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人間論および人間学コミュのパース『人間記号論の試み』について

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この論稿は『月刊 状況と主体』1992年6月号(谷沢書房刊)に掲載されたものを転載しました。

-----------------パース『人間記号論の試み』について----------

              やすいゆたか著
           はじめに

--------------------- 一、ホッブズの意義と限界---------------------

 ホッブズ『リヴァイアサン』が個人を欲望機械人間、国家を巨大な人工機械人間であると把握していることがおわかりになったでしょう。

近現代の世界史は、このホッブズが成し遂げた人間観における革命が、的を射たものであった事を見事に実証しています。残念ながら彼の人間観における革命の意義を、近現代人は受け止める器量が無かったのです。それはホッブズ研究の現状が示しています。

 国家を人間として把握した事によって、人間は身体的個人としてだけでなく、集団的にも法的人格としても捉える事ができます。そして国家は、諸個人の経済活動や文化活動を包摂していますから、人間の身体だけでなく、経済的な諸事物も文化的な諸事物も巨大な人工人間の身体に含まれていると解釈する事ができるでしょう。

しかしそこから更に進んで、経済的・文化的諸事物自体まで人間社会を構成する主体として捉えていたことにはなりません。その意味ではホッブズも身体主義的な人間観の限界に囚われていたのです。




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                    二、身体主義的人間観の克服

 人間の意識活動を身体の活動としてだけでなく、身体を包み込んでいる自然や絶対者の活動の中に位置付けようとする試みは、古今東西の宗教家や哲学者達によって広範に行われてきました。

このシリーズでもいずれ「仏教的人間観」・「諸子百家の人間観」・「本居宣長の主情主義的人間観」等でできれば取り上げたいと思っています。

にもかかわらず人間自体を把握する際には、仏教や老荘思想では微妙ですが、人間身体とそこに宿っているとされる魂という精神的実体に限定されてきたと言えるでしょう。

 私は「商品としての人間論の可能性」(共著『人間論の可能性』北樹出版)や『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(青弓杜)で、人間的自然の総体を人間として把握する「人間観の転換」の立場に立てば、人間が商品であるだけではなく、商品も人間体としては人間であること、社会的事物を人間総体の構成主体として承認すべきだという問題提起をしました。

もちろん「人間」を人間身体や社会的事物を包括するカテゴリーとして使用しようという提案が、すんなり受け入れられる筈はありません。

人間身体だけでなく、パンツも鞄も机もパソコンもヘドロも核兵器も急に人間に含めろと要求されても、人間とは何かについては既に人類的に身体主義的な限定が共同主観的に出来上がっています。この確信は容易に打破できるものではないからです。

 とはいえ私も全く突然、恣意的に人間観念に混乱をもたらそうと面白半分に思い付いた訳ではありません。

舩山信一先生が人間学的唯物論として展開された主体即客体・客体即主体の論理を踏まえたものです。また、梯明秀先生の自然史的過程の思想の私なりの必然的帰結として到達したものです。

どうして松山・梯からそういうとんでもない帰結が生じるのか論証しろと言われても簡単にはできません。またできたとしても、決して「人間観の転換」を納得させることはできないでしょう。

それよりも古今東西の先哲の思想の中でいかに人間観の試みが為されてきたかを見直し、そのような試みを再評価して、我々の思想を読者と共に豊かにしていく中で、私の「人間観の転換」の冒険にも興味と理解を誘った方がはるかに生産的であると考えたわけです。

   
             三、パース「人間記号論の試み」の画期的意義

 パースの「人間記号論の試み」は、私の人間論の海の漂流記の中で宝島発見記にあたります。

と言いますのはパースの「人間記号論の試み」が身体主義的な人間観の超克の先例を示していると思われるからです。

強力な味方を獲たという興奮を三年経った今も忘れられません。時間があればもっと専門的にパースに取り組みたいのですが、デッサンに留めて、その宝が本物かどうかの吟味はプロパーの方に再吟味願う他ありません。

 ところでこの論文との出会いについては、翻訳者の山下正男氏に特別の感謝を棒げなければなりません。

何故ならパース自身は「人間記号論の試み」という表題で、この論文を書いたわけではないからです。原題は「四つの能力の否定から生じる若干の帰結」でした。

『世界の名著』に収録される際に、「帰結」の内容の画期的な意義に着目されて改題されているのです。もしこの改題がされていなければ、私が注目する事はなかったでしょう。

 残念なことにパースは人間論としてこの論文を書いたのではないのです。ですから人間論として仕上がってはいませんし、パース自身がこのユニ-クな人間論の画期的意義を充分自覚していたとは言えません。その後、この人間論を更に深めて展開Lようとした形跡も見られないのです。

そしてパースの継承者がこの人間論を完成させようとした業績を遺しているかどうか、門外漢の私には知る由もありません。

では『世界の名著』に掲載された代表的な数篇の論文だけを手掛りに「人間観の転換」の偉大な先駆者パースの業績に、スポットライトを当てることにしましょう。引用文の頁数は『世界の名著』の頁数です。
      ---------第一節 人間記号論の文脈--------

              一、人間=思考、思考=記号、人間=記号

 「人間と記号は『ひと』と『人』が同じであるという意味において同じなのである」(166頁)。これは字面は違うけれど内容は同じだという意味です。

「人間」は「記号」と全く同じ意味だと言うのですから、「人間は言語をつかう者である」とか「人間はシンボルをつかう者である」というような、ただ「記号をつかう」という意味で人間と記号が等しいのではありません。

人間は記号それ自体だという意味なのです。このような表現の仕方に近いのは私の「人間商品論」です。

 どうしてそうなるのか、引用文の前後を詳しく検討しましょう。

「実際すべての思考が記号であるという命題と、人間の生活は思考の連続であるという命題から、人間が記号であるということが証明できる。つまり人間と記号は『ひと』と『人』が同じであるという意味において同じなのである。こうして私の自我とは私の言語体系以外の何ものでもないということになる。何故なら人間は思考に他ならないからである」(166頁〜167頁)。

For, as the fact that every thought is a sign, taken in conjunction with the fact that life is a train of thought, proves that man is a sign; so, that every thought is an external sign, proves that man is an external sign. That is to say, the man and the external sign are identical, in the same sense in which the words homo and man are identical. Thus my language is the sum total of myself; for the man is the thought.

 わかり易く書き換えてみましょう。「人間は思考に他ならず、人間の生活は思考の連続である。だから私とは私の述べた言語の集大成のようなものである。ところですべての思考は記号なのだから、人間は記号に他ならない」

「人間が思考である」という人間定義は、パスカルの「人間は考える葦である」を連想させます。

あるいはデカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」を思い浮かべられた読者も多いことでしょう。ところがパースの考えは実はデカルト批判に出発点があるのです。

デカルトやパスカルの立場では「人間は考える主体である」ということにこそ人間の本領、人間の尊厳が主張されています。

パースの場合は「人間は記号である」というのですから、思考の主体というより思考過程、思考活動それ自体が人間だという捉え方なのです。第四章でデカルトとホッブズを比較しましたね。

デカルトは言語をつかう高等な思考活動まで機械である身体ができる筈がないことを理由に、精神的実体である魂が身体に入って思考活動をしていると確信していました。ホッブズは身体とは別の実体を精神活動について仮定する必要を全く認めなかったのです。

脳髄の中の生理的活動であるイマジネーションの運動として、動物のアニマル(意志的)な活動だけでなく人間の言語活動も説明してしまったのです。思考活動、思考過程とは別に思考主体を実体として想定しない、この点がホッブズとパースの重要な共通点です。
     二、人間の本質としての思考の整合性は、事物の知的性質である

 では私が身体主義的限界を破っているのではないかと注目している下りを紹介しておきましょう。先の引用文に引き続いて引用しておきます。

「以上のことを納得するのは難しいことかもしれない。しかしそれが難しいのは、人が自分の意志、つまり『肉体に対する統制力』といった非理性的なものを自分自身だと思っているからである。

しかしそういったものは、思考を助ける一つの手段にすぎない。人間の本質は、人間が整合的に行動し、整合的に思考するということのなかに存する。

そしてこの整合性とは、事物の知的性質、言い換れば、ある事物が他の事物を表示するという性質に他ならないのである」(167頁)。
It is hard for man to understand this, because he persists in identifying himself with his will, his power over the animal organism, with brute force. Now the organism is only an instrument of thought. But the identity of a man consists in the consistency of what he does and thinks, and consistency is the intellectual character of a thing; that is, is its expressing something.

