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人間論および人間学コミュの対談・やすいゆたかの「構造構成主義」入門

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対談・やすいゆたかの「構造構成主義」入門

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信念の対立超えて語り合い共に拓くや共生の道

佐々木:やすいさんのお勧めで西條剛央著『構造構成主義とは何か―次世代人間科学の原理』を読みました。なかなかの力作というか、久しぶりの本格的な方法論の提起で興味深く読めました。そこでこれから二人でじっくり、この書物をどう受け止めたらよいかについて議論していこうということになったわけです。
やすい:佐々木さんとの対談も久しぶりですね。西條さんから、構造構成主義についての論文を書くように勧められていまして、「梅原猛と西條剛央の共振性」について書くとお約束してしまったものですから、独りよがりの解釈になってしまっては失礼かなと思って、佐々木さんのご意見と照合しようというわけです。
佐々木:やすいさんは一昨年の大阪経済大学での西條さんの講演を聴かれて、西條ファンに成られたのでしょう。
やすい:ええ、人間科学部主催の『人間科学フォーラム』がありまして、田畑稔さんが報告されるということで、拝聴に伺ったのです。その時に西條さんは、まだ三十歳になったばかりの初々しい青年なのですが、堂々たる講演でした。浅田彰以来の若手の思想家の台頭かなとも思いましたが、その報告の内容が私の「哲学の大樹」や「人間論の大樹」の構想とすごく共振したのです。
佐々木:そりゃそうですね、「信念対立の問題」を棚上げして、異なる立場の哲学や人間学を学として一本の大樹に総合するという問題意識が、やすいさんの「哲学の大樹」であり、「人間論の大樹」だったわけですから。その意味で共感されたのは当然でしょう。
やすい:私の場合は、思いつきとしては『『ソフィーの世界』の世界』(大阪哲学学校編、青木書店)でふれていますが、まだまだ方法論として整理されていませんでした。それを見事に整理してくれているので、目からうろこというか、こりゃ使えそうだということで感心したのです。
佐々木:それじゃあ、この対談では、二つの課題を設定しましょう。ひとつは西條さんの構造構成主義とは何かを、その問題点も含めて明確にすること、もう一つは「哲学の大樹」や「人間論の大樹」にそれをどう応用できるかということです。
やすい:もちろんその二つが課題なのですが、本格的な検討に入る前に、私がどうして構造構成主義に関心を持たざるを得なくなったかについて、検討しておいた方が、私の問題意識に関心のある方が、構造構成主義に関心を持っていただく際に分かりやすくなると思うのです。

コメント(8)

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   マルクスを採れどサルトル捨てがたし時にデューイも心惹くかな

佐々木:ということは、そもそも「哲学の大樹」や「人間論の大樹」なる発想はどうして生じたのかということですね。言い換えれば、「信念対立の問題」にぶつかっていろいろ苦闘してきたあげく、それぞれの信念が成立する範囲を限定して、その上でより大きな視野に立って、両者を全体の中であるべき場所に置けば、補完しあって総合的な哲学や人間学を構成する要素に成れるのではないかということに気づかれたということでしょう。すでに学生時代からそういう問題で悩まれていたのですか。

やすい:ええ、当然です。我々の学生時代は高度経済成長期の真っ最中です。一九六〇年代の後半ですね。その頃は政治的には学生の間でマルクス主義が勢いがありました。でも思想的には実存主義にも強く惹かれていましたね。そして科学方法論や実践的な方法論としてのプラグマティズムにも説得力がありました。この三つがいわゆる現代思想の三大潮流と言われていました。

佐々木:一九七〇年代に入っていわゆる構造主義やポスト構造主義などがフランス現代思想として取り上げられ、その源流のフロイト精神分析、フッサール現象学などが現代思想といわれるようになりますが、十九世紀、二十世紀を風靡した三大思想はその三つですね。

やすい:ともかく政治的には平和共存ということはあっても、思想の平和共存はありえないという発想がありまして、三者から一者を択一するように迫られたと感じたのです。

佐々木:「感じた」というのは、主観的にですか、それとも誰かに迫られたのですか。

やすい:思想信条の自由を保障された国ですから、何を信じてもいいのですが、マルクス主義が正しいという雰囲気の中では、当然実存主義やプラグマティズムは間違った思想みたいに思えてしまい、実存主義的な生き方というのは、その場の気分で衝動的に行動することだと思ったり、プラグマティズムはすべて打算的に行動することだというように一面化して受け止めてしまいます。

佐々木:じゃあやすいさんはマルクス主義者だったのですか。

やすい:シンパシィを持っていましたね。でも自分はマルクス主義者ではないと思っていましたし、そう公言していました。なぜなら当時日本共産党はまだプロレタリア独裁理論をとっており、「敵の出方論」という形で暴力革命の可能性を留保していました。それには当然怖くてついていけないなと思っていました。それに党の体質からいって民主的な党運営が行われているようには思えませんでした。それに私は、空想的社会主義といわれた、政治革命によらないで下から協同組合企業の連合が次第に企業の主流になっていくような形での社会主義の実現の方が、上からの政治権力による国有化よりもベターではないかという考えを捨て切れませんでした。

佐々木:その発想は、一九九〇年代から田畑さんたちが盛んに言っている「アソシエーション革命」に近いのじゃないですか。

やすい:ええ、近いと言えば近いですね。でもコミュニタリアリズムに近いともいえます。私としましては、アソシエーションとコミュニタリアリズムも「信念対立の問題」ですね。今では、構造構成主義を応用して調整可能じゃないかと考えています。

佐々木:それで例のマルクス主義、実存主義、プラグマティズムの三大潮流ですね。この思想間の葛藤がやすいさんの内部にあったということですか。

やすい:ええ、マルクス主義に強いシンパシィがあっても、主体的な決断や状況との葛藤や人間関係で実存的な発想をしなければなりません。若きマルクスの疎外論なども実存的な捉え方があるわけです。それに実践的な活動ではどうしても最も効率的に成果を収めることが必要ですから、プラグマティズムに基づいて行動してしまいます。毛沢東の『実践論』などはプラグマティズムの見本と言えるかもしれません。

佐々木:ただマルクス主義には弁証法的唯物論という哲学的立場がありますね。プラグマティズム的な発想でも、弁証法的な用語で説明できるので、同じようなことを言っていてもプラグマティズムじゃない、唯物弁証法だと言えますね。

やすい:ええ、自己の哲学体系の中に既成の哲学思想から学ぶべきところを吸収して、はめ込むわけです。これを止揚と言います。それはどの思想も自己を哲学としてコスモス(世界)の原理たらしめようとしますと、大なり小なりすることですね。その上で、自分の体系に包摂できない他者は徹底的に排除するということになります。
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    物質とはそも何なりや意識から独立とせばいまだ意識か

佐々木:当時はまだ「唯物論か観念論か」が「哲学の根本問題」だと言われ、論敵を論破するのに、観念論だから誤りだとするような戦前の『唯物論研究』のような体質が残っていたのではないですか。

やすい:それはありましたね。立命館大学の大学院では舩山信一先生の下で研究していましたから、彼の著作は戦前のから読んでいましたからね。彼によればレーニンも間違っているのですが、それはレーニンも観念論だからです。

佐々木:レーニンは「意識から客観的に独立した存在」として物質を哲学的に規定して、物質を意識に還元するマッハなどの経験批判論を批判したのでしたね。

やすい:舩山先生がおっしゃるには、「意識から独立している」ということになると、意識がなければ物質もないということになり、結局物質は意識に囚われているから、唯物論としては不徹底だということです。

佐々木:しかし対象として意識されてこそ物質ですね。

やすい:ええ、意識にとっての物質はそうですが、意識から客観的に独立している物質というのは、意識が生じる以前から存在していたはずです。ですから意識に対して存在するのでない物質ですね、物質に対する物質が存在した。こういう言い方は語弊がありますね。意識の前提に物質同士の関係がある。身体と自然、身体と身体の関係がある。その関係として意識も生じたというように捉えるのです。

佐々木:でもそれが物質だということは時間・空間・質量にしても意識的な存在として存在しています。

やすい:そういう意識が存在できるのも身体という物質的基礎があるからです。身体が感覚器官を備えているから意識が生じるわけでしょう。

佐々木:ところがデカルトは、吾の意識の存在は吾思うということにのみ依存しているから、身体があるかないかは関係ないとしていますね。

やすい:それは方法的懐疑を使って、あらゆる感覚的存在を疑いうるものにしてしまったので、「吾思う故に吾あり」が哲学の第一原理ということになってしまったからです。しかし懐疑というのも方法としての懐疑でしかなかった。コギト(吾思う)から精神だけでなく、延長も実体として認めてしまっている以上、意識が生じるのは物質的な基礎があるからだという推論が成り立つことも否定できないはずです。

