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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  239

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 彼は隣の若い女と落ち着かない共同生活をしていた。
 クリストフが初めて来たとき出迎えた女がそれだった。
 彼女はエマニュエルを愛していて、細心に彼のめんどうをみてやり、彼の生活を整え、彼の作品を写し直し、彼の口述を書き取っていた。

 彼女はきれいではなかった。
 そして熱烈な魂をもっていた。
 平民の出であって、長い間ボール紙工場の女工をし、つぎには郵便局の雇員になって、その幼年時代に、パリーの貧しい労働者に通例な環境に苦しんできた。

 魂も身体も他人といっしょにつみ重ねられ、疲労の多い仕事をし、たえず人中に混じり、空気もなく、沈黙もなく、一人きりのこともなく、思いを澄ますこともできず、心の神聖な隠れ場を保つこともできなかった。

 けれども彼女は高慢な精神をもっていて、漠然《ばくぜん》たる真理の理想にたいして敬虔《けいけん》な熱情をいだいていたので、眼が疲れきるのもいとわずに、夜中、時とすると燈火もなく月の光で、ユーゴーのレ・ミゼラブルを写し取っていた。

 彼女がエマニュエルに会ったとき、エマニュエルは彼女よりもいっそう不幸で、病気にはかかるし生活の手段もなかった。
 彼女は彼に一身をささげた。
 その情熱は彼女には最初のものであり、生涯《しょうがい》にただ一度の恋愛だった。

 それで彼女は飢えたる者の執念をもってそれにすがりついた。
 その愛情は受けるよりも与えるほうが少ないエマニュエルにとっては、恐ろしい重荷だった。

 彼は彼女の献身に心打たれてはいた。
 彼女は彼にとって女友だちのうちのもっともよいものであり、彼を全世界とも見なして彼なしでは生きられないただ一人の者である、ということを彼は知っていた。

 しかしその感情がまた彼を圧倒した。
 彼には自由が必要であり孤独が必要だった。
 むさぼるように彼の眼つきを求めてる彼女の眼が、うるさく彼につきまとった。

 彼は彼女に荒々しい口をきいた。
 「行っちまえ!」と言ってやりたかった。

 また彼女の醜さや粗暴さにもいらだたせられた。
 彼は上流社会を見たことはあまりなかったし、また上流社会にたいして多少軽蔑《けいべつ》の念を示していた。
 なぜなら、上流社会にはいって自分の醜さと滑稽《こっけい》さとがいっそう目立つのを苦にしていたから。

 けれども優美な姿態には感じやすかった。
 そして彼が自分の女の友にたいしていだいてるのと同じ感情を、彼にたいしていだいてる(それを彼は少しも気づかなかったが)女たちに、心をひかれていた。

 彼は彼女に愛情を示そうとつとめた。
 しかしその愛情を実際にもってはいなかったし、たといもっていてもそれは無意識的な憎悪の激発によってたえず暗くされた。

 そして彼は愛情を示すことができなかった。
 彼は胸の中に、善をなしたいというりっぱな心をもってはいたが、また悪をなしたがる暴虐な悪魔をももっていた。

 その内心の戦いと、自分の有利には戦いを終え得ないという意識とが、彼を駆って暗黙な激昂《げっこう》に陥らしていた。
 そしてその飛沫《ひまつ》をクリストフは受けたのだった。

 エマニュエルはまたクリストフにたいして、二重の反感をみずから禁じ得なかった。
 一つは昔の嫉視《しっし》から出てきたものだった。
 幼年時代のそういう熱情は、虜囚が忘れられたときにもなおその力が残存しているものである。

 も一つは熱烈な国家主義から出て来たものだった。
 前時代のすぐれた人々によって考えられた正義や憐憫《れんびん》や人類親和などの夢想を、彼はことごとくフランスのうちに化身《けしん》せしめていた。
 他の国民の没落によって運命が栄えるフランスというものを、ヨーロッパの他のすべての国に対立さしてはいなかった。

 がフランスを他の国々の上に置いて、全部の国々の幸福のために君臨してる正当なる主権者――人類の指導者たる理想の剣としていた。
 フランスが不正を行なうくらいならば、むしろフランスが滅亡するほうが好ましかった。

