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人間論および人間学コミュのやすいゆたかの哲学入門

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この対話編は2002年頃書いたものですが、「哲学入門」と銘打ちながら哲学プロパーの話に入らずに尻切れトンボになっています。パスワードを忘れて更新できなくなった古い方の『ホームページ』に掲載されているもので、最初から掲載し直して、続きを書いて本当の「哲学入門」になるようにしたいと考えています。とはいえ超多忙なので、また尻切れにならないか心配ですが。


◇◇◇◇◇◇◇◇やすいゆたかの哲学入門◇◇◇◇◇◇◇◇

ーーーーーーーーーーー同時多発テロの意味ーーーーーーーーーーーー

佐々木:9月11日の同時多発テロの以前と以後では世界が変わったといわれますね。

やすいゆたか:なにしろ資本主義世界の中枢である世界貿易センタービルが旅客機を使った自爆テロでズズズズーと崩れ落ち、覇権国の軍事中枢であるペンタゴンも炎上したのですからね。

佐々木:資本主義世界経済が蒙った打撃は、計り知れませんね。あれ以来アメリカ経済は深刻な不況に陥り、日本経済もますます悪化していますから。

やすい:たとえアルカイーダやタリバンが敗北し、オサマ・ビンラディンが殺されても、パレスチナ問題やイスラム世界の窮状が続く限り、国際テロは収まらない。もっと大きな規模の攻撃もあり得るでしょう。(追記ービンラディンの暗躍は続き、タリバンの抵抗も続いている)

佐々木:ええ、最終兵器と言われた毒ガスや細菌兵器、さらには核兵器が、小型化・低廉化し、国際テロ組織や宗教カルトでも入手可能になりつつあります。それらと自爆テロという攻撃が結合すると、とんでもない事態が予想されます。ニューヨークやワシントン、東京などが消滅しないとも限らない。そこまでいかなくても今回の規模のテロが数年に一度起こるだけで、世界は経済的に大混乱します。

やすい:環境問題でグローバルな協力体制を作らないと人類のサバイバルができないと言われている時代に、これではとても人類は21世紀を乗り切れません。

佐々木:ということは、あの世界センタービルの崩壊は、世界のカタストロフィー(大崩壊)の始まりだったということになりますね。

やすい:その意味では黙示録的な終末に成りかねない危機だということです。梅原猛は「湾岸戦争」を「地獄の一丁目」と表現しましたが、今回のテロとアフガン戦争はそのことをしっかり認識した上で事態に対応しないと、本当に終末になってしまいかねないのです。

佐々木:第一次世界大戦で毒ガスが登場して以来、そういう危機には慣れっこになってしまっていて、「狼が来た」の嘘つき少年みたいなことになっているのじゃないでしょうか。

やすい:それは言えますね。アフガンが一段落して、しばらく平穏な事態が続いたとすると、覇権国がテロを甘く見て、どんどん報復攻撃を繰り返し、取り返しのつかない事態を呼び起こす危険があります。アメリカやイスラエルは、軍事的優位を確信していて、断固とした軍事行動だけが有効なテロ対策だと思い込んでいるところがありますからね。それは墓穴を掘りかねないのです。

佐々木:軍事的優位も神話に過ぎないことが今度の同時テロが示しているとは受け止めないでしょうね。

やすい:ブッシュは最初に「これは戦争だ」と言いましたからね。もちろん戦争なのだけれど、もうアメリカの軍事的優位というのは相対化しているのです。科学技術や生産力、巨大な軍備これらが圧倒していれば勝てるというものではない。アメリカの旅客機が経済と軍事の中枢を崩壊炎上させたのです。

佐々木:その意味では旅客機や超高層ビルなんていうアメリカ文明のシンボルが、単なる偶像あるいは物神にすぎなかったことが暴露されたといえますね。

やすい:ええ、ある意味ではね。旅客機は乗っ取られることを前提には作られていなかったし、超高層ビルも旅客機がまさか突っ込んでくるとは予想されていなかった。だから自爆テロの犯人たちに乗っ取られれば、脆いものでしかなかったわけです。ああいう巨大なものを作っていれば、アメリカは世界の支配者だ、という考えは確かに甘かったということですよ。もちろんそのことは旅客機や超高層ビルが、それなりに凄いものであることは少しも変わりません。すぐに物質文明の脆さというところにもっていくのもどうかと思います。

佐々木:やすいさんは今回のテロは物質文明の自己疎外の典型であり、旅客機や超高層ビルは物神だったと仰っていましたね。

やすい:ええ、アメリカが作ったものによって、アメリカがやられたのですから、アメリカの物質文明の自己疎外です。旅客機や超高層ビルに対してかくも脆いものだとは、アメリカ人たちは気づいていなかった、その意味で旅客機や超高層ビルを単純に信仰していたところがあります。その意味では物神であったという指摘は重要です。でもそういう意見がでてくるとすぐ、物質文明やその成果を過小評価し、それに対して東洋の精神文化なるものを対置したがる人がでてきます。

佐々木:でもたとえ自爆テロに備える設備を旅客機や超高層ビルにつけても、また別の方法で必ず崩壊させられるでしょう。つまり科学技術がいかに進歩しても、人間の破壊衝動、憎悪のエネルギーにはかなわないわけです。その結果、科学技術は自らの成果を破壊するために使われることになります。

やすい:その通りです。でも東洋の精神文化というのも、戦争や破壊のために動員されないとは限りません。憎悪や破壊も精神の働きですから、物質文明の中に破壊的なものが発展してくるのも、精神の働きと見なければなりません。


コメント(57)

やすい:物部氏が滅ぼされて法興寺の建立が始まってから三十一年目ということですね。そういう年号なかったのなら、もし佐々木さんが釈迦三尊像の偽者を後世に作るとして、そういう年号を入れるでしょうか?

佐々木:そんな偽年号などを入れるのはおかしいですね。

やすい:だから本物なら何らかの政治的配慮で偽年号を入れたり、寺院特有の年号を入れたりすることはありえることですが、偽物には偽年号は入れることは先ずないと思われます。ということはこれは本物だという可能性が高いのです。そして本物だとしたら、何らかの特別な事情がなければ偽年号は入れないでしょうから、断定はできませんが、「法興」という年号が有った可能性が高いですね。

佐々木:ということは、法興という年号は蘇我氏の優勢な時代だったので、後世の藤原氏などが、この年号の存在を抹殺したということですか。

やすい:ですから645年までは法興年号の入った光背銘が作られていてもおかしくないということです。ということは推古天皇の時代に天皇号使われていたことは十分可能性があるわけです。もちろん聖徳太子の実在性もあえて疑う必要はないわけです。

佐々木:なるほど、じゃあイエスの実在性はどうですか、『新約聖書』の福音書のいわば仲間内の記述だけでイエスの実在性を信用してしまうことは、キリスト教徒なら仕方ないとしても、実証性に欠ける態度ではないですか。

やすい:その前に念のために申し添えておきますが、それなら他にも法興年号の入った遺物が出ているはずだと思われるでしょうが、当時の遺物がほとんどないという特殊な状況の中でのことですね。蘇我氏支配時代のものを意図的に破壊してしまったということでしょう。

 福音書の記述から何が読み取れるかです。いわゆるイエス非実在説の人々は、似たような話をエジプト神話から探しだしてきて、似ているから事実ではないことにしてしまいます。しかし同じようなことで信仰するとしたら、似ていてもいいわけですね。

佐々木:いや、トム・ハーパーのいうことは、そういうことではなくて、信仰の起源が歴史的事実か神話に基づく信仰かということです。エジプトの神話が中東に伝わってイエス神話になり、その教団が、神話的出来事を歴史的事実に作り変えることによって、教権の強大化を図ったのではないかということです。

やすい:それは復活信仰に関わっていると思います。復活を強調しますと、どうしても疑われますね。それで歴史的事実だということで押し通そうという人たちと、神話でもよいから、精神的な象徴的な出来事と捉える人たちに分化します。

 ただ福音書を読んでいますと、イエスの復活がいわゆる神話的に起こったのではなくて、当事者たちの意図を超えて、弟子たちの宗教的体験として起こっていることが分かります。弟子たちは復活したイエスを確かに体験したという確信があって、精神的事件にしようとするグノーシス派と対決しているのです。つまりグノーシス派の見解を入れるとイエスの復活体験した弟子たちは詐欺師だということになってしまうわけですから。
佐々木:やすいさんが復活を宗教的体験だといわれる場合に、イエスが神によって事実として復活させられたという意味ではなくて、そういう事実が起こったとしか考えられないような体験を弟子たちがしたということですね。そういう共同幻想がどうして起こったのですか。

やすい:福音書はそれを記録しているわけです。

佐々木:イエスは十字架にかけられ、墓に入れられ日曜日の朝、墓から消えていて、マグダラのマリアたちの前に現れ、エマオに行く途中の二人の弟子の前に現れ、そしてエルサレムの弟子たちの前に現れたとあります。

やすい:現れ方の特徴を考えてください。マグダラのマリアの場合は、墓の園丁が急にイエスに見えます。エマオの旅人は食事の際にイエスだと分かります。弟子たちの前に現れたのも食事をしていてです。つまり別人がイエスに見えるという形だったことが分かります。

佐々木:別人だと見えていたのが実はイエスだったのではないのですか。

やすい:それはイエスを見た人はそう思ったでしょうが、第三者の立場で彼らのいう証言を再現すれば、別人を急にイエスだと弟子たちが見てしまっているようになります。つまり彼らはイエスの復活を体験したかったのです。ですから、イエスを連想させるきっかけがあれば、それをイエスと思い込むわけですね。