佐々木:デカルトでは思惟がどうして生じるかということは、原理的には説明できないのじゃないですか。だって主観は認識する主体であって、対象ではないわけでしょう。客観にくる物質は認識対象になりますが。

やすい:それは思惟に対する物質の根源性を否定するための議論なのです。我々は身体の生理学的な研究を通して、身体が状況を認知する仕組みを解明しています。意識といっても身体と身体や身体と自然との関わりなのです。そういう自然的基礎があるわけですが、デカルト的な懐疑にかかると、そういう物質や自然や身体から出発するのは不確実だということになります。確かに不確実なのですが、しかし、後で延長的実体が認められれば、コギトという自我から論証された物質によって、自我やその意識が形成されたという推論が不当ではなくなるはずです。

佐々木;それでもそういう物質の客観的実在性というのは、物質そのものが意識的存在でしかない以上、保証されないでしょう。

やすい:物質を意識と対極に置いてしまいますと結局二元論のアポリアに陥りますね。そういう意味では観念論も唯物論もガラガラポンで、存在の根源に戻って観念対物質という認識論の対置を相対化する必要があります。ただ私は舩山先生が唯物論に固執された点ですね、その結果、意識から客観的に独立した存在というのが、意識でしかないということになり、レーニンの哲学的物質概念自体が疑問になった。そして物質対物質、身体対身体、あるいは身体対自然という対置で唯物論の再建が試みられたのです。人間身体を基礎に唯物論を再構築されるのはフォイエルバッハや三木清に近いのです。そういう立場で『人間学的唯物論の立場と体系』(1971年未来社刊)をまとめられたのです。

佐々木:しかし元々意識抜きの物質なんて、推論でしかないでしょう。

やすい:いや舩山先生の場合は、「哲学は推論だ」ということなのです。意識や思惟が成り立つためには、神を仮定しないなら、意識や思惟を形成する物質の存在を推論せざるを得ない。そこから物質を意識の根源に置く世界観としての唯物論が成立しえるのであって、そのためには哲学はただ意識から出発するだけではだめで、存在から、物質からも出発すべきだとされたのです。それを「我々にとっては意識から」「存在にとっては物質から」というように表現されたのです。

佐々木:舩山先生はヘーゲル研究家としても大家だったでしょう。意識からは『精神現象学』の立場で、存在からというのは『エンチュクロペディー』や『大論理学』の立場ということですね。ところで構造構成主義の話はすっかり忘れられてるのじゃないですか、思い出話みたいだな。

やすい:いや、思い出話でいいのですよ。哲学の根本問題というのも最近は唯物論の衰退で忘れられているような、唯物論的問題意識なんてとっくに無効だと考えている連中が多いですからね。しかし、哲学論争できっちりけりがついた話なんかないのです。はやりすたりでけりがついたと勘違いしているだけです。やはり主観―客観図式というものがあって、その許で意識と存在、観念と物質を考えていますと、観念つまりイデアによって物事を認識するしかないという意味では観念論が正しいし、認識される対象が意識に先駆けて存在することを前提しないと認識とはいえないという意味では唯物論が正しい、こういう信念対立に陥るということですね。

佐々木:お、待ってました、「信念対立」ですね。構造構成主義につながりそうだ。ところで廣松渉が登場して、主観―客観図式がふっとんだというような印象を受けましたね。

やすい:廣松渉の登場の意義は大きいのですが、それはちょっと棚上げにして、今は観念論対唯物論の信念対立の問題です。

佐々木:観念論と唯物論のどちらが正しいかということではなくて、観念論対唯物論の信念対立が生じる地平とは何かとか、どういう場合に観念論的に論じることが有効で、どういう場合に唯物論的に論じることが有効なのかというよう
最後の箇所抜けていましたので訂正します。  
(有効なのかというよう)にしようということですね。           

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     イエスなる男ありしか十字架に罪を贖い甦りしや

やすい:観念論も唯物論も実は物事を考える時に、我々がとらざるを得ない二つの態度なんです。それをどちらかに立つと相手が誤っているかに考えてしまうわけです。十九世紀にイエス・キリストが実在したかどうかが盛んに問題になったことがあります。

佐々木:要するに、ローマ帝国やユダヤ教の記録の中にイエスの実在を確証させる史料がないということでしょう。

やすい:ええ、ユダヤ教の最高法院でイエスの死刑を決めた等のイエスの存在を明確にする資料がないのです。つまり福音書の中のイエスの言行録の部分を史実として確実に実証する史料が欠けているのです。

佐々木:ということは、ひょっとしたら、イエスが実在していないのに、その弟子たちがいて、イエスという架空の聖人をつくりあげたことになるのですか。イエスはメシアと呼ばれ、エルサレム神殿で教えを説いた。しかし、ユダヤ教徒の反撥を買って捕らえられ、裁判にかけられ、死刑を言い渡され、ローマ兵士によって処刑された。ところが、三日目に墓が暴かれ、イエスが復活して弟子の前に現れたという話が福音書として伝わっていますが、それらはすべて弟子達のでっち上げだった。嘘をもとにキリスト教団を立ち上げたということになるのですか。

やすい:その可能性は皆無ではないということですね。でもそのようなインチキ宗教のために、嘘で固めた福音書を偽造した人々を含め、たくさんの人々が殉教をおそれず、布教したとは考えにくいでしょう。それで一時は流行したけれど、次第にイエスが実在しなかったという議論を展開する人はほとんどいなくなったのです。

佐々木:イエスが実在したかどうかは事実問題であり、真実はひとつですね。でも現存する史料の中に直接イエスの実在の証拠がない場合は、イエスが虚構の存在であったという解釈が成り立つ余地がどうしても残ってしまうということですね。かといって、そのことでイエスの実在したことは完全には否定できないわけです。

やすい:とすればどういう態度をとりうるかということです。佐々木さんが熱心なクリスチャンだったらどうされますか?

佐々木:あいにく私は宗教音痴だからなかなかクリスチャンの気持にはなれませんが、現存する資料からイエスの生涯を再構成して、イエスの実在を主張するでしょうね。

やすい:日本人の場合、一神教というのはどうも独善的でインチキ臭いと思いがちですね。そういう立場の人だったらどう考えますか?

佐々木:やはり食いっぱぐれた詐欺師たちが、信仰にかぶれやすいユダヤ教徒を相手にイエス説話を作って教団を立ち上げたのではないかと疑うでしょうね。

やすい:構造構成主義からいえば「関心相関性」ということですね。現象としてのキリスト教の存在、これは否定できません。ですから何事にも成立というものはあるのだから、キリスト教団が立ち上げられたことも否定できないわけです。ただキリスト教に対する態度によって、「関心相関性」が異なれば、この教団成立が「宗教的真実」に基づくか、それとも「デッチアゲ」に基づくかの解釈の差ができます。

佐々木:やすいさんはクリスチャンの家系に生まれ育ったけれど、高校生のころから社会科学に興味をもたれて、神に対しては懐疑的ですよね。キリスト教に対しては愛の宗教として魅力を感じておられるけれども、どちらかというと無神論の立場ですね。そういう第三者的立場ではこのイエス実在・非実在論争はどう捉えられますか?

やすい:「火の無い所に煙は立たず」というでしょう。ホメロスの伝承からトロイの遺跡が発見されました。何か重大なことが起こるとそれを伝承にして伝えようとするものです。宗教的な事跡は事実をそのまま伝えるというより、「宗教的な真実」を伝えようとするはずです。福音書の場合は詐欺師の創作には書けない宗教的な真実が籠められていると思いますね。ですから、悪霊払い(エクソシズム)の奇跡やイエスの説教、イエスの体は「命のパン」であって、イエスの血を飲み肉を食べなければ永遠の命を得られないという説、贖罪の十字架、弟子たちの身に起こった「イエスの復活」体験、こういうものには重大なイエスのメッセージがあると思います。

佐々木:そこまでいうとクリスチャンと変わらないのではないですか?

