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人間論および人間学コミュの「ヒューマニズムの現代的意義」―西田幾多郎博士に訊く―

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「ヒューマニズムの現代的意義」
―西田幾多郎博士に訊く―

西田幾多郎 聞き手 三木清
『三木清全集』より

※採録にあたり、字体を変え、現代仮名遣いに改め、読みやすいように改行してあります。読みづらい漢字は()にふりがなをつけました。

初出は1936年9月6,8,10,11日 読売新聞

三木 近頃いろいろな方面でヒューマニズムが問題になっておりますが、今日はひとつそれについて先生の御意見を伺いたいと思います。

西田 ヒューマニズムというのは歴史的に見れば近世の初めに現れたもので、中世のカソリシズムの文化に対するクラシックの文化の復興であるが、人間性を圧迫したものに対する人間性の反抗がヒューマニズムの問題の起ってくるところだ。

三木 それが現在において問題になるのはどうしてでしょうか。

西田 今日ヒューマニズムの問題が取り上げられているのは、取り上げる必要があるからだと思う。ルネサンス時代のヒューマニズムは中世の宗教的な統制とか権威とかに反対し、人間が人間の立場に還るということであった。

 それが近世文化の根抵となってきた。ところが今日はそういう文化が行詰り、また統制の必要が起ってきた。ファッショとかマルキシズムとか、どちらにしても統制が文化の中心問題になっている。統制が強くなってくると、人間を、個人の自由を圧迫する。世界がそうなってゆかねばならんと云うとき、そこに何かヒューマニズムの問題が起ってくるんじゃないか。

一方ファッショの考えでは個人の自由が否定される。マルキシズムも単なるマテリアリズムでは人間を否定することになる。マルキシズムの理想は必然の王国から自由の王国へゆくことにあるようだが、すべて物質的なものを実在と考え、イデーの意味を認めないのでは、根本において人間否定になると思う。

 ルネサンスのヒューマニズムは非人間的なものに対する人間性の反抗であったが、今日はそういう人間中心の近世文化が人間否定の方へ向ってゆくようになったので、これに対し人間は否定さるべきかどうかという問題が起る。そこにヒューマニズムの問題がある。非人間的、非人格的なものに統一されてゆかねばならぬとすれば、人間の文化は否定されねばならぬ。 

 それならばルネサンス時代からの個人的自由を中心に考えたヒューマニズムにまた戻るか。私の考えでは、もうこれまでのヒューマニズムに戻ることはできない。そうすると、ヒューマニズムというものはすべて否定されるか。新しいヒューマニズムは見出されないか。今日のヒューマニズムの問題はつまり新しい人間の意味を発見することだと思う。 

三木 そのヒューマニズムはこれまでのヒューマニズムとどういう点が違いますか。

西田 これまでのヒューマニズムは個人の自由を中心に考えている。それはつまり個人主義なんだ。ところが本当の人間はそんなものでなく、人間というものは歴史の創造的エレメントであって、そのオペレーターの意味をもっている。

 むろん人間には個人的自由がなくてはならず、今日一派の人が云うように単にそれを否定するのは人間を否定することであるが、併しそれのみからは本当の人間は考えられぬ。人間は歴史的世界のモメントとして働くものである。

 これまでの人間の観念はアトミスティックであった。けれども本当の人間はアトムのようなものでなく、歴史的世界から生れるものである。我々はこの世界から生れ、働き、死んでゆく。

今迄の哲学はこの「生れる」ということを考えていない。我々は自由に働く。その自由の働きは孤立した人間の意識から出てくるのでなく、歴史的世界から生れてくる。自由に働く人間そのものがそこから生れてくるところが歴史的世界なんだ。新しいヒューマニズムはこのような人間を考えてゆかねばならぬ。

コメント(8)

 このコミュニティは「人間論および人間学」のコミュニティです。人間学に関する重要な文献もできるだけ収録して、みんなで利用できるようにということです。他意はありません。

 西田幾多郎の場合は、西田哲学全体が人間学です。純粋経験論や場所の論理、行為的直観、絶対矛盾の自己同一でもすべて人間存在のあり様として論じられています。西田の議論を触媒として読み手がどのような自己の人間論を形成するかは読み手の問題です。