 「人間が思考である」という見解に対しては、意志や感情によって行動する面を強調し、そこにこそ人格や人間性を見出す見解が対置されてきました。

カントの道徳論や本居宣長の主情主義的人間論は、その典型です。ところがパースにすればそういった非理性的なものも「思考を助ける手段にすぎない」というのです。

 パースの考えでは、意志や感情に基づく行動というものが事物の指し示している真理に従っているのでしたら、それは理性に基づく行動と区別する必要はないわけです。

ところが真理というものが事物の側になく、主観が予め持っていて、それに合わせて事物を解釈しようとするのでしたら、それが真理であるかどうか確かめる術がありません。

このような形而上学的な机上の真理は科学的真理ではありませんから、それによって事物の中に真理を示すことはできません。それを真理だと主張すること自体パースにはおよそ意味のないことなのです。

 「非理性的なものが思考を助ける」というのは、パースに従えば次のような意味です。

人間は事物の示している整合的な関係を思考にもたらそうとしますが、完全な情報が得られていない以上、それが得られるまでは、完全な真理は認識できないことになります。不完全なデータによる不完全な思考に甘んじているわけです。

しかし人間は思考の連続ですから、考えることを放棄できません。そこで根拠が明確でない断定を判断に加味せざるを得ないわけです。

ですから情感も事物の述語にすぎないことになります。小林秀雄は、本居宣長の「もののあはれ」論を評して「情感による認識論」と述べていますが、これはパースの議論に通じるところがあります。

でもパースの場合とは違って本居宣長は理性的認識より低く見ているわけではありません。

 ともかく事物の示す関係を記号として読み取ることが思考なのです。ただし「整合的に行動し、整合的に思考する」場合の「整合性」は、「事物の知的性質」であり、それは「ある事物が他の事物を表示するという性質」だと述べています。

 「ある事物が他の事物を表示するという性質」は事物が記号だという意味ですから、この事物の知的性質こそ思考そのものであり、人間に他ならないという帰結になります。
            第二節 事物の活動としての思考

                ジェイムスとの相違、「科学の方法」

 事物が他の事物を指し示す事物の記号活動が思考であり、取りも直さず人間だということは、人間の生活が思考の連続だという命題と関連させますと、どうも人間の思考過程と事物の指示過程とを全く同じ事態として把握しているように推測されます。

これはジェイムスの根本的経験論と同様な主観・客観図式の超克論なのでしょうか。

 ジェイムスは、純粋経験を反省すれば、経験の主体としての主観と対象としての事物に分かれるとしました。

ですから純粋経験の機能的なあくまで便宜的説明概念として主観・客観図式を了解したのです。

ところがパースの場合はまず事物があって、それが意識に思考としてもたらされる構造になっています。

しかも思考は、事物が事物を指し示して記号となり、更に他の事物を指し示すという形で発展し、認識が深まっていく形をとります。

客体としての実在は一挙にもたらされるのではなく、人類の無限的な進化を通して真理に無限接近する構図なのです。

一見紛らわしいのですが、ジェイムスはパースの事物実在論を切り捨てることによって、根本的経験論を確立したと言えるのかも知れません。

パースにすればジェイムスの論理は「科学の方法」を否定する論理であり、到底納得できませんでした。

 ジェイムスとパースの違いを明確にすることがパース解釈の鍵だと思われますから、「探究の方法(原題The Fixation of Belief)」から引用しておきましょう。

「『外的な永遠のもの』が天来の霊感のように特定の個人に作用を及ぽすに過ぎない場合には、私たちのいう意味の『外的』なものではない。

『外的な永遠のもの』は、すべての人に作用を及ぼすものでなければならない。その作用は作用を受ける個人の側の条件に応じて、当然種々相を示すが、新しい方法においては、すべての人の究極の結論が同じものにならなければならない。

こうした方法こそ『科学の方法』に他ならない。この方法が前提としている根本的な仮説を分かり易い形に書き直してみると、次のようになる。

『実在の事物があり、その性質は私たちの意見に全く依存しない。その実在物は、規則正しい法則に従って私たちの感覚器官に作用を及ぽす。

その結果生じる感覚は、私たちと対象との関係に応じて異なるが、私たちは知覚の法則を用いて、事物の本当の姿はどうであるかということを推論によって確かめることができる。

そして誰でもその事物について充分な経験をもち、またそれについて充分に考えを練るならば、ひとつの真なる結論に到達するだろう』」(70頁〜71頁)。
Our external permanency would not be external, in our sense, if it was restricted in its influence to one individual.

It must be something which affects, or might affect, every man. And, though these affections are necessarily as various as are individual conditions, yet the method must be such that the ultimate conclusion of every man shall be the same.

Such is the method of science.

Its fundamental hypothesis, restated in more familiar language, is this:

There are Real things, whose characters are entirely independent of our opinions about them;

those Reals affect our senses according to regular laws, and, though our sensations are as different as are our relations to the objects, yet, by taking advantage of the laws of perception, we can ascertain by reasoning how things really and truly are;

and any man, if he have sufficient experience and he reason enough about it, will be led to the one True conclusion.
               二、事物の思考を否定する固定観念

 事物が他の事物を指し示す記号活動は、人間の思考活動として展開するのですから、事物自身が思考していることには間違いありません。

つまり事物が他の事物を指し示して、その後で人間がそれを見て思考で後づけるのではないのです。その意味では反映論ではありません。

「指し示す」過程が人間の思考なのです。これは難解な話をしているのではありません。きわめて単純な事実なのです。難解にさせているのは実は読者の固定観念なのです。その固定観念は認識を主観の営みとしてのみ捉えているのです。

 物事を認識するのは認識主観であって、感覚器官と脳髄の営みだとほとんどすべての人が確信しています。もちろんその通りです。しかしそれは事の一面です。

認識というのは認識対象が認識主観に自己を定立する活動でもあるのです。そんなことを言うと、認識される対象が認識するのは論理矛盾だと叱られそうです。しかし論理矛盾と感じるのは、認識を専ら認識主観の営みとしてのみ受け止めているからなのです。

 例えば富士五湖は富士山の姿を映していますが、湖が鏡になって富士山を映しているというのも真理なら、富士山が光を反射させて虚像を結んでいるのも真理だし、陽光を主体として捉えるのも間違いではないでしょう。ところがいざ人間の認識になると、対象自身の主観への働きかけでもあるという面を無視してしまうのです。
                    三、認識の主観性への固執

 その原因を私は、自我の排他的独占欲にあるのじゃないかと推測しています。

交換の発生によって本格的に人格的な自他関係が生じたという私の推論が間違いじゃなければ、私有観念が強くて、自分の経験や思考内容を自分だけの営みと思い込んでしまう性癖を、自我は本性として持っていると考えられます。

自分が経験したこと、自分が考えたこと、自分の記憶を自分の私有物のごとく見なすことによって、元々捉え所のない自我を充実させたい願望を強く抱いているんだと思われます。

 それに認識活動が感覚器官や中枢神経という大変精巧な器官の高度な機能を通して行われているものですから、認識に関しては何の自覚も関心も持たない筈の認識対象の営みと見なすのは、いかにも不当に思えるのかも知れません。

そして事物は認識機能に外的な刺激を与えるだけで、認識過程には対象の事物は存在しないのだから、認識が事物の営みと考えるのはとんでもない倒錯だとの反駁も予想されます。

 小石を池に投げ込みますと波紋が出来ます。石の大きさと波紋の大きさは他の条件が同一だとしますと正の相関関係が認められる筈です。

石の大きさは波紋の大きさで区別できます。波紋で石を区別したのは池の水でしょうか、それとも石が池の水を使って自分の大きさを波紋に表現したのでしょうか。

認識対象の結ぶ像がより複雑か単純かの差は大いにあるとしても、人間の認識装置も知覚レベルでは、この池と原理的には同じです。

 確かに対象の事物は生理過程には入りません。センス・データ自体が感覚内容という生理現象に他ならないのですから。

この事実に固執しますと、経験批判論や純粋経験論、フッサールの現象学に繋がっていきます。

では感覚内容がすべて生理的な内的世界だとして、どうして人間には客観的な事物認識が可能になり、外部世界が開かれたのでしょうか。

それは私の見解では人間だけが商品交換を媒介にして、お互いに対他的な関係を取り結び、生理的な表象をも他者としての外的事物の顕現と了解しているからです。

そしてこの了解に基づく客観的な事物認識が主語・述語構造を持つ言語の完成に貢献し、物事の認識が飛躍的に発展し、それが文明をもたらしたのです。

 
   ------第三節 客観的実在論とパースの観念論の立場------

               一、仮説としての「客観的実在」

 生理的な表象の対象化を感覚的な内的世界それ自体の法則で説明するのか、外的事物の顕現として捉え、事物の客観的法則を探究して、それによって現象を説明するのかは世界観の問題です。

どちらが正しいか、ここで決着を簡単に付けられるような生易しい問題ではありません。パース自身は彼の「科学の方法」に基づいて、客観的実在としての事物を前提しているのです。

 「ある実在物があるということを、お前はどうして知るのかと問われるかもしれないが、『ある実在物がある』という仮説が私の探究の方法の唯一の支えである限り、この方法をその仮説の支えに用いることはできない」。
It may be asked how I know that there are any Reals. If this hypothesis is the sole support of my method of inquiry, my method of inquiry must not be used to support my hypothesis.