やすい:クリスチャンは、本当にイエスに聖霊が宿ったと思い、悪霊を追放したと思っていますし、イエスは死んで三日目に予告通りに史から甦ったと信仰しているわけです。私の場合はイエスは自分に聖霊が宿ったと信仰して悪霊追放を行ったけれど、悪霊は目に見えないので、誰も信じないから、弟子たちに悪霊を演じさせたと解釈します。そしてイエスは追い詰められて、自らの聖霊を弟子たちに引き継がせようとして、自らの肉と血を聖餐させた、そのことによって聖霊を移転させるつもりだったと解釈したのです。

佐々木:やすいさんの「聖餐による復活」仰天仮説ですね。たいして評判にはならなかった。

やすい:いや、それはあまりに仰天すぎてにわかには信じられないからなのです。山折哲雄先生も私信では「おっしゃる通りと思います」と感想をいただきましたし、可能性はあるといわれているすごい方もおられます。まあこの仮説に囚われることはありませんが、どうしてイエスが復活したという信仰が生じたのか、宗教心理学的な分析をして説明することができるのです。

 福音書には教団の手によって多少の粉飾があるにしても、宗教心理学から一応の説明ができるならば、実在しなかった可能性は百パーセントは否定できないとしても、ことさらイエスの実在を疑う必要はないわけです。

佐々木:この議論は唯物論と観念論の「信念対立」についての議論ではなかったですか、それてしまっているのでは。

やすい:いいや、それていません。イエスは実在したと思っている人には、実在したし、デッチアゲだと思っている人にはデッチアゲでいい、イエスは実在でも虚構でもありうるという立場はとれませんね。つまり客観的実在としての史実は唯一つであるとだれもが考えているのです。これは客観的実在としての史実が存在するという考え方であり、歴史学的唯物論と名付けてよいでしょう。

佐々木:しかし歴史的事件は一過性のものですね。だから既に存在しませんし、また再現することもできません。それが客観的実在であるのは、そう解釈できるという意味においてであるにすぎませんよ。

やすい:科学的実証というのは、一定の同一条件下での再現可能性や反復可能性が保証されてこそできることです。自然科学の領域では科学的対象にはそれがある程度可能なので、客観的実在が確認されたと考えているだけです。

佐々木:ということは唯物論の前提が崩れるのでは。

やすい:たとえ確認できるのは現象でしかなく、しかも特定の領域でしかなくても、イエスは実在したか、しなかったかの二つに一つです。聖徳太子は実在したか、しなかったかも二つに一つです。というように歴史的対象は捉えざるをえないわけです。

佐々木:大山誠一さんは、厩戸皇子は存在したけれど、彼は聖徳太子といわれるような偉大な人物ではなかったという説ですね。

やすい:その場合でも、厩戸皇子は実在したか、しなかったかは二者択一ですし、個々の皇子の業績といわれているものは、実際はどうだったかも、二者択一です。もちろん『十七条の憲法』に厩戸皇子が関わったかどうか、どの程度関わったかでいろんな答えがありえますが、事実はひとつですね。そう考えざるをえないのが歴史的唯物論だというのです。幾通りものの過去が存在するというような世界観を前提に歴史学は成り立ちません。筒井康隆なら別でしょうが。

佐々木:邪馬台国が大和にも北九州にもあったということはないということですか。

やすい:それはありえます。邪馬台国がふたつ同時にあったというのが歴史的事実ならね。

佐々木:みんな歴史的唯物論なら、歴史的観念論は成り立つのですか?

やすい:史実を史料を根拠にして組み立てる際には、研究者が予め抱いている歴史像を実証するものとしてその史料を扱ってしまうものなのです。その結果、研究者の立場の違いだけ、異なった歴史認識が成立することになります。その場合に史料は歴史観念の表れでしかありません。

佐々木:なるほど研究態度にはどうしても歴史学的観念論が忍び込んでいるのですね。でも歴史学的観念論には限界がありますね。だって現存する史料と歴史像が整合しなければならないのですから。

やすい:ええ、それで歴史学の論争は、史料が歴史像の表現と見なすことが可能かどうかをめぐって展開されることになります。このように、歴史学的唯物論と歴史学的観念論は、歴史研究者のだれもが取らざるを得ない研究態度なのです。
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     関心によりて異なる本質を処得させて大樹立つるや

佐々木:問題領域を哲学や人間論に戻して、唯物論と観念論というのが、ただ対立しているだけじゃなくって、両者とも必然的に抱かざるを得ない立場であって、相互補完的にとらえるべきだという議論が成り立つかどうか論じてください。

やすい:哲学というのは本来がそうでしょう。プラトンのイデア論は、予め明確な観念がなければ物事の認識は成り立たないというものです。一方、その観念は個々の事例から帰納的に導き出されたものですね。だからアリストテレスは形相(エイドス)は個物の形相でしかないということに固執しました。

佐々木:観念があって、その具体的事例が認識されるという観念論と、観念にはその元となる客観的な事例がなければならないという唯物論は、対立した見方なのですが、実はセットだとおっしゃりたいのですね。これは近代の大陸合理論対イギリス経験論の関係でもいえますし、ヘーゲル対マルクスでも言えるということですか。

やすい:ええ、もともと実在というものは論理的な契機と質料的(物質的)契機があるので、それを主観―客観の認識図式から見ると、観念論と唯物論という対立した世界観ができてしまうというわけですね。ですからそういう認識図式で考える限りでは、観念論にも唯物論にもそれぞれ妥当性があり、お互いに対する批判も当たっているわけです。

佐々木:すると同一の思想家でも視点を変えて観念論的に論じたり、唯物論的に論じることが考えられますね。

やすい:マルクスの場合もそうですね。若きマルクスは、ヘーゲル哲学から出発していますので、自己疎外論などもヘーゲルの自己意識の自己疎外論を労働の自己疎外論に読み替えたものだったのです。これは観念論的なものですね。

佐々木:労働というのは目的意識的な対象変革ですから、まず完成品の観念があって、それを現実化するわけですから、観念論的な図式になります。ところが『ドイチェ・イデオロギー』以降は唯物史観に基づいて、経済的な土台を踏まえていますね。

やすい:構造構成主義の賛同者は、西條剛央さんはじめ1974年以降に生まれた人が多いから、こういう話はなかなか通じないと思いますが、1970年代にはこの議論が大変重要だったのです。つまり1844年の『経済学・哲学手稿』の時期の自己疎外論から、1885年『フォイエルバッハ・テーゼ』を切断点にして唯物史観が成立し、自己疎外論は払拭されたという議論があったのです。

佐々木:廣松渉の自己疎外論から物象化論へという議論ですね。ところが壮年期のマルクスが経済学批判を展開する際には、やはり自己疎外という用語を復活させている。これをどう評価すべきかということでしょう。

やすい:人間本質論の見地からみるとおもしろいですよ。労働疎外論の時期のマルクスが類的本質という場合は、当然「労働」が人間の類的本質です。労働が人間の自己実現なのです。それが疎外されているという問題だった。

佐々木: ところが『フォイエルバッハ・テーゼ』では、「人間の本質は、現実的には社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」とあります。本質規定が労働規定から「社会的諸関係のアンサンブル」に変化しているということですね。それでは労働はもう人間の本質とは捉えられていないのかということですね。

やすい:人間の本質を予め思惟や言語や労働などと抽象的に規定して、そこから人間のあり方を論じるというのは観念論的な人間論です。マルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』でそういう内的本質として規定する仕方を批判して、現実的に社会的諸関係のアンサンブルとして捉えるべきだというのです。これを「アンサンブル規定」といいます。これは現実に個々の事例から帰納しようとする唯物論的な捉え方です。

佐々木:観念論対唯物論という対立図式にこだわっていると、思惟や言語や労働が「アンサンブル規定」でふっとんだという印象を受けるけれど、物事を捉える場合に観念論も唯物論もどちらも欠かせない視点だということで、本来が相互補完的だということに気づいたら、マルクスが唯物論的に語った言葉も相対化できるということですね。

やすい:そうなんです。ですから『資本論』ではもちろん資本主義の経済的諸関係という物質的土台を膨大な事例から帰納的に分析しているわけですが、その本質を資本というコンセプトに還元しています。その概念の自己展開として観念論的に展開しているのです。ですから一切具体的なミクロ的・マクロ的な実際の経済的な統計資料は使っていません。そこでは人間も商品・貨幣・資本の人格的担い手でしかないわけです。しかしマルクスは『資本論』でそう展開することで、人間が物象化(あるいは物化)されていることを批判しているわけです。

佐々木:ということは、人間の本質は、思惟や言語や労働であると共に、社会的存在であり、資本の体現としての疎外された存在でもあるというわけですね。個々の叙述で本質は何だと書いてあるからそれ以外は彼の捉え方に反するというのは早とちりだというのがやすいさんの解釈ですね。

やすい:というより、それが常識でしょう。それぞれの「関心相関性」によって人間本質の捉え方が異なってきます。懐疑が本質だと捉えても、情が本質だと捉えてもいい。「神への愛と隣人への愛」とクリスチャンは言うでしょう。あるいは罪とか絶望という捉え方も可能です。希望だとか笑いだというかもしれない。しかしそういう言説を唱える人が別の言説を誤りだと考えているわけではないのです。

もちろんマルクスは『資本論』では生産関係を論じているのですから、労働が価値および使用価値を生むものとしてもっとも基底に置かれることになります。

佐々木:「人間論の大樹」という発想はそれぞれの関心相関性から捉えた各人間論の有効な範囲をはっきりさせて、その上でそれぞれをどのように接合したら、総合的な人間像を描けるかという発想ですね。そのための方法論として構造構成主義が使えるのではないかという見通しですね。

