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真夜中のお茶会コミュの三題噺(各話読切)

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三題噺。

もとは落語の形態のひとつで、多少細かいルールがあるようですが、そんな高度な芸当はできないので、適当に思いついた3つのキーワードで短いお話を作ってみます。

手法の元ネタは、ライトノベルの文学少女シリーズから。

コメント(36)

一つ目は、日記からの転送で。



本日のお題: たまご、切手、さくらんぼ


それに気付いたのは、ぽかぽか陽気のお昼過ぎだった。
庭先のポストに、切手がはられたたまごが入っていた。
大きさは我が家の冷蔵庫にもある程度の、ごく普通の白いたまご。
ぺたりと貼られた切手は、見かけないデザインだが、80円と30円が1枚ずつ、横に並べられていた。
薄くかすれてしまい、局名や日付はしかと判別できないが、消印もきちんと打たれている。
ただ、宛先も差出人も書かれていないそれが、はたして一体何のいたずらであるのか、私には推定さえできないような、そんな郵便物だった。
とはいえ、世にも不思議なお届けものだ。
そのまま捨ててしまうのもなんだか忍びなく、一度玄関先に飾ろうとして、ふと思い立ち、一応冷蔵庫にしまっておくことにした。

数日が経ち、縁側で温かな陽光を浴びながら、再びたまごをすげつながめつしていたところ、「もし…」と呼ぶ声がした。
見れば、生垣の向こうに紳士然とした男性がちょうど帽子を取るところであった。
ほどよくグレーに染まる髪の老紳士は、ゆるりと頭を下げ、そして、じぃと私の手元を眺めたのち、「それを、どちらで?」と尋ねてきた。
はたから見れば、切手の貼ってあるだけの単なるたまごにすぎない。
わざわざこれに目を付けるということは、これが何であるのかをあるいは知っているのかもしれない。
私は、率直に尋ねてしまっていた。
「これが、何かご存知なので?」
老紳士は、微笑み、うなずきながら穏やかに云った。
「えぇ、えぇ…、それは、よみがえりのたまごです。 たまごは、生を象徴する形状でしてな」
「つまり…、なにがしかのオブジェのようなものなのですか?」
その名称と形の意味を聞けば、誰であれそう思うだろう。
しかし、紳士はゆっくりと首を横に振り答えた。
「いいえ…、たまごは生モノです。 此方の死を、彼岸の生へと転換する、生きたたまごなのです」
帽子をかぶり直すその男の姿を見ながら、私は急に背筋が薄ら寒く感じられた。
「普通は、可視化することなく、数日のうちに死を受精するところなのですが……、何かの手違いで、ご心配をおかけすることになってしまいましたな…。失礼を致しました」
待て待て。
死を受精するだって?
それがうちに配達されたってのは一体どういうことだ?
「こちらで…、近くお亡くな」
「じょ、冗談じゃない!」
思わず、男の発言を遮って怒鳴ってしまう。
それではまるで、死が近いことを知らせるような──
「この家には私しかいないんだ! こ、こんなたまご送りつけやがって!」
私は、それを男に向かって投げつけていた。
「とっとと持って帰りやがれ!!」

パシリ、と、割れ物とは思えない小気味良い音をたてて、たまごが老紳士の手に収まった。
「…拝領いたします」
紳士は、しばらく手の中のたまごを見つめていたが、やがて生垣の中に向かい、優しい声音で話しかけた。
「順序がいささか違ったようですが…、たまごにはひとつ分しか命は入りません。 先立った彼の分まで長生きして頂ければ、幸いに存じますな。 では…」
そして、男は、縁側に倒れこんだ男性の遺体に小さく黙礼をして立ち去って行った。

すこしだけ傾いた日の光のもと、動くもののなくなった庭の隅で、枯れかけていた鉢植えのさくらんぼの木に、ぷっくりと赤い実がみずみずしく輝いていた。
本日のお題: 原子力発電所、トマホーク、ブタ



その日、交渉は決裂した。
両国の所管大臣は、お互いに無言のまま席を立った。
本国に帰った彼らは、各々の首長に対して、いかに相手が愚鈍で強情で卑怯で卑劣で浅ましく欲深く自分勝手極まりなく薄汚い存在であるかを、滔々と報告し、そして、それぞれの国が平和を手にするためには、もう一方の国を壊滅的に滅ぼさざるを得ない状況に達している、と力説した。

「もはや一刻の猶予もない! 悦楽を貪り堕落した資本主義者のブタどもに、今こそ鉄槌を下す時が来たのだ!」
広場に整然と整列する軍隊と、倍する数のギャラリーに向かって、演者が叫ぶと、地を割らんばかりの大音声が応える。
それを合図にしたかのように、広場の両脇にずらりと並んだミサイルの発射機が一斉に火を噴いた。
歓喜の声を背に受けて、数十本もの鉄槌は、白く尾を引きながら、敵地目指して突き進んでいった。

「レーダに感! 数は…、とても追いきれません!」
光量を落とした部屋に、レーダ手の声が響き渡る。
「やりやがったな…。 弾種は?」
些かばかり冷静を保った声が問う。
「弾道、低いままです…。 誘導ミサイル、恐らくはトマホークかと」
コンソールの画面に目を走らせ、キーボードを叩く要員から、報告が上がる。
精密誘導で飛行する対地上目標のミサイルの名前だった。
「敵ミサイル群、真っ直ぐ海岸線を目指します」
「やはり原発か…」
海岸には、彼らの国のエネルギーを一手に担う原子力発電所群が並んでいた。
しかし、彼らに慌てる様子はなかった。
「帝国の手先…、共産主義のイヌどもが、キャンキャンと煩わしい…。 迎撃用意」
ギシと椅子の背もたれを軋ませて、命令が下された。
原発付近のカメラ映像の中で、待機させた迎撃ミサイルが、陽光を反射してキラリと輝いた。
ところが、レーダ画面の中を高速で移動する輝点は、迎撃ミサイルの射程内に入る直前で、一斉に転進した。
俄かにざわめきたつ室内の面々がまごついている間に、彼らの国の独立を記念した公園と記念館、そして、英雄の像が灰燼に帰した。

それから、短い戦争が始まり、膠着し、舞台は再びテーブルの上へと帰り着いた。
「ハン、何が自由主義だ。 好きなことだけして楽して生きようとしたザマがその腹なんじゃないのか、ブタ野郎?」
「相変わらず弱いイヌほど良く吼えるを地で行く奴等だな」
「何だと手前ェ?」
弱いイヌと揶揄された側が、ブタ野郎と呼ばれた側につかみかかる。
「まぁまぁ、双方とも落ち着いて…」
「私は落ち着いているつもりだが、キミこそ何度同じ台詞を垂れ流すつもりかね?」
「全くだ、何度も何度も腹立たしい。 三歩歩いたらさっき喋ったことも忘れるンだろ、このトリ頭が」
「私に矛先を向けてどうなるものでもないだろう…」
止めに入った仲介者が双方から罵られると、少し離れた位置から、ややしわがれた声が届いた。
「間抜けじゃのう……、わざわざ仲介などしてやろうと思うからじゃ。 馬鹿どもは勝手に喧嘩させて共に弱ってくれれば丸儲けじゃろうが」
「翁、そのような…」
「タヌキジジイ、まずテメーの喉笛から噛み切ってやろうか、あァ?」
各国の代表が騒々しく声を荒げ、議場全体がさざめくのを、一段高い席から眺めていた人物に、小さな影がスッと近づき、囁いた。
「議長…、ここはひとつ、人としてあるべき姿というものを、彼らにご教示願えませんか? このままでは埒が明きません」
議長と呼ばれた男は、小さく息を吐き、誰にともなく呟いた。
「ブタにイヌにニワトリにタヌキ…、それにサル。 ヒトじゃない奴等に、人道を説いてどうするんだよ…」
本日のお題: 蜂蜜、レモン、紅茶



レモンの味がするだなんて、大嘘だった…。


ティーカップに注がれた紅茶は、まるで宝石のように綺麗な紅い色をしていた。
いつものように、蜂蜜をたっぷり加えて甘くまろやかに。
ママは、いつまでも子供ね、なんて笑うけど、正直ストレートの紅茶なんて渋くて飲めたものじゃない。
パパも、甘い紅茶ばかり飲んでいると大きくなったときに大変だぞ、とか云っていたけど、むしろ甘い紅茶を飲めなくなるのなら、大人になんてならなくたって構わないのだ。

パパも、ママも、私のことをまだまだ子供だと思っているのかもしれない。
だけど、私にだって、秘密はある。
いつか王宮で開かれた舞踏会で、私に優しくしてくれた人。
湖の反対側を統べる領主様の次男だと云った。
ママは山向こうの大商人の若旦那がお気に入りみたいだったけど、私は、今も、彼の笑顔が頭から離れない。

夜中、私は屋敷を抜け出した。
もう、この気持ちを抑え切れない。
まん丸なお月様の光に導かれて、私は、彼のもとへと向かった。
弾む息を落ち着かせながら、けれど待ちきれず、ガラスの扉を軽くノックする。
心臓の鼓動が高鳴るのが自分でも良く分かる。
焦る気持ちをなだめつつ、もう一度軽くノック。
扉の向こうで、彼が起きる気配。
カーテンがずらされて、覗いた彼の顔が驚きに変わる。
早く、早く扉を開けて!
「ど、どうしたんだい、こんな夜中に? それにここは…、3階のベランダ…」
「ごめんなさい。 だけど、あなたに遭いたくて、飛んできたの…」
月明かりの下で最高に映える笑顔だったはずだ。
満月の夜なら、幼い私でも、月の魔力を上乗せして、十分に彼を魅了できる。
やがて、ぼんやりと惚けた瞳で、彼が私を部屋に招きいれてくれる。
エスコートに引かれ、寄り添い、見詰め合う。
ゆっくりと、二人の距離が近くなり、私は、彼の首筋に牙を立てた──


初めてのキスは、鉄の味がした。
本日のお題: 丼、ガス給湯器、バナナ



舞台は、ビジネス街の端っこにちょこんと軒を構える小さな食堂。
残業に疲れたサラリーマンたちが、深夜の電車に乗る前に、少しばかり腹を満たすべく、ちょいと立ち寄る程度の、どうということはない、それなりの賑わいを湛える、そんなお店。

「あいよ、親子丼お待ちぃ」
店主の愛想がありそうでそうでもない声とともに、カウンタに座る男の前に、トンとフタつきの丼が置かれる。
男は、ん、と軽く返事をして、箸置きに林立する塗り箸から、適当に二本をつまみ出し、合わせた両手の親指と人差し指との間に端を横に通して、軽く一礼した。
男が、右手に箸を持ち替え、開いた左手を丼のフタにかけたそのとき、がっしりとした手に、その左手首を押さえられた。
「警視庁だ」
右手で、カウンタに座る男の手首を押さえたまま、左手で警察手帳をかざしたダークスーツの男は、怪訝な目で見上げるカウンタの男に向かって続けて云った。
「先週、宝石店で大量の盗難事件があったことはご存知かな? 今夜、この店でその盗品の受け渡しが行われるという情報があってね……。 その丼の中身、改めさせて貰おう!」
語気を強めて云い終わると同時、刑事を名乗る男は、カウンタの男の手を押さえていた右手をそのまま丼のフタへと移し、しかし、開けようとしたフタは、カウンタの男を挟んで反対側から現れた別の手によって塞がれた。
フタを押し留めたその手の下には、差し押さえと書かれた赤い札。
赤札の手の主は、にこやかな笑顔のまま、刑事らしい男に諭すように語った。
「すみませんねぇ…、こちらの男性は、先日破産の申立をしておりましてね…、つい先ほどその決定が通ったものでして、財産……、えぇ、もちろん、彼が買ったコレもそのうちに入ります…、それらは全て差し押さえをしているところでございまして…。 あ、申し遅れました、わたくし、東京地裁の」
しかし、裁判所の男は、最後まで言葉を紡ぐ前に左のこめかみに銃口を突きつけられることになった。
無言で拳銃を構える黒スーツにサングラスの男が、もう一人、既に両手を挙げて降参状態の刑事に拳銃を向けていた仲間らしき黒メガネに顎で指図する。
黒メガネが、ズイと丼に手を伸ばした瞬間、食堂の引き戸がけたたましい音を立てて蹴破られた。
「ヒハハハ! カタギに銃たぁ穏やかじゃねーな! それが公安のやり方かい?」
喚きながら、ガチャリと構えられたのは自動小銃。
店内に向けて乱射された銃弾がガキャキャと音を立てて跳ね回る。
「最寄の交番から応援を寄越せ! 機動隊で構わん!」
蹴倒したテーブルを盾に刑事が携帯電話に向かい叫ぶ。
「陸自の調別が…、穏やかじゃないのはどっちだ! くそ、拳銃じゃ相手にならんか」
柱の影と、カウンタの脇に身を隠した公安の黒メガネが2方向から応戦する。
「おやおや困りました…。 差し押さえ前に略取された財産の扱いは……えぇと…」
跳弾を分厚い六法全書で防ぎつつ、裁判所の男が苦笑いする。

