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人間論および人間学コミュの三木清著「人間学のマルクス的形態」

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三木清著「人間学のマルクス的形態」を三木清全集より採録します。ただし漢字の字体は改め、仮名遣いも改めています。行変えは読みやすいように細かくしました。

-------------三木清著「人間学のマルクス的形態」−−−−−−

□人間の生活に於ける日常の経験はつねに言葉によって導かれている。普通の場合ロゴスは人間の生活をあらかじめ支配する位置にある。我々は通常我々の既に有するロゴスの見地から存在と交渉する。

□我々は我々の経験するところのものが言葉をもって語られ得るように、言葉によって解決され得るように、恰もその仕方に於て存在を経験するのである。

□経験の斯の如き仕方から私は私の基礎経験と呼ぶものを区別する。日常の経験がロゴスによって支配されているのに反しかえって、基礎経験はロゴスに指導されることなく、却てみずからロゴスを指導し、要求し、生産する経験である。

□それは言葉の支配から独立であるという意味でひとつの全く自由なる、根源的なる経験である。しかるに経験はロゴスに於て表現されることによって救われ、公共性を得て、安定におかれることが出来るから、我々の経験がロゴスの指導のもとに立っており、また立つことが出来る限り、我々には何の不安も起ることがない。

□もっとも公共的なロゴスである常識にもとづいて凡ての存在と関係し、常識の言葉の解決し得るようにあらゆる存在と交渉する普通の生に、不安の属することがないのは当然であろう。

□基礎経験はその本来の性格として既存のロゴスをもって救済され、止揚され得ぬものである、したがってそれはそれの存在に於て不安であるであろう。

□ロゴスは経験を固定し、停止せしめる作用をするのであるが、ロゴスの支配し能わぬ根源的なる経験は動性として存在するの外ないであろう。不安的動性は基礎経験の最も根本的なる規定であらねばならぬ。

□言葉は経験を救い、それを公にすることによって、それに謂わば光を与えるのであるから、在来の言葉をもって表現されることを拒むところの根源的なる経験はそれに対して闇として経験されるであろう。基礎経験は現実の経験としてはひとつの闇である。(1)

(1)拙稿、「解釈学的現象学の基礎概念」([思想 』 第六十三号)参照。

私は基礎経験の名を借りて或る神秘的なるもの、形而上学的なるものを意味しようと欲するのではなく、むしろまさにその反対である。(2)

(2)この点に関して我々の謂う基礎経験とべルグソン的な純粋経験との異同を吟味するのは興味深く、利益多きことであろう。べルグソンも彼の純粋持続が言葉に支配されぬものであるに反して、日常の経験が言葉によって分離され、固定されたものであることを述べている
(H.Bergson,Essai sur les données immédiates de la conscience, p.99 et suiv.)。

 我々 との根本的な相違は、我々が基礎経験の歴史性を特に主張しようとするに対して、べルグソンには一般に歴史性の思想が欠けているのに由来する。

コメント(26)

□それはひとつの全く単純なる、原始的なる事実に対する概念である。私は在る、私は他の人々と共に在り、他の事物の中に在る。

□これを経験の最も基本的な形式と見做すとき、私は私以外の事物及び人間の存在そのものが私の意識に依存する、とは主張していないのである。

□世界の存在は固より私自身の存在と同じように根源的であるであろう。然しながら、私は基礎経験の概念をもって素朴実在論的思想から私を明確に、決定的に分離せしめようと思う。

□我々をめぐって在る世界の存在は、例えばかの物自体の如く、我々の交渉から全然独立に、自体に於て完了した存在を保っているのでなくして、却てそれは我々の交渉に於て初めてその存在性を顕わにする。

□人間が他の存在の中に在る仕方は植物が他の植物に囲まれている関係とは異なっている。人間はいつでも他の存在と交渉的関係にあり、この関係の故に、そしてこの関係に於て、存在は彼にとって凡て有意味的であり、そして存在の担うところの意味は、彼の交渉の仕方に応じて初めて具体的に限定されるのである。

□存在は彼の交渉の過程に於て意味を具現してゆき、そしてかかるものとして現実的になってゆく。それのみではないのである、人間そのものの存在もまた実にこのような交渉の関係に於て初めて自己みずからに対して現実的になり、このような交渉の過程に於て次第に自己みずからに対して現実的になってゆく。

□約言すれば、人間は他の存在と動的双関的関係に立っており、他の存在と人間とは動的双関的にその存在に於て意味を実現する。存在は我々の交渉に於て現実的になり、そしてそれに即して我々の存在の現実性は成立する。かかる関係を有することがまさしく人間の根本的なる規定であって、その故にこそ人間は彼の世界を所有する存在であるのである。(3)

(3)マルクスも云っている、「(私の環境に対する私の関係―[交渉的関係Verhältnis]―が私の意識である。)関係の存在するところ、それは私にとって存在する、動物は何物に対しても関係せずそして一般に関係しない。動物にとっては他に対する彼の関係が関係として存在しない。」( Marx-Engels Archiv, ?.Band,S.247.)
□嘗て屡ば述べたように、人間は「世界に於ける存在」である、これに反して植物の如き存在は彼の世界を持っと云うことが出来ない。

□ところで経験とは一般に右の動的双関的関係の構造の全体の名であり、基礎経験とはそれの特殊なるもの、即ち存在に対する人間の交渉の仕方が既に在るロゴスによってあらかじめ強制されることなきものを意味するのである。

□基礎経験に対するロゴスに於て私は二つの種類若しくは段階を区別しようと思う。

□第一次のロゴスは基礎経験をなおそれの直接性に於て表現する。アントロポロギー(人間学)は、最初にそして原始的には、第一次的なるロゴスに属する。ここにアントロポロギーとは人間の自己解釈の謂(いい)である。

□人間は彼の生活の過程に於て彼みずからの本質に関して何等かの仕方に於て解釈を与えるように余儀なくされるに到る。この解釈の仕方そのものは彼の基礎経験によってつねに必然的に一定の方向に決定される。

□人間は、したがって彼の基礎経験も、固より歴史的社会的に限定されて在るのであるから、彼の自己解釈はまた言うまでもなく歴史的社会的なる限定のもとに立っている。

□それ故にひとはアントロポロギーが抽象的一般的なる形式に於て恰も永遠の体系として成立するものであるかの如く考えてはならない。

□在るものはただ具体的なる歴史的なるアントロポロギーである。各の時代に属する人間は彼に特有な仕方に於てのみ存在に対して根源的に交渉することが出来る。

□この交渉の仕方に於てまさしく存在は彼に対して現実的になるばかりでなく、そしてそれと同時に彼はまさしく彼の存在をその存在に於て自覚し、把握する。

□彼が、例えば、特に感性的活動といわるべき性格を有する交渉の仕方をもって絶えず存在と交渉するのであるならば、彼は恰も斯く交渉することに於て、自己の存在を感性的実践的なる存在として理解するに到るであろう。

