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人間論および人間学コミュの石塚正英・やすいゆたか対談 

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ーーーーーーー石塚正英・やすいゆたか対談ーーーーーーーー 

ーーーーーーーーフェティシズム論の可能性ーーーーーーー

ーーーーーーーーー1『白雪姫』の原風景ーーーーーーーーー
やすいー石塚さんが「フェティシズム」に特に関心を持たれたのは何時ごろからですか?

石塚ー一九六〇年代末から七〇年代初めにかけて、学生時代からのぼくの問題関心は、唯物史観についてのマルクスの唯物史観について疎外論・物象化論・物神性論を踏まえてどうおさえるかだったのです。

□一九八二年頃になって、熊本女子大学の布村一夫さんが、マルクスの「フェティシズム」という観念はド・ブロスに由来しているので、マルクスの『ド・ブロス・ノート』を読んだ上で議論しなきゃ駄目だ、ひとつ君が翻訳してみないか、と勧めて下さったのです。

やすいーそのときにポジティヴ・フェティシズムとネガティヴ・フェティシズムがあることに気づかれたのですね。

石塚ーはい、訳していましてね、そこでやはり一七六〇年のド・ブロス自身の著作である『フェティシュ諸神の崇拝』を読みたくなりまして、ドイツ語訳とフランス語の原本を入手して翻訳したんです。

□フェティシズムとイドラトリ(偶像崇拝)の違いをド・ブロスが一所懸命強調しているので、ポジティヴ・フェティシズムとネガティヴ・フェティシズムがあることがよくわかったのです。

やすいー石塚さんの『「白雪姫」とフェティシュ信仰』(理想社)がよく売れていますね。白雪姫物語の変遷も興味深いのですが、肝心の白雪姫とフェティシュ(物神)信仰の関わりが難しいという人もいますので、ご説明願います。

石塚ー子どもと家庭のためのメルヘンとして型にはめて『白雪姫』を捉えていますと、わからないんです。兄のヤーコプ・グリムは言語学者として、古代ヨーロッパの神話の世界を史料として、あるがままに丹念に残そうとしたのです。

□実際は、語り継がれたものだから変化しているんですよ。ヤーコプには、古代ゲルマンの世界は古代ギリシアに匹敵します。たとえ近世になってフランス語で伝承されていようが、元はゲルマン語だったと考えていたのです。

□だから復元するってことは、ドイツ語に翻訳することなんです。グリム兄弟は、『白雪姫』をユグノー派のフランス人亡命者の娘から聞き取っているのですが、それをヘッセンの生粋のドイツの話だとしました。そのわけは、原話は古代ゲルマンの神話の世界に根があると考えていたからです。

やすいーじゃあ、弟のヴィルヘルム・グリムの方はどういうモチーフだったんですか?

石塚ー彼は子どもの教育のためのメルヘンに力を入れました。初版のままだと残酷すぎるといった読者からの批判的な反応もあり、一九世紀という時代に合わせて化粧していこうとしたのです。その次元で『白雪姫』を読んでいますと、フェティシズムとの関係がわからないままなのです。

やすいーでは白雪姫説話とフェティシュ信仰の関係の要約をお願いします。

石塚ーリトルド(再話)されてしまい、見えない部分があるのですが、もともとは白雪姫の実母が白雪姫の内臓を食いたいと言い出すのです。原初的な世界では、みんなで聖獣の内臓を儀式として食べました。内臓に一番神的なものがあるのです。

やすいー自分の若返りのために、若い白雪姫の内臓を食べたいと?

石塚ー美とか聖なるものの最も本質的な部分は人の顔とや容姿などではありません。物としての内臓なのです。それを自分の体内に取り入れるということ、これはカニバリズム(人肉食)です。これは残酷で一九世紀には受け入れられません。そこでお妃は猪の肝臓を食べたことにしてしまいます。

やすいーところでお妃と白雪姫というのは、実の親子だったとしたら、同じトーテムになるので肉は食べられないんじゃないですか?

石塚ー母系制だとそうなのですが、白雪姫物語だと父系制らしい。嫁入り婚ですから母だけがよその氏族よそのトーテムに属していることになります。それに、この物語が母系制だとしても、氏族員はときに儀礼を介してタブーを解消し、自己のトーテム神獣をむさぼり食うことがある。でも、そのような先史の掟は一九世紀には忘れられている。そこで実母が継母にとって代えられたというわけです。

やすいー継母にしたのはグリム兄弟でしょう。

石塚ーそうなんですが、おとぎ話にはいろいろな話がくっつきますから、継母にしたのを一概に捏造だとは言えません。ともかくトーテムが違えば、別のトーテムの神はいつだって食えますからね。

□トーテムを食うという行為には、二種類あります。神としての自己のトーテムを食うのと、たんなる食料としてよそ者のトーテムを食うのと。いずれにせよ、相手の肉を神と見なして食うというのがフェティシズムの特徴です。

やすいーそのほかに、直接フェティシズムと係わる話はありますか?

石塚ーフェティシズムの特徴はド・ブロスによるとフェティシュに対する崇拝と虐待の交互運動なんですが、母と娘がいじめあうでしょう。特に最後は白雪姫は母を焼き殺しますね。役に立たなくなったフェティシュは、食ったりせずとも、打ち棄てたり破壊したりします。この崇拝と攻撃の交互運動も白雪姫の中に読み取れるわけです。

やすいーおとぎ話とフェティシズムのつながりというのは、偶然白雪姫でつながっただけなのか、それとももっといろいろ言えるのですか?

石塚ーフェティシズムという言葉ですぐに連想するのは、ド・ブロス的なフェティシズムではなくて、フロイト的な性的フェティシズムです。

□『シンデレラ』の「ガラスの靴」などはこの典型です。フェティシュに対する崇拝と虐待の交互運動や、フェティシュが人間の下僕のようになる、ド・ブロス的なフェティシズムには『赤頭巾』や『ヘンゼルとグレーテル』などが似合いますね。

□グリムとフェティシズムの関係を指摘するには、『ヘンゼルとグレーテル』のほうが、『白雪姫』よりはるかにいい材料なのです。二人は聖なる森に棄てられますね、森で老婆姿の魔女が出てくるんです。魔女はお菓子の家へ誘い込みますね。魔女というのは本来はフェティシュな神様だったんです。それがとんでもない魔女のように一九世紀にはもはやとんでもない悪の権化のように変わっているんです。

やすいー魔女はヘンゼルとグレーテルを助けたんだけど、それはヘンゼルとグレーテルを太らせて食べるためだったという筋ですね。それでは魔女がフェティシュだったというのはどういう意味なんですか?

石塚ーそれはですね。プレ・キリスト教段階でフェティシュ神だったのを、キリスト教段階においては異教はみな悪魔信仰だということにしたので、女神を魔女にスイッチした瞬間から、優しく子どもたちを育てているのに、あれは豚の飼育と同じで、実は食うためだったという筋書きができてしまったのです。

□これは異教徒を排斥したり、異教徒の神はみんな悪魔か魔女だってことにするキリスト教の観念なのです。それが近代になってもう一つバイアスがかかります。ナポレオン戦争の頃からドイツのナショナリズムの影響が出てくるのです。

□占領下では直接反フランスを叫べません。「フランス人は出ていけ!」と叫ぶ代わりに、ドイツ語やドイツ文化は素晴らしいという形でナショナリズムを煽っていくのです。排外思想としてのナショナリズムを煽るわけですので、魔女はまさに比喩としてドイツの敵に当てられますよね。

やすいーじゃあ元の話は、森に棄てられた兄弟が優しい外国人に助けられたっていう話なんですね。食べられる話じゃなかったんだ。

石塚ーそうですよ、先ほどのカニバリズムと矛盾するという印象を受けるでしょうが、氏族社会では部外者と仲よくすることが最大の鉄則です。

□アメリカのイロコイ人は見ず知らずの部外者の人をどんどん歓待して、食欲を満たしてやるだけでなく、自分の娘も提供して性欲も満たしてやる。なんでも提供するんですよ。この歓待の儀礼から族外婚が始まった可能性があると、ぼくは予測しています。

□だから外国の人たち、部外者、異分子は素晴らしいはずなんです、フェティシズムやトーテミズムの世界では。族外者ないし族外神への再校の歓待がカニバリズムだったりしたのです。

やすいーそうしますと魔女は、フェティシズムの用語から考えて、どういう意味でフェティシュなんですか?

石塚ープレ・キリスト教時代の森や樹木の神などの自然神――のちに魔女に見立てられるもの――は、聖なるものですが、恵みを与えてくれるだけでなく、恐ろしいものでもある。そこがフェティシュの特徴で、両義性をもった存在なんです。

□だから、ある時は憎たらしくなって虐待します。しかしそれに行き着くまでは、ひれ伏していて、フェティシュである神を罵倒したり、踏みつけたりした人間の方が火あぶりになってしまうわけですよ。

□しかし場合によっては、神は人間と闘争する。これは和解を前提とした闘争ですよ。闘争と和解が交互になっています。そこから人間をいじめる方だけ強調すると魔女ができあがるのです。キリスト教時代になるとその面ばかりデフォルメされて、恵みや和解の面は置き去りになりました。

□でもプレ・キリスト教時代にはフェティシュな神だったということです。それが『白雪姫』の原型にあるんじゃないかというのが、ぼくのこの本のモチーフなんですよ。

やすいーそういう意味では、フェティシズムがおとぎ話の原型に背景としてあるんじゃないかというのは、わりあい普遍的に言えそうですね。

石塚ーだからフロイト的な精神分析の意味ではなく、ド・ブロス的な意味を了解した上でフェティシズムを読めば、よく分かってもらえるんです。でもフロイトのフェティシズムにはド・ブロスのフェティシズムが先行している。その点を忘れてもらっては困ります。まずはド・ブロスに帰れ、ということです。

やすいー早速『ヘンゼルとグレーテル』でそういうことを分かりやすく書いてください。

石塚ーやりましょう。フロイト的な『シンデレラ物語』のフェティシュとド・ブロス的な『ヘンゼルとグレーテル』のフェティシュの両方あって、それが違うのかというと、そうじゃなくて根っこは同じなんです。どちらが根っこかというと、やはりド・ブロスなんですね。フェティシズムを理解するにはド・ブロスからやらなきゃいけないのです。

やすいード・ブロスの場合、フロイトみたいにセックスにつながるものはありませんね。

石塚ーないけれど、やはりカニバリズムも広い意味では一種のセックスですよね。まさに肉体を介しての交信というか。



コメント(10)

-------------------------2宗教の起源--------------------


やすいーフロイトの場合、宗教の起原はトーテミズムからなんですが、ド・ブロスや石塚さんの場合は、フェティシズムからですね。その決定的な決め手になったのは何ですか?