 私の場合は既に「ネオ・ヒューマニズム宣言」の立場で人間論を展開しています。このコミュニティだけではなく、web雑誌『プロメテウス』にもありますのでご参照願います。

 カーライルさんはmixiを互いの意見交換の場という捉え方だけで見ておられるのですか?それも大切だけれど、交流の場としては利用できる資料や文献がいろいろあった方が、議論の材料になっていいと思うのですが、いかがでしょう。

 
西田の言っていることの主旨というか、ねらいが分からないという意味でしょうか?私なりの解釈ですが。

当時三木清はパスカルやマルクスの人間論を紹介して、人間を状態性として捉えたり、社会的諸関係を背負った主体として捉え返して、シェーラーやゲーレンらの哲学的人間学に対抗していたわけです。

 西田哲学も先述したとおり、元来が人間学だったわけですが、三木に刺激されていわゆる人間学的な問題関心を深めていたようです。

 そして時局とも関係しますが、「ネオ・ヒューマニズム」というのはバンジャミン・クレミューという人が『不安と再建』で提唱した用語なのです。大恐慌以降の暗い時代にあって新しい時代を切り拓くことができるような「新しい人間」とは何かが議論されるようになったのです。創造的な人間の時代が到来するという楽観的な議論だったようです。

 三木はなお不安な時代が続くとし、時代や社会の中から生まれ、それらを自己の規定されて、しかも新たな構想力で新時代を制作的に作り出していく「新しい人間」を考えていたわけです。その問題意識に西田は共鳴しているのです。

 人間を個人の自由や創造性でだけ捉えては駄目で、歴史の創造的エレメントだとしています。この場合、歴史の中で創造的なのは人間だけだというように解釈してはいけません。歴史自体が創造的なのです。その歴史の創造性を人間が発揮するわけです。

 京都学派では歴史と個人、社会と個人は弁証法的な関係でして、個人として歴史や社会が自己を展開するわけです。アトミスティックに捉えては駄目だというのはそういう意味です。逆に言えば個人の主体性というのは、自己を社会や歴史の創造的エレメントとして捉え切ったところに成立するということです。これはしかし簡単にはいきません。なぜなら個人と社会や歴史は絶対矛盾的に対立している面を持っているからです。そこに西田の苦悩の哲学があるわけですね。
引用を続けます。


三木 そういう人間を考えてゆく哲学は……

西田 それは、これまでの世界の考え方は自然科学的であった。自然科学的に考えると、その世界から個人的自由を持った人間が生れるということはどうしても考えられない。そこで、世界というものはどう云ってよいか。世界は創造的なものと考えねばならぬ。我々人間はこの創造的世界の創造的なエレメントなんだ。

 人間は世界から生れるもので同時に個人的自由がその本質だと云える。そう云うことはつまり、この世界が弁証法的だということだろう。

□世界はただ自然科学的に考えられるような単なる法則的な世界でなく、創造的な世界であるが、それは主観的であると共に客観的、時間的であると共に空間的というように弁証法的なものであって、そう云う世界は自分自身を形成してゆく世界であり、自分自身を表現的に限定してゆく世界である。このような世界のエレメントとして人間を考えねばならぬ。新しい人間性の意味はそう云うところに発見されねばならない。 

 こういうと何かアイディアリズムであるかのように考える者もあるかも知らぬが、却って本当の歴史の世界は今云ったようなものでなくてはならん。世界を人間的に考えるのでなしに、人間を創造的世界のエレメントとして考えるのである。

 これまでのヒューマニズムでは人間は内在的に考えられた。それは内在的、意識的人間の人間学の上に立っていた。

□これからのヒューマニズムは歴史的人間の人間学を根抵とせねばならぬ。人間はこの世界に生れ、働き、死んでゆく。それはつまり世界が弁証法的に自己自身を形成し、表現することである。表現することは形成することである。かような歴史的世界から人間が考えられる。 

