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人間論および人間学コミュの短編小説『新しい天使』

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やすいゆたか著

新しい天使

そろそろ人間論の論考も種切れになってきたので、人間論を短編小説にしたものを掲載させていただきます。


短編小説『新しい天使』

  目次

ワープ女との出会い

死へのはなむけの話

  『新しい天使』 



この短編小説は1995年頃に書かれたものです

コメント(3)

ーーーーーーーーーワープ女との出会いーーーーーーーーーーー

 榊周次は今夜も安眠できない。「うーーーん」彼は激しく圧迫されて目覚めた。

部屋の空気が寒天状になって全身に覆いかぶさってくる。満身の力を込めて跳ね返さないと心臓がつぶれてしまいそうだ。

もう何十年も週に一度はこんな体験を襲われる習慣になっているのだ。でも今夜ばかりは跳ね返せないかもしれない。寝返りを打とうにも全身が痺れて動けないのだ。ぐいぐい締めつけられる。

彼はワイフの名を呼んでいるつもりだが声になっていないらしい。「た・す・け・て・く・れ」と叫んだまま奈落に落ち込んでいるのを感じていた。それがどの位の時間だったか定かではないが、深い井戸の底にある水の中に叩きつけられて沈んでいく感覚で目が醒めた。

しかしそこは彼が寝ていた部屋ではない。

 昼間の榊が週一回勤めている大手予備校の二百人用の教室に立っていた。受講生はだれも居ない。ベルはとっくに鳴った筈だった。これはまずい。こんなことでは来年はお払い箱である。それでなくても浪人全体が激減しているのだから。

ああ予備校からの収入がなくなれば自称哲学者にして、大学非常勤講師の身では、生計はまるで立たない。もう少し待てば一人くらいは来るかもしれない。事務室で聞かれているかもしれないから授業は始めておこう。

「倫理」の講義である。彼はおもむろにテキストを開いた。そして目を上げたら、いつのまにか一人の女子受講生がいるではないか。

 「君がそこに存在するのは、私にとっては感覚的現実だ。」彼女は頷いた。いいぞ、そういえば二三度五月の前半に見かけたことがあった気がしてきた。

「私がここにいると君には見えているだろうが、それも感覚的現実だろう。本当に感覚しなくても存在すると言

えるかどうかは断定できない。ひょっとしたら君は君の夢の中で私の授業を受けているかもしれないじゃないか。」これがミュージカルなら井上陽水の「夢の中へ」を歌いだすところだ。

  「いいえ、夢じゃないんです。でも現実とも言えないわ。だって私は今まさに死につつある、死に向けてまっさかさまに落下しつつある存在なんですもの。」

咄嗟にこいつは気が触れているなと覚った。

倫理の授業を担当していると何年かに一人はノイローゼか分裂気味の受講生が居て、講師室に来てなかなか帰してくれないことがある。こいつは本格的な症状だ。

でも貴重なお客様である。こちらから逃げだすわけには行かない。

「そうだ、その通り。素晴らしい比喩だね。人間は『死に至る病』だとキルケゴールは絶望の意義を説き、ハイデガーは『死への先駆的決意性』として人間の実存を説明している。これらは頻出だ。」内心は圧倒されて舌がもつれてきたが、平静を装っていた。

 「話をフッサールに戻そう。フッサールの現象学は直接は出題されていないけど、現代思想の背景として重要だし、現代文の解釈にも必要な場合があるんだ。ハイデガーの『存在と時間』の前提には、ユキスキュルの環境世界論とフッサールの現象学があるんだ。」

いけない!こんな説明ではきっとチンプンカンプンだ、ここは大学ではない、予備校なんだ。今時大学でもこんな説明の仕方をしては、学生に逃げられてしまう。

 「ああ、君は久しぶりに来たんだし、今日はお客様は君一人だけだから、特別に今日は君の聞きたい範囲をやろう。」

彼女は榊の目をじっと見つめて、小声で囁いた。「私はもう受験生じゃないの。だってビルから飛び降りてしまったんだもの。だから後、数秒で死んじゃうのよ。そんな私にはなむけになるような講義を聞かせてください。」