 つまり実在の事物の存在は、認識内容が正しいかどうか確かめて、信念を固めるための大前提だから、これを疑っては、何も信じられなくなるので疑うことはできないというわけです。

それにみんなそれを信じる事でうまくやってきたのだから、きっと誰も本気には疑っていないだろう。私は全く疑う必要を認めないから疑わないが、本当の疑念を抱く人は勝手に疑いなさい、と言い放っています(71頁〜72頁)。ジェイムスやフッサールは本格的にこれを疑ったわけです。

 
        二、へーゲルの影響とパースの観念論

 ただし客観的実在として事物を捉えることに伴うアポリア(困難)を、パースは深刻に受け止めていました。

思考は事物を一挙に完全には認識できませんし、かといって原理的に認識できない事物も実在とは言えません。

デカルトのように直観によって媒介的な思考を伴わずに観念が与えられるとしたり、カントのように理性に限界を定め、原理的に認識不可能な実在領域を設定するのは納得できなかったのです。

むしろへーゲルのように思考の発展によって、真理が展開されていく方が実在の認識に相応しいと考えたのです。

 でもへーゲルに対しても不満があります。へーゲルは客観的実在としての事物を思考の疎外態と見なしていましたから、思考による事物の揚棄が目指されており、思考と事実の一致という「科学の方法」には適っていないのです。

 パースはへーゲルから観念論を学びました。それでパースは観念論者を自認していますが、その独特の意味合いを了解しておいてください。

アリストテレスは個物が実体だとして、プラトンのイデア論を批判しましたが、その際、個物の不可欠な属性として形相と質料を挙げました。

形相はその事物の種類を示していて、概念あるいはイデアと考えてもよいでしょう。

質料はその事物のマテリー(材質)に当たります。実在である以上必ず何かから出来ていなげればならないという意味です。

ところでこのマテリーも何等かの事物であるわけですから、やはり形相と下位のマテリーを持ちます。下位のマテリーも同様ですから、最下位のマテリーが第一質料として規定されないアルケー(原基)だとされるわけです。

 自然全体がマテリーとしての統一性を有することを強調する観点がマテリアリスムス(質料主義)と呼ばれています。

唯物論もマテリアリスムスの訳語ですから、唯物論者は質料主義者だと誤解されがちです。

パースは規定されない、従って原理的に述語づけのできないマテリーを実在と認めるわけにはいきませんから、マテリアリスムスには反対なのです。

それに対して事物は実在である限り規定され思考される概念的存在でなげればならないという意味で、イデアリスムス(観念論)に賛成しているわけです。
ーーーーーーーーーー三、概念実在論と質料主義批判ーーーーーーーー

 実はこのイデアリスムスとマテリアリスムスの対立は、中世スコラ哲学の最大の論争であった普遍論争の再燃の性格を有していると言われています。普遍実在論と唯名論の対立です。

 普遍実在論は概念実在論ともいわれイデアや類概念の実在として事物や現象を把握します。例えば「人類」はアダム以来我々までの総体として実在であるわけです。これを認めないとアダムの堕罪が原罪として後世の人々にのしかかったり、それに対するキリストの贖罪が成り立たないと主張されたのです。

 それに対して唯名論ですと、概念は実践的な区別の必要から機能的に付けられた名前に過ぎないとしたのです。

 つまり人間の思考によって付けられた区別は、実在的な事物それ自体の区別である筈がないということです。

 「犬」という概念があり、それに当てばまる事物がありますと、その事物は全体として犬の概念の実在だと考えるのが実在論ですが、唯名論ではその事物の幾つかの特徴的な働きに犬と名付けているだけで、その事物自体は犬である以外に実在として測り難いマテリーであると捉えます。

 もちろんパースは、唯名論の救い難いマテリアリスムスを退け、断固として概念実在論としてのイデアリスムスを支持します。
----------------第四節 人間記号論のイデオロギー性---------------------

                一、人間記号論の画期的意義

 事物は思考され得る存在としてはじめて実在なのですから、人々の思考にいずれは現われ出て来なげればなりません。その出現の仕方が他の事物を指し示す記号としてなのです。

思考に出現するのですから、事物の指示作用と思考は同時的です。

ぽんやりして信号が変わるのを見ていなかった場合、信号は指示したのに、思考はそれを認知しなかったと言えるでしょうか。指示行為は相手があることですから、ぼんやりしている人にまで信号は指示を与えることはできません。一般に未知の事実についても同様のことが言えるでしょう。

 ですから客観的な事物としては思考以前に実在していても、人間の意識に指示を与えることによって、その実在性を示すのです。この過程が思考だということです。それが記号であり、人間だという人間の定義なのです。

そこで事物の思考は特別の天才や個人にだけ与えられるような、真偽が確かめられないようなものであってはなりません。みんながそのデータに基づいて正しく推論すれば見解が一致し、承認するようなものなのです。そうしますと破綻や不都合がない限り、事物の指示をみんなと同様に受取り、同様に推理していればよいということになります。

 人間の思考活動が同時に自然の営みでもあるという発想は、シェリソグにもありますし、自然を絶対者に置き換えればへーゲルも、人間の意識の発展を絶対精神の自己展開として捉えていました。

もちろん仏教や老荘思想にも多分にその傾向があります。パースの画期的な点は、人間を思考に還元した上で、思考を事物の知的性質と捉え返した点にあります。

こうしますと人間が事物の記号性それ自体だとされますから、人間を構成する主体的要素は身体だけでなく、他の事物を指示する事物だということになります。私が身体主義的限界の突破だと叫ぶ所以です。
           二、人間自身の物件化の裏返しとしての人間記号論

 私が我が意を得たりとばかりに、人聞と事物の抽象的な区別を止揚するパースの人間記号論を持ち上げるのに対して、多くの読者のブーイソグが聞こえてきます。

思考を客観的な事物の営みに還元する議論は、人間の思惟の主体性を貶め、物件化された社会機構から産み出される常識に呑み込まれることに、疑問を抱かせない役割を果たすだけじゃないかという非難です。

それに事物が思考するなどという発想こそ、人間自身の物件化の裏返しじゃないかとの反撃もありそうです。

 実際一つの思想がどのような役割を果たしてしまうのかは、その思想の持つ意義とは別に検討しなければなりません。思考に対する事物の意義の強調は、思惟の主体性を貶める影響を生まないとは限りません。

それにパースは、自我を共同主観からのずれの否定的体験から消極的にのみ捉えています。私の眼からみても人格や思想の主体性に関して捉え方がきわめて弱いという印象は否めません。

 ですから物件化(物象化)された現代社会に適合するイデオロギーとの批評も全く謂れがないわけではありません。しかし何々のイデオロギーだという批判の仕方は社会心理的思想分析として行う限りは認めるとしても、レッテルを貼ることで全否定してしまうのは困ります。

 そういう態度だと自分に合う党派的イデオロギーを求めて、誰かの思想にどこかで感動的に共鳴してしまうと、後は無批判に全肯定して追随してしまう偏向に陥ってしまうのです。

 産業革命がもたらした現代社会は「機械と大衆の時代」と呼ばれます。規格化された製品が街に溢れ、人々も個人としての個性を喪失して、マス(大衆)としての操作対象にされてしまいます。

 行動や嗜好もステロタイプ化され、流行に合わせないと取り残され、社会に適応できなくなる不安に駆られます。これはいわば機械が生産の主体になり、人間が機械の部品に貶められてしまった帰結です。

 機械文明の巨大化は、それに適合する経済、政治、軍事その他の機構でも巨大な機械システムのような官僚制を発達させ、画一化された人間に対する高度な管理体制が整備されてしまいます。

 もはや個人が主体であり、思想や文化の個性的な担い手であるとは言い辛くなっています。機械や社会システム等の社会的な事物や機械的メカニズムが主体であるような現実が展開しているのです。
                   三、「人間観の転換」の必要性

 現代ヒューマニズムはあくまでも個人の主体性に固執して、機械体系や高度管理システムに異議を申し立てようとしますが、あらゆる改革が今や機械体系や高度管理システムを駆使してしか行えませんから、ますます機械文明の深みに落ち込んでいかざるを得ません。

個人は労働力商品や機械部品としての体制への包摂を拒否すれば、狂気や砂漠への逃走にしか主体性を見出せないというのが、ゴダール監督の『気狂いピエロ』に象徴される、一九七〇年代以降のポスト構造主義の思想状況です。

 確かにグロ-バルな規模での人類的危機の深化が進行しています。これに取り組むためにもあらためて一人一人の人格的な主体性の回復が強く求められるところです。

しかし高度に発達した機械文明や社会機構自体を崩壊させるわけにはいきません。エコロジカルな課題自体が巨大な機械体系や高度管理ツステムを充全に機能させてこそ解決できるのですから。

主体的個人と社会的事物の抽象的な対立に固執する、非生産的な現代ヒューマニズムは乗り越えるべきです。身体的個人と社会的事物を両方とも人間の定在という意味での人間体として人間総体の構成主体と認知する「人間観の転換」こそが求められます。