□アントロポロギーは生の根源的なる具体的なる交渉の中から直接に産れるロゴスであって、私がそれを第一次的なるロゴスと名づける理由はそこにある。

□然るにひとたびこのロゴスの産出されるや否や、それは却てみずから主となって、人間の生活のあらゆる経験を支配し、指導することとなる。それは我々の生の現実の中に織り込まれ、我々の行動も制作もこのロゴスの見地から意味づけられ、実行され、更に進んでは、我々の生の表現も生産もただそれの見地からしてのみ認識され、評価されるのである。

□即ち人間が彼の存在そしてそれの本質を如何に解釈するかは、彼の生に於ける実践また生についての認識の仕方を規定するところの最も根本的なる根源である。

□然しながら、人間に関するロゴスの斯くの如き支配的なる力も勿論その限界をもたねばならぬであろう。生の基礎経験から生れ、それの把握として、表現として、この基礎経験そのものを活かし、発展させることに役立つことの出来たロゴスは、それが絶対的なる専制的なる位置を占めることによって、今は却て生そのものを抑制し、圧迫するに到る。

□変化し運動する生に於ける基礎経験が或る強度と拡延とに達するとき、それはもはやロゴスの圧迫に堪えることが不可能となり、却てこの旧きロゴスに反対し反抗して、みずから新しきロゴスを要求する。

□我々はここにひとつの弁証法的なる関係を発見し得るであろう。基礎経験の発展形式としてそれの発展を促進せしめるロゴスは、基礎経験の発展が一定の段階に到達するに及んで、それの発展に対する桎梏(しっこく)に転化する。(4)

(4)ここに私は発展形式( Entwicklungsform )という語をマルクスが彼の唯物史観を規定した句( Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie Vorwort.)の中から転用した。
□ロゴスと基礎経験との間の矛盾、それに伴うアントロポロギーの変革はかくして或る時には徐々にそして他の時には急激に生起するのである。私はこの過程をロゴスの第一次変革過程と名づけるであろう。

□第二次のロゴスを私はイデオロギーの概念をもって総括しよう。それにはあらゆる種類の精神科学あるいは歴史的社会的科学が属する。

□イデオロギーと第一次的なるロゴスとの相違は、後者が基礎経験をなおそれの直接性に於て表現するのに反して、前者はそれを媒介者を通じて把握するところにある。

□この媒介となるものはその時代の学問的意識、哲学的意識であって、私の謂う par excellence なる「公共圏」に外ならない。

□経験を救うというロゴスの課題は、それが客観的なる公共性を得ることによって初めて満足に解決されるのであるが、かかる公共性に対するロゴスの衝動は、それがその当時の学問的もしくは哲学的意識によって「基礎付けられ」、「客観化される」ことに努力することを意味するのである。

□それ故に我々は、人間の自己解釈( Selbstauslegung )としてのアントロポロギーに対立させて、イデオロギーを人間の自己了解(Selbstverständigung)として規定し得るであろう。

□イデオロギーに於ては経験の表現は夫々の時代の学問または哲学によって媒介され、それらのものによって客観的に限定されている。

□これに反して第一次のロゴスは生の根源的なる交渉の中から直接に生れてそれを直接に反映し、自己みずからのうちには基礎付けられ、客観化されることに対する要求はいまだ顕わでないのである。

□固よりこのものと雖も、それがロゴスである以上、客観性への要求はそれ自身の中に含まれているのであって、それが自覚される場合アントロポロギーは最初にそして原始的にはひとつの第一次のロゴスであるけれども、しかしそれはイデオロギーの形態に於て存在することが出来、そしてまた事実上時としてはかかるものとして存在して来た。

□然しながら、それが人々から殆ど全く見逃されている、そして私がここに特に高調しようとする重要な役割を演じて来たのは、多くの場合第一次のロゴスとしてである。
□アントロポロギーは恰もカントのシェマティスムスに於ける時間が直観と範疇を媒介するように基礎経験とイデオロギーとを媒介する。けだしそれは、一方では生の交渉の中から直接に産れるものとしてそれ自身或る意味では基礎経験そのものであり、そして他方では、それは既にそれ自身ロゴスとして他の意味ではイデオロギーに属するが故に、能く両者を媒介することが出来るのである。

□このように媒介することに於てアントロポロギーの構造はイデオロギーの構造を規定することとなる。そしてまさにそこに人間学が第一次のロゴスとして有する機能の全き重要さは横たわっている。

□そしてその意味に於てまさしくそれはあらゆる歴史的社会的科学の基礎であると云われることが出来る。けれどそれにも拘らず、最も注意すべき事柄は、各のイデオロギーにあってはそれの構造を規定するアントロポロギーが直接には顕わでないということである。

□むしろイデオロギーの堅き概念の組織を破壊することによってそれの根抵をなす隠れたるアントロポロギーは発見され得るのが普通である。アントロポロギーはイデオロギーの成立にあたってそれの規定力としてはたらいている、しかしひとたび後者が成立し終るや否や、前者みずからは後者の中に埋没し没入してしまう。私は今これらの事情を多少詳細に分析してみよう。

□精神科学は生、殊にそれに於ける実践そのものの中から出生し、成長した。この学問の分化は生の分化、殊にそれの実践の領域に於ける分化によって規定されて来た。(5)

(5)W.Dilthey, Einleitung in die Geisteswissenschaften (Gesammelte Schriften,I.Band ),S.21 u.39.

