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斎藤龍鳳コミュのリューホーへ

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私には2度の婚約⇒婚約破棄の『前科』がある。
画像は左翼の映画評論家、自称トロツキストの斉藤龍鳳。
あ、19歳の時の婚約者です。
なぜ、こんな露悪的なトピックを載せるのかというと、昨夜、いいえ、今朝、とてもリアルな夢を見たから。
斉藤龍鳳が(私はリューホーと片仮名っぽく呼んでいた)、うちの近所の八幡様の境内にいて、まじまじと私の顔を見て、
「マ……キ?」
ヤバいと思った。ママに知られたら、大事だ。
それで逃げるように、その場を去ったのだけれど、兄が、「これ」といって、野球のボールを持ってきた。
そのボールには、『Makiko』と。
そこで、ハッと目が覚めた。
冷や汗をかき、心臓がどきどきしていた。
ここに何か書くことが、少しでも供養になるだろうか?
わからない。
でも、自分のためにも書いておきたい。
斉藤龍鳳は 昭和3年生まれ。
予科練で、出撃のため、機に爆弾を積みこんでいる時に、玉音放送を聞いたという。
私と知り合ったのは、大学1年の夏。演劇部の合宿で、南伊豆の入間に行った時。
先輩たちが「斉藤龍鳳が来てるぞ!」と大騒ぎになり、みんなで彼の話を聞くことになったのだけれど、私は「斎藤龍鳳って誰?」
革命が起きたら、銀行はどうなるのかとか、家は、大学はなど、先輩たちは質問し、白いトレパンのリューホーは、べらんめえ口調で、
「おめえら、わかってんのかよ。資本主義じゃなくなるんだぞ。銀行だぁ?大学だぁ?寝とぼけたこというんじゃねえよ」
全1冊の全集『なにが粋かよ 斎藤龍鳳の世界』中、『遊撃伊豆日記』に、私のことが出てくる。ーーマキ、フランス語の試験終わり、冷酒で私と乾杯。サルーテーーなどなど。
私が鶯谷の福寿荘に入り浸って、帰ってこなくなったため、母は恐慌をきたし、とにかく家に連れてきて、紹介しなさいという。
リューホーはやってきた。ハイミナールで、レロレロになって。
応接間のピアノで、人差し指で、『月の砂漠』を弾く彼に、父が苦々しく、「座ってくださいよ」といった。
それからは、めくるめく展開となった。
父はぽんと、南平台の2DKのマンションを購入。披露宴はホテルオークラを予約。仲人には丸山邦夫氏を立てて、婚約式までやった。
リューホーは即、南平台のマンションに引っ越してきた。
「どこをひねってもお湯が出る。気味が悪いなぁ」と言いながら、数少ない私物の整理をしていた。
もしもあの時、彼がすべてを一蹴してくれたら。
もしも些細なことで、母親を足蹴にしなかったら。
もしも私を「マキコ」と呼ばなかったら。
そうしたら、ガス中毒による死を防げただろうか?
いやいや。そんなヤワな男ではない。
私がついていようがいまいが、本人の言葉を借りれば、「不真面路線を、真面目に突っ走った」人なのだ、彼は。
その証拠に、家に来てまもなく、山谷の労働者と連帯し、警官に投石して逮捕。新聞をにぎわした。
東京都公安委員だった父は、どのような手を使ったのか。リューホーの伯父なる人を探し出し、身元引受人とし、事件をもみ消してしまった。
私は書斎に呼び出された。父は言った。
「キミの結婚相手には、もっと若い、美しい青年を、と思っていたんだ。当時はいたんだよ。ああいうのが。予科練崩れが」
婚約を破棄した後、「これで文句ないでしょう」とばかり、私は南平台のマンションに居座った。
最初のうちは、鹿野園。のちには、上智大仏文全共闘のたまり場となった。
リューホーは、時々、遊びに来た。
私を膝に乗せ、「俺たち、なんで別れたんだろうなぁ」などと言っていた。
電話も、よくかかってきた。いやがる奥さんを無理やり電話に出したり、誕生した娘さんのことを、
「かわいいもんだぜ。俺が新聞紙丸めてよ、頭叩くと、喜んで笑うんだぜ」
文学上の恩師、筒井敬介先生は言った。
「おまき。いつまで児童文学なんかやっているんだ。斎藤龍鳳のことを書けよ。『私のあしながおじさん』ってタイトルで。石堂や松田正男が喜ぶぞ」
