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Bowling for Columbineコミュのなぜ銃がなくならないのか?

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 大学院生です。この映画を見て研究テーマを変えてしまったぐらい、私にとって重要な映画です。「なぜ、アメリカで銃はなくならないのか?」というのがリサーチ・クエスチョンです。

 この映画では、いろんなアメリカ社会の側面と銃の問題が結びついて語られていると思います。みなさんは、上記の問いに対してこの映画からどのように考えますか?

 個人的には「恐怖でお金もうけする人がいる」というメッセージが一番強調されている気がするのですが。どうでしょう?

コメント(5)

自分もかなり影響をうけた映画です。

銃を持つことが、人の気持ちを大きくし、自分は強いという錯覚と、他人も同じものを持っているという恐怖が生まれる。そして悪循環が生まれる。ある意味当然の事だと思います。

やられたらやり返す。喧嘩両成敗の考え方は、過激ではありますが、個人的には一理あるように思います。勿論、法律的に許されることではないことも当然です。

銃は非常に強い殺傷能力があるようですね。しかも飛び道具であり、自分の危険も比較的小さくてすんでしまう。
なにかのに書いてありました。「銃は遠くから殺す。だから、人を殺すということが容易で、殺したという実感は小さくなる。対して、ナイフ等で殺すことは、人の痛みをその手に感じてしまう。人を傷つけたという実感が強く残る。」全くそのとおりだと思います。

銃が身近にあった場合、法律で銃の所持が認められた場合、やはり自分も銃を所持したいと思うでしょう。そして、外界との接触には慎重になるでしょう。これは想像の域を超えませんが、そう想像してしまう自分も怖いです。

アメリカ人の国民性を、他国と比較して紹介されていましたが、そんな悠長なことを言っている事態ではないと思います。
そこに「ある」ことが「使う」ことに直結してしまう。それならば、「ない」という状態にしなければどうにもならないのではないでしょうか。

へいかさんの問うているものとはずれてしまっているかもしれませんが・・・。
>モンチさん
 はじめまして。少し遅れましたがコメントありがとうございます。

・銃を持つことと「強さ」
 おっしゃる通り、銃を持ちたがることと「強さ」は関係があると思います。ごらんになったかは存じませんが、映画『猿の惑星』で、核兵器を神とあがめる集団がいました。こうした武器、「強さ」、「信仰」は何かの関係があるのかもしれません。

・悪循環
 それから、銃を持つ→恐怖→銃所持の悪循環は『ボーリング・フォー・ザ・コロンバイン』のメッセージの一つですね。ただし、多くの国で、銃による安心感および強さと恐怖の差し引き計算の結果(?)、銃の規制が政府によって行われるのに対し、何故アメリカが?ということはまだ疑問として残ります。この点は興味ぶかいです。

・銃という「近代的」武器
 銃が可能にする遠距離からの殺傷は、近代的「武器」一般に共通することだと思います。湾岸戦争の際、戦闘機の映像に記録された、倉庫がロックオンされ爆破される映像がニュースに流れました。これがテレビゲームのようだと批判されたのを思い出しました。その「非人間的」な有様は、爆破によって生み出される実際の人の痛みを捨象するものです。これは映像に限らず、武器を行使する側と行使される側の、心理的・物理的距離感を生み出すものだと思います。こうした武器の物理的距離感と他人への不審ないし恐怖がリンクしているように思えてなりません。
 
 仕事・観光でアメリカに行く日本人も多い、という実際的な危険性ももちろんですが、アメリカの銃の問題は、なんとなく他人ごとには思えないもっと一般的な問題にも思えます。そのあたりは具体的に説明することはできませんが。それがこの映画を見た後強く感じたことでした。

 「ない」という状態にならない理由は、どのようなものか、その点でもこの映画はいろんな側面を描き出しているように思えるのですが・・・どうでしょう?
丁寧なお返事ありがとうございます。
「猿の惑星」未見ですので、観たら書き込みます。

何故、アメリカが?という疑問に対しては、私見ですが、アメリカという独特な歴史を持つ国の特殊性が、一要因であるようには思います。「好戦的な」といってしまえば語弊がありますが、インディアンの地に新たな国を築き、常にその逆襲に脅えた結果とは言いすぎでしょうか?

自分は、確かに銃社会を他人事と考えているようです。
それは、このような映画が製作される以前のアメリカという国への恐怖に起因しています。
「銃社会であること=危険」という等式が、アメリカ人の意識として「あるか否か」。この映画によって、ようやくその危機感を表現してくださった監督には、好感をもちました。

自分は若造ですし、アメリカという国に行った事もありません。銃というものからある程度の距離を感じていることは確かです。
恐らく自分が文学部で大衆文学を研究し、文章の中で銃に触れながら、実際には触れていないことも原因なのだと思います。

確かに、銃の諸問題について、もっともっと自覚しなければならないことが多く残っていると感じます。

この問題について再度考える機会を与えてくださったへいかさんにも感謝しています。
遅ればせながら昨日映画を見た者です。
銃についてはアメリカ社会の特徴を考えなければならないのではないかと思います。

というのはアメリカ郊外農村部などでは、となりの家まで車で何10分、という所もあるようですね。このような場所では、仮に強盗が押し入ってきても、警察を呼んで対処してもらうような時間のゆとりはない。であれば、自ら銃を持ち、強盗に立ち向かうことが必要になる。現地に住む人であれば、このように考えることは自然ではないかと思われます。

また、銃犯罪件数が1万件を越えるという現在のアメリカの状況は、それ自体が銃を所持することへの理由と動機になっています。
これは、へいかさんが仰られた悪循環ですね。

相手が武力をもって自分に相対しているのならば、こちらはそれ以上の武力をもって自分の身を守らなければいけない。

あれ?何かに似てるぞ?
冷戦時代の核抑止かこれは?

