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人間論および人間学コミュのプルシャ伝説と大乗仏教の人間観

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----------プルシャ伝説と大乗仏教の人間観----------------

ーーーープルシャ(原人)から世界も神も生まれたりなどて通じぬ人の願いのーーーーー

やすい:バラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』にはプルシャ伝説があります。

立男:何ですか、プルシャというのは獣か木の名前ですか。

やすい:原人です。

命子:ヘエー古代インドに原人の生き残りがいたのですか。

やすい:神話ですからね。コスモスの創世に際して最初に作られたのがプルシャなのです。そのプルシャから万物や神々が生まれます。そして口からバラモンが両腕がクシャトリヤに、両腿がヴァイシャに、両足がシュードラになったという話です。

立男:そうすると原人は宇宙大の大きさだったのですか?

命子:というより、世界の始まりにおいてはプルシャしかいなかったのですから、宇宙全体がプルシャの大きさといっても、今の宇宙とは違い巨人のイメージぐらいだったかもしれませんね。

やすい:ビッグバンの理論だと宇宙は最初はミクロ的な大きさしかなくて、それが膨張しているということですからね。ここで重要なことは始原にプルシャとはいえ人間を置いていることです。

立男:ということは神々が人間を作ったのではなくて、人間が神々や万物を作ったということになるのですか。

コメント(7)

やすい:全能の神がプルシャを作り、プルシャの死体から神々や万物や人々が生じたという図式です。

命子:ということはコスモスや神々は人間の体からできているということですね。

立男:つまり我々の体を作っているものによってコスモスが作られているということは、コスモスに我々の思いが通じるといいたいのですか。

やすい:おそらく雨乞いなどのバラモンのオカルト的な能力に理論的な根拠を与えようという動機があったのでしょうね。

立男:でもバラモンだけがオカルト的な能力を持つ根拠にはなりませんよ。

命子:ですから後にバラモン以外からも修行者が出ますね。それにバラモンは人間なら誰でも持っている潜在的な能力を、特別なカルマ落としの修行によって発揮することが出来るのです。

やすい:このプルシャ伝説は、後の大乗仏教の人間観、生命観に大きな影響を与えているのではないかと、最近考えています。

立男:それは先生ご自身のオリジナリティですか?

やすい:いや別に調べれば先行説はあると思いますね。

命子:大乗仏教では仏陀がダルマ(法)と一体化します。それでコスモスが法の現われだとすれば、仏陀と生きとし生けるものつまり一切衆生が法と一体化した仏陀の現われだということになります。これを一切衆生悉有仏性と言いますね。この発想とプルシャ論は似ていますね。

立男:仏陀をプルシャに置き換えれば、プルシャ論に先祖がえりです。たしかにプルシャ論の影響も有り得ますね。そうしたら仏教の独自性が無くなってしまいませんか。

やすい:その心配はありますね。実際、インドではあれほど大乗仏教が栄えたように見えていたのに、ヒンズー教に埋没してしまいます。その原因の一つかもしれません。

□本来なら、仏性は無常観からみて、諸法無我つまりすべての事物には実体がないからこそ、無常の真理、無我の真理を示しているわけで、それですべての事物、一切衆生は仏性を宿しているわけですね。

□ところがプルシャ説や梵我一如の発想だとコスモスの本体がすべての事物・事象の実体を成しているということで、滅び去るという否定的なものに媒介されていないわけでして、そこが大きな違いなのですが、大乗仏教が「煩悩即菩提」とか「常楽我浄」とか言う場合にどこまで否定的なものを貫けたかが問題でしょうね。
------空見れば吾は空なり、海見れば吾は海なり海鳥の鳴く-----

命子:とても難しい議論ですね。プルシャ論に関する素朴な疑問に戻しますが。オカルト的能力が、コスモスと人間の一体性をプルシャ仮説で納得させられるということです。

□それはそうなのですが、そういう仮説を何の根拠もなくでっち上げたのですか、それとも何らかのコスモスが人間の身体であるという論拠があるのですか。

立男:そりゃあ成分が同じだということでしょう。土・水・空気・火によって身体もコスモスもできているわけですから。

命子:それだったらコスモスから人間が出来たという仮説の根拠にもなってしまいますね。

立男:普通はそう解釈されるところを逆転させて、オカルト的な能力を根拠づけるのに使ったということでしょう。

やすい:まあそうでしょうね。ただ人間とコスモスの一体性を認識論にもっていきますと、見る側と見られる側の一体性ということになります。

□花を見れば私は花に、星を見れば私は星に、海を見れば私は海なのです。

□空海が室戸の空と海を見て自分の名前を空海にしたようなものです。自分の生にとって太陽とは空気とは水とは家とは野菜とは肉とは何かと考えて見ますと、生きるとはそれらとの交渉なのですね。