石塚ーまず神観念ですね。霊的なものに成っているかということです。

やすいー霊というのは物体的なものはないけれど、精神的な作用をする主体ですか?

石塚ー今こうしてやすいさんと話しているぼくに、霊に話しかけているという意識はないです。つまりやすいさんの身体と霊とを別々にしていません。ほんとは別個なんだけど今は一緒だ、などとも思っていません。それは原初に発する神観念だとたと思うんです。心としての霊魂をぼくは否定しませんが、霊が霊だけでふわふわしているというのはおかしいと思います。霊肉の分離あるいは浮遊する霊というのは、第二段階の神観念なのです。

やすいーじゃあ、トーテミズムでは、霊が出たり入ったりするのですね。

石塚ーはい。代々受け継がれるわけですから、同じ母から生まれたら母系制では同じトーテム霊がついています。族長霊も代々受け継がれますね。

やすいートーテム動物とそのトーテム信仰をしている人間とは親縁関係にあるんですか?

石塚ートーテム獣とそれを崇拝する人間とは、大本のお母さんが一緒だというのです。死ぬとその大本のお母さんであるトーテム霊のところに戻るのです。このトーテム霊は霊のプールみたいなもので、死後五年ぐらいで一つになるんです。そこからまた霊がでてくるのだけれど、それは輪廻転生のように個人の霊魂が繰り返し生まれ変わってくるようなものではありません。トーテム信仰は霊魂と肉体を分離していますので、第二段階なんですよ。シャーマニズムも霊を呼び出しますから第二段階です。

やすいー第一段階は、だから肉体と霊を分離できると捉える以前の、肉体自体が神であると捉えるフェティシズムだということですね。

石塚ーフェティシズムの最大の特徴はそこにあるんです。物が神だから物理的にドローメノン(神態的所作)の儀礼で、神様を揺すぶってお願いするわけですよ。肉体的に神にアクションをかけるんです。

□紀元前四世紀前半、フェニキアのティルスでは、アレクサンドロスが侵略してくるというので、守り神のヘラクレスが怖じ気づいて逃げないよう、この神を鎖で縛っておいたのです。ギリシア各地に見られる翼をもぎ取られた女神もそうですが、もし霊が肉体からはなれるのだったら、そんなことをしても無駄でしょう。だからこういう扱いをする儀礼は、肉体を神とみなすフェティシズムなのです。

やすいー神と人間の位置関係からみて、どちらが優位かという視点からも先後関係が言えそうですね。

石塚ーええ、トーテミズムだとトーテム神はもはや固定されています。でも、その下にある位の低い神様は相変わらずフェティシズム的な扱いを受けて、攻撃されたりするんです。

やすいーじゃあ、トーテムの入替えは具体的な例としては見つからないんですね。

石塚ーただね、ルイス・ヘンリ・モーガンの比較民族学説では、部族の人口が増加して新しい氏族として独立した段階で、新しい神を受け入れている可能性があります。

やすいーそれは実例としてあるんですか?

石塚ーオーストラリアのカミラロイ人は、一九世紀において大トカゲ、エミュー、カンガルー、袋狸、袋鼠、黒蛇というトーテム氏族に分かれていましたが、それは元々は二つだったのです。でももともと自分たちの親はトカゲだったのに、今日からエミューだぞというのはおかしい。その点でモーガン説には批判の余地があります。

やすいーそれは実証的にはどう説明したらいいんですか。

石塚ー実証的にはどうかわかりませんが、ライヒがそれと違った意見を表明しています。もともと単独で存在しているホルド(horde)がまずあって、そこの男たちが狩猟の道すがら別の単独ホルドのテリトリーに入る。後者のホルドの男たちが狩りかなんかで留守だったなら、前者のホルドの男たちはそこで食欲と共に性欲も満たしてしまうことにもなるでしょう。そして侵入者が自分のホルドへ戻った後で子どもが生まれ母親たちと暮らす。そうなると、相互に異なるトーテム神を崇拝する二氏族が一緒になって一つの部族をつくってもおかしくないでしょう。これがライヒの襲撃説なんです。説得力がありますよね。

やすいーフェティシズムは、一つには肉体と霊魂が未分化だという意味で、肉体と霊魂を分化させたトーテミズムより古いし、もう一つは、トーテミズムだとトーテム神は固定して引きずり下ろせなくなっているのに対して、フェティシズムの神はまだ役に立たなくなったら引きずり下ろせるという意味で、固定していないからより始原的だということですね。それからフェティシズムに起原をもつ特徴として、人が神を造るというのが重要ですね。

石塚ーそれが最大の特徴です。

やすいー自然物をそのまま神にするという場合と、アフリカの木の人形のような人工物を神にする場合があるでしょう。

石塚ード・ブロスが原型にしているのは人形じゃなくて、蛇なんです。また無生物であっても、それは人工物ではないです。フェティシュの語原であるポルトガル語の「フェイティソ」というのは「加工する」という意味だよ、だから自然物というのはおかしいよ、と指摘してくれる人がいますが、その人は言葉に騙されているんです。なるほど、中世のカトリック世界では「フェイティソ」というと「呪物」や「お護り」のことを指します。ところが、そのポルトガル人が西アフリカへ行ってみると、土地の人々が蛇だとか小石だとか鰐の鱗だとかをお護りにしていたので、俺たちのところの「フェイティソ」と同じだということになったのです。

やすいーさっきのトーテミズムの話とひっかかるんですが、トーテム神にも蛇が多いですよね。トーテムかフェティシュの違いですが、それはぱっと見分けられますか?

石塚ーそれは見分けられません。トーテム信仰の時代でも、フェティシュは位の低い神として残って、相変わらず攻撃されます。つまりフェティシズムとトーテミズムは習合するので分けられないんです。でもトーテム神の場合は、霊が受け継がれますが、フェティシュですと、それが破壊されたり死んでしまうと、全く別個の蛇を捕まえてきて、儀式で神にしてしまうわけです。ですから死んだときの扱いで見分けられるということになりますね。

やすいード・ブロスの場合は、フェティシズムは原始的な信仰で文明時代には存在しないと切ってますね。でも石塚さんの場合は、習合という形で現在まで継続しているものとして理解されているのでしょう。

石塚ーフェティシズム的なものを根っこにもっているか、フェティシズムの片鱗を示しているものは、現在でも根強く存在していると考えています。

やすいーその代表的なものが、石塚さんが前におっしゃっていた、雨を降らしてくれなかったら、雨を降らせるまで縛り上げて池にぶん投げる「雨降り地蔵」ですね。それ以外にもフェティシズムの名残みたいなのはありますか?

石塚ーそういう雨乞いや病気治癒などに使われる石仏ですね。その他には六月三〇日か七月三〇日に行われる「茅の輪くぐり」があります。茅の輪をくぐると半年の汚れが落ちて、きれいな体で残りの半年を暮らし始める、というものです。元来は六月の末と一二月の末にくぐって汚れをおとしていくものだったんですが、今は六月末のが多く残っているようです。ところで、この輪というのが蛇の象徴なんです。家庭のしめ縄など藁でつくったものの多くは蛇なんです。蛇は神話の世界では八股の大蛇で、あるいはスサノヲ神です。

やすいーギリシアと日本の共通性で蛇信仰がさかんですね。先程の例でアフリカでも見られるのですから、かなり普遍的なんですね。世界中で見られるのですかね。

石塚ー南米でも見られますしね。蛇というのは両義性をもっているでしょう。一面では、脱皮して新しいものに生まれ変わり常に永遠を回復する。死んでも再生するように思われます。他面では、蛇は毒蛇のイメージで恐ろしいものとされています。崇拝される根拠をもつと同時に、恐れられる根拠をもつものが神になるんです。蛇はその意味で神に相応しいんです。でも蛇でなければならないということではありません。

やすいー蛇は地面と関係があって、農耕のイメージとつながるのでしょうか?

石塚ー蛇はモグラとか鼠の天敵ですから、蛇がいると土の中の根菜を守ってくれるんです。ですから蛇にいてほしい。焼畑の時代に蛇は神様になるんですよ。ところが米の文化の時代になると土の上に実るでしょう。その時に蛇は用なしになっていいと思うのがわれわれの発想なんですが、文化慣性の力がはたらいて、蛇という神様に宗教的な思いが残りますから、地上においても蛇に活躍してもらうことになるんですよ。それが案山子です。

やすいーああ、案山子は蛇の変形ですか?

石塚ーだって「やまかがし」(赤楝蛇)なんて言うでしょ。そのときのカカシ、あれは蛇の意味なんです。「山田の中の一本足の案山子」の山田は焼畑で、一本足は蛇なんです。「天気もよいのに蓑笠つけて」の蓑も蛇の象徴です。「八股の大蛇」ももとは「山田の大蛇」という意味ですよ。

やすいーそういう蛇に恩恵を受けているんだけれど、スサノヲに攻撃されるということで蛇は物神ですね。なるほどド・ブロス的なフェティシズムにぴったりですね。ところでヘブライ(ユダヤ)のヤーヴェ信仰ももともとはフェティシズムだったんですね?

石塚ーそう、ヤーヴェは石だったということも『バイブル』の叙述に片鱗が残ってます。

やすいー「神の箱」の中には石が入っていた。

石塚ーええ。だから神様を運べるということは、ようするに実体をともなったものが神様だったということです。トーテミズムだったら運びませんよ。御祓いして霊だけ引き出してきて、御札にでも入ってもらうでしょう。超越神だったらその必要もないですね。

やすいーその蛇と石というのはなにか関係がありそうで、ちょっと不思議なんですが、石信仰というのもわりとあるんですよね。世界的にあるんでしょう。神が降りてくるトポス(聖なる場所)としての石座(いわくら)も、超越神論が習合されたもので、もともとは岩自体が崇拝の対象だったんですね。

石塚ー巨石文化やストーン・ヘンジ(環状列石)は世界中にあります。習合された段階ではいろいろ説明されますが、起原としてはやはり石自体が崇拝されていたんです。磨崖仏も仏像を彫ったから神聖になったのではなくて、もともと神聖な岩に磨崖仏を彫ったんです。

   
----------------------3超越神論の誕生------------------

やすい―恩恵を受けているフェティシュに対して攻撃するというのが、フェティシズムの特徴ですね、これは最初は別におおらかな信仰でよかったと思うんですが、そのうちに、知識人である祭司階級などができてくれば、とても恐ろしい事をしているんじゃないかと反省するような人がいてもいいんじゃないかと思うんです。

□神の立場に思い入れして考えますと、人間たちは、いつも世話をしてやっているのに、ちょっと役にたたないとなったら、すぐ攻撃してくる、とんでもない連中だ。

□そういう恩知らずの人間は罰しなければいけない、と神は怒っておられると推察されるでしょう。そうすると神の罰がくるという恐怖心をもって、それで今までの信仰形態を変えて、神の審判を基調にして、人間が勝手に神をつくったらいけないんで、逆に神が人間をつくったという教義にしたんじゃないかと推察されます。