こいつは完全に自分の世界に閉じこもっているな、榊は二の句が継げなかった。

「彼に騙されていたの。私には彼が全てだったから、こうするしかなかったのよ。でもね、落下しはじめて二・三秒経ったかしら、目の前で塵が極彩色に輝いたのよ。そしたら先生の『華厳経』のお話を思い出したの。

『法身仏である毘盧遮那仏は、一にして全であり、宇宙の全ては毘盧遮那仏の現れなのだから、そう捉えれば塵だって御仏なんだから極彩色に輝くんだ』ておっしゃったでしょう。

 まさか本当にそんな体験をするなんて思ってもみなかったけど、死の間際の刹那になって極彩色に輝く塵を見たのよ、ああこれで納得して死ねると思ったわ、でもその瞬間、先生に会ってもう一度講義を聞いてみたいと切実に思ったのよ。そしたらほら、その瞬間ここにワープしていたの。」

「そりゃ教師冥利に尽きるよ、ありがとう。でもまるで、『ドラエモン』の『どこでもドア』みたいじゃないか。」

「信じてくれないのね。そんなこと言ってるうちに、私は地面に叩きつけられて死んでしまうのよ。」

 割に無表情に感情を交えないでよくこんな事が言えたもんだ、もうからかうのもいい加減にしてくれ、榊は少々苛立っていた。

 「何を言ってるんだ。もうだいぶ経ってるじゃないか、君が現れてから。本当に飛び降りたのならとっくにお陀仏しちゃってるよ。」

 「信じてもらえなら仕方ないけど、彼は医学生でね、私は国文科の学生だったの。だけど、彼は医者同志でないと結婚したくないって言うのよ。私も医者に成れたら結婚してもいいって言ったから、私は退学して医学部に入り直す為に予備校に入ったのよ。

 でもね、彼がそういったのは私と別れるためだったの。彼は以前から二股をかけていたのよ。それで私を棄てて、他の女についていったのよ。きっとあの女は体で誘惑したんだわ。私はせめて二十歳になるまでは純潔でいたかったの。そんなことにこだわったのが間違いだったのね。」

 結局彼女は恋愛相談に来たんだな、榊は少し落ちついた口調で語りだした。

 「君は素晴らしいよ。純潔にこだわるのは流行らないみたいに言う人がいるけれど、そういう問題じゃないんだ。安易に肉体で結びついちゃうと、本当の心の深いところでの結びつくことはできない。結婚まではハートのつながりを深める事に集中するのが大切だな。それで敢えて、肉体関係を持たないようにしようとする君の愛は、純粋で美しいよ。しかも命懸けの愛なんて、アンビリーバブルなぐらい凄いよ。今時、女子中学生でも援助交際とか言って、簡単に体を売ってしまうのもいるっていうじゃないか。」

 「やっと信じてくれたのね。だからお願い。私の死を飾るのに相応しい感動的なお話を聞かせて。」

 榊はそんなことを信じる筈もなかったが、これは話を合わせておくしかないと観念した。だって相手は気が触れているんだから。

 「君の話が本当なら、君のその体は生の肉体じゃなくって、心霊学によると、幽体だってことになるね。いわゆる死の直後によく起こるって言われている幽体離脱だ。

幽体離脱は『源氏物語』に出てくる六条の御息所の生霊の例もあるように死の以前にも起こりうると言われている。

それからほんの数秒の刹那が、幽体の体験では数分にも数時間にも成りうるというのは、なかなか興味深い現象だ。私は元来科学的な人間だから、心霊現象もオカルトも一切信じないが、そのことは棚上げにして、思考方法のチャンネルを現に起こっている事態に順応させることにしよう。その方がずっと面白いからね。

ほらいつか何か信じられないような不思議な体験がわが身に起こらないかと誰だって期待しているじゃないか。UFOがいつか現れるのをみんな密かに期待しているようにね。遂に今、こうして君というお化けみたいな存在が現れた!実に記念すべき瞬間だ!時間の相対性理論をこうやって体験できるなんて、やはり私は選ばれた存在だったのかもしれない。」