□その私の生の世界においては、私のコスモスを私の太陽、私の星、私の水、私の花、私の妻子が構成しているのです。

□そのように捉え返しますと、コスモスがプルシャから生じたという発想も全く我々の生から無縁な議論ではないことが分かります。

命子:意味がよく取れないのですが、じぶんの生活を構成しているすべての自然や生活の品々が自分の生から生じたということですか。

□花を見たら私は花ということになりますと、蛇を見たら私は蛇、ナメクジを見たら私はナメクジになってしまいます。

立男:ウンチを見たら駄目ですよ、命子さん。ウンチになってしまいます。

やすい:『華厳経』では「一即一切、一切即一」といいまして、ギリシアのエレア学派の「ヘン・カイ・パン(一にして全)」と同じ発想があるのです。

□つまり「三界は虚妄にしてすべては一心のつくるところ」とも言いますが、これは誰の心かといいますと、仏陀の心ですが、それはコスモスを生み出す根本仏ですから、バラモン教ではプルシャやブラフマンにあたります。

□その仏格化としては毘廬遮那仏であり、大日如来です。塵にいたるまで根本仏の現れであるといわれます。

命子:それで我々だってその根本仏の現われなのだから、我々衆生にも仏性があるということですね。その仏性の目で見ると、塵もウンチも私自身だということですか。

やすい:ええ、そうです。しかし仏性とかプルシャとかいうとなかなか凡夫とはかけ離れていて、凡夫には感じられないことのように思えるでしょう。

□ともかく覚りというのは、大変難しいことで、弥勒菩薩みたいに何億年もかかるみたいに思われるかもしれないけれど、それは一切衆生をすべて瞬時に浄土に掬い取るぐらいの力を持つ覚りです。

□花を見て花と身の断絶を超えて、花を見たら自分は花という覚りは、ふと花に心奪われたときに誰もが少なからず感じていることです。

立男:花に心を奪われると私は花に成るのですか?花がきれいだとは確かに思いますが、自分は花に成ったとは思いませんが。

命子:それは自分の体が花に成るわけではないということでしょう。先生の言われる「花に成る」という意味は、花を見ている意識においてあるのは花だけで、見ている自分は、花に集中している限り存在しないということなのです。それが意識において自分が花だという意味ですね。

やすい:どれだけ感動したかということとも関係あるのだけれど、夢中になって何かに取り組んだり、とても素直な気持ちで物が見れたりしたときに、対象がすごく新鮮で色めきたつことがあるでしょう。そのときにはきっと、それを見ている自分というのは消えていいて、充たされた気持ちがあると思うのです。

立男:それはあると思いますが、自分が消えていれば、花しかないので、花が自分だということもないでしょう。

やすい:ええ、その通りです。その花が自分だということもその際には意識しません。しかしそういう経験も大切な自分の人生の一齣であるという意味では、花は自分だといえるわけです。

□西田幾多郎は「物に成って考え、物に成って行う」と言ってるのです。

命子:花が自分だというという場合は、身体が自分だという自分の殻を脱ぎ捨てているわけですね。

□つまり客体としての花と主体としての身体が向き合って、その上で花を感覚しているという図式を忘れてしまっているわけで、身体も花も物としては消えていて、花の意識として現れているわけでしょう。

やすい:西田の表現では、『善の研究』では純粋意識ですが、先ほどの「物に成って考え、物に成って行う」という表現では「物」ですね。

□物を意識に先行する客体的な事物として捉えて、意識に現れたらそれは現象や事態あるいは事だと捉える人もいます。

□その場合に意識に先行する事物があるからこそ現象が起こるという立場を取るのが唯物論ですね。

□人間の意識に現れるのは現象までだから、客観的実在としての事物は現象からの推論に過ぎないと考え、学としては現象しか扱えないと考えるのがフッサールなどの現象学です。

□そして現象としての事、事態こそが第一次的実在であり、事物はその説明のための機能的概念にすぎないという立場が、事的世界観です。この十年ほど前に亡くなられた廣松渉さんなどはその代表者ですね。

立男:同じ「物」と言っても人によって含蓄が違うので、互いに誤解されやすいですね。それでは仏教でいう個物や個我に永遠不滅な性格つまり自性はないというときの個物は現象としての事物なのですね。