  
 --------第五節 事物の客観的実在性とプラグマティズムの格率---------

                   一、認識の二重性と主観のフィルター

 ではパースにとって思考主体を事物に置く必要はどうしてあったのでしょうか。

外的事物からのセンス・データを大脳で処理して認識が成立しているのですから、「思考は身体の営みである」だけで済ませておくこともできたでしょうに。

やはり認識内容が真理である為には、認識が単に主観の営みであるばかりではなく、同時に対象的事物の働きでもあることが不可欠だと思ったからだと思われます。

主観の営みである思考自身が対象的事物の指示作用でもあるとして初めて、認識内容が対象と一致した真理だと言えるわけです。

少なくとも対象の営みでもあることを否認してしまったら、セソス・データは主観の恣意によって蹂躙され、真理の可能性は遠退いてしまいます。

認識の能動性と受動性は、。デュアル(二重)な発想で捉えるべきなのです。

 認識内容を現象でしかないことにあくまで固執する主観主義者たちは、この程度の説得では説を曲げません。

認識内容が主観のフィルターにかかっていて、認識対象と認識内容は原理的に別様でしかあり得ないと主張します。

また主観の認識能力によって認識内容は著しく制約されざるを得ないじゃないかというわけです。

確かに認識主体と認識対象が絶対的な意味で、離れていて別物でしかないのなら、ゴルギアスのいう意味で真理は存在しないし、存在しても認識できないし、認識できても伝えられません。

また実在を形相でなく、質料と考え、質料の完全な認識を求めるのなら、原理的に認識できません。

形相もそれを概念でなく、対象の完全な映像と了解しているのなら、たとえギニア人であっても不可能です。パースが唯名論を退け、観念論者を自称するのはその所為(せい)なのです。

 カントは時間・空間を先天的な統覚の形式だとしました。そして、時間・空間という眼鏡をかけて事物を眺めていると考えました。

 つまり事物それ自体は時間・空間を超越した存在であり得る可能性を示唆したことになります。

 カント解釈次第では、先天的な統覚の下に現われる現象界の背後に、物自体の世界があると仮定しても、それは原理的に知り得ないのだから、そういう仮定自体がナンセンスであると、カントが主張しているとも受け取れます。

 それはともかく、認識主体と認識対象が異次元的に存在する可能性を置けば、原理的な不可知論になってしまいます。パースは原理的に真理が認識できないような仮定を置くことは、真理を認識しようとする際には、その仮定は既に捨てられていると考えていたのです。
              二、真理性の保証のための神の実在の要請


 パースによれば実在は人間の思考の発達によって認識可能だから実在なのであり、必ず未来の思考に姿を現わすべく予定されているのです。

彼は思考を実在全体が姿を現わしていく過程として把握していたからこそ、思考を事物自身の営みと捉え返すことができたのでしょう。

彼は万物を創造した神の実在を信仰しているのです。そして人間が原理的に認識できない事物を神が創造されることは、実践的にみて全く徒労ですから賢明な神がそんな愚かなことをされる筈がないと考えたのです。

 もちろん私は彼ほど信仰心も持ちませんし、楽天的でもありません。宇宙は絶望的なくらいの悪無限の実在だと思われます。

人類が何億年も存続して思考を発展させ続ける事ができたと仮定しても、おそらく宇宙全体に比べれば毛の先程の真理も認識できないに違いありません。

未来の思考に望みを託すなど身の程知らずもいいとこです。彼の弱点は二種類の真理を混同していることです。

 一つは我々の生活上の実践や科学的な実験・観察を通して確かめている真理です。これは妥当範囲の限定さえしっかりしていれば、その範囲において妥当することは疑う余地はありません。

もう一つの真理は未知の現象に関する法則的な認識のことです。我々は次々と新しい真理を見出し、積み上げていくでしょうが、人類の寿命は原理的に有限です。それに対して、宇宙は原理的に無限で真理の量もまた無限なのです。
                 三、プラグマティズムの格率


 パースの素晴らしさは、既知の真理についての無用の疑念を原理的に取り去ったことにあります。

 ガリレイは「『二等辺三角形の両底角は等しい』という真理は、人間だけでなく、神においても真理である」と言ったと伝えられていますが、正しい推理は人間が考えたか、神が考えたかで正しさが変化する道理がありません。

 人間の思考能力の有限さを理由に、人間が認識した真理を疑う必要はないのです。思考を事物の知的性質であるとしたことで、事物の概念的な認識の真理性が保証されたのです。

 わかり易く言えば、事物をその事物が機能する通りに概念的に規定して、その概念通りに事物が誰の眼にも機能すれば、その概念に当たる事物は実在すると見なしてよいのです。

 これがパースの定義した「プラグマティズムの格率」です。

 「ある対象の概念を明断に捉えようとするならば、その対象がどんな効果を、しかも行動と関係があるかもしれないと考えられるような効果を及ぼすと考えられるか、ということをよく考察してみよ。そうすればこうした効果についての概念は、その対象についての概念と一致する」(「概念を明晰にする方法」89頁)
Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object.

 この格率の文章は混み入った表現なので趣旨が掴みにくいのですが、これは聖餐式論争についてのコメントを受けていますので、それを参照すればわかります。
                   四、聖餐式論争へのコメント


 「『葡萄酒』という概念で、私たちの感覚に直接もしくは間接に特定の影響を及ぼすものだけを意味するのであって、あるものが葡萄酒の感知しうる特徴をすべてもっていながら、しかも本当は血であるなどというのは、無意味な戯言である」(88頁)。
and we can consequently mean nothing by wine but what has certain effects, direct or indirect, upon our senses; and to talk of something as having all the sensible characters of wine, yet being in reality blood, is senseless jargon.

 聖餐式というのは、キリスト教会の礼拝の中心儀式です。これは異教徒から見るとカニバリズムを連想させる異様な雰囲気を持っています。

「これはキリストの身体である」と司祭が言って信徒にパンを食べさせ、「これはキリストの血である」と言って真赤な葡萄酒を飲ませるのです。大部分のプロテスタント派ではこれを比喩的に解釈しています。でもカトリック教会では神父の行う聖別によって、パンはパンのままで本当のキリストの肉となり、葡萄酒は葡萄酒のままで本当のキリストの血になっていると解釈するのです。

(この宗教的カニバリズムの儀礼から推測して、歴史的にイエスは弟子たちに食べられ、そのことによって復活体験を弟子たちに与えたのではないかという、まさしく仰天仮説を、私は『キリスト教とカニバリズム』〔三一書房刊〕と『イエスは食べられて復活した』〔社会評論社刊〕で提起しています。)

 我々は葡萄酒の概念を持っていますので、どんな色の種類があり、それぞれどんな香りや舌触り、味のものかよく知っています。少なくとも、血の臭いや、舌触り、味とははっきり区別できます。ですから聖餐式の葡萄酒も血ではなく葡萄酒だとはっきりわかります。

実際の葡萄酒の概念とは、葡萄酒が示す色・香り・舌触り・味.特定のアルコール度等の全体なのです。葡萄酒がそれらを指示する過程が概念の展開としての思考なのです。式の形で表わしてみましょう。

Aの概念の集合は{a,b,c,d,e}だとします。今対象Xが{a,b,c}の概念の展開を示したとしますと、後は{d,e}の展開を示せば対象XはAと同定されます。そこで{d,e}の展開を待たずに対象XはAの実在ではないかと推理される事があります。

 葡萄酒の定義には葡萄が原料の醸造酒というのが当然入りますから、本当は色・香り・舌触り・味・特定のアルコール度だけでは葡萄酒だとは断定できません。とはいえ{a}か{b}か{c}のどれか一つでも葡萄酒以外には決して含まれない、葡萄酒のみに固有な性質だとすれば{a,b,c}が示された段階で、対象XはAの実在であると断定できます。例えば葡萄酒の香りは葡萄酒しか絶対出せないとしたら、香りだげで葡萄酒だと断定していいわけです。

 

    
--------------- 第六節 事物の概念としての感覚-------------


----------一、プラグマティズムにおける軽薄な感覚主義--------

 ところで感覚が概念であるとの説明にはストップがかかりそうですね。

例えば葡萄酒の概念は、「葡萄を原料にして醸造された酒」という規定であり、様々な感覚的要素はある対象が葡萄酒である為の絶対的要件ではないともいえます。例えば林檎酒の味がしても原料が葡萄であれば葡萄酒に違いないのですから。

現代はイミテーショソとかコピーが文化としてもてはやされる時代です。落ち目の本物歌手が物真似歌手の活躍の御蔭で人気を盛り返すという転倒が歓迎されているのです。

料理でも植物性の素材で肉・魚料理のイミテーションを作る高級料理があるそうです。

効果や感覚で物事を判断するのはかえって物事の本質を捉える概念的思考に背く、軽薄な感覚主義ではないかと反撥されそうです。やはり概念的思考は感覚中枢よりも前頭葉で行われる筈だという反論です。

 「プラグマティズム」を翻訳すれば「実用主義」ですが、実用主義には「プラグマティズムの格率」に照らして、確かに効果が同じであれば、同じ物と捉えてよいという発想があります。

この発想は血統にこだわる貴族主義的な本物志向を嘲笑して、コストのかからない代替物を作り出します。つまり経済的合理性に徹する進歩主義という長所があるのです。

 だが同時に物事を特定の実用の観点からのみ捉えるため、その他の諸属性に注意を怠り、大切な環境を破壊したり、資源を無駄にしたりするなどの危険を伴いがちです。

現代世界を代表するアメリカ文明を指導した原理がこのプラグマティズムであったことは、その長所の面を観ても、短所の面を観てもよくわかります。

 効果や感覚で判断してもよい事物と、それでは済まない事物の区別が大切だと思われます。

社会的事物の多くは前者に属し、自然的事物の多くは後者に属します。社会的事物でも実用品は前者に属しますが、希少価値を重んじる骨董品や贅沢品は後者に属します。

ところでパースにすれば効果という用語には卑近な実用性だけではなく、科学・技術上の問題解明に役立つ効果も含まれていて、単なる感覚主義ととられるのは心外なのです。

センスデータの指示する意味を正しく解釈して、推論を押し進める論理学の発展が、彼の主な関心だったのですから。

   
               二、感覚は事物認識の妨げか、それとも媒介か?