佐々木:どうしてですか、園丁が「マリア」と言ったたらマリアはイエスに見えたと言う場合は、どうして「マリア」と言ったのかも不思議です。

やすい:マグダラのマリアはイエスの妻だったという話もあるぐらいですから、思い入れは相当激しかった。「マリア」という幻聴はしょっちゅう聴いたとしても不思議はありません。目の前にいる園丁の言葉も「マリア」と聴こえてしまうのです。そしてイエスがそう言ったように聴こえたので、園丁の顔までイエスに見え、彼の語る言葉はイエスが語っているように聴こえます。「ガリラヤで待て」というのもそうですね。園丁はそんなことを言ってません。でもそう聴こえたのです。

佐々木:全く気がふれてしまったのですか。

やすい:全能幻想ですね。彼女はイエスという神と一体化したと思っていてので、彼女の願い通りにイエスが復活して、ガリラヤへ行くように指令したと思い込んだのです。

佐々木:どうしてそれが本当の復活やイエスの指令ではないと分かるのですか。

やすい:イエスは後で弟子たちのところに現れたときには、エルサレムにいるように指令します。ですからガリラヤ行きの指令は、マリアの思い込みです。でもつじつまが合わないので、「マタイによる福音書」では弟子たちはガリラヤに行ってイエスに再会したことにしています。

佐々木:でもどうしてマリアはイエスと一体化したと思ったのですか。

やすい:他の弟子たちも同じですが、それは「主の聖餐」が原因です。

佐々木:いよいよ、やすいさんの「主の聖餐」という仰天仮説ですが、やすいさんの「主の聖餐」というのは弟子たちがイエスの肉を食べ、血を飲んだという仮説ですね。それは福音書では伏せていますね。

やすい:それを書くとイエスという人間の肉を食べ血を飲んだということになり、ユダヤ教からすれば最もしてはいけないタブーの侵犯なので、死刑はまぬかれません。伏せておくしかないのです。

佐々木:当然弟子たちの間でもタブーであって、イエスの肉を食べたり、血を飲んだりはできないことでしょう。

やすい:イエスをメシアであり、神の子と信仰している弟子たちにとってはまた別です。イエスの肉と血はそこに聖霊が宿っている特別の身体ですから、それを食べることは、聖霊を継承することにあたるのです。イエスの体は「命のパン」であり、真の食材だと教えていました。「人の子(メシア)の肉を食べ、血を飲んだ」者を終わりの日に復活させ、永遠の命に導くと約束していたのです。「ヨハネによる福音書」によりますと、イエスは弟子たちにそう教えていたわけです。
佐々木:でもイエスを殺して食べるわけにはいかないのですから、イエスが「命のパン」だというのは、「イエスの言葉」をよく聴き、それを理解して、自分の生きる力にすることが大切だと言うことだと解釈されていますね。そしてイエスの肉を食べ。血を飲むということは、最後の晩餐を見習って、教会で聖別されたパンを食べ、ワインを飲むことです。つまり最後の晩餐でパンを食べ、ワインを飲んで、それでイエスの肉を食べ、血を飲んでいるわけですから、イエスの十字架や復活に立ち会った弟子たちも、本物のイエスの肉を食べ、血を飲む必要はなかったということですね。そのようにキリスト教会では解釈していますね。

やすい:ええ、そういう解釈なので、私の仰天仮説は無視されているわけですが、でも本当にパンはイエスの肉であり、ワインはイエスの血なのでしょうか。

佐々木:まさかそれはないですが、イエスがそう言ったので、イエスの弟子たちやキリスト教徒たちはそう信じているということでしょう。

やすい:この問題に深入りすると切がないのでくわしくは『イエスは食べられて復活した』(社会評論社)で検討願いたいのですが、イエスがガリラヤで「命のパン」の説教をされたときは、イエスを殺して食べるわけにはいかなかったので、言葉の比喩として受け止めることも大切だったわけですが、最後の晩餐ではいよいよ捕まって処刑されようとする直前なわけです。その時に、イエスの体はパンになり、ワインになるということはありえません。いよいよその時が来たわけですね。イエスは死に肉を食べ血を飲める唯一のチャンスなのです。その時にイエスがパンをとって食べさせ、ワインを飲ませたということは、このように私の肉を食べ、血を飲みなさいと指令しているのです。

佐々木:最後の晩餐はリハーサルだということですね。

やすい:奇異な説と思われるかもしれませんが、イエスは聖霊を引き継がせようとしていたわけです。イエスと弟子たちにとって一番大切な信仰は、イエスには聖霊が宿っているという信仰です。だから奇跡が出来る。イエスの聖霊が悪霊を追放できたわけです。イエスが十字架で死ぬと、イエスの聖霊を弟子たちに引き継がせなければならない。それが聖餐なのです。イエスの肉と血を体に入れれば、聖霊だけが残って後は排泄されます。つまり聖霊も悪霊もつきものですから、体から体へと移転できるのです。

佐々木:悪霊追放のパフォーマンスなんて本当にやっていたのですか、キリスト教徒でも福音書のその部分は信用していないでしょう。

やすい:実は福音書ではその部分がイエスの御業として重要なのです。ところが悪霊は本当は目に見えません、聖霊も見えませんが。それでイエスがいくら悪霊追放をしても信用されないので、効き目もないのです。そこでイエスは目に見えるように弟子たちに悪霊役をさせて目に見えるようにした。だからこのパフォーマンスは驚嘆されて、イエスの教団は爆発的な人気を博したわけです。まさか弟子に悪霊役者をさせたということは福音書では書けませんから、それは伏せてあって、悪霊追放のパフォーマンスだけが書かれています。

佐々木:それこそインチキ詐欺集団だということになりませんか。

やすい:いや、イエスも弟子たちも聖霊による悪霊追放を知らせるために悪霊芝居をしたわけでして、演劇性はありますが、真実を知らせるためのものだということです。その代わりばれたら殺されるので命がけだったわけです。そのように解釈しますと、つきものである聖霊を引き継ぐ聖餐としてイエスの肉を食べ、血を飲まなければならないというのが必然性がありますね。パンやワインには聖霊は宿っていませんから。悪霊役をするのもイエスの肉を食べて聖霊を引き継ぐのも皆命がけです。イエスに聖霊が宿っているという信仰の証なのです。そのように解釈すれば福音書は実にイエス集団の信仰というか、宗教的真実を伝えていると言うことが分かります。
佐々木:えらい話にはまってしまったのですが、つまり福音書の悪霊追放と、ガリラヤの「命のパン」の説教、エルサレムでの「最後の晩餐」および処刑後のやすい仮説では「イエスの肉と血の聖餐」、そして三日目の復活は繋がっていてそれを説明できるのは、「聖餐による復活」仮説だけであるということですね。

やすい:ええ、だからイエスの実在も否定できないということです。こういうように分析できるように物語を作ることはできませんから、というのはこの分析は20世紀のフロイト心理学を踏まえたものですから、当時では神の子の肉を食べ、血を飲めば、イエスの復活を体験できるなんて分からないわけです。あくまで聖霊を引き継ぐつもりでしたことが、結果としてイエスの復活を体験して、復活中心の信仰が生じたということです。

佐々木:やっと哲学入門の、イエスは実在したかしなかったかの二つに一つだという歴史的唯物論の話に戻れましたね。しかしそれにしても、イエスに子孫があったかどうかとか、結婚していたかどうかというような、ことが大問題として世界中で話題になったのに、イエスが食べられて復活したかどうかというもっと大問題のはずのことが見向きもされないということはどうしてですかね。

やすい:それこそ「イエスのミステリー」ですね。ともかく歴史的唯物論で客観的な歴史的事実を確定しようとする形で、歴史は議論せざるを得ないのです。そして他方で特定の理念を展開する形で、歴史を論じる他ないという歴史的観念論も避けられません。

佐々木:聖徳太子を論じる場合も、天皇中心の律令国家を作っていくうえの基盤づくりという形で聖徳太子の役割を論じるということですね。架空説の場合は、そこまで当時の倭は熟していなかったとして、後世の律令国家確立のために過去に見本を投影する形で太子伝説を作ったということですね。

やすい:ええ、律令国家の伝統を今始まったばかりでは頼りないので、百年以上前からすでにこういう憲法や身分制があったとか、こういう偉人がいて、いい見本があったということにしたという話ですね。でも既に仏教導入を決めて、古墳文化から脱皮して、国をまとめていこうとしていた時代だと思われますから、聖徳太子は実在したでいいと思いますね。

佐々木:聖徳太子の「和の精神」というのは国家や民族をまとめていくと言う点からも、国際的に協力しあって平和な世界を築いていくという点からも大切なことで、アメリカ大統領選挙で当選したオバマも、一つのアメリカという和の精神を説きましたね。

やすい:ええ、一つのアメリカ、一つの世界ということでいよいよ聖徳太子の「和の精神」の出番なのです。イスラムもキリスト教もユダヤ教も仏教もヒンズー教も儒教も神道も和の精神で協調して人類的課題で協力し合い、金融危機にも地球環境危機にも集団安全保障にも取り組むべきです。イエスの絶対平和主義や聖徳太子の和の精神などは、歴史を超えて普遍的な意義を持つ理念を内包していますから、グローバル化の時代に再評価されるべきですね。それを促せてこそ哲学であって、その意味では哲学者たちは何をしているのかと言いたいですね。

佐々木:あれ、やすいさんも哲学者ではないのですか。

やすい:ええ、自称哲学者ですが、『ネオ・ヒューマニズム宣言』をしていもなかなか反応がありませんね。
ーーーーーーーーーーーーー哲学とは何かーーーーーーーーーーーーーーーーー

佐々木:「哲学入門」と言いながら、哲学とは何かが議論されていないということで読者からクレームがついています。やすいゆたかの哲学の特色はまだ十分には出ていませんが、それは棚上げにして、哲学とは何かを話していただきたいのですが。