□精神科学の対象をなす歴史的社会的存在は人間を基体として成立する世界である。自然は言うまでもなくそれの欠くべからざる要素であるに相違ないが、それはただ人間と交渉し彼の生と関係する限りに於てのみ、この世界へ這入って来ることが出来る。

□歴史はひとつの人間的なる、人間中心的なる世界である。純粋なる自然主義の立場にとっては一般に歴史は存在し得ない。

□歴史的世界は人間がそれを作るところの、作りつつあるところの、そして彼がみずからその中に住むところの世界である。

□人間はこの世界に単に対立するのでなく、却て絶えず彼自身それの基本的なる契機としてそれと密に交渉する、―それは「対象的存在界」ではなくして「交渉的存在界」である、―したがってそれは彼にとって彼がそれと交渉するところの具体的なる仕方を離れては現実的になることが絶対的に不可能であるであろう。

□そしてそれ故にこの世界に向かうところの認識もこの具体的なる交渉を離れてはそれに接近すべき如何なる現実の通路も見出すことが出来ぬであろう。

□精神科学と生との不離なる関係は根本的にはここにその深き根拠をもっていると考えられる。

□ところで歴史的社会的存在界を構成する者として、そして同時にそれと交渉する者として、人間は、単に精神ではなくむしろ精神物理的統一であり、単に思惟する主観でなく却て意志、感情、表象のあらゆる方面に自己を表現する統一的主体である。

□精神科学の対象が生の交渉を離れて現実的になり得ぬ以上、またそれを離れてこの学問の認識は対象への現実の通路をもつことが出来ぬ以上、この学問に於て認識主観と云わるべきものは、単に表象し思惟する主観でなく、具体的なる全体的なる人間の存在そのものであることは明白であるであろう。

□この学問の領域に於て嘗て偉大なる業績を為し遂げた人々の多くが単なる理論家でなく同時に強大なる実践家であったことも同じ理由からむしろ当然のこととして感ぜられるであろう。

□さて、人間は彼が存在と交渉する仕方に応じて直接に自己の存在を把握する。彼は存在を語ることに即してそれに於て自己を語る。

□― 一切の物は、人間の交渉を受ける程度に応じて、人間にとって見ゆるものとなり、即ち初めて物となり、ここに於てその称呼、その名称を与えられるのであるが、その場合、ノアレによれば、「固有の人間の活動が原本的語根の内容として留まるのである。」(6) ―

(6)Ludwig Noiré , Der Ursprung der Sprache, S.369.

□この過程に於て彼が自己を語るところの言葉即ちアントロポロギーが生れると共に、このロゴスはひとつの独立なる力となり、彼の経験の先導となり、支配者となる。

□このとき彼の経験する存在は凡て人間学的なる限定のもとに立つこととなる。かようにして、高次のロゴスである歴史的社会的諸科学が自己の研究の出発点に於て与えられたる現実として見出すところのものは、つねに既に斯くの如く人間学的なる限定のもとにある存在に外ならないのである。

□そしてそれ故に存在がこれらの学問に向かって提起する課題は、基礎経験と人間学との間に矛盾の存在していない限りに於て、それは同時にアントロポロギーがそれらに対して提出する課題を意味するであろう。

□したがってまたその限りに於ては、イデオロギーが存在の問題を残りなく解決し終るならば、それはやがてアントロポロギーがそれに課する限りの問題を解決することにもなるであろう。

□アントロポロギーとイデオロギーとの間にこの場合にあっては矛盾が存在しない。そこで後者が一の完了した、客観的なる体系として組織されるとき、前者はこのものに於て充全に表現され、かくしてそれは安定を得て後者の中に埋没し没入してしまう。

□イデオロギーの概念体系に於てそれの構造を規定するアントロポロギーが何故に直接に顕わでないかは明瞭になった。尤も基礎経験と人間学との間に矛盾の存在する場合、若しくはイデオロギーが存在の問題を満足に解決していない場合、アントロポロギーがこれらのものの間にあってひとつの独立なる力として、自己の存在を維持し、主張しようとするのは論ずるまでもないことであるであろう。

□さて、ひとたび成立したところのイデオロギーは我々の生活に徹底的に干渉するに到る。我々はそれの立場からのみ存在と交わるようにさせられ、それの解決し得る問題のみを存在に於て見るように強いられる。それは固より経験の客観的なる表現であり、把握であるが故に、それは恰も斯く干渉することに於て、むしろ経験を導き、教え、それを活かし、発展させるに役立つことが出来る。

□然しながら経験の発展が一定の段階に達するとき、斯く干渉することは、却てまさしくそれの根源的なる発展を拘束し、妨害することとなる。

□即ちイデオロギーは経験の発展形式からそれの桎梏にまで転化する。

□ロゴスと経験との間のこの弁証法的なる関係に於て、イデオロギーの変革の運動は時としては緩慢にそして時としては急速に成就されるのである。私はこれをロゴスの第二次変革過程と呼ぼうと思う。

□我々はここに素晴らしい革命を見る。数世紀に亙って大伽藍の如く聳えていた概念体系が徐々に動揺を始め、昨日まで帝王の如く君臨していた思想体系が一朝にして権威を失墜する。

□人々はかの文芸復興期に於ける、かの啓蒙時代に於ける変動を想い起してみるが好い。然るにこのような目覚しい変動を観察するにあたって、ひとはこの過程の根抵に横たわっているひとつの決定的なる要素を見落してはならない。
□アントロポロギーは基礎経験とイデオロギーとを媒介するのであるが、イデオロギーの変革はまたアントロポロギーの変革によって媒介される。

□イデオロギーが自己の研究を出発するに際して直接与件として見出すところの現実がそもそも既に人間学的なる限定のもとにある限り、それと経験との間の弁証法的なる運動は、アントロポロギーの運動によって媒介されることなくしては起り得ないであろう。

□高次のロゴスの変革は低次のロゴスの変革によって規定される。ロゴスの第一次変革過程が既に行われた後、あるいは少なくとも現に行われつつある場合でないならば、ロゴスの第二次変革過程は生ずることがない。

□前者の運動は後者のそれに比して、見たところ顕著でないために、人々に気附かれぬことが多いけれども、それだけそれは一層直接的であり、一層浸透的であり、一層普遍的である。

□イデオロギーの人目を惹くに足る変化も、若しそれがこのような基礎を欠いているならば、真実でなく、現実的でもなく、いやしく却てただ既成概念の整理であり、折衷であり、修正と補足であるに過ぎない。

□苟も根本的なる、徹底的なる、生命あるイデオロギーの変革に際しては、ひとはその背後に、たといそれが顕わでないにせよ、必ずアントロポロギーの本質的なる変革を見逃すことが出来ぬであろう。
□人間学の位置と意義とは右の叙述によって極めて簡単ながら明らかにされた。

□そして私はそれによって同時に私の当面の問題である唯物史観の解釈に関して必要な手懸りを捉え得たかのように思う。

□唯物史観は言うまでもなくひとつの―右に規定した概念の意味に於て―イデオロギーである。

□それは如何なる基礎経験にもとづき、如何なる人間学―このものは勿論唯物史観の概念体系そのものに於ては直接に顕わでないが、―によって組織されたイデオロギーであるであろうか。