やすい:まだ「構造構成主義」が明確には捉え切れていないのですが、そういう予感のもとで公開対話をしているわけです。
              (6)
  自らの主体問いつつ今日の自己いかに選ぶや思案に暮れつつ

佐々木:西條さんたちの世代からだと、実存主義の雰囲気がよく分からないのじゃないですか。やすいさんは実存主義をどう感じておられたのですか。

やすい:のっぴきならない状況に投げ出されていて、なんとかしなければならないのだけれど、そのためには既成の自分を捨てなければならないというような、決断が迫られているような事態を設定するのです。その上で「あなたならどうする」というような問いかけですね。

佐々木:限界状況という言葉が良く使われましたね。あれはヤスパースの用語でしたね。

やすい:ヤスパースは「死・苦しみ・罪責・争い」の四つを限界状況の例に上げています。ヤスパースに言わせれば、人間は常に原理的に「乗り越え不能な壁」である限界状況に直面しているのだけれど、流行に合わせて惰性で生きていると何も考えないでいいから限界状況であることを忘れてしまうのです。

佐々木:生きるということが死に直面しているということですからね。それはきれいごとじゃすまないので、互いに傷つけあい、罪を犯しているわけです。そういう現実に立ち向かって生きてこそ、本当に生きるということなんだというわけで、現実の矛盾にふたをして目を瞑って逃げてばかりいたのでは単なる物と同じだというのでしょう。それで「愛しながらの戦い」といって互いに愛しているからこそ激しく葛藤し合うわけですね。

やすい:戦争などでは人間性が極端に否定されます。高校生の時に五味川純平の『人間の条件』が映画化されて、満州で現地の人を強制労働させる仕事を主人公の梶がしていて、良心の葛藤に苦しみます。結局良心を貫いて中国人をかばったので、今度は徴兵されてソ連の侵攻に遭うというようなドラマですね。それなんかははっきりしていて、いいのですが、ことさら人間のどうしようもないところを暴きあうみたいなのも多かったですね。実存主義的な映画では安部公房原作の『砂の女』というのが印象に残っていますね。あれは名作だったな。

佐々木: アマゾンのレビューを引用しますよ。

「砂丘地帯に昆虫採集にやってきた高校教師(岡田英次)は、その砂の穴の中で暮らす後家(岸田今日子)の家に一夜の宿を借りる。しかし、次々とこぼれ落ちる砂をかきだしているうちに、教師はその穴の中から脱出できなくなっていることに気づき、もがき、そしていつしか後家と情欲で結ばれ、その穴の中に同化していく…。

読売文学賞を受賞した安部公房の観念的小説を原作に、勅使河原宏監督が前衛タッチで手掛けたシュールな人間ドラマの傑作。そこには、文明の囚われ人となった人間への痛烈な風刺が込められている。文字どおり“砂の女”を熱演する名優・岸田の代表作の1本でもある。カンヌ国際映画祭審査員特別賞やキネマ旬報ベスト・テン第1位など国の内外でも高い評価を受けている。(的田也寸志)」

やすい:それから新藤兼人監督の『裸の島』です。広告を引用しますね。

「千太とトヨの夫婦は、子供二人と一緒に瀬戸内海の小さな孤島に住んでいる。春には麦、夏にはサツマイモを段々畑に植え、毎日朝から晩まで畑作業を続ける。島には水が無く、一日の大半は隣の島から舟で水を運ぶ事に費やされていた。ある日、長男が病死してしまうが、その日もそれ以降も何も変わらず、島では全く同じ生活が続いてゆく…。

セリフを一切使わず、美しい映像と音楽だけで自然と闘いながら生きていく人間の姿を淡々と描いた実験映画。世界64カ国で上映され、モスクワ映画祭グランプリはじめ数々の映画賞に輝いた新藤兼人の代表作である。黒田清己の撮影による映像と林光による音楽が、とにかく素晴しい。スタッフ・キャスト合わせて十数名という少人数で瀬戸内の孤島に合宿し、オールロケで製作された不朽の映像叙情詩である。」

 当時は高度経済成長の時代ですから、なにも瀬戸内海の小島で段々畑にしがみついてなくても、都会に出れば文化的な生活ができるのに、これが日本の現実みたいにアピールされるのは国辱だという政治家もいました。

佐々木:おそらく映画は、その政治家と正反対のことを主張しているのでしょう。つまり自然の中で、昔ながらにもっこで水を運ぶのを悲惨な現実だといっているのではなくて、自然と共に生きる人々の生き様に文明によって失われてしまった大切な息遣いのようなものがある。そこに本物の命の感動があるということでしょう。一見、昔ながらの島の生活で実存主義とは対極のように見えるけれど、言葉によって失ったものを取り戻すことを、「裸の島」の人々は実存的に選び取っていると、そうやすいさんは感じられたわけですね。

やすい:というか、そういうのを実存的に選び取る可能性だってあるとすれば、この文明のがんじがらめに対して、ノンという否定の叫びをあげる余地があるのじゃないかと捉えたのだと思います。

佐々木:実存主義は主に主体への問いかけですね、状況に対してどのように主体的に関わるのが問い詰められた。マルクス主義は社会への問いかけ、いかにして矛盾だらけの社会を変革するのかということが問われたわけです。両者は結局状況変革、社会変革という点では同じじゃなかったのですか?

やすい:それが実存主義の場合は個々人によって、抱え込んでいる状況が別なのです。同時代の同じ社会に生きていても、各人の状況は一人ひとり異なっているのです。状況を否定するということも、単純に取り囲んでいる社会の現実を否定するということではすまない。つまりその現実と自分というのは私の状況という形で一体なのです。だから状況の否定というのは、自己否定でもあったのです。

佐々木:マルクス主義の場合は、歴史認識や社会認識がマルクス主義の社会科学という共通のツールがあって、一致し易いにように出来ていた。それでも主流派対反主流派、日本共産党対反日共などに分かれていましたが。ともかくパターンは決まっていました。ですから自己の属する集団にあわせていけばよかった。そこに主体への問いかけに欠けるところがでてきてしまった。

やすい:マルクス主義の正しさは共同の認識に基づいていました。もちろん個人が一人で考えて真理に到達できるわけではありません。共通の問題意識に基づいて、互いに情報を持ち合った上で、討論を通して共通の認識を築き上げていくのですが、その過程で、組織的官僚的な指導によって操作されてしまうところが多分にあったわけですね。その結果重大な過ちを犯す結果になった場合、指導部への不信と共に、自己の主体性の欠落を痛いほど感じざるを得なかったわけです。

佐々木:それで実存主義が、マルクス主義に欠落していた主体性を補完する思想として機能したわけですね。

やすい:サルトルは、そのことを意識的に追求しました。サルトルは、自ら実存主義者だとしながらも、マルクス主義を「乗り越え不能」の思想として受容したのです。つまり『資本論』を通してマルクス主義は資本主義社会の構造認識を成し遂げたわけです。ですから資本主義が状況として続く限り、マルクス主義によって変革するしかないと捉えたわけですね。でもマルクス主義でやってると個人の主体性が欠落して、自分が駄目になってしまう。その面は実存主義で補っていこうというのです。

佐々木:でもマルクス主義の方では、そういうマルクス主義の欠陥というのは認めないのでしょう。

やすい:ええ、実存主義はあくまでの個人の主体性というところに原理がありますから、個々の人間の状況を原理にされて、勝手な行動を合理化されたのでは、組織的な活動などは成り立たないというような反応でしたね。この問題でも「構造構成主義」的な調整がなされてしかるべきだったわけですが、マルクス主義は自ら補完すべき欠落はないという立場でしたから、官僚主義や主体性の問題は、あくまでマルクス主義内部で調整可能だと考えていました。

佐々木:それができなかったからこそ、実存主義に価値があった。

やすい:マルクス主義が原理的に欠落をもっていたというよりも、まだまだマルクス主義自体が未熟だったので、プラグマティズムや実存主義をうまく取り込むことができなかったのです。それでそれらが対立する思想として、外に存在してしまったということでしょうね。

佐々木:サルトルは『実存主義とは何か―それはヒューマニズムである』という題名の本を書いていますが、なぜ実存主義がヒューマニズムなのですか。

やすい:サルトルは、デカルトの方法的懐疑から大きな影響を受けています。「吾思う、故に、吾有り」です。そこから人間を身体的存在ではなく、意識存在と捉えるのです。サルトルは『存在と無』という著作がありますが、その場合の「存在」は物質や自然、身体にあたるわけです。「無」は意識にあたります。ですから存在としては本質的に規定されますが、無である意識の方は自由な意識なのです。それが人間存在の本質だということです。人間は、自由な意識であるから、自分の責任で自分を選び取らなければならないという立場です。

佐々木:それじゃあ、「実存は本質に先立つ」という場合、先ず意識として自由に存在しているということですね。それが身体や個物として存在すると自然的あるいは社会的に本質存在として規定されてしまうということですね。人間はあくまで自由な意識であって物ではないのだと言いたいのでしょう。