やすい:それはどうして哲学史はターレスから始めるのかという問題と関わっていますね。

佐々木:ターレスは「アルケーは水である」と言った人ですね。つまり世界は何から構成されているのかについて、それの答えを与えたわけです。ですから世界の原理を問うのが哲学だと言うことですか。

やすい:アルケーつまり根源物質とは何かを問うのは自然哲学ですが、生きる意味を問うのは人生哲学ですね。物事を根源的に捉え返して、原理を明らかにし、だれもが納得できるように、その原理で物事を説明しようとする営みを哲学と言うようですね。

佐々木:ということはそれぞれの分野ごとに、その分野の原理があるでしょうから、それぞれの分野で原理を明らかにして、だれもが納得できるように論理的に展開すれば、それは哲学だということになりますね。ということは、それぞれの分野の学問つまり科学は哲学だということになってしまいますね。そうなれば科学に哲学が解消されてしまいます。

やすい:ええ、それで哲学なんか不要だとか、哲学は止めにしようという人もいます。それは大間違いです。科学が科学であるためには原理が明確であり、それが論理的に展開されていなければならないわけですから、それが出来ているかどうか、知を吟味する必要があるのです。ということで哲学は科学が哲学的に展開できているかどうか吟味する学への批判として成立します。

佐々木:哲学に残るのは認識論と論理学だという言い方もあるようですが。

やすい:哲学を科学の外に置こうとするとだめです。それぞれの科学が何を原理に展開されているかをはっきりさせて、それぞれの学の構造を解明し、各学問間の連関を示すことが哲学ですから、認識論一般や論理学一般だけでなく、各科学の認識論・論理学を明確にするのも哲学です。

佐々木:哲学は「フィロソフィー」の翻訳語なので「フィロ(愛する)」と「ソフィー(知)」から「愛知」つまり「知を愛すること」が哲学だということですが、「知を愛する」てどういう意味なのでしょう。

やすい:ソクラテスの話ですが、当時「ソフィスト(智者)」が活躍していまして、知ったかぶりしていろんなことを教えていたのです。特に、弁論術を学ぼうとする人が多かったようで、どうして論拠の弱い議論を強く見せるかの技術が重要だったようですね。

佐々木:デモクラシーの発達で一般市民も大いに発言できるようになったので、そういう需要が増えたのでしょうね。

やすい:ええ、ですから政治家や哲学者たちが形而上学的な議論を振り回して、断定的にこれが真理だと主張されても、自分が納得いかなければ信じなくてもいいということですね、真理は人それぞれだから、自分が感じるままに主張し、行動すればいいという、相対主義の立場をソフィストの元祖プロタゴラスは推奨しました。

佐々木:「万物の尺度は人間である。」という言葉ですね。この言葉は人間が基準だという意味ではなくて、「真理は人それぞれ」という意味らしいですね。

やすい:そうなのです。ソクラテスもこれまでの独断的な哲学に疑問を感じていました。デモクリトスのアトム論を学んでいたようですが、「世界はアトムとケノン(空虚)からなる」というのは実証することができないわけです。無理に世界をそれに当てはめて説明する原理になってしまっているわけです。

佐々木:それでアポロン神殿の「汝自身を知れ(グノーティセァウトン)」と書かれた標語を見て、自然のことから魂の徳へと関心を移したということですね。

やすい:そうなんです、世界が何からできているかより、自分にとって大切なことは、自分がいかに生きるかということです。いかに生きるかということは魂(プシュケー)の問題なのです。

佐々木:「肝心なことは、ただ生きることではなくて、善く生きることである」と言いますね。それは魂の問題だと言いますが、ところが「汝自身を知れ」という言葉は「アルケーは水である」と言ったターレスが考えた言葉だと伝わっているそうですね。なんだか、矛盾しているような気もしますが。


やすい:ターレスは「アルケーは水である」と言ったとき、それが「汝自身を知れ」の答えのつもりだったのではないでしょうか。

佐々木:ということは自分自身が水だということですか。あるいは自分自身を魂のことだと考えていたとしますと、魂が水だということでしょうか。

やすい:その前に説明しておかなくてはならないのは、ギリシア語で「プシュケー」という語は「魂」とも「命」とも訳されます。つまり古代ギリシアでは魂と命は区別がなかったわけです。それからコスモス(宇宙、世界)は生きた全体として一つの大きな命だったのです。その命を分有しているということが生きているということなのです。

佐々木:ということはコスモスの原理である根源物質は、命だということになり、アルケーは命としての姿で捉えられたコスモス全体だということですね。それが本来の我々の姿だと言う意味で、「汝自身を知れ」の答えが「アルケーは水である」という意味なのですね。

やすい:ええ世界は生きた命の全体としは水の塊でそれが人間の真の姿だということです。
佐々木:ターレスは水、アナクシマンドロスは無限定なもの(ト・アペイロン)、アナクシメネスは空気だという、ヘラクレイトスは火が根源物質つまりアルケーだということですね。それが命の実相であり、コスモス全体だというのでしょう。同じコスモスが全く違って見えているのですね。

やすい:違いに注目する前に、多様な事物や現象として現れているコスモスを生きた全体として一元的にアルケーに還元していることが哲学的なのです。しかもそれが命の実相であり、そう捉えている人間自身の本来の姿だということですね。

佐々木:するとアルケーを水だと覚れば、水のごとく変幻自在、融通無碍に、常に低きについて生きるのがよいという『老子道徳経』のような立場になりますね。アナクシメネスだと空気のように生きろとか、ヘラクレイトスだと火のように戦いに生きろとかなって、それぞれ個性的ですね。

やすい:それを倫理学的には語ってなかったようですが、そういう覚りを含んでいたわけですね。

佐々木:すると哲学というのは、元来は、自己とコスモスをアルケーに還元することによって、コスモスと融合するとか、神と合一しようとする営みから始まったということでしょうか。極めて宗教的ですね。

やすい:「ミュトス(神話)からロゴス(論理)へ」ということでしょう。これまで神話的に説明していた世界を、神権支配の衰えで、論理的に市民全体に納得できるように語らなければならなくなったということです。それで哲学が出てきます。数学や音楽を用いてハルモニア(調和)を説いたピュタゴラス教団も活躍したわけです。

佐々木:個がコスモスに向かって一気に断絶を乗り越え、「コスモスよ汝は我である。」というのはえらい飛躍ですが、でも究極はそういうことを目指しているのかもしれませんね。逆にコスモスとの断絶を論理で乗り越えても、日常における、我と汝、主体と客体というか、当面している問題との断絶はどうしようもないことがよくありますね。

やすい:そうですね。逆に直面している困難が大きくて、何一つうまくいかないというか、自分自身のものと思えない、すごく断絶を感じているということがありますね。だからこそ、コスモスとの一体性を信じ込んで、だから世界に自分の意にならないものがあるべきではないという信念を抱きたいのかもしれません。

佐々木:それで哲学は妄想の塊だとか、何の役にも立たないみたいに言われるのですね。でも生きている限り、コスモスとの一体性を信じておきたいという思いは、誰にも切実なのですね。

やすい:誰にもというと、私は違うという人が必ず現れますが、まあ精神分析的には誰もがそう考えざるを得ないわけです。意識的か無意識的かの相違はあるとしても。
佐々木;コスモスとの一体性を前提してしまえば、証明すべきことを前提してしまっていますから、独断論に陥ってしまいます。まず信じ込むということですからこれは哲学というより、宗教ですね。プルシァ伝説を下敷きに、人間とコスモスの一体性、アニミズム的な世界観が説かれるようなものですね。

やすい:土だとか水だとか空気だとか火だとかに還元して捉えるアルケー論は、いわば物質的な同一性によってコスモスにアイデンティティを見出す哲学です。これは命の哲学でもあるわけでして、生きているということは物質的な同一性の確認なのですね。体内に入れて同化したり、体外へ排出して、異化したりしているわけで、自己同一を保つとしいうことが、自己がコスモスの部分であり、コスモスが自己の身体において循環しているということなのです。

佐々木:そういう発想自体が、感覚によって世界や存在の全てを知りうるという独断論でしょう。カントは理性の限界づけが必要だとしました。それはあくまで感覚に現象している現象界のできごとにすぎないので、原理的に感覚に現れない世界や存在がないとは言えないということでしょう。

やすい:それは鋭い指摘ですが、ないとも言えない代わりにあるとも言えません。

佐々木;でもデカルトの「吾思う、故に、吾あり」という論理ですと、考えている吾は絶対確実にあるということですね。考えている以上考える吾が存在すると考えることはできるわけです。ただそれは精神的実体なので、延長的実体のように延長的なカテゴリーで認識することができないのです。つまり時間、空間とか質量や色、匂い、感触などでは構成できません。

 あると考えられるけれど、どのような構造を成して存在しているかは認識できないということですね。コスモスが存在する以上コスモスを作った存在があるとは考えられるけれど、神は延長カテゴリーでは捉えられないので、やはり存在するとは考えられる可想界の存在だけれど、認識できないわけです。それで神については信仰するしかないということになります。

やすい:アルケー論に戻して考えますと、コスモスは全体が一つの有機的なつまり生きた全体なわけです。その外に神などは想定されていません。ギリシアでは永遠性を持つものが神でして、コスモス全体はゼウスの神として象徴的に捉え返されます。

 全体が部分によって捉えられないとしたら、全体は部分に自己を貫徹できていないことになりますから、全体としては不十分で、むしろある事物に対するその他の事物の総体として、かえって全体ではなくなってしまいます。カントのように原理的に知り得ないものとは言えないのです。