□斯く問うことは、唯物史観をひとつの固定したドグマとして単純に信奉するのでなく、それをひとつの凝結した体系として外面的に批評するのでもなく、却てそれをひとつの生ける生命として根本的に把握するためには避くべからざることであると私は信ずる。

□アリストテレスやマキアヴェリの政治学が彼等のアントロポロギーを除いて理解されないように、唯物史観はアントロポロギーのマルクス的形態を先ず認識することなしには到底完全に理解され得ないのである。

□若しこのイデオロギーに対して人間学が有する重要な意味を認めないならば、マルクスのほうが 『フォイエルバッハに関するテーゼ』について「新しい世界観の天才的なる萌芽を蔵している最初の文書としてこの上なく貴重なものである」、とエンゲルスが云った言葉の意味はついに十分に理解され得ないであろう。

□我々はこの貴重なる文書に於てマルクスの人間学に出会う。唯物史観は一箇の独立した、特色ある人間学の上に立つ世界観である。

□それ故にこそそれは、ひとり経済学者にとってばかりでなく、また哲学者にとって、そしてむしろあらゆる人間にとって研究さるべき事柄なのである。唯物史観は今やひとつの現実である。何人もこれと対質すべく迫られている。


                二

□「ドイツにとっては宗教の批判は本質に於ては終っている、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提である」、という語をもって、マルクスは一八四四年『へーゲル法律哲学批判』の序論を書き起している。

□一切の批判、従ってまた経済学批判の、前提であると考えられた宗教批判の仕事は実にフォイエルバツハによって為されたのである。彼が彼の画期的な著述『キリスト教の本質』に於て遂行したこの仕事は、若いマルクスによって全き情熱をもって迎えられた。

□エンゲルスは後年、「この書が資した救いの力がどのようなものであったかは、みずからこれを体験した者でなければ想像がつかぬ。世を挙げて感激した、我々は皆ひとときはフォイエルバツハの徒であった」、と告白している。

□フォイエルバツハの宗教批判はいったい何を為し遂げたのであろうか。それに於て何がマルクス及びエンゲルスにかくも決定的な影響を与えたのであるか。

□フォイエルバツハの宗教批判に於て発見されたのは人間である。彼によれば、宗教は人間と動物との本質的な差異に基礎をもっている、動物は如何なる宗教ももたない。

□人間と動物との本質的な区別は意識にある。しかるに厳密な意味に於ける意識はそのものにとってそれの種あるいはそれの本質性が対象であるところにのみ存在する。

□このような意識は無限なるものの意識と離すことが出来ぬ、制限された意識は本来の意味に於ては何等の意識でもない。無限なるものの意識に於ては意識にとって自己の本質の無限性が対象である。

□対象に於て人間は自己みずからを意識する、対象の意識は人間の自己意識である。ところで宗教は無限なるものの意識である。従ってそれは人間の、有限な、制限された彼の本質についてのではなく、却て彼の無限なる本質についての、意識のほかの何物でもあり得ない。

□神的本質とは人間的本質の他のものではなく、しかし個人的な現実的な人間の制限から離れて、対象化された、即ちひとつの他の、彼とは異なる、独立の存在として直観され、崇拝された、人間の本質に外ならないのである。
□主観的に若しくは人間の側に於て本質の意義をもつものは、また客観的に若しくは対象の側に於て本質の意義を有する。

□神的本質のあらゆる規定はそれ故に人間的本質の規定である。宗教は人間の本質的なる規定を人間から引離してそれを独立なる本質として神化する。

□このとき単に人間の悟性的規定、道徳的規定が神の規定として対象化されるばかりでなく、また特に彼の感情的、感性的規定が神のものとせられるのである。

□神は愛である、というのは、人間の愛が神的なものであることであり、神は悩み、感ずる神である、と教会が教えるのは、人間の苦悩や感覚やが神的本質のものであるのを意味する、三位一体の教理は人間の性愛や友情の投射である。

□このようにして我々は、「神学の秘密は人間学である 」、と云い得るであろう。(1)
(1) Feuerbach,Vorläufige Thesen zur Reform der Philosophie (Sämmtliche Werke, Hrsg. v. Bolin und Jodl, ?.Bd., S.222.)

□宗教は人間の本質の自己内に於ける反射であり、反映である。人間は彼に対立する存在として神を自己に対せしめる。人間があるところのものは神ではなく、神があるところのものは人間でない。神と人間とは両極端である。然しながら、真実を言えば、それをもって宗教が成立するところのこの対立、この乖離は人間と彼自身の本質との乖離である。

□「人間―これが宗教の秘密である―は彼の本質を対象化し、そして然る後ふたたび、自己を、この対象化された、ひとつの主体、ひとつの人格にまで転化された本質の対象とする。」(2)

(2) Das Wesen des Christenthums (?. Band, S.37.).
ヒューム、或は19世紀後半に登場する思想家達、キルケゴール、ニーチェ、フロイドなどのように、三木また理性の他者を考察の重要な対象にしていたという理解になりましょうか。9はとても難しいです。純粋経験ともいえる基礎経験から、イデオロギーたる唯物論とは異なる、アントロポロギーを提題した三木が、何故、神の概念(或は存在)に触れざるをならなかったのか、私たちはその論の必然性こそを思索しなくてはならないように思えました。
 あくまでもフォイエルバッハの人間論の解釈なのです。つまりフォイエルバッハは、神を人間の本質を外に出して対象化したものと見なしました。ですから神の本質とされる愛は、人間の本質なのだということですね。神が世界を創造するということは、人間が日々世界を作り出していることの疎外された表現だということです。こうして神学の秘密は人間学にあるということですね。神学は人間学の疎外された姿だとすることで、人間学に還元しているのです。
□この過程に於て神的本質は万能なる絶対者として人間に臨むに到る。然しながら彼に対する対象のカは彼みずからの本質の力に外ならない。

□感情の対象の力は感情の力であり、理性の対象の力は理性そのものの力であり、意志の対象の力は意志の力である。かくの如く、宗教は「人間の自己分離」であり、へーゲル的に表現するならば、「人間の自己疎外」(die menschliche Selbstentfremdung)である。

□宗教の秘密を暴露することによって見出されたものは人間であった。神とは何か、という従来の神学の根本問題は、神とは人間である、といとも簡単に答えられたのである。「人間を否定するのは宗教を否定するの謂である。」(3)

(3)Feuerbach, Das Wesen des Christenthums(?,54.)