□それで、石塚さんのフェティシズム論の応用のような形で、「キリスト悲劇のフェティシズム」(『月刊・状況と主体』第二五二号、谷沢書房、一九九六年)を書き、その中で、超越神論の発生の論理を展開してみたのです。

□石塚さんはフェティシズムから超越神論までの展開を「なる・うむ・つくる」で捉えておられましたね。

石塚―ええ。「なる」はフェニキア神話のモチーフでして、最初に自然界があるんです。そこに人間や神様や森羅万象が自然にできあがってくるという見方です。

□「うむ」は日本神話のモチーフです。まず「天地開けし時」で開闢があるわけです。そこにイザナギ・イザナミの夫婦神が現れて、いろんな神々を生んでいきます。

やすい―ありますね、国生みといいますからね。生む神話です。

石塚―それに対して、ヘブライ人の『バイブル』(聖書)の「つくる神話」というのは、開闢がないんです。最初から神が超然たるものとして、あらゆるものをつくりだします。

やすい―だから人間も神によってつくられることになりますね。

石塚―ええ。でもフェニキア神話では神はみずから存在しないで、自然界の中から生まれてきます。あるいは人間が神様を選定したり彫りだしたりする。そういう意味で神に成るのです。

やすい―「なる」という段階がフェティシズムで、人間が神をつくり、最後の「つくる」段階では、神が人間をつくったのでしょう。だから「つくる」段階では人間が勝手に神を選べません。逆に神が人間を選ぶので、救われる人と救われない人が分かれてしまって、神を本当に信仰していると神が認めた人だけ、神が選んだ選民だけが救われるというパターンになってきます。

□そう考えますと、先にフェティシズムがあって、フェティシズムに対する反省から超越神論や、審判思想が出てきたんじゃないかと考えたんですが?

石塚―今のやすいさんの話を、神話の世界だけで自己完結的に語るのはおかしいですね。フェティシストは、神を攻撃しておいて、それでいて神様に大それたことをしているんじゃないか、なんて反省することは絶対ないですよ。

□フェティシズムの神はフェティシズムの社会が要求しているものなのです。それから、のちの時代になってからの超然たる神には、専制君主のような超然たる首長が対応しています。

□だから神様をぶったたいているようなフェティシズムの社会では、社会組織の中にもぶったたかれるような首長しかいないんですよ。「存在が意識を決定する」ということです。

□このことではぼくはマルクスに賛成です。説話だけの自己展開は無理ですよね。

やすい それはそうですね。背景に社会の変動がなければ駄目ですよね。ただヘブライの部族社会に超越神論が生まれたのは、非常に特殊な社会状況があったのです。

□半流浪民として部族の強固な結束が必要だったために、族長神に対する「単一神信仰」や、やはり半流浪民として河や大地等の自然に頼れないので、部族の結束を神化した「みえざる神信仰」などが超越神信仰発生の背景にあったと思われます。

□でも超越神信仰を決定的にしたのは、アブラハム以来の宿願、カナン(後のイスラエル)の領有です。

□アブラハムの時代はまだ数百人規模で、取れなかった。それがエジプト時代に増えて、出エジプトのエクソダス(大脱出)は百万人規模になっていました。数的には侵略が可能になったんです。

□民族の生存競争だから異民族を滅ぼすのは平気だったと言えばそれまでだけれど、やはりカナン人とは昔は共生していたのですから、異民族の土地に侵略するためには、相手の民族がとんでもない神への冒涜的な信仰をしていると主張して、ホロ・コースト(大量殺戮)をともなう侵略を合理化することが必要だったと思います。

□それで『バイブル』では異民族の信仰をフェティシズムや偶像崇拝として激しく排斥し、神の審判で滅ぼされて当然だとするためには超越神論という形をとらざるを得なかったと思うのです。

石塚 それはもうフェティシズムでもトーテミズムでもなく、超越神論のほうだから、政治的なものが動機であるというのは、当然です。都市国家から領土国家へと転換するときには必ず神観念が変わって、超越神論が出るんです。

やすい 一般的にそういうことが言えるんですか?

石塚 都市国家の段階はまずトーテム的ですね。それが領土国家になっていくときに、各氏族のトーテムを超えた神様が必要になって、超越神になっていくわけなんです。

やすい ギリシアの主神ゼウスの場合は、天空の神ですよね。それも比喩的に言えば超越神だということですか?

石塚 もともとゼウスはリビアかエジプトあたりから来るんです。その段階ではトーテム風だったでしょう。

□統一以前のエジプトにたくさんあったノモス(氏族共同体)には一個ずつトーテム(守護神)があるわけです。そのうちのテーべの守護神アメンでエジプトを統一していくときに、テーベの地域神アメンは元来は羊だったんだけど、全ノモスを統合するときには、もう肉体を備えていない霊のみのアメン神になっています。

□アメンというのは「隠れたるもの」「見えざるもの」という意味なんです。そうすると他の自然物の神々から超然としているから、統合する神になれるんです。統合神ができてもこれまでのトーテム神を棄てきれない者には、それはそれで信じさせておいたのです。

やすい―それじゃあ日本で言えば、天照大神もそういう超越神にあたるわけですか?


石塚―そうです。天照大神は天の岩戸に隠れますが、入るときには肉体をもっているけれども、出てくるときは霊なんです。肉体の代わりに鏡が出てくるんです。イザナギとイザナミは肉体を持って子どもを生むでしょう。

□妻のイザナミは子どもが生まれでる場所ホトを火傷して死にます。そして黄泉の世界で肉体が腐って蛆虫がわきます。妻を捜して黄泉にきた夫のイザナギは、それを見て逃げて帰ってきます。フェティシズムに近いですよね。神様が腐るのですから。

□霊的な信仰ならむしろ肉体はないほうがいいわけです。天照大神はセックスなしにイザナギから直接生まれますから、ちょっと超越的になっているんです。
ーーーーーー4オウム真理教とキリスト教の審判思想ーーーーー

やすい―オウム真理教事件(一九九四〜五年)の衝撃がひっかかっています。オウム真理教がサリンを撒いたりして、神仙民族としてオウム真理教に従わない旧人類を抹殺するハルマゲドンを仕掛けようとしたということです。

□それは「ヨハネ黙示録」を論拠にしているんです。実際「ヨハネ黙示録」の中にはほとんどの人類に対して審判を行なう神があるわけです。愛の象徴みたいに見られているイエス・キリストは、「ほふられた仔羊」としてホロ・コーストの先頭に立ってるんです。それがあるかぎり、キリスト教に対して非キリスト教の人たちは、自分たちが神に滅ぼされるのを待ち望んでいるような連中と、仲よくできるだろうかと、根源的に疑問になりますよね。

□今の時代は世界が一つに統合していっている時代ですので、文化的な摩擦が激しくなる恐れがあるわけです。だから「ヨハネ黙示録」を聖典である『バイブル』に残しておいていいのかと、本気で問いかける必要がある気がしてきたんです。

□それで「ヨハネ黙示録」を読みますと、神が人類を大量殺戮するというイメージしか伝わってこないんです。じゃあ「ヨハネ黙示録」だけにそういう恐ろしい審判思想があるのか、というとそうでもないんです。

□ぼくは『バイブル』というのは、非常に尊い愛の教えが説かれているという固定観念で捉えていたんです。神の愛の権化みたいにフェティシュ化して『バイブル』を見ていたんです。

□ところが読みなおしてみますと、「ノアの方舟」は一家族を除いて人類全滅だし、ソドムとゴモラも皆殺しみたいなものです。福音書のイエスだってかなり恐ろしい審判思想を語っています。キリストの再臨は審判のためだというイメージが強いんです。

□ユダがイエスを裏切ったのですが、彼は悪(ワル)で懸賞金が欲しくて裏切ったのではありません。だって、イエスが有罪を宣告されると首を括って自殺しているんです。

□それでキリストに対する幻滅があって裏切ったのじゃないかという気がしたんです。幻滅すると破壊するというのは、石塚さんのいうポジティブ・フェティシズムにあたるんじゃないかと思って、「キリスト悲劇のフェティシズム」を書いたのですが、どうでしょう?

石塚―パピルスに書かれたものが『バイブル』なんです。「パピルス」という語から『バイブル』も「ペイパー」も派生しました。「ペイパー」に『バイブル』を書くのは支配者に属する知識人でして、書かれたものである以上は支配の諸側面を反映しているのです。

□しかし普遍的なものだということを示すために愛の聖典となる。聖典や経典なんてみんなそんなようなもので、読みが二重になるのは当たり前だと思うんですね。

□じゃあ、何故あのような大殺戮デスティニーを説いたのか、ということですが、いつも一方的に神の方に理があるようになっている。たとえノアの洪水のように一家族以外はすべて滅ぼしても、絶対に神様は責められないんです。滅ぼされたほうが悪いわけだから。悪いほうが滅ぼされるのは当たり前だから。

やすい―悪いと書いてありますからね。

石塚―ええ。それと同時にその悪をも救い取るのがイエスです。ユダは悪いと百も承知の上で食事に招待するし、自分が捕まるとわかっていて、私を食べなさいと最後の晩餐をするわけです。

□どうして聖なる愛の神が大殺戮をするんだと疑問に思われる背景は、これをヨーロッパの宗教だと思うからなんです。ユダヤ教・キリスト教は元来オリエントの宗教です。「目には目を、歯には歯を」という言葉が『バイブル』に入っているくらいですから、かなりの部分ハンムラビ的というか、ゾロアスター的なんです。ゾロアスターにおいては善神と悪神、光と闇の二項対立で、最終的に善や光が勝つという信仰です。

やすい―『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」にもあります。光が結局イエスで、闇は光に勝てなかったというのがあるんです。

石塚―それでその闘争の場面というのは、神様には両義性があるという構えが断ち切られたときに出てくるんです。本来は善神の中に悪神があって、分断できないものなんです。

□それが分断されたのは、神観念が先史の第一形態から文明の第二形態に転化していることを示します。この転化はオリエントで開始しヨーロッパで完了します。

□第一形態では善神と悪神は分断できないから入れ替わるんです。しかし第二形態では悪神は徹底的に滅ぼされることになる。それが『バイブル』にも、愛の神がホロ・コーストをするという形で、現れているんじゃないかと思います。

□そういう意味ではイエスの言っていることはフェティシズムに相応しく、庶民のレベルでは両義性をもって読み取れるんじゃないかと思うんです。

□そして今、ハルマゲドン、麻原彰晃なんて型にはめて黙示録を読むから絶滅ふうに読めるんで、その背後には実はこもごもになった信仰形態というのがあるんじゃないかと思うんです。それがイエスとユダで、その意味では、ぼくはやすいさんの唱えた、《ユダにとってイエスがフェティシュ》だという説は、素直に受け入れられますね。ただフェティシズムには人格神は馴染みませんから、それも習合しているということになりますね。

やすい―でも「王殺し」等もフェティシズム的でしょう?