 つまりカントの観念論は主観的観念論に止まっていますから、認識は常に主観の営みとして捉えられています。認識に当たって認識される対象が認識主観に働きかけている面は切り捨てられ(捨象され)ているのです。それで主観である理性に限界を設けてしまうわけです。
佐々木:なんだか哲学の核心的な問題にぶつかってきましたね。存在論的には人間はコスモスの一部ですし、その意味でコスモスの外というのは、存在論的には出てこない筈ですね。でもコスモス創造という発想で捉えると、コスモスを創造した主体は、コスモスの外にいなければならないということになって、超越神が想定されます。

やすい:それは創造する主体と創造される客体が別物だということを前提に考えているわけですね。コスモス自体が動くことによって、あるいは変化することによって、様々なものが生み出されるという発想も可能なのです。

佐々木:そうすると創造するものと創造されるものは同じものだということになりますね。その元の姿がアルケーだということですね。そしてアルケーから創造されたものはアルケーの様態変化にすぎないので、やがて元の姿に戻るという循環論になります。

やすい:コスモスの外にコスモスを創造する主体として超越神を想定するということは、これはすごい発想ですね。そんなことをしますと、超越した世界はコスモスとは全く別の原理で構成される必要があります。だって、それも一つのコスモスだとすると、コスモスが無数にあることになりますから、それを創造したまた別のコスモスということも要請されます。それで超越神のいる世界は、コスモスとは違う世界だということになり、人間の感覚カテゴリーつまり延長カテゴリーは適用できないことになります。

佐々木:時間・空間・質量や匂い・色・音・感触などですね。そういうカテゴリーで構成できない世界はどんな世界か知りえないわけですが、知りえないからと言ってないとは言えないというのは、カントの立場ですね。
やすい:何故、コスモスの外に超越神を想定するかということは、創造する主体は、創造される対象を自己の外に他者として立てなければならないと考えるからでしょうね。

佐々木:というのは、創造するということは、創造される対象を予め認識しているわけですね。意識の中に構想しているものを事物として意識の外に外化するわけです。つまり主観・客観的な認識図式を前提に神対コスモスがあるわけですね。

やすい:ということは主観・客観的な認識図式があり、人間がそれに基づいて労働を外化して事物を創造しているので、その論理から神のコスモス創造という発想が生じたということでしょうね。

佐々木:超越神を信仰していれば、神の創造があって、それをまねて人間の労働も成り立つわけですが、人間が神のコスモス創造の論理を理解できるのは、確かに人間の中に、主観・客観的な認識図式による労働図式が出来上がっているからといえるでしょうね。
--------------------------認識とは何か?--------------------------

やすい:主観・客観の認識図式ということと、感覚を超越した世界が存在する可能性という議論が関連していそうですね。しかしこの問題は認識とは何かと言うことが整理されていないと噛み合わないかもしれません。「哲学とは何か?」という問は「認識とは何か?-」という問いを含んでいます。

佐々木:そう言えば、やすいさんは「人間起源論」について論じる際に、動物は知覚に止まっていて、認識までは至っていないという議論をされていますね。動物は知覚したことに対して条件反射的に反応します。その反応が種の保存に繋がる場合に生き残ることが出来たわけですね。ところが人間は、単に知覚に止まらずに物事を認識するのですね。その場合認識というのは、対象を客観的な事物として捉え返し、主語・述語を使った言語によって概念把握するということですね。だからやすいさんの人間起源論は、言語の起源論でもあり、認識の起源論でもあるということですね。

やすい:そのことをはっきりさせるべきですね。動物と人間の違いをあいまいにしたままですと、人間が存在する意味というのが明確ではなくなってきます。動物も言語を話す、物事を認識しているということですと、何故人間だけが文明を築いたのか、人間だけが存在の意味を問うのか、私とは何なのか、あなたとは何なのか、生きるとは、死とは、超越とは何かということが見えてきません。

佐々木:しかしそういう人間の特権性を主張する議論は、随分評判を落としているのではないですか。

やすい:それは環境問題にも見られますように、人間が自然を破壊する元凶であり、人間中心主義が結局人間文明の崩壊に繋がるのではないか、ここで生命の原理に戻って、ヒューマニズムから脱却すべきではないかという反省が起こっているからです。この反省自体は大切ですが、反省するためにも人間と動物の違いが明確でなければならないのです。何故人間だけが文明を起こし得たのかが明確でないと、議論は進みませんから。
佐々木:少し、認識とは何かを論じる前に、動物と人間との断絶の問題に触れておきたいですね。断絶を主張することで、動物の命と人間の命は価値的に違うのだという人がいます。

□同じ命でも、人命尊重という言葉は極端に言えば、一人の命は宇宙全体より尊いということにもなりかねません。他方で命の尊さは同じだという立場に立てば、ベジタリアンにならざるをえないわけですね。

□また動物の命だって人間と同じぐらい尊いということで、子供の時にペットを保健所に処分された小泉毅という人が、大人になってから、家族を殺された仇討ちだということで、お門違いの厚生省の元事務次官やその家族を殺して回るという事件を惹き起こしています。

やすい:いやショックですよね。もちろんテロリズムはいけないし、暴力的な仕返しという発想もだめですが、小泉毅という人は動物の命も人の命も命の尊さに変わりがないという思想に、彼自身の命を懸けたわけです。

□ただ保健所というのは委任事務なので、地方自治体が運営しているわけですね。そのことを彼は知らなかったので、警察でそれを指摘されて絶句したそうです。彼のせっかくの命がけの思いはどうなるのでしょうね。

佐々木:確かに、保健所に処分される犬というのは飼い主の身勝手で、処分されてしまうところがありますね。犬には何の罪もありません。その場合に責任は飼い主にあって、保健所は幇助的なものだと考えられますが、小泉は自分の父親への恨みは語っていませんね。悪いのは国民の身勝手を許す役人にあるという発想です。

やすい:諫早湾のムツゴロウが埋め立てで一億匹も大虐殺されたのですが、その場合に、もし人間の命もムツゴロウの命も命の尊さに変わりがないのだという思想を皆が共有していたら、とてもあんな残虐なことは出来なかっただろうと思いますね。

□その意味では、ムツゴロウは自ら犠牲になって環境破壊がムツゴロウの命を奪うだけではなくて、人間の命も奪うものだということを示しているわけですね。その意味でムツゴロウは現代のイエス・キリストなのです。我々はムツゴロウの死を通して、我々の罪に目覚めて、十字架を背負って、これまでの罪人としては死に、復活したキリストになって自然再生、環境再生のために生きるべきなのです。

佐々木:エッセイ集『宗教のときめき』「二十 ムツゴロウの十字架」でコメントされていましたね。http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/tokimeki/20mutsugorou.htmそういう人間中心主義を批判する場合に、実際にはじゃあベジタリアンで生きなければならないのか、やはり二者択一になったら人間ではなく、動物を殺すのではないかという反論がありますね。

やすい:人間は生きるために他の生物を殺します。他の動植物も自分の栄養源を他の動植物から得ている場合が多いわけです。ですからベジタリアンにならなくても、殺して他の動物の命を奪って生きてもいいわけです。そうやって生物の間で生命の循環が出来て、大いなる生命が全体として生きているわけです。ただそれは同じ大きな命だから、ただ自分だけが生きればいいというのではなくて、大いなる命の循環に生きているという自覚の許に尊い命をいただかなくてはいけないということですね。

佐々木:その大いなる命はいわば神みたいなものですね。大地母神アシュタロテとかカーリーですね。あるいはコスモス全体が生きた全体としてゼウスであるとも言えるわけでしょう。その意味では我々は動植物を食べ、水を飲み、空気を吸うことだって神を食べる聖餐だということですね。そういう神聖な気持ちになって命をいただくのならベジタリアンでなくてもいいということですね。ところが厭きたからとか、邪魔になったからといってペットを殺すとなったら、やはり問題ですね。

やすい:ですから大いなる命の現れとして、同じ命を生きているという意味で人も犬もムツゴロウも命の尊さに変わりはないという自覚はとても大切です。しかしそのことを認識できるのは人間なのですね。その意味で人間の特別の存在価値というのも再評価が必要です。だからといって、犬やムツゴロウが人間の犠牲になってもいいということではありませんが。
佐々木:動物は知覚段階で、人間は認識段階だという議論は、一体だれが言い出したことなのですか。何か当たり前のような気もするのですが、かといって、誰とも明確でないような気もしますね。

やすい:ええ、そういうのが一番困りますね。言語で動物と人間を区別する議論には、元々そういう問題意識が内包されていたと思いますが、古今東西の思想家や哲学者の著作から明確にそういうものを取り出すということは、私もまだ出来ていないのです。

佐々木:動物が言語を話せないとしますと、言語による認識はできていないということですね。ただ動物もいろんな信号を伝達しているわけですから、情報を認識していたということになりませんか?