□人間が宗教を作るのであって、宗教が人間を作るのではないのである。

□我々はここにひとつの全く重大なる転換を見定めずにはいられないであろう。

「宗教の批判は人間を迷いから醒めしめ、それによって彼がひとりの覚醒した、理性に達した人間の如くに考え、行い、彼の存在を形造り、それによって彼が自己みずからの周囲を、またかくて彼の真実の太陽の周囲を運動するようにせしめる。宗教はただ、人間が自分自身の周囲を廻転していない間、人間の周囲をめぐる幻想的太陽に過ぎない。」(4)
(4)Marx,Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosopie(Aus dem literarischen Nachlass von Karl Marx und Friedrich Engels, Hrsg. v. Mehring, ?. Band S.385.).
なるほど、マルクスの宗教批判にはそういった背景があったのですね。うべなるかなです。
□今や人間は自己みずからの上に立つことが可能になった、彼は自己みずからを中心として廻転し始めねばならない。彼は彼が宗教に与えることによって失った彼の本質を取戻すために、神へではなく彼自身へ正当に復帰すべきである、というのがフォイエルバツハの仕事の当然の帰結である。

 マルクスは云っている、「宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在である、という教義をもって終る、したがってそれは、その中では人間が一の賤しめられた、隷従させられた、見棄てられた、軽蔑すべき存在であるところの一切の関係を覆そうとする無上命令をもって終る。」(5)

(5)Op.cit., S.392.

□―ついでながら、彼が 『資本論』に謂う「自由の王国」はかかる顚覆の完成された状態であるであろう。―

□宗教の批判は人間を超人間的な外部的な力への隷属から救い、彼をして彼自身が産出した関係によってみずから束縛されることから自由ならしめることを絶対的に命令するのである。

 「それ故に真理の彼岸(das Jenseits der Wahrheit)が消滅した後には、此岸の真理(die Wahrheit des Diesseits)を建設することが歴史の任務である。

□人間の自己疎外の神聖なる姿が面被を剥がされてしまった後には、その神聖ならぬ姿に於ける自己疎外の面被を剥ぐということがまず歴史に仕える哲学の任務である。

□天国の批判はかくして地上の批判に、宗教の批判は法律の批判に、神学の批判は政治の批判に変じて来る」、とマルクスは考えたのであると。
□批判の原理はフォイエルバツハにとって人間であった。

□「新しい哲学は、人間を、人間の土台として自然をも含めて、哲学の唯一の、普遍の、最高の対象とするー人間学をそれ故に、生理学をも含めて、普遍学とする。」(6)
(6)Feuerbach, Grundsätze der Philosopie der Zukunft (?, 317.).

宗教のイデオロギーはただそれの根抵であるアントロポロギーによってのみ批判されることが出来る。

□神学の秘密が人間学であるように、思弁哲学の秘密は神学である。へーゲルの哲学は神学の教説の最も合理的なる表現に外ならない。

□したがって哲学のイデオロギーはまたそれの基礎をなすところのアントロポロギーによって最もよく批判され得るであろう。

□ところでフォイエルバツハに従えば、人間とは最も現実的なる原理の謂である。彼は『キリスト教の本質』の第二版の序文の中で、彼の批判の仕事を回顧して「この哲学はスピノザの実体、カントやフイヒテの自我、シェリングの絶対的同一者、へーゲルの絶対精神、簡単に言えば抽象的なる、ただ思惟され若しくは想像されたるのみなる存在ではなく、却てひとつの現実的なる、あるいはむしろ最も現実的なる存在、即ち人間を、したがって最も実証的なる実在原理を、それの原理としてもつ」、(7)と記している。
(7) Vorrede zur zweiten Auflage von “Wesen des Christenthums”(?,283.).

□イデオロギーの批判は、単にそれの内的矛盾、それの論理的困難を指摘するというが如き、形式的な、抽象的なる道を辿るべきでなくして、それの現実的地盤を明瞭にして、それと具体的存在との連関を決定することによってのみ行われることが可能である。

□「哲学はかくして自己みずからを始点とせず、却てそれの反対を、非哲学を始点とすべきである。」「哲学の端初は神でなく、絶対者でなく、絶対者若しくは理念の客語としての存在でもない、―哲学の端初は有限なるもの、限定されたもの、現実的なるものである。」(8)
(8) Vorläufige Thesen zur Reform dq Philosophie (?,230, 235.).
□イデオロギーの批判が、一のイデオロギーに他のイデオロギーを、一の理論に他の理論を対立せしめることをもって始めらるべきではなく、あらゆる理論、凡てのイデオロギーの現実の土台を吟味することをもって始めらるべきである、ということは、フォイエルバツハがマルクスに教えた最も重要な思想である。

然しながら人間を一切の隷属的関係から解放するために、マルクスが要求した全面的なる批判は、フォイエルバツハの哲学の範囲内で遂行されることが不可能であった。

□フォイエルバツハは神学のイデオロギーをそれの根抵に横たわるところのアントロポロギーに解消した。アントロポロギーをもって彼は神学の完成と考えられたへーゲルの思弁哲学に反対した。それにも拘らず彼のアントロポロギーは神学と完全な分離をしていないのである。

□神学が彼の人間解釈をあらかじめ一定の方向に規定している。彼が分析したのは神学と関係する限りに於ての人間である。彼は現実の人間の存在そのものが何であるかを根源的に研究することなく、却て宗教に於て反射される限りの人間が如何なるものであるかを、神学を手懸りとして研究しているのに過ぎない。

□フォイエルバツハは人間の本質がどこまでも宗教的なものであると見做し、宗教こそ人間と動物とを区別する標準であると考える。

□そこでは人間に於ける宗教の最も決定的な支配が既に予想されている。

□この点に於て彼のアントロポロギーは思弁哲学と共通の前提に立っていると云うことが出来る。そこでマルクスが、「ドイツの批判は、それの最近の努力にいたるまで、哲学の地盤を去らなかった。それはそれの一般的哲学的前提を吟味するどころか、それの全体の問題は却て一定の哲学的体系、即ちへーゲルの体系の地盤の上に成長しているのである。それの答に於てのみならず、既に問題そのものに於てひとつの神秘化が存した」、と評しているのは正当であろう。
(9)Marx-Engels Archiv, ?. Bd., S.235.