すみません。話がずれました。
しかし、これらの問題にはアメリカ社会の持つある種のコモンセンスが、悪い形として表出しているように感じられてなりません。

そのセンスとは、やはり「恐怖」であり、それには絶対「打ち勝たなければならない」というような強迫観念(?)であるような気がします。

話がやや大きな方向へ行きましたが、やはり銃を減らすのであれば、銃を所持する人々の動機から解明しなければならないと思うのです。銃自体が持つ力強いイメージと、それを「ぶっ放す」ことによる爽快感。それらと自らを守るという義務・権利意識が渾然となっているからこそ(←恐らく当人らはそれに気付いていない)銃を規制するという議論はアメリカで反発を受けるのではしょうか。


映画を見たばかりでまた整理が着いておらず、
支離滅裂な文章で申し訳ありませんm(__)m
あくまでこれは、映画を見たファーストインプレッションだと思って下さい。
みなさん、コメントありがとうございます。

>モンチさん

・歴史、特殊性
>何故、アメリカが?という疑問に対しては、私見ですが、アメリカという独特な歴史を>持つ国の特殊性が、一要因であるようには思います。

 アメリカの小学生が読む教科書を読んだのですが、やたらと銃に関する表記がでてきます。植民地時代、独立戦争、南北戦争・・・もちろんこうした戦争や紛争は国家の歴史にはつきものですが、それにしても銃に関する記述が多いことが印象的でした。
 最近の歴史学の議論では、「アメリカは銃と昔からなじみのある」という話が実は、最近になって作られたもので実際はそれほどではなかった、というものが有力であったりします。実際どうだったかは、難しい議論ではありますが、アメリカ人自身にとって銃が、国家を他の国家や集団と隔てる際の差異をつける印のようなものとなっていることは間違いないでしょう。

・恐怖、危険
>「銃社会であること=危険」という等式が、アメリカ人の意識として「あるか否か」。

 銃を所持しようとする人の多くが、安全である気持ちを得たいがために銃を所持する、という現実があります。もちろん、この映画では銃があることが危険であるというメッセージが主調となっていますが。反対派と賛成派では、危険に対する捉え方がことなっているといえるでしょう。

 銃賛成派・・・犯罪者、侵入者が危険をもたらす→銃所持
 銃反対派・・・銃が危険をもたらす→銃規制を呼びかける

 こうした危険に対する捉え方の違いは作中でも描かれていますよね。ロスで一番危険とされるところに監督が出向き、ガスの影響でそこからのハリウッドサインがぼやけて見える。じゃあごのガスの汚染のほうがよっぽど危険じゃあないか、という風に。

>ふくろ さん

 はじめまして。
・アメリカ社会の特徴
>というのはアメリカ郊外農村部などでは、となりの家まで車で何10分、という所もあるようですね。このような場所では、仮に強盗が押し入ってきても、警察を呼んで対処してもらうような時間のゆとりはない。であれば、自ら銃を持ち、強盗に立ち向かうことが必要になる。現地に住む人であれば、このように考えることは自然ではないかと思われます。

 現実的にはおっしゃられるとおりです。が、同じような離れたところに住む邸宅は、他の国や日本にもありますよね。そこで問題になるのは「仮に強盗が押し入って」という想定がある地域ではどうして強く意識されるかであり、同時にそこである地域ではどうして「銃を持つ」ということになるか?がとわれなければいけないと思います。
 これはいわゆる危機管理と呼ばれるもので、国家という枠組みで言うならばほとんどの国家機構にはこうした「仮に」にそなえ軍隊が配備されている状態にあります。そういう意味で言えば、銃をもつことは決して人事ではないといえますが、それが一般レベル、日常レベルに及ぶという意味でアメリカの状況は興味深いと思います。
 映画作中でも、コロンバイン高校の地区で軍事兵器を作っているシーンがありましたが、それは軍事兵器、銃社会を並列させた批評になっている、と思うのですがどうでしょう。

・恐怖
>しかし、これらの問題にはアメリカ社会の持つある種のコモンセンスが、悪い形として表出しているように感じられてなりません。
>そのセンスとは、やはり「恐怖」であり、それには絶対「打ち勝たなければならない」というような強迫観念(?)であるような気がします。

 おっしゃる通り、恐怖への対処として銃所持が行われている、という状況があると思います。ですが、日常で銃を持つことにより返って、そうした恐怖を日常で抱え込むあ、あるいは強化するような状況があるのでは?というのが僕の推測です。
 一方で、恐怖・暴力は人を引き寄せる力をもつものです。ホラー映画はもちろん、アクションやサスペンス映画もそうだといえます。日本でも毎週火曜日9時からテレビで人が死にますが(笑)、銃を所持したりはしない。銃所持を考える際に、こうした恐怖や暴力が人を引き寄せる性質も考慮に入れる必要があるのではないでしょうか?
 思えばこの映画「ボーリング・・・」も、衝撃的なコロンバイン高校の事件のオーディエンスへの引力を、社会批評の回路に結び付けている、という作品だと思います。

 まだ、自分の中でも整理がついていない段階ですが、いかがでしょう?

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