やすい:そうです。「五蘊の仮和合」という言葉がありまして、もろもろの事物・事象は「五蘊の仮和合」に過ぎないといいます。

□五蘊とは

色蘊―物質的エレメント、
受蘊―感覚的エレメント、
想蘊―イメージ的エレメント、
行蘊―実践的エレメント、
識蘊―イデア的エレメント

の五つのエレメントが、仮に和合している刹那にもろもろの事物・事象があるように見えるけれど、どれか一つのエレメントが欠けても、それ自体は空なので、消えてしまうわけです。
命子:ということは、物というのは完成された形で意識に入ってくるのではなくて、感覚を引き起こす様々な刺激が五官から五感として与えられて、それを意識として統合しているという感じですね。その統合されたものが事物だということでしょう。

やすい:ウーム、完璧ですね。それが最も近いです。つまり物があってそれを意識が認識するという図式ではなく、諸感覚を統合した意識が事物だということです。それで事物は意識に過ぎないという意味では実体がないですし、また意識として統合された諸感覚が事物ですから、事物は単なる幻想ではなく、時間・空間・質量・色彩・匂いその他の諸性質を持っているわけです。

立男:それじゃあ人間の意識が事物だから、事物も人間だということですか。

やすい:少なくとも、身体だけが人間だということに固執しない認識論になっているわけです。

立男:素朴な疑問ですが、事物が意識に還元されてしまいますと、意識でしかないのですから、事物は意識から自立した客観的な法則性を示せなくなりませんか?

やすい:それが逆なのです。もし事物が意識に還元できないとしますと、その部分は認識できなくなりますから、かえって事物が不可知な部分にどう動かされるか分からず、客観的な法則性は認識できないことになります。

□意識としての事物の相互関係によって客観的な法則性が成り立つと捉えますと、世界はすべて合理的に説明できることになります。といいましても個人が経験できることはわずかですから、諸個人の経験を集めて照合し、整理することで客観的な科学が成立することになりますが。

命子:でも現実的にはコスモスの中で人間が知り得ることはほんのわずかでしょう。知性の光を当てられたほんの少しの事柄について、整理し、法則を見出しているではないのですか?

やすい:ええ、全くその通りだと思います。それでも人間は一応自分が作り出している環境に適応できているわけです。それを維持できているだけの事物の法則認識もできているということです。

立男:動物だって環境に適応しているわけですが、彼らは別に客観的な事物の法則性を認識しているわけでは有りません。

やすい:人間の場合は、身体的能力で本能的に環境に適応することができなくなったといわれています。

□前回の「プロタゴラスの人間論」で出てきた欠陥動物論ですね。ゲーレンが強調しています。それで火と自然理性の智恵をプロメテウス(構想力・想像力)が盗んできて補ったわけですね。文明はその延長線上にあるわけです。

命子:でもメソポタミア文明もインダス文明も環境への適応に失敗して滅んだのでしょう。現代文明だってなかなか環境に適応できず、地球温暖化を招いて台風の強風化など自然災害まで引き起こし、崩壊しかねないじゃないですか。

立男:そういう危うさはあっても、ここまで人類文化が発展し、隆盛しているということはすごいことだと思います。さらに維持・発展させようと思ったら、文明が存立できている条件をよく見極めて、「持続可能な」形で欲求充足の方法や、エネルギー消費のあり方、産業や生活における循環のあり方を地球規模できちんと調整できるようにならなければならないということですね。

命子:その場合、プルシャ的なコスモスが人間から生まれたというような捉え方は、どうでしょう、人間の思い通りになって当然みたいな捉え方になってしまいそうな気がしませんか。それより逆にコスモスから人間が生じたのだからコスモスにきちんと適応できなければならないという捉え方の方がいいような気がしますね。

やすい:そういう意味ではそうですね。ただ人間には人間の環境世界があって、その環境世界全体を人間として捉え返して、全体的な調和をはかっていかなければならないという面もあります。その観点からは先ずコスモス全体を人間と見るプルシャ的な人間観は、この新しい人間観の導入に相応しいと思われるわけです。

立男:しかしどうでしょう。人間をコスモス全体にまで広げてしまいますと、我々凡夫には全く現実とかけ離れた議論のような気がして、とてもついて行けないなという気もしますが。
命子:そういうきらいは確かにありますが、学問にはそういう突拍子もない発想があって、それが魅力ということもあります。ありきたりで、しかも厳密すぎる議論では眠くなるだけですからね。


以上の対話篇の他に講演の草稿の形のもありましたから、これも紹介します。

            プルシァ伝説

 まず、古代インドバラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』よりプルシャスの章(日本語訳)を読んでいただきましょう。