□尤もフォイエルバツハは感性と感覚とを著しく重んじはしたが、そしてそこにへーゲルとの相違はあるのであるが、しかし彼はこれらのものそのものをさえ直ちに宗教的に解釈して少しも怪しまなかったのである。

□「人間はかくして、彼が動物の如く制限された感覚論者でなく、絶対的なる感覚論者であるということによってのみ、人間である。此れまたは彼れの感覚的なるものでなく、一切の感性的なるもの、世界、無限なるものが、しかもそれが純粋にそれ自身のために、即ち美的享楽のために、彼の感官、彼の感覚の対象であることによってのみ、人間は人間である。」(10)

(10)Feuerbach, Wider den Dualismus von Leib und Seele, Fleisch und Geist (?,350.).

□私はこの文章に於てロマンティクの基礎経験が雄弁に語られているのを見逃すことが出来ない。―(フォイエルバツハの「人間」は、例えば、シュレーゲルの「ルチンデ」に於て最も美しい表現を見出しはしないだろうか。)―実際、フォイエルバツハのアントロポロギーは、へーゲルの哲学とは全く異なる仕方に於てではあるけれども、同じロマンティクの基礎経験の表現であるかの如くに思われる。

□二人が共に、この基礎経験の最も古典的な表現であるところの、シュライエルマッハーの 『宗教論』 (Reden über die Religion)から影響されたことは、事実の我々に教えるところである。

□へーゲルがこの基礎経験の創造的な過程の中に生きていたのに反して、フォイエルバツハはそれの崩壊してゆく過程を代表する。神学上のイデオロギーを生ける生そのものから解釈するということは、既にシュライエルマッハーがロマンティクの基礎経験の中で企てた天才的な仕事に属するのであって、フォイエルバツハはそれの徹底した、しかしもはやこの基礎経験の頽廃を表現する継続者である。
□一般にイデオロギーの根本的なる批判と変革はアントロポロギーの根源的なる、本質的なる変革なくしてはあり得ない。

□しかるに我々はフォイエルバッハの人間学に於てこのような原理的なる変革を認めることが出来ない。それの感覚論的、唯物論的傾向も今や衰亡しつつある基礎経験の頽廃的なる形態であって、まさに新たに発展しつつある基礎経験の積極的なる把握ではなかったのである。

□ひとつの全く新しい基礎経験が発展しつつあった。無産者的基礎経験がそれである。それの発展が一定の段階に達したとき、それはフォイエルバッハ流のアントロポロギーと必然的に衝突せねばならなかった。彼の人間学を覆すべき基礎経験が既に成長しつつあったに拘らず、フオイエルバッハはそれを知らなかったのである。

□マルクスやエンゲルスは彼に無産者的基礎経験の欠けていることをしばしば指摘し且つこれを非難している。彼は遂に一八四八年という年を理解することなく、彼にとってこの年は現実の世界との最後の絶縁、孤独生活への隠退を意味したに過ぎない。

□さて進展の過程にあったプロレ夕リア的基礎経験はフォイエルバッハの人間学と矛盾に陥り、ここにアントロポロギーの変革は必然的に行われたのであったが、この変革を把握したのは実にマルクスであったのである。

ーーーーーーーーーーーー 三 −−−−−−−−−−−−−

□マルクス学に於けるアントロポロギーは無産者的基礎経験の上に立っている。先ず無産者は世界に対して絶えず実践的にはたらきかけるが故に、彼等はかく交渉することに於て自己の本質を実践として把握する。

□しかるに如何なる実践も感性なくしては行われないから、彼等はつねに実践的に交渉することに於て人間の本質を感性として解釈するに到る。

□フォイエルバッハも抽象的思惟をもって満足せず、直観を欲したけれども、彼は感性を実践的活動として理解していない。

□彼は『キリスト教の本質』に於てただ観想的受動的態度のみを純粋に人間的なものと見、これに反して実践的活動は凡てただその汚らわしいユダヤ的現象形態に於てのみ捉えられて軽蔑され、それの本質的な根源的な意義に於て理解されなかったのである。

□彼にとっては、「感性的、即ち受動的、受容的」(Sinnlich, d.i. leidend, receptiv)の謂であったが(1)、マルクスは無産者的基礎経験からして感性をもって「実践的な、人間的―感性的な活動」(die praktische, menschlich-sinnliche Tätigkeit)として解さねばならなかったし、そしてまた実に斯く解したのである。(2) *

(1)Vorrede zur zweiten Augflage vom“Wesen des Christenthums”(?,283.).

(2)Die Thesen über Feuerbach
□しかるに実践はそれの対象の存在を必然的に前提する。若しはたらきかくべき何物も存在しないか、あるいはこのものが単に我々の観念的影像に過ぎないかであるならば、感性的活動としての実践即ち労働はあり得ないであろう。

 人間が労働するにあたっては、彼がそれをもって、それに対して労働すべき何物かが既にそこになければならず、しかもこのものは彼から独立なる「他のもの」としてあらねばならぬ。
かかるものを我々は一般に自然と呼んでいる。

□自然とは人間にとって既にそこにある他のものである。―ギリシア人は自然的存在をνποηιμενον(既にそこに横たわっているもの)と考えた。ー然しながら若しこの他のものがどこまでも他のものであるならばまた労働は存在し得ない。労働の概念は物にはたらきかけてそれを変化することを意味するからである。

□しかるに自然は人間にはたらきかけられることによって謂わば人間化される。いま大工が机を作るとするならば、彼は彼の前に横たわっている木材を加エせねばならぬが、この加工の仕方は人間の存在の規定によって限定されるばかりでなく、作らるべき机はまた人間の存在の規定によって限定されるのであって、例えばそれの高さは人間の身長によって規定されるであろう。

□更にまた労働に於ては人間そのものもひとつの自然力として、彼の身体に属する自然力、手や足をはたらかせる。かくて労働の過程に於て自然と人間との対立物は同一性に持ち来たされる。

「人間はこの運動によって彼の外部の自然に作用し、それを変化すると共に、彼は同時に彼みずからの性質を変化する。」(3)
(3)Das Kapital,?, 140
□何故かならば、彼は彼自身の中に眠っている能力を喚び起すのでなければ自然を変化し得ないばかりでなく、彼はその能力を対象的に規定するのでなければこの変化を有効に成就し得ない。

□大工は彼の可能なる力を現実的にすることによって、そしてその際この力を彼のはたらきかける対象に即して規定することによってのみ仕事をすることが出来るのであり、かくして彼は仕事をすることに於て自己を変化するのである。

□このようにして自然と人間とは労働の過程にあって弁証法的統一に於て運動するが故に、我々はこれをひとつの自己変化 (Selbst Veränderung)として弁証法的に合理的に把握することが出来る。そこでマルクスは云った、