石塚―それも既に霊が移動するのでアニミズムなんです。アニミズムというのは「アニメーション」「アニマル」と語原を共通にしていて、「動く」という意味です。霊が動くのは第二形態なんです。

□もちろん習合していますから、「王殺し」もフェティシズム的なのです。ですからイエスを裏切るのもフェティシズム的です。《ユダがフェティスト》というのは、言い得て妙です。

やすい―最近『バイブル』の審判思想を読んでいますと、恐ろしい神を待望するということは、自分が審判できないから、代わりに神が審判してくれるという、審判そのものが抑えがたい民衆の衝動であり、それを神が代理しているんじゃないかという気がしてきたんです。

□ひとつのお祭りみたいな感じで、時がくれば審判が下って、自分の仲間以外はみんな殺されてしまうという期待です。これは民衆の中にある強烈な殺人願望の現れです。審判というものに、民衆は物凄く興奮してカタルシスを感じるものではないかという気がするんです。

石塚―それはフロイト的な読みとしては可能ですね。愛しているからいじめるとか、深く交わるためには傷つけ合うといいますね。また排外主義は愛の裏返しだといわれます。本来自分たちはいじめたいんだけどそれができないから、神様に代わりに絶滅してもらうという発想は、神観念を古いほうに逆上れば、逆上るほど、ないですね。

□人間を殺すという発想はないんです。共同体どうしの戦争というのはあります。でも、同じ人間と見なしてやっているとすれば残酷なんだけれど、そうじゃなければなんの残酷性もありません。相手は同じ人間なんだけど許せないことをしたので殺すというようなイメージで、はたしてハルマゲドンの原風景があったのかは、ちょっと別でしょうね。

やすい―ちょっとフロイト的な読みに過ぎるという感じですかね。でも、もちろん超越神論になってきてからの審判思想ですからね。だからフェティシズムから抜け出したところで、文明的な民衆の欲求不満というものは、そういうホロ・コーストまでいくのかなあ、と『バイブル』を読んでいてそういう気がしたんです。

石塚―けれども基本的に、闘争しあうこと自身は、次元やレベルの問題、一線を越える越えないの問題はあるとしても、これは人間的ですよね。

□喧嘩しあうことが愛情を醸しだすわけですからね。必ず交互なんですから、愛と憎しみはセットです。愛情ゆたかな人は非常に憎む心ももってるはずなんですよ。そういう意味では、人をいじめるということ自体は、ある意味では自然なものです。

□それに対して超越神論は一方的です。俺はまるごと善で、俺を信じない連中は悪だ、と弾劾するものだから、ハルマゲドンみたいなとんでもないものになるのです。

□麻原的なものは神観念の第二形態からもともとあるんじゃないかと思います。そういう意味からも、フェティシズム・トーテミズム的なものを研究しなおすというのは意味がありますね。

やすい―フェティシズムに対抗して出てきた超越神論の性格として、超越神論をとっていると無限的な力になっていくので、ただいじめあうだけではなくて、全面展開してしまい、全人類規模のホロ・コーストまでいってしまったということですね。そういう意味ではフェティシズムのほうが限界を知っている感じもしますね。

石塚―だから中世以降ドイツに現れてくる農民指導者トーマス・ミュンツァーや、ぼくが長年研究しているヴァイトリングなど、聖書でもって農民一揆や革命をやろうとする人たちの発想は、イエスに戻れというものですよ。それは三位一体のイエス・キリストに戻れというのではなくて、この地上を弟子たちと一緒に歩いていて、コムニタスやソキエタス的な世界、つまり支配や支配階層の介在していない世界をつくっていたガリラヤのイエスに戻れ、というわけですよ。それはぼくの読みでいくと、フェティシズムに戻れ、ということです。

    
ーーーーーーーーー『資本論』とフェティシズム論ーーーーーーー

やすい―千坂恭二さんによりますと、マルクスは文明の極致である資本主義こそ未開のフェティシズムのパラダイスであるという捉え方をしています。この捉え方は、アドルノ的には『啓蒙の弁証法』ということになるのですが、とてもおもしろい。

□マルクスもフェティシズム論で『資本論』を展開したときは、楽しかったと思います。マルクスのフェティシズム論の発想は、もともと貨幣からきたんですかね?

石塚―ええ。でも『資本論』初版(一八六七年)では「商品の物神性的性格」という節はありませんでした。

やすい―あれは価値形態論で膨らんでいったんですね。

石塚―『経哲草稿』(一八四四年)の段階から書いてるわけだけですが、どこかで一回反省、つまり概念の組み替えをしていますね。そして「これをフェティシズムと呼ぶ」と定義しているんです。自分なりのフェティシズム論をつくりあげたという自信がうかがえます。けれども種本になったド・ブロスの名前は一切ださないんです。原著者を軽く見ていたとも、逆にすごく意識していたとも推測できます。

やすい―フェティシュに対する攻撃面は触れられていません。人間関係を事物の関係に置き換えてしまって、事物自身が社会関係を取り結んでいるように見なすという定義です。

石塚―マルクスはド・ブロスのフェティシズム概念を知っていたのに、物に支配される疎外を強調したいので、攻撃面を含まない奇妙なフェティシズム概念を前面に出しています。

□でももう彼の時代は恐慌を体験していました。なるほで資本や貨幣は人間を支配するけれど、不用・有害になれば、商品廃棄や工場閉鎖による資本の投げ棄てが行なわれていました。だからマルクスは、攻撃面を含むド・ブロスのフェティシズム概念は重宝だな、とは感じていたと思うのです。

やすい―マルクスは恐慌を法則的に捉えて、工場閉鎖も受動的ですから、主体的な行為としては捉えていません。だから攻撃面を含む定義を用いられなかったのでしょう。

石塚―でもド・ブロスの場合も、喜々として攻撃していませんからね。役立たずだからぶったたいて無理やりやらせようとするんです。止むを得ず神様を、あるいは資本を打ち棄てるということでは、大枠は一致しています。
---------------6フェティシズムと精神分析-----------------

やすい―町口哲生さんの「モードにおけるフェティシズム」(『季報・唯物論研究』第六二号、一九九七年)は、ボキャブラリーが非常に豊富で、楽しい論文なんです。

□彼は山本燿司のアンチ・モードに強い共感を示されていて、流行に流されないで、廃墟の中に未来への可能性をみる「哀悼的想起」をキー・ワードにされています。

□それは過去になったものに普遍性を見いだして、そこに愛着もっていくというものです。そこはよかったんですが、ただ町口さんのモード論とセックス論は表裏になっているのです。深い究極の愛というのが、彼が引用しているエレーヌ・シクスーの文章にあります。

□「究極の愛とはお互いの皮膚を切り裂き、内部から血を激しく叩きつけ、甘美な深淵(夜)に身を投じること」「触覚に臭覚にこの死の領域の案内役を委ねること」というような叙述があるんです。

□これにぼくはショックを受けました。セックスをいたわりあって、互いに肌を接触させあって感じあうとか、結合における陶酔とか、そういう融合感覚で捉えていたんです。

□ところが町口さんの場合は、「内部から血を激しく叩きつける」とか「切り裂き合う」、服飾用語でいうとカッティング(裁断)ですね、それでイメージされているんです。こんな愛し方はどうですか、激しすぎてね、ちょっと危険な感じがしたんですけれど。

石塚―これを読んで最初に受けた印象を話しますと、町口さんはちゃんとド・ブロス的なフェティシズムの定義をおさえている、ということです。

□フェティシズムのことをよく、石や骨など地上の物体や物質に霊力や生命力が宿ると見なす原始信仰と定義する場合がありますね。これはさきほど話題にした「つきもの信仰」ですよ。偶像崇拝やアニミズムで出てくるわけです。

□ド・ブロスだったら、石や骨など地上の物体や物質そのものが霊や生命なんです。「宿る」となるとガレルテとも通じて、付着したり離れたりするんです。それから、フロイトのフェティシズム定義についての町口さんの理解は間違っていないですね。

□ド・ブロスでは、フェティシュは代理物ではありませんが、フロイトの定義に従っているものとしてはこの論文はいいですよ。ついでに言っておきますと、フロイトはおそらくド・ブロスを読んでいません。読んでもいなくて、逆に自信をもって喋っているのです。自信をもっている点でフロイトはマルクスと同類ですが、マルクスはド・ブロスを読んでいる。

□カッティングの箇所は印象深く読みました。近親婚タブーの解かれたとき、原ホルドに戻って、親子・兄弟姉妹を問わず、あらゆる者がオルギー(忘我・夢中)の状態で性交します。

□そこはもう一切の束縛がないわけで、殺人も殺人にならないですよ。その結果死ぬのも神に召されたようなもので、さほど問題になりません。

□肌触れあうどころか血を飲みあってまでするそういう交わりは、むしろ原始フェティシズムにはとても濃くて、トーテミズムの時代にはそれが演出されてもっと濃くなって、生贄に捧げた動物の血をみんなで一瞬のうちに飲むんです。骨以外みんな食ってしまいます。

□そういう儀礼があるので、最も根源的なトーテム、フェティシズム的な場面を、彼は感じた上で、文章にしているのかなと思うんです。そこまでいくとね、フロイト、ド・ブロスを含めたフェティシズムの重要な部分を、町口さんは展開されていることになるのです。だからぼくも久々に血湧き肉踊るという感じをこの部分で受けました。

やすい―そういうものが性の中に秘められた願望というか、本来の姿なんでしょうか?深くなっていくと、傷つけあうとか殺しあう、あるいは食べあうみたいになりますね。そういう部分が性から切り離せない性の中の根源的な要素だと感じられますか?