やすい:人間はいくら強制されても、やりたくなければ自殺して拒否することだってできるわけですからね。サルトルは、命かけて自由を選択するという姿勢なのです。つまりナチス占領下のフランスこそ最も自由だったと『沈黙の共和国』というエッセイで語っています。ところが物として身体としては状況から拘束されて本質として規定されてしまいそうになります。これを「存在被拘束性」といいます。それは人間存在を物に還元してまうことなんです。サルトルは人間はあくまで意識存在であり、自由なのだから、ある特定の本質として規定されてしまうことを拒否するのです。

佐々木:「ペーパーナイフの比喩」ですね。ペーパーナイフははじめからペーパーナイフとして作られたから、ペーパーナイフという物として本質付けられている。だからペーパーナイフに自由はない。でも人間は何者にも作られたわけではない。だから人間の場合は実存が本質に先立つわけでして、自由なのだということなのでしょう。つまり人間を作った神を認めてしまうと人間は神によって本質づけられてしまうから、人間が自由であるためには、神の非存在を要請するということです。この立場を要請的無神論というのでしたね。

やすい:でも実際には人間は身体的存在であり、社会的存在ですから自然や社会からさまざまに規定されているわけです。

佐々木:ええ、マルクスのいう「アンサンブル規定」ですね。そこで人間は本来意識存在だから、自然的・社会的な事物として規定され、扱われることにとても耐えられない。そこで物に頽落した己の姿に「嘔吐」するわけですね。そして自分を物にする状況に「ノン」という否定の叫びを上げ、状況変革に参画するということですね。

やすい:しかし、状況の変革は単に自分の状況を変えることですまないので、社会を変えることでもあり、他人を巻き込んでいますから、当然そこには責任を伴うということです。

佐々木:自分を物として本質規定してくる体制が気に食わないからといって、その欲求不満の無責任な爆発ではだめだということですね。社会に参与して責任を引き受けることでなければならないという意味で、サルトルは「アンガージュマン」という用語で表現しています。それは結局自分を物として規定されることを拒否しているようでいて、その規定を自分自身で主体的に選んだかのように捉え返すことになりませんか。

やすい:仕事でも夫婦関係でもそうですが、成り行きでこの仕事をしている、この相手と夫婦でいるというのは慣性の法則に従っているので物になっているわけです。それを己の生きる道はこの仕事だと主体的に捉え返せば、慣性じゃないわけです。

 夫婦でも日々新たに主体的にこの相手への愛に生きようとすれば、人間に戻れるわけですね。それが無理だということで、仕事をリタイアしたり、離婚したりすることも選択可能だということです。だから日々新たに生き直すというのが実存的な生き方ですね。

佐々木:確かに本来そうあるべきですね。でも毎日自分に疑問を発して選択を迫っていたら精神的に安定しませんね。やはりある程度物に頽落して、自然的・社会的規定を素直に受容して、それに適応できないと困りますよね。

やすい:そうでしょう。サルトルのいうことももっともなところがあります。つねに自己を意識として自由意志として捉え返す、そして日々刻々己の研ぎ澄ました意志で己の生きるべき道を選択する、そこに妥協は許されない。こういう意識を持つことは大切です。ですから実存主義的人間観というのは忘れてはならない。しかし人間は自然や社会に安定的に適応して生きなければならないのですから、身体的にも個物的にも自然的社会的事物存在として自己を捉え返して生きていく覚悟が必要です。そういう意味では本質的な人間観、物としての人間観も持っていなくてはいけません。両者は「構造構成主義」的に調整されなければならないわけですね。
  (7)
   対象を効果によって規定するプラグマティズムは実在認むや

佐々木:プラグマティズムはあまり魅力を感じなかったのですか。

やすい:最近、「プラグマティズムはいい加減なところがいい」と発言して顰蹙をかったところなのですが、「ちょうどいい加減」なのだから「いい」わけでまあギャグとして市民権はあると思うのですが。

佐々木:道具として使えればいいというわけですから、最も使えそうなもの、手頃な物を使えばいいわけですね。しかも万人にとって一番いいものなんてないわけでして、当人のスキルや水準にあったものを使えばいいわけです。構造構成主義でいう「関心相関性」でツール(道具)を選べばいいわけですね。でもマルクス主義や実存主義からはかなり手厳しい批判に曝されていたのではないですか。

やすい:それは本来道具は目的ではなくて手段でしょう。プラグマティズムは方法論でしかないわけですね。本末転倒の議論に見えるわけですよ。

佐々木:マルクス主義なら社会変革の理想なり、目的があった。実存主義は主体性ということを追求していました。ところがプラグマティズムは能率ということで、悪いことにだって使えるわけです。善悪の彼岸ですね。

やすい:アメリカで発達したので、かなり資本主義の論理と同一視された面があります。元々はフロンティア・スピリットやコミュニティ(地域社会)の実践の論理として生成・発達したものですから、進歩主義的な面があるのです。

佐々木:そういえば第二次世界大戦後の日本の教育の民主主義化を指導したのは、プラグマティズムの大成者と呼ばれているデューイの民主主義教育論で随分進歩的なものだったようですね。

やすい:ええアメリカでのパブリックスクールというのはコミュニティに役立つ人材を育てるということが目的なのです。ですからコミュニティが抱えている問題に一緒に取り組んで問題解決をはかっていく中で、いろいろと実践的に学んでいこうという構えなのです。

佐々木:集団的な学習という意味ではソビエト教育学とも近いところがあるのでしょう。

やすい:元々レーニンは大胆にアメリカの考え方を取り入れようという考えで、フォードシステムなども進歩的なものとして注目されたのです。むしろ資本主義社会内部の知識人からは、チャップリンの『モダンタイムス』でも見られますように非人間的な流れ作業として非難の的だったわけです。

佐々木:特に実践的な思想だと、目的の単純化、一元化が行われやすいので、その結果、かえってとんでもない悲惨なことになりがちですね。分業による労働の単純化は、働きやすくしてくれますし、子供でも出来るようにすらなるわけです。いわゆる複雑な熟練労働から解放されます。しかし同一の単純作業を同じ労働者に一日中強いることになれば、今度はかえって強度のストレスになりますし、機械の部品以下の存在に人間を貶めることになります。

やすい:その弊害が十分理解され、かえって労働者の能力を著しく損なうことになり、生産性の発展に障害になることが痛感されてから、それが見直されたり、自動機械に単純作業を振り分けたりすることになります。

佐々木:資本主義だと最大限利潤の追求。社会主義でもノルマの達成に単純化されますとかえって人間解放のための生産力の発展も、人間性を損なう結果になります。

やすい:全くそうですね。組織的に行われますと、個々の構成員のことがどうしてもおざなりになり、抽象的な数字に還元されてしまいます。企業の場合、資本金ですね。運動組織の場合、人数や動員数などに一元化されがちです。するとゆたかな内容が次第に無視されていきます。組織拡大のための活動に一元化されて、職場や地域の具体的な課題への取り組みがおろそかになれば、そういう組織は結局発展できません。日本共産党の場合でも体質的にそういう拡大路線に執着していて、まったく稚拙なプラグマティズムなのに、プラグマティズムを帝国主義の思想と批判する傾向がありましたね。

佐々木:ところでプラグマティズムとは何か?と訊かれたら、なかなかこうだと定義するのは難しいのじゃないですか。

やすい:ええ、各思想家によって特色があるので、でも一般的な受け止め方としては、最も目標達成のために効率的な負担の少ない方法を選択するべきだという考え方でいいのじゃないでしょうか。辞書では「《行動を意味するギリシア語pragmaから》思考の意味や真偽を行動や生起した事象の成果により決定する考え方。一九世紀後半の米国に生まれ、発展した反形而上学的傾向の哲学思想」とあります。

佐々木:功利主義との区別はどうなりますか。

やすい:客観的に評価しますと、功利主義は18世紀と19世紀にイギリスで発展しました。それが19世紀末から20世紀にアメリカで継承されたのがプラグマティズムであるわけです。区別しますと功利主義は最小の犠牲で最大限の利益をもたらすということを強調しましたが、その利益は感性的な快楽によって基礎づけられました。それに対してプラグマティズムには、あまり快・不快によって基礎づけるという考えはなくて、目標達成という点に重点があるということですね。

佐々木:パースは「プラグマティズムの格率」を説きましたね。
 
「ある対象の概念を明断に捉えようとするならば、その対象がどんな効果を、しかも行動と関係があるかもしれないと考えられるような効果を及ぼすと考えられるか、ということをよく考察してみよ。そうすればこうした効果についての概念は、その対象についての概念と一致する」(「概念を明晰にする方法」89頁) Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object.