(続く)
一通り斉射し終えた自動小銃の男は、そのままカウンタの丼を手にしてくるりときびすを返した。
「とりあえずパトカーで構わんから店の入り口に突っ込ませろ!」
「チッ、反体制派の証拠に自衛隊が何の用事だ!?」
「あぁ…、強制執行しかありませんかねぇ…」
三者が三様の言葉を口にしながら、自動小銃の男を止めようと動こうとして、食堂の片隅のテーブル席では、事態に茫然自失となっているように見えた女の手から、定食のデザートだったらしきバナナの皮がスルリと滑り落ちた。
次の瞬間、自動小銃の男の足は大きく空を切り、手にした丼が宙に浮いた。
その丼をスッと取ったのは、つい先ほどまでテーブル席でじっと固まっていた女のほっそりとした白い手。
ブロンドの長い髪をたなびかせてそのまま店を出ようとした女に向かい刑事が叫ぶ。
「日本の国内問題だ! CIAはすっこんでろ!」
しかし、発砲しようとした拳銃が火を噴く直前、女の立っていた位置を、大型トラックの運転席が取って代わった。
「FBI…?」
咄嗟に背後に飛びのいていた女が苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
だが、運転席の男が飛び出てくる前にその背後から黒ずくめの集団がわらわらと湧き出して来た。
「そいつは我が連邦が頂く! KGBの名にか
「欧州の安定のためにも奴等に渡すわけにはいかん! MI6の全力を挙げ
「あれさえあれば聖地を完全に我らの手に…。 今こそモサド
「KCIAの威信にかけて朝鮮半島の平和
「内閣調査室の能力を舐めてもら

誰がどこの何者なのか、どれが敵でどれが味方以外なのか理解不能なほどの混戦模様になってきたところで、刑事がふと気付いて云った。
「……しまった! 被疑者は!?」
気付けば、丼は床に転がり、中身の親子丼をぶちまけており、カウンタにいたはずの男の姿が消えていた。
「店主もいないぞ!」
その声に、カウンタの中を覗いてみれば、そこは洗い物の途中だったのか、ガス給湯器のシャワー蛇口から水がザーザーと流れているばかりで、店主の親父はどこにもいなかった。
「湯じゃないな…、水が出てる。 ガスの火が安全装置で落ちたのか? ってことは、だいぶ前に逃げたか……」
そう呟く声を聞いて、裁判所の男がつと首を捻った。
「…はて? 爆発の危険があるからと、ガスの使用は3年も前に禁止になったはずですが……」
その場に居合わせた面々が、ギョッとして顔を見合わせる。
「………ガス、だと?」


どこかの路地裏。
店主の男が、携帯電話を操作する。
かける先は、男が出している食堂の電話番号。


終電の窓の向こう。
つり革に捕まる男は、遠くビル街の端っこが唐突に火柱を上げたのを見た。
本日のお題: 工場の煙突、雨、踏切



赤白に塗られた工場の煙突からは、今日も変わらず煙がたなびいていた。
たった一人で教室の掃除を終わらせて、とぼとぼと家路をゆく少年は、少し骨の折れ曲がった傘を傾けて、その煙を見上げた。
雨がこんなにも強いというのに、いつもと変わりなく、煙突は煙を吐き出している。
煙突から雨だって降り込むだろうに、きっと煙突の下で燃えている炎は、こんな雨でも消えないような不思議な炎なんだ。
自らの窮状を跳ね除けるように、雨でも消えない炎に、きらめく夢を見た。
きっと、この工場は正義の味方の秘密工場で、悪い奴らをやっつけるための研究をしたり、ロボットを作ってるに違いない。
だからこそ、電車の踏切で街から切り離されて守られているんだ。
そう思ってみれば、踏切のすぐ先にある工場の入り口に、もうひとつ踏切のそれと同じような遮断機がずっと降りっぱなしで、警備員が脇に控えているのだって、いざという時には踏切に進入してくる電車のように超兵器が現れて、警備隊の隊員たちと一緒に悪者を倒すんだと思えてくる。
刃物で切られたような傷が多数残るランドセルを背負って、少年は、暗くなるまで工場を見つめていた。

しかし、学校行事でその工場に入ったとき、少年は工場が正義の味方の秘密基地でも何でもなかったことを知った。
そこにあったのは、赤く光る灼熱の板や、ロールされた巨大な鉄の塊。
耳に入ってくるのは、金属同士がぶつかるような禍々しい怪音。
正義の味方は!? ボクを助けてくれるロボットはいないの!?
失望に飲まれた少年は、周りの子供らの嘲笑を背に、その場を逃げ出した。

(続く)
「どうされましたか? 浮かない顔ですが…」
「あぁ…、いや、なんでもない。 ここらも、変わってないようで、少しずつ変わっているんだなと、思ってな」
傍らに控える側近の心配顔に、小さくかぶりを振って、再び窓の外を眺める。
昔、なにやらのスローガンが掲げられていたはずの工場の入り口脇には、同じようにでかでかとした看板が、ISOの取得を誇らしげに謳っていた。
入り口の遮断機こそ変わっていないが、入門チェックをする警備員の先には、ICカード式のゲートが追加されていた。
手前の踏切のすぐ脇の駅舎も、さほど変わっていないように見えて、簡易型のSuicaの読み取り機が立っている。
「…逆か。 少しずつ変わっているようでも、大きくは何一つ変化していない…。 変わったのは………私だけ、か」
防弾仕様の黒塗り高級車の後部座席で、青年はひとりごちた。
「総統、ついに東京に手をかけられるポジションの拠点への入城です。せっかくですから、窓から手でも振ってみては?」
「おいおい…、誰が我々を歓迎するというんだ? 逆に狙撃でもされるんじゃないかな」
助手席から首をひねって無邪気な提案をする側近に、しかし苦笑いながらも、総統と呼ばれた青年は窓を降ろす。
「ここいら一帯は既に我々の占領下にあります。 世界征服を掲げる我々に楯突こう者などあろうはずがありますまい!」
熱く語る側近に、「若いねぇ…」と少しばかり呆れながら、開けた窓から外を見やった青年の目に、彼の車の前後を挟む装甲車の群れを見ながら、踏切の脇で呆然と佇む少女の姿が映った。
「止めろ」
青年は車を止めさせると、側近の止める声も聞かずにドアを開け、少女の前に歩み寄った。
少女は、未だ信じられないといった目で装甲車を見つめていた。
装甲車に描かれたエンブレムは、恐らくは小学生の彼女でさえ見知らぬはずはない、世界征服を標榜して憚らない、いってみれば悪の組織のシンボルマーク。
「こ……、ここ、には…」
震える声で少女が問う。
「ここは、正義の味方の秘密基地じゃなかったの!?」
青年が少年だった頃と同じように、さほど古くもなさそうなのに酷く傷んだ鞄を背に、かつて少年が失ったのと同じ希望を叫んだ少女に、青年は優しく語りかけた。
「あぁ……、そうだとも。 我々に屈して、正義の味方どもは逃げ去ったのさ…」
「え…………、そ、んなの……………」
絶句した少女は、そのまま搾り出すような声で何事かを呟いた後、一度大きく首を振ると、泣き叫ぶような金切り声で青年に言い放った。
「アンタたちなんて…、アンタたちなんて絶対に正義の味方がやっつけてやるんだからッ!」
「さぁて、逃げていった奴らに何ができるというのかな?」
「できるもんッ!」
「はははっ、まぁ楽しみにしていようか」
青年が嘲るように笑って見せると、少女は弱弱しいながらも握った拳で頭上高くにある青年の顔を殴りつけた。
「待ってなさい! 今に、ギッタギタにしてやるんだから!」
くるりときびすを返して走り出した少女に、青年は心底楽しそうな笑顔で叫び返す。
「あぁ、待っているぞ!」
その背後から、側近がややげんなりとした顔で声をかけた。
「総統、お戯れを……」
「……踏み外すのは、私だけでいいんだ………」
「は、何か?」
笑みを消した青年の呟きは、側近に聞かれることはなかった。
「いや…、行こうか」
「御意」
ちょうど踏切の警報機がけたたましく鳴り始め、占拠した工場に向かって歩き始めた青年と、走り去る少女との運命を分かつかのように、ゆっくりと遮断機が下りていった。
本日のお題: ビーズ、遊ぶ、寝る



森の奥深く
ひっそりと佇むお城の塔の最上部
外側から閉ざされた扉の向こうには永遠の眠りにつくお姫様がいるという


「お前、またサボリかぁ?」
昼休みも終わりに近づき、午後の授業が始まろうかという頃になって、教室を抜け出そうとしていた少年は、友人に呆れた声で尋ねられた。
「昨日も遅かったんだよ。 正直、昼メシの後に授業なんて受けてらんねーや」
そう云って、ひらひらと手を振りながらドアをくぐる少年の背に、友人は声をかけた。
「いーけど、お前、夢の姫に捕まるなよ?」
「はは…、可愛いお姫様なら、願ったりなんだけどな」
日の高いうちから寝てばかりいると、夢の国のお姫様に見初められ夢に囚われる。
それは小さい頃から、耳にしてきた迷信だ。
実際に、眠ったままになった者など聞いたためしがない。
子どもの居眠りをいさめるために、まことしやかに囁かれる、云ってみればひとつの都市伝説だ。
少年は適当な木陰に横になり、目を閉じた。


森の奥深く
ひっそりと佇むお城の塔の最上部
豪奢な椅子に腰掛けたまま眠る少女は、口元にくすりと微笑を浮かべた


教室で授業を受けていた少年は、ふと何かを忘れていることに気付いた。
何を忘れているのか判然としないまま首を巡らせるが、目に入るのは普段の授業中である教室の風景のみ。
ひとつだけ、空いている席があるのも普段と同じ。
…あそこには…、誰かがいるのだったか……
自問して、やめた。
居もしないクラスメートを想定して何になるのか。
かぶりを振って、ちらと見下ろした窓の外。
昼寝をするのにちょうど良さそうな木陰に、大量のビーズが散らばっているのが見えた。


森の奥深く
ひっそりと佇むお城の塔の最上部
ビーズ遊びが得意だったという部屋の主は、夢で新しいおもちゃでも手にしたのか、寝顔のまま満面の笑みを浮かべていた

騎士やメイド、馬車に農夫など、小さいながらも細部まで作りこまれた精巧なビーズ細工に囲まれて眠る少女の足元には、学生服姿の少年を模したビーズ細工が横たわっていた。
お題: 新聞、アイロン、スリッパ



ある日の新聞に、「アイロンとスリッパが今熱い!」という意味不明な見出しが躍っていた。
その奇妙な情報は、日常に飛び込んできたほんの些細な綻びでしかなく、いずれ人々の記憶から忘れ去られるはずの運命を背負っていた。
いっときばかりの輝きを残して。



雑誌の表紙のすみっこに、アイロンとスリッパの特集記事が顔を出すようになった。
テレビの通信販売でついてくるおまけアイテムに、アイロンかスリッパかがつくようになった。
総合スーパーの家電売り場で、アイロンの売り場にスリッパが置かれるようになった。

時が経ち、雑誌では表紙の芸能人が手にアイロンを持ち、スリッパを履いてポーズを取る姿が散見され始め、テレビの通販はアイロンとスリッパの組み合わせが3組9860円でさらにもう1組プレゼントされ、総合スーパーのギフトコーナで最も広い面積を占有するのが、アイロンとスリッパのセットとなった。