 しかし彼はフランスにたいしていささかも疑念をもっていなかった。
 彼はその教養も心も徹頭徹尾フランス式であり、フランスの伝統だけに育てられていて、フランス伝統の深い理由を自分の本能のうちに見出していた。

 他国の思想を生真面目《きまじめ》に否認して、それにたいして軽蔑《けいべつ》的な寛容さをいだいていた。
 もし他国人がその屈辱的な地位に甘んじないときには、憤慨の念をいだいていた。

 クリストフはそれらのことをみな見てとった。
 しかしもう年取っているし世馴《よな》れているので、それを少しも気にしなかった。
 その民族的傲慢《ごうまん》心は人の気を害するものではあったが、彼は別に心を痛められはしなかった。

 彼は祖国にたいする赤子の愛から来る幻を考量してやって、神聖な感情の誇張を非難しようとは思わなかった。
 その上に、自己の使命にたいする民衆の誇大な信念は人類のためになるものである。

 けれども、エマニュエルから遠く離れてる心地を起こさせるすべての理由のうちで、ただ一つ我慢しがたいものがあった。
 それはエマニュエルの声だった。
 その声は時とすると極度に鋭い音調に高まっていった。
 クリストフの耳にはそれがひどくさわった。

 彼は渋面をせずにはいられなかった。
 そしてエマニュエルにそれを見つけられないようにつとめた。
 彼は楽器の音を聞かずに音楽だけを聞こうと骨折った。

 この不具の詩人が、他の勝利の先駆として精神の勝利を描き出し、また、群集を奮起さして、歓喜せる彼らを、遠い空間のほうへ、あるいは来たるべき復讐《ふくしゅう》のほうへ、ベツレヘムの星のように引き連れてゆく、空中の征服を、「飛行の神」を、描き出すとき、いかに勇壮の美が彼から輝き出したことだろう!

 けれども、そういう精力の幻影がもってる光輝を見るにつけてもクリストフは、その危険を感ぜずにはいられなかった。
 その襲撃とその新しいマルセイエーズのしだいに高まる叫び声とが、どこにたどりつくかを予見せずにはいられなかった。

 彼は多少の皮肉をもって(過去にたいする愛惜も未来にたいする恐怖もなしに)考えた。
 その歌は歌手が予見していない反響を伴うだろうということを。
 そして、消え失《う》せた広場の市の時代を人があこがれる日が来るだろうということを。

 あの当時人は実に自由であった。
 それは自由の黄金時代であった。
 人はもうけっしてそういう時代を知らないだろう。

 世界が向かって行きつつある時代は、力と健康と雄々しい活動との時代であり、またおそらく光栄の時代でもあろうが、しかし冷酷な権力と偏狭な秩序との時代であった。
 その時代を、われわれはいくら希望どおりに、鋼鉄時代、古典《クラシック》時代、と呼んでも詮《せん》ないことだ。

 偉大なる古典時代は――ルイ十四世もしくはナポレオンの時代は――遠くより見れば人類の絶頂のようにも思われる。
 そしておそらく国民はその国家的理想をそこにもっともりっぱに実現してるようである。

 しかしその時代の偉人らになんと考えていたかを尋ねてみるがよい。
 あのニコラ・プーサンはローマに立ち去ってそこで死んだではないか。
 彼はこの国では息がつけなかったのである。

 またあのパスカルやラシーヌは世間に別れを告げたではないか。
 そして他にももっとも偉大なる人々のいかに多くが、世に合わず迫害せられて孤独な生活を送ったことだろう!
 モリエールのごとき人の魂の中にも多くの憂苦が潜んでいたではないか。

 諸君があれほど愛惜しているナポレオン時代にも、諸君の父祖はみずから幸福だと思いはしなかったようである。
 そしてナポレオン自身も誤った見解をもってはいなかった。
 彼は自分の死後に人々がほっと息をつくだろうことを知っていた。

 皇帝]の周囲にはいかに思想の沙漠《さばく》が横たわっていたことであるか!
 それは広漠たる砂原の上に照るアフリカの太陽であった。

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