 「それが私の死へのはなむけの講義なの、あまりピンとこないわ。もっと胸が熱くなるような話が聞きたいのよ。」

そりゃあそうだが、何の準備もなしに、今死につつあるうら若き女性にはなむけの講話を突然思いつくわけがないじゃないか。そんなの文学部唯野教授でも無理だ。何か言い訳を考えなくちゃ。

「大丈夫だよ、大丈夫。」

「あと数秒しかないのに大丈夫はないでしょう。」

「君は私の素晴らしいはなむけの講話を聞きたいという一心でワープしてきたんだから、それをさせたのは君自身の能力じゃないだろう。君は元々そういう超能力者だったのか。」

「いいえ、普通の女の子よ、みんなはわたしのこと神秘的で美しいって言うけど。」

「最近視力が衰えているから、ここからだと君の美しさがよくわからなくて残念だな。ともかく君をワープさせた力の存在は認めなくちゃいけないよ。すると、君の願いが叶えられないのに、君が死んでしまうというのはその力ある存在にとっては、自己の無力を示すことになってしまう。」

「そんな言い訳、してもいいわけ?」

「おいその駄洒落はこっちの十八番だよ。」

「ともかく回りくどいけれど、神さまが先生の素晴らしいお話が終わるまで私を死なせないってことね。」

これが今死につつある者との対話だとはとても思えない和やかなムードになってきた。

 「死に際というのが、人間にとって一番肝心な時なんだが、既に何もできないし、辞世の句が作れたら、それがベストとしなくちゃいけない。浄土教で時宗の一遍上人は、常に今を『臨終の時』と心得ていたんだ。すると『南無阿弥陀仏』を唱えるしかないじゃないか。だから一遍上人にすれば人生は『南無阿弥陀仏』の五文字に尽きるわけで、それ以外に真実の言葉なんてないからといって、自分の著作を全部燃やしてしまったんだよ。

 阿弥陀仏は無量の慈悲の光という意味でもあるんだ、だから君が極彩色に輝く塵を見たのも阿弥陀仏に包まれて浄土に行こうとしていたのかもしれないね。」

 突然、彼女は眉間に皺を寄せて、語気を強めた。

「無責任な慰めは要らないの。人生は一回限りだから、実存が成り立つのでしょう。死んでも浄土や楽園で生きていたり、地獄でもがいていたり、生まれ変わったりできたら、本当に死んだことにならないじゃなかった?

 自分は浄土なんて信じてもいないくせに、今死んでいく者に浄土を説くなんて、罪深いことだわ。」

 こりゃやられたな。じゃあたった一回の人生簡単に投げ出して死んでしまうのはどうなんだ、罪深くないのか?

 とはいえ、飛び降り自殺やワープなんてどうせ嘘に決まってるし、もし飛び降りたのなら、それなりの深刻なわけがあるんだから、今更説教するわけにもいかない。

 「そうだな、確かに。だから親鸞は、法然上人の話は、みんな絵空事で阿弥陀仏も浄土も幻想かもしれないが、自分は法然上人に騙されてもいいから専修念仏に従うと言ったんだ。それは弥陀をひたすら信仰して念仏三昧をしていると、生死から離れられずに煩悩に苦しむ生き地獄の只中で阿弥陀様に包み込まれ,抱擁される自然法爾の境地が味わえるんからなんだよ。その境涯では、おそらく時間も空間も溶けてしまって、過去や未来なんてどうでもよくなる。時というものが消えてしまうんだな。」

 幽体かもしれない女は今度は神妙に頷いた。

  「塵が極彩色に輝いた刹那は、ひょっとしたらそれに近かったのかな、私も。それで時間がほとんど止まってしまっている状態なのかもしれない。」

 榊は不安をかき消すように念を押した。

「この空間ではちゃんと現実の時空はあって、時間も普通に経っているんだ。でも君が落下している生身の空間ではその間に何万分の一秒しか時間が流れていないということだな。」

「それじゃあ、人生は一睡の夢というのも単なる例えじゃないのね。」

 話を女の妄想に合わせているうちに、榊周次は自己の存在に不安を覚えはじめていた。もしこの女の投身話しが本当なら、幽体が飛び込んできたこの次元は、落下しつつある身体の現実の次元の数万分の一秒が何時間にも当たるような次元だということになる。