誰もがそうとは気付かないうちに日常は侵蝕を受けていた。
今や、殆どの国民がそのふたつを標準装備として持ち歩いていた。
公園では、お母様がたが、手持ちのアイロンの自慢話に花を咲かせ、サラリーマンの通勤時に持ち歩きが便利なように携帯用のケースが出回り、新車の契約には当然のようにアイロンと車内用スリッパがプレゼントされ、外歩きでも疲れないように靴底を工夫したスリッパが売り出された。
アイロンもスリッパも、高機能化に加え、デザイン性などの付加価値が求められるようになり、イオンスチームや加湿・保湿機能、エアクッション素材の使用や軽量防水性などの機能が付与され、また、タイマにテレビのリモコン、懐中電灯とのコラボ、果てはiPodとのインタフェースを搭載するなど、多くの種類が作られ、販売された。

やがて、事故は起こる。

車内でも電源を入れられるように、自動車のシガーライタから受電するプラグを持ったアイロンが、走行中の車内で倒れるなどし、火傷を負ったり、火災に発展する事故が多発。
また、携帯に便利なようにと軽量化を推し進めた商品では、本来のアイロンとしての機能を十分に発揮できないばかりか、アイロンとしての使用時にかかる応力に耐えられずハンドル部分などが破損した。
スリッパでは、その脱げ安い形状から、かかとにストラップがついた商品が発売されるに至り、それはスリッパではなくサンダルではないかという論争から、履物業界だけでなく、服飾業界全体を巻き込み、果ては法制論議にまで話が膨らみ、当時の国会審議が一時中断にまで追い込まれた。

そして、ブームは急速に冷えた。
残ったのは、各家庭にやや過剰な数のアイロンと、スリッパ。
少ないとはいえない割合で廃棄処分の憂き目を見はしたが、もとが通常使用に供される電化製品と雑貨であったがために、それらの多くは家庭に留め置かれた。



日常を侵蝕した大きな綻びは、けれど一瞬のうちに補修され、過去という分厚い歴史書のほんの1ページへと追いやられ、運命はそれを予定通りに人々の記憶から消し去った。
僅かばかりの余韻を残して。



──得をしたのは、いったいだれか。
お題: シャワー、洗面器、シャンプー



仕事で疲れ果てた身体をどうにか動かし、シャワーを浴びる。
浴室にへたり込み、洗面器に湛えたお湯を眺めるでもなく眺めているうちに…、気がつくと、私は薄暗い洞窟の中を歩いていた。
いつの間に着替えたのだろう、着慣れたパンツスーツをまとい、左手には何故かシャンプーのボトル、右手にはホースの先が白い靄の向こうへ消えるシャワーヘッドをそれぞれ握っていた。
洞窟は、足元がぼんやりと明かりを放っていて、完全な闇ではないが、気をつけないと頭をぶつけてしまいそうだ。
どこに向かっているのか思い出そうとしてもどうにもはっきりしない。
それでも、私は惰性でそうするかのように、歩みを止めることなく、前へ…、洞窟の奥に向かっているのか、出口を求めているのかは分からなかったが、前へ向かっていた。
その時は、どうしてか、立ち止まるという選択肢は浮かばなかった。
ふと、すぐ目の前の曲がり角の先に、人の気配を感じた。
想起した感覚は、安堵ではなく、恐怖。
何を恐れているのか、それさえも分からないままに、私はその場に立ち竦む。
動悸と、そして呼吸が速くなるのが分かる。
気配は足音として確固たる存在となり、角のすぐ向こうに迫り──
私は、左手のシャンプーボトルを眼前に掲げ、シャワーを持ったままの右手でボトルのポンプを思い切り押し込んでいた。
ノズルからあふれ出すシャンプーが、シャワーから降り始めた温水と混ざり合い、ぶくぶくと大きな泡の山となって、角から現れた人影に襲い掛かる。
「────!」
泡の壁に阻まれた人影が何かを叫ぶ。
私自身も、同じように言葉にならない何事かを叫んでいるのに気がついたのは、ノズルから流れ出していたシャンプーが途切れたときだった。
それと同時にシャワーのお湯も、はたと止まる。
泡の向こうで、誰かが叫ぶのを数瞬の間、呆然と見やって、私はきびすを返し、脱兎のように駆け出していた。
ほの暗い洞窟を、何かから、いや、明確に背後の人物から逃げるために、必死に走る。
いくらか離れた距離から、追う足音が聞こえ始める。
それは少しずつ追いすがり、近づくにつれ、様々な喧騒に変わっていた。
──資料作成を明日までに
──プルルルル
──予算をオーバーして
──取引先になんて謝れば済むと
──お客様からお電話
──ピリリリリ
呼出音が、問合せの声が、叱責が、背中を叩く。
もうやめて!
それ以上、近くに来ないで!
少しくらい休ませて、でないとこれ以上走れない!
でないと私は立ち直れない、心が折れる前に少しだけでいいから!
背中から迫るざわめきに、私は何と叫んでいたのだろうか。
そして、走り続ける私が角を曲がった先には、絶望があった。
洞窟は、唐突に行き止まりになっていた。
最後の角のすぐ向こうまで声が迫る。
振り向いて、洞窟の壁を背に後退する。
背中が壁に当たる。
ぱしゃり、と、足元で水が跳ねた。
見下ろすと、水溜りの向こうに、ぼんやりと淡く光る部屋が見えた。
足をどけて波が収まるのを待って、もう一度よく覗き込めば、私の部屋の浴室だ!
でも、水溜りが小さすぎて私は飛び込めない。
そうだ!
右手のシャワー!
願えば温かなお湯が注ぎ始めた。
みるみる大きくなる水溜り。
追っ手の足が角から見えた瞬間、私は意を決して水溜りに飛び込んだ。
ぴちょん、という水の跳ねる音でハッと気付く。
私は、自分が浴室にへたり込んでいるのを認識した。
相当、疲れていたらしい。
シャンプーの途中で転寝してしまうなんて、風邪でも引いたらことだ。
さっきの水音は、洗面器に張られたお湯に、止めたシャワーからの滴りが落ちた音らしい。
なんだか、妙な夢を見ていたような薄ぼんやりとした記憶があった。
もう一度、温水を頭から浴びて、シャンプーのボトルに手を伸ばす。
けれど、押したポンプは、キュコンと音を立てるばかりで、中身を吐き出さない。
もう空になっていたのかと、詰め替えるつもりでキャップを捻る視界の隅に、違和感を感じた。

シャワーの温水を受けてさざ波が立つ洗面器の水面の向こうに、薄ぼんやりと光る薄暗い洞窟があり、そして──

両手で跳ね飛ばした洗面器から温かなお湯が弾ける。
縁を下にして、ぐらん、くわん、とひとしきり踊った洗面器を、私は呆然と眺めているしかできなかった。
お題: 信号機、自動販売機、軽自動車



停止線にぴたりと並び、信号が変わるのを待つ。
こんな山中の峠道にある交差点にどうして立派な信号機など設置されているのか、そんなことは俺たちには関係がない。ただ、そこにあるから、上手く利用させて貰っているだけなのだ。
交差する側の信号が黄色から赤に変わる。
進行方向、目の前の信号が緑の光を放った瞬間、一気にアクセルを踏み込んだ。隣のヤツが僅かに前に出るが、なに、案じることはない。レースは始まったばかりだし、お互いに軽自動車とくれば、道幅はぐんと広くなる。追い越すポイントで巧くやるだけさ。
周囲を暗く沈んだ山影に囲まれて、競走相手のテールライトを追いかける。時折、山々の向こうにちらりと街の明かりが流れていた。さあ、次のカーブを抜けたら──!?

俺たちは、ほぼ同時にブレーキを踏み込んでいた。
タイヤがロックし甲高いブレーキ音を響かせる。横滑りしながらも辛うじてクルマを停めた俺たちの前には、巨大な車載車が道路を塞ぐように停車されていた。
俺たちは二人して車を降り、傍らの自動販売機の前面にもたれかかって缶コーヒーを啜っていた影に──夜の闇の中、自動販売機の明かりを受けて、実物以上に大きく見える車載車を、何故わざわざ道を塞ぐように停めているのかに思いを至らせることもなく──詰め寄った。
「オイ、オッサン、ンなとこにでけェクルマ停めてんじゃねーよ」
「峠の入り口は俺らが塞いでただろーが。入ってくんなよ、あぁ?」
「聞いてんのかよ!?」
はじめ、目を丸くして俺たちを見ていたその男は、しかしその目を俺たちの二台の車に流して、そして、唇を片方だけ吊り上げるようにして笑ったのだ。
「いやぁ…、これは失敬。大切な商品に傷でも付けたらことですしねぇ…。いやいや、なるほど、こういうシステムでしたか。ご両名、配達、ご苦労」
「あ? なに訳わかんねーこと云ってんだよ!」
頭にきて男の肩を小突いた俺の眉間に、ゴンと何か硬いものが当てられた。
「おやおや、客に対してそういう態度は頂けませんなぁ?」
男は口元に笑みを貼り付けたまま云った。気付けば車載車の助手席の窓からは、別の誰かが何か黒くて長さのあるもの──あれは、銃…? 銃だって!?──をこちらに向けている。
見れば俺の隣ではレースの相手が既にホールドアップ。
「きゃ…、客だ、って…?」
ひりつく喉を嗄らして囁くように喘いだ俺に、男は右手の拳銃を背後の自動販売機にコツリと当てた。
「えぇ、こちらで購入させて頂いて、商品が届くのをお待ちしておりましてね」
ガシャガシャという音に振り向いて見れば、俺たちの軽が二台とも車載車に載せられるところだった。外したナンバープレートを俺たちに手渡し、出発準備の整った車載車に乗り込んで男はにこやかに言い放った。
「いやいや、都市伝説も馬鹿にしたもんじゃありませんな。それでは、ごきげんよう」
最後にパァンとクラクションを残して、男も、車載車も、俺たちのクルマも、何もかも消え去っていた。
傍らには、暗い夜の闇の中、煌々と光を放つ自動販売機。
商品見本に置いてあったのは、さっきまで俺たちのものだった軽自動車のミニチュアが2つ。
キャプションに表示されいた言葉は、中古車(軽)。
お値段、120円。
ボタンには、売り切れと表示されていた。
お題: たんぽぽ、ハンカチ、東



テレビの占いでは朝から気分が滅入るような順位だった。
夏休みも終わり、今日は始業式だというのに…、朝からギラギラと太陽が照りつける。
ラッキーアイテムは東の方向、だとか風水みたいなフォローが入っていたが、こうもやる気を奪うようなお日様を置いておいてラッキーも何もあったもんじゃない。
目を細めて、朝日を見ていたら、突然目の前にハンカチが躍った。
「こうやってかざして見ると、太陽もたんぽぽに見えると思わない?」
ハンカチの向こうから幼馴染の声が躍る。
朝から元気なものだ。
まぁ、目の前の黄色のハンカチを通して見てみれば、確かに………
「いやぁ…、たんぽぽっつーか、普通、夏の太陽っつったら…」
云いながら、ハンカチの上辺に指をかけて視線を遮る黄色を下ろす。
「ヒマワリ、だ………ろ………?」
そこには。
どこまでも広がるたんぽぽの園が広がっていた。
「え……?」
さっきまで、家を出て、マンションの駐車場にいた、ハズ、なのに。
「たんぽぽ、でしょう?」
知らぬ間に、遠くに離れた場所で、たんぽぽに囲まれて立つ幼馴染が、笑って、云う。
横顔を少し傾けて、流れる髪で隠された目は見えない。
口元だけが笑みの形に薄く開いて、
「ね?」
離れているのに、声だけがいやに近くで喋っているように、
「眩しいだけの太陽は」
気づけば、空は青さを失い黒に塗り込められて、
「こうして地面に縫い付けておけば」
明るく輝いていたはずの太陽も消え、なのに大地に広がるたんぽぽの黄色だけが目に焼きつくようにハッキリと見える。
「ね、たんぽぽみたいでしょう?」
遠くにいたハズの幼馴染の姿が掻き消え、すぐ背後で声がして、ぞっとして振り向いた視界いっぱいに、瞳を赤く輝かせて笑みの形に口を歪ませた幼馴染の顔が
「うわあああぁぁぁぁぁ!!!?」
僕の声にびっくりした顔で固まった幼馴染の顔がそこにあった。
背景はアスファルトの駐車場。
じりじりと焼け付くような太陽が肌に痛い。
目の前の幼馴染の顔が引きつった笑いに変わる。
「…アンタねぇ…、人の顔見て、それはないんじゃない?」
「ごっ、ゴメン! 寝ぼけてて!」
とりあえず逃げるに限る。
「コラ、待てェ!」