 ロックは、第一性質と第二性質を区別しました。

時間・空間・質量・形体などの知覚に依存しない事物の独立した性質を第一性質とし、その事物自体に固有の性質と考えました。

それに対して、色・固さ・味・感触など感覚的性質を第二性質として人間との関係によって事物の性質になったものと考えたのです。

それをカントは第一性質まで主観の形式に還元してしまったのです。でもカントの場合は現象としての事物の性質としては当然認めているわけです。

現代の懐疑は人間の経験を構成しているのは客観的な事物ではなく、主観的な生理的な感覚である事を強調し、世界を感覚の関数として捉え返すべきだと言ったのです。

 人間の感覚だから事物それ自体の属性ではないという、感覚批判の仕方が真理を妨げているとパースは気付いたのです。

そのように感覚を捉えますと、かえって感覚は事物を認識する媒介ではなく、認識を不可能にする役割を果たしてしまいます。

ところが人間は実際に感覚を媒介に事物認識を行っているのですから、この感覚批判の仕方は改めるべきなのです。

そこで感覚こそ事物が主観に現われる仕方だと捉え返したわけです。彼が感覚を事物の概念として強調するのはそのせいだと言えます。

 これに対して批判主義者は、それではやはり主観に現われた限りの現象としての、即ち感覚としての事物しか認識できないではないか、現象した当の事物自体は認識できないではないかと反論します。

 パースから言えば、それこそ救い難いマテリアリスムス(質料主義)の見本です。事物認識とは与えられたセソス・データに基づいて正しい推理で事物の性質を知る事です。

 ですから認識の内容は当然感覚の持つ限界によって制約されています。ロックの第一性質すらカントの指摘通り、統覚の形式に基づいています。

 それは人間が身体的に時間的に変化するものであり、また馬より小さく、猫より大きい空間的存在なので、身体を尺度に事物を認識せざるを得ないからです。

 感覚と合理的な推理能力を使って知り得る以上の事を知り得ないからと言って、事物を知り得ないことにはなりません。

 では感覚要素の集合としてしか事物は知り得ないとすれぼ、事物は感覚に還元されるから、客観的な実在としての事物はやはり知り得ないではないか、と執拗に食い下がられるかも知れません。

 パースが譲れないことは、事物が感覚に還元されないことではないのです。感覚要素の集合として事物を知り得るとすれば、その知り得た事物を客観的実在として認めるべきだという事なのです。
               三、「客観的実在」とは何か?

 「客観的実在としての事物」認識に懐疑する人は、感覚的要素の集合をいかに概念的に認識しても、外部の客観的実在の認識とは言えない、と思い込んでいるように思われてなりません。それでは我々が原理的に認識できないものを認識しない限り、客観的実在の認識とは言えなくなってしまいます。

 論争というものは多くの場合、キーワードの定義が食い違っているせいで起こりがちなものです。

 わかり易い例えで説明します。天体電子望遠鏡で何億光年先の星雲を認知しても、それは観察主観に映じた感覚に他ならないから客観的実在ではないと一蹴されます。

 また内容的に論じても、その色や形は感覚に他ならないし、第一「何億光年」という認識自体が時間・空間という感覚の形式に則っているから、星雲は客観的実在ではない。このように軽くいなされそうです。

 パースの立場では、感覚的要素の集合として認知できるからこそ、客観的実在としての事物なのです。

 「外部」もパースにとっては身体的な外部に過ぎません。

 たとえ身体を感覚的要素の集合で認知したとしても、多くの身体が認知される筈ですね。また同様に感覚的要素の集合として多くの事物も認知されることは否定できないでしょう。そして同様にその必然的帰結として、やはり感覚的に時間・空間も認知されることに異論はないでしょう。

 では次に身体と他の身体や事物が空間的に離れていること、つまり互いにその意味では外部であることも認知されます。そしてそれらの事実を踏まえた上で合理的な推理を働かせば、そのような認知は身体が感覚装置と思考装置を備えていることによって、身体的に外部に存在する事物からのセンスデータを得て行われていることがわかるでしょう。

 これがパース的な意味での「客観的実在としての事物」の認識に他ならないのです。これにはまさか感覚批判論者も反論できないでしょう。

 
                  四、弁証法的な「実体」概念

 「そこまで認めるなら」と批判家は、「事物が感覚から自立したそれ自体で存在する実体ではないことになり、『事物』の定義に矛盾するのではないか」と攻勢に出ます。

この「実体」という概念が哲学史的に変遷していて、扱いに困るのですが、何ものにも依存せずに、それ自体で存立している実在という意味でのデカルト的な「実体」概念は、他者による媒介を重視するへーゲルでもマルクス・エンゲルスでも克服されています。

弁証法的な事物の捉え方では、「対立物の統一」が主要な観点になっているのです。

総べての事物は対立する事物との関係で、他の事物によって規定される事によって、はじめて存立できます。

この関係は相関的ですから他の事物の根拠となることによって、その事物は規定し返されて、根拠づけた相手の事物によって根拠づけられます。

つまり相互に前提し合っているのです。「根拠となるもの」、「前提するもの」という意味で「実体」というターム(用語)を使うことが許されるなら、事物は相互に実体性を与え合う実体だと言えます。

 この弁証法的な「実体」概念は哲学史的に考えても不自然ではありません。元々ギリシア哲学ではウーシア(実体)は生成消滅する事象の内に在って、永遠不滅で変わらざるものという意味でした。

つまりアルケー、アトムなどが実体とされていました。そこでラテン語では「下に立つもの」という意味のsubstantiaが「実体」の意味を持つことになったのです。

 デカルトは「下に立つもの」は根拠だから自己自身で存立し、他のものに依存してはならない筈だと考えて、それ自体で存立している実在が実体だとしたのです。

ですから弁証法的な実体概念はsubstantiaの元の意味に忠実ですから、遠慮せずに使用できるのです。もっともパース自身の実体概念はどうなのかは勉強不足ですが。

      
                   五、推論としての世界観

 「ちょっと待った、事物に依存しているかどうかではなく、感覚に依存している事物を実体と見なせるかが問題だったんだぞ」とまたもやクレームですね。

だから感覚的な世界を実在が示される世界だとパースは認めているじゃありませんか。実在が示される為には感覚が不可欠な媒介ですから、実在は実在証明において感覚に依存しているんです。

 「だったら感覚に現われない実在は証明できないんだから、そんなものが実在すると仮定することはおかしいじゃないか」。

とんでもない。感覚に事物が現われると認める限り、すべての事物を一度に認識できないのですから、未だに現われていない事物の実在を仮定しないほうがむしろ矛盾しています。

「しかしそれは推論に過ぎないだろう」。

もちろん推論です。世界観は推論なんです。世界を構成しているのは感覚要素であると把握するのも推論なら、事物であると確信するのも、現代物理学のアポリアからの帰結として事態の関数だ、と事的世界観を打ち出すのも、マテリアリスムスもイデアリスムスもみんな推論なのです。

どの推論を前提にすれば現実の世界が合理的に解釈でき、現実世界の中でそれに基づいて、最も効果的にかつ人生を納得して生きていけるのかが試されているのです。

 
----第七節共同主観的真理からのずれの反省による自我の自覚
----
--------------------------一、思い込みと正確さ--------------

 イギリス経験論の祖と呼ばれるべーコソは、「感覚の欺き」を注意しました。そして人間というものは、

?何事も割り切れる物として捉えようとする人間にありがちな「種族のイドラ」
?個人の狭い体験による偏見で物事を見てしまう「洞窟のイドラ」
?言葉で物事を理解しているという制約から生じる「市場のイドラ」
?権威ある学説が芝居の台本のようにうまく造られているのでつい信じ込んでしまうことによる「劇場のイドラ」

の「四つのイドラ(思い込み)」に囚われていて、いかに物事を正しく認識することが難しいかを力説しました。

 パースも個人がいかに誤り易いかについて充分注意を促しています。客観的な事物がセンスデータをもたらしてくれるといっても、それはかなり貧弱な情報でしかないのです。だから直観的にそれ以前の認識の助けを借りずに、直接事物が認識されることはあり得ないのです。

 パースは、網膜や視神経の構造からすれば、人間が直接見ている像は隙間だらけで斑点の集まりになっている筈だと言います。

平面も直観像として与えられているわけではないのです。ましてや空間や時間などもっと複雑な観念になると、直観によって直接掴めるわけではないのです。思考作用が欠けている部分を補っているそうです。

