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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  165

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 イプセンはこう言っている。
 生来の才能とは異なったより以上のものを、芸術のうちに保存させんがためには、生活を満たして生活に一つの意義を与えるような、熱情や苦悩が必要である。
 さもなければ、人は創作をすることがなく、ただ書物を書くのみである。

 クリストフは書物を書いていた。
 しかし彼はそれになずんではいなかった。
 それらの書物は美しいものではあった。
 しかし彼はそれほど美しくなくとももっと生き生きとした書物が好ましかった。

 自分の筋肉をどう使ってよいかわからない休らえる格闘者とも言うべき彼は、退屈せる野獣のような欠伸《あくび》をしながら、自分を待ってる静かな仕事の年々を、うちながめていた。
 そして、ゲルマン的楽天主義の古い素質をもって彼は、万事都合よくいってるのだと思い込みがちだったので、これは避けがたい一局面に違いないと考えた。

 暴風雨から脱したことを、自分の主となったことを、みずから祝していた。
 でも自分の主となることは大した意味のものではなかった。
 結局人は、自分のもってるものを支配するのであり、なり得るものになるのである。
 クリストフはもう港へ着いたのだと思っていた。

 二人の友はいっしょに住んではいなかった。
 ジャックリーヌが家出をしたときクリストフは、オリヴィエがまた自分の所に引っ越してくるだろうと思った。
 しかしオリヴィエはそうすることができなかった。
 クリストフに近づきたくはあったけれど、昔のような共同生活をふたたびすることができないのを感じた。

 ジャックリーヌと幾年か共に暮らしたあとでは、自分の生活の秘密な内部に他人を入り込ませることは、許しがたく思われたし、冒涜《ぼうとく》とさえも思われた。
 しかもその他人を、彼はジャックリーヌよりも幾倍となく愛していたし、また愛せられてもいたのであるが。
 それは理屈ではどうにもならないことだった。

 クリストフは了解に苦しんだ。
 彼は何度もそのことを言い出し、驚いたり、悲しんだり、腹をたてたりした。
 その後彼は、知力よりもまさった本能によって察知することができた。
 突然口をつぐんで、オリヴィエが至当だと考えた。

 しかし二人は毎日会っていた。
 これほど気が合ったことはかつてなかった。
 もっとも内密な思想を話し合いはしなかったかもしれないが、実はその必要がなかったのである。
 思想の交換は、愛し合った心のおかげで、言葉の助けをかりなくとも自然になされたのである。

 二人ともあまり話はせずに、一人は芸術のうちに、一人は追憶のうちに、浸り込んでいた。
 オリヴィエの苦悩は和らいでいった。
 しかし彼はそのために少しも努力をしたのではなく、かえって苦悩を喜んでるくらいだった。

 苦悩こそ長い間、彼の唯一の生存の理由だった。
 彼は自分の子供を愛していた。
 しかしその子供は――泣きたてる赤児は――彼の生活のうちに大なる場所を占めることはできなかった。

 父親というよりも多く情人である者が世にはある。
 それを憤慨するのは無益のわざだろう。
 自然は一様なものではない。

 同じ心の法則を万人に強《し》いんとするのは馬鹿《ばか》げたことだろう。
 何人《なんぴと》も心のために義務を犠牲にするの権利をもってはしない。
 しかし少なくとも、義務を果たしながらも幸福を感じないという権利を、心に認めてやらなければならない。
 オリヴィエが自分の子供のうちにおそらく愛したところのものは、子供を作り上げた肉体の所有者たる彼女をであった。

 最近まで彼は、他人の苦しみにはあまり注意を払わなかった。
 彼はあまりに自分のうちに閉じこもってる知者だった。
 それは利己心ではなくて、夢想にばかりふける病的な習慣だった。
 ジャックリーヌは彼の周囲のその空虚をさらに広げてしまった。