□「環境と人間的活動との変化の合致、あるいは自己変化は、ただ革命的実践としてのみ把握され且つ合理的に理解され得る。」(4)
(4) Die Thesen über Feuerbach,3

□我々はここに唯物弁証法の最も原始的なる根源的なる形態を見出すことが出来る。唯物史観は、時として全く誤解されているように、人間は環境の産物である、などというが如き俗流の理論を主張するものではない。

□このような思想に対してマルクスは、「環境と教育との変化に関する唯物論的学説は、環境が人間によって変化されそして教育者自身が教育されねばならぬということを忘れている。だから、それは社会を二つの部分―その一つはその他を超越する―に分たねばならぬ」、と云って断然と反対している。

□自然と人間との弁証法はひとつの最も重要なる思想、即ち存在の歴史性の認識に我々を導くであろう。フォイエルバツハは存在の歴史性については何事も理解することがなかった。彼は彼をめぐる感性的なる世界が永遠の昔から全く直接に与えられた、つねに同一なる事物であるかの如く思惟する。

□けれども最も単純な感性的対象、例えば桜樹でさえ、ただ社会的発展、産業と商業的交通によってのみ彼に与えられたのである、桜樹はようやく数世紀前に商業によって我々の地帯に移植されたのであり、そしてそれ故にそれは一定の時代に於ける一定の社会のかかる行動によって初めてフォイエルバツハの感性に与えられたのである、と云ってマルクスは彼に反対している。

□静観的なる、受容的なる感性をもって存在と交渉する者にとっては、直接的なる、フォイエルバッハの謂う「感性的確実性」(die sinnliche Gewissheit)の認識にとどまり得るかも知れないが、実践的なる、それ自身過程的なる活動に於て存在と絶えず交渉する者にとっては、存在はそれをそれの γενεσιζに於て、過程に於て、したがって歴史に於て把捉することによって、初めて現実的に理解され得るのである。

□我々にはもはや単純なる自然は存在しない。自然もまた歴史的に限定されている。ところで自然と人間とは弁証法的に相交渉するが故に、自然の歴史はまた人間の歴史と相互に制約し、かくてそれらは一つの弁証法的なる、歴史的なる過程に於て発展する。「我々はただ一の唯一なる科学、歴史の科学を知るのみである。」(5)
(5)Marx- Engels Archiv,?, 237
□唯物史観はそれ故に自然に絶対的に対立するものとしての歴史に関する理論ではなく、全世界の運動過程に就いての一の全体的なる世界観である。

□それは「一切の世界の進行を自己運動において、自発的発展において、生ける実在において把握する。」(6)
(6)河上博士訳、『レーニンの弁証法』、107頁。

□自然は人間の感性的実践的なる交渉に於てそれの歴史性に於て把握された。この交渉の過程に於て人間の存在そのものの歴史性の理解されぬ理由はあり得ないであろう。けだし人間は自然と弁証法的統一に於てあるからである。

□単に思惟し観照するのみなる人間にとっては、自己の本質を孤独なる存在として解釈することもまた可能であるであろう。然しながら、実践的なる人間は、彼等の生産に於てただに自然にはたらきかけるのみならず、また人間相互の間にも作用し合う。

□彼等は一定の様式に於て共同に作用しまた彼等の活動を相互に交換することによってのみ生産する。

□生産するためには彼等は相互に一定の関係に入り込み、そしてこの社会的関係に於てのみ彼等の自然へのはたらきかけは生じ、生産は生ずるのである。実践的である限り人間は必然的に社会的であり、そして、「一切の社会的生活は本質上実践的である。」(7)
(7)Die Thesen über Feuerbach,8

 しかるにフォイエルバッハは人間を彼等の与えられた社会的連関に於て、彼等の現実の生活関係に於て捉えることなく、ただ「人間」という抽象体として理解した。彼は人間を歴史的社会的生活過程から抽象して、恰も永遠に変らぬ人間自体があり、そして彼の本質が常住なる宗教的感情にあるかの如く考えた。

 この人間の根本的規定は意識であり、そして意識の本性はそれが自己の本質を種(Gattung)に於て対象とするにある。ところで種とは「内的な、暗黙な、多数の個人を自然的に結合する普遍性」に外ならないではないか、とマルクスは云う。

□人間の本質が種の意識にあるとフォイエルバツハが考えている限り、彼はいまだ「現実的なる、歴史的なる人間」を知らないのである。「フォイエルバッハの新しい宗教の核心をなしていた抽象人の崇拝は、現実の人間と彼等の歴史的発展に関する学問(die Wissenschaft von den wirkl ichen Menschen und ihrer geschichtlichen Entwicklung)によって代えられねばならない。」(8)

(8) Engels, Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen Philosophie ( Hrsg.v. Duncker),S.48.
 彼のアントロポロギーは必然的に変革さるべき理由があるであろう。固よりフォイエルバッハも人間と人間との関係を全く無視したのではない。「人間の本質はただ共同社会のうちに、人間と人間との統一のうちに含まれている」、と彼は云っている。(9) 

(9) Grundsätze der Philosophie der Zukunft, ?,S.318.

□けれども彼は人間と人間との統一を、人類の存在する限り決して変ることなきものとして観念的に把握された性愛や友情やに於てのみ見出したに過ぎない。フォイエルバッハの抽象人から現実の生きた人間に達するためには、人間を「歴史に於て行動する」ものとして考察せねばならぬ。 

□神学的観念を批判することによってそれ自身ひとつのイデオロギーにまで発展したフォイエルバッハの人間学は、新興の無産者的基礎経験を把握するマルクスの人間学によって、必然的に押し退けられた。マルクスの人間学はフォイエルバッハのそれと対質せねばならなかった歴史的状況に於てまたそれ自身ひとつのイデオロギーにまで展開された。(10)

(10)『ドイッチェ・イデオロギー』の中で、マルクスは歴史に於て行動する人間を次の如く規定した。先ず最初に、歴史を作り得るためには人間は生活することが出来ねばならぬ。ところで生活には何よりも飲食、住居、衣服、なおその他若干のものが属する。

 第一の歴史的行為はそれ故に、これらの欲望を満足させるための手段を作ること、即ち物質的生活そのものの生産である。

 第二に、満足させられた最初の欲望そのもの、満足させる行為、そして既に獲得された、満足させるための器具は、更に新しい欲望に導く。そしてこの新しい欲望の生産は第一の歴史的行為である。