だから感覚像自体がすでに思考の産物なのです。ロックも『人間悟性論』で感覚像形成に対する理性の働きを強調して、似たような論理を展開しています。走っている姿は直接には映画のフィルムのように静止像の集まりに過ぎないが、理性の働きがこれらを繋ぎ合わせて、走っている感覚像を形成するというのです。

 この補い方は対象を正しい像に再現する仕方です。客観的な事物が対象になっているのですから、最も正確な像を描けると、その対象に対する実践的な働きかけが最も効果的で的を射たものになるわけです。

 そこで思考と実践の集団的な積み重ねによって、より正確な事物認識が深まると考えたのです。ただし像の正確さといっても、実践的な効果を通して実証される正確さですから、純粋に客観的な正しい像があるわけではないのです。

 ところがパースは天地創造の人格神を信仰していますから、事物は人間のために造られているように見なしている節があります。そうしますと反映論的な正確さを期待しているようにも解釈できます。ウニにはウニ的な正確さ、犬には犬的な正確さが、人間には人間的な正確さが期待できるだけで、それぞれ効果に対する判断基準が違いますから、甲乙つけ難いのです。

 
----------------二、「内観の能カ」の否定----------------

 この認識における思考の契機の重視は、認識主体としての自我の実体性の否定から導かれたものでした。

パースが直観能力を否定するのは、自己の内に真理の基準を持つ絶対的なデカルト的自我=超越的主体を否定したからです。

デカルト的自我を認めますと、真理を客観的実在から謙虚に受け入れる事ができなくなり、果てしない懐疑に陥りますし、いったん確信した真理は誰が何と言っても譲らなくなります。

だって真理は外的な事物の内よりもむしろ超越的主体である魂の内部にあると思い込んでいるのですから。

 そこでパースは、「直観の能力」と共に「内観の能力」も否定します。

内観とは心の中を観る事です。実体としての超越的主体を否定してしまいますと、事物の意識への現われと意識それ自体を区別できません。

つまり意識過程それ自体が思考であり、意識を離れて意識を観察している超越的主体としての心の場所が無くなってしまうのです。

ホッブズ同様、意識過程つまり思考過程と心的過程は同じだということです。

 例えば、我々は赤い色を感じる感覚を持っていますから、赤い色を感じる心の能力があって、赤い色の表象から赤い色を感じるように思われますが、それは赤い色をした事物について、その述語としての「赤さ」からの推論によって得られたのだと言います。

人が怒っているとき、怒っている心が有ることを内観するように思いがちですが、怒っている以上、何か外的な物事について考えて、それについて怒るわけです。つまりどんな情動も外的な事物の述語だということです。

 
-------------------三、自我の自覚の構造-------------------

 ではどうして人間は超越的主体としての自我を自覚するのでしょうか。

デカルトならば、コギトは疑っている以上、疑っている我として実在することは決して疑えないとされます。そしてそれは疑っている事実から直接帰結されます。

ですから考える我が存在するためには、如何なる事物もその根拠とはなり得ないのです。と言いますのは、方法的懐疑によって客観的的現実や数学的論証は疑われているのですから、疑わしいものによって自明な真理を論証できないからです。

そうしますと、コギトはたとえ身体や脳髄がなくてもそれ自体で存在し、懐疑を続けることになります。デカルトはこうして心身二元論を論証したのです。このような自我は他の媒介なしに考えているのですから、直接直観的に認識されることになります。

 しかし、考えているという事実、疑っている事実からだけ、果たして超越的な自我の存在まで導き出せるでしょうか。

パースは子供は思考はするけれども、自己意識が希薄であることを取り上げて、デカルトを批判します。カソトの『人間学』で指摘されていることですが、幼児のうちは自分のことを三人称で呼びます、「愛ちゃんも行く」というのように。

それが成長するにつれて、「わたしも行きたい」というように、自分のことをきちんと一人称で呼ぶようになるのです。そこでパースは、自己意識が始めからあるのではなく、成長につれて推論によって得られるものであることを論証するのです。

 パースによりますと、子供は大変早い時期から思考能力を発揮すると言います。

 パースの場合平面や空間の意識ですら思考の産物だということですから、生まれついて直ぐに思考活動が開始されると考えてよいでしょう。

 自分自身の身体にも同様に関心を持っておかしくありません。身体の動きと感覚内容の変化の相関関係に関心を持つのです。次に子供は言語を習得します。これはある音声とある事柄の繋がりが心の中で出来上がることです。そして見よう見まねでその音声を発することを学んで、会話ができるようになるのです。

会話によって、子供は回りの人々の証言が、子供自身がその事実に対して下した判断よりもより確実だと思うようになります。

 つまり共同主観的な社会的な意識が培われるのです。自己意識の最初の発見のきっかけは、社会的な意識によって自分の個人的な無知が思い知らされることにあるとパースは主張するのです。

 例えば、ストーブに触ったことのない子供はストーブに触ったら火傷すると言う大人達の警告に対して、そんな事はないと主張します。

 でも実際触ってみると火傷してしまい、自分の無知が思い知らされます。他人達に対して自分がここでは対照され対置されています。自己意識が発生しているのです。

 子供の下す判断は一時的な感情に駆られて下したもので、これは他人の証言によって確認され、補足されなければなりません。この回りの人々の判断も、さらに回りの人々によって修正されることになります。

 ここに前者の誤りと後者の真理性が意識されます。共同主観的な真理を受け入れることは同時に誤りを犯す自己の自覚を意味するわけです。

 ですから直観的認識の主体としてのコギトは退けられ、子供の意識的成長と共同主観の形成によって、推論的にのみ自我が認識されるのです。

 このことはまた、意識を超越した主体としての自己が実在するわけにはいかないということになります。
ーーーーーー 四、超越的主体と事物認識の関係ーーーーーー

パースのように社会的な意識からのずれからネガティブに自己意識の成立を論証するのは説得力に欠けます。

 その場合の自己は否定的にのみ、解消すべきものとしてのみ捉えられています。積極的肯定的な主体として定立できていません。

 他者の主体や社会的意識に対抗する主体として、社会的諸関係を背負って立つ弁証法的な主体として定立すべきだったのです。

 それに超越的主体としての自己意識がなければ、客観的実在としての事物を認識することはできません。

 動物は生理的な意識から自己を区別しません。外的事物は生理的表象として受け止められており、それに対する反応は生理状態に対して種と個体の体験から条件反射的に選択されているのです。

 動物の行動も第三者的に観察すれば、外的事物への主観・客観的行動に見えますが、動物自身の意識の中では主体・客体の対立は生理状態に止揚されています。人間は自己を超越的主体として表象的意識から断絶させ、表象的意識を他者である事物の顕現と解釈することができるのです。

 たしかにデカルトのいうような仮定、つまり主体が精神的実体として意識過程とは別に実在し、意識を解釈するという仮定、はフィクションに過ぎません。

 ポッブズやパースによる批判は正当なのです。にも関わらず、自我が超越的主体として形成されており、しかも無限の内的世界を所有しうる人格として実存していることは否定できません。

 そしてこの人格の尊厳を最大限に尊重し合うことこそ人倫の基礎であるという認識は普遍妥当性を持っています。そのことを踏まえた自我の自覚の論理の展開としてはパースの議論は極めて不充分です。

 
---------------第八節 認識のコミュニティ------------

-----------------一、実在と虚構の違い-----------------

 共同主観的真理からのずれによる自我の自覚を説いたのを見ても、パースは真理はみんなが認めてこそ真理としての市民権があるのだと考えていたことがわかります。

「虚構というものは誰かの想像の産物であり、その人の思考によって刻みつけられた特徴をもっている。ところがこうした特徴が、きみたちや私がどう考えるかということに依存しないというのが、外的な実在というものである」(「概念を明晰にする方法95頁)。
A figment is a product of somebody's imagination; it has such characters as his thought impresses upon it. That those characters are independent of how you or I think is an external reality.

個人的にこれが正しい、あれが正しいと主張しても、それらの個人的意見の如何とは関係なく存在しているからこそ実在なのです。

 神の御言葉を受けたと多くの「預言者」が登場しましたが、そのほとんどは偽者として相手にされませんでした。

彼らの多くは、嘘つきなんかじゃなかったでしょう。本当になんらかの幻聴・幻覚を体験し、不思議な夢の御告げを受けたと想像されます。

しかしそれが個人的な体験である限り、それが単なる当人の個人的な思いから生じた心理的な現象なのか、神の啓示という客観的な事実なのか、他の人々には判断の下す術がなく、説得力に欠けていたのです。

 科学的真理に関しても、イドラに囚われている人間の個人的な思考には依存している筈がありません。

むしろ逆に人々は科学的な真理に関して様々な学説を競合し、議論し合い、実験観察によって事実と照らし合わせているうちに、客観的な実在に導かれて全員の意見が一致するようになるのです。

 「すべての研究者が結局は賛成することが予め定められている見解こそ、私たちが『真理』という言葉で意味しているものであり、こうした見解によって表現されている対象こそ『実在』に他ならない。これが『実在』という概念を説明する私の方式である」(同上、99頁)。
The opinion which is fated to be ultimately agreed to by all who investigate, is what we mean by the truth, and the object represented in this opinion is the real. That is the way I would explain reality.