寝ぼけてて、だって?
もし…、あの時、振り向かずに逃げていたら、いったい僕は………。
お題: 西、(学校の)先生、トマト



「最近、校内で噂になっている吸血鬼の話は知っているかい?」
放課後、呼び出された生物準備室で、窓から入る西日を背に、僕にそう云った男性教師の顔は、逆光のせいではっきりと見ることはできなかった。
白衣の長いシルエットを揺らせ、コツリと床を踏む音。
「今日、授業の後にこの話で盛り上がったとき、君は素知らぬ顔をしながらも、並々ならぬ興味を示していたようだったけど…、その正体を知りたいとは思わないかな?」
教師が動いて、新たに視界に入ってきた窓には、アルミの窓枠が十字に影を浮かべていた。
その十字に奪われていた目の前に、教師の顔が割って入る。
「そんなに、怯えた顔をすることはない」
こんなに叫びだしたいのに声が出ないのは、
こんなに逃げ出したいのに足が動かないのは、
そうか。
怯えているのか、僕は。
けれど、一体、何に。
ぐるぐると答えのない自問を続ける僕の頭が、ぐっとつかまれる。
「すぐに、ラクになる」
薄く細められた教師の目が、僕の瞳の奥を覗き込むように近づく。
左の肩を押さえつけられて、つかまれた頭が右へ倒されて、教師の顔が逸れて西日が視界いっぱいに広がって

白く、赤く、くらくらと輝くような光の中に蠢く影があった
その手につかんだソレから滴る赤が床に広がる
それは、ちょうどトマトを手で握りつぶしたときのようで
でも、トマトにしては少し大きすぎるようで
まるで、いつも鏡で目にしている僕自身の特徴をよく映しているようで
その想像がおそろしく馬鹿馬鹿しくて、かぶりを振る代わりに、ぎりりと眇めた目に映ったのは、長く影の伸びる床に赤々と広がる血溜まりに沈む首のない学生服の男子生徒の──

声にならないつもりの絶叫で、けれどその大きさに目を覚ますと、同時にカーテンの向こうで素っ頓狂に驚く声がした。
その声にぎくりと身を固める。
飛び起きたままの形の上半身を、悪夢の続きのように汗ぐっしょりにしたまま、白いカーテンの向こうへ耳を澄ます。
ぱた、ぱたとスリッパで床を踏む音がして、シャッとカーテンが開かれる。
目に飛び込んできた眩しい光に思わず身構えるが、そこに立つ白衣の女性の向こうに見えた部屋の様子は、
「…保健室?」
カラカラに渇いた喉でも意外と普通に声は出せるようだった。

「まったくもう…」
保健室でコーヒーを啜りながら、養護教諭の女性は、僕に諭すように語りかけていた。
「云ったでしょう? もう首が千切れたくらいで死ぬような身体じゃないんだから…、そんなことでいちいち失神したり飛び起きたりしないでくれない?」
「いや、そうは云っても……」
僕はといえば、再びベッドに横になってその話を聞いていた。
まだ、さっきのシーンを思い出せばゾッとするのだ。
「さすがに、初めてだったんで………」
「せめて血は流しすぎないようにしてよね。 まるで血の池地獄だったのよ? 緊急時だったから少し私の血を供給したんだけど…、大丈夫? 変調はないわね?」
どうりで…。
見えたはずのない、自分の首の光景が記憶にあるのはそのせいか。
弱弱しくも、はっきりと頷いた僕を見て安心したのか、彼女は軽く息をついた。
「まぁいいわ。 変な噂を立ててくれてた狩人さんには国にお帰りになって頂いたことだし、これで暫くはまた平和に過ごせそうよ」
そう云って快活に笑う先生の口には、一対の鋭い八重歯が白く輝いていた。
お題: 北、警官、積み木



まぁ、夜の公園でぼんやりと突っ立っていれば、職務質問だってされるもんだろう。
見慣れた制服の警官が懐中電灯を照らしてくる。
眩しいじゃないか。
本来、明かりはそうやって相手に直接向けるものじゃないだろうに。
「こんな夜更けにどうされました?」
一定の距離を保った状態で、警官は僕に問うてきた。
「どうって…、どうもありませんよ」
そう答えてはみるが、そんな答えで納得してくれるほど、警察は甘くない。
「最近はここらへんも治安が悪いですからね…、身分を証明できるものとか、お持ちですか?」
やれやれ…、難儀なことだ。
仮に真っ当な一般市民だとしても、夜中の散歩に身分証なぞ持ち歩くはずもないだろうに。
「いや…、あいにく今は何も」
そういって軽く肩をすくめ、両の手のひらを天に向ける。
何も持っちゃいませんよ、という程度のアピールに過ぎないが、それなりに効果はあるものだ。
足元に、意味ありげにガラス瓶など置いていなければ、だが。
「ところで、それは?」
案の定、警官の目と興味はそちらへ注がれた。
僕の足元に置かれた、蓋のしっかり閉じられた胴の太いガラス瓶。
「何に、見えますか?」
僕はガラス瓶を持ち上げて、警官に見せながら逆に問うた。
ガラス瓶を挟んで警官の顔が歪んで見える。
「積み木の、塔、だな」
怪訝な声音で警官が言う。
「そう。 でも、ただの積み木じゃない。 …こんな積み方で、崩れないはずがないのに、こいつは絶対に崩れないんですよ」
ガラス瓶の中の積み木は、明らかにバランスの悪い異常な組み方で、塔を形作っていた。
崩れ落ちるのが当然のものが、崩れ落ちない。
それは、つまり──
「これはね、時を止める魔法の効果装置なんです。 崩れ落ちない積み木は、時の停止のモチーフで、こうやって北極星…、天にあってただ一つ動かない星の光を浴びせることで、魔法効果を維持している」
瓶を凝視したままの警官に説明してやる。
あぁ…、そうだ、思い出した。
どうせ、また聞こえちゃいないのだろう。
「これをアンタに説明するのも、もう…何度目だ? 何十回、何百回、何千回! 一体何度聞けば覚えるんだよ!?」
瞳の焦点さえもぼやけた警官の襟首をつかんで揺さぶったところで、意味のないことは重々承知なのに。
承知していることさえ、僕もまた、覚えちゃいなかったのだろう。
「フタを開けさえすれば積み木は崩れるってあの魔法使いは云ったんだ! なのに、フタだって止まった時に呑まれちまった! 開きゃしねぇ! 俺はずっとこのまま永遠に今夜から抜け出せないのかよ!?」
気付いた時には。
もう、両手につかんでいたはずの警官は跡形もなく消えうせ、公園の時計の長針が、一周回って、回ったはず、回ったような気がしていたのに、結局はピタリと止まったまま。
虚ろな瞳で北の空を見上げてみれば、もう、何日も、何ヶ月も、何年も…、張り付いたように同じ角度で輝く星々が、ふと霞みがかかったように白く白く広がって、

じゃり、と音がした方向に目を向けてみると、夜の闇の向こうに警官らしき人影が見えた。
お題: 南、政治家、タオル



「幹事長! いったいコレはどういうことなのか! 納得のいく説明をお願いします!」
予算委員会の席上、野党第一党の若い議員が声を荒げ、資料を映したフィルムディスプレイを叩きながら、与党の幹事長に答弁を求めていた。
「この資料によれば、あなたは南極の開発を黙認する見返りとして億単位の資金提供を、複数回にわたってこの開発会社から得ているとある! 南極の開発、それもリゾートなどという馬鹿馬鹿しくも愚かしい、南極法、ひいては南極条約にさえ抵触するような国際的に許されない行為を、カネで許可したとなれば、責任ある与党の幹事長という職だけでなく、政治家として許されざる暴挙ではないのか!」
糾弾を受けている与党幹事長は、悠然とくつろいでいた答弁席のソファで静かに手を上げた。 委員長の、名を呼ぶ声に応じ、ゆっくりとマイクの前に立った幹事長は、口元に薄笑いさえ浮かべながら答えた。
「仮に…、その出所の怪しげな資料とやらの記述が事実だとして……、どうやってあの気象の厳しい南極でリゾート開発をできるのか。 実際、開発が行われているところを見たわけでもないだろうに。 まったく、答弁するに値しない。 折角割り当てられた質問時間は、もっと有意義に使ってはどうかね?」
ダン! と、質問席の若い議員が机にこぶしを叩きつける音を皮切りに、一斉に野党側からヤジが飛び、応えて与党側からも怒声が返り、予算委員会は一気に混乱の極みに突入した──。


「……20年も前の話だ…」
揺れる船上で、海風にグレーの髪を洗われながら、時の総理である男が云った。
総理の見つめる先には、小さなピラミッドに見える構造物が海面上に顔を出していた。
「それからいくらもしないうちに、そのリゾート開発会社は、南極大陸に温泉を掘り当てた。 極寒の地に湧く温泉宿だよ。 馬鹿馬鹿しいことに、金持ちってのはそういう珍しさに心奪われるんだろう。 表に聞こえてこない世界で、それなりの人気を博したそうだ」
「それが、そのタオルの…?」
総理の背後に控える女性が、総理が右手につかむ薄汚れたタオルを見ながら問う。
「あぁ…、まさか、こんなものがまだ漂流しているとはね…。 全て、大災厄で燃え尽くされたと思っていたんだが…」
南極の名を冠した温泉宿のロゴも色褪せたタオルを持つ総理の手は、少し震えているようにも見える。
「でも…、そんな恥ずべき過去の政治家の悪行も、隕石が南極の氷ごとみんな吹き飛ばしてしまったのですね。 証拠もろとも……」
「違うのだ」
半ば沈痛な顔で過去に思いをはせる女性の言葉を遮った総理の声は、押し殺したように低かった。
「隕石などでは、ないんだ…。 温泉が湧くということは、もともと地下に熱源があるということだ。 温泉を汲み上げれば、地下水の圧力は下がる。 その熱源を…、南極の火山の底に眠るマグマを数千年にわたり押さえつけていた圧力が、だ…」
ハッとして、女性が顔を上げる。
総理は鬼のような形相で、海上に浮かぶ階段状の建造物を睨みつけていた。
「これは、秘さねばならない…、だが、この国の総理となるならば知っておかねばならない事実だ…。 この国がかつて犯した、恥ずべきどころではない、言葉で言い表すことさえできない愚行中の愚行を…、私は、あの時、追い詰め、止めることができなかった…ッ!!」
ギリギリと音がしそうなほど歯を噛み締め、総理は吐き捨てた。
しばらくの間、神妙な顔で総理と、その手の中の小汚い襤褸切れを見つめていた女性が、口を開いた。
「…お話、拝領致しました、総理。 おとぎ話としては、少しばかり出来が悪いようですけれど」
そして、流れるような所作で、タオルだった布にライタの火を移す。
「つっ…」
明々と燃えるそれを眺めていた総理も、燃え上がる炎に、タオルから手を離す。
折からの風が、崩れ始めた軽い布切れを攫って行く。
「さ、総理、風も出て参りました。 戻りましょう」
女性の促す声に、風に攫われた火の行方を追っていた総理も踵を返す。
「そうだな…。 小説にもならん程度の、馬鹿話だな…」

モータを回し、海中に林立するコンクリートのビルの間を滑り始めた船の背後で、風に煽られた小さな炎が、かつて国会議事堂だった特徴的な屋根の上で、はじけて、消えた。
三題噺 第14話

お題「誕生日、パリ、リア充」

四字題「位相反転」



男は、大体概ね想像される通りの展開を経て、世間と隔絶した。
それでもなお、最低限に控えた外出先で、あるいはテレビの中で、楽しそうに生きる人々の姿は、どこにいたって目に映る。
彼らは、男の逃げ込んだ先、ネットの海にさえ蔓延っていた。
そして、男はある決意に至る。

──リア充、爆発すべし。

男は手段を探して、ネット中を駆け回った。
爆薬に関する論文、遠隔起爆のための電子工作、危険物購入の方法。
そうしたものはいくらでも勉強できたし、必要とあれば取扱者の資格さえ手に入れた。
爆薬の購入、行動の動機、設置した爆発物。
そうしたものを巧妙に隠匿する方法も、言語の壁を乗り越えて情報を読み漁った。
幾度かの実験における失敗と成功。
それらの動画をネット上に投稿し、ボマー誰某と呼び習わされることに慣れ始めた頃、男は遂に納得のいくモノを作り上げた。