 彼女の愛は、彼と他の人々との間に魔法的な区画線を引き、愛が消えてしまったあとにもなおそれが残存していた。
 そのうえ彼は、気質からして一の貴族だった。
 幼年時代から彼は、やさしい心根にもかかわらず、身体と魂との生まれつきの繊弱さのために、大衆から遠ざかっていた。
 公衆の匂《にお》いや思想に嫌悪《けんお》の情を覚えた。

 しかし、ごくありふれた一つの雑事を目撃してからは、すべてが一変してしまった。
 彼は、クリストフやセシルの住居とあまり遠くないモンルージュの高地に、ごく粗末な部屋を借りていた。
 卑俗な町で、その家には、わずかな定期収入をもってる者や、下級の勤め人や、労働者の家族などが住んでいた。

 他の時ならば、彼は自分がまったく他国人の感じがするその周囲を苦にしたかもしれない。
 しかしそのころ彼は、どこに住んでも大して違いがなかった。
 どこへ行っても他国人の気がするのだった。
 隣にどういう人たちがいるかほとんど知らなかったし、また知りたくもなかった。

 仕事――(彼はある出版屋に勤めていた)――からもどって来ると、追憶とともに室に閉じこもって、子供やクリストフへ会いに行くほかは外出しなかった。
 彼にとってその住居は家庭ではなかった。
 過去の面影が固着してる暗室だった。
 室が暗くて無装飾であればあるほど、ますますはっきりと映像が浮き出してくるのだった。

 彼は階段ですれ違う人々の顔にもほとんど注意を向けなかった。
 けれども知らず知らずのうちに、ある幾つかの顔が彼の頭に残っていた。
 ある種の精神の人々は、事物を過ぎ去ったあとにしかよく見ようとしない。

 しかし過ぎ去ったあとでは、何にも彼らの眼をのがれるものはなく、ごく些細《ささい》な事物までが深く刻みつけられている。
 オリヴィエもそういう種類の男だった。
 彼は生きてる人々の影でいっぱいになっていた。
 一つの感動に打たれると、それらの影が浮き上がってきた。

 するとオリヴィエはびっくりし、知り合いでもなかったそれらの影を認め知り、時としては手を差し出してとらえようとした。
 がもう時期遅れだった。

 ある日彼は、家から出かけるとき、門の前に人だかりがしてるのを見た。
 そのまん中で門番の女がしゃべりたてていた。
 彼はあまり好奇心を覚えなかったので、訳を尋ねもしないで通り過ぎようとした。

 しかし門番の女は、一人でも多く聞き手を集めたがって、彼を呼び止め、この気の毒なルーセル一家にどんなことが起こったか知ってるかと尋ねた。
 オリヴィエは「気の毒なルーセル一家」が何物であるかをも知らなかった。
 そして彼は丁寧《ていねい》な冷淡さで耳を貸した。

 父と母と五人の子供との労働者一家が、この家の中で貧困のあまり自殺をしたところだ、ということを知ったとき、彼は他の人々と同様に立ち止まって、家の壁をながめながら、あかずに話を繰り返してる女の言葉に耳を傾けた。
 彼女が話してゆくに従って、彼のうちには種々の思い出がよみがえってきて、その人たちに会ったことがあるのに気づいた。

 彼は、二、三の質問をしてみた。
 まさしく彼らを知ってたのである。
 主人――(彼はその音のする呼吸を階段でよく聞いたのだった)――はパン屋の職人で、蒼《あお》ざめた顔色をし、竈《かまど》の熱気に貧血し、頬《ほお》はくぼみ、髯《ひげ》もよく剃《そ》っていなかった。

 冬の初め肺炎にかかった。
 すっかり回復しないうちにまた働き出した。
 突然病気が再発した。
 三週間ばかり前からは、仕事もなければ体力もなかった。

 上さんは引きつづいて妊娠ばかりしており、リューマチで身体もきかなかったが、一生懸命に骨折ってどうにか世帯のことをし、毎日毎日駆けずり回っては、貧民救済会からわずかな助けを得ようとした。
 それもなかなか急には得られなかった。