やすい:たとえば赤ワインというのは赤い色をしていて、ワインの香りがあり、飲めば赤ワインの味がしますね。それらが示されて赤ワインだということなのです。これは赤ワインだといわれて、色が白かったり、ワインの味ではなくて、ブランデーの味だったりすれば赤ワインではないということです。

佐々木:そりゃそうですが、最近発泡酒なんてビールもどきがでてきて、色や香りや味がビールと同じだったら、「プラグマティズムの格率」ではビールだってことになるのですか。

やすい:そこがプラグマティズムの長所ですね。ですから実用主義とも訳します。そのものが何であるかは、そのものの示す効果から判断する立場ですから、天然ものと人造ものとの差別はしないわけです。そして本物と偽者という区別もナンセンスだということです。ブランド物と偽ブランド物がありますが、「プラグマティズムの格率」ブランドなんてどうでもいいので、性能だけで判断しなさいということです。

佐々木:赤ワインが教会のミサではイエス・キリストの血になるのですが、「プラグマティズムの格率」からいうとそれはナンセンスということですね。

やすい:ええ、パースはパンやワインが、そのままの姿でミサにおいて、イエスの肉と血になるという奇跡を馬鹿げた迷信として退けています。

佐々木:なるほど、それではあくまで効果や現象のみを実在とする現象即実在論ですか。

やすい:いいえ、パースは客観的実在論なのです。そこでジェームズと分岐します。ジェームズは意識経験の流れをそのまま実在としたのです。いわゆるラジカル・エンピリシズム根本的経験論ですね。それを主観・客観認識図式から反省するところから、客体に事物、主観に精神が立てられるというわけです。当時マッハの経験批判論やフッサールの現象学など現象や経験をそのまま実在と考えて、客観的実在を否定する傾向が流行したわけです。

佐々木:主観・客観認識図式の超克という問題ですね。日本でも早速西田幾多郎が『善の研究』で純粋経験を唯一実在として展開しましたしね。

やすい:フッサールの場合は、エポケー(判断停止)という言葉を使って、客観的実在が存在するかどうかは原理的に実証できないので、意識経験に即して記述するのが厳密な学だとしましたね。それならまだ客観的実在論を許容できるし、両立できる余地があるのですが、ジェームズの場合は、意識の流れだけが実在で、客観的実在はその倒錯的な解釈にすぎないことになります。これにはパースは納得できなかった。ちょうどレーニンがマッハに納得できなかったのに似ていますね。パースは、客観的実在との一致こそが科学の立場であって、客観的実在との一致がないのだったら科学じゃないっていうのです。これも引用しておきましょう。

「実在の事物があり、その性質は私たちの意見に全く依存しない。その実在物は、規則正しい法則に従って私たちの感覚器官に作用を及ぼす。その結果生じる感覚は、私たちと対象との関係に応じて異なるが、私たちは知覚の法則を用いて、事物の本当の姿はどうであるかということを推論によって確かめることができる。そして誰でもその事物について充分な経験をもち、またそれについて充分に考えを練るならば、ひとつの真なる結論に到達するだろう」

佐々木:客観的実在といっても、知覚に与えられたデータに基づいて推論された事物ですね。それは意識経験とは区別できるのですか。

やすい:意識経験を述語とする客観的事物が実在するとパースは捉えています。つまり客観的事物は個々人の感覚の違いには左右されないで、私たちみんなによって意識経験されるのです。そしてみんなの経験を照らし合わせて検討しますと、それがどんな事物の経験だったか確かめることができるものだと考えたのです。

佐々木:それならやはり意識経験とは離れて事物が存在するとは言えませんね。

やすい:たしかに感覚の外にあるものについては推論的にしか語れませんし、事物の性質も感覚によって構成するしかないという意味では、意識経験を離れた客観的事物というのは原理的に不可知ですね。それでは客観的事物という意味はどういう意味でしょう。

佐々木:どういう意味って、意識される前の感覚から独立した事物でしょう。その実在は原理的に論証できないのです。
やすい:客観的事物は感覚によってしか述語できないのに、感覚から独立しているというのは論理矛盾です。つまり客観的事物の感覚からの独立性という意味が取り違えられているのではないですか。

佐々木:物事を客観的に認識すると言う場合、主観から切り離して、一定の距離をおいて、しかも感覚諸器官や思考の対象にして冷静に認識するということですね。

やすい:ええ、その場合に物事を法則的に認識したり、性質を正しく規定できたりしますと、客観的に事物を認識したと考えます。ところがその場合でも、認識した内容は感覚諸要素から構成されているのですから、意識から客観的に独立しているとは言えないはずです。

佐々木:ええ、そのことを問題にしているのです。

やすい:ですからパースは、客観的実在の認識を感覚諸要素から対象を構成しないことだとは考えていないのです。そうではなくて感覚諸器官を持つ身体から独立した事物が意識経験に現れたのを感覚諸要素によって述語づけることを、客観的事物の認識と考えているわけです。個々人によっては妄想やバーチャル・リアリティということもありえますから、みんなの認識が一致すれば、身体の外にそういう事物が実在すると認めようということです。

佐々木:なるほどそれなら事物自体が意識によって構成されているということになりますね。事物から意識を引いたら何も残らないということになって、それこそ観念論ではないですか。

やすい:ええ、その通りです。それでパースはヘーゲルの絶対的観念論を支持しているのです。

佐々木:しかし客観的な事物が意識に還元できるかどうかは、意識の側は知るよしもないのではないですか。

やすい:そこのところは推論ですね。もし原理的に認識できないものを神が創造されたとしたら、神は全く無駄なことをされたことになります。そういうことは全知全能の神の概念に反しますから、される筈がないということです。

佐々木:おやおや、困ったときの神頼みですね。すると神は人間の為にだけコスモス(宇宙)を創造されたということになってしまいますね。でも人間が利用できるのは無限の宇宙に対して芥子粒ほどもないじゃないですか。

やすい:そういう無限の宇宙という空間意識や時間観念も含めて、人間の意識なわけですね。太陽だって、そうです。人間が恩恵を受けているのは太陽の全エネルギーから見ればほんの少しですが、太陽というのも人間の意識であり観念なのです。ですからパースにすれば空に見える輝く円が太陽という意味を表しますね、その意味で輝く円は記号です。その記号が人間だというのです。

佐々木:記号を事物が事物を指し示す事物の知的性質であり、記号が人間であるとしていますね。その意味は、人間が事物が指し示す意味を記号として解読していく思考過程が人間の内容だということなのでしょう。

やすい:そうですが、その思考過程は実は、事物が意識経験として自己を現す客観的実在の過程でもあるわけです。それで記号は事物の知的性質だと言えるのです。そこで人間の意識というのは事物の現れる過程でもあることになり、人間は単なる身体的な存在ではなく、事物をも包含することになります。そこに「人間観の転換」がなされているというのが私のパース評価です。

佐々木:やすいさんの「人間観の転換」の原型をパースに見られるのはおもしろいのですが、ジェームズとパースの違いがまた分からなくなった気がしますね。

やすい:ジェームズの場合は、意識に還元してしまって、客観的実在として捉え返すのは倒錯になってしまったわけですね。でもパースでは人間の意識が客観的実在として事物の現れであるという立場です。

佐々木:それじゃあパースとジェームズを構造構成主義的に調整してください。

やすい:構造構成主義のタームをまだしっかり展開していませんから、それはここできちんとはできません。ただ導入として信念対立をどう克服して、対立する思想を相互補完的なものにするのかという問題として考えますよ。

 ジェームズの場合は、事物の現す効果というのは、人間の意識経験に他ならないから、実在は意識の流れとして解釈すべきだということです。すべて現象は意識経験でしかなく、この根本的な純粋経験こそが実在だということに立脚しています。世界を意識の流れに還元して捉えきるということも、すべての先入見や既成観念を払拭して物事をありのままに捉え返すさいに必要です。

佐々木:パースの考えは、逆に世界を客観的実在である事物の現われとして捉え返すことも必要だということですか。

やすい:意識経験の流れが人間だということでは一致しているのですが、それを同時に事物の現われでもあるということにパースは科学の立場を見出しているのです。科学の立場というのは意識と存在の一致ですからね。

佐々木:しかしどうしてもパースのいう客観的実在として事物の存在は、神の創造という論理の飛躍が避けられませんね。

やすい:ええ、現象学はその手前で踏みとどまるわけですが、観念論や唯物論の哲学は推論だということです。つまり現象としての意識経験が認識されるには、どうしても事物を仮定して、事物の運動として記述されるわけですから、そういう事物が客観的に実在するということを推理せざるをえないわけです。そういう推理に基づいて世界を自然や物質の運動として捉える世界観や、それらを神が創造したとする説明が現れるわけですね。
(8)