 実在は確かに個人の思考には依存していないのですが、みんなの思考、思考一般には依存しているのです。パースはこう述べています。

 「一方では、実在は必ずしも思考一般に依存しないわけでなく、ただ実在をあなたとか私とかあるいは有限な数の人間が何と考えるかということに依存しないだけであり、他方では、究極の見解の対象はその見解がどうであるかということには依存するけれども、その見解がどうであるかということは、あなたとか私がそれをどう考えるかということには依存しない」(承前)。
But the answer to this is that, on the one hand, reality is independent, not necessarily of thought in general, but only of what you or I or any finite number of men may think about it; and that, on the other hand, though the object of the final opinion depends on what that opinion is, yet what that opinion is does not depend on what you or I or any man thinks.

 そうでなければ原理的に思考できない存在を認めることになり、マテリアリスムスに陥ると考えたからでしょう。
-------------二、認識のコミュニティ -------------


 この実在概念は繰返し強調されています。

「こうして実在的なものとは、知識や推論が遅かれ早かれ最終的に落ち着く先であり、私やあなたのきまぐれに支配されないようなものである。実在概念のこのような成立事情からして、実在概念がコミュニティの概念を含んでいることは明らかである。そしてこのコミュニティは新しい知識を受け入れるということに関しては大いに開放的なのである」(「人間記号論の試み」163頁)。
The real, then, is that which, sooner or later, information and reasoning would finally result in, and which is therefore independent of the vagaries of me and you. Thus, the very origin of the conception of reality shows that this conception essentially involves the notion of a COMMUNITY, without definite limits, and capable of a definite increase of knowledge.

 これは真理に到達するのは人類の協同によってであり、決して個人的な天才の能力によってだけではないという思想を含んでいます。

山下氏は「コミュニティ」を「社会集団」と翻訳されていますが、自覚の如何に関わらず、協同し合うことで真理に到達するということをパースは伝えたいのですから、「協同体」か「共同体」とした方が適訳だと思われます。

 パースは、個人主義より共同主義の方が好みなのです。彼は良心的なクリスチャンでしたので、「科学的」という装いで当時一世を風摩していた「社会ダーヴィニズム」の弱肉強食主義が、どうにも腹にすえかねていたようです。

彼は「進化の三様式」(原題Evolutionary Love)で、ダーウィンの進化論よりラマルクの進化論を高く評価し、彼自身のアガペー的な創造愛的進化論を造りあげて対抗しています。

 普通プラグマティズムはイギリス功利主義の亜流のごとく見なされていますが、イギリス功利主義は完全競争を原理とする古典経済学のバックポーンです。

これが実は「社会ダーヴィニズム」の弱肉強食主義の源泉だとパースは見抜いていました。そこで「汝自らを愛する如く、汝の隣人を愛せよ」「何事でも人からして欲しいと思うことは人にもその通りにせよ」という「バイブルの黄金律」を功利主義の最高の原理だ、と利他主義を強調したJ・S・ミルを含めて、イギリス功利主義には否定的な評価しかしていないのです。

 パースにすれば、ミルは他人の利己主義的衝動を満足させる意味に、黄金律をねじ曲げているのです。黄金律の真意は「きみたちの隣人の完成のために、きみたち自身の完成を犠牲にせよ」にあると、パースは主張します。大乗仏教でいう「菩薩道」ですね。こうして互いの協同による進化が実現するという考えです。

 「さてここに一つの論争点がある。キリストの福音は、あらゆる個人がその個人性を没して隣人と一致することから進歩は生じるという。これに対して十九世紀の確信は、あらゆる個人が全力をあげて自分のために努力することによって、また機会がありさえすればいつでも隣人を踏みつけることによって、進歩は生じるというのである。この十九世紀の確信は正確には『貪欲の福音』と呼んでもいい」(「進化の三様式」196頁)。

 アメリカのフロンティア精神は、自助精神を函養すると共に、一致協力して開拓するという協同精神をも育てたのです。

余談ですが、この進歩主義的協同主義は、プラグマティズムの大成者といわれるデューイの集団主義的教育思想や民主主義思想の革新的性格に継承されています。日本の「戦後民主主義」の形成に与えたデューイの影響は圧倒的ですから、そのルーツとしてのパースの再評価も必要でしょう。
-----------------第九節 記号とは何か?----------------

---------------一、連続的過程としての推論---------------

 さて人類はどのように究極的な真理への協同の歩みを推進するのでしょうか。「記号」概念に留意しながら検討していきましょう。パースは四個の能力、つまり

?内観の能力、?直観の能力、?記号を使わずに考える能力、?絶対に認識不可能なものを把握する能力

を否定する命題を確認してから、すべての精神作用が推論であることを論証します。

すでに直観の能力は否定されていますから、あらゆる認識は以前の認識によって論理的に限定されているのです。ですから如何なる対象を認識するときでも、その認識の最初の主観などありません。

 認識は必ず連続的な過程によって生じるのです。前提Aから結論Bへと進む推論の過程になっているのです。正しい推論は完全なものと不完全なものに分かれます。

「不完全な推論とは、前提の中に含まれていない事実にその推論の正しさが依存するような推論である」(「人間記号論の試み」132頁)。
An incomplete inference is one whose validity depends upon some matter of fact not contained in the premisses.

不完全な推論には言外の事実が明言されていないけれど、実質的にはちゃんと仮定されていると、パースは語ります。

 「アリストテレスは人間である。それゆえ彼は誤り易い」という推論は不完全です。もし「人間が誤りにくい」のなら、この推論は成り立たないからです。

つまり言外に「人問は誤り易い」という推論が前提されているのです。「それゆえ」は接続詞で、「人間は誤り易い」という思考が過去になされたことを表現しています。ですから、不完全な推論でも実質的には完全な推論だというのです。

 二つの前提からの推論を単純な推論と言い、その複合を複雑な推論と言います。

そこでパースは完全で単純な正しい推論である三段論法を基本に据えるのです。その推論の正しさが前提と推論された事柄の関係だけに依存するような推論を、演繹的な三段論法と呼びます。これが必然的な三段論法です。

そして推論の正しさがなんらかの他の知識の不在に依存するようような推論を、帰納的あるいは推論的三段論法と呼びます。これが確からしい、蓋然的な三段論法です。

 パースは推論の分類と分析を詳しく展開していますが、ここではその紹介ははしょります。要するにすべての精神作用は推論であるという趣旨が呑みこめればよいのですから。

直観と思われる意識も含めて、すべて意識過程は、以前の意識を前提的な推論として、それを主語化して新たに述語を加える作用だということです。
--------------二、すべての思考は記号と見なされる--------------

 パースにすれぼ、普通名詞で呼ばれる意識像も推論です。「猫」という言葉を使うとき、既に猫の概念についての様々な推論が前提されているのです。「猫」という言葉は従って、猫に対する共同主観的な了解全体の記号と言えるでしょう。

 また推論は、対応する事態を表現している記号です。ですからすべての精神作用は推論であるという命題は、同時に、すべての思考は記号と見なされるという命題でもあるのです。パースはこう表現しています。

 「私たちの意識に思い浮かぶすべてのものが私たちの心の現われであるということは、私たちが自我というものをもっているということ(自我の存在は、無知と誤りの存在によって証明できる)から当然出てくるであろう。

しかしそういったことは、私たちの心に思い浮かぶものが、私たちの外部に在る事物の現われでもあるということを妨げない。それは虹が太陽の現われでもあり、雨滴の現われでもあるのと同様である。

こうして私たちは、ものを考えるとき、私たち自身がひとつの記号として現われるのだということが出来よう」(141頁)。
The third principle whose consequences we have to deduce is, that, whenever we think, we have present to the consciousness some feeling, image, conception, or other representation, which serves as a sign.

But it follows from our own existence (which is proved by the occurrence of ignorance and error) that everything which is present to us is a phenomenal manifestation of ourselves.

This does not prevent its being a phenomenon of something without us, just as a rainbow is at once a manifestation both of the sun and of the rain.

When we think, then, we ourselves, as we are at that moment, appear as a sign.