 そんな世界が同じ地球上に同時に存在し得るだろうか。ひょっとして彼女の幽体が飛び込んできた瞬間にこの時空は、それまでの時空間から極端にずれてしまったのかもしれない。おいおい、これが小説なら筒井康隆の多次元宇宙論の二番煎じになっちゃうじゃないか。

 「もし君の話が本当なら」

 「あらまだ疑ってるんだ。」

 「だって幽体にお目に掛かったのはなにしろはじめてだからね。簡単に信じたら馬鹿だと思われるよ。」

 「じゃあどうしたら信じてくれる。」

「もしいやじゃなかったら、握手させてくれる?幽体の感触というものは独特だろうと思うんだ。」

 「そんなこといって私の体に触れたいのじゃないの?」

 「おいおい、そういう言い方はよしてくれ、嫌な思い出があるんだ。去年の事だけど、質問に来た女性のシャーペンを借りたときにどうも指に誤って触れてしまったらしいんだ。そしたらその数週間後になって、突然セクハラだったってその女性が言い張って、それから半年以上も悪戯電話攻撃をかけられた苦い思い出があるんだ。それですごく疵ついたんだから。」

 精神を病んでいるのは、この幽体を気取る女性も、セクハラ被害妄想女も同じだ。榊はぞっとして表情を強張らせた。

 「あら女性恐怖症になったの。可哀相だから握手させてあげるわ。」

 「あくまで幽体感触検査だから変にとらないでくれ。ーーーなんだやっぱり普通の感触じゃないか、柔らかい女性の少し冷えた感触だけど。」

 「それで幽体でないことは断定できるの?」

 ここで怒らせてはまずい、また尾を引きそうだ。あくまで相手は精神異常なんだから、うまくかわさないと。

  「もちろん断定は禁物だ。足が有れば幽霊じゃないという証拠とは言えないのと同じだ。幽体も目に見えたり、触れたら感触がある場合もあり得るんだ。それなりにパワーを持っているからね。」

 自分で何を言ってるのか、分からなくなりながら、榊はどうやってこの気の毒な恋で気の触れた女をおとなしく帰らせるか思案していた。

 「来週まで待ってくれないか、それまでにきっと、君が納得して死ねる話をまとめておくから。」

 「そんなーー、もう後零点数秒しかないのよ、私の命は。それまでに死んだらどうしてくれるのよ。」

 なんて事を言うんだ、勝手に飛び降りておいて、本当に知ったことじゃないよと榊はいらいらしていたが、そんな気持ちを気取られないようにしながら、

「じゃあ明日は大学の授業に穴を開けて、午後三時半に出てくるよ、君のためだけにとっておきの話をかんがえておこう。」

 そういうなり、さっとドアの所へ行き、「じゃあね。」と言って、ドアを開けた。
-----------------死へのはなむけの話---------------------              

 するといきなり眩しい真っ白い光に包まれて、空中に浮き上がり、体全体が光の中で消えていくのを感じて、恐怖の余り、目を醒ました。目を醒ましたとたんに全ては忘却していて、普段の月曜日の朝を迎えていたのだ。

 「あなたこわい夢でも見ていたの?うなされていたわよ。」

すごく疲れていたが、何も覚えいないので、

 「ヘェー夢のなかでも悪戦苦闘してるんだな、きっと。せめて夢ぐらいは楽しい思いをしたいよ。ところで今日は何曜日だった?」

 「昨日は月に一度の学習会で日曜日だったでしょ。だから月曜日。」

  今日は緑地の大手予備校の講義だ。受講生が減っていなければよいが。午後三時半からの講義の直前までまったくいつもと変わりなかった。しかし教室のドアを開けたとたん、白い光が差して目が眩んだ気がしたが、それは一瞬で、教室には一杯の受講生で溢れていた。