   道具的理性は人を物にしてアウシュビッツのシャワー生みしや

佐々木:デューイのプラグマティズムはinstrumentalism(道具主義)ですね。観念・用語や理論はあくまでも問題解決のための道具だから、道具としてもっとも使いやすく役立つ観念・用語・理論がよいとしています。それはもちろん当たり前のことなのですが、マルクス主義や実存主義からは道具的理性として評判が悪いようですね。

やすい:プラグマティズムは問題解決のためにもっとも有効なコンセプトや理論を使おうという考え方です。問題解決というのは人間が抱えている問題を解決するのですから、非常に人間的で素晴らしい考え方なのですが、もっとも効率的であればよいという理論だと受け止められますと、効率のためにはすべては犠牲にされるべきだという非常に冷酷な考え方のように誤解されやすいわけです。

佐々木:アメリカという資本主義の中枢で発達したので、最大限利潤の獲得や資本増殖が目的に置かれ、すべての存在はそのための手段・道具とみなされるということですね。労働者は生産機械の部品として扱われ、酷使されて消耗品のように捨てられてしまう。

やすい:フォードという自動車会社がベルトコンベヤーシステムで乗用車の組み立てを始めました。高性能の乗用車が大量生産されるようになったのです。しかもフォード社は従業員が買えるようにそこそこの賃金を保障したのです。資本主義が発達すればするほど労働者階級は窮乏化するという『資本論』の窮乏化法則に挑戦したのです。生産性をあげて労働者の生活水準も上げるという合理的な考え方にロシア革命の指導者であるレーニンも共鳴して、アメリカニズムという言葉がマルクス主義にも浸透したくらいです。

佐々木:チャップリンなどは『モダンタイムズ』という映画でベルトコンベヤーシステムの非人間性を告発しています。だって労働は単調で機械的な作業の繰り返しでしかなくなり、かえって人間能力の発現ではなく、まさしく機械の部品への頽落になってしましますからね。人間の創意工夫や思考というものが発揮できなくなるわけで、人間の物化の徹底ですから。

やすい:それでそれは、観念・用語・理論をはじめすべてを利潤獲得のための道具、手段として捉え返すプラグマティズムの道具的理性のなせる業だということになります。そして道具的理性批判は国家を戦争機械に変えたナチズムへの分析にも応用され、ユダヤ人への大虐殺も人間を道具や物として捉えることから来ているのだというわけです。そういう野蛮なホロコーストが文明の発達によってもたらされたことに注目して、文明が発達すればするほど野蛮になるという『啓蒙の弁証法』をフランクフルト学派のホルクハイマーとアドルノーが強調したわけです。

佐々木:マルクスの『資本論』でも、資本制社会を商品という物神が普遍化する社会だと批判しています。つまり物神崇拝(フェティシズム)というのは最も野蛮な信仰だけれど、資本主義という文明の発達の極致で普遍化するのだという強烈な批判ですね。

やすい:そうなのです。『資本論』では人間が労働力商品という物に還元され、完全に手段に貶められてしまっているということを批判しているわけです。人間は本来、人格や自己実現を目的にした存在なのに物化・物象化されているということですね、このことを批判しているわけです。

佐々木:だから『資本論』は、人間の物化・物象化した姿をそのまま展開する経済学ではなくて、経済学批判なのですね。ということはマルクスにも人格としての人間は物としての人間に還元できないという、主体的な人間観があったということですね。カントがやはり、「人格を手段としてではなく、目的として扱いなさい」としているでしょう。

やすい:正確には「汝および他者の人格を決して単なる手段としてのみ扱ってはならず,それ自身が同時に目的とされるべきである。」ということです。つまりカントは互いに道具や事物として人格が扱われることを一概に否定しているわけではないのです。近代市民社会は基本的に私的利害に基づく「手段の王国」なのです。欲望を充足して生きるためには「手段の王国」として自己や他者の人格を道具や手段として有効に利用しなければならないのです。しかしそれではみんなが好き勝手に行動すれば「見えざる手」が働いて市場原理で調整できるのかということですね。そう簡単にはいきません。

佐々木:やはり公共の利益と衝突する場合には、自分の欲望に基づく傾向性を抑制して、社会の義務を果たす必要があり、そこに道徳性があるということですね。そういうセルフ・コントロール(自律)できてこそ人格といえるわけで、道徳性に人格の尊厳を求めました。そして道徳的な人格を互いに尊重しあい、高めあうことこそが人間としての目的だということですね。

やすい:しかしそれでは実際には人間はほとんど大部分物として関係しあい、互いに道具として物として関係することになります。マルクスは人間を手段・道具にしている経済的な諸関係自体を変革しなければならないという立場なのです。つまり物的な社会関係を人格的な社会関係に変革しようということです。

佐々木:ということは「アンサンブル規定」にもとづいて人間社会を構造的に認識するのは、マルクスは人間を物や道具として捉えているからではなく、本来人間は主体的な存在なのだけれど、物や道具に貶められているので、その疎外された構造を明らかにしようという構えなのですね。

やすい:疎外された姿が現実の人間の存在構造だという意味では、疎外構造が人間の姿なのですが、やはり自由で主体的な創造主体としての人間という立場があったと思いますね。

佐々木:それでは、道具的理性批判に戻りますが、資本主義社会で人間存在が物や道具として見なされていることを批判する際に、人間存在が物や道具であるという認識が入るのではないのですか。

やすい:ええ、実際には物や道具として機能していますからね。それを認識する理性にはどうすれば最大限に利潤を得れるのかという事が分かっていなければならないので、道具的理性を含んでいるといえますね。同時にとれを批判的に克服しようという弁証法的な理性もあるわけですが。

佐々木:それに弁証法的な理性にしたって、それ自身変革に役に立つ道具でなければなりませんし、変革という目的に対しては、変革の主体である人間はやはり変革に最も効率的に行動する最も有用な道具になる必要がありますね。

やすい:ええ、そういう意味では道具的理性を批判していながら、道具的理性にならざるを得ないというディレンマはあるでしょうね。逆に言えば道具的理性は、あくまで問題解決の手段・道具であるという自覚を失わない限り、人間性の喪失を克服するために有効に機能しようとしますから、人間性を保っていると言えますね。

佐々木:ですから道具的理性批判という問題の立て方自体がかなり安易な気がしますね。

やすい:まったくですね。これは人間をコギト(考える我)と置くところから、あくまで主体としての人間にこだわる人間観の伝統があります。そのために人間が自然的・社会的存在であることの意味を見極められなくなっているということがあると思います。自然的・社会的存在であるということの中には、身体的な欲求充足によって生きなければならないということがあり、社会的に有用に存在しなければならないことがあります。つまり社会的経済的に役立つ存在でなければなりません。そのためには自然的・社会的目的連関の中で手段や道具として有用でなければなりません。それに自分が生み出した事物に自分の社会的価値を示すということも非常に大切なことですね。だから手段や道具として物として存在し、扱われることは決して、それ自体間違っているわけではないのです。

佐々木:物扱いされて当然なんて言ったら、「いい加減がいい」の時みたいに、また顰蹙を買いますよ。

やすい:もちろん個体的身体を持つ限り、身体的自由が、精神的主体である限り精神的自由が尊重されなければならないということは大前提ですよ。文脈を離れて、その言葉だけを取り上げるので問題発言になるのです。西田幾多郎も「物となって考え、物として行う」と言っています。物や事物といったら死んだ非生物的な存在に限定して捉えますが、生産機構の中では生物も非生物も社会的諸事物として互いに関連し合っており、働きかけあっています。それに道具や製品の中に自己を表現して、生産物や商品して関係しあうのですから、人間存在自体が身体に限定されていないといえます。

佐々木:考える我だとか、身体的主体に人間存在を限定してしまうと、現実の人間を捉えきれなくなるということですか。

やすい:その通りです。もちろん「考える我」や身体的主体にこだわった議論が必要な場合もあると思います。そして経済的諸関係を論じる場合でも、「考える我」や身体的主体としての人間存在を尊重すべきだという視点も重要です。だからといって、経済的諸関係が社会的諸事物の再生産構造になっていることに即した議論も必要です。そして物としての人間がそんなにつまらないものではないということは、日々われわれの創造的な生産や経済活動・生命活動が実証しているのです。

佐々木:構造構成主義でいう「信念対立」の問題としてはどう整理されますか。

やすい:その話だけで一節必要ですね。
                
                    (9)