 つまり意識内容は自己を表現する記号であると共に、外部の事物の記号でもあるのです。そして「私たち自身」(ここでは「人間」という意味で使っていると思われます)はこのような意識内容を離れてはありえませんから、「私たち自身」が記号でもあるのです。

ということは、我々人間は事物の意味を探究し、事物の意味を実現し、獲得するために生きているのだということでしょうか。

 
-------------------三、「記号」の三つの性質-----------------

 「さて、記号は本来三つのものと関係をもつ。

?まず記号はなんらかの『思考』によって読み取られる。

?次に記号は、思考によってその記号と等置され得るなんらかの『対象』の代理をつとめる。

?最後に記号は、なんらかの『材質』をまとってその対象と接触する」(142頁)。

 記号は、それが指示している事物とは同一ではありません。記号それ自体は材質をもっています。会話で使われる言語は音声を、文字言語は線を材質にしています。十字形の物体はクリスチャンにとってはイエス・キリストの贖罪の記号の材質です。

 一般に記号学では事物は記号として機能する場合に、その記号のシニフィアンと言います。そしてそれが指し示す意味をシニフィエと言うのです。

パースはシニフィエを記号の表示作用と言います。

さらにパースは記号と対象を結び付ける結合関係を、記号の純粋の指示作用と呼んでいます。

例えば、風見鶏は、特定の方向を指すことで風向を示します。富士山の絵は富士山をその類似性によって指示しています。

記号が示している指示作用を連続あるいは後続する思考が連想によって解読するのです。こうして記号が思考に向けられて初めて意味を表示するのです。

 記号の意味を後続する思考が読み取りますと、その概念が再び記号化します。即ちシニフィエのシニフィアン化です。

 「AはBである」(「記号AのシニフィエはBである」)は更に後続する思考「『AはBである』はCである」(「記号『AはBである』のシニフィエはCである」)、の記号なのです。

このように推論が積み重ねられて、思考が発達します。これでは後続の思考が次々付加されて長くなってしまいますから、概念が一般化して、その意味内容が周知されると、単語化して通用します。

 例えば、「ワープロ」は、「仮名で入力して、それを漢字かな混じり文に直すことができ、且つそれを活字で印字できる装置」という意味で了解されているとしますと、一言でそれだけの意味を表現しているのです。

 そして更にワープロを使ってみますと、それ以外の機能を発見することがあります。「ワープロは漢字熟語辞典でもある」と言えます。この表現は更に元の意味内容を豊富にしているのです。お互いに了解済みの事は一々言葉にする必要がないので、名辞記号に置き換えられているのです。
-------------------四、記号としての人生----------------

 パースによれぼ、人間が生きているということは、以前の思考を記号として捉え、それを説明し、解釈する後続の思考を重ねることに他なりません。

「こうして記号と見なされた記号はすべて、後続する思考の中で説明され解釈されるという法則には、死によってすべての思考が突然の終局を迎えるということがない限り、一つの例外も見出せないのである」(143頁)。
But if a train of thought ceases by gradually dying out, it freely follows its own law of association as long as it lasts, and there is no moment at which there is a thought belonging to this series, subsequently to which there is not a thought which interprets or repeats it.

 パースは個人的には、以前の記号化した思考に後続の記号を重ねるのは、死ねばおしまいですが、自然の事物や社会的生産物は、人間によって記号化されており、その意味で思考のシニフィアンに成っています。

センスデータから事物像を形成すること自体が、パースでは直観ではなくて、思考の成果というのですから、事物を眺めたり、事物を扱ったり、事物を作り出したり、作り変えたりすることも、やはり後続の思考を重ねることになるのです。ですから社会的、歴史的に捉えれば、思考の連続は半永久的に続くことになるでしょう。
------------第十節 人間記号論の限界と意義-------------

---------------一、困ったときの神頼み-----------------

 シニフィエのシニフィアン化という視点を導入しますと、意味や命題自体が、別の意味の材質化されるということですから、材質である事は必ずしも外在的な事物であることにはならないことになります。

そこで最初の材質は、何か他の材質の意味ではない、アリストテレスの第一質料のような材質それ自体を想定することも考えられます。パースはセンスデーターという形でそれを保証したのです。

 ところが最近の記号学では、意味の体系が言語体系という形で、それ自体閉じた体系のようにあって、現実の解釈がむしろ言語体系からなされるように捉えられているのです。

外在的な事物との関連やずれの程度はもはや検証不可能なのです。実際、経験批判論や純粋経験論、共同主観的妥当性を相対的真理とする事的世界観等では、主客図式が超克されていますから、意識と事態とのずれという発想がそもそも乗り越えられているわけです。

 センスデータとしてはとても貧弱な事物が、他の事物を指し示す知的性質を発揮して、記号として活躍し、人間の思考として定在することになります。

その為には事物は元来、思考として現われることを予定して造られているので、精神的存在だと主張しなければなりませんでした。


そこで彼は唯名論、質料主義を徹底して排除し、概念実在論を断固として支持したのです。でも神を論拠にされるとがっかりします。せっかく「科学の方法」を掲げていたのに、困ったときの神頼みのように思え、論理展開にも説得力が無くなってしまいます。

 パースも産業革命とフロンティアの申し子として、真理への無限接近という進歩主義的幻想に取り憑かれていたとも想像されます。

未来の思考に期待を寄せなくても、現在の思考がもたらした成果をもっと重視すべきでした。

唯名論や質料主義に対する反証は、現実の人間社会を構成している社会的事物や、実験観察や応用によって確かめられた豊富な自然的事物に関する科学的なデータによって与えられています。

将来ある程度認識の範囲は拡大されるでしょうが、所詮、宇宙の無限に比べたら毛の先程でしかないことは、繰り返すまでもありません。

我々は現実の世界に対して合理的に理性的に関わらなければならない以上、事物を概念の実在として把握するしかありません。そして無限の宇宙に関しても我々の現実に対する認識を拡張し、推論的に科学的な世界観を形成する他ないのです。
ーーーーーーーーー二、人間と思考の同一視ーーーーーーーーー

 人間の概念の展開と、記号の概念の展開を比較して、結局その内容が同じならば、両者は別物と見なす必要がなくなるという論理で、「人間=記号」が論証されるべきでしょう。

 ところが人間を精神的実在とほぽ同じ意味に最初から前提しているようです。そのため「人間=記号」論の論証が同義反復の印象を与えてしまっています。その点はまだ充分には練れていません。

 つまり「精神とは推論の法則に従って、徐々に展開していくひとつの記号」なので、精神つまり人間は記号なのだと言いたいようです。このことは本稿の第一節で挙げた引用からも言えることです。

 「実際すべての思考が記号であるという命題と、人間の生活は思考の連続であるという命題から、人間が記号であるということが証明できる。

 つまり人間と記号は、『ひと』と『人』が同じであるという意味において同じなのである。こうして私の自我とは私の言語体系以外の何ものでもないということになる。何故なら人間は思考に他ならないからである」(166頁〜167頁)。

 このように人間を思考に還元してしまう定義は、外的実在との一致を目指す「科学の方法」や、行動との結びつきを重視するプラグマティズムの立場とも矛盾します。

 人間の生活は、単に思考の連続であるだけでなく、実践の連続であるとも言えます。それに思考主体と言っても彼の場合は、個人的なものではなく、集団的類的な思考主体ですから、人間を社会的な諸関係の総体として捉える事も必要でしょう。

 もちろん人間が精神的な実在であることは否定できませんから、「人間=記号」論が重要な真理を語っている事は確かです。

 それだけにもっと全面的な人間論にも注意を払った論理展開がなされるべきだったと言えるでしょう。とはいえパースはこの議論を「我々は絶対に認識不可能なものを認識することはできない」という第四命題の帰結として語っているのであり、彼の人間論の全面展開ではないという点に留意する必要があります。
----------------三、事物の思考と「人間観の転換」------------

 パースは、思考活動は人間の言語活動であると共に事物の記号活動でもあると捉えました。

この両者は同じ活動の両面にすぎません。「人間は記号である」という意味はこのように受け止めるべきなのです。

パースは思考の主体を個人から集団に移しました。人間記号論には、更に社会的自然的諸事物を包括する人間的自然全体を思考の主体に取り込もうという壮大な発想が窺えます。

つまり人間を記号であると捉えることによって、もはや人間は自己の身体の枠を超えて人間的自然全体に拡大しているのです。

 事物が他の事物を表示することによって知的な性質を示せば、その事物は記号として立派に人間の定在であり、頭脳を使って思考活動を行っていると言えるのです。

この私の解釈は、自分の「人間観の転換」の立場を補強することを狙った、我田引水的解釈じゃないかとの謗りを受けるかも知れません。

パースの人間記号論の積極的な意義を、より客観的な正しい解釈によって示して頂ければ、人間論の前進に本稿も貢献できることになります。「認識のコミュニティ」の一員としてそのような批判は大歓迎です。

 パースの人間論には〔人間=精神的実在=記号〕の単純な等置として退けるにはあまりにもったいない重要な問題提起が含まれていることは確かです。

ただパースの論理でどうしても弱いと思われるのは、人格的主体や個物の主体性の論理についての考察です。近代的な利己主義に反撥するのはよいとしても、それを乗り超えるためにも個の原理を積極的に捉え返しておく必要がある筈です。

 パースをしっかり読んでからでないと、私のパース解釈は信用できないと思われる方は『世界の名著四八パース・ジェームス・デューイ』をまずお読み下さるようにお薦めします。

パース研究者によるスタンダードな解釈を知りたい人は、米盛裕二著『パースの記号学』(動草書房)をお読み下さい。本稿を書き終えてから、目を通してみたのですが、本稿と大きく矛盾するところは無いように思われます。しかし人間論としての意義を捉えて、それを積極的に展開したものではありません。

〔参考文献〕
パース「論文集」(上山春平・山下正男訳『世界の名著四八』所収)
“Writing of Charles S.Peirce”(Indiana University Press Bloomington)
米盛裕二著『パースの記号学』(勁草書房)

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