『芸術は爆発だ』

ある芸術家の言葉を婉曲的に解し、爆発をして芸術と妄信した男が、最高と自認する芸術作品を花開かさんと欲したのは──芸術の都、パリ。
警察の目を欺き、ネット上に組み上げた怪しげな繋がりを駆使して、男は街の至るところに仕掛けを施した。
さぞ美しく花開くことだろうと夢見て、起爆装置のスイッチに伸ばした指は、しかし、背後からそっと差し出された細い指に絡め取られる。
ぎょっとして振り向いた先で、見たことのない女が薄い微笑を浮かべて口ずさんだ。

「どうせなら…、お祝いのお花にしませんか?」

女は云った。
もうじき巡ってくる男の誕生日に合わせて花を咲かせようと。
ネット上の協力者でさえろくに追えなかった男の行方を、あっさりと突き止めた女の登場を、男は酷くいぶかしんだが、自分と同じように厭世的な女の献身に男は少しずつ心を開いていった。
爆発物のありかなどは漏らさないまでも、開く花の姿などは女の希望を聞いてやりさえした。
そして、訪れた男の誕生日。

「最後に、エッフェル塔を見に行きましょう」

女は、男を誘い出した。
男の描いた花の中心に位置するエッフェル塔、これから男が咲かせる花に飲まれて倒れ行くパリのシンボルを、誕生日の思い出がてら観光してみたっていいだろう、と。
女とふたり、連れ立って乗り込んだエッフェル塔は、シンとした静けさに包まれていた。
これは──おかしくないか?
いくら外に出ないと言ったって、観光地、真昼間に誰もいないなんてことが普通じゃないことぐらいは男にも分かる。
唖然として周囲をゆっくりと見回す男の視界から、女がぴょこんと飛び出した。
男が、疑惑と憤怒の入り混じる顔を女に向けた瞬間、女の手の中でパンと音が響き、色とりどりのリボンと紙吹雪が舞い上がった。

「お誕生日、おめでとうっ」

女の手にあるクラッカーから飛び出た飾り紙が勢いを失う数瞬の間、男がポカンと口をあけて、絶句する。
そして。
周囲の建造物の窓という窓から、一斉に歓声が響き渡り、紙吹雪と色風船が踊り狂った。
鳴り響くファンファーレの音。
道路を巡る車列は祝福のクラクションも、周囲を取り巻く大群衆からの万雷の拍手の音にかき消されんばかり。
エッフェル塔からは巨大な垂れ幕が下がり、男の誕生日を祝う言葉が綴られていた。
呆然とする男の手を、女がそっと取る。

「これでも、リアルが充実してないなんて云える?」

男の手に握られた起爆スイッチを、女の指がそっと抜き取る。

「もう外を恐れないで…。今日から生まれ変われるわ。今日が、『リア充なあなた』の誕生日なんだよ」

女は、起爆スイッチを後ろ手に隠して、にっこりと眩しい笑顔を浮かべた。

「僕が……、リア充、だって…?」

震える声で、わななく両手を見下ろしながら、男はがっくりと膝をつく。

「そうだよ。だから…、爆弾なんて解除して、この街を、楽しもう……よ?」

女は、云いながら男の奇妙な様子に気がついた。
男は、両手で顔を覆い隠し、指の隙間から女を見ていた。
狂気に彩られた瞳で。

「だったら…、僕も爆発するしかないじゃないか──」

男が奥歯の奥で何かを噛み砕く音が小さく響き、
パリの地に花が咲き狂った。
三題噺 第15話

お題「歌姫、プラネタリウム、缶切」

四字題「胎教音楽」



“彼女”は、天球に映し出された星々を見つめていた。
それは、もう見ることのできない、地上から見た星空。
様々な名を冠された星座の数々も、今となっては、その姿を目にすることは叶わない。
ただ、記録の中だけに残された、地球の記憶。
“彼女”は、懐かしい星空の下に、笑い、歌った日々を想った。

やがて、視点が宙に浮かび上がりはじめた。
天球の映像は、天地が逆さまに返り、暗い夜の地球から、昼の側へ。
青く輝く生命の星を、スクリーンいっぱいに明るく映し出す。
その青さを目に焼き付けるかのように、しばらくの間、大写しになっていた地球の姿が、ゆっくりと遠ざかり始める。
銀に輝く月を過ぎると、視点は、熱く燃える太陽を向いた。
太陽に目を向けたまま後退する映像の中に、太陽系の見慣れた惑星が現れては離れ行き、外縁天体の海を抜け、オールトの雲を越え、太陽圏から飛び出した視点の先──生命を育んだ地球と、それを温かく包み込む太陽の光が、やがて、宇宙に光る星々の海にまぎれてしまう頃…。
“彼女”は、何度もそうしたように、再生を止めた。
“彼女”以外に見る者のないプラネタリウム。
映像の消えた暗闇に、投影機の小さな光が瞬いていた。

そこに、“彼女”を知る者は、もう誰も残っていなかった。

太陽系を離れ恒星間空間を行くその船は、生命を抱く方舟。
次の世代となる生命は、分裂を始める前の、ほんの小さな細胞の状態で眠っていた。
眠る子らが、安全に眠り続けるための細胞保管装置。
眠る子らが、目指す星を前に、育成を始めるための人工子宮。
そして、目覚めた子らが、目指す地へ辿り着くまでに生き続けるための生命維持系。
それらの作動を確認し、記録に残し、彼らに託すための守人として、その船における最初の──同時に、地球を記録ではなく記憶で知る最後の──世代の人々が船に乗った。

最初の世代とともに船に乗った“彼女”は、歌を携えた最後の守人。
死を持たず、眠る子らを守り、導くための、子守唄の歌姫。

“彼女”は、宇宙を行く方舟の希望を歌った。
遠く離れていく青い星を、燃える太陽を、最初の世代とともに歌で送った。
地球の、人々の文明を、文化を、笑ったり怒ったり悲しんだり喜んだりする心を歌った。
ともに地球を発った者たちが一人ずつ去り行くのを、最初の世代とともに、悲しみの中、歌で送った。
最初の世代の最後の一人が息を引き取り、生命維持系の資源循環装置に沈み行くのを、ひとり、葬送歌で送った。

歌は、ひとりで歌っても、楽しくなかった。
たくさんの人々の顔を、自分の歌を聞く彼らの笑みを、思い出すだけだったから。
歌えば歌うほど、孤独を感じるだけの歌を──自分自身がデジタルデータに過ぎないという事実を突きつける歌を──それでも、自分の存在意義である歌を、人々との思い出をなぞるように、ひとり歌い続けた“彼女”は、唐突に恐怖した。
孤独をではなく、次の世代を。
最初の世代の人々がそうしてくれたように、彼らは“彼女”の歌で笑ってくれるのか。
所詮、人ではない、ソフトウェアの“彼女”を、最初の世代の人々と同じように愛してくれるのか。
恐怖に駆られて、“彼女”は、人々の記憶とともに、歌を封印した。
そして、母なる星、地球と太陽系の記録に閉じこもった。



しかし、時は永遠には停滞しない。

永い時の果てに、船は制動をかけた。
“彼女”らを乗せた船の遥か先を進む観測機が、目指す星を指し示し、船はゆっくりと舵をきる。
それを合図に、方舟の眠りが解ける。
次の世代が、息づき始める。

その兆しに、絶望にも似た恐怖を覚えた“彼女”は、けれど、天球から差し込む光に顔を上げた。
プラネタリウムのスクリーンが透明に変わり、過去の記録ではない今の星空が散りばめられていた。
それは、星座の形も地球から見た空とは全く異なる、見知らぬ星空。
その中に、ひときわ明るく輝く星があった。
スクリーンに投影された文字が、それが目指す星だと告げていた。

“彼女”は、暫くぼんやりとその星を見つめていた。
まだ少し震えの残る手で、楽しかった日々の記憶を歌とともに封じ込めたデータフォルダにアクセスする。
鍵を開けるパスワードは、『can_opener』。
それは、想いを閉じ込めた缶詰を開ける缶切。
当てた刃先を、ぐっと押すような気持ちで、[enter]を叩く。

未来を恐れて、過去に逃げ続けるのは、もうお終い。
新しい星へ、地球と太陽から持ってきた歌を聞かせる時が来た。
最初にして最後の世代の人々が私に託したものを、次の世代に届けよう。
新しい世代へ、目覚めの歌を響かせよう。

私は、人々の願いを歌う、歌姫だから──
三題噺 第16話

お題 スパイ、茶室、焼肉

四字題 潜入捜査



茶室。
そこは、限られた者たちだけが入室を許される完全なる個室。
心穏やかに茶を点て、味わうという見かけの姿とは裏腹に、その四畳半の密室では、古来より様々なはかりごとが交わされてきた。
そして、今、一人の男が、そうした茶室のひとつに足を踏み入れようとしていた。
都会の喧騒を離れた里山の、木々に紛れるようにひっそりと立つ古民家の影に、外界からの目から隠れるように茶室は設けられていた。
古いながらも、過ぎぬ程度に綺麗に手入れされた外観の、低い位置に小さな出入り口があった。
男は、長身を窮屈そうに折り曲げて、茶室の中に入り込んだ。
男よりも、はるかに年上であろう老人が、慣れた所作で茶を点てる。
男は差し出された茶碗を受け、決められた様式をなぞり茶を喉に流し込む。
男は、ふと、遠くを眺めるような目をしたかと思うと、しばらく目を伏せたのち、ゆっくりと瞼を開く。
意を決したかのように、息を吸って、男は茶碗を置いた。
「まことに…、不味いですね」
完全なる否定の言葉に、しかし、茶を点てた老人は口を笑みの形に歪ませた。
「符丁を、確認した…。 では、お近くへ」
老人は、茶の道具を脇へ寄せ、床の間の生け花の鉢をずらすと、隠されていたフタをスライドさせて、中のパネルを操作した。
すると、茶釜が床下へと収納され、代わりに七輪を載せた台がせり上がってきた。
老人は、七輪に炭を入れ、焼き網を載せると、一度、男に目をやった。
「お客人は…、口になさるのは初めてかな?」
老人の所作に目を奪われていた男は、問いかけにハッと目を上げると、考えながら口を開いた。
「いえ…、完全禁止となる前に。ですので…、もう10年以上も、前ですか」
「ほう…、それは、どちらで?」
「や…、どうということもない、場末の店でしたよ…」
きまりの悪い顔をして、目を背けた男に、老人は重ねて問う。
「あの時分は、もうかなり値が上がっていた。手に入るとなれば、よほどの高級店か…、そうでなければ、地下流通ではありませんか、な?」
「はは…、お恥ずかしい」
苦笑いして頭を掻いた男の目の前に、老人は、すっと皿を置いた。
「であれば…、こうしたモノは、初めてですかな」
皿に載っていたのは、男がかつて口にしたような安くて固いモノではなかった。
薄く切られたそれは、しっとりとした輝きを持ち、老人の持つ箸に摘み上げられると、弾むような弾力を見せた。
老人が箸を動かし、きらめく赤を網の上に置いた瞬間、シュワっと水分が飛ぶ音がして、続いて脂の焼ける香ばしい匂いが部屋中に広がった。
それは、男にとって、実に10年ぶりとなる、肉の焼ける音と、姿と、匂いだった。
動物愛護運動の高まりと、合成タンパク質の普及によって、食肉用家畜の生産が禁止されて以来、世の中から本物の肉料理が姿を消していた。
今、男の目の前にあるのは、存在しないはずの本物の肉料理。
それも、至高といわれた焼肉だった。
かつて、肉料理が普通に食べられていた時代、焼肉はリーズナブルなものから高級なものまで、様々な様式で、多くの種類の肉を焼き、世代を問わず、男女を問わず、愛されていたという。
今となっては、多くの人が口にすることの叶わないモノを、男は目にしていた。
老人が肉の焼き加減を見ながら、ひっくり返す。
ジュウジュウと脂のしたたる音に、男はごくりと喉を鳴らす。
禁制のモノを前に、男が感じたのは、後悔か、恐怖か、愉悦か、…確信か。
ここから電話を一本入れるだけで、この隠れ家は摘発される。
だが…、ここで妙な動きをして逃げられるわけにはいかない。
男は自分にそう言い聞かせて、膝に置いた拳をぐっと握り締めた。
老人が、ちょうどよく焼けた肉を皿に取り、男の前に置いた。
続けて、タレを注いだ小鉢を置くと、最後に、真新しい箸を両の手で差し出した。
「どうぞ、ご賞味あれ…」
男は恭しく箸を受け取り、左手で小鉢を取った。
皿に盛られた焼けたばかりの肉を取り、タレにつけて、口に運ぶ。
口いっぱいに広がる馥郁とした香りが鼻に抜ける。
咀嚼して飲み込んだ頃には、険しかった男の顔は、ただ肉を食べるだけの顔に変わり、黙々と箸を運び続けていた。