石塚―そう、儀礼においては性行為は生物学的に子どもを生むことと結びつきません。儀礼の要素が強かったので、生きるとか死ぬとかはよくあるものなんです。

□ある二人の男女が血族が同じかどうかは、トーテムを見ないと分からないんですよ。実の兄妹であるかも知れないんだけれど、トーテムが違っていれば、別の氏族に属するわけです。それを決定するのは儀礼で迎え入れたかどうかです。女を略奪して、自分の部族の儀礼を施せば、その部族の人間になって血族と見なされるのです。

やすい―フロイトの場合のフェティシズムというのは、人間の体の一部分や衣類を対象にする、性器どうしの結合以外の性愛を主に意味しています。

□だからフェティシュはファルス(陰茎)の代替物になっています。同性愛を防ぐというのもそこからきたと思います。本来性器結合がセックスの正常な形としたら、それ以外の形をつい追ってしまうということがあるんです。正常な形のセックスが抑圧されているときに、ついそういう物の方に行くんじゃないかと思うんですがね。

石塚―あるいは抑圧される前の原風景が出てきてしまうということでしょう。

やすい―フェティシズムという場合に、生きてる人間よりも死んでいる人間を愛するネクロフィリア、あるいは生身の人間よりも人形やマネキンを愛するということがあります。それはセックスには根源的に生への欲求だけではなくて(結果として新しい生を生み出すのですが)、死への欲求というのがあって、それでセックスも死を演じるという意味があるからだと言われます。

□よく「死ぬ!」とか叫びますよね。死と再生の儀式でリフレッシュするというのが、人間の欲望にあって、それがエロティシズムを構成しているので死体の代替に死んだ物を愛するフェティシズムが生じるんだといわれます。またモード論と関係するんですが、服もカッティング(裁断)で、体の線の出し方次第で魅力が出てくるわけです。

□ところでカッティングと死も結びつくと解釈できます。部分愛というのもカッティングと結びつきますね。ということはバラバラ事件と繋がりますね。

□だから死への欲求は、殺人衝動とも関係があると思いますが、そういうイメージが性欲の根源みたいなものにあって、それが性フェティシズムを説明しているような気がするんです。そういうように本当に言えるのか、言えるとしたら怖いような気もするんですが?

石塚―深層心理としては言えるのでしょう。近親婚タブーを設けた根拠の一つは、そんなことばかりやっていたら、生産性が上がらないからです。

□ある時期を限って、「それやれ!」というわけです。けれど時期が外れたらまた、接近するな、妹を見ても目を覆え、母親を見ても言葉を交わす場合は百メートル離れていろ、だとかのタブーを設けておくんです。

□タブーを取り払った時は「ハレ」で、それは重要なことで、そのために生きているということもあるんです。現代ではそういう意味での儀礼としての近親婚タブーはなくなったけれど、深層心理の中に「ハレ」を求めて、オルギーを惹かれて、噴き出すようなものに心を揺すぶる原初的な衝動が、人類学の研究の成果に照らせば、あると思うんです。

やすい―死や殺人欲求を演技して昇華して、代償するようなところが、セックスの本質に本当にあるんですかね。

石塚―セックスは儀礼ですからね。儀礼というのは何も神主がきて、「かしこみ、かしこみ」ってやる必要はないんです。それは心のもちようなんですから。プツンと切れてしまったら、プツンと切れるのも儀礼ですが、そうすれば世界は全てそういう世界に見えます。想像の見立てに対する実現の見立てです。

□それからわれわれは死んだらおしまいと考えるけれど、そのバージョンでは死は意味が全然違います。北欧神話のオーディーンなどはそうですけれど、善神だろうが悪神だろうが、みな死に絶えます。だから、死というのは横滑りはしても、上下に昇降したり、いわんや消滅したりはしないという発想です。それで死は永遠獲得の一番いい手段だと、望んでいくわけです。

やすい―アメリカで宇宙での生まれ変わりを信仰したカルトの集団自殺がありましたね。やはり、現代人の根底にもあるということですね。やはりセックスは無意識の欲求を代償するという性格が強いんですか?

石塚―尾崎豊が死ぬと、ファンが殉死したりしたでしょう。荻野目慶子のアパートでプロデューサーが、妻子があるのに、死んでたでしょう。あのときに死ぬのは、永遠の何かを摑んじゃってる部分があるのかもしれません。そういうのはわれわれには何も理解できません。でもそれはあるんです。町口さんの文章を読んでるとそう感じますよね。 

 
--------------7アイドルからフェティシュへ----------------

やすい―千坂恭二さんは、二〇年程前に『現代の眼』に「イスカリオテのユダ」を書かれました。それに刺激されまして、私は最近「キリスト悲劇のフェティシズム」を書いたんです。

□そこで石塚さんのド・ブロス解釈を応用して、ユダは、イエス・キリストを単なるアイドル(偶像)ではなくフェティシュとして崇拝し、裏切った人物ではないかという論陣をはったのですが、それにヒントを得て、今度は千坂さんが芸能記者の経験を生かされて、松田聖子論を書かれたんです。

□ただしド・ブロス的な読みとは関係なく論じられています。松田聖子という存在が単なる交換可能なアイドルではなく、「松田聖子」という存在がありさえすればいいというところまで、行ってしまっている、だからどんなことをしても受け入れられて、人気が落ちないというわけです。もう神みたいになっているという意味で、フェティシュになっているんじゃないかというわけです。

石塚―ド・ブロス的な読みと関係なければ、アイドルは可愛い子ちゃんで、何かブロマイドでも集めたい、サイン会があれば行きたいってくらいでしょう。それに対してフェティシュは殉死するような関係で、松田聖子対自分じゃなくて、松田聖子が完全に自分の中に入ってしまっているから、実際の松田聖子がどうするかに関係なく、松田聖子の息が切れたら自分も終わる、というような対象になってしまっているんでしょうね。

□でもアイドルというのは芸能産業の商品であり、その意味から、マルクスの商品フェティシズム論と結びつく面も考えられますね。

やすい―精神分析の議論では、どうしても精神病の分析をセックスの問題と結び付けて論じますね。潜在的な性的な願望に還元していくところがあります。でも精神病といわれるものは根底においてはセックスとは無関係ではないんでしょうが、でも一般論として考えますと、精神的な疾患は生活に疲れたり、ストレスが嵩じて起こる場合が多いと思うんですね。

□そういう意味では商品・貨幣・資本などに対するフェティシズムから、売れない、お金がない、生産性が上がらない等の経済的な困難にぶつかって、躁鬱だとか精神分裂になることもあると思うんです。フロイトはあまりやらないでしょう。

石塚―問題関心がなかったんでしょう。

やすい―でもフロイトはそういうことでは精神病は起こらないという考えですね。根拠があるんですかね?

石塚―そうですね、あるんだとは思うんですが。フロイトも所詮、エディプス・コンプレックス理論という一つの型にはまりすぎたのでしょう。弟子のヴィルヘルム・ライヒはそこをズバリついております
-----------------8言語のフェティシズム----------------- 

やすい―丸山圭三郎さんのは、「言葉の差異が事物の差異を生む」という議論ですよね。言語体系がなければ物事の区別がつかないと、それはプラトンでもイデアがあるから物事を認識できると、全く同じようなパターンだと思います。

□でも既成の言語論からは、ではそういう言葉というのはどこから生まれるのかと反論されます。普通はいろんな事物があるから、あるいは人間の行為にさまざまな行為があるから、それに対応していろんな言葉もできたと考えますよね。それをひっくり返すというのが丸山さんの特徴ですね。

石塚―物事の前後を時間的というか、因果関係のほうからみるとひっくり返ったようなことが考えられるんですよ。

□たとえば道端に菫の花が咲いていますね。菫の花を知っている人は、見ても「ああ、菫だ」と思いますよ。しかし菫の花を知らない人は、「綺麗な花が咲いているな」と思うと同時に「おや、何ていうのかな?」と思うんです。

□つまり物には名前がある。名前があることとそこに物があることは別のことですが、同時平行の関係をつくっていますし、その関係を決めているのは言葉なんです。そういうことを丸山さんは言いたいんだと思うんです。だから、まず事物があってそれに名付けをしたんだという議論とは、かみあわないと思います。そのあたりはやすいさんのほうが詳しいでしょう。

やすい―丸山さんの根底には、事的世界観があるんです。もともと事物があって、それに対して名付けがあるという場合は、まずはじめに事物がなければいけないでしょう。

□ところが彼は事的世界観で、第一次的に存在するのは事であり、物として捉えること自身が一つの倒錯という考え方があるから、人間がいろいろ区別するのは、言語で「言(こと)分け」て、客観的な事物として捉えて区別するわけです。

□動物の場合は、自分の身体的な行動で、いろいろ区別する「身分け」ですね。動物の場合は、条件反射的にやってることですから、客観的な事物だと捉えているわけじゃありません。経験則的に適応していくわけです。

□丸山さんの立場からだと「言分け」は、現実を物として捉えるというフェティシズム的倒錯に陥った上での議論の立て方になります。

□人間は人間になった時から、現実を言分けているから、人間は狂ったサルだという見方をしておられたわけです。でもそういうフェティシズム的倒錯に基づいて、認識したり、行動したりすることは、いけないことではなくて、当然のことであるとも言われています。

□つまり所詮、人間はだれしも倒錯的にしか認識できないことを踏まえた上で議論すれば、独善主義や排他主義に陥らなくて済むという立場ですね。

□そこが丸山さんの説得力のあるところですが、それはさておき、「言葉の差異が事物の差異を生む」という議論では「最初に言葉ありき」になってしまうじゃないかということですね。

石塚―旧約聖書の出だしですね。

やすい―物と事の区別というのは廣松渉さんがすごくこだわられて、おもしろい議論だとは思うけれども、それは物に対する見方が非弁証法的でした。形而上学的な物観念に則って、「物」という捉え方は駄目で、「事」として捉えなくては駄目だというけれども、やっぱりヘーゲルの弁証法以来の物を弁証法的に他の物と別個に自立して存在するんじゃなしに、必ず対立物の統一、相互依存的な関係で物を捉えるべきだという立場は正しいと思います。そうすれば別に「物」と「事」というのは、そんなに分けられないでしょう。

石塚―そりゃそうです。物があってそれを認識する自分があってはじめて関係性が成り立ちますね。ですから、全てが関係なんだ、実在物なんてないんだというのは、ぼくも考えられないことです。でもはじめに物があると言ったところで、どういう物なのかというスタンスは、時代状況や環境によって決まるわけです。

□密室に一人の男性と一人の女性だけがいたときに、その女性は男性にとって情欲をかき立てる非人格的存在であるかもしれない。その男性にとってその女性はひとえにそういう対象なんです。

□ところが白い病室で今にも死にいこうとしている女性がいたら、偶然であれ、そばにいる男性はそのときに心からの言葉を交わして、互いに人間としての尊厳を保とうとつとめます。《関係》の中に男性と女性がいるわけですよ。

□そういうものが言葉が介在して、はじめて対象が対象として出てくるものだと思うんですよ。だから言葉も無機質な言葉があるんじゃなくて、そういう関係性の中で言葉の重みとか、色合いとか決まってきます。そこではじめて物がリアルに見えてくるんじゃないかなと思うんです。

やすい―それはありますね。言葉が発生する場面にも関係してくるのですが、言語というものは、現実の関係だとか、事物との関係から生じるものです。

□そうしますと言語的認識と言語以前の知覚とかとは全然違いますね。言語的認識の構造というのを考えた場合に、物事を客観的な事物として了解することによって、世界を認識していくわけですよね。

□そうしますと言語的な認識と事物は切り離せません。事物観念が倒錯であるかどうかはフッサールみたいにエポケー(判断停止)しますよ。そしたら言語的な認識というのは、事物的な世界として世界を解釈するという姿勢と表裏一体です。