やすい:知覚内容を信号化して情報伝達していることは確かですね。しかしそれは生理的な刺激に対する生理的反応なのです。それを群れの構成員が刺激として知覚したときに一定の反応を条件反射的に惹き起こすわけですね。その反応によって、群れが環境に適応してサバイバルできれば、情報伝達機能が有効に働いたことになるわけです。

佐々木:それが認識していることにはならないのですか。

やすい:あくまでも生理状態に対する生理的反応ですので、自己とは別の他者の外的事物の属性として客観的に捉えられていないのですから、認識だとは言えないのです。
佐々木:動物は知覚段階で、人間は認識段階だという議論は、当然認知心理学の分野でしょう。その分野の蓄積されている到達点を踏まえて論じられているのですか。というより、やすいさんの場合は、廣松渉の主観・客観認識図式という近代の認識図式を超克するという問題意識に対するアンチテーゼとして出てきていますね。そのあたりは詰めが甘いのではないでしょうか。

やすい:仰る通りでしょうね。というより私は一人で仕事をするつもりはありません。あくまでも哲学の大樹を目指しているわけですから、ですから認知心理学から言って、それはこのように扱われているし、こういう点で欠陥があるという指摘を願いたいわけですね。そうやって弁証法的に議論を積み上げ、高めていきたいわけです。そうでないと、この問題は言語起源論や動物進化論、認知心理学と多方面の知的集積が必要ですね。哲学の方から荒っぽい問題提起をさせていただいて、各方面から迫っていくというようにしないと、突破口が開けないと考えているのです。

佐々木:廣松理論では、デカルト的な主観・客観認識図式というものがあって、主観の側に精神的実体があり、客観の側に延長的実体があります。延長というのは量的存在ということで、空間的広がりや質量的密度、そして時間的変化というものがあって客観的事物が構成されているとみなします。そういう存在が認識の対象になるということですね。精神の方はあくまで認識する側ですから、精神を認識することはかえってできないことになります。
佐々木:細切れになってしまって申し訳ありません。廣松はデカルト的主観・客観認識図式を近代的認識図式だとして歴史的に相対化し、それを超克しようとするわけですね。それに対してやすいさんは、デカルトは主観・客観認識図式をデカルト的な主観主義の立場から完成させたけれど、主観・客観的な認識図式というものは、認識である限り不可欠なもので、これを超克することはできないということですね。

やすい:ええ、知覚から認識に意識が深まる際に、意識内容は生理的な条件反射の契機から、主観に対して外的に存在する事物についての情報になっているわけです。知覚段階だと知覚している主観が、知覚内容と別に存在しているのではないのです。知覚に対する反応は生理的なものですから、知覚と区別される主観は登場していません。意識があるだけで、意識している我という主観はないのです。それに対して認識では意識内容は、主観に対して外的に存在する事物の属性だと思念されてしまっているのです。

佐々木:廣松的にいうならば、第一義的に存在しているのは意識内容であって、認識している主観とか、外的事物というのは意識内容を反省することによって、倒錯的に仮構されたものだということになりますね。

やすい:これは哲学入門ですから廣松説の詳しい検討をするのは後日にしましょう。動物の知覚においては、意識内容は生理的なもので条件反射によって反応します。この反応がおよび類の自己保存に結びついた場合に、知覚や知覚内容の伝達はうまくいったということです。人間の認識においては意識内容を主観に対して外的に対峙している事物の属性として捉え返しているのです。

佐々木:動物の場合でも相手によって行動を変えますから、意識内容を個体に統合して、個体に対して反応していますね。ということは事物認識をしているということになりませんか?

やすい:事物に対して反応していることは確かでしょうね。その反応の仕方が生理的な《刺激ー反応》の枠内にあるということです。

佐々木:人間も外的事物に対して《刺激ー反応》で対応していますね。動物とはどこが違うのですか。

やすい:刺激というのは生理的に感覚しているわけで、この自分の感覚に対して反応しているわけですね。刺激の元はたとえ外から来ていても感覚自体は生体で起こっているわけです。事物もこの感覚の統合としてあるわけですね。それに対して条件反射が起こるのです。ですから感覚の統合である限り、事物は主体に対する他者としての事物と言えないことになります。

佐々木:しかし、ドイツ観念論で思惟と存在の同一という場合に、感覚の統合としての事物と外的な事物は実は同一なのだということになっていませんでしたか。

やすい:ええ、それでドイツ観念論を同一哲学というわけです。だからドイツ観念論は、外的事物が実は意識の統合に過ぎなかったことを反省できているわけですが、実は、意識の統合としての事物を外的事物として捉え返すところに、人間的認識の成立があったということなのです。
佐々木:哲学入門にしては難しい話で、どれだけの人がやすいさんのおっしゃっている意味を理解されているか心配になってきました。要するにやすいさんによりますと、動物は対象を個体として感じ取っているだろうが、それは知覚として感じ取っているに過ぎないから、やはりその個体やそれに類似した個体への反応は条件反射の積み重ねの範囲に止まっているということですね。

□それに対して人間は個体の感覚を、主体である自分に対して、他者としてあるいは、感覚を越えた事物として相対しているものとして認識しているということですね。ですから事物認識においては、単なる条件反射の積み重ねではないから、知覚内容は事物を主体にする属性として判断されるのですね。

やすい:佐々木さんの説明で分かりやすくなりましたかね。

佐々木:動物から見た世界は、知覚表象の集合なのでしょう。つまりどのように反応したらよいかは、過去の同じあるいは同類の知覚表象の経験から、試行錯誤の積み重ねから食べるなり、逃げるなりするわけです。ところが人間の場合は世界は社会的あるいは環境的諸事物の集合になっていて、それぞれが独立した主体として、主観に対峙しているのでしょう。どうして動物の場合は知覚に止まってしまって、認識にまでいかなかったのですか。

やすい:それは事物や他の人の表象に対して、自分に対峙している独立した他者として人格的に関わることができなかったからです。感覚的に条件反射で対応するに止まっていたのです。人間の場合は知覚した対象を、いったん独立した事物、他者に変換するのです。そして知覚内容をその属性として帰属させるのです。

佐々木:それは主語ー述語的に捉え返すということですね。動物は主語ー述語的に物事を捉えていないとどうして分かるのですか。

やすい:だって動物は、主語ー述語的に物事を認識していないでしょう。していたら音声信号に止まらずに、動物も言語を使っているはずです。

佐々木:動物も言語を使用しているという説が多数派ではないのですか。

やすい:それは言語の定義を、音声信号を使ったコミュニケーションということにすれば、人だけではなく、猿、いるか、鯨、象など多くの動物で言語が使われていることになります。

ーーーーーーーーーーーーー言語起源論についてーーーーーーーーーーーーーーーーーー

佐々木:認識について論じていて、言語起源論に入ってしまったのですが、認識については当然もっと論じなければならないのですが、言語起源論を差し挟むことにしましょう。言語起源は言語定義によって変わってくるわけですが、言語とは何かの共通認識すら明確ではないということですか。

やすい:動物も言語を使用しているという見解が有力なのを考えても、それは言えるでしょうね。 

佐々木:人類は始めから言語を使っていたかどうかも問題ですね。ネアンデルタール人は喉が発達していて、音節のある音声を使った複雑なコミュニケーションを行っていたので、言語使用は確実だと言われますね。

やすい:その場合は、複雑な音声信号が言語に当たるという定義になりますね。言語は必ずしも音声信号でなくてもいいのです。記号を組み合わせて意味を表示することが出来れば、音声信号でない言語も有り得るわけです。

佐々木:ネアンデルタール人が使用していた音声信号が言語であるか、言語以前の音声信号でしかないのかは、何によって判断されるのですか。

やすい:その材料は複雑な発音や複音節の存在ですが、それなら象やイルカ、鯨などもかなり複雑な超音波を使ったコミュニケーションをしているので、言語をしようしていることになってもおかしくありません。

佐々木:別に動物が言語を使用していてもいいのじゃないかという人が多いようですね。

やすい:それは言語の定義次第では別にいいことになりますが、では言語とは何かを定義する際に、何のために言語とは何かを定義するのかということですね。動物も言語を話していることにしたいからではないでしょう。

佐々木:言語とは何かを知れば、何かいいことがあるのでしょうか。それは人間とは何かを知りたいために言語を定義するのだと言いたいのでしょう、やすいさんは。
やすい:デカルトが動物機械論を唱えました。彼は身体的には人間も機械だと考えています。でも人間は言語操ることが出来るので、そこが動物と決定的に違うのです。そして、身体機械がいかに精巧に作られても言語を話せるようにはならないだろうというわけですね。それで人間には他の動物とは別誂えのスペシャルの霊魂が入っていると考えたのです。

佐々木:神が人間のためにだけ特別に霊魂を創ったということですね。他の動物には霊魂はないのですか。

やすい:いや、アニマルというのはアニマつまり霊魂を持つということですから動物も霊魂はあるけれど、それは個体と類の自己保存の為に活動しようとする性向ということですね。あくまで身体の性格なのです。ところが人間の霊魂は、それらとは次元が全く違って、物質一般から区別された精神的実体だということです。

佐々木:精神は物質と対極に置かれるということは、物質が延長的実体と呼ばれているので、延長を持たないということですか。

やすい:すくなくとも延長的なカテゴリーに当てはめられないという意味でしょうね。ですから時間・空間的には捉えられないので、精神がどんなメカニズムで物事を思考し、言語を話せるようになるのか原理的に認識できません。

佐々木:デカルトの主観・客観認識図式では、主観は認識する側で、客観は認識される側ですから、主観である精神を認識することは原理的にできないということですね。では言語を話す霊魂が神に置き入れられたということも、そう考えるしか説明ができないということでしかありませんね。

やすい:そこでホッブズは、あくまで実験・観察の結果確かめられたものにのみ基づくというイギリス経験論の立場から、デカルトの議論を退けます。身体機械としての人間が言語を話すということです。

佐々木:特別誂えの魂は不要だということですね。

やすい:ええ人間の霊魂は、身体機械の高度な働きだということです。

佐々木:それならどうして身体機械は言語を話せるようになったのですか。

やすい:ホッブズによれば、外界からの刺激は無数のメモリィとして体内つまり中枢に残っているわけです。この「薄れゆくメモリィ」のことを「イマジネーション」と言います。それらが運動して反応を惹き起こしているわけですね。それで個体や類の自己保存に成功したものがサバイバルしてきたと捉えています。どのように反応すればよいかをトライアンドエラーで体験を蓄積する中で学んできたのです。過去の反応に照らし合わせて行動に移るのに時間を要すれば「熟考」だとします。

佐々木:なるほど動物も考えているわけですね。それでホッブズによれば、どのように言語を作り出したのですか。
やすい:音声のイマジネーションが他のイマジネーションの記号として働いた場合に言語だというのがホッブズの言語論です。