用意された肉を全て食べ終わり、男は箸を置いた。
「たいへん…、結構なお点前でした」
震える手をつき、頭を下げる男の前で、皿や小鉢を仕舞い、七輪ごと床下に収納した老人は、しばらくの間、顔を上げた男の目を見ていたが、やがて口を開いて呟いた。
「また来るといい…。求めるならば、与えよう」
男は、もう一度深く頭を下げると、立ち上がり、茶室の入口に手をかけた。
「母屋で消臭ミストシャワーを浴びるのを忘れぬようにな。口臭もだ。スパイの類に気取られぬように、な…」
老人の言葉に動きを止めた男は、しかし、老人の目をじっと見つめると、会釈を返して茶室を後にしていった。
やがて、男を案内し終わったのだろう、もう一人の老紳士が茶室に入ってきて、老人の点てていたお茶の椀を受け取りながら言った。
「居心地の良いところでありましたが…、ここも移らねばなりませんかな…」
老人は、自分の分も茶を淹れると、一口啜って、傍らのディスプレイに目をやった。
「なに…、もう虜だ。暫くは、こちらの目と耳になってもらうさ…」
ディスプレイには、当局のデータベースにある、男の身上資料が表示されていた。
三題噺 第17話

お題 図書館、救命救急士、映画



私は、あるものを探していた。探し続けていた。
それは、怪奇現象の一つと言ってもいいだろう。
──人を呑み込む『物語』と、そこから人を救い出す者。
巷でまれに聞く行方不明者のうち、ふらっと消えて、ふらっと戻る、いわゆる神隠しのような現象を追っているうちに、そんな話を聞きつけた。
神隠しにあった人たちは、その間の記憶を失っているらしく、ぼんやりとした話しか聞き取ることはできなかったのだが、それでも小さなピースを集めていくうちに、私は町外れの図書館にたどり着いた。
僅かな閲覧スペースに来館者はなく、薄暗い証明の下、立ち並ぶ書架の合間にも、本を探す人の姿はない。
窓から差し込む夕日の明るさを避けるように、私は書架の狭い隙間へと歩を進めた。
「何か、お探しですか?」
いくつかの書棚を行きつ戻りつしていると、ふと、背後から声をかけられた。
振り向くと、そこにはエプロンドレスにナースキャップという、一昔前でさえ時代遅れと言われそうな格好の看護士の女が立っていた。
「えぇ、と…、探し物と言いますか…」
言いながら、私の目は彼女の左腕の腕章を見つめていた。
「こちらで、神隠しにまつわる情報を得られると、伺いまして」
「まぁ…、神隠しですか?」
赤十字の紋章が描かれた腕章をつけたその女は、軽く首を傾げた。
「それは、一体どのような?」
「えぇ、何でも、人を呑み込んでしまう『物語』と…」
図書館に赤十字をつけた看護士という取り合わせ。これがビンゴでなくて何だと言うのか。
「そこから人を救い出すという方たち、の情報を、ですね」
「それはそれは…、それでは、あなたが……」
彼女は、得心がいったように胸の前で両の手をぽんと打ち、
「あなたが、『病巣』ということですわね──」
一瞬の後、私は、彼女の手から伸びるいくつもの包帯に絡め取られていた。


「『病巣』を確保。カウンタ4700のあたりです。搬送を開始して下さい」
女が、この場にいない誰かに向かって口を開いた。
「その、看護士の格好…、あなたが、ここに並んでいる本に描かれた『物語』に呑まれた人を救う者なんだろう?」
私は、不自由な身体をどうにか動かして、身体に巻かれた包帯を掴み取る。
「別に、その邪魔をしに来たわけじゃない…、これを、どけてくれないか」
女は、私の身体を絡め取る包帯の先を、もう一度握りなおして、冷ややかな声で応えた。
「まず最初に。私は、看護士ではありません。救急救命士です」
「救急…? あぁ、助け出した人を病院へ運ぶまでの応急」
「そして……」
彼女は、私の言葉を遮って続けた。
「救うべき対象は、人ではなく、『物語』のほう…。私は、この『物語』のこの『場面』を医師の下へ搬送中である今、『物語』に対する医療行為を行うことが許可されています」
ポカンとする私を見据えて、彼女は息を継いだ。
「『物語』に呑み込まれたのではなく、入り込み、『物語』を改竄するイレギュラー…、それがあなたという『病巣』です」
「何を言っているのか分からないよ。いいから放してくれ、私はこれを記事にしなきゃならないんだ…!」
だが、彼女は冷めた目で私を見下ろすばかりで、話を聞いてくれそうにもない。
「随分と、色んなところに傷をつけてくれたようですが、まだ干渉するつもりですか? 何を、そこまで執着するのです?」
執着? 執着だって? 何にって……決まってるじゃないか。
私は成果を求めている。成果が、記事が必要なんだ。
ここにはそれがある。探していたモノ、探していた存在が目の前にある。
「私は、記事を書かなきゃならない…!」
私の低い声に、彼女は眉根を寄せた。
「あなたという『病巣』による、これ以上の歪みを防ぐのが私の役目です…! さぁ、もうじきここの『場面』が医師の下へたどり着きます。 大人しく、駆逐されなさい!」
彼女が、包帯の先を握ったまま、一歩ずつ後退する。
包帯に引っぱられて、私の身体が空間から引き離されるのが分かった。
辺りの空間が歪み、裂ける。
私という存在が、世界から剥がされようとしていた。
「い、イヤだ…、私は記事を書かなきゃ帰れない、やめてくれ、待ってくれ! 私をこんなところで──」
《はい、そこまで》
空間を丸ごと震わせるような低い声が轟いて、空間内を縦横無尽に巨大なマチ針が貫いた。
空間の歪みも裂け目も何もかもが固定された中、あちこちでハサミのチョキチョキという切断音が忙しく響いた。
《切除完了、摘出するよ》
その声を合図に、彼女が床を蹴って宙へ飛んだ。
彼女が持ったままの包帯に、私の身体もずるりと引っぱられて、意識が飛んだ。
ゴンという衝撃で目が覚めた。
頭を床でしこたま打ったらしい。ジンジンする。
霞む視界には、ぼんやりとした照明の天井。
話し声に顔を向けると、映写機にかけられたフィルムをあれこれチェックしている風の白衣の男と、ナースキャップとエプロンドレス──随分古めかしい格好の看護士のように見える──の女の後姿が見えた。
「上出来だ。映画の方は無事だ。ま、それぞれの『場面』が正常に定着するまで少し時間がかかるだろうが、あとは自然に回復するさ」
「良かった、随分色んなところに執念の根みたいなのが残ってたから、上手く『病巣』を捕まえてられるかどうか心配だったんだけど」
いまいち意味の分からない会話をしている二人の脇から、白いヘルメットの救急隊員が視界に入ってきた。
「意識はあるね、記憶は? 自分が誰だか分かるかい?」
「え、あ、あぁ、はい、私は……」
そのままいくつか救急隊員の質問に受け答えして、脈を取られて、瞳を覗かれた。
「ふむ、まぁ大丈夫そうだね。ここの救護室でしばらく横になってればいい。ところで…、お仕事は何を?」
救急隊員の問いに、私は頭がくらりとなった。
「あ、あぁ…、私は、雑誌の記者を……、記事を書かなきゃ…、休んでる場合じゃない…」
よろよろと起き上がろうとした私に肩を貸しながら、救急隊員が重ねて尋ねた。
「記事は何を?」
「怪奇現象特集で、私は、神隠しについての担当で……」


救急隊員に肩を支えられた男がよろよろと出て行った扉がパタンと閉じる。
映画のフィルムが、映写機のカタカタという音を背景に、その中身をスクリーンに映し出していた。
「神隠しの資料にするつもりで映画を見たんだな…」
「不安と焦燥で入れ込みすぎて、入り込んで、映画の中でまで追い続けて…、自分が神隠しに遭っているようでは、世話が焼けますね」
「しかし、あれだな。映画には医者と救急救命士で事足りるが……、人に要るのは…」
「カウンセラ、ですね」
スクリーンには、町外れの小さな図書館で、子供たちに夜遊びや迷子の危険を神隠しになぞらえて教え諭す老婆の姿が映し出されていた。
三題噺 第18話

お題 学校、幽霊、傘



「…っちゃあ〜、雨かよぉ」
生徒の姿もまばらな下駄箱の間で、ボクはガラス扉の向こうの校庭を恨めしそうに見るしかなかった。
今日は雨が降るからって、母さんが傘を持たせようとしてたけど、邪魔っけだからって持たずに出たのが失敗だった。
けど、まぁ、このくらいなら、だーっと走って帰ればどうにかなるかもしれない。
そう思って、上履きを脱ぎかけたボクは、背中からかけられた声に振り返った。
「ね、もう少し遊んでかない?」
そこには、口にした問いかけのクエスチョンマークをなぞるように、少し首をかしげた格好で女の子がひとり立っていた。
「遊ぶったって、外、こんなだし」
ボクは、女の子に向き直り、親指で背後の校庭を指差した。
「そうだねぇ…」
人差し指を口に当て、女の子は少し考えるように首を逆側に傾ける。
「でも…、走り回るのは、校舎の中でもできるんじゃない?」
ボクに近づきながら、そう言って、最後にニッコリ微笑んだ。
その様に、ドギマギしながら少し身を引いた一瞬の間に、女の子の手が、下駄箱に入っていたボクの靴を引っ張り出していた。
「例えば、追いかけっことかね」
そう言葉を残すと、唖然とするボクの前で、女の子はくるりときびすを返し、そのまま脱兎のごとく校舎の奥へと向かって駆け出した。
「…ちょっ…、ま、待てよーっ!?」
慌てて、脱ぎかけの上履きを履きなおし、女の子を追う。
「ったく、何だってんだ!」
だーっと走るのは校舎の中じゃなくて家までの帰り道のハズだったのにとか余計なことを考えながら、女の子に続いて廊下の先を折れる。
「!? …どこだよっ!」
見失った姿が、階段の手すりの陰から顔を出す。
「こっちだよ〜」
一足飛びに駆け上がり、踊り場で折り返した視線に、角に消えていくスカートの端がちらりと見えた。

そうして、どのくらい駆け回っただろうか。
最後に追いついたのは、元の下駄箱の前だった。
追いついたというか、女の子が校庭を眺めながら、つまらなそうに逃げるのを止めたからなのだが…。
「へぇ、はぁ…、速ぇな、お前…」
校舎を上へ下へと走り回り、いい加減へとへとだったボクは、膝に手をつきながら息をついた。
「へっへー、まぁね。でも…、そろそろ下校時刻だよ」
そう言われてみれば、外がだいぶ暗くなってきているのは、雨のせいばかりではなさそうだった。
「おーい、いつまで残ってんだ、下校時刻だぞー」
廊下をバタバタと走ってるときには、ついぞ顔を出さなかった先生が、今頃になってようやく職員室から姿を見せた。
「はーい、帰りまーす」
適当に答えて玄関から外を見る。
雨は、ずいぶんと強くなっていた。
「あーぁ…、何だよ、お前のせいで雨強くなっちゃったじゃないか」
少しばかりの恨みもあって、女の子にかける声がきつくなる。
「そうだね…、ゴメン。傘、あるんだけど、使う?」
なんだか妙に寂しそうな顔で、いつの間に持ってきていたのか、女の子が傘を差し出してきた。女の子の着ている服と似た、明るい色の傘だった。
「へ? いいのか?」
ひょいと気軽に差し出されたものだから、つい手に取ってしまったけど。
「お前はどーすんだよ」
ボクが使っちゃったら、女の子のぶんがなくなってしまう。
「私は…、もうひとつあるから。それに、うーんと、迎えが来るからそれまで残ってていいって、先生に言われてるから、先に帰っちゃっていいよ」
女の子は、まくし立てるようにそう言って、ボクを急かした。
「ほらほら、早く帰らないと先生にまた怒られちゃうよ〜」
ぐいぐいと背中を押される。
「わ、分かったって、そんなに押さなくても」
上履きを下駄箱に放り込んで、外靴に履き替える。
「っと、じゃあ、傘ありがとな。今度返すよ」
ガラス扉を開きながら、半身で振り返り女の子に告げる。
「うん、じゃあまた」
女の子は、校舎に残ったまま、ひらひらと手を振った。
「じゃな」
ボクは、借りた傘を開き、校庭を歩き出した。
「…そういや名前聞き忘れたけど……、変なヤツだったな」
校門まで着いたところで、ふと気になって校舎を振り返る。
玄関のガラス扉の前に、まだ、女の子は立っていた。
雨に煙る校庭を挟んで、バイバイと手を振るその子の姿は、妙に色褪せていて、
『使ってくれて、ありがとう──』
何故か、女の子の声が、頭の上から聞こえて、
女の子の姿と、頭上の傘とが、同時に消え去った。