1.プルシャ(原人)は千の頭、千の目、千の足を持つ。プルシャはあらゆる方面から大地を被い、それよりまだ十本の指の高さにそびえ立っている。

2.プルシャは、過去と未来にわたる一切万物である。また、不死の世界と食物を食べ成長する生き物たちの世界をも支配する。

3.プルシャの偉大さはこのようなものである。しかしプルシャはさらに偉大である。一切万物はプルシャの四分の一であり、四分の三は天上界での不滅性である。

4.プルシャは四分の三を備えて上方に昇る。四分の一はここ地上界に再び発生する。こ  の四分の一からプルシャはあらゆる方向に進展する。食べ物を食べる生きものや食べないものに向かって。

5.彼からヴィラージュが生まれた。ヴィラージュからプルシャが生まれた。彼は生まれると地上界を凌駕した。後方においても前方においても。

6.神々がプルシャを供物として儀式(ヤジニャ)を執行したとき、春はそのアージア (ギー)であり、夏は薪、秋は供物である。

7.儀式そのものであるプルシャ、太初に生まれた彼を、バヒルス(敷草)の上で、神々 はそそぎ清める。神々は彼を用いて儀式を行った。サーディアの神々も賢者らも。

8.この完全に実行された儀式により、ブリシャッド・アージア(ギーに酸乳を加えたもの)が集められた。これより神々は空を飛ぶもの、森に住むもの、また村で飼われる獣をつくった。

9.この完全に実行された儀式により、讃歌と旋律が生まれた。韻律もそれより。祭詞もそれより生まれた。

10.それ(儀式)より馬が生まれた。両顎に歯があるすべての獣(が生まれた)。牛も実 にそれより生まれた。それより山羊、羊がうまれた。

11.彼ら(神々)がプルシャを分割したとき、いくつの部分に分割したのか。彼の口は何 になるのか。両腕は何に。両腿は何に、両足は何と呼ばれるのか。

12.彼の口はバラモンである。両腕はラージャニアとなった。彼の両腿はヴァイシャである。両足からシュードラが生まれた。

13.月は心から生じた。目より太陽が生じた。口よりインドラとアグニ、呼吸より風が生じた。

14.臍から空間の世界が生じた。頭より天上界が現れた。両足から地上世界、耳より方向。このように神々はもろもろの世界を創造した。

15.彼のためのパリディ(祭り火を囲む木片)は七本である。神々が儀式を執行し、プルシャをいけにえの獣として(柱に)つるしたとき、三十七本の薪が作られた。

16.神々は、儀式によって、儀式に儀式を捧げた。これが最初の規範である。太古の神々、サーディアの神群がいるところに、これらの威力は実に早く達した。

類似の説話は世界中にあります。

北欧神話 ユミル ギンヌガの淵から生まれた巨人。巨人族の祖である。アウドムラから生まれた神々に殺される。その血が海となり、肉は大地に、骨と歯は山脈に、毛は森林に、頭蓋骨は天空に、そして脳は雲となった。

 アッカドの神話のティアマト。元々は、塩水を表す言葉。原初の混沌を表すと共もに、全ての母。新しき神々に反逆し、マルドゥークに撃ち殺される。そして、その死体から世界が作られた。エヌマ・エリシュの項参照。

中国古代神話上の盤古、天地開闢の神。世界が混沌としていたときに盤古は生まれ、その死後頭は四岳に、両目は日月に、身体の油は海に、毛髪が草木に、涙が河に、息が風に、声が雷となった。

 プルシャ(原人)説話を紹介しましたが、はじめにプルシァ(原人)がいて、この原人からコスモスが作られたということです。

□これは進化論と正反対です。進化論は最も進化している人は一番最後に登場することになっています。

□ただし人間になって進化が終極まで到達してこれ以上の進化がないとしますと、進化は人間が目標だったことになり、太極(はじまり)において人間への方向性があったことになります。

□もっとも近代科学ではそういう目的因で科学を説明することは誤りであるとされていますが。

 フェニキアの神話でも混沌から人間が生まれ、彼らが神々を作ったとされています。神々が人間を作るよりも人間が神々を作る説話の方がどうも古い形のようなのです。

□神々やコスモスよりも根源的な人間という人間中心のコスモス観があるのですが、それはコスモスとの一体性を取り戻して、コスモスを自由に支配したいという気持の現われかもしれませんね。

 プルシァ的なコスモス観が根底にあれば、コスモスは元々人間の体であるから、人間の願いが通じる筈だと思えるのです。

□このコスモスをプルシャから生成したと見る見方が形を変えてヒンズー教や仏教に継承されているのです。

□特に大乗仏教では法と一体化した仏陀がコスモスと合一し、生きとし生ける者は、たとえ自覚できなくてもそれ自体としては、すべて仏陀の現れであるという「一切衆生悉有仏性」を特色としています。