佐々木:たしかに言語は音声で構成されていますね。音で他のイマジネーションを表現する方法はどうして考え付いたのですか。擬音的ですか、それとも全くの恣意的な記号ですか。

やすい:それはギリシア以来の言語起源の二大類型ですが、ホッブズはよく分からなかったからか、それはアダムが神から教わったことにしています。

佐々木:おやおやイギリス経験論が困った時の神頼みとは情けないですね。

やすい:経験論だからこそ、実験観察が難しいことでは神頼みせざるを得なかったのかもしれません。まあそれは解けない謎だということを「アダムが神に教わった」と表現したのでしょう。つまりデカルトのように原理的に存在が認識できない霊魂だとか、あるいはその置き入れという仮説では絶対駄目だと言いたいのです。

佐々木:ともかく身体機械自身の機能で言語が話せるようになったということですね。ということはロボットも改良を重ねれば自由に言語が話せるようになるということですね。自己意識のあるロボットを作ることは原理的に不可能ではないとホッブズは考えているわけですね。

やすい:というより、人間自体が神が創造した機械人間つまりロボットだということです。そして諸個人を部品として人間が作った巨大な人工機械人間が国家ですね。ホッブズはこれを地上最強の怪獣という意味で「リヴァイアサン」と名づけました。国家は人格を持った生きた人間だということです。これが国家有機体説や国家法人説のさきがけになっているのです。

佐々木:やすいさんが人間を身体的諸個人に限定すべきでないと言われるときの先行説として持ち出される見本ですね。ただホッブズの説では、言語起源は結局分からないということでしょう。
やすい:それはそうですが、言語が音声のイマジネーションが他のイマジネーションの記号として使用されるところに言語の起源をみているわけです。

佐々木:それでは音声信号が言語だというレベルに止まっていますね。

やすい:そうとばかりは言えません。というのは、ホッブズのイマジネーション理論では、イマジネーション間の関係があって、それに対して反応するわけですから、表象と表象の論理的な関係を、音声のイマジネーション間のつながりが指し示すということになり、主語・述語的な言語に近いものをイメージしていたとも解釈できます。

佐々木:しかしデカルトやホッブズの段階では、動物的知覚と人間的認識を区別するという問題意識はなかったでしょう。やすいさんは、生理的な感覚とは違った客観的な事物があって、それが主語になり、それに述語としてその運動や性質をもってくるような認識が言語の前提になっていると言われているわけですね。そういう認識はどうして可能になったかということでしょう。当然労働の発達で、事物を客観的に捉えるようになったのではないのですか。エンゲルスは「猿が人間になるのに果たす労働の役割」という論文を書いていましたね。

やすい:エンゲルスは道具の役割を強調していましたね。多種な道具によってさまざまな動作や大きな仕事ができるようになって、道具に応じて対象となる事物が分かれますし、道具によって人が分業に編成されるようになり、人と人も区別され、個々の事物間や事物と人間間、人と人の関係が意識されて、それぞれの事物や人についての知識や対応の種類が蓄積されてきます。それで自己と他者の意識も生まれるのではないかということですね。

佐々木:労働の発達がそういう事物認識や個体認識を生んでいく論理を持っていることは否定できないでしょう。

やすい:ええ、ただ原始、未開の社会において道具は身体の一部のように機能していましたし、分業関係はきわめて自然的なもので、おおむね共同体の器官として有機的に結合し、融合し合う関係にあったと思われます。労働の創意工夫というのも目に見えて次々と新しい道具や狩猟方法、道具の製作方法が改良されたわけではなく、動物的知覚から人間的認識に世界が変わるほどではなかったと思います。

佐々木:しかし、他の霊長類と比較して原始人類が決定的に違うのは労働でしょうから、労働で言語の発生も説明するしかないのでは?

やすい:実は労働というのは、目的意識的な対象変革活動ですね。それは既に対象を客観的な事物と見なし、それを対象として変革するので、人間的認識を前提しているわけです。

佐々木:おやおや、人が木から下りて、二足歩行し道具を使って獲物を取ったり、果実を採集したりするという労働は、猿が人間になる決定的な要因ではないですか。もし猿が人間ではないので労働していないというのなら、猿は人間には成れなかったはずですね。

やすい:もちろん道具を使った採集や狩猟は猿もしています。それを労働というのなら労働をしているわけです。しかし今問題にしているのは、動物的知覚から人間的認識に移行するとはどういうことかということです。



佐々木:猿における狩猟や採集は労働ではなく、人間における狩猟や採集は労働だということはどうして見分けられるのですか。

やすい:ですから、労働の定義が客観的な事物を目的意識的に変革するということになりますね。

佐々木:かえって資本主義における労働は、機械に合わせて単純な動作を繰り返しているだけで、そこには全く目的意識や対象変革の意志が欠如しているのではないですか。

やすい:それを若きマルクスは疎外された労働として問題にしています。そして資本主義ではかえって機械の方が主体であって、労働者の作業は機械の補助に過ぎないように見えること、これも物神性的倒錯なのです。

佐々木:それじゃあ、資本主義的労働はかえって人間的な労働ではないことになります。商品生産自体も労働の疎外をもたらすということですから、やすいさんのいう労働というのは単に理念的にしか存在していないということですか。

やすい:人間が人間であることは当然なこと自然なことですが、同時にそれはとても難しいことだとも言えるでしょうね。労働がきちんと目的意識的な客観的事物に対する対象変革として自覚できていないことは、ヘーゲルの言い方だと対自化できていないということです。でも即自的には労働なのです。それは個人の自覚としては労働になっていなくても、生産連関の中では、目的意識的な客観的事物に対する対象変革過程として機能しています。そういう意志も結合された労働においては働いているわけです。
佐々木:生産主体を疎外された労働者においてみると、労働が喪失しているようにみえたりするわけですが、だからと言って労働していないわけではない、売れないといけないのですからきちんと高性能の製品を作っているわけです。だからパソコンや携帯電話も使えますし、乗用車も走っているわけですね。そこには目的意識があり、対象変革がなされています。たとえ単純労働だろうと自分の分業分担を意識して生産ラインに立っていますし、また完全に単純な機械的作業なら機械にやらせた方がコスト面で有利です。数十万人いた生産ラインが数百人、数十人に減り無人化しつつあるわけです。ということは、労働者の労働はやはり目的意識を伴う方が相応しいということですね。

やすい:機械的というのを無意識的と捉えがちですが、それは単純な意識なのです。機械だって単純な作業だけで成り立っているのではなくて、単純な作業を組み合わせて複雑な作業をしているわけです。そこいう工程が意識的に製品を生産しているわけですね。この機械の意識が人間の意識であり、それが製品を目的意識的に生産しているのです。

佐々木:ちょっと言い過ぎではないですか、機械は機械であって意識はしていないでしょう。意識しているのはあくまで人間なのですから。

やすい:それは人間と機械を別物として捉える既成の人間観からみればその通りですが、それで機械制生産の論理を説明するのは無理があります。機械を使うようになって、人間はもうそれ以前の人間とは違うわけで、機械を含めて人間を捉える人間観が必要なのです。それがいやなら機械文明以前に戻ることですね。

佐々木:田園に帰れですか。それもいいですね。最近は高齢社会になっていわゆる定年後をどう生きるかが大問題になっていますが、荒廃してしまった田園に戻って、農に生きるのもいいなと考えています。人間は機械とは別なのだから、機械とも離れられるということを示したいですね。
やすい:そうですね、個人レベルで機械から解放されたり、自然の中で自給自足に近い生活を楽しんだりするのは大いに結構です。あるいは核兵器のような人類の絶滅をもたらしかねない物騒な兵器は国家の保有を禁止して、国連軍縮委員会か何かに集めて処分してしまう必要もあるでしょう。いったん作った機械から絶対に解放されないというような宿命論は困ります。

 とはいえ、火を使用し、蒸気機関や電気モーターを開発し、さまざまな機械を作り出してつくり上げてきた機械工業文明を御破算で願いましてはと、ゼロに戻すというわけにもいかないということは確かです。機械工業文明が生み出してきた様々な矛盾も科学技術の改良を通して、なくしていくしかないわけです。

佐々木:それは原発推進派の論理でしょう。ここまで原子力発電に頼ったらもう引き返しがきかないから、再処理工場や高速増殖炉を作って、無限に近いエネルギーを出せるようにするしかない、そうでないと元を取り返せないといいます。でも安全技術が確立していないのに、やみくもに開発を続けると事故による被害でそれこそ元も子もなくなるだけでなく、人類のサバイバル危機にもつながりかねません。私は、やばいと分かっているものには、手をつけないぐらいの理性はあってしかるべきだと思いますね。

やすい:その点は全く同感です。原発については今更止められないところまで来ていると断定するには再処理工場や高速増殖炉の技術は危険を孕み過ぎていると思いますね。

□ただ原発技術や核融合の技術が無限のエネルギーを供給してくれる可能性があり、数百年、数千年単位で考えますと、人類が研究開発すべき対象であることは否定できません。ですからここは実用化は焦らずに、グローバルな研究機関を作って、巨大な砂漠などで地道に研究するのは必要だと思います。当面のエネルギー開発は自然エネルギー開発で十分賄えると思いますね。

佐々木:やすい哲学では、そういう機械や機械文明の総体を人間と捉える人間観が必要だという議論ですね。それに対して、人間と人間が作った機械や道具は別でどうしていけないのだ、違うものを同じにする意味がどうにも理解できないという批判が根強いでしょう。それにこの話、言語起源論だったはずなのにずれてしまっていますね。

やすい:言語起源論は、人間の起源を解明するためのものでもあるので、言語を動物も使用しているように定義すべきではないということから、言語は客観的な事物を主語・述語を使って、実体・属性的に規定したり、事物の状態や運動を述語づけで表現するものだということになったわけです。