 十月のこの時期に四月と変わらない数である。一体どうしたんだ、教室を間違えたのかなと思ったが、みんな倫理のテキストを出していた。

 「ええーと、ハイデガーからだったね。ハイデガーと言えば、筒井康隆を思い出す。ほら断筆宣言で話題になった、そうだ『時をかける少女』なら知ってるだろう。

 彼は、ハイデガーが好きでね、ハイデガーについての講義をテープに吹き込んでるんだ。彼の作品にかなり評判がよかった『文学部唯野教授』ていうのがある。その主人公の唯野教授は作中で見事な文学理論の講義をするんだ、それも軽い東京の若者言葉の乗りでね。きっと予備校で唯野教授が講義をすれば、バカ受けするに決まっている、超人気講師で年収億を超えちゃうかもしれないなんて。それでね、その作者の筒井が講義すれば、さぞかしハイデガーもおもしろいだろうと思って、そのテープ買って聞いたんだ。

 そしたらそれが別に大しておもしろくもないんだ、やっぱり唯野教授の講義もフィクションだからおもしろいんだなということ。それでぼくがね、筒井康隆の『虚航船団』という最高傑作を論じた論文の中にそのことを書いておいたんだ。それが掲載された雑誌を本人に送ったんだけど、反応無かったな。まあいいか。」

 あれ、この話し、去年までは爆笑を取ったのに、今年は駄目だな。白けてるよ、みんな。

 「『現存在』という言葉は、現に今ここにある存在ということなんだ、どんな物でもそうなんだが、そのことを自覚的に意識するのは人間だけなんだ。チョークや机か犬が現存在についてその意味を考えたりしないね、分かります?

 それで現存在はどういうあり方をするかっていうと『世界ー内ー存在』というあり方をするんだ。これは世界が容れものみたいに、先ずあって、その中に人間が入っていくというんじゃないんだ。世界がこの教室だとすると、外からこの世界に入ってくるというんじゃないんだ。常に世界と共に有るというあり方なんだ。

 分かりにくい?じゃあ、やってみようか、こういうのじゃないということだよ、ハイデガーは。教室から出て、入ってくるよ。」

 こんな授業の展開だとますますこんがらがらせるだけかな、と後悔しながら、教室からいったん出て、また入ってきた。すると、また真っ白い光で目が眩んで、今度は急に暗くなった。脳卒中かなにかの発作かなと思ったが、教室の中は薄暗くなり、だれもいない。確かにさっきまで満員でザワザワしていた受講生はどうなったんだ。ええー、自分の勘違いかな、白昼夢でも見ていたのか、だが全員欠席というのはおかしい、せめて十人はいる筈だ。ともかくもう少し待つしかないな。

 何気なくテキストに目をやった瞬間、一人の女子受講生が座ったままこちらを見つめていた。一人でも授業を続けよう。

 「君だけだから、君のリクエスト授業ということにしよう。」

 「先生、約束よ。私だけの為の死へのはなむけのお話し、考えてきてくれたんでしょうね。」

 その瞬間夢の記憶が生々しく蘇ってきた。あまりの事態の展開に気が動転して、榊周次はその場にへたり込んでしまった。だって夢の世界が現実の世界に闖入してきたからである。

 今朝目覚めた時には忘れていたが、それ以前に見た夢で出会った女である。投身自殺の最中にワープしてきたなんて言っていた、気が触れた女だった。確かに目覚めた筈なのにまだ夢の中だったのか、あんなに現実と思っていた日常だって夢だっていうことになると、いったい何時から自分は夢を見つづけているんだろう。

 「君は、後零点何秒で地面に激突して死ぬ筈だったのに、まだピンピンしてるじゃないか。」

 「だから早くして、もう時間がないわ。」

 「あれから夢から醒めて全部忘れていたから、何も考えてないよ。それにどうせこれは現実なんかじゃなくて夢なんだから、別にいいじゃないか。」

するとワープ女は絶叫した。「先生にとって夢かもしれないけれど、私にとっては紛れもない現実なのよ!」

 高が夢のくせにそんなに真剣になるなよ、と言い返したかった。

 「そんなにわめく位なら、男に捨てられたくらいでビルから飛び降りるなよ。今更、最後の言葉だなんて生にこだわることはないだろう。どうせ幻想の生なんだ、君の存在も、君の死へのダイビングもみんなぼくの夢の中の意識に過ぎない。そうだと分かったんだから、君の死へのはなむけの言葉なんかもう思いつけっこないよ。」

