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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  155

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 次郎は、そうした気分に接するごとに、二人がうらやましくも尊くも思え、同時に自分のいたらなさが省《かえり》みられるのだった。
 ある冬の朝、――それはたしか第四回目の塾生活がはじまろうとする数日前のことだったと思うが、――朝倉先生は、居間《いま》の硝子戸《ガラスど》ごしに、じっと庭のほうに眼をこらし、無言ですわっていた。

 そこへ次郎が朝のあいさつに行った。
 すると先生は黙《だま》ってかれに眼くばせした。かれにもそとを見よという合い図らしかった。
 次郎は、すぐ二人のうしろにすわってそとを見た。

 葉の落ちつくした櫟《くぬぎ》の林が、東から南にかけて、晴れた空に凍《い》てついている。
 日の出がせまって、雲が金色に燃えあがっていた。
 数秒の後、まぶしい深紅《しんく》の光が弧《こ》を描《えが》いてあらわれたと思うと、数十本の櫟の幹の片膚《かたはだ》が、一せいにさっと淡《あわ》い黄色に染まり、無数の動かない電光のような縞《しま》を作った。

 「しずかであたたかい色だね。」
 朝倉先生は、櫟の林に眼をこらしたまま、ささやくように言った。
 夫人も次郎も、言葉の意味をかみしめながら、かすかにうなずいただけだった。
 太陽がすっかりその姿をあらわしたころ、今度は次郎が言った。

 「あの櫟林《くぬぎばやし》の冬景色は、
  たしかにこの塾の一つの象徴《しょうちょう》ですね。
  ことにこんな朝は。
  まる裸《はだか》で、澄んで、あたたかくて――」
 「うむ。
  しかし本館からはこの景色は見られない。
  惜《お》しいね。」

 「すると、この住宅の象徴でしょうか。
  しかし、それでもいいですね。
  先生、どうでしょう。
  櫟の林にちなんでこの住宅に何とか名をつけたら。」
 「ふむ。
  空林、空林庵《くうりんあん》はどうだ。
  つめたくて、すこし陰気《いんき》くさいかな。」

 「しかし、空林はすばらしいじゃありませんか。
  ぼく、すきですね。
  庵がちょっとじめじめしますけれど。」
 「それはまあしかたがない。
  こんな小さな家には、庵ぐらいがちょうどいいよ。
  閣《かく》とか荘《そう》とかでは大げさすぎる。
  はっはっ。」

 すると夫人が、
 「いい名前ですわ。
  すっきりして。
  あたたかさは、三人の気持ちで出して行きましょうよ。」
 それ以来、この簡素な建物を空林庵と呼ぶことになったが、次郎にとっては、庵という字も、もうこのごろでは、じめじめした感じのするものではなくなっている。

 それどころか、かれは今では、どこにいても、空林庵の名によって自分の現在の幸福を思い、しかもその幸福が、故郷の中学を追われたという不幸な事実に原因していることを思って、人生を支配している「摂理《せつり》」の大きな掌《てのひら》の無限のあたたかさに、深い感謝の念をさえささげているのである。

 次郎は、今、その空林庵の四畳半で、雀の声をきき、その飛び去ったあとを見おくり、そしてしずかに「歎異抄《たんにしょう》」に読みふけっているわけなのである。
 かれがなぜこのごろ「歎異抄」にばかり親しむようになったかは、だれにもわからない。
 それはあるいは数日後にせまっている第十回目の開塾にそなえる心の用意であるのかもしれない。

 あるいは、また、かれの朝倉先生に対する気持ちが、「たとへ法然上人《ほうねんしょうにん》にすかされまゐらせて念仏して地獄《じごく》におちたりとも、さらに後悔《こうかい》すべからずさふらふ」という親鸞《しんらん》の言葉と、一脈《いちみゃく》相通《あいつう》ずるところがあるからなのかもしれない。

 さらに立ち入って考えてみるなら、自分の現在の生活を幸福と感じつつも、まだ心の底に燃えつづけている道江への恋情《れんじょう》、恭一に対する嫉妬《しっと》、馬田に対する敵意、曽根少佐や西山教頭を通して感じた権力に対する反抗心《はんこうしん》、等々が、「歎異抄」を一貫して流れている思想によって、煩悩熾盛《ぼんのうしじょう》・罪悪深重《ざいあくしんちょう》の自覚を呼びさます機縁《きえん》となっているせいなのかもしれない。
 すべてそうしたことは、かれのこれからの生活の事実に即《そく》して判断するよりほかはないであろう。

 で、私は、過去三年半のかれの生活の手みじかな記録につづいて、かれのこれからの生活を、もっとくわしく記録して行くことにしたいと思っている。

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