 これまでのヒューマニズムは人間を単に内在的に見てきたが、人間の存在はトランセンデンタルなものだ。むろん単なる超越でなく超越的であると共に内在的、内在的であると共に超越的であるというところに人間の本質がある。

□超越と云うと、これまでのヒューマニズムでは直ちに人間否定と考えられてきたが、そうではなく、超越的が内在的、内在的が超越的というところに深い意味の人間がある。 

□今日はそう考えられねばならぬので、だから例えば弁証法神学とか、エリオットの文学とかはヒューマニズムに反対しているようだが、実はそこに新しいヒューマニズムのモメントがあると思う。

□しかし単に超越的であって内在的でないと云うのじゃない。内が外、外が内というのが人間の本質で、そのような人間を新しく見出してゆかねばならぬ。

 それはどう云うのであるかと云えば、創造性が人間の本質になってゆくだろうと思う。それは個人が世界の中心になるという個人中心の見方でなく、却って人間がその中に入っている、全体自身が創造的なもので、人間はその中のエレメントとしてクリエートしてゆく。

□そこが全体主義、人間否定的な全体主義と違う。世界は弁証法的な形成的な、表現的な世界として創造的であって、人間はその創造的なエレメントである。非創造的ということは人間を否定することだ。 

 人格の中心は単に主観的な自由にあるのでなく客観において自己を見出すことによって人間は生れる。人間が客観的に物を作るということは、人間が物から生れるということである。人間が客観から生れると云っても、その客観は自然科学的に考えられる自然のことではない。 
三木 東洋思想は一般にヒューマニズムの要素に乏しいと云われていますが、そのことは如何でしょう。またそれは今後どうなってゆくべきものとお考えになりますか。 

西田 そう。東洋と西洋とを比較すると、西洋の文化は大体ヒューマニズムが中心で、そのもととなるのはギリシア文化だろう。

□近世の文化はギリシア文化と違うがパーソナリズムでその意味においてヒューマニズムと云ってよかろう。

□東洋文化は非人格的だと云われるが、東洋でも特に老荘の教えとか仏教などはヒューマニズムと反対のものだろう。

□儒教は比較的ヒューマ二ズムに近いが、それにしても西洋のヒューマニズムのようなものではなかろう。そこで西洋文化は個人主義で、東洋文化は全体主義であると云われている。 

 ところが今日では西洋的なヒューマニズムが行詰り、非人格的、全体的のものが中心とならねばならぬとなって、そこに東洋的なものが新しいヒューマニズムにとってひとつの要素となると考えられる。

□ともかく、これまでの西洋的なヒューマニズムはひとまず否定され、新たに東洋的なものが現れるということはあろうと思う。併しそれだけでは単に昔に還ることで、新しい人間を発見することにはならぬ。

 今云ったような新しいヒューマニズムの人間観においては、超越的と内在的との弁証法的な結び付きに人間の本質がなければならぬ。

□そこで東洋文化の特色とされる非人格的なものに単に還るというのでなしに、寧ろそう云う立場においてヒューマニズムが認められ、自由の王国というものが考えられねばならぬ。超個人的、全体的なものは人間を否定するのでなく、却ってそこから人間の本当の個性と自由とが出てくる立場でなければならぬ。

 だから、東洋では「無」が原理とされたが、無はただ否定的でなく、創造的と考えられねばならぬ。無は何も無いということでなく、現実が無なんだ。創造と云うと、何も無い処から物が出ることで偶然ということと人は一緒に考えるが、併し創造は、現実が弁証法的なもので自己矛盾を含み、自分自身のうちに自分自身を形成してゆくということである。

 つまり現実の動きというものが余程問題だ。現実の動きは非合理的だとよく云われる。併し我々自分が居るところが現実なので、それは人間を否定したものでなく、ヒューマニズムと容れないようなものでない。ラチオを含まぬものでない。現実が現実を限定してゆくことが無の論理なんだ。無の論理は論理でないと考える者もあるが、私は却って本当の論理はそう云うところにあるのだと思う。
 