 そもそも最初から歴史的発展の中へ入り込むところの第三の関係は、彼等自身の生活を 日々新たにする人間が、他の人間を作り、繁殖し始めるということである。

□夫婦、親子の間の関係、即ち家族がそれである。―初めには唯一の社会関係である家族は、後には、増大した欲望が新しい社会的関係を、そして増大した人間の数が新しい欲望を作るとき、従属的な関係となる。―以上のものは人間の社会的活動の三つの方面若しくは契機である。

 しかるにそれらの活動は凡て社会的であるが故に言葉によって行われる。言葉は他の人間との交通の欲望と必要とから生れる。言葉は意識と共に古く、むしろ言葉こそ実践的なる、他の人間に対しても存在し、したがってまた私自身に対しても存在する、現実的なる意識そのものである。意識は根源的なる歴史的関係の第四の契機である。
 



注(10)はここまで

□それは無産者的基礎経験の中から直接に生れる第一次のロゴスとしてのアントロポロギーの自覚された、その当時の学問的意識に於て客観的公共性の中へ持ち出された形態に外ならないのである。 

□それ故に我々はマルクス、殊にエンゲルスのアントロポロギーが、一方では消極的に、フォイエルバッハのそれによって限定されていると共に、他方では積極的に、その当時支配的な学問的意識であった自然科学によって特に著しく色づけられていることを怪しむべきではないのである。

 マルクスはフォイエルバッハの人間学を、後者がへーゲルの思弁哲学を抽象的であると考えたように、抽象的であるとして排斥した。

□けだし如何なるイデオロギーもそれ自身として絶対的に抽象的であるのではない。へーゲルの哲学と雖もそれの誕生の地盤であるロマンティクを支配した汎神論的なる基礎経験にとっては具体的であり現実的であったのである。
 
□ひとつのイデオロギーが抽象的であるか否かは、それが現実の基礎経験に対する関係に於て決定される。現代に支配的なる無産者的基礎経験に対しては、それとの必然的なる連関なき凡ての思想は、現代の意識にとって抽象的である外なく、そして現代の意識のみが、他の箇所で明らかにされるように、我々には唯一の現実的なる意識である。
 
□さてマルクスの人間学に於て最も重要なのは、繰り返して記せば、一は人間の実践的感性的なる活動或いは労働の根源性の思想であり、他は存在の原理的なる歴史性の思想である。

 然るに一般にアントロポロギーの構造はイデオロギーの構造を限定するから、これら二つのものこそまさに唯物史観の構造を限定する最も根源的な契機である。

□かくて唯物史観は無産者的基礎経験の上に、それの規定する人間学の限定の上に、成立していると考えられる。そしてこの学問の階級性の理論もまた私が第一節に述べた基礎経験とアントロポロギーとイデオロギーの相互制約の原理から最も根本的に把握され得るであろう。 

□私は最初に基礎経験はロゴスに於て表現されることによって安定を獲得すると云った。若しそうであるならば、無産者的基礎経験は唯物史観に於て把握されることによって果して安定におかれているであろうか。このことはこの基礎経験の特殊性によって絶対に不可能である。 

□何故ならプロレタリア的基礎経験はそれの特殊性に於て根源的に実践的であるからである。それにとっては意識を変革するということが最大の関心であり得ず、却て存在そのものを変革することが第一の関心事なのである。従ってそこでは、マルクスが云ったように、「理論は物質的なる力となる。」 

□しかして他方では、斯くの如き特性を有する基礎経験の充全なる表現であるためには、唯物史観はまたそれ自身実践を止揚することなくしては理論としても成立し得ないのである。それは意識の変革の範囲内にとどまることが出来ない。

□フォイエルバッハはイデオロギーの変革によって直ちに真に人間的なる文化が創造され得るかのように思惟する。

□然しながらマルクスは云う、「意識を変革しようというこの要求は、結局、現に存在するものを他の仕方で解釈しようという、即ちそれを他の解釈によって承認しようという要求に外ならない。」「哲学者は世界を種々に解釈しただけだ、世界を変革することが問題なのだ。」

 マルクス学はひとつの革命的なる理論である。そのことはこの理論が根源的に実践的なる、現存の事物を革命的に変化することに於て自己の本質を見出すところの無産者的基礎経験によって限定されていることによって必然的であるであろう。 

「一定の時代に於ける革命的なる思想の存在は既に革命的なる階級の存在を前提する。」(11) 

(11) Marx- Engels Archiv,?, S.266


 

 アントロポロギーのマルクス的形態を論ずるに当って、階級の理論は決して見逃すべからざる、重要なものであるが、私はそれについての研究を後の機会に譲ることにした。

□そして他方から考えるならば、無産者的基礎経験はそれの発展形式であるロゴス、唯物史観を戦いとることによってのみ、それを指導とし、指針とすることによってのみ、自己みずからを発展せしめることが出来る。
 
□しかるにイデオロギーがひとつの物質的なる力となり得るためには、このイデオロギーが現実の基礎経験を的確に把握していると共に、このイデオロギーを指導原理とすべき現実の基礎経験がまたそれに対して必要なだけ十分に発展しているのでなければならぬ。

 イデオロギーが目的意識的に経験に対してはたらき得るためには、基礎経験が自然成長的にそのイデオロギーへの発展の過程にあるのでなければならぬ。基礎経験はつねに自然成長的に自己を表現すべきロゴスを要求する、けれどロゴスは基礎経験に対しては明らかに「他のもの」である。
 
□基礎経験は自己を発展せしめるためにイデオロギー即ち「他のもの」を必要とするのであるが、この「他のもの」はしかしそれ自身現実の基礎経験に於て具体的な地盤をもっているのでなければならぬ。 

□基礎経験は自己から出て「他のもの」に移り、しかもこの「他のもの」が自己の把握であることによって、「他のもの」に移ることが自己に還ることとなる。レーニンが好んで用いた自然成長性と目的意識性との両概念の関係はこのように弁証法的に把握されるべきであろう。

□そして基礎経験とイデオロギーとの弁証法的統一の要求は、経験の現実の段階の分析研究をつねに要求せずにはいないであろう。かくてイデオロギーは、この弁証法的統一の故に、経験を変化し発展させると共に自己を変化し発展させずにはいられない。

□経験の発展とイデオロギーの発展とは相互に制約する。これがイデオロギーの実現の過程に於て所謂方向転換が要求される所以である。さて、我々の研究は、マルクスが、「哲学はプロレタリアートを止揚することなくしては実現され得ないし、プロレタリアートは哲学を実現することなくしては自己を止揚し得ない」、(12)と云った言葉に多少の解明を与え得たであろう。(ー二九二七・五)

(12)Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie (Nachlass, ?, S.398.

以上


 

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