事を為すその志高けれど事の結果の責めは避けまじ

やすい:まず観念・用語・理論などを道具として捉えることの是非が信念対立の大きな問題です。

 つまり世界認識や人間認識は何か別の問題を解決するための手段なのだろうかということがそもそも問題なのです。

佐々木:逆に言えば、世界認識や人間認識、存在の意味を問う哲学みたいなものが生きる究極の目的だって考えることもできますね。

 そういえば芸術は人生を装飾する道具だと捉えている人もいるけれど、芸術こそ人生の目的というアーチストもいっぱいいるわけだ。

やすい:問題意識を持ったり、課題や目標あるいは目的を設定していると、その関心相関性によってすべてのものが色づけられることになります。

 そしてより大なる目的に対してはすべてのものが手段や道具になってしまうのです。何を最も究極的な目標とみるかはひとそれぞれですしね。

 意志や精神として人間が存在する限り、世界を自分の色に染めてしまうということは避けられませんし、そのこと自体を否定することはできません。

佐々木:でもそれが環境破壊や戦争をもたらすということもありますね。

やすい:ええ、そうです。自分で目的を設定し、それによって世界を認識し、変革するのはいいのですが、その結果に対しては責任を負わなければなりません。

 現在のように地球環境全体と自分の行動が直接影響するような時代にあっては、自分を身体的な個人や家族などの狭い範囲に限定して、その狭い利益のためにだけ行動すると、周囲にとんでもない結果を引き起こすことになるかもしれないという自覚が必要ですね。

佐々木:身体的個人の利益や家族の利益を考えて行動するのは当然なのですが、そういう自分だけの視野しか持たないのではだめで、同時に市民やグローバル市民としての自覚が必要だということですね。

やすい:まったくその通りです。ですから道具的理性というのはあくまでツール(道具)なのですから、個人的な私的利害にも使えれば、普遍的な人類的利害のためにも使えるわけです。そして何事にも無駄をなくす必要があるのですから、その意味では活用されるべきです。

佐々木:その場合、人間も含めて道具、物として扱われてしまうということに問題がありましたね。

やすい:これは道具や機械つまり物を扱うという場合でもいえることですが、その特性をよく知って、大切に扱わなければ、そのもののよさが発揮できないということです。

 個人は精神的存在であると同時に物質的存在でもあるわけです。ですから当然健康や精神面での衛生にも留意し、人権を尊重して扱わなければ、充実したいい仕事はできません。

佐々木:つまり物として扱ってはいけない、人格として扱えということでしょう。

やすい:いや、「物として扱ってはいけない」という考え方の中には物は粗末に扱ってもいいとか、命がある物は物ではないとか、人間は物ではないとかいう考え方があると思うのです。

 しかしたとえば自然的諸関係や経済的諸関係において自然物との関係や商品関係などでは物と物として関係するわけですね。

  当然自然的物と社会的物は次元が違いますがやはり、物理的あるいは経済的諸法則にしたがって存在し、取り扱われるわけで、それを物として扱ってはいけないとは言えないわけです。

佐々木:それでは人格尊重とか人権なんて無視されるでしょう。

やすい:いや物としての人間であっても人間である以上人格的に尊重されるべきだし、人権だって認められるべきです。

 人間は物でないから人格や人権を持つのではなく、人間という物だから人格や人権を持つとも言えます。

 でないと物つまり人間の場合身体ですね。身体とは別に人格や人権を持つ主体を想定することになります。それは結局霊魂を実体化する議論につながるでしょう。それは物心二元論という観念論を前提にします。

佐々木:でも身体の機能として魂の働きを考える唯物論も、客観的実在への独断論を前提にしていますね。

やすい:ええ、そこでフッサールはエポケー(判断停止)するのでしたね。それはあくまで意識現象に即して考えるということですから、決して身体の中に身体とは別の実体としての霊魂があるなんて独断には与していません。

佐々木:それはそうですが、物としての身体が人格を持ち、人権を持つならば、ロボットが発達してやがて人格を持ったり人権を主張するようになるとは考えられませんか。

やすい:ええ、鉄腕アトムのような自己意識を持つロボットの誕生の可能性を視野に入れておく必要がありますね。

  しかしここで議論すれば議論が拡散しすぎます。

  ここで大切のことは物であるから人間でないというように物を軽く扱ってはいけないということです。

 経済的には人間は物に自己を対象化し、物として関係しあうわけですから、物となった人間が考察の対象なのです。というような関心相関性からみれば、道具的理性批判はピントはずれな議論だということになります。

佐々木:理性には道具として機能する面があります。そのことを忘れては実践の中で理性が発展するということがありません。

  しかし理性は存在そのものの原理を極めるという意味では、それ自身が目的ですから道具としてだけ捉えるのは一面的です。その点でのプラグマティズムの限界は押さえておくべきですね。

やすい:物であるから目的でない、道具でしかないというわけではないのです。

  逆に言えば、物でない精神だから道具や手段でないとは限りません。相互に働け掛け合うのですから、主体は同時に客体であり、客体も主体でなのです。だから目的であると同時に手段でもあります。弁証法的統一なのです。

佐々木:弁証法とか弁証法的統一とかいう用語は懐かしいですね。1960年代では、それさえ言えば、なかなか反論はむつかしかったですよね。

やすい:1930年のヘーゲル復興の時期から京都学派は盛んに使っています。

佐々木:構造構成主義の関心相関性からは、それぞれのアプローチによって目的とも手段ともなりえます。

  また主体とも客体とも措定できるわけですね。その際、手段とされたことによって、スポイルされてしまうことをどう防ぐかという問題が生じますが。

やすい:手段にされているとか、物とされていること自体に機械的に反発されるのは困ります。

 自分だって他人や諸事物を手段として道具として取り扱っているわけですから、お互い様なのです。それを物扱いされたといって機嫌を悪くする前に、自分がどれだけ社会や人々にとって有用な存在となれているのかということを反省すべきです。

佐々木:「物として扱う」ということは「人格を蔑ろにする」という意味であって、やすいさんのいうような意味での「物」とは違う気がしますね。

 たしかに道具あるいは手段であると同時に人格あるいは目的でもあるということで、人間関係は良好になるのですから、相手を人格として尊重し、目的にしてこそ、最もよい駒になってもらえるわけです。人を使う上司などは、部下に忠誠ばかり求めるくせに、徹底的に消耗品として部下を使い捨てようとしますと、そんな冷たい上司の下ではとても能力を十分に発揮できません。

やすい:そうですよね。理性も道具としての有効性ばかり求めていては、本当に素晴らしいアイデアは出てきません。考えること自体最大の楽しみになってはじめて、対象の心になって対象の可能性を開花させられるのです。

 『老子道徳経』に「故常無欲,以観其妙,常有欲,以観其徼」とありますが、こう解するのが正しいでしょう。

 「だから常に無欲によって主観・客観の区別を去って始めて,道を感得して,『妙』を観ることができる。常に欲があって支配すべき対象として物事を外から捉えようとすると,その外面(そとづら)である『徼(きょう)』しか観ることが出来ない。」

佐々木:なるほど主観の欲望で見ると、どうしても一面的な目的・手段の連関からだけ捉えてしまって、そのもの自体が持っている驚きや不思議に迫ることはできないわけですね。自分のちっぽけな欲望を離れて、対象の中に飛び込んだら、そこにワンダーランドが展開するということですね。つまり、道具的理性では駄目だということでしょう。

やすい:とはいいましても、実際には目的意識や問題関心、関心相関性があって考えているわけですから、道具的理性であることは現実なのです。

 それを止めろといわれても止められるものではありません。しかし効果や効率にばかりこだわっては、効果や効率も悪くなるということもあるので、そういう狭い了見は忘れて、西田幾多郎のように「物となって考え、物となっておこなう」という境地を大切にしたいですね。

佐々木:ということは道具的理性として常に効果や効率にこだわっている自分がいるのだけれど、どこかにそういう自分から離れて、自由に対象と融合して愉しんでいる自分がいるということですね。

 でも道具的理性からいうと、あまりに対象との融合に囚われすぎていると、目的や効率から外れていい加減なものになってしまうという恐れもありますね。

やすい:そういうディレンマを構造構成主義では「信念対立の問題」として捉えていますね。

佐々木:対象を目的にしたり、手段にしたり、理性のありかたも効率第一に考えたり、内在的に捉えたりする。

 複眼的にというかデュアルに発想する。あるいは臨機応変に状況次第で使い分けたり、こちらが駄目ならあちらというように柔軟に対処しようということでしょうか。

やすい:そうでしょうね。ただ構造構成主義というのは人間科学におけるさまざまなアプローチを調整するという問題意識なのです。

 構造構成主義自体は対象を目的としてとらえるべきだとか、手段として捉えるべきだとかいう縛りはまったくないわけです。また理性のあり方に関しても道具的理性がいいとか悪いとか、理性は内在的でなければならないという制約もありません。

 それぞれの有効な範囲で対象を捉え方も、理性のあり方も考えればよいということでしょう。

佐々木:しかしそれなら折衷主義というべきで、わざわざ「構造構成主義」といわなくてもいいでしょう。
 
やすい:私もまだまだ構造構成主義を理解しているとは言えませんが、いろんな立場やアプローチはあるにしても、共通の理解を成立させるのは「構造」認識だということです。

佐々木:その場合の「構造」というのはどういう意味か、また「構造構成」というのはどうしてかとかということがありますが、それはこの章では議論は措いときましょう。

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