□このような仏陀がコスモスと一体であるという発想ができるのは、元々コスモスが原人から生成したという発想が刷り込まれていたと考えれば納得しやすいのです。
ーーーーーーーーーー環境的自然と人間ーーーーーーーーーー

□環境的自然は人間がそこで生きている自然ですから、人間はその自然に適応できているわけです。

□たとえば太陽はもし間近まで近づけば、焼き尽くされますが、幸いなことに地球環境が人間の生活に都合のよい距離を保ってくれていますから、太陽エネルギーを生活エネルギーにして生きることができています。

□月面ではとても生きられませんが、夜空に照り輝く程度なら風情を楽しめます。ですから太陽も月も人間の生活環境として人間の生を構成していると言えます。そういう意味でコスモスを構成している諸事物は人間的生の構成物であると言えるのです。
 
□人間はそれぞれの個体的身体を自己の範囲だと考えています。しかし個体の身体の自己保存に汲々としていてはかえって身体の自己保存もままならないのです。

□その個体の自己保存を可能にする環境や社会の維持が図られなくては、個体もサバイバルできません。

□そこで自然環境や社会環境の維持を図る必要があるわけです。つまりただ身体の欲求を直接満たしているだけでは駄目で、ご飯を食べたければ、稲が栽培できる田畑や温暖な気候、豊かなおいしい水なども維持しなければなりません。

□また稲作農業が産業として成り立つ社会環境も整っていなくては困ります。

□そこで守るべき自己の範囲を自然環境や社会全体に拡張する必要がでてきます。それまで身体以外の事物を他者と見なしていたのを、つまり家族や集団や企業や組織や国家や世界を自己自身として捉え返す必要があります。

□そして道具や生産品や生活用具、生産用具や自然の諸事物なども自己自身の生命を構成しているものとして感じ取る必要があるのです。

□自分という者や人間存在を身体的個人に限定していますと、太陽や月まで自分の生命の姿だとは受け止められません。あくまで月や太陽と人間は別の物にすぎないことになってしまいます。

□しかしそれは私的利害に拘って活動している場合に気になるだけであり、本当に我を忘れて対象に見とれていたり、仕事に熱中している時には、対象が自己であるか否かはさほど問題ではなくなります。
 
□日の出や日没の様子は筆舌に尽くしがたいほど神々しかったり、魂に響いたりします。また夜空の月の輝きも価千金といわれます。

□その時に輝いているのは自分の命なのです。天体を見たり、景色をみたり、動植物を見たり、工芸品を見たりするときに、それらは命の輝きがありますが、それらを素晴らしいと感じている自分の命が輝いているのです。

□空海は室戸岬で海と空を見て「空海」と自らを名付けました。空を見ているとき自らは「空」であり、海を見ている時は自らは「海」なのです。薔薇を見て誰の所有かに拘っていたら薔薇の美しさを自らの経験として味わうことはできないのです。空も海も薔薇も感覚としては自分自身なのです。
 
□自らの所有や身体の境界に拘らず、経験としての事物を我々は生きるのです。

□人間は食べることが好きです。食べることによって身体外の事物の他者性がなくなってしまいます。りんごや茄子や魚や豚は自分の体に吸収され、同化されました。同化されなかった部分は排出されますが。自分自身の体も新陳代謝によって常に異化され自然に吸収されています。

□そして最終的には個体ごと吸収されてしまいますね。つまり食べたり食べられたりすること、生きたり死んだりすることが自然の一体性を証しているということです。

□もちろん食生活だけではありません。衣食住やその他の文化的な行為も対象である事物を感覚に取り込み、その対象である事物を生きているのです。

□我々は裸で生きるわけにはいきません。服を着ます。服が人間の生命活動を構成しているわけで、服まで含めた自己を表現して生きなければならないわけです。

□服と自分は他者だということで、服装を他人事のようにしていますとだらしないとか、センスが悪いとか言われ、人間としての評価を落とすことになりかねません。
 
□住まいもその住人の自己表現の場ですから、せめて自分の部屋ぐらいは整理整頓しておくべきですね。

□部屋が散らかっていれば、それだけその人の中身も雑然としていて、いざという時にきちんとした対応ができないといわれます。昔中国に技術指導に行った日本の技術者は、先ず工場の清掃から指導したそうです。汚れていたり散らかっていますとそれだけ製品の精度が悪くなりますし、不良品を出す比率も高くなります。先ず工場を自らの体のように意識して、始めて単なる歯車でなくて、工場全体を運営する生産主体としての自覚が成立するということなのです。
 