佐々木:そういう、主語・述語的な言語というのは何から発生するかということで、労働を検討していると、労働が言語より先にあったとすると猿が労働していたことになり、労働が目的意識的な対象変革活動という労働の定義からずれてしまうということになったのです。つまり猿は感覚的な知覚の段階であって、事物を他者として認識できていないということですね。要するにやすいさんは労働は人間的な認識に伴う活動であり、それは言語を前提にしているだから労働は言語を直接的に発生させたわけではないということですね。
やすい:言語起源論については、プラトン『クラテュロス』で、模倣説と恣意説がとりあげられ、この議論が原型になっています。つまりものの形や音を真似て、表現したものが言語だという見解と、言語は記号だから必ずしも似ているところが重要なのではなくて、恣意的に記号として成立したところが重要だという見解です。

佐々木:歴史的に発生を考えますと当然模倣から単語が生じたのでしょうが、似てなくてはならないことはないのですから、言語自体は恣意的な記号だとする方が正しいのでしょうね。

やすい:ええ、模倣なしには言語が生じなかったという意味で模倣が起源論において決定的に重要だということは否めませんが、言語の本質を模倣に求めるのは、言語と音声信号の区別を無視することになりますね。音声信号は対象を音声的に表現したものですから、模倣説で説明がつきます。音声信号と言語を区別する立場だと、やはり音の組み合わせと対象の関係は恣意的だということです。

佐々木:ということは対象が、生理的な表象に止まらずに、客観的な事物になっているということですか。

やすい:だからこそ生理内容とは別に記号で指示できるのでしょう。

佐々木:ということは言語の起源をいろんな模倣的行為の発展から説明するのは、歴史的なアプローチとしては重要でも、それだけでは不十分だということですね。

やすい:ええ、労働から言語という場合も、労働を通して対象を模倣するという契機があります。絵画の発展や舞踊などでの対象表現からアプローチする説もありますが、結局、模倣説の限界を抱えているということですね。
−−−−−−−−−−−−−−−認識の起源についてーーーーーーーーーーーーーー

佐々木:それにやすい説でいくと、その場合の労働はまだ言語以前の労働だから、客観的事物の模倣ではなくて、主観的な表象の模倣だということになりますね。ということは言語の起源を問題にする前に客観的事物に対する認識がどうして成立したのかという認識の起源の問題に議論をずらした方が賢明ですね。

やすい:動物的知覚から人間的認識への転換ですね。それがどうして起こったかを解明できれば、それが言語の起源を解明したことになるかもしれません。

佐々木:結局、世界を表象として捉えているか、事物の集合として捉えているかの違いですね。意識現象がそのまま実在だといういわば「現象即実在」の世界から、それを客観的事物の集合に解釈し直した世界へとブレイクスルーしたわけですね。としますと、バークリーが事物は感覚の束だといい、カントが、事物を感覚を素材に構成された意識現象だと意識に還元したのは、人間的認識から動物的知覚への後退ということになるのですか。

やすい:それは、その意識を個々人の意識に還元してしまえばそういうことになるかもしれませんが、大いなる生命の意識としても捉え返されていれば、後退ではないと思います。

佐々木:「大いなる生命」なんてことを突然言い出されては困りますね。(笑い)またその議論にずれていってしまいます。やすいさんの仰りたいことは、要するに、意識を主観の営みにだけ還元するのではなく、意識された存在である事物の働きとしても捉え返していれば、事物的認識から動物的な生理的知覚への後退にはならないということでしょう。難しい話になってきましたね。哲学入門的に語ってくださいよ。
やすい:つい「大いなる生命」なんて言葉を使ってしまって、申し訳ないです。要するに意識を個人の主観的働きとしてしか捉えないと、カントのように物自体が残りますし、何故対象を構成できるのかも分かりません。

佐々木:主観が働くのも、対象的な諸事物が働きかけるからですね。だから意識は環境的、社会的な諸事物の連関の中に生じるということでしょう。経済学だったら、経済的な諸事物の関連が主観に意識を生み出すということですね。

やすい:ええ、ところが近代の主観主義では、意識は頭脳の働き還元されてしまって、意識の自己運動、自己増殖という面からだけ捉えられる傾向が出てきます。考える我が生み出す意識が演繹的に世界を展開していくわけです。

佐々木:とは言いましても、ベーコンは実験観察の結果確かめられたものにのみ基づくわけですし、デカルトは物質世界も実体でして、科学的な認識はその忠実な反映だったわけで、認識が客観的実在に忠実になされるということですね。

やすい:それはそうなのですが、意識が事物と断絶していますと、原理的に認識できないということですから、意識一元論に、つまり「存在と思惟の同一」ということになって、ドイツ観念論の批判哲学になるわけです。

佐々木:それでやすいさんの仰りたいのは、主観が意識を生むという発想だけではだめで、同時に客観的な諸事物の主観への働きかけが意識を生んでいるという面も捉えれば、認識が個人の活動であるだけでなく、諸事物や社会連関や環境が生み出したものとしても、西田幾多郎の用語でいうと一般者の認識としても捉えられると言うことですか。

やすい:また哲学入門には相応しくない用語が出てきましたね。話を元に戻して、動物的知覚から人間的な事物認識への転換はどうして起こったかに焦点を絞りましょう。
佐々木:プラトンの対話編『クラテュロス』では、ソクラテスがこう言っています。「“人間(anthropos)”という名前が何を意味するのかと言うと、他の動物たちが、自分の見るものを何ひとつ考察せず、検討もせず、観察もしないのに反して、人間は見た−つまり視た(opope)−だけでなく、同時に視たものを観察し(anathrei)、考量するということなのだ。まさにこのことからして、動物たちのうちでひとり人間だけが、正しくも“人間(anthropos)”、つまり“視たものを観察するもの”(anathron ha opope)と呼ばれたわけなのだ」と。
 
□プラトンは動物は知覚にとどまり、人間は認識段階に達しているということに気付いているわけですね。

やすい:ええ、ソクラテスの台詞の意味を、動物は感覚に対して直接生理的に条件反射で対応するのに対して、人間は感覚の内容を自分に対して立っている事物として、それに対して述語付けようとするというように解釈すればね。

佐々木:その場合、感覚内容が事物の述語になっているという意味では、事物は人間の意識として現れているわけですね。動物も事物を意識として捉えているのですから、どこが違うのですか。

やすい:その意味では同じですね。でも動物は感覚的な意識は自分の生理状態であって、その刺激によって過去の個体と類の体験にから反応するわけですね。ところが人間は、自分の意識である生理的感覚を自分の他者である事物の属性として、事物を構成する素材に使うわけです。

佐々木:動物だって感覚を個体に統合しているから、個体に対して反応できるわけでしょう。

やすい:もちろんそうです。しかし動物は主語ー述語的に物事を認識できません。個体も生理的に統合された形で受け止められ、それに対して生理的に反応するだけです。生理的感覚から区別された実体的な主体として捉え切れていません。

佐々木:ということは、生理的な意識というのは人間の主観の内容を成しますが、人間の場合は主観的な意識の背後に、意識から超越的な事物を超感覚的な存在として見抜いているということになりますね。それなら、事物の方がかえって、観念的な存在で、意識の方が感覚的な存在として物質的ですね。

やすい:ええ、そのことが強く意識されますと、物が霊になりアニミズムになります。

佐々木:あれ?やすいさんは宗教論で、日本的霊性においては、霊は物質的なものだと仰っていたのではないですか?

やすい:それは霊という肉体の不死的部分が事物として玉とかとして捉えられ、死後肉体から離れて変態して、蝶や鳥になったり、風や雲になるという信仰のことですね。今問題にしている、感覚的という意味の物質的とそれを超越した観念的という意味での霊性とは、霊の概念が違いますね。  

佐々木:やすいさんのヤマトタケルの白鳥みたいな、死んだらまるごと白鳥になった、あるいは不死の部分が蝶になったとかの日本的霊性でいう霊は物質的ですね。今問題になっている感覚表象をそのまま個体表象として、感覚的に反応するのではなく、その背後に事物存在を立てて、その属性として感覚を捉え返して、事物の述語ににする場合、事物それ自体は感覚から区別されるので、超感性的なあるものいわば観念になってしまわざるを得ないわけです。

やすい:逆に感覚がその観念的な事物にマテリー(質料)的な物質性を与えることになりますね。でもその事物というのは実は感覚の統合にすぎないということで、バークリーやカントになるわけです。

佐々木:カントの物自体というのは、その場合の観念的な事物にあたるのですか。

やすい:いいえ、対象としての事物は実は感覚の統合だというのがカントの立場ですよ。不可知の物自体は感覚に原理的に現れない存在です。ですから認識できないのです。対象的な事物は感覚によって述語づけられて、認識されるわけです。

佐々木:ではどうして、感覚の統合である事物が、感覚から超越した観念的な存在として立てられることができたのでしょう。
やすい:それは感覚表象に対して生理的に反応するだけではすまなくなったからと考えられますね。つまり動物は知覚表象に対して、個と類の体験から条件反射してきたわけですが、生理的な表象の背後に、生理的表象として現れる当のものが主体に立ち向かっているのを感じたからでしょう。

佐々木:ええ?まだるっこしい表現ですね。生理的反応というのは獲物や性的対象などのように欲望によって体が惹きつけられる様なものでもなく、天敵や危険のように、その表象が消えるように体が反応するようなものでもないということで、その表象に対して、互いに独立した他者としてかけひきし合うようなものを表象の背後に感じたということでしょう。

やすい:それが言いたかったのです。つまり他者の成立です。動物的知覚では、すべてが生理的表象として生理的な刺激ー反応の関係に収斂していたわけですが、他者ー自己という対他関係の成立によって、感覚を超えた人格的関係が生まれたということですね。

佐々木:他者および自己の意識、言い換えれば自己意識ですね。一体、何をきっかけに成立したのですか。あれ、認識の起源が今度は自己意識の起源にずれていきそうですね。なかなか結着がつかないまま、次々と問題がずれていくというのがやすい哲学の特徴ですか?