□丸山さんみたいに、現実の世界を事物的世界と捉えるのは倒錯なんだというのは、エポケーを外しているので、すごい論証が必要なんです。

□世界を事物の関係として捉える人間の認識と、それ以前の動物的な対応の仕方というのを考えたときに、やはり人間の認識の方が、善し悪しは別にして、進んでいてね、それで生活してきたわけです。

□それでやっていけてるかぎりにおいて、世界が事物の関係であるということは、人間の認識の仕方からは否定できないのです。

□いや、事とか関係を物化していると廣松さんはいわれるけれど、事とか関係も物と物との関係としてしか捉えられないというのも、これも現実ですね。

□とするなら、事的世界観か物的世界観のどちらかを選べというのは無理があると思うんです。世界を捉えるときには、やはり事的捉え方と物的捉え方を弁証法的に統一するというのが、そういうような折衷的なスタンスを取るのが哲学じゃないのかと考えているんです。それで物事を物として捉えたから倒錯だとは言えないと、ぼくは主張しているわけです。

石塚―そこでやすいさんの議論の切り札は「弁証法」という言葉なんですよね。だから言葉としては、もう逃げの一手のように聞こえますね。そこがね、納得できません。

やすい―そうなんです、逃げの一手なんです。だからね、哲学というものは、「哲学」というと哲学者の田畑さんに評判が悪いんですが、そういうものじゃないか、つまり世界を原理的に説明しようとする行為ですわね、哲学って。

□そしたら説明できないものがありますわ、特に原理的なものになると。その場合に事といっても、事を説明するとき物で説明しなければならない。物といっても、直接的なものとして捉えたら、それは事態である、事であるとしか言えない。じゃあそれを統一的に捉えるとしたらどうしたらいいのか、弁証法としか言えないんですよ。

□それは未熟な証拠ですけれど、しかし中身は後で豊富化していくべきです。哲学止揚派からは、そういうように捉えることがいけないんで、哲学を止揚しようと言われるんだけど、やはりわれわれは原理的に考えたいんです。

石塚―何ですって、中身ですって? ほんとのこととか、ほんとの自分というのを探したって虚しいんです。何かを演出している自己、父親としての自分、教師としての自分が事実なんです。しかし自分からしてみると父親としての自分は部分でしかないから、それを超越したほんとの自分がいると思いたいわけです。

□これは倒錯なんですよ、けれどそこからしか始まらない。それは自然なことなんですよ。それでやっとアイデンティティを確立するわけです。自己なんて倒錯なんですよ。けれど物事をひっくり返って考える、あるいは関係性の意中で考えるのはごく自然なことなんです。

□それから、たとえばストーブは寒いときに部屋を暖めるものとして意味があるんで、夏には邪魔なだけでしょう。そういう関係性としてのストーブが存在をこちらにアピールしてくるんです。

□関係性を超越した単なる物としてのストーブは、何の意味もないんです。だからやすいさんのいう「事」は、何かの価値をもって面している事であればいいと思います。

□また「物」は、関係性としての物なんですね。そういう意味では裸の物なんかないよと言われても、やすいさんとしても自分もそう思うよと言えるわけです。関係性が重要だと言われても、その通りということで、軽くいなせます。

やすい―ぼくが何故物にこだわるかと言いますと、それは事とか関係という場合に、主体として、総体として捉えられないじゃないかと思うんです。

□だから「立正大学」とかいろんな組織とか事物でも非常に関係的な存在がありますね。それも他のものに対しては関係主体として、存在しています。

□そんな「主体」とか「実体」とかないんだと切って、物事の説明が付くのだろうか、難しいと思うのです。わりと簡単に現代哲学は、「実体・属性」や「物」というカテゴリーを切っていったんです。

□せっかく今まで、ヘーゲルやマルクスが温めてきて、発展させてきたカテゴリーをパッと切っちゃっていいのかなと疑問なんです。ちょっと酷いじゃないかなと思います。それよりも現実を説明する際に、そういうカテゴリーがあったほうが、物事を「主体」や「実体」を使って説明できるわけです。

石塚―あると仮定するわけでしょう。それが先ほど言いましたフェティシズム的な物の見方で、それは素晴らしいことなんですよ。《俺の本質》なんて、いくら間探ったって、らっきょの皮を剥いているのと同じで出てきません。

やすい―でもちゃんと石塚さんが主体・総体としてあるわけです。

石塚―ある、ある。でも、むいていっても主体なんて出てこないんです。

やすい―でも、あると考えることがいいことなんですよね。

石塚―ないのにあると考える、それがぼくに言わせるとフェティシズムです。

やすい―ぼくには、それをフェティシズムと言わなくてもよいと思えるんです。そのまま素(す)で捉えたら独断になると言われそうですが、よく考えますと、哲学というのは、独断論では駄目ですが、でも推論なんです。

□だから世界観とか世界を説明する場合は推論的に、唯物論が正しいとか、観念論が正しいとか言うわけです。そんなものどちらが正しいなんか言えないわけで、本当はわからないことなんです。でもどう考えてもこうとしか言えないんじゃないかという推論はあるんです。

□そうすると現実に生活していますと、ご飯を食べたり、服を着たりしないといけないということで、物質的なものが基礎になっているので、唯物論的な考えが真理なのだと、哲学的な世界観として言えるわけです。

□では、ほんとうに世界が事物から構成されているというのが正しいのは証明できるのかというと、それはなかなかできません。でも推論としては充分言えるんです。フッサールでも推論としては本質とかそういうことは否定しないでしょう。

□ですから哲学というのは、推論的なものである以上、推論するということは大事であって、推論を展開したからといって、それは自分なりの考えなんです。その考えというのは、自分はそうだと思っているのだから、正直に言えばいいんで、幻想とか倒錯だとか思わないでいいんです。ところが石塚さんの場合は、フェティシズムなんだけど、それはそう思っていいんだよというような感じですね。
------------------9組織体フェティシズム----------------

石塚―やすいさんは「グラムシのフェティシズム論」(『情況』情況出版、一九九七年七月号)で「組織体をフェティシュとして倒錯的に崇拝し、それに精神的に依存してしまうところを問題にすること以前に、組織体という実体的な捉え方自体がフェティシズムだということになってしまえば、フェティシズムは二重になってしまう」と論じておられます、これはぼくは二重でいいと思います。

やすい―ぼくは別に組織体が存在するということは、現実に立正大学があるし、それでいいんじゃないかと思うのです。だからその立正大学が、ほんとの大学であるかどうかということで、立正大学は「大学」という名前が付いてるから、それだけの理由で、これは大学だと思ったら、これは組織体フェティシズムになってしまうというんです。

石塚―そこで問題なのは、じゃあ何が大学かという理想の雛型をやすいさんがもっているんじゃないかということです。それに照らすと、立正大学なんて大学の体(てい)をなしていないということになってくるんです。それこそがネガティブ・フェティシズムじゃないかなと思うんです。

やすい―それはグラムシの理論からきているわけです。

石塚―「ほんとの大学」という言葉をつかうというのは、やすいさんにはもう大学とはこういうものだというものがあるんです。大学教員とはこういうもんだ、研究して、業績上げて云々、というのがある。そこから照らすと今の大学教員はなってないとした場合、その大本の「ほんとの」という、今もう糞みそにいわれている「ほんとの」というのを、依然として守っておられることになります。

やすい―教会にしても党にしても、そこで構成員が自分なりの役割を果たしていないにもかかわらず、教会なり党なりが、教会や党としての役割を果たしてくれると期待してしまうところがあるでしょう。しかしそんなのは幻想なんです。自分自身は何もしていないのに、どうして教会とか党がちゃんとした形で存在できるんだ、できないだろう、とグラムシは言うのです。「大学」という名前だけ付いていると、大学だと思っている。

石塚―実態としては、内容がともなわないものが、内容としてあるかのように言っている。それが転倒だというわけですね。「集団的組織体の抽象、一種の自立した神性が存在するように考えがちである」とありますね。問題は、自分の代わりに自分にとって利益になることをしてくれていれば、何も問題ないでしょう。

やすい―そうですね、期待通りだったらいいんです。その場合にグラムシが言いたいのは、組織体と自分を切り離したら駄目なんだよ、自分自身が組織体の現れで、自分と組織体を一つとして捉えなければいけないのに、捉えなかったらフェティシズムになってしまって、組織体がひとりでにはたらいて自分の願望を叶えてくれると思い込んでしまう、この思い込みがいけないんだということです。

□ところで教会というのは、実はその思い込みに依拠しているんです。だから教会の構成メンバーは教会に対して主体的にかかわったり、教会の運営にいろんな意見を言ったりされることはかえって困るんです。言われてしまうと教会は潰れてしまうというわけです。

□だから教会に属すればそれでいいんだ、教会の命令はなんでも聞きなさい、そうでないと神様に罰せられますよ、というわけです。こうして主体性だとか参加だとかの民主的な契機を全部否定したほうが教会は成り立つんです。だから教会こそフェティシズムの典型なんだという議論をグラムシが展開していたんです。

□彼は、この組織体フェティシズム論を当時の共産党の組織問題に結び付けたんです。ボルディーガが「民主的集中制」ではもはや無理だとし、「有機的集中制」を主張していました。

□反ファシズムの非常事態だったですから、党中央のヘゲモニーが重要でしたので、時と場合によれば、党中央は党の代表だからたとえ党員の過半数が反対であっても、党全体を指導できることにすべきだと言うのです。

□つまり指導者原理の押しつけなんです。グラムシはこれに対して、勝手に指導者がやってしまうことになるので、党員に参加意識がなくなって組織体フェティシズムに陥ってしまうというんです。

□たとえ党が瓦解するように見えても、民主集中制は守るべきであるとしたのです。これはファシズム化への歯止めですね。ソ連の共産党はすでにスターリンと一体化してしまっていたのですから、スターリンに対する批判にもなってると思います。

石塚―過半数が賛成すればいい政体である、というのも問題です。極端な例ですが、たとえばある政府指導者への支持が増えて百パーセント近くになっちゃうと、その瞬間にみんな一切政治参加をしなくなるでしょう。なにしろ百パーセント信頼できる人がやってくれるんだから。

□代議制とは指導者に政治を任せる体制ですよね。完全無欠の議員なら安心して、自分からは参加しなくなってしまうんです。これが実は大きい問題です。汚職議員は追放しましょうというけれど、汚職議員がいたほうが我々は政治に目を光らせるんですよ。

やすい―我々は、家族や集団に対して、国家やコミュニティだけでなく、学校だとかクラブやサークルや研究会などにも強いアイデンティティを感じてしまうわけです。そのために一所懸命頑張るでしょう、それで生き甲斐も出てくるんです。何のためにわれわれは働いたりするかというと、家族生活を守るためとかが大前提みたいなものであります。