□これは自他の弁証法です。自分を身体や自我に閉じ込めていますと、ナルシシズムに陥り、自分が狭くなり、何も楽しむことができなくなってしまいます。

□狭い貧しい自己になってしまいます。自分に拘る限り自分がなくなってしまうということです。自分を積極的に他人や他の事物の中に見出し、そこに自分を表現していけば、他者の中に自分が発展するのです。

□他者はかくして自己となることで、他者であるということです。もし他者は自分と関わりない他者でしかなかったら、それらとは関係も結べないので、他者とはなりえないからです。

□何らかの意味で自己に取り込まれてはじめて他者になりえるのです。自己が他者に他者が自己に相互に否定し合い、転化し合う関係が自他の弁証法なのです。
 
----------------釈迦仏教の人間観------------------------

 日本人は神も仏も同時に信仰しているというので、欧米人からみれば極めていい加減な信仰に見えるようですが、それは神を欧米人が一神教的な概念で捉えていることにも原因があります。

□欧米人の神は万物の創造主であり、唯一絶対の超越神です。というより万物の創造主であり、唯一絶対の存在だから神だと考えているわけです。

□個々の自然現象や自然物を神として祀ったりする事自体がとんでもない神への冒涜に当たると考えています。その上、悟りを開いた人間である仏陀を神以上の存在として祭り上げるなどとんでもない神への冒涜に当たるのです。

 しかし元々唯一神信仰の方が特別なのです。機械文明が未発達な社会ほど自然に祈りを捧げ、自然の力に頼って生きているのですから、多神教が元々の形だったのです。では仏陀に救いを求める信仰にはどういう根拠があるのでしよう。

 仏教は悟りを求める宗教で、無我の真理を悟り、涅槃の境地に到達するのが目標です。それぞれ各人が修行を積んで悟りを得ればよいのです。ですからあくまで自分自身の修行が大切です。自分は修行をしないで、修行を積んだ仏陀に頼ろうとするのは全く虫のいい話です。

 ゴータマ・シッダルタ(釈迦如来)は、悟りを開いたものの、その内容を人々に語っても理解できないだろうと考えましたが、ブラフマン(梵天)という宇宙の本体を意味する神に「どうか人々に真理の法を教えて救って上げてください」と頼まれ、「初転法輪」とよばれる最初の説教をされました。それは「中道・四諦・八正道」だと言われます。

 中道は苦行や快楽という両極端の修行を避け、静かに瞑想によって悟りに到達する修行法を取ることです。四諦は四つの真理という意味です。「苦諦・集諦・滅諦・道諦」です。苦諦は一切皆苦ということで、人生は四苦八苦で苦の連続だということなのです。

 「生・老・病・死」の四苦に加え、遭いたくない人会う苦しみ「怨憎会苦」、愛している人と分かれる苦しみ「愛別離苦」、もとめても得られない苦しみ「求不得苦」、体に伴う苦しみ「五蘊盛苦」の計八苦があると言います。

 苦の原因は、渇愛にあるというのが集諦です。渇愛とは要するに欲しくてたまらないということへの執着ですね。ご馳走が食べたい、いい服が着たい、いい家に住みたい、あれか欲しいこれが欲しいと自分の欲望に執着することです。それは結局自分への執着だということになります。

□「滅諦」というのは、「無明」を滅ぼせば涅槃に到達するという真理です。つまり渇愛は我なんてそれ自身で存在するものではないという「無我の真理」を知らないから生じるのだというのです。「無我の真理」に対する無知を「無明」と言いますが、無明を滅ぼし、無我の真理を悟れば、心静かな涅槃(ニルバーナ)の境地に到達できるのです。

□「道諦」は、八正道によって悟りを得ることができるという真理です。

□八正道は「正見(正しく見る),正思(正しく思考する),正語(正しい言葉で語る),正業(正しい行為をする),正命(正しい暮らしをする),正精進(正しい努力をする),正念(正しい心配りをする),正定(瞑想によって心を正しく統一する)の八つです。正しいというのは、中道・四諦を常に念頭において行動するということです。

□結局、「無明」を滅ぼすことが悟りへの道ですが、それは無我の真理を悟ることに他なりません。

□無我の真理とはどういう意味でしょう。それはバラモン教のウパニシャッド哲学の批判からきているのです。

□ウパニシャッド哲学では。宇宙の本体であるブラフマン(梵)と個物の実体であるアートマン(我)が一つであるという「梵我一如」が最も核心にあるわけです。それは個々の人間の魂がコスモスの本体と同じであるということです。