 普通の形式論理は本当の論理でなく、知識に対して新しいものを齎らさない。現実そのものが論理的なので、自然科学の基礎とされる帰納法にしても、現実が現実を限定してゆくという意味がある。単なる思惟でも感覚でもない、我々がその中にいて表現を持つ、それが現実であって、我々は表現的な現実のうちにいて科学的研究をなし、実験に基いて知識を得てゆく。それは現実が真理を決めるのであって、ドグマは実験に合わぬと捨てねばならぬ。 

 現実の論理は行為的直観の論理と云ってよい。その直観は非合理的でなく、働きによって見、見ることがまた働きを起す。現実は時間的即空間的、主観的即客観的、つまり弁証法的であって、自分で働いてゆく。人間はその中にいる。現実が現実を限定することが論理になると思う。

 現実は非合理的なものでなく表現的なものである。現実が絶対的意味を持ち、絶対に触れるというのが表現的ということで、そのような考えは東洋にもとからあったのでないか。論理はそう云う現実から組立てねばならぬ。  

 これまでのヒューマニズムが行詰り、東洋的なものが現れてくると云っても、ただ東洋的なものに還るというのでは何にもならん。そこに新しい人間が生れるのでなければならず物の考え方にも新しい論理が出来ねばならぬ。

 「無の論理」は創造の論理であって、弁証法的で、現実的な感覚的なものを否定しない。感覚そのものが「絶対」に触れたもので普通の心理学で考えられる感覚の如きは抽象的なものに過ぎぬ。 

 感覚は行為的自己の対象としての感覚として実在である。感覚は歴史的現実の実在として過去未来がそこに同時存在的だという意味において絶対に触れるという意味を持っている。そう云う感覚、特殊が絶対である、一般であるというのが弁証法で、無の論理である。

 西洋の考え方は非現実的なものから現実的なものを考えてゆく。東洋には現実即絶対という考えがあるが、併しその論理はこれまで十分明かにされていなかったと思う。東洋的立場で新しいシステマティックな考えが出来てこないと、東洋はどこまでも非人格的で、それでは文化の否定となり、人間は滅びてくるだろう。
三木 ヒューマニズムに反対する者は、ヒューマニズムの立場では我々の行為に対する権威の問題が考えられないと云い、ファッシズムなどでは特にこの権威の問題をやかましく云っているようですが 。

西田 歴史的世界は創造的であるが、創造的というのは自分自身を形成してゆくことで、形成的ということはまた表現的ということである。表現は我々を動かす命令の意味を持っている。

□形成作用の内容として現れるイデーはそのようなものだ。つまり形成、表現、創造という三つのものが一つであるところにオーソリティの問題も考えられるので、人間はその場合この創造的世界の創造的エレメントと考えねばならぬ。
 

 行為的直観と云うのは見ることが働くこと、働くことが見ることで、そう云う行為的自己に対して見られる形は命令の意味を持っている。

□大工が家を建てる、家を建てるとき、単なる命令では動かず、材料だけでも出来ぬ。物が変じ、家が生じてくるにはギリシア哲学で云う、イデーみたいなものがなければならぬが、そう云うイデーにおいて絶対の命令が現れる。

□表現というのは何か客観的なものが出てくることだと思う。ディルタイやハイデッガーなんかのように、表現を単なる理解の立場から考えると命令するようなもの、客観的な権威というものは考えられない。 

 オーソリティは単なる内在の立場からは考えられず、また単に超越的なものでなく、超越的で同時に内在的なものだ。権威がヒューマニズムと結び付くには、創造と形成と表現とが一つであるということから考えてゆかねばならぬ。 

三木 これまでのヒューマニズムは主観主義的で、カントあたりもそうでしょうが、人間の行為というものは外にバラバラに与えられたものを纏めてゆくだけのもののように考えていましたね。 

西田 そう、それではいかん。我々は世界の中にいるので、そのエレメントとして存在している。世界が単なる一般者の世界であるなら行為はなくなるが、世界は弁証法的で、一即多、多即一という弁証法的なものだと思う。

