)の一員としてサドカイ派やファリサイ派等の富裕・中産階級に敵意を持っていただろうと、アム・ハーレツの人々は考えましたから、イエスによる審判はラジカルな社会革命となるだろうと予想されました。そこでアム・ハーレツの社会革命への熱望をエネルギーにして、急速に原始キリスト教団が膨れあがったと言われています。

□でもこの再臨の期待はなかなか実現しません。本当にイエスが復活して神の御子に成ったのなら、直ぐにも戻ってきて人々の苦難を救ってくれるはずなのにと、だれしも考えますよね。
----------------5再臨信仰中心から贖罪信仰中心へ-----------------------

 一方でユダヤは遂に熱心党を中心にローマ帝国に対する解放戦争を戦い、敗北して、世界中にディア・スポラ(離散)し、ユダヤ社会における社会革命の問題も解消します。またパウロなどの努力でキリスト教は、愛を説き義のために死んだイエスをキリストと認める人を、割礼なしでもキリスト者と認めるという世界宗教に脱皮して、ローマ世界に広く深く階層を越えて浸透します。いつまでも再臨がないならキリスト教団としては教義の変更を余儀無くされます。

□そこでキリストの十字架が人類の罪を贖ったという贖罪信仰を中心に据えることにしたのです。これから救済されるのではなく、既に救済されているという信仰に変質させてしまったのです。

□一人で人類の罪を背負えるというのは人間業とは思えません。それでイエスは復活後に神の御子に成ったのではなくて、生まれた時から神の子だったことにしたのです。そのために聖霊が無垢で純真な処女マリアに宿ったことになりました。

□聖霊というのはこの場合は神の霊です。つまり神自身が人類を救済するために聖霊となり、人の子の姿にあえて身を貶されて地上に現われたことになります。この説を神とキリストの同質説と言います。

□典型的な憑物信仰になっていることはおわかりだと思います。子なる神キリストは、御国の到来を告げる福音をもたらしますが、人の子の姿のために神を騙る者として十字架に付けられます。キリストの十字架は神の言葉を信じないで、神を殺す人類の不信仰の罪を象徴しています。

□神は人の子として人類に代わって罪を一身に背負い、死によって人類の罪を贖ったのです。それで十字架は贖罪のシンボルでもあるのです。このキリスト悲劇は超越神論によってもたらされた不信仰が原因ですから、神の自作自演の感を否定できません。ともかくこの献身的な神の愛によって、人類は罪から救済され永遠の生命を得たというのです。
----------------------第八節 キリストに倣いて-------------------------

-----------------------1トーラー主義の誤り----------------------------

□どうも納得がいかないのが、キリストが人類に代わって十字架につけぼ、それで罪が帳消しにされるという論理です。キリストは人の子でもあるのですから、人類を代表できるのだと説明されます。神はひとり子を犠にされて人類の罪を贖えるほど人類を深く愛されたのだとも説明されます。

□しかし自分の罪を他人に贖ってもらえるものでしょうか、罪というのは本来、本人が深く繊悔し、悔い改めて、生まれ変わってのみ許されるもののはずです。

□キリストの十字架を人類の贖罪だと信仰することによって、罪人のまま救われるという論理は、「甘えの論理」であり、本人のためによくありません。このアポリアを解く鍵は、イエス自身がどうして自分をメシアだと確信していたかという謎にあるのです。

□ファリサイ派の人々はトーラー(律法)が授けられ、預言も充分なされたので、これ以上新しい啓示は為されないと考えました。後はしっかりトーラーを遵守しさえすれば、死後御国が約束されているとしたのです。

□しかし残念なことに、ハイブルでは死後天に昇ったという記事は、エリヤと神の子であるイエス以外には存在しません。死後の復活もイエスが死人を甦らせた記事やイエスの復活などに限られています。

□メシアの時に関連した義人の復活も幻想的です。むしろ人間は塵だから塵に帰るという宣告の方が印象的です。死後神の御許で暮せる保証は、ハイブル自体にはないのです。ただファリサイ派は、罪によって死を得たとされていますから、トーラーの遵守による罪の許しは永遠の生命に預ることであるはずだ、すなわち御国に入ることで報われるはずだと主張したのです。