□アートマンはドイツ語で「息をする」にあたる「アートメン」の語源です。ですからアートマンは「気息」が元の意味で、それはコスモスの本体である空気と一体なのです。これは言い換えればコスモス全体が大いなる命とすれば、個物の命はその現れであるという意味になります。アナクシメネスの「アルケーは空気である」というのも、これと同様の発想があったと推論できます。

 コスモスの本体としてのブラフマンや個物の実体としての不滅のアートマンが存在するという捉え方に対して、ゴータマ・シッダ―ルタ(釈尊)はブラフマンやアートマンという不滅の実体が存在するという思い込みを否定したのです。それはヘラクレイトスのパンタ・レイ(万物流転)にも通じる発想です。そうなると不滅のアートマン(魂)が輪廻転生(サンサーラ)するということもないわけです。

 苦の原因を我執にあるということですから、我に囚われなければ我執もなくなると考えたのでしょう。我(アートマン)を永遠不滅の実体だと考えなければよいと思ったのでしょうね。実際我は身体が滅びると一緒に断滅するのだという唯物論の思想も既にあったわけです。アートマンのサンサーラ(輪廻転生)も因果応報思想と不死願望が結びついて作り上げた幻想かもしれないわけです。

 それではいかに捉えたのでしょう。「諸行無常・諸法無我」というは、もろもろの事象には恒常不変なものはなく、諸々の法の現れに過ぎない諸物には不滅の実体など存在しないという意味です。だから全ての出来事や事物は、それ自体で存在するような自性をもったものではなくて、縁に触れて生じ、縁に触れて滅するような縁起的存在であるということです。このすべての事象には実体はないということを「空」というように後に表現するようになります。

 実体としての個物があって、その個物が連関し合って世界が構成されているとするのではなく、逆に連関としてのコスモスの現れを説明するのに個物が有ると仮定して、個物の連関として説明しているだけだという捉え方です。

□物的世界観ではなく事的世界観なのです。これを人間の人生に当てはめますと、事としての経験の連続が世界であり、人間だということになります。ですから物や自我へのこだわりを捨て、いかに事としての充実した体験をするかが問題なのです。

 それに縁起の思想は慈悲と関連があります。縁起は原因と結果、見るものと見られるもの、我と汝の区別に拘りません。空を見たら自分は空であり、海を見たら自分は海です。それで空海は自分を「空海」と名づけたわけです。

□ゴータマ・シッダルダが覚りを開くきっかけになったのは、飢えた虎に身を捧げた沙門の姿に接したからだといわれています。「飢えた虎」は実は飢餓の人民を意味していたという解釈もありますが、ともかく自他の区別にこだわらず、衆生と共に苦しみ、衆生のために我が身を捧げることができるのは、コスモスを自己の経験として捉え、コスモスと融合できる縁起の思想に立っているからなのです。
 
     
           大乗仏教の人間観

 ところが小乗仏教は慈悲の立場を忘れ、自己一身の覚りのためにのみ修行をしているように思われたのです。

□あくまで「衆生済度(生きとし生けるものを救いたい)」のために釈迦如来は法を説かれた筈なのに、自己一身の救いに止まるのはおかしいとしいうわけて、あくまで慈悲の立場を打ち出し、衆生済度のための仏教を打ち出したのが大乗仏教です。

□そこで衆生済度のために覚りを開いて仏陀になる修行をする人を「菩薩」と呼び、「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵」の六波羅蜜の修行に励んだのです。

□慈悲の権化として仏陀になる修行をする人間こそ人間の理想像です。菩薩はまだ如来(仏陀)になっていませんが、観世音菩薩や弥勒菩薩といった菩薩信仰が如来信仰に負けないくらい重要になります。

 菩薩は自己一身の覚り、成仏よりも衆生済度を優先しています。さっさと成仏してしまった如来よりも、衆生のために悪戦苦闘の修行を続けている菩薩の姿に尊いものを感じたのかもしれません。また菩薩は慈悲の権化としてほとんど如来の慈悲の現れとして受け止められているようです。それは大乗仏教の独特の仏身論と関係します。

 ゴータマ・ブッダは「人に依らず,法に依って生きるように」言い遺しました。「自灯明,法灯明」(漢訳による。原語では「自分を島にし,法を島にせよ」)という遺言は有名です。