 そのうちにも、子供は引きつづき生まれた。
 十一歳、七歳、三歳――そのほか、間に亡くなった二人、なおその上に、ちょうど折り悪《あ》しくも双生児《ふたご》が生まれた。
 前月生まれたのだった。

 「双生児の生まれた日にね、」と隣のある女が話した。
 「五人のうちの総領娘で、
  十一になるジュスティーヌが――かわいそうな子じゃありませんか!
  どうして二人の赤ん坊を背負えるかしらって尋ねながら、泣き出したんですよ……。」

 オリヴィエはただちに、その少女の姿を思い出した。
 大きな額、後ろに引きつめられた艶《つや》のない髪、とびだしてる濁った灰色の眼。

 外で出会うといつも彼女は、食料品を運んでいたり、小さい妹を負ったりしていた。
 あるいはまた、細《ほっ》そりして虚弱で片目である七歳の弟の、手を引いてることもあった。
 オリヴィエは階段などですれ違うと、ぼんやりした丁寧さで言うのだった。
 「ごめんなさい、お嬢さん。」

 彼女のほうではなんとも言わなかった。
 ほとんど身をかわしもしないでつんとして通り過ぎた。
 しかし彼の空《から》お世辞も、彼女には内心うれしかった。
 前日の晩六時ごろ、彼は階段を降りてゆくとき、最後に彼女に出会った。

 彼女は一桶《おけ》の木炭を運び上げていた。
 荷は重そうだった。
 しかしそんなことは下層の子供たちには普通の仕事である。

 オリヴィエはいつものとおり、彼女の顔に眼をやりもしないで挨拶《あいさつ》した。
 数段下へ降りて、なんの気もなく見上げてみると、彼女の引きつった小さな顔が、階段の中段の所からじっと、降りてゆく彼のほうをながめていた。

 彼女はすぐにまた上りだした。
 どこへ上って行くのか彼女はみずから知っていたろうか!
 オリヴィエは夢にも知らなかった。

 そして今彼は、死を――解放を、重すぎる桶《おけ》の中に入れて運んでいたその少女のことで、頭がいっぱいになった。
 不幸な子供らよ、彼らにとっては、もう生きないということはもう苦しまないという意味だったのだ!

 オリヴィエは散歩をつづけることができなかった。
 彼は自分の室へもどった。
 しかしそこで彼は、あの死人たちが自分の近くにあることを感じた。
 幾つかの壁で隔てられてるのみだった。
 それらの苦悩のそばに暮らしてきたことを考えてもみると!

 彼はクリストフに会いに行った。
 胸がしめつけられるような心地だった。
 多くの人々が自分のより何倍もひどい不幸を苦しんでおり、しかも救われることができる場合にあるのに、自分のようにいたずらな愛の未練にとらわれてるのは、いかに奇怪なことであるかと、彼は考えた。

 彼の感動は深いものだった。
 すぐに他の者へも伝わることができた。
 クリストフもやはり心を動かされた。
 オリヴィエの話を聞いて彼は、児戯に類した慰みをやってる利己主義者だと自分を見なして、書いたばかりの楽譜を引き裂いた。

 しかしそのあとで、引き裂いた紙片を拾い集めた。
 彼はあまりに自分の音楽に心ひかれていた。
 そして、芸術上の作品を一つ減らしたとて幸福が一つ増すものでないと、本能的に考えた。

 その種の貧困の悲劇は、彼にとっては珍しいものではなかった。
 幼年のころから彼は自分で、そういう深淵《しんえん》の縁を歩くことに慣れていたし、それに落ち込みもしなかった。
 そして現在では、みずから力の充実した感じがしていたし、いかなる苦しみのためにもせよ奮闘を断念するということは、考え得られなかったので、自殺にたいしては峻厳《しゅんげん》な考えをもってさえいた。
 苦しみと闘い、それこそもっとも普通のことではないか。それこそ世界の背骨である。

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