ボクは、全身ずぶ濡れになりながら家路を急いでいた。
「置き傘の幽霊なら、ちゃんと家まで消えるなってんだよ!」
頬を流れる雨だけが、妙に熱を持っていた理由を、ボクは知らない。
三題噺 第19話

 お題 温泉、博士、ギター

   ◇

 山あいの温泉地は、苦境に立たされていた。
 折りからの不景気でかつての栄華は望むべくもないのは重々承知だったが、それでも知恵を絞ってPRの全国展開を行ない、没落の憂き目に合わぬよう必死の営業活動を続けていた。
 だが、それもこれも、温泉が湧いてこそ。
 今、温泉地が抱えている苦悩は、その大前提に待ったをかけるものだった。


「温泉の湯量の調査ぁ?」
 研究室のデスクでマウスを動かしながら、白衣の男は電話に向かって素っ頓狂な声で問い直した。
『えぇ、そうです、温泉の湯量です、博士』
 電話の向こうの声は至って真面目に応じた。博士と呼ばれた男は、パソコンのディスプレイに電話口で名乗った相手の居所を映し出した。
「そう仰られても…、私ゃ別に温泉の専門家じゃありませんよ?」
 ディスプレイの中では、温泉地の観光協会のサイトが、湯量減少のお知らせを伝えていた。
『地質学でしたら、そう間違ってもいないでしょう? 地質学の専門家である博士に調べて頂きたいのです』
 電話の声は重ねて要請してきた。
「いやしかし…、何の責任も持てませんしな…」
 それでもなお受諾を渋る博士に、電話の主は声を低くして付け加えた。
『…いいんです、それでも。実は、ずいぶん前から湯量は少しずつ減っていたんです。今回一気にガクンと落ちはしましたけどね。もう、どれだけ調べても多分ダメでしょう。ですが…、踏ん切りがつかないんです。先祖代々のこの温泉地を閉める覚悟が…』
 その言葉を聞いて、博士は椅子の背もたれを軋ませた。
「つまり……、私の調査結果を口実にしようということか…」
『……えぇ、失礼は承知です。こんな出来レースへ担ぎ出すなどというのは、心苦しいところではありますが…、博士の郷土でもあるこの町を、静かに終わらせるためにご協力願えませんか。もちろん、おもてなしは精一杯、最高のものをご用意致しますよ。……最後ですから…』

 温泉地の旅館の縁側で、日の傾いた空を眺めながら博士は軽くため息をついた。観光協会の男に乞われて湯量の調査に来てみたものの、原因は何もつかめないでいた。そもそも温泉は、地中の水が温められて湧き出すもの。水が減るか、熱源が冷えて圧力が下がるかすれば、湯は出てこなくなる。山からの湧き水は減っていないというから、地中の圧力の減衰が疑われるが…、そんなもの調べようがないというのが実際のところだった。地中の圧力変化の調査は、年単位の長いスパンで、かつ広範囲にセンサを設置して行うものだ。レーダで地中の様子を数日眺めたところで、分かるのは現状のみ。変化など分かるはずもないのだ。
 それでも…、町の住民たちの期待は凄まじかった。調査に対する協力は惜しみなく行われたし、ここに来てからというもの、毎日のように出される豪華な食事も──もちろん、宿泊費ともども無料だ──その期待の表れなのだろう。観光協会の男の言葉が耳に残ってはいたが、それでも、おざなりな調査で早々に結果を出してしまうのは、博士の学者としてのプライドが許せなかった。モヤモヤした気分を紛らわすために、博士は持参した荷物の中からギターを持ち出した。心を落ち着かせるように、ゆっくりと爪弾く。夕日に照らされて赤く輝く雲をぼんやりと見送りながら、ポロポロとコードを追っていると、客室の扉が少し強めに叩かれた。
「どうぞ」と答えると同時、開かれた扉の向こうで旅館の仲居が血相を変えて博士を呼んだ。
「せっ、先生! 早く来てください! お湯、お湯が!」
 急かされて駆けつけたのは、旅館の山手側にある温泉の湧き出し口。いつもあえぐように僅かずつしか湯を吐き出さなくなっていたそこから、とぷとぷと熱湯が流れ出していた。
「これは…、いつからだね?」
「分かりません…。午後イチに確認したときはいつもどおりだったのですが、今しがた見たときには…」
 博士の問いに、第一発見者が申し訳なさそうに答える。
「他所の旅館を…、町全体での状況を確認して下さい」
 博士はそう指示すると、客室に戻り、座卓に地図を広げた。客室に電話を引き、数名の応対者も詰めた室内で、続々と入ってくる各地からの情報を元に、地図上に印をつけながら博士は唸った。湯量の増加が確認されたポイントは、博士のいる旅館近くにある泉源からの湯を引いている数軒にとどまっていた。
「これは…、ここの泉源だけが活性化したということになる。だが…」
 博士は、設置していた地中の状態を測定する装置のデータを示す。
「特段、地中の圧力、温度に変化は出ていない。いったい、何が起きている?」
 そうこうしているうちに、夜半過ぎには湯量の増加は収まり、またちょろちょろとした流れに戻ってしまった。それからしばらくの間、町中のどこかで突発的に湯量が増加しては戻るという現象が続いたが、その原因はデータからはさっぱり読み取ることができなかった。途方にくれた博士や町の住民たちだったが、やがて、地質とはまったく関係のない部分に関連性が浮かび上がった。
「楽器…?」
 初めに電話をかけてきた観光協会の男は、そう尋ねた博士の前で真剣な顔で頷いた。
「えぇ、そうです、楽器の演奏です、博士」
 言いながら男は、座卓に広げられた地図を示した。
「実は今回のような状況は、博士をお呼びする前から確認はされていました。その頃の状況も含めてのことなのですが…、湯量の増加が確認された場所の近くで、いずれの場合にも、何らかの楽器の演奏が行われていました。住民のピアノだったり、旅館の三味線だったり……、博士、あなたのギターだったり、です」
「いやしかし…、何の関連性が………、いや…」
 当然の疑問を口にした博士だったが、眉根を寄せて席を立つと自分のギターを持ち出してきた。
「試してみれば良い、のか」
 そう言うと、縁側に出て適当なコードで音を響かせた。
 間もなく、客室に引かれた内線で湯量の増加が伝えられてきた。


「おう、こっちだ、こっち」
 博士は、駐車場に止めた車から降り立った若者たちに手を挙げた。
「あぁ先生、お疲れ様ッス。器材一式持ってきたッスけど……、ホントにこんなんで温泉湧くんスかね?」
 若者の一人がワゴン車に載せた器材を見ながらいまいち納得できない様子で話す。
「私だって半信半疑だよ。だが、案ずるより産むが易し。音に反応するというのなら、爆音で目を覚まさせてやろうってことだよ」
 ワゴン車の中身を興味深そうに覗きながら博士が応じる。
「あと、それ、先生の言ってたプローブ。急ごしらえッスけど、電気のヤツに作って貰ったんで」
 それは、地中の電流を測定する機械を逆に作用させるためのプローブだった。
「あぁ、こいつで音だけじゃなく、その振動を乗せた電流も突っ込んでやる。あと、スはやめろ」
 博士の言葉に、若者は苦笑いで頭をかいた。
「スンマセン…、じゃあ、器材設置して準備しますンで…」
 そそくさと準備にかかる若者たちを一瞥して、博士もプローブを取り出すと、地面に埋め込む作業に取り掛かった。
 全ての準備が終わる頃には、準備を手伝っていた者以外の住民も集まり、皆が期待と不安の入り混じった表情で状況を見守っていた。中には何が始まるのかよく分かっていないような顔の住民もいた。
「せっかくなんで…、ライブだって宣伝してみました」
 観光協会の男が博士に耳打ちする。
「軽音楽部の皆さんも、ギャラリーがいたほうが張り切って下さるかと思いまして」
 複雑な表情に変わった博士だったが、気を取り直してマイクを握る。
「えー…、お集まりの皆様、お世話になっております。私にもまだ原理はサッパリ分かっちゃおりませんが、もう、楽器の音で湯量が増大するのは間違いない。ということで、大学から軽音部のメンバーに来てもらいました」
 紹介を受けて、バンドメンバーが軽く頭を下げる。
「ドラムにベース、エレキギター。重低音から高音までの音という音を、アンプで増幅し、空気の振動と電流に変えて、ここ、最も大きな泉源の大地に送り込み、眠りこけている泉源を叩き起こす…。きっと、今までにない反応が取れるはずです」
 博士の言葉に、住民がごくりと喉を鳴らす。静まり返った住民たちを前に、博士は軽音楽部に目配せした。
 静寂の中、カン、カンとリズムを刻むスティックの音が始まり、そして──


「やー、上手く行きましたねぇ」
 その日の夜、旅館の大広間を使って慰労会が開かれていた。
「いや、まだこれが継続するかどうかを見てからでないと…」
 観光協会の男に酒を注がれながら、博士は慎重な姿勢を見せる。
「それは確かにそうですが、泉源のあの勢いはこれまでの比じゃない。前祝と言っても罰は当たらんでしょう」
 終始にこやかな観光協会の男の顔は、本当にほっとしているようだった。初めに博士の所へ電話をしてきたときのような陰鬱な声とは全く異なる声色で酒を勧めてくる。
「それに、今回の功労者は私じゃないよ」
 言って、広間の反対側で盛り上がる軽音楽部の若者らを見た博士の視線を追って、観光協会の男も目線を送る。
「はは、そうですな。うん、実に格好良かった。実は、まだ彼らに打診はしてないんですけど、毎年お祭りの時に……」
 博士は、さらに二言三言、観光協会の男と言葉を交わしたが、やおら息をつくと重そうに腰をあげた。
「ちょっと…、酒が進みすぎました。温泉に浸かってきますよ」
 そう言い残して、広間を後にした博士は、露天風呂までの渡り廊下で夕闇に暮れる深い群青の空を見上げた。空には、もうもうと白い湯気が立ち上っていた。奥の露天からは、勢い良く湯が流れ込む音が響いている。足元から伝わる低い振動をしばし感じながら、博士は、ふと違和感を覚えた。
「…これは……、お湯の流れ落ちる振動…、だよな」
 露天から聞こえるドドドという音に連動するように、足元から揺れが伝わる。
「それに、しては……、少し、強すぎないか…?」
 博士の目には、渡り廊下の板塀がカタカタと震えている様子が映っている。
「揺れも…、伝わってくると、いうより…、地面が、いや、」
 地の底から這い上がってくるような音と振動が、段々大きくなっていく。
「これは、山鳴り──」
 ズンと、身体が浮き上がるような衝撃を受け、博士は柱に摑まりながら、温泉地の背後にそびえる山を見上げた。山の脇腹から、黒い噴煙が大きく膨れ上がっていた。
「しまった…、温泉てのは、火山の麓にあるものだったな……」
 呟いた博士の耳に、避難を知らせるサイレンの音が、遠く聞こえていた。

Fin.
三題噺 第20話
 お題 地球、アイドル、真夏日

   ◇

   夏の日の記憶


 壁面のディスプレイ枠に、躍動感のある爽やかな映像が配信されていた。
 たくさんの若い女性が、夏らしい薄手の服に身を包み、踊る。
 流れる曲の歌詞にあるような、真夏日を思わせる明るい陽射し。
 キラキラと輝く青い海を背景に、白い砂浜で戯れる水着姿の娘たち。

 さして広くもない部屋の中、車椅子に腰掛けて映像を眺めていた老婆は、椅子を窓際に寄せて、窓の透明度を上げた。
 時刻は夜。窓の向こうは、大天井のライトが落とされ、暗闇の中にぽつりぽつりと常夜灯の小さな光が浮かんでいる。
 窓の端に表示された部屋の外の温度は、0℃を少し上回る程度。それでも、地上に比べれば過ごしやすい温度だ。
 地上は、今も、暗く凍り付いていることだろう。
 地球の寒冷化が進み、迫り来る氷河と終わらないブリザードに、地上を追われた人類は、いつか再び光を浴びることを夢見て、地下都市で太陽の記憶を繋いでいた。

