(2)この点に関して我々の謂う基礎経験とべルグソン的な純粋経験との異同を吟味するのは興味深く、利益多きことであろう。べルグソンも彼の純粋持続が言葉に支配されぬものであるに反して、日常の経験が言葉によって分離され、固定されたものであることを述べている (H.Bergson,Essai sur les données immédiates de la conscience, p.99 et suiv.)。
□このようにして我々は、「神学の秘密は人間学である 」、と云い得るであろう。(1)
(1) Feuerbach,Vorläufige Thesen zur Reform der Philosophie (Sämmtliche Werke, Hrsg. v. Bolin und Jodl, ?.Bd., S.222.)
「宗教の批判は人間を迷いから醒めしめ、それによって彼がひとりの覚醒した、理性に達した人間の如くに考え、行い、彼の存在を形造り、それによって彼が自己みずからの周囲を、またかくて彼の真実の太陽の周囲を運動するようにせしめる。宗教はただ、人間が自分自身の周囲を廻転していない間、人間の周囲をめぐる幻想的太陽に過ぎない。」(4)
(4)Marx,Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosopie(Aus dem literarischen Nachlass von Karl Marx und Friedrich Engels, Hrsg. v. Mehring, ?. Band S.385.).
□ところでフォイエルバツハに従えば、人間とは最も現実的なる原理の謂である。彼は『キリスト教の本質』の第二版の序文の中で、彼の批判の仕事を回顧して「この哲学はスピノザの実体、カントやフイヒテの自我、シェリングの絶対的同一者、へーゲルの絶対精神、簡単に言えば抽象的なる、ただ思惟され若しくは想像されたるのみなる存在ではなく、却てひとつの現実的なる、あるいはむしろ最も現実的なる存在、即ち人間を、したがって最も実証的なる実在原理を、それの原理としてもつ」、(7)と記している。
(7) Vorrede zur zweiten Auflage von “Wesen des Christenthums”(?,283.).
□人間の本質が種の意識にあるとフォイエルバツハが考えている限り、彼はいまだ「現実的なる、歴史的なる人間」を知らないのである。「フォイエルバッハの新しい宗教の核心をなしていた抽象人の崇拝は、現実の人間と彼等の歴史的発展に関する学問(die Wissenschaft von den wirkl ichen Menschen und ihrer geschichtlichen Entwicklung)によって代えられねばならない。」(8)
(8) Engels, Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen Philosophie ( Hrsg.v. Duncker),S.48.