□ほんとに人間一人ずつバラバラで生きているのだったら、そんなに頑張らなくてもいいじゃないかということがありますね。ですから現実社会の生産性を維持するためには、家族やいろんな組織も必要だなということになります。

□でも組織体のために頑張りすぎると、自分を忘れてしまって、家族や会社などの組織体のために自分が潰れてしまうことがあります。

□逆に言えば、仕事に一所懸命の人は家族を潰す場合もあります。だからどこにアイデンティティを置くかというのはその人によって当然違いがありますが、どこかの組織体原理にアイデンティティを置きすぎて、つまり組織体を絶対視して跪拝する組織体フェティシズムに陥って、その人個人の精神構造が壊れてしまう問題はあります。

□でも組織体を組織体として実在すると考えること自身がフェティシズムだということになりますと、やはりぼくは納得できません。だって家族も研究会も学校も会社も現にあるわけですから。

□それが石塚さんの場合は、そういうような関係行為の中で家族がある、一緒に研究したりする中に研究会があるのだから、そういうような関係行為の中で組織体があると考えるということをフェティシズムと考えたらどうかということですね。

□それはポジともネガともなりうるわけですよね。その上で、そこで精神的に完全に依存してしまって抜けられなくなったら、ネガティヴ・フェティシズムで、それを冷静に捉えられたらポジティヴ・フェティシズムで、うまくポジティヴに生きていくのが「善く生きること」だとおっしゃるわけでしょう。

石塚―そうなんです。アイデンティティ確立のために組織は不可欠なんですね。ところが組織というのは、もともと自分にとっては自分自身と他者との関係の中でしかできないわけです。しかしそれを自分自身だと思います。そこに転倒があるんですよ。

□しかし組織を自分自身だと見なすことによって、自分は何がしかの行動に出ることができるんです。そういう意味では組織と自分を一体化させる必要があります。

□ところが組織と一体化した自分が、自分の思うがままの行動をとることができている間はいいですけれど、それが日本人だから鉄砲をもって中国人を殺すというときに、ハッとして、俺は人を殺すなんてこと考えてもいない、だけど日本人だから鉄砲もって撃たなきゃいけない、ということで組織と自分にギャップができて、いやいや従わざるをえなくなると、ネガティヴ・フェティシズムになるわけです。

□けれども、組織を取り外してしまった、組織なしの自分なんていないんですよ。いないんだけれどいろんな場での側面を結局捨象して、かけがえのない自己というのを置かないと始まらないんです。そこで自分の本質というのを想定するわけです。しかし他者との関係では必ず組織が介在するんです。

やすい―その場合に、いろんなアイデンティティをいろんな組織に置く場合に、家族としての自分とか、兵士としての自分とか、会社員としての自分とかがあるわけです。

□そういうことはアイデンティティの置き方として別におかしくないわけです。それは倒錯には当てはまりません。ですから人間は、自我というのを必ずしも身体的な自我に限る必要がないわけです。

□つまり自分自身を身体に閉じ込めて捉えるんじゃなくて、もっと拡大して捉えることができる存在です。自分を民族として、人類として、「地球生命=ガイア」としての捉え方もできます。そう捉えることは倒錯じゃないと、ぼくの場合は思うんです。

□ところがある範囲に自分を固定しても、組織体との軋轢が強くなるとそこから抜けなければなりません。そうすると、抜けられる組織にまでもアイデンティティを強く感じる必要はないので、それを自分と見なす意識は倒錯的と言ってもいいんじゃないかということですね。

石塚―その「倒錯」という言葉にやすいさんは価値観をおもちなので、問題がこじれる。とにかく「倒錯」というのはいい言葉と思っておられないでしょう。そういう雰囲気がでちゃうんですよ。組織体や自我をとりあえずあるがままに了解しちゃうということなんです。ほとんどは無意識のうちに起きてることなんです。
---------------------- 10変容する身体観------------------
やすい―身体という場合に、個々人の身体と、初期マルクスでいうと非有機的身体とか人間的自然というようなものがあって、人間自身が人間と言うとつい身体的存在だと思ってしまいますが、身体だけでは存在できないわけで、そしたら自分を拡大して捉えなければなりません。

□組織体と同一視したりすることも入るし、服を着たり、道具や機械を使ったりすることも入ってきます。そういう意味で変容する身体観と捉えますと、石塚さんの場合は、生身の身体を身体として捉える場合以外は、倒錯として捉えて、生身の身体を自分の身体と捉えるのは倒錯じゃないと言われるのですか?

石塚―指を切断して、脚を切断して、切断しきれないところが自分の身体の中心だとしますと、そんな中心はいくら探したってないですよ。けれども、精神だとか思考する部分だとかが、身体の中心であると言われます。

□それによって動かされる部分は棄てられるとしますと、ブレーン(脳)によって全てが決定されるというところに落ち着きます。だから脳が身体の中心だという議論がノーマルには出てきます。そう考えるなら、義手や義足は身体ではなく、これを補助する機器です。

□ですが、ぼくはそうは考えません。たとえば免疫をつかさどるナチュラル・キラー(NK)細胞のようなものがあります。これはとりあえず脳に関係なく、身体と感性との関連で楽しければ増える、悲しければ減る。

□その結果免疫の強度が変わって、楽しければ免疫が増えるという仕組みです。阪神大震災で落ち込んでしまったお爺さんやお婆さんたち多くは、このナチュラル・キラー細胞が減少してしまいました。それはよくない。

□何かしら生き甲斐になるようなものを見いだして、身体が活気に溢れてくると、それまで何となく死んでいったような老人たちが死なないですむと言われています。

□それは生き甲斐というよりもNK細胞という身体(の一部)が生命を救ったのです。脳というよりも明らかに体全体が生命維持に関連しているということです。あるいは、交差点で信号を見つめている歩行者にとって身につけている眼鏡は身体の一部であり、ときに生命を救うこともある。いわんや義手や義足は、それを身につける人の身体そのものです。パソコンで仕事している人たちには、それだって身体の一部です。

□こうして拡張された身体は皮膚かの内から外へと無限に広がっていきます。ただし、先ほどのストーブの例と同様、どんな関係にも置かれていない身体なんてありません。

□その時代、その場、価値観の中で身体観念が決まってくるんです。今はハイテクが手に取るように操作できるようになってきて、自分の身体感覚で何でもできたような気分になりますね。そういう意味ではハイテク機器もみな身体の一部ということです。

やすい―変容する身体と意識の関係ですが、そういう変容する身体が思考するわけです。その場合、思考する主体は脳だと言っても、思考内容は脳で決まっているわけではありません。そうすると逆に拡大していくと思考内容は、社会関係や自然環境で決まってくるわけです。

□そうしますとだれが思考しているか、その思考主体の身体というのも、社会関係だとか、事物関係だとかも含めたものによって考えているのじゃないかと思われます。今までの認識主体は生身の身体とか、自我が思考していると考えてきましたが、必ずしもそれだけとは言えなくて、やはり人間の考えを生み出しているものが思考しているとも捉えるべきです。

石塚―そうです。これは小学校五年生で覚えたことだとか、そういった事柄を抜いていくと結局は自分の知識なんてないんです。脳に浮かんでいるようなものは自己自身とはおよそ決定づけられないのだけれど、まずはそう思っておきたいという自己同一で自我を措定するのがフェティシズムなんです。

□これはポジでしょう。だからハイテク機器も含めていろんな物在を身体と考えて、拡張したいと思っているやすいさんは、そういうところに今立っておられるわけです、思考方法で。反対の事例等を見て反発したり、似たような見解に接して共感されて出来上がったのが、拡張された身体観としてのやすいさんの議論なんです。

□その議論もやすいさんのオリジナルなものではなくて、そういう中で出てきたんだけれど、今はオリジナルと思っておくのが、一番動きやすいですよ。そう思っておられるのもフェティシズムなんです。

やすい―いちばんね、近代的な主観主義的認識論に対する批判として、ぼくがもってるのは、何か考えているときに、認識主体と認識対象を置いた場合に、必ず考えているのは認識主体であって、認識対象じゃないというけれども、現実に認識対象が認識主観に入ってきて、作用しているから認識が成立しているわけです。

□コップが見えるのはコップが目の中に入って像を結ぶからです。コップの働きは全然考えないで、自分が見ていることばかり言ってるわけです。

□認識主体の働きが認識だとだけ言ってると、恣意的なものになりかねないんです。現実に人間は見えてくるものしか見えないし、考える材料が与えられたものしか考えられないわけです。そうすると認識主体というのも、主観やエゴだけではなくて、もっと事物の働きも思惟を生み出しているというような捉え方をしないといけないじゃないかな、それが欠けてたんじゃないかという気がするんです。

石塚―そういう意味で、先ほどのぼくの話は一致しますよね。ただそういうことをフェティシズムというか言わないかは別問題です。

□アフォーダンスと言ってもいい。そのへんは、言葉がすべてを決するとは思わないほうがいいですね。内容は似たようなことを言ってるんです。

□ちなみに、アフォーダンス理論からしますと、諸個人が物事を脳で判断するのは環境に備わる情報を利用しているからで、認知の軸は脳と環境の二極にあります。だから、行動していく過程で環境からの情報入力は絶えず変化し、諸個人の認知は環境に大きく影響されるのです。従来の発想でいくと、これは倒錯そのものですが。

やすい―結局倒錯という言葉をどう捉えるかという、言葉の定義の問題みたいな。ぼくの場合は認識論的な視角のアプローチが強いから、倒錯ならば間違いというようになるんですね。

石塚―ぼくは「倒錯イコール間違い」という考えには反対なんです。フェティシズムにおいては倒立ないし転倒と正立の交互性が軸になりますから、倒立がなければ何も始まらない。そこは、ぼくの廣松さんへの批判の要でもあるんです。

□つまりマルクスに即して言うと、商品のフェティシュ的性格なりフェティシュとしての商品は廃棄されねばならない。ところで、この廃棄すべき性格なり商品なりは物象化によって成立したものである。

□よって、物象化現象は廃絶の対象である。これがマルクスの読みです。ところが廣松さんは、物象化を認識論のレヴェルに拡張する。この世界はすべからく物象化された世界なんだ、世界はすべて関係としてあり、人はそれを物として認知するんだ、と。

□しかし物象化というのは、マルクスにおいては認識一般の問題じゃないですよ。人と人との関係がたんに物と物の関係として成立するだけでなく、認識主体間で廃絶すべき対抗的な物的対象として立ち現れてきたときに、物象化というものが議論されるんです。

□これは廃絶すべきものなんですよ。マルクスが使うそうした意味での物象化という言葉を廣松さんが使った瞬間に、もともとマルクスにおいてマイナスのイメージのある言葉だったものが、プラスでもマイナスでもないところへ拡張された。そこが、ぼくには納得できないのです。