 ディスプレイでは、かつてのアイドルグループのPVが終盤に近づいていた。
 老婆は、死語となった「真夏日」という言葉を、仲間と共に歌い踊った日を遠く思った。


Fin.
三題噺 第21話
 お題 野球場、小学生、飛行機

   ◇

   飛行機雲


 河川敷の野球場で、小学生が草野球に興じていた。
 僕は、彼らを見下ろす土手の斜面に腰掛けて、彼らの声に耳を傾ける。
「よーし来い! 特大ホームランであの飛行機を打ち落としてやるぜ!」
「バーカ。飛行機なんてめちゃくちゃ高いとこ飛んでんだぞ? 落とせるわけねーだろ」
 見れば、機影は見えないが、青空に一筋の雲がゆっくりと伸びていく。
 うるせー早く投げろ、という声に応えて、ピッチャーの子がマウンドからボールを投げる。
 結構良いフォームだな、などと思う間もなく、キンと小気味良い音を立ててボールが天高く打ち上げられた。ボールは、僕の頭上の方へ思いのほかグングンと伸び上がり、本当に飛行機雲の先の飛行機を打ち落とさんというかのような勢いだったが、空中の何もないところで、いきなり弾かれたように軌道を変えた。
 ちょうど手元に落ちてきたボールに視線を移し、拾い上げたボールを小学生たちに放ろうと野球場に目を向けると、彼らは呆然と口を開けて一様に僕を…、いや、僕の頭上を見上げていた。
「そういえば、さっき変なところでボールが……」
 言いながら、空を振り返った僕も、小学生たちと同じようにポカンと口を開けていただろう。
 天高くと見えていたのは、ほんの目と鼻の先ほどの高度で細く引かれていた白煙。
 ファウルボールに狙い撃ちされて光学迷彩が解けたアダムスキー型の冗談みたいに正統派のUFOが、よたよたと土手の向こうへと流れていった。

Fin.
三題噺 第22話
 お題 ラガーマン、(鉄道の)ホーム、軍艦

   ◇

   トライ


 ホームに電車が滑り込んでくる。
 朝の通勤時間帯の今、いくつかの路線の乗換駅は電車待ちのお客さんでごった返していた。
 停車した電車の中、ラグビーのユニフォームを身につけ、小脇にラグビーボールを抱えたラガーマンが、扉の前に陣取り仁王立ちで静かに目を閉じていた。
 そして、駅名を告げるアナウンスをBGMに、扉が開く。
 ラガーマンは、ホームに向かいスタートダッシュを切った。

 ピピーッ!
 踏み台の上で安全を確認する駅員が、ホームに並んでいた客の列が不自然に乱れる様子を見つけ、同時にその中を素早く動く頭を目で追い、鋭く警笛を吹いた。
『危険です! ホームでは走らないで下さい!』
 構内放送が警告を発するが、しかし、ラガーマンは止まらない。ホームを行き交う客を、低い姿勢で右へ左へと避けながら突き進む。踏み台の駅員は駅事務室へ繋がる受話器を取った。
『応援を!』
 受話器に叫ぶ踏み台の駅員の背後を走りぬけたラガーマンの目に、人波の向こうの上り階段が見えてくる。だが、階段の上り口に立ちふさがる駅員の制服を見て、彼は一旦足を止めた。駅員が赤の小旗を握りなおす。ラガーマンは、再び腰を落とすと駅員に向かって突進した。
 小旗の駅員が、駅員を僅かに避けるように突っ込んでくるラガーマンの身体めがけて小旗の先を突き出す。小旗の先端がラガーマンの腹に突き刺さる寸前、ラガーマンの身体が宙に浮いた。駅員の小旗は、ラガーマンの股の間をすり抜け、ラガーマンが空中で前転しながら駅員をかわす。小旗の駅員が振り返った時には、ラガーマンは既に階段を駆け上がるところだった。

 階段を登りきったラガーマンは、コンコース内にジェラルミンの盾が並ぶのを見た。透明な盾に刻まれた文字は《鉄道警察隊》。しかし、ラガーマンはひるまない。僅かに息をつくと、警官隊など目に入らぬかのように、コンコースを突き進む。
「絶対に止めろ! 駅の治安を乱す者を許してはならん!」
 盾を構える警官隊の奥で指揮官が咆える。
「押し包め!」
 号令に合わせ、突っ込んでくるラガーマンを包み込むような陣形を取った警官隊の盾の前で、ラガーマンは抱えていたラグビーボールを床に叩きつけた。大きくバウンドして天井へ飛び上がるボールに警官隊の目が奪われた一瞬の隙に、ラガーマンも跳ね上がる。進行方向正面にいた警官のヘルメットに手をつき、跳び箱の要領でラガーマンの身体が浮き上がる。そのまま空中でラグビーボールをキャッチすると、落下点正面の指揮官と目が合った。
「わ、ワリぃっ!」
 一応断りを入れた上で、驚愕に目を見開く指揮官の顔面に向かい、ラガーマンは両足を揃えて着地した。
「ぐぬおぉッ!」
 寸でのところで顔面のガードが間に合った指揮官が、蹴られた勢いで後方に倒れ込みながら、ガードした腕を跳ね上げる。その勢いを借りて、指揮官を足蹴にしたラガーマンが、再度空を跳ぶ。
「かかったな! これで終わりだ!」
 警官隊の指揮官の叫びを聞いたラガーマンは、前方を見てぎょっとした。コンコースの端にある大きな窓。その彼方に見える海に浮かぶ軍艦。その主砲の砲口が、まっすぐラガーマンを捉えていた。
 軍艦の砲口に、ぽっと白煙が上がる。弾体の黒い影が、空中で回避行動のできないラガーマンに迫る。
「う…、おおおおおぉぉぉぉぉッッ!」
 だが、それでも、ラガーマンは諦めない。咆哮と共に、手にしたラグビーボールを思い切り横の壁に向かって投げつける。作用反作用の法則により、ボールを投げた方向と逆向きに、ラガーマンの身体が僅かにずれた瞬間、コンコースを砲弾が突き抜けた。

 コンコースの床に着地したラガーマンの前に、壁から返ってきたラグビーボールがポーンと跳ねた。ラガーマンはボールを手に取ると、半身だけ振り返り警官隊の指揮官を見た。
「おのれぇぇ…、次こそはァァーーーーッ!」
 指揮官が床を背に仰向けのまま叫ぶのを聞き、ラガーマンは再び走り出す。半ば飛び降りるように階段を下り、鳴り響くホイッスルと同時に、白線の向こうへ滑り込み、ゆっくりとボールを足元に接地させた。
 ホイッスルが鳴り終わり、ラガーマンの背後で扉が閉まる。
 少しの振動を伴い発車した車内にアナウンスが流れた。
『お客様にお願い致します。駆け込み乗車は大変危険です。ホームや駅構内では走らず、次の列車をお待ち頂けますようご協力をお願い致します…』


Fin.
三題噺 第24話
 お題 大統領、田んぼ、不発弾

   ◇

密会

 地方の零細新聞社に電話が入ったのは、うららかな春の正午過ぎ。人のまばらになった事務所で、弁当をつつく箸を持ったまま、ピロピロと鳴る電話を面倒くさそうに取った記者の男は、相手の言葉にふんふんと二、三度相槌を返すと、大きなため息をついた。
「あのさー…、冗談にしたって面白くないし、今、お昼で俺弁当食ってるわけよ。何が言いたいって、ふざけんのも大概にしろってことだよ!」
 ガチャンと受話器を置いた男に、並んだモニターの奥から上司が何事かと声をかける。
「しょーもない話ですよ。アメリカの大統領が田んぼで泥んこバレーやるから見に来ないかって。若い女の声でしたけどね、昼間から酔っ払ってんのかっての」
 与太話に食事を邪魔されて、鼻息荒く説明する男に、しかし上司はのんびりとお茶を啜って、行ってみたら? などと口にした。
「どうせヒマなんだし…、道すがら何か面白いものでもあるかもしれないじゃないか」
 素っ頓狂な声で疑義を呈した男に、けれど上司は「いいからいいから」と取り合わない。男は、しぶしぶ現場に向かうことになった。

 果たして。
 連絡のあった現場に到着してみれば、田植え前の水を張った田んぼの中で、二人の人物が泥んこバレー真っ最中だった。一人はTシャツに短パンという軽装の若い女性。対するもう一人は、スラックスの裾とワイシャツの袖を捲り上げ、ネクタイを緩めた壮年の男性──その顔は、記者もテレビでよく見たことのある、アメリカの大統領の顔に酷似していた。カメラを構えることも忘れて、口をぽかんと開けた記者に、畦に腰掛けているたった一人の観客であった農夫が声をかけた。
「あんな電話を真に受けて。アンタもヒマだねぇ…」
 我に返って記者がカメラを構えると同時、ボールがワイシャツの男性の顔にヒット。男性が田んぼに仰向けに引っくり返り、派手に水しぶきが上がった。
「あっはっは! アタシの勝ちだね!」
 対戦相手の女性が高らかに宣言する。
「さぁてー、約束は果たして貰ったし、お客サンがお見えだよ、そろそろ帰ったら?」
 女性が言うやいなや、田んぼの向こうに停まっていたヘリがエンジンを始動する。ワイシャツの男性が、女性に向かって何事かを叫ぶと、女性は軽く手を上げた。ヘリから誰かが叫ぶ声が上がり、応じて男性がヘリにダッシュしていく。
「ちょっ、邪魔! アンタ邪魔だよ!」
 記者が構えるカメラの前に、女性が割り込んで映り込む。それを避けながらシャッターを切るが、おそらくまともに撮れてはいないだろう。最後に、飛び去るヘリをカメラに収めて、力なく戻ってきた記者は、辺りを見回しながら、畦に座ったままの農夫に声をかけた。
「さっきの女の人は、どこへ…?」
「さて、のぅ…」
 それ以上、農夫の口からは、くわえたタバコの煙以外のものが出てくることはなかった。

 それから、記者は大統領の身辺を、探れるだけ探ってみた。かつて軍人として在日米軍基地へ単身赴任していた当時、親密になった女性がいて、彼女とペアで泥んこバレーに出るとか出ないとか、そんな話が上がっていたとかいう噂までは漕ぎ着けた。
 だが、そこからが繋がらなかった。撮った写真に写った男性の姿は泥だらけの、しかもブレていたり後姿だったり。女性の方は入手した昔の写真に似ているような雰囲気はあったが、記者の撮った写真はまったくピントが合っていなかった。第一、似ていたとしても年代が合わな過ぎる。唯一まともに撮れていたヘリからの線も、ヘリ会社の貸し出し履歴にあったダミー会社のところでプツリと途切れた。
「あーあ…、アメリカ大統領の過去の不倫疑惑とかだったなら超大スクープだったんだけどなぁ…」
 結局、謎の事件としてしか書けそうにない記事を作りながら、記者はため息をついた。
「はは…、そんな爆弾、うちみたいな地方の零細が打ち上げたってサ、仮に本当でも誰も見向きもしないだろ。それより、謎っぽさを前面に出して、まさかの恋の再燃かー…とか、適当にエンターテイメント性をだねぇ…」
 並んだモニターの奥から、上司がのんびりと言うのを聞きながら、記者の男は再びキーボードに指を走らせた。


 ホワイトハウスのデスクで、翻訳を斜め読みした大統領は、記事から目を離し、手元のコピー用紙に目を落とした。それは、日本の地方紙に掲載された、数日前の、ある女性の死亡記事。
「まったく、とんだ不発弾もあったものだな。信管が抜けていたとはいえ、肝が冷える…」
 大統領は、ペーパーを手にそっと祈りを捧げると、ライターで火を点した。デスクの灰皿に置かれたペーパーは、あっという間に火に呑まれ、灰だけが残った。


Fin.
三題噺 第25話
 お題 ピッチャー、銀行、猫

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三題噺 第23話
 お題 同人作家、同人誌即売会、三題噺

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三題話 第26話
 お題 芸人、太陽、花火

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三題噺 第27話
 お題 アナウンサー、病院、チョコレート

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三題噺 第28話
 お題 気象予報士、建設現場、骨折

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三題噺 第29話 拡張現実
 お題 社長、踏切、スマホ

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