ある意味、リューホーは私のあしながおじさんだった。知らない世界を見せてくれて、価値観を変容させてくれた意味で。
初めて浅草へ連れて行ってくれた時。
私は言った。「今日は何かのお祭りなの?」
彼は、あのぎょろ目で、私の顔をまじまじと見て、言った。
「仲見世はいつもこうだよ」
それから、初めて福寿荘へ行った時。
「庭が見たい」と、私は言った。
「庭なんてねえよ」と、彼。
窓を開けると、目と鼻の先に、隣家のブロック塀があった。
その福寿荘の窓際に、ムカシの小学生が使うような机があり、その前に正座をして、彼は映画評論を書いていた。
書き終わると、いつも言っていた。「文章を書くのが好きだなんてやつを、俺は絶対、信用しねえ」と。
最後に会ったのは、東大闘争のさなか、列品館だった。
列品館は、安田講堂へと至る銀杏並木の1番手前に位置する。
ここを陥落させなければ、機動隊は安田講堂に近づけない。
ちなみに、安田講堂陥落時、検挙された学生の70%以上が他大学の学生、いわゆるセクトに属する学生だった。
上智大学は、どの大学よりも早く機動隊を導入し、バリケードを排除。『6か月間、休学とする』と宣言した大学である。これは『上智方式』と呼ばれ、他大学にも適用された。
行き場を失った仏文全共闘は、毛沢東思想を掲げるML派幹部の口利きで、白山通りの日大経済学部のバリケードに居候させてもらっていた。
当時、流行っていた東映仁侠映画ではないけれど、なんちゃって左翼にも、それなりの仁義がある。
列品館は、ML派が「勝ち取って」いた。
それで、私たちは列品館内で、レンガのリレーをやっていた。機動隊へ投石するレンガ。
ふと、レンガを手渡してきた相手を見ると、リューホーだった。
「おう」とか「あら」とか言いながら、私たちはベランダに出た。
そして、煙草を吸った。
「見ろよ。男の花道だなあ」と、リューホーは言った。
彼がML派に深く入り込み、『走れ、紅衛兵』などのエッセイを書いていたことを、私は知らなかった。
ただ、最後の電話で、彼はこんなことを言っていた。
「もう売文はやめた。これからはプロレタリアートとして生きる」
プロレタリアートとして生きる先が、製本工場で働くことだったことも、あとで知った。
訃報は、松田正男氏からの電話だった。
当時、私はML派幹部と付き合っていた。松田氏は言った。
「ぼくはね、あなたは龍鳳と別れたあと、プチブル的な生きかたをしていると思っていたんですよ。でも、〇〇君の裁判闘争を支えていると知って、驚いたというか、なんというか」
「私は葬儀には伺わないほうがいいですね?」
「ああ、うん。そうだな。奥さんがいるしね」
これも、あとで聞いたのだけれど、棺にML派の革命旗をかけるかどうかで、あわや乱闘という騒ぎになったそうだ。
「自分を制することのできない、惨めな最後のやつに、革命旗の資格はない」という一派と、
「彼は彼なりに、一生を通じて国家権力と戦ってきたんだから」という一派と。
結局、革命旗は小さく折り畳まれ、棺に乗せられた。
なんという子どもっぽい、愚かな論争か、と思う。
「もう売文はやめた」という斎藤龍鳳の決意も、哀しいほどに教条的であり、自分で自分を追い込んでいったとしか思えない。
画像の葉書は:私が友人に頼んでアリバイを作り、彼と過ごした短い夏の思い出である。
「こんなのが出てきたんだけど」と、友人が、彼の死後、ずいぶん経ってから、返してくれたものだ。
これ以外に、彼を懐かしむよすがは何もない。
ーー黒潮の熊野灘まで来ました。村内に旅館1ケン、客2人だけ。深い入り江の中で、ハマチと真珠の養ショクが行われています。イサオ氏がこのジジツを知ったら激怒死しそうなくらいのんびりした所で、のんびり泳いでいます。来年はサスペンスがなくなるようにしたいものです。文化果つる所でコトバはまるで聞きとれません。元気で……。リュー」
リューホー。
あなたは私のことを、「生き急いでいる」といったけれど、こうして恥をさらしたまま、老いていっています。
「生き急いだ」のは、あなた。
あなたはレジョンドです。

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