□ところがトーラーの遵守は容易ではありません。特にアム・ハーレツのような貧しい人々は厳格で細々としたトーラーをきちんと守っていたのでは生活が成り立たないのです。

□トーラーの遵守が総べてに優先するとされていましたので、古くは安息日のトーラーのために戦闘行為ができず、外敵による大量虐殺を招いたこともあったのです。安息日に行き倒れの旅人を助けると、隣人愛のトーラーを守ったけれども安息日のトーラーに背いたことになるのです。助けなければその逆ですから、どちらにしてもトーラーは遵守できないのです。

□トーラーを遵守するためには行き倒れの人を見ないように、安息日には家に寵もっているというような、偽善やごまかしがなされますが、これも厳密にはトーラーに背きます。イエスはトーラーを守ることだけに汲々として、神の愛に生きることを忘れたファリサイ派を偽善者として激しく攻撃したのです。

□実は神の国に入るためにトーラーを守ること自体が、トーラーに背いているのです。ユダヤ人たちがどうしてトーラーを必死で守ってきたのに救済されなかったのか、その理由はまさしくそこにあったのです。

□それを誰も気付きませんでした。でもイエスは気付いたのです。だからこそイエスは自分はメシアだと確信しました。だって神の国に入るためにトーラーを守ることを止めさえすれば、トーラーが成就され神の国に入れるのですから、その真理を知った者がメシアでなくて誰がメシアでしょうか。

□神は決してトーラーを守らせるためにトーラーを課したのではないはずです。そしてご褒美の神の国に入れるのが惜しくて、わざとたくさんのしかも相互に矛盾したトーラーを授けたわけでもないはずです。神の愛に生ぎて充実した人生を送れるように、あれこれのトーラーを授けたのです。

□ところがユダヤ人たちは隣人愛さえもトーラーに定めてあるから実行するに過ぎないのです。しかし愛は心ですから、たとえ人助けをしても自分が神の国に入るためにした人助けなど、隣人愛の実践とはとても言えないのです。それを隣人愛の実践と思っているのなら、神を騙そうとする偽善なのです。
---------------------2神への愛と隣人への愛----------------------------

□「マタイ伝」によるとイエスは、トーラーの中でどれが一番大切な戒めなのか訊ねられて、こう語りました。

□「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、主なるあなたの神を愛せよこれが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である、『自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』、これら二つの戒めに、トーラー全体と全預言者とがかかっている』(第二十二章)。

□イエスにとっては神を愛することと神から愛されることはおそらく表裏一体なのです。信仰は信じたくても信じられるようなものではなく、神の方からの贈り物のようなものらしいのです。

□この神の愛(アガペー)は隣人愛として溢れ出ます。アガペーに満たされていれば、自己一身の利害に固執しなくなります。狭い個我へのこだわりが無くなり、アガペーに生きることしか関心が無くなりますから、死後の平安の保証としてのトーラーの遵守に神経を磨り減らして、自己を見失うことも無くなるのです。そうすれば自分と他人を別け隔てなく愛するという隣人愛が自然に生じます。
-----------------------3神の国に生きる人------------------------------

□イエスはアガペーに生きる者たちの共同体としてイスラエルを構想していたのです。これこそ神の国すなわちパラダイス(楽園)に他なりません。「神の国(神の支配)」と「パラダイス」は違うそうですが、それには触れません。それは既に原型としてはアガペーに生きる人々の心の中にあるのです。

□イエスは富んでいる者はパラダイスに入れないと言いました。「らくだが針の穴を通る方がよっぼど容易いくらいだ」と譬えています。富や権カを持つ者は、どうしてもそれを維持することに心を砕かざるを得ません。アガペーに生きることよりも自己の私的利害に汲々とせざるを得ないのです。それに比べて「貧しい人」は幸いなのです。彼らは護るペき私的権益が何もありません。無垢な幼子のような心でアガペーに生きることができるから、パラダイスに入れるのです。

□「貧しい人」(ルカ伝)か「心の貧しい人」(マ夕イ伝)かで解釈に対立がありますが、「貧しい人」は心が単純でアガペーしかないので「心の貧しい人」と解釈すればよいです。たしかに「マ夕イ伝」には貧しい人々の心の支えとしてのキリスト教から、富める人も含めた超階級的な宗教へと修正しようとする意図が窺えます。