 榊は、夢の中では道徳的義務感や他人への同情心で行動する必要はない、自分のきままで好きなように過ごせばいいのだと思っていた。夢の中まで誠実でいい人なんてやってられないのだ。

 「あーら、げんきんなのね。先生が現実だと思っていた今日の出来事も、全部夢だと分かったのでしょう。だったら夢と思っていることが、現実だってこともある筈よ。」

 「それがね、夢と現実ははっきり違うんだ。現実だと受講生がみんなパッと消えたり、ワープ女が突如登場したりするわけがない。それに夢は意識にすぎないけれど、現実は生の事物を基盤にしている。飯も食わなければならないし、経済的な稼ぎも必要だ。つまり肉体と生活を維持していく営みを果たさなければならない。夢だったらそういう因果関係にはお構いなしに事態が転変していくんだ。つまり現実だと客観的な事物の連関、社会関係、人間関係を対象化して、その法則性に基づいて行動しなければならないんだ。」

 ワープ女はこの言葉を待ってましたとばかり、意気込んで語気を強め、たたみかけてきた。

 「でも現実だって、見込み違いするじゃない。既成のやり方でこれでいけると思っていたことが、急に通用しなくなることだって、しょっちゅうあるでしょう。それにね、客観的な事物だって、意識として現れているわ。人間が意識しているものは、夢と同じで、人間の意識でしかないんじゃないの。」

 なかなか現象学的にはまともな議論をする。

 「フッサールによれば、たしかに意識だが、現実だと客観的事物についての意識だという確信があるんだ。夢だと、それはぼんやりしていて、たとえば君は突然出現したり、消えたりする。それは私の意識でしかないからなんだ。」

 ワープ女は議論好きなのか生き生きしてきた。

 「あーら、変な理屈ね。だって、夢の意識がぼんやりしたものだったら、そんなに夢の中で先生が理屈をこね回せるというのは、夢と矛盾しているじゃないの。それに夢の中だって、直面している現実が、本当に現実かどうか疑っていない場合も多いんじゃないかしら。たとえこの現実が夢だとしても、夢みている間は現実として引き受けないと、先生は現実でもいいかげんな上に、夢でもいいかげんだということになるんじゃない。」

 なんと生意気な、ワープ女だ。「おいおい喧嘩を売るつもりか。俺だって精一杯頑張っているつもりなんだ。そりゃ情けない気持ちになることもあるさ。いつまでたっても定職には就けないし、予備校でだって、ベテランになるとリストラの対象にされちゃうのだからね。」ああ、夢の中でまで落ち込んでいるようじゃやりきれない。

 「もしこれが先生のおっしゃるように先生の夢だったとしたら、私が先生の意識の中に現れたのは、先生自身のピンチに陥っている、先生の現実を救うためかもしれないじゃないの。今まさに後、零点何秒で死ぬかもしれない人を感動させ、納得させて死ねるような話ができなければ、先生自身のピンチは救われないのよ。」

 さすがに榊自身の夢の中で登場人物だけに榊に対する説得力がある。

 「ということは、投身して今まさに死につつあるというのは君という他人の事だけではなくて、己自身の状況でもあるということなんだ。だから夢は夢であって、同時に夢ではなく、生々しい現実の意識でもあるということか。なる程弁証法的だ。まさに夢みている意識も身体や生活する主体の意識であって、現実の意識の置き換えなんだ。」

 それはそうだが、今まさに死につつある俺様が、今まさに死につつある人を感動させる話をどうして考えつくことができるんだろう。

 「そのお話しちょっと身につまされるけれど、いかにも同情を誘って哀れみっぽくて、感動を呼ぶってとこまではいかないわ。」

 「違うよ、これは別に感動させるための話じゃない。」
------------------『新しい天使』----------------------

 急に意識が白けてきて、眩しい光に目覚めた。

 なんと榊周次は路上で寝ていた。あーあ、俺も落ちるところまで落ちたんだ。

 これは上原隆『友がみな我よりえらく見える日は』の世界である。元芥川賞作家だってローソンで残飯漁りをやっているそうだ。榊は自分が何時からこんな生活に落ち込んだのか、まるで覚えがなかった。髭はぼうぼうだし、三つ揃えのスーツも真っ黒でぼろぼろである。