□むしろド・ブロス的なフェティシズムこそ、廣松さんの言う物象化と一致しますね。物でもないものをまず物として見るという現象、これはフェティシズムではごく自然な成り行きですから。それは、先ほど例に出しました、ぼくは日本人です、と言うのと同じで、何かの実体的な表現をしなければいけないので言っているのです。その部分は、プラスでもマイナスでもないんですよ。

やすい―ぼくも同じなんだけど、ちょっと違うのは、物でもないものを物という場合の「物」の概念が、廣松さんの場合、デカルト、スピノザのような形而上学的な実体概念で捉えているように聞こえるから、事物・物に対しては弁証法的に捉えるべきだと思うのです。

□と言いますのは、現代ヒューマニズムには「物への怖れ」があって、物化とか商品化とか否定イメージで捉えます。非人間的なことと思っているわけです。

□物との対置で人間性を擁護しようとしています。現実にはわれわれは商品世界の中に住んでいますし、いろいろ物を生み出したり、物として関係したりしなければいけない生活をしています。そういう中では物に助けられているし、物のはたらきを積極的に捉えるべきです。

□そういう意味でぼくは物を活きたものとして、弁証法的に捉えるべきだというのです。

石塚―ぼくは「弁証法的」とは言わずに、「交互的」と言っているのです。螺旋的に向上するという進歩史観を考慮すると「弁証法的」となるけれど、ポジからネガへ、ネガからポジへと行きつ戻りつする運動過程でネガの部分を見てるという意味で転倒とか言っております。そういう運動中にあって固定していないネガのことを、ぼくはポジティヴ・フェティシズムに含めているんです。

やすい―弁証法だったら進歩史観になるというのに対して、交互的なフェティシズムだったら、フェティシズム史観になるというわけですね。フェティシズム的に歴史が展開してきたということを具体的な歴史の展開にあてはめて言ってくれれば助かるのですが。

石塚―一九世紀に始まる今の歴史観は、人間社会やその精神に備わる交互的二項をむりやり引き離して対立させ、現代人によって否定的に解釈されたほうの項を悪として切り棄てました。そして、この行為とその成果を進歩とか善だとか称してきたのです。

□そのような歴史像をフェティシズム史観で見直すと、すっかり様変わりすると思います。たとえばヨーロッパ諸国の植民地政策は、進歩史観では、ヨーロッパ人=優、非ヨーロッパ人=劣の二項対立と前者による後者の淘汰というように説明されます。ヘーゲルの『歴史哲学講義』が好例です。けれどもフェティシズム史観では、ヨーロッパ人の歴史と精神の核心に非ヨーロッパ性を発見し、後者によって前者を根拠づけます。世界史上の大方の文明はこうして誕生したのです。

□また、カニバニズム(人肉食)のようなものを、無知蒙昧な人間やる蛮行として、これに無条件に悪の烙印を押すとき、その行為にはすでに進歩史観ないし進化主義の価値観が入っています。まずは、それを取っ払うことです。

やすい―フェティシズムは一つの世界観として弁証法に匹敵しうるということですか?

石塚―いやね「弁証法」という言葉も、必ずしも進歩史観と結びついていませんでした。多分近世になってからですよ。弁証法そのものは〔(正→反)→合〕といっても「合」で高みに昇っているとはかぎりません。案外フェティシズムと関係あるかもしれません。

やすい―石塚さんの原始的なポジティヴ・フェティシズムに好意的な態度からは、「進歩」というものに対して、否定的な感情が感じられます。

□でも「進歩」というのは、人間が抱えているいろんな問題を、解決していかないとカタストロフィー(大崩壊)になっていくという場合に、一所懸命取り組んで解決していく、そして問題が解決されて危機が克服されたと思ったら、次の問題が出てきて、またそれと取り組んで解決しなければならないというような、人間の歴史にはそういう面があります。

□だからいろんな課題を解決しているうちに社会が変わっていった、それを発展とか進歩として見てるわけです。そのように捉えないとするとどのように捉えるわけですか?

石塚―《昔ほど劣っていて、今ほど優れている》と捉えなきゃいいわけです。だから、かつて行なわれていたことに範をとって同じことをするというのは、ちっとも退歩ではないんです。□日進月歩でハイテク機器が進歩していくので、老人は五年もすれば使いものにならなくなるというイノベーションの時代でしょう。そういう意味で老人を要らないと言ってますよね。
□しかしそのハイテクと別個のところでは、老人の智恵つまりローテクというのがあるわけで、それなりに居場所がありますよね。

□それがハイテクによってローテクの部分を排除することが、今まで進歩だと思われていたんだけれど、それは進歩じゃないんです□。反対にローテク部分を残すことも、進歩と言ってもいけない。価値観によって快楽や幸福度が違うにしても、進歩とか退歩じゃなくて、われわれの生活の局面でそれを追求できる手段と見なされたならば、それを追求していくというか、まあそういうくらいです。進歩じゃなく退歩がいいとか、反文明史観だとか、原初のアルドラドだとかいう意味じゃないですよ。だから今のハイテク技術も必要だと認めます。

やすい 一面的に技術革新されてどんどん進歩していく延長線上に未来を描くだけじゃなくて、もっと素朴な人間関係や愛情関係を大切にしていくとか、自然を大切にしていくということも大事なんだということですよね。

石塚―それを言うと、今までの科学技術の発達をマイナス・イメージで言ってるように感じられる。けれど、科学技術の発達によって得られるわれわれの恩恵はもちろんプラスの評価をしてもいいわけです。ただ、それによってもたらされるマイナスの部分を解消するってことが大事なんですよ。マイナスの部分はだれかがどこかで背負うことになりますから。突出した進歩だけ見ていても、総体として進歩しているかどうかわかりません。そういう意味で進歩史観はこのままでは認められません。

やすい―進歩史観に反対でも、反進歩でもなんでもないということですね。

石塚―そうそう、今の多くの人はみんなそういう発想ですよね。もう楽観視している人はほとんどいないでしょう。快適な生活は必要だけれども、マイナスの部分が肥大化していくままでの快適は、やばいなと思っていますよ。
--------------11商品物神の大洪水と大量廃棄---------------       

やすい―現代社会においてはどんどん生産が発達していって、商品物神の大洪水が起こっているわけです。それには表裏一体の関係で大量廃棄が伴います。そういう場合にはポジティヴ・フェティシズムみたいに攻撃とは捉えられないとしても、廃棄するということを前提で生産していますから、これはフェティシズム論からいったらどうなりますかね?

石塚―今のハイテク製品は素晴らしいと言いながら、五年から七年で潰れるように作ってあります。モデル・チェンジや部品製造中止もあって、百パーセント壊れなくても、中枢部分が使えなくなります。そう意味の廃棄ですから、それは明らかに商品フェティシズムの真骨頂です。

□今までマルクスですら考えられなかった事態です。とりあえずつくった商品は目一杯使ってから廃棄するのが前提でした。フォーディズムでもフォード自身、T型フォードをモデル・チェンジしないでいましたから。廃棄することを前提に商品物神をつくるのです。

やすい―でもそれは廃棄にポイントを置けばポジティヴ・フェティシズムですね。

石塚―そうなんです。恐慌の場合に商品や機械をぶん投げたり、工場を閉鎖したりするのも、資本家がそうすることで商品・貨幣・資本に縛られているのを断ち切るという意味でポジなんです。

□しかし、恐慌で工場を閉鎖する資本家にしてみれば何の快楽でもありません。だからポジは特定の物神の束縛から解放される意味でのポジであって、必ずしも快楽や利益をもたらすとは言えません。殺人を含むオルギーがポジだと言ったら、何がポジだこの野郎! と反発される面もあるわけです。

やすい―やはりポジティヴ・フェティシズムでも何でもいいわけではなくて、積極面もあるけれど、その中にも問題の現象はあるでしょう。

石塚―そうですね。一方で人間にとってプラスなものはポジだと言える部分と、形態だけを見て、あるフェティシュを攻撃する面を見てポジという部分とあるわけです。根本は後者のほうです。フェティシュを攻撃するのがポジティヴ・フェティシズムの意味ですよ。

□場合によって、それが人にとって快楽であることがあるんです。宗教においてはまさにそのとおりで、意地悪された神様をぶん投げるわけですから。もっとも都市を守るために逃げないようにヘラクレス神像を縛ったティルスの市民が、どれだけそれを快楽と感じたかはわかりませんがね。それはフロイト的には快楽になりますが。

やすい―ポジティヴ・フェティシズムの積極的な意義を捉えるときには、人間が神にしたものに跪拝するだけじゃないという意味での積極性があるわけで、自分が神にしたものを自分が神にしたんだから自分で壊す、だから素晴らしいというのは単純すぎますよね。

□そうでないと、商品を大量生産・大量廃棄する現代文明の問題点でも、それはポジティヴ・フェティシズムだからいいというわけにはいかないですよね。そういうものを分析する視角としてのフェティシズム論も使えるということですね、逆に言えば。そういう中で、人間が商品・貨幣・資本の原理に溺れてしまっているところから出てくるいろんな問題も、フェティシズムの問題なんです。

石塚―そうですね。溺れるというのにはネガティヴな響きがありますね。

やすい―溺れないとまたやっていけない面もありますね?

石塚―そうなんです。溺れを自覚して回復できると、これはポジのほうの意味での溺れなんですね。溺れを溺れとも思わないで、そのまま溺死してしまうとネガなんです。

やすい―いろんな場面において、いろんな使い方を根本を踏まえたうえで分野によって再定義しながら使っていけば、今まで以上にフェティシズム論の可能性は広がります。社会・人文諸科学の各分野でもっと使われるべきタームであるということですね。

石塚―ええ、それから「フェティシズム」というカタカナで書くと、どうしてもS・M(サディズム・マゾヒズム)のイメージがでますが、もともとフェティシズムという言葉にはS・Mの意味は全然ありません。

□だからド・ブロスに一度戻ってから、もう一度概念を多様化させていくべきです。「物神崇拝」とか「呪物崇拝」とかの日本語にしますと、そこに言葉のフェティシズムが生じてしまいます。

□「物神」だと神が物になったのか、物が神になったのかという混乱が生じますし、「呪物」では密教の関係で護摩だきのときにでてくるものと間違えたりしてしまう。まったく違うのです。そこで「フェティシズム」というカタカナ書きが今のところいいわけです。

□でもぼくは、平仮名で「ものがみ」「ものがみ信仰」と表記することもあります。これは松村武雄という神話学者がド・ブロスの「フェティシズム」を「ものがみ信仰」と訳したのに倣ったものです。

□「もの」も「もののけ」とか称して霊の意味で使ったりもしますし、それもよくないのかもしれませんが、漢字で書くよりはまだいいかなと思っています。(対談終了)

  

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