□「マ夕イ伝」では、主・奴関係を前提した倫理が説かれていますし、富や権力を持つこと自体がキリスト者として失格のようには論じていないようです。それに再臨信仰中心から贖罪信仰中心に切り替えるために、キリスト実子説に基づく処女懐胎説話が盛り込まれています。ですから「貧しい人」を「心の貧しい人」に改銀して「貧しい人」だけが救済されることを否定しようとしたとも考えられます。

□ただし貧しい人は罪を犯さざるを得ないので自らに絶望し、神の救済を心底から求めるので、だから神は貧しい人々に慈愛を寄せ、救済されるという解釈ですと親勢の悪人正機説になってしまいます。これは後に触れますが罪人のまま救われるという発想です。私の解釈ではイエスの真意ではありません。

□アガペーを何か人間の心から超越した脱俗的で観念的な心と考えてはいけません。「貧しい人」「悲しんでいる人」「柔和な人」「義に飢え渇いている人」「哀れみ深い人」「心の清い人」「平和をつくり出す人」「義のために迫害されてきた人」がパラダイスを構成するのですから、そのような人の心がすなわちアガペーに他ならないということです。

□愛の共同体(パラダイス)はそのようなひとりひとりの心に築かれ、互いの結び付きによって広がっていきます。やがては地上全体が神の国すなわちパラダイスになるでしょう。最も大切なことは、ひとりひとりの心の中がアガペーで満たされているか、心の中にパラダイスを持っているかどうかです。それさえしっかりしていれば、トーラーは成就され、やがては全世界にパラダイスが建設されるに違いないのです。

□二千年代を迎えるにあたって、新しい共同社会の建設を目指す場合でも、根本的には同じことが言えるでしょう。ひとりひとりの心の中に愛の共同体を築いていれば、そこから様々な共同の働きが尽きない泉のように生まれてきます。そのひとつひとつの運動が新しい共同社会を構成する核になるのです。ひとりひとりの心の中に愛の共同体が無くなり、私的利害にしか関心が無いのに形だけ共同体的外見を取り繕っても、それば失して共同体ではないのです。
---------4イエスの解放戦略ー先ず心に愛の共同体を築くことー-------------

□イエスは政治的軍事的な解放戦略を一切持ちませんでした。 ローマの支配に対しても解放闘争を組織しようとはしません。むしろ「カニサルのものはカニサルに、神のものは神に」と現世の権力に従順でした。これがユダヤ民衆の幻滅を招きます。

□イエスにすればたとえ貧しくても、軍事的には無力でもいいのです。逆説的にはむしろその方がよいのです。富や権力は奪えても、心の中にある神の国は奪うことはできないのです。逆に富や権力を持てば、それに心奪われ、心の御国を打ち建てる事ができません。

□一人ひとりの心の御国が結び合って、愛の共同体としてのイスラエルが造られていけば、経済的軍事的には弱小でも精神的にはローマ帝国を圧倒することができるはずです。実際に、初期キリスト教団は次第次第にローマ帝国を精神的には呑み込んでいったのです。

 これでどうして神が永年にわたって異民族の支配を認め、イスラエルの民に苦難を与え続けたのかがわかります。ひとつには自分のためにトーラーを守るというトーラーの蹂躙が原因です。もうひとつは富や権力から遠ざけ、解放することによって心の御国を築くことができるようにするためなのです。

□イスラエルが最も悲惨で最も御国から遠く、神に見放されているように見える時、まさにその時にこそ心の御国が打ち樹てられるべき時であり、御国に最も近づいている時なのです。サルトルは 『沈黙の共和国』 でフランスが最も自由だったのは、ナチスに占領されていた時だったと述べています。
--------------5メシア宣言「我は甦りであり、生命である」---------------

□イエスは「我は甦りであり、生命である」と語り、自分についてくれば永遠の生命が得られるとメシア宣言をしています。

□私はイエスの語る永遠の生命とは個人が個人のままいつまでたっても死なないとか、死んでも地上以外で復活して生きているとか、審判の日に全員復活して楽園と血の河に分かれて、未来永劫に生きるとか、そういう意味ではないかも知れないと思います。おそらくアガペーに生きることによって、有限ではかない生命が永遠の輝きを見せる、そんな自分の一回きりの人生を納得させてくれる体験、フロムのタームで「?体験」がもたらす実感のことなんだと思うのです。