 過去に覚えがないというのは、ひょっとしたらこれは現実ではなく、夢なのかもしれない。彼はそれを確かめるために家に向かって、十キロほど歩いた。寒さが身に沁みるし、空腹がこたえ、足が重くて引きずるようだった。それらはみんな生々しい現実の証である。古い五軒長屋の借家があったところには大きな新築マンションに変わっている。

 そういえば建て替えで追い出されたのだったな。また都心への道を引き返した。途中でゴミ箱の残飯を漁る。まるで乞食犬みたいだが、その手つきが馴れているのに我ながら幻滅している。家の事を覚えていたのだから、家族がいた気がするが、もう名前はもちろん、顔すら覚えていなかった。

 俺はいったい何者なんだ。自分の名前も過去の職業も何もかも忘れていた。きっと忘れないとやりきれないからだろう。生きているのは辛いな、死にたいよと呟いていた。でも死ぬ前に一度だけでもいい、自分の生と死を納得させてくれる感動的な話しを聞きたいものだと切実に思った。

 ああ、この空気が極彩色に輝いて、俺を荘厳してくれないかなと心底願った。その時沢山のイチョウが風に舞って榊に吹きつけられてきた。なんとイチョウがキンキラキンに輝いているではないか。

 「先生、早く!もう時間がないわ。」ワープ女が叫んだ。榊は教室でへたり込んでいたのだ。

 ハッと我にかえって呟いた。「白昼夢を見ていたんだ。イチョウがキンキラリンに輝いていたよ。」

 「何訳の分からないこと言ってるのよ。私はどうなるの。」

 「大丈夫、大丈夫、どうせ全てが消えてなくなるだけだから。時がすべてを解決してくれるよ。君は塵が極彩色に輝くの見たんだろう、よかったね。君自身もその塵の一つで一緒に極彩色に輝いていたんだ。

 ベンヤミンの『新しい天使』の話しを贈るよ。今のぼくにはこれが精一杯だ。

 天使には沢山の種類があってね。永遠の昔からいて、永遠に生きつづける天使は、ミカエルとかガブリエルとかいう大天使だけなんだ。

 神様に創造されて、その役割を果たすとすぐに消滅してしまう無数の新しい天使が作られては、次の刹那に消滅するんだ。中には神を讃える合唱の為に作られた天使もいてね、たった一曲歌い終わると、お終いなんだな。

 でもね、その新しい天使たちは熱い熱い思いを込めて命の限り、神様への讃えの歌を歌い終わると、自分の命が全うでき、自分が精一杯輝けたことで至福に満ちて消滅していったんだ。

 君も君の思いを貫いて、自分の恋に燃え尽き、輝いたんだから、思い残すことはないんだ。」

 投身女は目にいっぱい涙を溜めて、少し微笑んだ。(了)

 

ベンヤミンの「新しい天使」について読者より疑問が出されました。次を参照してください。

ベンヤミンは若い頃、『新しい天使』というタイトルの雑誌の刊行を計画していた。結局は実現しなかったのだが、彼が書いた予告にはこんな一節がある。「天使は毎瞬に新しく無数のむれをなして創出され、神のまえで讃歌をうたいおえると、存在をやめて、無のなかへ溶けこんでいく。そのようなアクチュアリティーこそが唯一の真実なものなのであり、この雑誌がそれをおびていることを、その名が意味してほしいと思う」(ベンヤミン著作集13『新しい天使』晶文社)。理性崇拝に翳りがさすと<天使>があらわれる(週刊読書人 1988/10/10

私の短編小説「新しい天使」は、この文章を踏まえています。しかし「歴史哲学テーゼ」の「歴史の天使」を「新しい天使」として受け止めている方も多いようです。

次の文章は、ベンヤミンのいわゆる「歴史哲学テーゼ」である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、彼が凝視し
ている何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれてい
て、口はひらき、翼はひろげられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。

 かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフ(破局)のみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。

 たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。

 強風は天使を、かれが背を向けている未来の方へ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは(この)強風なのだ。

出典:今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』
  (岩波現代文庫)


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