 カントでは、その世界のうちに自分というものがどうして成立しているかが考えられていない。カントの云う物自体にしても、否定的な概念に留っている。

三木 つまり先生のヒューマニズム論では創造ということがよほど重要な意味をもっているのですね。 

西田 そうだ。オーソリティということでも、ただ外的な命令的なもの、法則的なものでは創造ということがない。新たなものが出来てゆくかどうかが問題だ。表現は絶対的意味を持ち、そこにオーソリティがあるので、表現は意識から出てくるのでない。

三木 ヒューマニズムは教養というものを重んずるのですが、その教養もビルドゥングの元の意味に従って創造的な形成作用の意味を持たねばならないのでしょう。 

 ルネサンス時代のヒューマニストの考えた教養にはそう云う意味があったので、またゲーテなどもそのような創造的な形成作用を重く見ているようですね。近頃の教養論にはそんなところが欠けています。それに主観主義的な考え方によるのでしょう、行為ということと物を作るということとが抽象的に分離されています。先生の云われるような表現的行為の考えが足らないのでしょう。 

西田 そう、作るということが問題にされていない。

三木 問題にされても、それが主として美学の問題になってしまって、一般に行為とか道徳とかと別に考えられています。

西田 歴史の世界がよく考えられていないからだ。これからのヒューマニズムはポイエシス(制作)を中心とし、制作的人間の人間学の上に立たねばならぬ。歴史的人間のヒューマニズムはそう云うものになると思う。  

三木 ジイドが倫理の規則と美学の規則とは同じだと云っていますが、面白いですね。

西田 ジイドの云う意味はよく知らないが、そう云う考えは私も賛成だね。私は歴史を芸術で考えると云って批評されるが、そうではなくて、歴史の世界から芸術を考えるんだ。 ルネサンス時代のヒューマニストの考えた教養にはそう云う意味があったので、またゲーテなどもそのような創造的な形成作用を重く見ているようですね。近頃の教養論にはそんなところが欠けています。それに主観主義的な考え方によるのでしょう、行為ということと物を作るということとが抽象的に分離されています。先生の云われるような表現的行為の考えが足らないのでしょう。
 

西田 そう、作るということが問題にされていない。
 

三木 問題にされても、それが主として美学の問題になってしまって、一般に行為とか道徳とかと別に考えられています。

西田 歴史の世界がよく考えられていないからだ。これからのヒューマニズムはポイエシス(制作)を中心とし、制作的人間の人間学の上に立たねばならぬ。歴史的人間のヒューマニズムはそう云うものになると思う。
 

三木 ジイドが倫理の規則と美学の規則とは同じだと云っていますが、面白いですね。

西田 ジイドの云う意味はよく知らないが、そう云う考えは私も賛成だね。私は歴史を芸術で考えると云って批評されるが、そうではなくて、歴史の世界から芸術を考えるんだ。

□歴史の世界は本来創造的な、形式的な、表現的な世界なんだが、そこから芸術も考えられる。表現的な世界の我々にアッピールするものが道徳法、ゾルレンである。むろん芸術と道徳とは同じでないけれども、共に歴史の世界から見てゆくことが大切だ。

 いったい歴史の世界は根本的に技術的だと云うことができる。そう云うところから考えると、一方芸術なんかもそこに考えられるし、またマルキシズムのようなものもその中に入ってくる。

三木 先生のお考えは東洋の「無」を新しく理解して、その中へヒューマニズムの思想を敲き込まれたものと思いますが、これまでの東洋の「無]の思想は一種の心境のようなものになっていたということがありますね。その原因は何でしょう。

西田 そう云うことがあった。西洋文化は第一に戦った。心境だけでなく何か客観的に理論ができぬと存在し得ないということから発達した。

□も一つは西洋の物質文明の発達ということと関係があるだろう。支那の思想も孔子春秋の時代は心境だけのものでないようだが、以後はその形態の単に精神的なものだけを伝えているんだと思う。そう云うことになっているだろうが、その原因はよく研究してみないと難しい。

 禅などは西洋の神秘主義と一緒にされるが、あれはもっと現実的なものだと思う。あまりに現実的な位で素人の云っているのとは違う。あれは大分変ったもので、マテリアリズムにもなれる。ともかく今日は心境だけではゆかない。それには論理的なシステマティックな考えが出来てこなければならんと思う。

  了 


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