------------------------6復活のキリスト--------------------------------

□イエスは十字架の死によって肉体的に滅びましたが、精神的には再生します。イエスの言葉が反芻され、その真実が改めて人々の心を捉えて離しません。彼は神のアイドルとして振舞ったため、また民衆の期待を裏切ったため、キリスト悲劇を演じたのです。

□イエスの死に良心の仮借を感じていた人々にとっては、メシアを死に追いやったのではないかという後悔に苦しみます。その場合は二通りの対応が考えられます。

□多数派はイエスはトーラーを蔑ろにした偽メシアであり、ユダヤの敵であるとの認識を再確認することです。

□少数派は、イエスの死をイエス自身の了解通り、メシアの死と再生の儀式と受け止めたのです。そのことによってイエスの死を聖別し、イエスを十字架に付けた自分たちの罪を清めたのです。

□イエスの十字架はイエスの言葉の真実を悟れなかった民衆の罪の対象化です。メシアを十字架にかけた罪によって、それまでの自分は滅びなければなりません。この罪を最も強く感じていたのはガリラヤに逃げていた使徒たちです。本当にイエスをキリストだと信じていたら、イエスを容易く敵の手に与えることはなかったはずですし、身を挺してイエスを護ったでしょう。

□十三番目の弟子ユダのような不信仰の要素は使徒たち皆にあったのです。イエスの十字架によって、使徒たちは改めてイエスをキリストと確認しました。そして今までの罪人の自分は死に、キリストが自分たちの中にあって生きていることを実感したのです。

□使徒たちは自分たち自身が復活のキリストとなったのです。これが心の御国なのだと悟り、心に聖霊が宿っていることに気付いたのです。こうして殉教も恐れないアガペーを実践できるようになったのです。

□これを「キリストに倣(なら)いて」と言います。ですからキリストの十字架が人類の贖罪になることができるのは、人類をして自分自身をキリストと共に十字架に付ける人間に、再生させることができるからなのです。ルターのいうように決して罪人のまま救済されるのではありません。
 
 十字架を介して懺悔・悔い改め・再生させられていますから罪人ではないのです。新しいキリストの生誕なのです。「キリストに倣いて」愛に生きない限り御国に生きる人にはなれません。ひとりの人間の生き様が多くの人々の心を揺り動かし、多くの人々を再生させることがあります。たとえその人は死んでも、その人が与えた感銘が別の人格の中でその人を甦らせるるです。

□どんな生き方が、どんな思想が人々の心を捉えることができ、人間を生まれ変わらせることができるのかは時代によって変化します。しかしただ時代に合わせ大衆に迎合したところで本当の感動は生まれません。誰よりも先ず自分が心底感動でき、そのために喜んで一度限りの人生を捧げ尽くすことができる、生き方や思想を見出すことが先決です。二千年代において人々の魂を奮い立たせ、それによって人生を肯定させる、そんな感動に満ちた生き方や思想が可能なのかが問われているのです。

☆まだこの原稿を書いた時期には「聖餐による復活」仮説には気づいていませんでした。

《参考文献》
日本聖書協会訳 『聖書』
エーリッヒ・フロム著『ヒューマ二ズムの再発見(You shall be as gods.)』 河出書房、
『精神分析と宗教(Psychoanalysis and religion.)』東京創元社、
『革命的人間(Dogma of Christ)』東京創元社
小川芳男著『フロムの宗教心理学』北樹出版
石田友雄著『世界宗教史叢書 4 ユダヤ教史』山川出版社
イジドー・エプス夕イン著 『ユダヤ思想の発展と系譜』 紀伊國屋書店
山形孝夫著『聖書の起源』講談社現代新書
山本七平著『聖書の常識』 講談社 ORANGE BACKS
八木誠一著『イエス・人と思想 』清水書院 Century Books 保井温著「偶像崇拝とヒューマニズムー E・フロムの宗教心理学の問題点ー」(『季報唯物論研究 22・23 合併号』所収)

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