やすい:それは弁証法の特色と言ってもらいたいですね。
ーーーーーーーーーーーーー自己意識の起源ーーーーーーーーーーーーーーーーー

佐々木:対他関係を理性的に調整しなければならないような高度な意識状態というのは、やはり分業の発達が前提になるでしょうね。

やすい:高等動物特に群れを成す哺乳類では役割分担が行われますね。群れの中で雄と雌、世代間、力関係などで個体として群れの中で地位や役目が決まってきます。

佐々木:ヒトの場合は、雑食ですから狩猟・採集・漁労など、移動する場所によって仕事の種類が異なってきます。その都度適性に応じて役割分担を変えなければならないというようなことがあったでしょうから、自分とは何だという自分探しがあり、自己意識も成長したでしょうね。

やすい:ええ、その一方で群れといってもせいぜい二十人程度ですから、互いに身内としての一体感が強くて、群れを身体とすればどの部位かという意味での自分探しですね。あまり身勝手に自分を主張されるとトラブルで群れが解体します。それで大きな群れは形成できなかったわけで、身内だと感じられる規模に止まっていたわけです。その方が臨機応変にそれぞれの分業場面の役割分担もやりやすいわけですね。互いに気心が知れ、特性も認めあっているのですから。

佐々木:ということは、分業では他者意識・自己意識は育たなかったということですか。

やすい:もちろん他者意識・自己意識が発達する前提だとしても、分業は動物段階から行われていたわけですから、分業の発達で自己意識が発生したというのは、間違ってはいないけれど、他のきっかけがなければ無理ではないかと思うのです。

佐々木:量から質への発展という弁証法がありますね、分業によって徐々に自他の意識が成長して、やがてはっきり他者として意識しあうようになったといえるでしょう。

やすい:それはその通りだとしても、量から質に転化する契機を解明しないと、猿が自動的に人間に進化したことになってしまいます。言語の起源でも音声信号の種類が増えることで自動的に言語に成長したということになりますね。
佐々木:ダーウィンの進化論はその意味では典型的な量的進化論で、動物も話すけれど、単純な会話しかしない。動物も考えるけれど、簡単なことしか考えない、人間はそれが量的に深まっただけだというような趣旨の事を言っているらしいですね。

やすい:量的変化が蓄積して、やがてブレイクスルーして大変化が起こるのだということは、確かに重要な真理です。進化もそのようにおこりますし、環境問題におけるカタストロフィー(大崩壊)もそうです。だから早め早めに対策を取らなければなりません。ただ自己意識の発生みたいな、これまで生理的な刺激ー反応の世界にいたのが、事物によって構成され、自分も含めて独立した個体として対峙しあう世界にチェンジすると言うような場合、やはり何か大きなきっかけというのを持ち出す必要がありますね。

佐々木:やすいさんはそこで「新しい人間観の試み」という『駿台フォーラム』の対話編によれば、交換の発生がきっかけだといわれるわけですね。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/ningenron/kokoromi/7.htm
『資本論』では資本制社会が巨大な商品の集成として現れるとしているわけで、交換を近代的な人間のあり方の出発点に置くのならわかりますが、なんと人間の起源に置くわけですね。これは暴論という感じがしますね。

やすい:まあそういうように反発されると考えて、かなり躊躇したわけです。もっと地味な研究成果を積み上げてから、きっちり社会的地位を築き上げてからそういう大胆な説は打ち出すべきかなと思いましたが、若気の至りでかなり焦っていまして、この大胆な説で驚かせて、打って出ようというスタンスですね。

佐々木:そりゃあ駄目ですよ、世間はそんな暴走族みたいなやり方をしても認めてくれません。シカトされるのがおちでしょう。

やすい:ええ、暴論だということで、批判されて論争に持ち込んで、そしたら勝算があると思っていました。でもだれも相手にしてくれない。かえって評判を落すだけで、発表の機会を失うだけです。
佐々木:商品生産が支配的になるのは、近代資本主義社会においてですから、近代的自我の形成を商品生産の普及とからめ、農村共同体の解体や近代市民社会の発達によって基礎づけるというのなら納得されやすいと思いますが。

やすい:資本主義というのはどうしても18世紀から19世紀にかけての産業革命によって確立するのですから、近代的自我の自覚はそれ以前の市民革命期に求められます。17世紀から19世紀ですね。

佐々木:それにしても地理上の発見に伴う大航海時代が先行しまして、商品流通が世界規模に拡大し、都市が商品経済で繁栄し、農村も商品生産が盛んになったわけです。そういう意味での市民的な商品生産社会が出来上がっていったということが背景にあります。それ以前は共同体に埋没していて、商品生産部分的でしかなかった、意識に根本的な転換をもたらすほどではなかったのではないのですか。

やすい:しかしそもそも動物的なテリトリーの意識や巣とか獲物に対する意識と、人間の土地の領有、家畜や道具、衣服、富などに対する意識を比較しますと、動物の場合は身体の延長として、自らの身体との区別を止揚するような形ですね、マルクスは『経済学・哲学手稿』でこれを非有機的身体と呼びますが、まさしく自分と分かちがたい、不可分離的な関係、すなわち固有なのです。それに対して人間は、所有対象との分離は前提なのです。その上で他者である事物に対する排他的支配権を行使し得るのが所有なのです。

佐々木:要するに所有対象を物件にする関係が生じたのは、交換だとおっしゃりたいのですね。そして交換によって事物は商品性を持つのだということですね。だから交換の起源において、対他関係が生じ、自己意識が生じたのだと言う論理でしょう。
やすい:交換の起源を論じるのが大変難しいのです。他の動物は交換をしていないと言い切れるでしょうか。

佐々木:そりゃあ言えないかも。ボノボは雌がセックスさせる代わりにいろいろサービスを要求するらしいですよ。

やすい:互いに仲良くしたり世話を焼いたりは、一体感の現れです。サービスの交換は品物の交換が先行して、品物を交換するようにサービスを与え合うのも交換と見なされるようになるということでしょう。

佐々木:やはり事物の交換が成り立つためには、事物認識が先行しなければならないということでしょう。やすいさんの認識起源論だと、動物は事物を感覚に止揚しているので、客観的な事物認識が成立していないのでしょう。それで言語が存在しないということだった。だから動物は事物認識がないのだから事物交換もできないことになります。ということは、動物が交換することはあり得ないので、交換が発生するというのは矛盾じゃないのですか。

やすい:ええ、そうなんです。でも交換によらない限り他者意識は確立しません。

佐々木:それをやすいさんは、親縁共同体と異縁共同体という概念を使って説明されますね。親縁共同体間での物資の交流はたとえ交換のように見えても、他者意識がないので、送り合いだということですが、異縁共同体間での物資の交流は交換の要素が出てくるということですね。ということは動物段階では異縁の群れとの交流は一切ないということですか。逆に言えば動物段階でも異縁の群れの間で交流があれば、他者意識があり交換もあった、事物認識もあった、言語もあったということになるのでしょうか。

やすい:佐々木さん、これは入門講座ですから急に親縁共同体、異縁共同体といわれてもやすい哲学に初心者の方が多いわけですから何のことか分からないと思いますよ。ご説明いただかないと。

佐々木:え?私が説明するのですか?立場が入れ替わっていませんか?元々群れでは最初は群婚で、一緒に移動している時には、男と女は特定の配偶関係はなくて、だから生まれてきた子供は群れの男はみんな父で、女は皆が母として育てたわけですね。疎遠な他者意識はなくてみんな身内だったわけです。それが世代婚になり、親の世代と子の世代は世代間での性交は禁じられます。それから他の群れと交易するために、同じ群れ内での族内婚が禁止されて、族外婚になるわけです。続きはぞうぞ。

やすい:他の群れと交易すると言っても、全く血縁的なつながりがなければ、交易もできませんし、性的な交流も不可能です。それで元が同じ共同体だったのが、人口の増加や環境の変化で分かれてしまった共同体どうしでの交流が行われたわけです。それなら肌の色や体臭も同じですから、あまり違和感がなくて、族外婚ができ、物資もスムーズに送りあって、過不足を調整し合えるということです。

佐々木:それならまだ交換ではなくて、送り合いですね。
佐々木:ところでその親縁同士でないと性交や送り合いができないというのは、疑問がありますね。たとえばオランウータンは孤独に暮らしていて、雌を見て発情した雄は、見ず知らずの雌を強引に犯して子供を生ませるそうです。それに猿の群れははぐれた無縁の猿を吸収したり、はぐれ猿同士で群れを形成することもあるそうですよ。

やすい:それは原始時代の人の群れでもあったことでしょう。ルソーは共感という論理で病で倒れている人を見ると自分のみに置き換えて、助けずにはいられなくなるということで、孤独な状態から助け合いによる共同体形成を説明しています。それで言語や家族形成さらに家産の成立を説くわけです。

佐々木:それじゃあ親縁共同体と無縁共同体の違いから交換の成立を説くのは無理ではないですか。

やすい:そうでしょうか。動物は生理的知覚で人間は事物的認識だということで議論が始まったのですが、見ず知らずの猿同士が助け合うというのも動物的な知覚の論理なわけです、決して独立した人格的関係として他者を助けたり、他者に発情したりしたわけではありません。

佐々木:ということは親縁共同体と無縁共同体との対応の差というのも生理的なものだから、論理として同じだというのですか、そりゃあ強引ですね。

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