□人間は有始有終の存在です。生じたものは滅しないことはないのです。ですから釈迦を超人的な存在として神格化して崇拝されることは釈尊自身の本意ではなかったのです。

□ところが宗教というものは,教祖の唱えた教理よりも,教祖自体の霊力に対する信仰に傾きがちです。キリスト教でもイエス・キリストの生き方に倣って,自ら復活のキリストとして愛に生きるのがキリスト者の本来の姿の筈なのに,むしろイエスの贖罪の十字架が人類を救済する程の力があった事を信仰することに力点が置かれます。結局イエスは神だったことを認めるかどうかが最大の問題になってしまったのです。

□仏教も始めは仏陀の教えに倣って解脱の修行を行う教団でした。ところが次第に深遠な法を説かれた仏陀の霊力が神格化され,その力に依って救済されようとする信仰に変質していったのです。

□特に熱心な在家の信者に支えられていた大衆部では,釈尊の本体である法身は永遠の生命を持って兜率天に住んでおられると捉えました。ゴータマは衆生を救う為に仮に地上に現れた応化身(おうげしん)だったとしたのです。

□大乗仏教では,仏陀の「法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)」の三身観が唱えられました。物質的なものから,時空から超越した絶対身、法それ自体の仏格化が「法身」です。

□四世紀に纏められたとされている『華厳経』では毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)が法身です。華厳宗では釈迦は仏陀となってこの毘廬遮那仏との一如(ひとつであること)を悟ったので、釈迦は毘廬遮那仏そのものだとします。

□この考えでいきますと我々凡夫も本来毘廬遮那仏なのですが、それを悟ることができないだけだということです。こうして「一即一切,一切即一」の華厳哲学が生じます。これはエレア学派の「ヘン・カイ・パン」と同じです。

 七世紀に成立したとされる『大日経』に基づいて真言密教の大成者空海は、法身仏を大日如来(=毘廬遮那仏)としこれを無始無終のダルマ(法)そのものとします。

□報身仏は,修行の報いとして永遠性を獲得した有始無終の仏で、阿弥陀如来や薬師如来が報身仏なのです。では応身仏は何かと言いますと,法身仏が化身として地上に出現した仏です。これは人間の身体を持っていますから有始有終の仏です。

□釈迦は応身仏です。密教は法身仏としての大日如来が説かれた教えで,顕教は応身仏としての釈迦が説かれた教えだということです。また浄土真宗の親鸞は釈迦は阿弥陀仏の変化身(へんげしん)と解釈しています。

 人間ゴータマから法身仏と合一した釈迦如来へ,神ならぬ人間だからこそ,修行と思索を通して真理に到達し,宇宙の摂理それ自体を自己として捉え返すことができるのです。

□またたとえ凡夫のわれわれでも,宇宙の摂理の現れである限り,真理はたとえ悟れなくてもそれ自体としては,真理はわれわれ自身です。その意味で「一切衆生悉有仏性」と言えるのです。ヒューマニズムの貫徹によって全ての生命との有機的な統一を見出します。

 毘廬遮那仏や大日如来は視覚的イメージとしては無量の光です。実は阿弥陀仏も無量の光なのです。光は慈悲という感情の表現なのです。ですからコスモスが法身仏の現れであるという立場からは、慈悲がコスモスを作り、支えていることになります。

□これはユダヤ教、キリスト教の『バイブル』とも共通しますから、宗教的対話の基礎になりうると思われます。

□そこで再びプルシャ(原人)観の伝統に戻って考えますと、コスモス全体がプルシァ(原人)から生じたという発想が大乗仏教の仏身観の潜在意識的な支えになっていると思われます。

□そのことは個物とコスモス、個体的生命とコスモスとしての大いなる生命、個人と人類、身体と人間環境などの一体性ということです。

□感覚論で言えば、「空をみたら自分は空、海を見たら自分は海、花を見たら自分は花」ということですね。

□感情論で言えば、「物のあはれを知る心」と本居宣長が表現しました。宣長の「もののあはれ」論は実は、陽明学の「万物一体の仁」という発想からきているのではないか考えられます。「人間の心は天地の心である」というのが陽明学の立場です。

□天台宗では平安時代の後期になって密教化が進展し、「山川草木悉皆成仏」という天台本覚思想が唱えられました。

□環境的自然も皆仏性をもっており、成仏できるのだということです。これは仏教のアニミズム化として近代知識人からは評判が悪いのですが、それらは人間生活の中で大きな位置を占めており、それぞれの物の心を人間の心にすることによって、人間は生命の摂理を知ることができるわけです。

□それが覚りだとすれば人間が覚るということが同時に山川草木が覚っていることになるのです。これが「山川草木悉皆成仏」です。

□人間が考えるということは自然や社会の諸事物が人間に自己を対象化することと捉えれば、人間の思考は事物の思考でもあるということなのです。

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